廃線

今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その2~グラウンドと横長の公園

※訪問は2024年4月15日

公園の姿で一目瞭然

阪神電鉄は本線と阪神なんば線、武庫川線の3線からなり、すべて合わせても50キロに満たず、いわゆる大手私鉄では長らく最も短い営業キロだった(1990年に相模鉄道が大手私鉄となり、わずかに阪神が上回る)。そのため廃線区間も少ない。路面電車を除くと完全に廃線となったのは武庫川線の武庫川駅(西宮市)以北と出屋敷駅(尼崎市)から出ていた海岸線の2路線ぐらいだが、ともにわずかな距離しかない。今回歩いたのは付け替えルートで廃止になった駅があるわけではなく(初代の新在家駅は廃駅となっているが、それは昭和初期の話)、厳密には廃線ではないが、それでも貴重な遺構といえる

前回記事で最後に掲載した西灘駅東側の、かつての線路コースを歩くとすぐにグラウンドに出る。これは西灘公園の一部のようだが、この先の地図を示すと

まさに一目瞭然。スタート地点が、かつて地上を走っていた分岐点で、グラウンドだけでは分からないが、その後の西灘公園の横に長い形は、くっきりとかつて線路が走っていたことを示している。それにしてもグーグル地図での表示がわずか7分。駅間は短い

グラウンドを抜け(正確にはグラウンドを突っ切るのではなくグラウンド北側の小径を歩いた)、道路を挟んだ西灘公園の入口に到達。いかにも「廃線跡でございます」の風情。振り返ると

グラウンドはこのような感じで見える。道路を挟んだ両側の階段はちょうど向かい合わせだ

震災の慰霊碑

公園内を進む。もう1週間早く訪れれば写真的には桜で彩られていたかもしれない

やがて

公園の小径は広くなる。この幅は、駅があったためだと想像できる。かつての大石駅跡地だろう。この付近も1995年の阪神淡路大震災で甚大な被害があった場所で

亡くなられた方の慰霊碑がある。震災から来年で30年。つまり震災後に生まれた方も30歳になる。神戸市内の公園には所々で震災に関連した碑を見かけるが、歳月を感じてしまう

公園を出ると都賀川に到達して広い道路に出る。道路の北側には現在の大石駅。1905年(明治38)と120歳になろうとしている駅だが、現在の高架ホームは川の上にある。各地の川の上にある駅が珍しいとされるが、阪神だと有名な武庫川駅以外にも芦屋駅、香櫨園駅が川の上にホームがある。10代のころから、ずっとそんな景色を見ていたので珍しいという感覚がない

この後、都賀川を渡って新在地駅へと向かう

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その1~西灘からスタート

※訪問は2024年4月15日

かつての路面電車乗り継ぎ駅

こちらは国道2号の西灘交差点。奥が芦屋方面で手前にある阪神の西灘駅を超えると国道43号との合流点と阪神高速の摩耶ランプがある。合流点は43号の終点でもある岩屋交差点だが、三宮方面から車で来ると、道なりで進むと43号に入ってしまう形となっている。これが今回の散策のポイントにもなっているのだが、それに関しては後述する

阪神の西灘駅。この日はJRでやって来て摩耶駅から歩いた。その間はビッシリ住宅街で初めて降りるとさっぱり分からないかもしれないが、摩耶と西灘、この両駅は極めて近く徒歩5分ほど。西灘駅の誕生は1927年(昭和2)で摩耶駅は2016年(平28)と、ついこの間だが、大阪へは摩耶駅の方が利便性が高く、利用客を奪う形となっている

摩耶駅の誕生もあって西灘駅は神戸市内の阪神の駅では利用者は住吉に次いで2番目に少なく1日の利用者は3000人にも満たないが、かつては1枚目の写真の国道を阪神国道線という阪神電鉄の路面電車が走っていて、私が小学生の頃は西灘が終着駅で、乗り換え駅だった(当駅付近は1974年に廃線)。もうひとつ西灘駅について説明すると、阪急にも西灘駅があって現在の駅名は王子公園。私の高校時代は西灘駅だった。ただし阪急の西灘駅に対応する阪神の駅は岩屋駅で、このあたりはちょっとややこしい

今回は、ここから阪神電車の廃線跡をたどりことにする。三宮からわずか3キロ。都心部の廃線は、そう例は多くないが、正確に言うと線路の付け替えである。阪神の神戸三宮駅は地下で2駅目の岩屋が堀削駅となっていて、続く西灘駅までの間に地上に姿を現し、ここ西灘から高架となる

しかし以前は国道2号を高架でまたいだ後は地上を走っていた。1967年に西灘~石屋川が高架化された。4歳のころだから、私には記憶がない。半世紀以上も前のことなので、おそらく人々の記憶からもほとんど消えているだろう。都会の廃線というのはあっという間に住居や施設に変わってしまうので痕跡を探すのも容易でなくなるのだが、実は石屋川までの3区間は、しっかり廃線跡が残されているのだ。今回はそこを散策する

