青い森鉄道

2026年の北海道&東日本パス旅~週末は鉄道ミュージアムに

※訪問は2026年7月14日

跨線橋の階段は写真館

向山駅に到着。三沢、下田という路線内では主要駅にあたる両駅の間にある。行政的には下田駅と同じおいらせ町に所在する

列車を降りて駅舎に向かうと

跨線橋には鉄道写真が並べられている。これが当駅をよく表す姿である

スポンサーリンク

もともとは信号場

向山駅は1922年(大正11)に信号場としてスタートした。信号場の名前は「木ノ下」。駅に昇格したのは14年後の1936年(昭和11)。信号場の名前が駅名になるのではなく、現在の向山と名付けられた

向山は全国で見られる地名で、開墾作業を山に向かって進めていったことに基づく。おいらせ町は平成の大合併で下田町と百石町が合併して生まれた。下田駅と同様、当駅は下田町に所在していた

跨線橋を渡ると、そこには機関車のようなものが置かれていた

正面に回ると、車両知識に乏しい私でも、弁慶号であることが分かる

例によって駅の下調べをせず、ふらりと下車するスタイルだが、跨線橋の写真そして弁慶号と、順番に目にすると「これは?」と思わずにはいられない

そして見た「向山駅 ミュージアム」の文字に納得。駅が鉄道ミュージアムとは驚きである

日曜日の開館

まずは駅舎の姿から

いかにも、という国鉄コンクリート駅舎である。青い森鉄道には今も数多く残っているが、おそらく1960年代から70年代にかけてのものだろう。黄色く塗装されているが、それは近年のもの

当駅は国鉄時代、早々に無人化されているが、その駅舎に入館しているのが鉄道ミュージアムである。2011年に開館した

営業日は基本的に週末ということで、平日の訪問となった私は入れなかったが、青森県観光情報サイトによると、開館日は毎週日曜日で、開館の時間は10時から16時、国鉄時代に向山駅で使用されていた金庫や信号旗、硬券入れなどが展示されているという

なぜ駅にこのような鉄道遺品が残されているかというと、元は信号場で周囲には特に何もなかった向山駅だが、近くにフジ製糖青森工場ができたことで工場と結ぶ専用線ができ、貨物輸送でにぎわったからだ。ただし1960年代終わりごろに工場は閉鎖され、専用線も役割を終えている

ミュージアムに携わる向山駅愛好会のブログによると、弁慶号はイオンモール下田に展示されていたもので、2013年にミュージアムに寄進されたものだという

こちらがミュージアムの入口

ホーローの縦駅名標が出迎えてくれる

手作りの駅名板にもあひとつのホーローも

こちらは駅舎内の様子。寄進された本が並んでいる

貨物輸送のなごりでもある側線には保線車が並んでいた。その向こうには防雪林が見える

信号場が駅へと昇格し、貨物で栄え、無人化されてから三セク移管、そして鉄道ミュージアムと、密度の濃い100年を過ごしてきた駅である

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~ようやく降りた「周辺には一切何もございません」駅

※訪問は2026年7月14日

下調べをせずとも見れば分かる

千曳駅に到着。当駅は今回の旅で「起点駅にもかかわらず、なかなか行けない」目時駅と並ぶ絶対条件の駅だった。時刻表は調べるが、駅についての事前情報の入手はしないというのが私の主義だが、当駅については昨年そして一昨年の車窓から事情は丸わかり

スポンサーリンク

何もございません

電車が去った後に残された私を待っていたのは、ただただ静寂だった。写真で分かるようにどちらのホームも森に囲まれている。ただし普通、駅というのはたとえ森や林に囲まれていても、ちょっと歩くと民家の1軒、2軒はありそあなものだが、ホームから外に出ると

砂利道があって頭上を道路が横着るのみ。旧東北本線なので、もちろん複線だが、上下ホームを結ぶ跨線橋や構内踏切というものはなく、この道路が跨線橋代わり

青い森鉄道は時間帯によっては女性のアテンダントの方が乗車していてきっぷの回収を行うのだが、下車する際に北海道&東日本パスを提示しながら「この駅で降りる人っていますか?」と尋ねると「昨日、この駅で降りてみたかった、というお客さんが降りられました」と答えが返ってきた。おそらく、やって来るお客さんはかなりの割合で同業者(鉄道ファン)なのだろう

