廃線

不通区間の津軽線28・8キロ最後の訪問~路線内で「最新」の駅はなぜできたのか

※訪問は2026年7月15日

子どもの歓声の行方は

津軽浜名駅。コンクリートで固められた階段の隙間から雑草が姿を見せている。たくましい

駅の構造は単式ホームに待合所のみの簡素な構造。そしてホームに立つと

向かいからは子どもの歓声。時間は10時。授業中のようだが、実は目の前にある学校の施設と当駅は密接な関係がある

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一番最後の開業

津軽浜名駅は1960年(昭和35)の開業。これは津軽線全線の中で最も新しい。昨年から蟹田~三厩の休止区間ばかりにスポットを当てているが、津軽線そのものの歴史は意外と浅く、青森~蟹田の開業が戦後の1951年(昭和26)で、1958年に蟹田~三厩が開業した。戦前からの計画では三厩からさらに線路を延伸して津軽半島をグルリと回るようにして津軽鉄道の津軽中里で接続を図ることになっていたが、三厩まで到達したのはモータリゼーションの波が来つつあるころで、そこから先に線路が進むことはなかった

ひっそりしたローカル線として、そのまま時代が過ぎていくのかと思われたが、青函トンネルの建設と完成によって大きく運命は変わる。北海道を結ぶ鉄路の一部に組み込まれ、蟹田以南は電化され(正確には中小国駅以南だが、当駅に電車が止まることはなかった)、北海道新幹線の開業までは北海道からの特急列車が走る幹線扱いのような路線となる。北海道新幹線が開業してからは、元のローカル線に戻ったが、この区間は今も北海道とを結ぶ貨物列車が走る重要路線だ

ただ、そんな騒ぎとはほぼ無縁だったのが、現在休止となっている区間。この部分は非電化路線として、1日5往復だけが走る超ローカル線として、カタコトと気動車が走り続けていた

青森~蟹田は現在1日9往復。もちろん来春以降も電車は走り続けるが、その区間も含めてこの津軽浜名駅が最も新しい駅となっている。そのためか、高台に後から設けたようになっている駅は構造もシンプルだ

そして、おそらく三厩までの開通から2年を経た時期にわざわざ駅を設けた理由は

こちらの校舎だと思われる

現在は小学校が入っているが、以前は県立今別高校だった。1948年に青森工業高校の今別分校として開校し、1952年に今別高校となった。2007年(平成19)に青森北高校の分校の今別校舎となり、2022年(令和4年)春に最後の卒業生を送り出して閉校となった

感謝のメッセージに熱くなり

津軽浜名駅の小さな待合所は、閉校に向けて寄せられたメッセージで埋められている

学校の卒業生だけではない

高校生を毎日届けたJRの職員からのメッセージもある。学校への感謝の気持ちが込められている

しかも何ということか、最後の生徒が当駅を利用したのは2022年の3月で、その年の8月の豪雨で駅には列車が来なくなった。こんな悲しい偶然ってあるだろうか? ちょっと熱くなった

当地でバスを待つ時間は1時間あった。実を言うと気温もグングン上がって、ここで1時間過ごすのは大変だな、と思っていたが、そんなことはなかった。サウナのようになった待合所で、汗をかきながらひとつひとつのメッセージを読んでいるうちに、あっという間に時間が経ってしまったのだ

来春にはホームにも待合所にもおそらく入れなくなる。ただ、この素晴らしいメッセージの数々が、どこか目に触れる場所で保存されることを願いたい

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不通区間の津軽線28・8キロ最後の訪問~ちょっぴり悲しいピカピカの施設

※訪問は2026年7月15日

写真だけだと分からないかも

巨大な壁を眺めた後、いよいよホームへと向かう

まさに花道と呼ぶにふさわしい通路を歩く。もちろん自然に帰る過程での花で、雪に閉ざされた季節が終わると夏に向けて一斉にエリアを広げ始める。小径と呼んだ方がふさわしそうな通路の先は、もうアスファルト部分が見えなくなりつつある。右手にレールがのぞいているが、これだけでは何のことか分からないかもしれない

振り返るとこのような景色が広がる。これで駅の構造が分かっていただけたと思う。新幹線の高架の下から飛び出てくるように津軽線の列車が入線していた。右にあるのが駅舎でホームと駅舎は随分と離れている