徒歩の前に腹ごしらえ

3区間といっても阪神の駅間距離は短く、この付近は線路で1キロにも満たない駅間が並んでいて、西灘から石屋川まで線路だと2・5キロ。線路を歩くわけにはいかないので若干遠回りになるが、それでも大した距離ではない

今回の徒歩コースはおおよそこんな感じとなる。阪神の線路は現在の高架線から南側を走っていた。特に新在家駅は現在の国道43号に食い込んだような場所に駅があり、駅の跡地は道路の拡幅に利用された。散策のポイントとなると記したのは、このためである

西灘駅のすぐ東側にはこのようなスペースがある

奥に見えるのが西灘駅。どう見ても、ここから線路が地上に降りていた跡

その延長上に民家が並んでいて分かりやすい

ここから廃線跡巡りとなるわけだが、時間はちょうどお昼どき。付近は住宅街だが、廃線跡を回るのなら、ぜひ来てください、と言わんばかりの位置にスシローがある

腹ごしらえをして改めてスタートである

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安芸高田市「お太助バス」で三江線の駅跡を目指す

式敷駅で出発を待つバス

※訪問は2024年4月3日

予報通り朝からの雨

芸備線で三次まで到達した翌朝の三次駅。この日はあいにくの雨で、朝7時すぎのこの時点では、それほどの雨でもないが、天気予報によると終日降り続き、ときおり激しい雨になるとか

この日は福塩北線で未回収の2駅を訪問する予定だが、長い昼休みがある福塩線はダイヤ的に午前と午後に分けて訪問せざるを得ない。その合間の時間を利用して旧三江線の駅跡を訪れることに。2年前も同様の行程で

船佐駅そして

長谷駅を訪れたが、今回はバスの終点まで行くことに

三次駅前を10時2分に出る安芸高田市「お太助バス」。これで式敷駅跡まで運んでくれる。写真でも分かる通り、雨はかなり激しくなっていた

駅の所在地となると三次からの三江線は4駅目の船佐から安芸高田市に入り、式敷までの4駅が安芸高田市。お次の香淀で再び三次市となるが、たった1駅で島根県へ。と思ったら3駅を経て再び三次市となり、そこから再度島根県となる。江の川沿いに芸術的に敷設されていて、市境や県境を複数またぐためだが、いざ廃線となっての代替バスとなると自治体単位での住民サービスの側面があるため、鉄路と同様にバスで、というのは、なかなか難しい。三次駅からは三江線沿線へのバスがあるが、江の川が市境になっていることもあって、三次市沿線と安芸高田市沿線では別路線となっている

式敷駅に到着

道中、長谷駅の前を通過したが階段を上がったところにあった味のある駅舎は姿を消していた

2年前は駅舎内にも入れるようになっていてバスの待合所の役割を果たしているのかと思っていたが、バスの停留所から微妙に離れた位置にあるため、役割を終えたと判断されたのか

そして約30分で式敷駅に到着。駅舎もそのまま残っている

駅名標は外されているがホームと線路はほぼ当時のまま。三江線では貴重な列車交換のできる駅だった。三次側からの三江線は1955年(昭和30)に当駅までやって来て、8年間終着駅だった

式敷という地名には後鳥羽上皇が立ち寄った際に使用した敷物に由来するという

1面2線の島式ホームと、もう1本の線路と貨物ヤード(この付近を貨物列車が走ったことはないようだが開業時に準備されていたようだ)があり、こちらは立入禁止の柵がなかったので上がってみる。こうして見ると急速に自然に還りつつあるようだ

いろいろ計画したものの

今回、当地を訪れることを決めてから、いろいろと行程を考えてみた。まず最初に思いついたのは江津方面の隣駅となる香淀駅訪問。三江線は式敷駅を出た後、江の川を渡り再度三次市に入るが、江の川沿いに大きく弧を描くので式敷からの直線距離は意外と近い

国道をショートカットすれば徒歩も十分可能な距離で、香淀まで行けば三次駅からの別のバス路線がある。三次行きのバスは13時ごろなので、時間的には余裕がある。ただしこの部分はほとんどがトンネルとなっていてトンネル内の徒歩環境は行ってみないと分からない

三次駅のバス時刻表。私が乗車したのは式敷三次線で、その下にある川の駅三次線が香淀に向かう路線。ともに1日5往復と本数はある方だ

もうひとつは、もっと簡単で、お太助バスが式敷駅で50分ほど待機する時間を利用して三次側の隣駅である信木駅まで行く行程。この駅間は近く、30分もあれば十分に歩ける。道路もほぼ一本道。信木駅は川沿いの低地に器用に設けられ、立派な駅舎はなかったが「川に近い駅」だった

雨の予報に、それぞれプランA、プランBとしたが、結論から言うと、あまりの激しい雨にすべて中止。残念ながら、ちょっと歩く気にはなれず、江の川を渡る式敷大橋の近くに行くこともかなわず駅舎で待機となった

駅舎内の様子。お手洗いもあるので雨でも過ごすには問題ない。駅前の商店は営業はすでにしていないようだが、自販機はちゃんとあって(しかも100円自販機)、暖かいコーヒーはいただくことができた