向かいのホームへ行くために跨線橋となる県道を行くと、全景が見える。左奥に見えるのは農地で、あとは森というか林というか、木に囲まれている。駅前広場というたぐいのものもない

明治来の歴史を有する

こういう駅というのは、かつては信号場で、その後に正式駅に昇格したケースがほとんどだ。信号場を設置するような山奥にあったりするため、もともと人はいないのだ。ただここ千曳駅は1910年(明治43)と、116年もの歴史を誇る駅である。千曳という地名は奈良時代に征夷大将軍坂上田村麻呂が北進いる際、大きな岩に行く手を阻まれ、千人で曳きあげたという伝承に基づく由緒あるもの。かなり以前からのものだったと考えられる

そもそもその時代の駅というのは、あまり人のいない場所には設置されない。というか、少しぐらいいてもスルーされて後から設置というパターンとなる。では、昔は周辺に人がたくさんいたのかというと、この雰囲気では昔はにぎやかだった、という感じでもない。この場所に駅がある理由と歴史があるのだ

実を言うと、もともと千曳駅はここにはなかった

約2キロ離れた国道4号に近い場所にあった。現在地に移ったのは、複線電化工事のため。1968年と60年近く前のこと。さらに言うと、もともとの千曳駅は南部縦貫鉄道の起点駅で東北本線と接続する重要駅だった。ただ、南部縦貫鉄道の駅も一緒に山中に引っ越しするわけにはいかない。そこで南部縦貫鉄道のとった作戦は、東北本線の旧線をそのままいただいて、野辺地まで延伸(というかレールの主が変わった)するというもの。ただ千曳駅が2つというわけにはいかないので、旧千曳駅は西千曳と駅名を変更。途中で駅の位置が多少変わったものの、2002年の廃線まで営業が続いた。南部縦貫鉄道の乗り入れにより、野辺地の要衝具合はさらに上がった

向かいホームにやって来た。といっても、構造はほとんど何も変わらない

待合室はきれいで

もちろん駅ノートもある

そんな千曳駅は普通の一部も通過するため、時刻表を調べずに下車すると2時間ぐらい待たされることもある。少し前までの私なら、こんな駅を独り占めできるなんて、こんな素晴らしい体験はなかなかできない、と喜んでいただろう。だが実際に駅に滞在したのはわずか7分。跨線橋代わりの道路まで昇って、渡って、また坂を下りてと、かなり迅速にというか余裕なく動いた

そして、それは時刻表を眺めに眺めて発見した時間帯だった

昨今、こにような山中では動物との出会いが危険である

防雪林に囲まれた駅で、この林の中からのっそり怖い動物が現れたのではシャレにならないので、現実的には「行きました、下車しました」というだけだ

そんな千曳駅。実は調べていて一番驚いたのは、1日あたりの利用者数で、なんと11人(2023年度)。もちろん青い森鉄道25駅(八戸、青森をのぞく)の中では最下位なのだが、このシリーズで紹介した下から2番目の小川原駅の17人、目時駅の19人と、そう大きくは変わらない。私は限りなくゼロに近い一ケタを予想していたが、さすがは旧東北本線というところなのだろうか。もちろん私が滞在した7分とそれぞれの電車では乗降ともにゼロだった

向かいホームにある青い森鉄道のマスコット入りの待合室は、つい先日、きれいにされたものらしい。ということは、周辺に全く何もないこの駅は、またまたしばらく静寂の空間をわれわれに提供してくれそうである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~新幹線と雄大にクロスする駅は、かつてりんご輸送でにぎわった

八戸のひとつ手前

北高岩駅で下車。八戸のひとつ手前。そして当駅から八戸市内に入る。ちょっと意外に思われるかもしれないが、人口約20万人と青森県第2の都市である八戸市に所在する青い森鉄道の駅は当駅と八戸、そしてひとつ青森寄りにある陸奥市川の3駅しかない。これは八戸市の構造によるもので、その分、八戸線には10駅もの駅が所在する。駅間の間隔もあるが、海に沿って発展した街だということを感じさせる。八戸市の中心が八戸線の本八戸であるように、八戸駅はどちらかというと市の西の端の方にある

スポンサーリンク

印象的な駅前の木

木造駅舎に、それを支える屋根と柱。古くからの国鉄駅の形式を感じさせるが、駅の歴史は意外と浅い。といっても開業は1923年(大正12)と100年以上の歴史を持つ。旧東北本線の各駅は明治からのものが多く、当駅は後から設置された。その意味で「浅い」と記しただけである