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13年で役割を終えた新しい建物

ホームに立つ。この部分だけ見ると、最初に訪問した大川平駅と比べ、まだ現役感が残っている。除草が行われているのかは分からないが、ホームに面した部分だけはレールがしっかり残っている

大平駅は1958年(昭和33)に、蟹田~三厩間が延伸された際に開業した。「おおだい」と読む。最初に訪問した大川平駅が「おおかわだい」で、何やらややこしく感じるが、ともに地名である。「八幡平」に代表されるように東北では「平」が多く使用される

ホームに隣接しているのは保線車用の車庫である

離れたところにある駅舎と全景を見ると、かつては島式ホームだったらしい。片側の保線車用の車庫の隣にはもうひとつ建物があって。こちらは真新しい

カーテンが見えているが

ここは保線にあたる方の休憩室だったようだ

財産票があり、休憩室であることが示され平成21年とある。つまりは2009年。津軽線と海峡線の分岐に近い当駅は無人駅ではあるが、保線の基地でもあったのか。ただし2022年の大雨で津軽線は不通となったため、13年しか使われなかったことになる。すでに役割を終えることは決まっているが、建物が新しいだけに、よけいに感傷的な気分になってしまう

きれいな駅舎内と案内

駅舎へと向かう。開業時からの昭和30年代らしいコンクリート製建物

駅舎内はきれいに清掃されていて駅ノートも置かれている。昨年、今年と休止の各駅を訪問したが、ホーム付近は自然に帰ろうとしているのに対し、施設内はどこもきれいである

大平駅は集落のやや外れに位置していて、集落の方面に向かうと大平山元遺跡がある。わんタクの停留所もある

駅から近く、このポスターは列車が来なくなる前からあったものだろう

ここから今度はわんタクに乗って再び今別町方面に向かうが、地図で分かる通り、バスは踏切を横切る。最初に訪問した大川平駅に蟹田駅から向かう最中そして大川平駅から大平駅に向かう際にも、必ず踏切を通る。そのあたりは郵便局もあって集落の中心地なのだが、当然ながらバスは踏切で一時停止を行う。列車は絶対に来ないので一時停止の必要はなさそうだが、形の上ではまだ現役の踏切だからなのか「一時停止の必要はありません」の文字はなく、一時停止する

あと半年もすれば、一時停止必要なしの看板が建てられるのだろうか。それとも単に踏切が撤去されるだけなのだろうか。1日に何度も一時停止を味わうと、こちらも感傷的な気持ちになった

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不通区間の津軽線28・8キロ最後の訪問~溶け込む山の景色と子どもの声

※※訪問は2026年7月15日

集落の外れにたたずむ

代行バスを大川平の集落で降りる。肝心の大川平駅は、やや離れたところにある。距離にして100メートルとちょっとだが、あらかじめ場所を把握しておかないと、このメインストリートからは分かりにくい。駅と停留所の場所はわんタクのHPなどで確認できるが、目指すのは停留所ではなく駅なので、携帯アプリという便利な武器がある。列車が来ることはないが、形の上では現役の駅なのでアプリが場所を教えてくれる

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泣き声を聞きながら

道路を右に折れると突き当たりが駅である。白い駅舎が見えてきた

すると、ここで近所の家から子ども大きな泣き声。不意の出来事にビックリしたが、時計を見ると8時前。夏場で家の窓は開放的になっているようで、どうも学校に行くのをグズッている感じだった。地方に行き、奥に入っていくに従い、小学生に出会う比率が減っていく。その意味では元気なお子さんがいることは大変結構

「おおかわだい」とひらがなで書かれた大川平駅に到着である。ホームがあって、その向こう側は農地。集落のやや外れに位置している

レールもすっかり埋もれ

単式ホームにコンクリート製の駅舎がある。ホームの前はもちろん線路だが、2022年8月の豪雨被害から4年近く列車が来ていない線路はすっかり草に埋もれている

逆側を見ると、草木はすでにホームにも侵入しつつある。冬場は雪で覆われる近辺だが、雪のない季節にこれだけの成長を遂げるのだから、自然に帰るパワーは凄いと実感させられる

きれいな駅舎内

コンクリート駅舎に入る。大川平駅は1958年(昭和33)の開業。津軽線は1951年に青森~蟹田が、1958年に蟹田~三厩が開業。不通となっている区間は、後に開業した部分である(蟹田~中小国信号場までは貨物列車は運行)。昭和30年代の開業とあって、駅舎も当然のようにコンクリート製である