こちらはバスの時刻表

駅には「三江線 式敷駅 1955~2018」のスタンプがあり、デザインは名産の柚子(柚子の産地については三次市となる香淀駅からの方が近いようだ)

三江線沿線のバスについては、線路的には広島県の飛び地となっている伊賀和志駅方面への路線もあり、こちらは島根県内となる口羽駅付近も通る。便によっては石見都賀駅まで達するようである。次回は他の路線バスも利用して訪れてみたい

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天候に左右された2023年を振り返る(前編)

2023年も間もなく終わり。今年はというと、行く先々で気候に左右された年でした。そこでこの1年を簡単に振り返ってみたいと思います

廃駅訪問から1年がスタート

年明けは廃駅の参宮線「池の浦シーサイド駅」訪問からスタート。

バスでも近鉄、JRでも比較的訪問が容易な廃駅。夏に行ってみたい廃駅です

翌日は青春18きっぷの残り1回の権利を使用して紀勢本線から関西本線、草津線、東海道本線で帰ってすたのですが、たまたま居合わせた電車の写真が今にして思うと貴重なものになりました

念願叶う

2月は「西日本グリーンきっぷ」で念願のやくもパノラマカーのかぶりつきシートに着席。長年の夢がかなって満足でしたが、新神戸~岡山~米子~倉吉~京都~金沢~上越妙高とたどった旅で糸魚川や富山よりも鳥取県が最も寒かったです

映画を見てから約40年

3月はJALのタイムセールとJR東日本の鉄道開業150周年ファイナルパスを使用して東北へ。昨秋にもお世話になりましたが、この発売がないと新幹線全駅訪問は下手すると未達成で終わっていた可能性が高い。仙台まで空路で、それほど寒くはなかったのですが岩手県に入った途端にものすごい寒さでした

おかげで川部駅の旧駅舎にもギリギリ間に合い、カウントダウンに入った川部駅のみどりの窓口で青春18きっぷを買うことができました

その足で映画「砂の器」を見てから約40年。こちらも念願かなって羽後亀田駅に行くことができました。亀田の街は駅からかなり離れていて、駅がこんなに寂しいところにあるとは知らなかった。秋田県内の羽越本線の駅で古い駅舎が残るのはここだけ。映画やドラマの功績が大きいと思いますが、窓口もなくなり、ホームも旅客用は単式となりました。今後が心配です

この月は突如、地元の和田岬線に同業者が全国から押しかける事態がありました

またとにかく歩いた名松線全駅訪問もこの月。まだ動植物が本格稼働していない季節でしたが、家城以遠の山中では、ゴソゴソという物音がしたかと思うとシカやイノシシに出会い、伊勢竹原では駅前にやってきたサルともバッタリ。新緑の季節を過ぎると夜に歩くのは絶対やめようと思いましたね

昭和以来の訪問

4月は青春18きっぷの残りで山陽本線沿線をウロウロ

結果的に18きっぷを使用して笠岡ラーメンを食べに行くという旅となりましたが、めちゃ美味かったです

そして、こちらもタイムセールを利用して最後に訪れたのが昭和だったという沖縄へ。37年ぶりの訪問では、ゆいレールの全駅訪問を行いました

意地で「最南端」へと向かった

5月は私にとっては全国で2県あった「最後に訪れたのが昭和」の残る1県である大分へ。大分県については最後が昭和というより幼少期で旅客用として普通にSLが走っていたころだったので、記憶もあいまい

日豊本線をジワジワ南下した後、延岡に宿泊して宗太郎へ

そり後は今も残る美々津駅近くの鉄道総合技術研究所だけを見に行くつもりでしたが車窓を眺めているうちに、どうしても実験線の「最南端」を間近で見たくなり、急きょ予定を変更して翌日

現場へと向かいました

別府からは八幡浜までフェリーで。八幡浜には10回以上行ったことがありますが、四国~九州の船に乗るのは初めてだったのでうれしかったです。また大分県では土地勘もなくキョロキョロしっ放しだったのに四国に上陸すると、急に勝手知ったるなんとやらになってしまう自分の感覚がおもしろかった

この月はJALのタイムセールに追われるまま活動も活発で月末には北海道へ。留萌本線の残る区間の全駅訪問を行い

廃線間近となった根室本線の各駅訪問をしようとしたところ、金山駅から乗車しようとした占冠村営バスの時刻表が外れているという事態に大いに焦りました

小幌駅訪問の後は洞爺湖温泉の「湖の膳舎なかむら」へ。10年前、東京で勤務していた時に行きつけとしていたお店が当地へと引っ越し。当時はマンションの玄関から徒歩10秒で行けたお店が1500キロも離れてしまったわけですが、再会を果たせました。料理も変わらず美味しかったです