風雪を感じさせる駅前の木

駅舎を眺めて「おっ」と思った。上記の写真でも分かるが、離れた場所から見るともっと分かりやすい

木の上が完全に傾いている。根の部分は真っ直ぐなので、枝葉の部分が左を向いている。訪問時は盛夏だったので天候的なものは特に感じなかったが、冬場の風雪を感じさせるものとなっている。なお緑の塗装は青い森鉄道移管後に行われたもののようだ

駅構造は2面3線。すへてのホームが生きているが、真ん中の線路はレールのさび具合から見て常時使用されているものではないようだ

奥に見えるのは東北新幹線。雄大に当駅をオーバークロスしている

岩手県内では比較的旧東北本線と並行して走る新幹線だが、青森県に入るとかなり離れた所を走る

地図を拡大していただければ分かるが、新幹線が真っ直ぐ八戸を目指すのに対し、旧東北本線は古くからの街を順番に訪ねていく形になっているので、やや遠回りしながら八戸駅を目指す。といっても鉄道黎明期に昔からの街をすべて無視することなどできなかっただろうし、技術的にも山中を貫くことは無理な話だ。北高岩駅でオーバークロスした後、新幹線は再び山中を直進。青い森鉄道は平野部を探しながら弧を描くように八戸駅へと向かい、再び新幹線と合流する

八戸方面を見ると盛岡方面行きのホームの向こうに跨線橋のようなものが見えるが、実はここにも入口があり、駅舎と逆側の集落に配慮されている。そのため八戸方面行きのホームは現状の車両編成に即してホームすべてには入れないようになっているが、向かいのホームは長い有効長が生かされている

りんごの出荷でにぎわう

無人駅だが、駅舎の写真でも分かるように駅の内外はきれいに整頓されている

駅舎には以前も紹介した三セク移管時の毎日新聞の連載記事が張られていた。それによると、開業時から「南部りんご」の輸送による貨物列車で当駅は大いににぎわったという。近辺からのりんご輸送には三戸、諏訪ノ平、剣吉、尻内(現八戸)そして北高岩の5つもの駅が利用され、全国に青森のりんごをアピールした

やがてりんごの輸送はトラックへと置き換えられていき、もともと大きな街があるわけではなかった北高岩駅は静かな駅となったという。八戸駅に近すぎるのがかえって不幸なのか、北高岩駅の1日の利用者数(2023年度)は26人。これは青い森鉄道25駅(青森、八戸をのぞく)の中で22位。前記事で紹介した目時駅の19人(23位)と、大きく変わらない数字となっている

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~わざわざ八戸駅前に宿泊したワケ

※訪問は2026年7月14日

八戸駅から朝のスタート

7時前の八戸駅。昨夜はここ八戸の駅前で宿泊した。東北本線の重要駅で、後には東北新幹線の終着駅にもなっていた駅だが、駅前は閑散としている。青森県第2位の都市とは思えない寂しさだ。それもそのはず、かつて記事にしたが

八戸市の中心駅は八戸線で2駅目の本八戸駅である。大きな繁華街もあり、ホテルも数が多いためか、本八戸駅周辺の方が安い。過去に2度宿泊した八戸市はいずれも本八戸駅周辺だった。わざわざ八戸駅前のホテルとしたのにはワケがある

スポンサーリンク

目指すは青い森鉄道の起点駅だが

南下して盛岡県との県境付近を目指す。というか、ほぼ県境にある目時駅だ

というか、ほぼ県境に位置し川を渡れば岩手県。県境にあるということは、旧東北本線である第三セクターのIGRいわて銀河鉄道は、当駅から青い森鉄道となる。つまり青い森鉄道の起点駅ということ。この駅に行くために八戸の駅前に泊まったのだ。駅についての下調べはあえてしない主義だが、当然ながら時刻表はどちらかというと入念に調べる

実は一昨年、昨年と2度にわたって北海道&東日本パスでここを通っているが、いずれも下車を断念した。起点駅に行くのに随分と苦労しなければならないのだが、それは当駅の時刻表を見ていただければ分かる