駅舎内はきれいに清掃されている。ここには列車はもちろん、代行バスも来ないが、待合室は廃線の日まで現役である

昨年も各駅で見たが、不通となった時からの時刻表がそのまま掲げられている

ふと見ると私が降りた停留所までの道案内。合わせて250メートルだから、かなりの距離だ。この駅に列車は来ないにもかかわらず、停留所への地図があるのは、地元以外の人がこの駅まで来てしまった場合に停留所を求めてウロウロせずに済むようにだろう。逆に言うと、私のように停留所で降りて列車の来ない駅まで来る人間は、超一部の「同業者」を除くと皆無なんだろう

ホームからは津軽の山々が見える。なかなか壮観だ。写真を見て今気づいたのだが、このあたりはまだレールが見えている。ただ当地を訪れてから約1カ月。すでに埋もれているかもしれない

待合室に掲げられた駅名標。一見、電灯式に見えなくもないが、確認する方法は私にはなかった

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~2つの顔を楽しめる駅

※訪問は2025年10月4日

駅舎、ホームに車両も残る

あらためて旧美濃駅。向こうに車両が見えるが、廃線から15年以上が経過しても、内外ともにきれいに保たれている。私の訪問時も雨が降る中、数人の訪問があった。すべてが同業者(鉄道ファン)というわけではなく、廃線となってもなお町の顔のイメージを保っている

なお駅名について、こちらは過去にも触れたかもしれないが、国鉄そしてJRは旧国名のみを駅名にすることは基本的にない。旧国名が、そのまま現在の都市名になっている例は多いが、今回の美濃市駅と同様、「伊勢市」「長門市」のように「市」を入れたりする。なぜかというと国名が付く駅は数が多く、それだけに離れていることも多く、例えば三重県には「伊勢○○」という駅がいくつもあるが、伊勢市駅から列車や車を利用しても簡単にはたどり着けない距離の駅もある。誤解を招かないための措置である

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廃線時のままそっくり保存

こちらは駅の解説板。こちらを読んでいただければ歴史も含め、すべてが分かる

駅舎内にはきっぷ売場がそのまま残され、かつての時刻表も掲げられている。ただこれは廃線時のものではない。急行運転はかなり以前に廃止され、運行も基本的には当駅~新関と新関~新岐阜が分断されて美濃駅から新岐阜への直通運転は激減していたからだ。それを考えると1970年代の時刻表ではないかと思われる。廃線時の時点でも20年以上前のダイヤだと思われ、よく残っていたと感心してしまう

ホームにはかつての車両がズラリと並ぶ

現役時代は頭端式の2面2線構造だった

一部の車両は中に入ることが可能

たっぷりと時間をかけることができる

留置車両の詳しい解説もある

野口五郎さんの出身地

旧駅舎にはもうひとつの顔があって

美濃市が野口五郎さんの出身地ということで、多くの関連展示がある。われわれの世代のアイドルスターだった野口五郎記念館の雰囲気もある

美濃町関連グッズと並び展示されている

車両を臨む場所には「私鉄沿線」の歌碑

2019年のデビュー50周年をきっかけに建てられたもの。携帯電話のおかげで駅の改札でただただ誰かを待つこともなくなったし、歌詞に出てくる伝言板も40歳以下の方には何のことか分からないかもしれないが、外に出てしまうと連絡手段がなくなってしまう時代は駅に設けられた黒板に「駅前の喫茶店にいます 高木」のように個人情報丸出しで書き込んで駅に来る人と連絡を取り合っていた。駅にはなくてはならないものだった。牧歌的な時代の光景ではあるが、今でも十分に聴ける歌だと思う

駅名標をパッと見て何のことか分からない方が多いかもしれないが、「博多みれん」が野口五郎さんのデビュー曲だったことも私には分かる。ヒット曲を連発するようになってから「デビュー曲が演歌風だった」と何かと話題にされていたからだ。さすがに「光の道」は知らなかったが、当時発売された最新のシングル曲だったという