長崎新幹線に初乗車

6月は会津若松からレンタカーで旧熱塩駅を訪問した後、喜多方ラーメンを食べ

只見線に乗車

月末には7月へとまたがる九州への旅へと出発して九州新幹線の長崎ルートに初乗車

雨の前線を避けるように移動した旅となり、豊肥本線は運休となるギリギリのタイミングで大分県に到達

5月に続いて佐伯へと向かい、佐伯~宗太郎の「名前シリーズ」の各駅訪問。列車本数が極めて少ない上、途中の移動では

冠水で道路がさえぎられるというアクシデントもあって、全駅の乗車または下車はかなわなかったものの

2日かけて「上岡」「直見」「直川」「重岡」の4駅を訪問(つながる4駅を1日で回れなかった)。現地で月替わりを迎えました

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川内から宮之城線廃線跡巡り、鹿児島交通枕崎線跡地の思い出

宮之城線跡の薩摩長野駅の駅名標

※訪問は2018年9月14日

前日は加世田泊

前回の記事で少しだけ2018年9月の鹿児島の旅について触れたが、ちょうど川内駅訪問のタイミングとなったので、その時に行った宮之城線の廃線跡巡りについて、振り返ってみたい

まず前日の9月13日だが、指宿枕崎線で枕崎まで南下した後、バスで宿泊地の加世田へと向かった。現在の地図は鹿児島中央から枕崎に至る線路しか描かれていないが、1984年までは鹿児島交通枕崎線が枕崎を結んでいた

現在は道路しかないので道路での表示となるが、薩摩半島は鉄道でグルリと回れるようになっていた

加世田駅の場所はバスターミナルとなり、南薩鉄道記念館となっている

1983年の豪雨で沿線が甚大な被害を受け、一部で運行が再開されたものの、全線復旧することなく翌年に廃止されている

展示物は充実している。加世田からは枕崎や伊集院はもちろん、鹿児島市内の中心部まで路線バスが鹿児島交通によって運行されている。1~2時間に1本と本数も多く、所要時間は90分で、それとは別に鹿児島空港行きのバスもある

路線バス利用だったので立ち寄れたのは加世田のみだったが、翌14日は川内駅でレンタカーを借り、宮之城線跡をじっくり回ることができた

JR移管直前に廃線

宮之城線は川内を起点に薩摩大口までの66キロを結んでいた。1987年1月、国鉄民営化(同年4月)の直前に廃線となった

薩摩大口は鹿児島本線の水俣と肥薩線の栗野を結んでいた山野線との乗り換え駅でもあったが、山野線もJR移管後の88年2月に廃線となっている

廃線から30年以上が経過しているが、沿線には駅跡などが多く残されている。すべてを紹介していくとキリがないので一部だけ紹介する

樋脇駅(薩摩川内市、廃線当時は樋脇町)

当時の駅舎と構内がそのまま残されている

そして路線名にもなった宮之城

宮之城町(現さつま町)の代表駅であり、さつま町の中心部にある

跡地は鉄道記念館となっていてバスターミナルの役割も果たしている。バス停名は今も「宮之城駅」(行き先によって同じ敷地内でも停留所の名前が異なるので注意)。廃線跡を巡るような川内駅行きのバスももちろん出ているが、鹿児島中央行きのバスの方が本数は多い

スイッチバックの謎を理解

次いでやって来たのが薩摩永野駅跡。一度も乗車できないままだった宮之城線だが、かねてより不思議なことがあって、地図を眺めていると当駅はスイッチバック構造だったのだ。地図でも当駅付近のみが突き出した形になっていることが分かる

その理由は現地で分かる

観光案内図に「永野金山ものがたり」の解説があった。当地は江戸時代に発見された金山により、薩摩藩の財政に大きく寄与。戦後間もなくまで掘り出しが続いたという。1924年(大正14)に川内~樋脇が開業した宮之城線は1935年に当地まで到達した後、約2年間は終着駅だった。まだ金山は続いていて、関連した人口も多いということで、そこに鉄路を通すため、わざわざ山中まで難工事をしてスイッチバック構造で敷設したのだった

跡地には鉄道記念館が建てられている

当時の駅名標をそのまま持ってきたようだ

周辺駅の駅名標が並ぶ

もうひとつ重要なことは当駅は鹿児島空港とは至近だということ。鹿児島空港から当地、宮之城を経て出水へ至るバス路線は本数も多めに設定されているが、ここから空港までは路線バスで30分もかからない。今年10月の鹿児島訪問時も、そのバスの車窓を眺めながら出水に行こうとしたが、

そして終着駅の薩摩大口。当駅は乗り換え駅として機関区もあり広い構内を持っていたため、廃線跡の規模も大きい。駅付近は旧大口市(現伊佐市)の中心部で大きな町である。最初にこちら側に来れば、廃線跡だとすぐ分かったのだが、道路を挟んだ逆側に行ってしまい、そこにあるのは

およそ廃線跡とは思えない立派な建物。ウロウロしていて分かったのだが、これは駅の跡地に建てられた大口ふれあいセンター。ただ幸運なことにビル4階が「大口歴史民俗鉄道記念資料館」となっていることを知り、早速訪問

こちらの展示物もなかなか充実したもものだった。平素は施錠されているが、1階の受付で訪問の旨を伝えると開けてくれる。なかなか1日では回りきったり見学するのが大変な廃線跡だが、大切に保存されているものも多く、訪問はオススメである