見ていただければ分かるが、昼間は2時間に1本ぐらいの運行しかない。青森県側、岩手県側のどちらかから来て折り返すと1時間ぐらいの滞在で済みそうだが、それにしても結構長い。ただ実際には八戸駅からは目時方面へと向かう列車はもっと多くが出ているのだが、ここに青い森鉄道ならではの特殊なダイヤ事情が

多くの列車は手前で折り返し

その事情とは多くの列車が隣駅の三戸駅で折り返してしまうのだ。さらには県境を越えた金田一温泉駅で折り返す列車も存在するため、当駅にやって来るのは、青い森鉄道とIGRいわて銀河鉄道の直通列車のみなのである。本数も少なくなるはずだ

ただし朝なら、それほど待たずに駅を離れることができる。今回私が八戸から乗車したのは7時14分発の盛岡行き。目時に7時39分に着く。すると8時1分の八戸行きが来るため、20分ほどの滞在で駅から八戸方面へと向かえるのだ

築堤の高い所に駅があり、この後に川を渡って県境を越える

上り線と下り線の行き来は築堤の下の通路で行う。かなり以前からのものと思われる案内板が残る

そして駅舎はかなり大きい。当駅は1924年(大正13)に信号場として出発した。駅に昇格したのは戦後の1948年(昭和23)。これもお決まりのパターンだが、信号場出身ということで、周囲には特に何があるわけではなく住宅と農地が広がり、集落を形成している

目時とはアイヌ語で「メントケ」と言われる沼や泉の意味だという。現在の駅舎は1967年からのもの。典型的な国鉄コンクリ駅舎だ。付近の複線化工事が行われ、駅そのものが移転した際に新たに建てられたものだ。現在は無人駅だが、川に臨む県境の駅で多くの保線要員が待機できる大きな構造になったのかもしれない

広い待合室が今も残る無人駅だが

立派なお手洗いがあり

駅名板もカッコいい

付近の写真が並べられていた

こちらは駅前の様子

ひとつ豆知識を披露すると、多くの列車が折り返し、かつては特急停車駅でもあった三戸駅は三戸町には所在していない。所在地は南部町である。そしてここ目時駅が実は三戸町唯一の駅だが、実際の三戸町の中心部は三戸駅に近い場所にある

ホームを貨物列車が通過していった

目時駅の1日あたりの利用者数は19人(2023年度)で、青い森鉄道25駅中(青森、八戸のぞく)23位。ただし7時台とあって、ホームには通学の高校生がズラリ。それほど少なさは感じさせない。県境を越えての通学があることも知った

三セク転換ならではの乗り換え駅でもない途中駅の起点駅は青森県の最南端駅でもある。3年目にようやく訪問できて良かった

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~交通の要衝を長らく務める有名駅

※訪問は2025年7月12日

最古の鉄道防雪林

野辺地駅に到着。出迎えてくれたのは「日本最古の鉄道防雪林」である。駅の開業は1891年(明治24)と古いが、その2年後に防雪林が造られている。私の訪問時が盛夏ということもあり、あまり紹介してこなかったが、旧東北本線沿線ではところどころで目にする

前回紹介した小川原駅にも

駅に隣接して防雪林が造林されていた

スポンサーリンク

青春18きっぷの特例駅

JR東日本と他社の接続駅で見られる私が好きな駅名標で分かる通り、当駅は乗り換え駅で大湊線が分岐している。そして駅名標で分かる通り、当駅を起点駅として大湊へと向かう大湊線は自社の他路線と接続していない飛び地路線である

飛び地路線は以前からそう珍しいものではなく、私鉄においては東武の東上線と他路線、西武多摩川線などがあるが、国鉄時代から全国に線路網を張り巡らせていたJRについては大湊線が史上初となった。2010年の東北新幹線の延伸に伴い、青い森鉄道に移管したために起きた現象で、現在は北陸新幹線の延伸で北陸に複数の飛び地路線ができたが、当時は史上初ということで話題となった

飛び地路線ゆえ、青春18きっぷの特例区間にもなっていて、八戸~青森については、青い森鉄道のきっぷを所持しなくても途中下車しなければ通過できる。唯一の途中下車可能駅が、ここ野辺地である。現在はJRの他路線でも同様の特例が設けられているが、そのような経緯でも知名度は上がった

乗り換え駅とあって、かつては優等列車の停車駅だった。そのため駅前は広く駅も大きい。現在の駅舎は1962年(昭和37)に改築された典型的な国鉄コンクリート駅舎である