鉄道関連での野口五郎さんといえば、廃線となった高砂線の「野口駅」(兵庫県加古川市)から予讃線の「五郎駅」(愛媛県大洲市)までの乗車券が売れ、また五郎駅の存在がメディアで紹介されると駅に多くのファンが訪れ、まだ有人駅だった五郎駅で入場券がおもしろいように売れて駅に印字機を設置したという有名な逸話がある。ネットもない時代、五郎駅の存在はメディアで紹介されない限り、ほとんどの人が知らなかったのだ

ここにはワンちゃんがいたのだろうか。いろいろな側面で楽しめる旧駅舎。2つの顔のどちらかだけでも十分に行く価値のある場所だと思う

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~美濃市駅から徒歩数分の場所にたたずむ歴史を刻む廃駅

※訪問は2025年10月4日

まずは腹ごしらえ

美濃市駅訪問の後はランチタイムとなった。当駅より北に進むとお昼を食べられる確証のある場所は郡上八幡までないこともあるし、そもそももう13時半。地元のソウルフードでもある「とんちゃん焼き」をいただくことに。特製のタレに漬け込んだ豚モツをジュージュー焼く。同時に鶏を漬け込んだ「けいちゃん焼き」も注文してシェアしていただいた。行列のできる人気店だそうだが、遅い時間なのですんなり入れて幸運だった

そしていよいよ今回の旅の最大目的のひとつに向かう

ここに来なければ意味がない

向かうといっても、ほとんどお隣さんのような場所だが

美濃駅。といっても現役の駅ではない。廃止になった路線の駅舎が、そのまま保存されている。長良川鉄道乗車が旅の本筋とはいえ、ここに来ないわけにはいかない。名鉄美濃町線の駅だった。1999年(平成11)に廃線となった名鉄美濃町線の駅舎だ。岐阜の中心部に乗り入れる路面電車として知られていた美濃町線は1999年に新関~美濃が廃止され、6年後には残る区間も廃止となって全廃となった

前記事でも触れたが、美濃町線は美濃電気軌道が1911年(明治44)に岐阜市の中心部から当駅まで敷設された路線で、昭和初期に名鉄の一部となった。国鉄越美南線より10年以上も早く現在の美濃市に乗り入れ、しかも岐阜市中心部とダイレクトにつながっていた

こちらも前記事で紹介したが、当時美濃町は成立しておらず駅名は町名から「上有知(こうずち)」駅。ただ2月11日の開業から2カ月も経たない4月1日「美濃町」駅に名を改めている。美濃町が成立したからだ。現代ならわずか2カ月後に新たな町が成立するのだから、駅名も考えて付けろ、となりそうだが、当時は自動券売機があるわけでもなくワンマンの整理券があるわけでもない。地方の私鉄にとって駅名変更はたやすいものだったのだろう

駅は2度にわたり微妙に位置を変えて現在の駅舎がある場所にやって来たのは1923年(大正11)。その年に越美南線も美濃町にやって来たため、国鉄との乗り換えが便利な位置に移転したとされる

徒歩で5分もかからない場所に2つの駅ができた。私鉄と国鉄が乗り入れる美濃町は長良川の港で栄えた重要都市だったのだ

駅名はこの移転の際、越美南線の「美濃町」駅との駅名重複を避け「新美濃町」駅と改名した。国鉄に敬意を払った形だ。現在なら、どちらが先だなどとなりそうだが、この時代は地方の私鉄が国鉄に配慮して会社名や電鉄の文字を入れるケースは見られた

美濃市の成立によって1954年に駅名は「美濃」に変更。ただし路線名は廃線時まで美濃町線のままだった

駅舎は廃線、廃駅となった後は地元で管理され

6年後の2005年には旧駅舎とホームが登録有形文化財となった。徒歩5分以内にある2つの駅舎がともに登録有形文化財となったのだ

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その10 強引な近鉄への分岐の理由は?

富田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

車窓から分岐を眺める

何度か触れてきたが、三岐線の正確な路線情報は起点がJRの富田駅で終点が西藤原駅である。ただしわれわれ一般旅客は近鉄富田駅からしか乗れない。これはどういうことかというと途中で分岐があり、近鉄とJRへそれぞれ線路が別れていて旅客列車は近鉄へ、貨物列車はJRへと向かっているからだ