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続九州新幹線の全駅訪問~みずほの一部も停車する肥薩おれんじ鉄道の終着駅

川内駅の駅名標

※訪問は2023年10月3日

新幹線開業時に大きく変化

川内駅に到着。これで九州新幹線のすべての駅を訪問したことになる。2018年の9月にも川内に来たが、その時は新幹線ホームに立っていない。その時は宮崎空港から日南線で志布志まで行き、旧大隅線沿線を走る路線バスに2時間揺られ垂水下車。フェリーで鹿児島に渡り、当地で1泊した後、指宿枕崎線で指宿、西大山、枕崎を経て加世田までバス。加世田で宿泊した後、バスで伊集院へ。ちょうどサッカーW杯の直後で「はんぱねぇ~」が流行語になっていた大迫勇也選手の母校である鹿児島城西高校の最寄りが伊集院だったので、よく覚えている

その後、川内まで来て当地泊。翌日は改めて鹿児島へと向かい、今度は肥薩線で八代(正確にはSL人吉の終着熊本)まで行った。八代駅の項で紹介したのはその時の写真である

川内駅は大きな橋上駅舎を持つ。開業は1914年(大正3)と古く、国鉄時代から拠点駅として機能してきた。戦後に建てられた、いわゆる国鉄コンクリート駅舎が続いていたが、2004年の九州新幹線部分開業時に現在の駅舎となった。新幹線開業の直後に周辺の町村と合併して川内市から薩摩川内市となったが、駅名はそのまま川内である

薩摩川内市が誕生した際、甑島(こしきしま)の上甑村、下甑村も参加している。読み書きともに難易度激高の島への高速船乗り場へは当駅からバスで向かう。改札を出ると分かりやすく案内がある。キビナゴで知られる甑島は観光地でもあるが、大きく「通常運行」と目立つように表示されていることで分かる通り、気候の影響を受けやすいので運行には注意が必要

鹿児島本線の「飛び地」で他駅とは事情が異なる

肥薩おれんじ鉄道との共同使用駅となっているが、改札は共通で八代から117キロにも及んだ肥薩おれんじ鉄道はここが終着。川内から鹿児島中央までは再び鹿児島本線となり、約50キロがJRとなる。いわば鹿児島本線の「飛び地」。九州新幹線の成り立ちを各地に照らし合わせると、こちらも三セク移管となりそうだが、西九州新幹線のような時限的措置がとられるわけではなく、恒常的にJRのまま推移しそうだ。しかもIC乗車が可能。いろいろ「大人の事情」があるのだろうが、推測で私が触れるわけにはいかない。ひとつ言えるのは、今回のようにJRしか乗れないきっぷを手にした場合、利用者目線からだと大いに助かるということ

こちらは新幹線の改札(写真は2018年のもの)。その横にあるのが

在来線と肥薩おれんじ鉄道の改札がある(写真は2018年3月のもの)

新幹線については部分開業時した時からの鹿児島中央をのぞく他駅とは大きな違いがあって、当駅には鹿児島中央~熊本の速達タイプの「さくら」が停車し、わずかではあるが最速達タイプの「みずほ」も停車する

肥薩おれんじ鉄道の一部乗り入れ

在来線の構造は島式ホームの2面2線。左にホームが見えるが現在は使用されていない。廃線となった宮之城線ホームも加え、以前は3面5線だった

車止めの向こうが肥薩おれんじ鉄道。つながっていた線路をさえぎるように車止めが置かれていて、その向こうにホームとしては同平面の肥薩おれんじ鉄道が島式ホームを持つ

JR線乗り放題の権利を生かして鹿児島本線の駅を回った。当日は薩摩川内市内に宿泊し、翌朝はお隣の隈之城駅へ。肥薩おれんじ鉄道は朝夕のみ一部列車が川内のひとつお隣の隈之城まで直通するので、そちらに乗ってみたかった

なぜ1区間のみ乗り入れるかというと、隈之城の駅前にはれいめい中学・高校があるから。多くの高校生が降り、折り返し列車内は閑散としていた

くまモンに癒やされる列車に揺られて川内に到着となるが、列車は在来線ホームを通過するかの勢いで進み、肥薩おれんじ鉄道のホームに到着。車止めの写真を掲載したが、片側のホームはつながっている

乗車してきた列車が見える。肥薩おれんじ鉄道の駅舎はホーム上。同一ホームだが、JRが1、2番線なのに対し、3、4番線がふられている

こちらは肥薩おれんじ鉄道の駅名標。奥に貨車が見えるが川内はJR貨物の駅でもある

前回は鹿児島中央まで在来線に乗車したが、今回はきっぷの特性を生かし新幹線乗車である。川内~鹿児島中央は在来線で約50分だが、新幹線だとわずか11分。1区間利用はかなりあるようで乗車は8時16分だったが、通勤と思われる会社員の姿が多く見られた。車両基地の関係もあって早朝には川内始発の鹿児島中央行きという1区間だけの列車も運行されている