跨線橋を渡って改札に出ると、このようなお出迎え

共同使用駅の有人駅で管轄は青い森鉄道となっている

道路だけでなく海路でも要衝

野辺地の由来はアイヌ語で野を流れる川を意味する「ヌップンペッ」に由来するとされる。すぐれた港湾を持つため港町として栄え、江戸時代は北前船の重要な寄港地だった

ただ駅はというと港から離れた内陸部に設置された

野辺地町の役場まで徒歩20分。それ以前から栄えていた港はさらに先だ。駅前は広いロータリーとバス乗り場があるだけで閑散としているのはそのためだが、鉄道あるあるで、近隣の三沢、八戸も街の中心部から離れた場所に駅が設置されている。それでも東北本線と大湊線の分岐だけでなく、七戸とを結ぶ南部縦貫鉄道(1997年休止、2002年廃止)も当駅を始発着駅とし、重要駅だった

もともと街外れで閑散としている駅前の店舗はいずれもシャッターが降りていた。私は2011年以来、14年ぶりに当駅で降りたがその時に利用した駅前の食堂は閉店している。この食堂をテレビ東京のバス旅で訪れた蛭子能収さんが店内で延々と昼寝をしたことも野辺地を有名にした理由のひとつだろう

駅に張られていたポスター。インターハイの県決勝で青森山田が敗れたというのは、当時高校サッカー界の大きなニュースだった。あくまで私の記憶だが、青森山田は県予選で24連覇を果たしていたはずだ

こちらも有名な駅そば

駅は3面5線構造と大きい。大湊へは当駅始終着の列車のほか、八戸から青い森鉄道経由で直接迎える快速が1日に2・5往復運行され、18きっぱーには、そちらの需要が高いようだが、かつては多くの優等列車でにぎわった要衝駅の現在もぜひ見てほしい

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~かたくなに「こ」にこだわる駅

※訪問は2025年7月12日

小さな駅に降り立つ

小川原駅にやって来た。ホームの花壇がきれいに整えられている。丁寧に世話をしている方がいるのだろう。どうしてこのようなことを言うのかというと、当駅は小さな簡易駅舎とホームがあるだけで周囲には特に何もない駅だからである

スポンサーリンク

小川原湖は至近だが

線路と並行して駅前には県道が走る。八戸から三沢を経て野辺地へと至る重要道路だが、近くを自動車専用道路の上北自動車道が走るため、運行量はそこそこという感じで、それほど多くはない。もちろん駅ができた時は自動車専用道路はなかったわけだが、周囲は住宅が点在する場所になぜ駅が設置されたかというと、信号場としてスタートしたからである

信号場としての設置は1944年(昭和19)と戦時中。戦時中は、鉄道による物資の輸送が特に求められた時代で、観光路線などは不要不急として休止になったり、駅が休止になった一方、東北本線のような幹線はできる限りの運行量を求められた。信号場の設置も多かった

やがて戦争は終わり、1953年(昭和28)に駅へと昇格する。信号場から9年後のことだった。だから開業は1953年である

もともとは信号場だった駅は全国に数あるが、その後に人でにぎわう重要駅になることはまずない。もともと周辺に何もないから信号場として開設されたのだから、当然のことだ。当駅の2023年度の1日あたりの利用者数は17人。これは青い森鉄道の25駅(青森、八戸をのぞく)の中では24位とブービー賞である

ただこういう駅こそ、見どころは意外と多いものである。県道と逆側にコンクリート式の駅舎がある。もちろん無人駅。建て替えられたのは1970年代だ

無人駅につき、駅舎と逆側の県道からも出入りできる。こちらにも手入れされた花壇がある。ご覧のように跨線橋で上下線を行き来できるが、道路をホームの端まで行けば踏切もある

浜道踏切という徒歩専用の踏切がある。「セニアカーは通行できません」とある。セニアカーという言葉は初めて聞いた。調べるとシニアカーのことだが、最初に開発したスズキが登録商標としてセニアカーと名付けたことでその名が広まったという。鉄オタ活動をしていると、1日の利用が20人にも満たない駅で思わぬ博識になれるのだ