西藤原から近鉄富田へ向かう電車の先頭かぶりつきに陣取ってみると

分岐が分かる。右下に見えるのはJRの関西本線。右へと折れる線路は、この後もう一度関西本線をまたいで近鉄富田へと向かう。なかなか強引な線路構造だ

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2度もまたぐ理由は

このあたりは近鉄富田駅前の周辺案内図で見ると分かりやすい

駅前地図だけに南北が逆になっているが線路はかえってよく分かる

右側からやって来た三岐線のJRへの合流はスムーズで、そのまま真っ直ぐ降りて関西本線と合流。富田駅へと入る。それに対し近鉄への合流は先述したように2度も関西本線をまたいで近鉄富田駅へと入る。いかにも無理やり近鉄へ合流していかのように見えるが、実は無理やりなのだ

まずは両方の富田駅の移動を確認してみよう

両駅は徒歩5分の距離で「5分」だけを考慮すると、ご近所のように感じるが、真っ直ぐな一本道ではなく初見ではちょっとウロウロしてしまう。なぜそう言えるかというと、3年前に実際に歩いたからだ。関西本線の駅巡りを行って大阪へ帰る時に近鉄富田からの近鉄を選択したため。近鉄の駅が近ければどこの駅でも良かったのだが、富田から歩いてみようとなったはいいが、結局は地図アプリのお世話になった。そんな便利なものがない時代だったら遠回りしていたかもしれない

要望強く近鉄へと合流

1931年(昭和6)に全通した三岐鉄道が電化されたのは戦後の1954年。そのころから沿線は宅地開発も進み始め名古屋や四日市方面への通勤通学利用が増えてきたが、それとともに富田駅での乗り換えの不便さを訴える声も大きくなっていく

近鉄の名古屋線は狭軌で標準軌の大阪線とは規格の違いがネックとなっていたが、1959年にすべて標準軌となり、同時に全線が複線化されて利便性が増した。非電化単線だった国鉄の関西本線とは差が広がる一方。三岐鉄道の利用者の多くは国鉄に乗り換えることなく、わざわざ近鉄の駅まで歩いて乗り換えを行っていた

さすがに多くの声を無視するわけにはいかず、三岐鉄道では富田と近鉄の富洲原(現川越富洲原)駅の免許を取得。用地買収も行い近鉄駅へ向かう線路を造ろうとした

これは富田からスイッチバックする形で富州原で三岐鉄道を結ぼうという計画だったが、スイッチバックの効率が悪すぎることと当時にぎわっていた貨物輸送に支障をきたすということで断念。代わりに近鉄との交差部分に富田西口駅を設けたのが1965年だったが、それでも不便さを訴える声は変わらず、ようやく近鉄富田駅に乗り入れ、現在の形となったのは1970年のことだった。だから正式には今も三岐線とは富田~西藤原のことで、分岐から近鉄富田への路線は近鉄連絡線という名称である

その後は近鉄富田行き、そして国鉄富田行きと2種類の列車が運行されていたが需要の差は歴然で、1985年のJR民営化直前の1985年に関西本線の富田への旅客列車はすべて廃止。富田西口も廃駅となった。このようにして珍しい貨物線用の私鉄線が誕生した

現在、近鉄富田駅には近鉄と三岐鉄道の2つの電車が入っているので、たまに勘違いする人もいるのだが、三岐鉄道は近鉄から独立した会社ではない。また軌間が異なるので同じホームにいながら直通運転はできない

3年前の思い出

JRの富田駅を訪問したのは3年前の3月のこと

駅舎は立派だが

すでに無人駅となっていて駅舎内はガランとしていた

ただ構内は広く三岐線の貨物列車も停車していた

三岐線のホームは残っているが柵が設けられていて、わずかにのぞくことしかできない

もっとも東口の前にはイオンモールができていて食事の選択は近鉄より、こちらの方が多くなっている

さて紹介してきた分岐には、かつて三岐線の駅があったという。これはぜひ見に行きたい。ということで駅の跡地まで歩を進めることにする

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桜の季節に150年前の日本初の鉄道トンネルを見にいく

石屋川公園の桜

※訪問は2025年4月1日

昨年の「終点」からスタート

昨日のお話。ここは御影公会堂。ちょうど1年前、昨年の4月にもここにいた

阪神電鉄の廃線跡巡りのゴールがここだった。今回はここからスタート。日本初の鉄道トンネルである石屋川トンネル跡を桜の季節の今、訪れることにした。トンネル跡はずっと残るだろうが、桜については賞味期間の短い記事になるので訪問翌日の公開です