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参宮線、今のうちに~期待にたがわぬ駅からシーサイドを去る

松下駅の駅名標

1月7日13時

選択肢はいろいろあるが

名残惜しいですが池の浦シーサイド駅を去らねばなりません

前記事で少し触れましたが、ここから伊勢市方面へのアクセスは複数の選択肢があり、まず最も簡単なのは鳥羽から乗ってきた「CANばす」は1時間に1本の運行ですから、ここに1時間滞在して次のバスに乗ればいい。その場合、二見浦(駅ではなく観光地の「ふたみがうら」の方です)近くも通るので夫婦岩を眺めるという観光も可能(もっとも廃駅訪問と夫婦岩観光をセットにする人がどれだけいるかは疑問です…笑)。このバスは鳥羽にも向かうので鳥羽駅まで折り返すという方法もありますが、これは廃駅滞在時間が10分ほどになってしまうので最初に却下しました

ただ真冬ですので1時間の滞在はちょっと厳しい。となると後は鉄道駅まで歩くことになります。その場合、近鉄とJRの2つの方法がありますが、まず近鉄の池の浦駅は

こんな感じ。続いてJRは

と所要時間はほぼ互角。列車の本数はこの時間帯、近鉄が1時間に2本、JRが1時間に1本で明らかに近鉄が勝っています。となると出した結論は

「松下駅に決まっとる」(なんでやねん)

もっとも理由はあって現実に近鉄を利用していないので何とも言えないのですが、地図だけ見たところJRは、ほぼ国道に沿って線路があるのに対し近鉄は国道を折れて駅に向かうところでウロウロする可能性がある。また上り坂が待っているのではないか、との危惧もありました

何といっても線路をずっと見ながら歩けるのが大きい。今はアプリのナビがありますが、私のようにそれ以前から駅間徒歩を行っている古い人間は線路から離れると不安になるものです。また過去に何度か記事にしていますが、地図アプリでは何度か痛い目に遭っています

まぁ、しかし何といっても、この松下駅にはいろいろ期待大なのです

とにかくそう決めたからには歩き始めましょう。次の伊勢市行きは13時30分で30分しかないので早足で。途中、全く民家のない山中のような場所を歩きますがコースとしてはほぼ平坦。国道にはしっかりした歩道があり、民家はなくともレールはあるので大丈夫

凄いぞ松下駅

こういう駅間徒歩を行っているとマラソンが冬に行われる理由がよく分かります。マラソンの記事は何度も書いたことがありますが「気温10度で晴天、無風と絶好のコンディション」とか枕詞のようにしていたものです。あまり寒いとそれはまた大変ですが、ちょうどこの日は、その絶好のコンディションでした

人里が見えてくると駅が左手に見えてきて国道を折れるとすぐ

階段が見えてきました。これは間違いなく駅。20分で歩いてきたので列車には余裕で間に合いました

ちょっと大きい車だと慣れていないと入りにくい道路と駐輪場。駅前に車が行きにくいという時点で期待がふくらむ

ホームと待合所そしてキロポストだけの駅。こういうのを待っていたのですよ

こちらは待合所

時刻表です。基本的に快速は通過ですが、普通が運行されない時間帯は停車します

戦後に二見浦と鳥羽の間に新設されました。ということは臨時駅で廃駅となった池の浦シーサイドと含め、2つの駅が誕生したことになります。設置時から駅舎はなく単式ホームです

そのホームからの眺めですが

国道は電信柱が立っているあたりで、やや離れていますがその間は農地でしょうか、草むらでしょうか、とにかく建物は見られません。集落は国道とは逆側の少し歩いたところにあり、そちら方面を見てもホームからは見えない。地図を見て、こういう景色を期待していました

と逆側を撮影していると列車がやってきてしまいました。もうちょっといたかったなぁ。待ち時間が長いと文句を言い、短すぎるとまた文句を言う。暑すぎ、寒すぎと天候にまで文句を言う。勝手なものです

当駅は1日に60人の乗降があり、駅として立派に機能しています

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参宮線、今のうちに~貴重なJR東海の廃駅

池の浦シーサイド駅は閉鎖されている

1月7日12時15分

鳥羽駅からバスに乗車

以前お伝えした「田丸駅と最後のお別れ」(1月27日アップ)当日の最初の行動です

この日は朝から大阪から近鉄特急に乗り、鳥羽で下車。駅と直結している鳥羽のバスターミナルへ行きました

規模の大きいターミナルです。長距離便もこちらから出ているようです

バスに乗車して10分もかからず

池の浦で降ります。この「CANばす」は二見浦駅の記事(1月29日アップ)でも紹介した宇治山田駅、伊勢市駅、伊勢神宮から二見浦近くまで直行するバスで鳥羽までを結んでいます。その途中バス停がこちら