駅名の由来はもちろん…だが少し違う

こちらが駅舎内の待合室。きれいに清掃されている。寒冷地なので、雪かきの装備もある

さて駅名についてだが、これは分かりやすい。小川原湖に基づくものだということは容易に推察できる

地図をたどっていただけると分かるが、小川原湖畔まではすぐ。10分ちょっと歩けばすぐにたどり着ける。ただ、ここで冷静に考えてみると、湖は「おがわらこ」のはず。にもかかわらず駅名は「こがわら」これはどういうことかというと、もともとは「こがわらこ」だった湖の名前が1958年に「おがわらこ」に変更されたからだ。それでも駅名は変更されることなく「こがわら」で現在に至る

湖の名前が変わってから70年近くが経過しても駅名は変わらない。実にかたくなである。ただ推察するにかたくなというより、駅名はそのままでも大勢に影響はないと判断された可能性が高い。小川原湖観光の最寄り駅は両隣の三沢と上北町である。湖には近いが、湖の観光地にはそれほど近いわけではない。だからスルーされたのだろう

駅近くには観光用の周辺案内図があるが、時間とともに実に味わい深いものとなっている。地名と駅名が異なっていた有名例として米原があるが、有名ではないにしろ、このような例に出会えたことがうれしい駅訪問となった

※追記 Xのフォロワーさまからコメントをいただき、駅近くの小川原郵便局は「こがわら」郵便局で、近年閉校になった小学校も「こがわら」小学校だったとのことです

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

JR東海が運営する沿線地域の逸品・名産品などのご当地いいものオンラインショップ

北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~すぐ向こうに海が望める海産物でにぎわった駅

※訪問は2025年7月9日

八戸方面へやや戻る

青森市に入っていた野内駅から八戸方面へ4駅戻って再び青森市を出る。到着したのは清水川駅。ここは津軽郡平内町である。平内町の中心駅である小湊駅については2024年に訪問しており、すでに記事としている

つまりは町の中心部ではない駅となる

スポンサーリンク

目を引く駅名板

こちらが駅舎。戦後に建てられたものとみられる。目を引くのは駅名板で

明らかに国鉄時代からのものが今も残る。木の板に手書き。今は思い出したようにしか見かけなくなってきたが、不意に出会うとうれしくなる。と同時に残してくれたことに感謝である

駅は高台にあり、海が望める

清水川港やその周辺の集落からは、やや離れたところにある。国道4号のさらに向こう側。それが高台から海を望む光景になっている

駅は遅れてできた。この地に鉄路がやって来た明治期に駅は設置されず、1922年(大正11)に清水川信号場ができ、昭和の声を聞いた後の1936年(昭和11)に駅へと昇格した

駅舎内にはJRが三セク転換する際の毎日新聞の連載記事が張られていて(著作権に抵触する可能性があるので写真は掲載できません)、その記事によると今の規模の大きな集落から想像できないが、当地はもともと人の少ない場所だったため、駅がなかなか設置されなかった。そもそも線路は港からやや離れた場所に敷かれている。ただ信号場のころから駅にする気運が盛り上がり、清水川駅は貨物を扱う駅として誕生。ホタテをはじめとする海産物の積み出しでにぎわったという

東京から708キロ

駅はかなり以前に無人化されていて窓口はふさがれている

上下線は跨線橋で結ばれているが、上り線と下り線の間隔が広く、かつてはここにももう1本レールが通っていたことが分かる。待避のための線路

無人駅につき、駅舎の逆側からもホームに出入りすることができるようになっている。防雪林の奥にも集落がある

同じ青森県の弘南鉄道大鰐線の石川駅にあった看板を思い起こさせる子どもへの注意看板がここにもある

そしてホームに残るキロポスト。地面に埋まった形のものだけではなく、高く掲げられているものも含め目立つように2つある。言うまでもなく東京から708キロという距離を今も伝えてくれるもの。青い森鉄道は海に沿って走っているように見えて、実は意外と海が近い場所は少ない。ましてや高台から海を望める駅は、さらに貴重な存在である

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~明治生まれの「新駅」がもたらした成功

※訪問は2025年7月9日

高架の新しい駅

野内駅に到着。青い森鉄道は東北本線をそっくり引き継いだものだが、三セク移管後に開業した駅もある。全国各地の三セクにあてはまることだが、細かく駅を設けることによって地元のニーズに応え、収益増を目指すのは当然のことだ

この写真だけを見るだけで新しい駅の雰囲気は十分あ。ホームもフェンスも真新しいし「エレベーター」の文字も見える。つまりバリアフリーに対応した高架駅ということになる

そして駅の姿はこちら。無人駅ながら高架。明らかに新しい駅だ。だが駅の誕生は明治。ならば、元は地上駅だったものが高架化されたありがちなパターンかというと、それは微妙に違う。順を追って説明しよう