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石屋川沿いに歩くと人だかり

石屋川は灘区と東灘区の境界でもある。東灘区側に御影公会堂、そして灘区側には

神戸市民のソウルフードとも言われるラーメン「もっこす」の石屋川店。まだ11時にもなっていないが、当店は10時開店ですでにこの時間でもお客さんはいる

ニンニクチップスもたっぷり入れて出発である

といっても目指す場所は、ここからそう遠くはない

その場所は東灘区側にあるが、まずは灘区側を北上。まだ満開とはなっていないが、間もなく咲き誇る時を迎えそうだ

石屋川を渡る。先にJRが川を渡る橋が見える。橋の手前まで行くと

何やら人だかり。年配の方々のハイキングの最中のようだが、皆さんが見入っているのが記念碑である

皆さんが去ったタイミングで貨物列車が通過していった。記念碑は桜で覆われる形になるはずだが日照条件が悪いのか、このあたりはまだつぼみも見られる

日本初の鉄道より早い1871年の竣工

記念碑には詳しい解説とかつての写真が並ぶ

石屋川トンネルは1870年(明治3)に着工し、翌1871年に竣工した。日本で初めての鉄道となった新橋~横浜が本開業したのが1872年なので、それよりも1年早い。鉄道を通すためのトンネルが先に造らろれ、日本で最初の鉄道トンネルとなった。使用が始まったのは1874年のこと

このトンネルの特徴は石屋川という天井川の下をくぐったこと。山を掘るのではなく川の下を通るのだから難工事である。もともと東海道線はもっと海側の河口付近を通る予定だったが、灘の酒蔵から汽車の煤煙で酒が腐るとのクレームが入ってこの位置となった。当初の予定通りだと現在の阪神電車もどうなっていたか分からない

だが上流に行くと立ちふさがったのは天井川。天井川は高いところにあるため、その上を走る鉄道橋を造ると当時の機関車の能力では登ることができない。だったら川の下を行くしかない、とトンネルとなった。鉄路のコースには住吉川、芦屋川という天井川があり、その後、同様にトンネルとなった

トンネルは大正期の複々線化の際、川が跨線水路橋へと改良され、トンネルそのものは解体。戦後の1976年には高架で石屋川を越えることになり、トンネルそのものも埋め立てられて姿を消した

その高架下の遊歩道には、かつてトンネルがあった場所に

トンネル跡を示すプレートと記念碑が設置されている。高架下でJR西日本の敷地内にあり、近づくことはできないが、JR西日本が平成15年に建立した地元らしく御影石(当地の住所は東灘区御影)を使用した記念碑がある

公道部分から見上げるとこんな感じ

その公道部分は現在も石屋川の下を通るトンネルとなっているが、鉄道トンネルのイメージはない

住吉川と芦屋川は

石屋川トンネルは完全に姿を消したが、住吉川と芦屋川については、今も当時とは姿を微妙に変えながらも天井川の下を通っている

住吉駅から東に向かって進むと東灘区役所の裏手あたりがその場所(写真は2023年2月)。住吉川に沿って北上してきた六甲ライナーが90度にカーブするあたりなので分かりやすい。両側を道路に挟まれたようになっているが、川の下を鉄道が走り

東灘区による解説がある。酒蔵からの抗議も記されている。芦屋川については割愛するが、JR芦屋駅の北側を神戸市側に歩いていくとすぐ分かる

石屋川トンネル跡は阪神の石屋川駅とJRの六甲道駅が最寄りだが

今回は六甲道駅から一度御影公会堂を経てグルリと回って歩いてみた。真っ直ぐ行くのなら高架沿いに住吉方面へと歩けば15分ほどで行ける。阪神の石屋川駅からは石屋川沿いに10分と、どちらも徒歩コースは分かりやすい

この記事を書いている間にも桜は満開になりそうだ。この季節こそ訪れてほしいポイントである

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その10 廃線の影響を聞く 鍛冶屋線跡も少し紹介

※訪問は2024年12月10日

喫茶店で休憩

西脇駅跡を散策して少し休憩することにする。といっても朝が早かったため、時間はまだ10時にもなっていない。いくら西脇の中心部とはいっても、まだ飲食店は開いていない時間だが、喫茶店はあった