国道42号から海の方にそれるように5分ほど歩くと

見えてきました。池の浦シーサイド駅です。いや正確に言うと駅跡です

ホームは残っていますが入れません。この日の目的のひとつでした

池の浦シーサイド駅とは

平成の声を聞いた平成元年に夏季臨時駅として設置されました。海水浴客の利便性と誘致を目的としたもので、当初は1ヶ月以上営業され、快速「みえ」も停車するなどテコ入れもされていたようですが利用者がどんどん減っていき、末期はひと夏で4日間の営業で停車列車も朝夕の上り下り1本ずつというありさまで3年前にひっそり廃駅となりました。ですから現在入口にある「池の浦シーサイド駅は閉鎖しております」の案内板は臨時駅時代からのもののように感じます

「ひっそり」と記したのは地元から大きな反対の声もなかったからです。ただバスで向かった際、地元の方が何人か降りたので、当初あった常設駅の要望が実現していれば、どうなったかは分かりません

私は利用者激減→廃駅という事実は知っていましたが、利用者が減った理由については分かっていませんでした。「マイカー利用が増えたのだろう」ぐらいにしか考えていなかった。今回初めて現地を訪れて知ることになります

写真で一目瞭然なのですが

ご覧のように「シーサイド」ではあっても「ビーチサイド」ではないのです

海水浴場は向こうに見える観光旅館「海の蝶」のプライベートビーチである池の浦シーサイドパークで徒歩10分とかなりの距離。当然、歩くのは盛夏ですから泳ぐ前に疲れてしまいそうです

しかし1日2往復、営業日は年に4日と言われると、それを見逃さないのは私と同部類の人々で末期は旅客すべてが鉄道ファンという日もあったようです。確かにバスの本数もあるし近隣のJR駅、近鉄駅も徒歩20分ぐらいと「この手の駅」としてはアクセスは良好。「最終」を見送っても大きな問題にはなりません

歴史的には貴重

上り下りともすぐにやってくる時間帯。というか参宮線も普通が1時間に1本に加え、快速みえもあるのですから上下合わせると列車はすぐやってきます

こちらは伊勢市方面行き。速度制限表示で分かるように現役の駅ではないので、かなりのスピードで通過していきます

国道から俯瞰した鳥羽行きです

さてJR東海は廃駅というのがほとんどなく、旅客営業を行っていた駅について、私の知る限りでは愛知環状鉄道に移管された岡多線(他の三セク移管は国鉄のうちに行われた)とナゴヤ球場正門前(臨時駅)しかありません。ただし後者については直後に尾頭橋という代替駅が正式駅として誕生しているため、事実上「唯一の廃駅」となります

実は過去にも一度当駅を訪問しようとしたことがあります。今から5年半前の2017年9月。営業日でないので駅には入れず結果はほぼ同じだったでしょうが駅名標はあったはず

しかし、どしゃ降りで車窓に映る自分を見るだけで断念しました

それに対し今回は

季節は冬ですが穏やかな内海が広がる光景。来て良かったです

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宿も取らずに青春18きっぷで高山本線に突っ込んでみる~2度の廃線を経験した駅

9月9日11時20分

貴重な遺産を次々と

楡原から1駅富山側に戻って笹津で降りました

ホームは1面2線。ホーム上の待合所で発見したものが

鉄製の案内板。今やあるようでないものとなりつつあります。長年の排煙を受けているようですが、こちらはまだまだ使えそう

駅舎へは跨線橋で向かいます

かつては跨線橋にも、このような文字が描かれていました。最近見る機会が少なくなっています。私が見落としているものもあるかもしれませんが、直近だと中央本線旧線の辰野支線、川岸駅(長野県、今年10月)

昨年までさかのぼって和歌山線の粉河(和歌山県、昨年7月)

こちらは明朝の渋い案内文字付きですが、これぐらいしかありません

ただ笹津駅のものは、かなり危ない感じがします

広い駅前とピカピカな駅舎

跨線橋を渡って駅舎に行くと

無人駅ですが立派な駅舎が建っています

旧駅舎は大正期のものでしたが、2000年代に入って現駅舎となりました

コミュニティーセンターにもなっているようです。そして駅前ロータリーは広い

国鉄の高山本線がここまでやって来たのは昭和初期のことです。ではなぜ旧駅舎が大正生まれだったかというと、富山鉄道の駅だったからです

笹津は岐阜県の神岡鉱山から神岡鉄道により鉱石が運ばれる拠点となり、その際に富山鉄道の笹津~富山が敷設されました。しかし高山本線ができたことによって鉱石輸送はそちらが中心となり、富山鉄道の路線は廃線

しかし復活を望む声は廃止当時から多く、戦後になって新たに富山地方鉄道の笹津線として当駅~南富山が新たに開業。ただ今度は自動車普及による波で実績が低下。当時は全国的に軌道線が車の邪魔だという時代で75年に廃線となりました