スポンサーリンク

山中の駅として出発

野内駅は1893年(明治26)の開業。すでに130歳を超えた長い歴史を持つ駅だ。かつての野内村に基づく。野内村は1962年に青森市に編入されたが、駅の設置時はもちろん野内村。しかし駅の場所は町の外れの山中だった。線路は町の中心部を通っているが、駅は街外れだった。理由は山からの石灰石を積むため。また後に野内には石油やガスのタンクが設置されるようになり、その運搬にも当駅が利用された。つまり貨物駅としての役割が大きかった

ただし一時は大いに栄えた貨物輸送は徐々に衰退。国鉄末期には貨物駅としての役割は終わり、旅客専用となった駅の利用者は少なかった

駅はそのまま青い森鉄道に引き継がれたが、大きな転機となったのは三セク移管直後のこと。2011年春に県立青森工業が移転してきたことに合わせ駅も移転した

野内の集落の東の端にあった駅が西の端、といってもかなり開けた場所へと移転したのだ。距離にして1・5キロ以上の移転。大都市に行けば隣駅になりそうな距離だが、ともに旧野内村にあるためか、駅名は同じく野内。駅の引っ越しという扱いなので、15年前に建てられた駅も明治来の駅ということになる。つなみにJRからの三セク移管が2010年12月で新たな野内駅が営業を開始したのが2011年3月だったので、青い森鉄道としての旧駅はわずか3カ月だったことになる

駅は上り線と下り線が別々に独立していて、往来には駅の外に出る必要がある

その解説板がこちら

移転がもたらしたもの

駅の移転が何をもたらしたかというと、高校生による利用者の激増である。JR時代末期のデータがないが、多くてもせいぜい1日50人ぐらいと予想される利用者数が、2023年度には974人。これは路線内25駅(青森、八戸のぞく)中、第6位の数字となっている。大幅な利用者増だ

ホームにいると貨物列車が通過。時間は15時前で、この後すぐホームは高校生でにぎわう。駅にはコンビニが隣接していて、こちらもにぎわう

駅の移転が大成功した例となった。ちなみに旧駅の様子は浅虫温泉~当駅で車窓を見ているとホームが今も残っていることで確認できる

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~明治以来の同名駅同士のお付き合い

※訪問は2025年7月9日

下田駅といえば…

下田駅に到着

かつての下田町の中心駅で優等列車の停車もあった。現在も快速停車駅で2面3線のホームが現役だ

おそらく「下田駅」で最も有名なのは観光客でにぎわう伊豆急行の伊豆急下田だろう。だが、伊豆急下田駅の開業は戦後の1961年(昭和36)なのに対し、こちら青森県の下田駅は1891年(明治24)と70歳も年上だ。歴史は圧倒している。私鉄と国鉄の違いはあれど、伊豆急下田という駅名にならざるを得なかったのだ。ちなみに「伊豆急」が付く駅は伊豆急行では伊豆急下田のみである

スポンサーリンク

微妙に先輩のもうひとつの駅

ただ今年で135歳になる下田駅には、なんということか先輩の下田駅があった。和歌山線の下田駅(奈良県)である。今ではローカル線の路線となっている和歌山線だが、下田駅の歴史は古く、こちらも実は1891年の開業と同じ年齢。しかも開業日は青森県の下田駅が12月20日なのに対し、奈良県の下田駅は3月1日と9カ月先だった。駅名というのは、後からできた方が旧国名を入れたりするのが通例で「陸奥下田」となりそうなものだが、同じ年という理由なのかどうか、駅名は「下田」のまま今日に至っている。参考までにアイキャッチ写真の駅名標を見ていただくと隣駅は「陸奥市川」。これは想像に難くなく、総武本線の市川駅(千葉県)が先に開業していたからである。ただし陸奥市川の開業は1944年と、下田駅に比べるとかなり遅い

このような経緯で明治期からずっと「下田駅」が国鉄、JRに共存していたわけだが、その均衡は今は崩れている。平成になって奈良県の下田駅は香芝駅に名を変えたのだ

こちらが現在の香芝駅。駅名が変わったのは香芝市に香芝という駅がなく地元の要望もあったというが、歩いて数分のところにある市役所に近い近鉄の駅は「近鉄下田」のままである