笹津駅のやや北側に消防署がありますが、地鉄の笹津駅はここにあったようです。つまり現在の笹津駅は、かつての地鉄の跡地に建てられています

ホーム側から跨線橋を経た駅舎への導線はこんな感じ。妙なスペースに不自然さを感じるのも、駅前ロータリーの広大さに違和感を覚えるのも、そのためです

こちらもホームから見た裏側。奥の白い建物が消防署で手前が現駅舎。並んでいるのが分かります

また高山本線で富山方面へと向かうと車窓右手の草むらが分岐していく様子が残っていて廃線跡だと伺えます

帰ってから調べたことですが、廃線跡の痕跡は、あまり残っていないものの、12キロという手頃な距離だからか、南富山~笹津のウォーキングイベントは開かれているようです

駅舎内には地元紙が張ってありました。廃線は全国で見られる姿ですが、2度の廃線というのは、なかなかないことだと思います

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早すぎた姫路モノレールの廃線跡を歩く

1月10日訪問

手柄山中央公園から廃線跡をたどる

モノレール展示室を出て徒歩で姫路駅を目指します

実際のコースは少し西側の川沿いをできるだけ歩き(川沿いに廃線跡があるが必ずしも道路が並行しているわけではない)、新幹線の交差部分を越えたあたりは、やや北側に進路をとっています

川というのは船場川でモノレールはこの川に沿って敷設されました。住宅地を通るわけにはいかなかったのでしょう

すぐに橋脚がお出迎え。ただし「解体工事中」とあって、ここから先には行けません。他に解体されるものは見当たらないので対象は橋桁でしょう

川沿いにはまだいくつも遺構が残っています

グーグル地図の徒歩ルートは当然のように県道が選ばれていて(これはグーグル先生が極めて正しい)、大きな県道の向かいには巨大なイオン。目と鼻の先なんですが、まるで別世界のようです

いくつか残る遺構を見ながらどんどん進みます。遠くに遺構が見える部分もあるのでナビは必要ありません

かなりリアルな光景も見られます

 

なにゆえモノレールだったのか

モノレールの開業は1966年。昭和だと41年で半世紀以上前のこと。工事が始まったのは東海道新幹線の開業間1年後。橋桁を設置する手間や費用などを考えても、他に手段はないものかと思ってしまいますが「すべて高架なので踏切の必要がない」「急カーブに対応しやすい」など、今にして思えば画期的な理由が挙げられています。特に立体交差については将来の車社会を予期したもの。おそらく今ほど車は一般市民に浸透していないころで、これは先見の明があると感じます

もっとも当時の市長がアメリカで見たモノレールに大いに関心を持ったことがきっかけとい説もあり。東京五輪が開催され、高度経済成長をまい進する最中。東京モノレールの開業もあり「画期的な交通機関」に世の中の興味が集まっていた時期なのかもしれません

ちなみにJRとの交差部分にこのような説明板がありました

JRが地上を走っていたころ、踏切をやめて道路が線路をまたぐべく造られた大将軍橋の説明。モノレールより10年前に既にそのような予想があったのですね。結局は「ここだけ立体交差していても他の部分の線路がじゃまだ」ということになり、JRは高架化。この近辺では山陽電車とJRの上下が逆になるという大工事となり、山陽電車が1日だけ姫路乗り入れを中止して手柄を1日だけの終着駅にするという歴史的な日もありました

大将軍駅から姫路駅へ

その大将軍駅跡を目指します。橋の名前にもなったように大将軍というのは地元ではなじみやすい名前だったようです。由来の大将軍神社は今も健在。今回は立ち寄りませんでしたが、グーグル地図の通り歩くとローソンがあり、その裏手あたりにあります

ただモノレールは、やや北側から回り込む形となっていて地図では、道路がやや波打つ形となっている場所にあります。現在の姿は

空き地です。今から6年前に解体されてしまいましたが、10階建てのアパートの1、2階がテナント、3、4階部分が吹き抜けとなっていてモノレールがその中を貫通して駅が設置されるという、これまた画期的なもの。モノレールの廃線後も他の部分は使用されていましたが、阪神淡路大震災で建物そのものが弱っていることが判明。21世紀からは、ほぼ幽霊ビルのようになっていました。10年ほど前に姫路を訪れた際、写真を撮ったのですが、今回のブログ記事を書くにあたって、いろいろ探したものの見当たりませんでした

このあたりまで来れば姫路駅は間近。人も多くなり、遺構も目を見張るものになっていきます

 

 

屋根の上をモノレールが走るなんてすごいですね

この先はもう姫路駅です。山陽電車の姫路駅の脇に出ます

 

話はややそれますが、山陽電車の姫路駅は昔のターミナル駅の風情が強く残ります。姫路を訪れる際はJRや新幹線利用の方が圧倒的に多いかもしれませんが、ぜひこちらにもお立ち寄りください

姫路モノレールの遺構は2年前、土木学会の選奨土木遺産に選ばれました。「全国に先駆けた自治体経営のモノレールで、戦後姫路の躍進と大志の結集体」という評価。ただし選ばれたのはあくまで手柄山の展示場。橋脚の遺構については撤去作業中で危険性もある、との理由で選ばれませんでした。とても残念

今回紹介したものは1月時点でのもので、それからさらに撤去、解体が進んでいると思われます。これから気候もよくなっていきます。地歩にして30分ほどと手頃で、しかも姫路の町の真ん中。ある意味「アクセス抜群の廃線跡」といえます。ぜひ、訪れてみてください

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