その流れが現在に何をもたらしたのかというと、奈良県の駅名が変わり、青森県の駅が青い森鉄道の駅になったことで、JRに下田駅はなくなってしまったのだ

木造駅舎が今も残る

その下田駅の駅舎はというと

木造駅舎が今も残る。財産票を見つけられなかったので年代は分からないが、屋根を支える木の柱を見ると、かなり年季の入ったもので、戦前からのもののようだ

数年前に無人化され、窓口の場所には自動券売機が設置されている

その下田町はイオンモール下田でも地元では知られる。いろいろな駅からイオンモールへのバスが出ているが、ここ下田駅とは

おいらせ町民バスで結ばれている

下田町は平成の大合併でおいらせ町となった。町名は町を流れ、上流は観光地として有名な奥入瀬川から来ている。そのおいらせ町。「おいらせ」はひらがななので、説明は不要だが、読みは「おいらせちょう」である

前回の記事で「町」の読みについて触れたが、青森県は「まち」が圧倒的に多い県で、南部町と当地のみが「ちょう」となっている

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~「まち」ですか?「ちょう」ですか?

※訪問は2025年7月9日

急かされるように乗り換え

諏訪ノ平から八戸までやって来た。以前にも書いているが、青い森鉄道はJR時代からの名残で運行は八戸で分断される。そして乗車した電車は5分の乗り継ぎで慌ただしく接続だった。お手洗いに行く間もなく青森行きは出発である(現在は接続時間がほんの数分増えた上で、接続電車は快速となっているようだ)

そして約20分で

上北町駅に到着である

かつての特急列車停車駅

当駅はかつて、一部の特急が停車する優等列車の停車駅だった。上北町の代表駅で1891年(明治24)の開業というから、135歳と年齢に例えるのが困難なほど歴史のある駅だ。上北町は平成の大合併で東北町となっている

木造駅舎が残る。さすがに明治のものではなく、戦後に改修されたものだと思われる。現在は無人駅だが優等列車が停車していたことを感じさせる立派な構え

駅は現在も2面3線構造

側線も残る

名所案内はやや薄れているが、駅のすぐ東側から北側にかけて広がる小川原湖の最寄りでもあり、観光拠点の駅でもある

こちらは駅に掲げられた案内図。町名は上北町のままだ

また七戸町にも近く、そちらからの利用もある。優等列車が停車していたゆえんでもある。ちなみに十鉄とは十和田観光電鉄のことで、鉄道は廃線となったが現在はバス事業を行っている

駅を出ると「ようこそ」の歓迎

逆方向から見ると

アーチの向こうに駅舎。こちらは「またきて」。ちなみに駅前はこうして見ると駅前広場かロータリーのようになっているが、道路のセンターラインが見える通り、写真の右に向けて主要道路が続く

「上北まち」にあった「上北ちょう駅」

さて私が電車を降りて「あれ?」と思ったのは駅名である。駅名標に「かみきたちょう」とあったが、調べてみると自治体名は「かみきたまち」だった。自治体としての「町」を「ちょう」と呼ぶか「まち」と読むかは、国内では二分されいていて、例外はあるが、ざっくり言うと東日本が「まち」で西日本と北海道は「ちょう」。九州は混在となっている。また東日本の中では岩手県は混在である。私はそのジャンルの専門家ではないが、もともとは武家が住む場所が「まち」で、武士以外の商人や町民が住む場所が「ちょう」と呼ばれていて、明治維新後に新政府が「もう武士の時代ではない」と「ちょう」を推進したという話を聞いたことがある。だから新しい町が多い北海道は「ちょう」になったが、東日本では旧来からの呼び方を重要視して「まち」となったとか

あくまで伝聞で、自治体名でなければ日本中に「本町(ほんまち)」はあるので、なんとも言えないところだが、ここ上北町は町村制施行時の1889年に「かみきたまち」として成立し、2年後に当地にやってきた鉄道の駅は「沼崎駅」だった。現在の駅名となったのは戦後10年以上も経ってからで、当時の国鉄は「ちょう」と名付けた。駅名と自治体名が異なることで、地元で反対の声が多かったという記録は見られなかった

駅舎内のかつて窓口や手荷物受付があったと思われる場所には自動券売機が置かれている

駅舎から外に出ようとして出会った言葉。なかなか言い得て妙である

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