モーニングをいただく。店内は地元の方々でにぎわっていた。いずれも私よりも年配ではないかと思われる皆さんと、お話をしながら西脇の現状などを教えてもらった

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鉄道駅がなくなったことで

古くからの駅には2つのパターンがあって、すでに土地がない、鉄道が嫌われたなどの理由によって町はずれに設置されるパターンと町の中心部に設置され、その後も駅を中心に町が発展してきたパターンに分類される。県庁所在地の駅などは、前者のパターンが多く駅を降りたら何もなくて、あ然としてしまうが、西脇については後者だったようだ。「本町」という地名が駅周辺に残るのもそういうことだろう

ただ駅がなくなって30年以上が経過し、町の中心部は空洞化が目立つようになったという。前記事で年に1回、仕事で必ず西脇を訪れていたことを記したが、いつも車だったと話すと「車なしの生活は無理」と教えられた。廃線時期は全国各地に、いわゆるロードサイド店が広がっていったころで、そういえば西脇周辺での食事も駐車場付きの道路沿いにある店ばかりだった

旧西脇駅周辺は新しい大型ビルやマンションが目立つ。おそらく昭和以前からのものであろう古くからの街並みを抜けると急に目の前にビルが現れるという印象だ。いずれも廃線後に建てられたものであることは容易に察しがつくが、その一角にホテルがあり、1階部分はバスターミナルとなっている

神戸、大阪までのバスも出ているが本数は決して多くはなく、特に神戸行きのバスは少ない。以前は満員のお客さんを乗せていたそうだが、神戸の中心部へ行く際はもっぱら車を利用。三宮の駐車場は料金が高く渋滞が多いので明石や西明石に車を停め、新快速で三宮に出るという。西脇から神戸の西側へは国道175号線があるが整備が進み、途中のバイパス部分も完成して有料自動車道を使用せずともアクセスは容易になっている

途中、神戸市営地下鉄の西神中央駅付近も通るので、地下鉄乗り換えでのアクセスもある。どうして、そんなに詳しいのかというと、道中の三木も含めた西脇へのアクセスをいろいろな方法で試したことがあるからだ

鍛冶屋線の廃線跡

さて文中で鍛冶屋線について何度か触れたが、鍛冶屋線は西脇から北へ伸びていた野村(現西脇市)から鍛冶屋を結ぶ13キロの路線である

もう少し先まで延伸する計画だったが、鍛冶屋駅までで建設は終わった。もともとが播州鉄道という私鉄の手によるもので、他の国鉄線とつなげる予定はなかった。旅客輸送の他にも地場産業の中心だった播州織の生糸を運搬する重要な役割を担っていた

13キロなので車だとすぐに到達してしまう。今から10年前の5月に廃線跡、廃駅跡を回った

10年も経過しているので改めてまた訪問しなければならないと思っているが、当時の写真を少しだけ紹介する

車両が保存され鉄道記念館もある市原駅跡

中村町跡は公園となっていた

そして鍛冶屋駅跡

こちらも車両が保存され公園化している

さて楽しかった喫茶店トークも終わり、そろそろ西脇市駅へと向かうことにしよう。徒歩だと20分ぐらいだとのこと。「一番分かりやすいのはロイヤルホテルの南側の突き当たりを真っ直ぐ進むこと」と教えられた

そこに行くと

「やすらぎの道」とあるが、なんて分かりやすいんだ。これはどう見ても廃線跡である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その9 歴史に翻弄された都市の中心駅は今

旧西脇駅の跡

※訪問は2024年12月10日

新西脇駅から旧西脇駅跡を目指す

新西脇駅からすぐの場所に加古川を渡る橋がある。ここを渡れば西脇市の中心街へと入る。前記事でも触れたように新西脇駅は中心部まですぐの場所に位置しながら利用は極めて少ない。不思議なことだが新西脇駅が設置された際、目の前に橋はなく、かなりの大回りを強いられていたらしい

ここから徒歩で旧西脇駅跡へと向かう

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徒歩約20分の道程

加古川の景色を見ながら橋を渡るとコンビニがあり、古くからの街並みが広がる

途中から急に一方通行になったりY字路が出てきたりと、古くからの町がアップデートされながら道路ができていったことが分かる

旧西脇駅跡までは徒歩約20分。実際は町の中の狭い道路を進んだが、とにかく県道54号まで北上すれば、そこはかつて西脇駅からのメインストリートだった道路で、真っ直ぐ進めば旧西脇駅跡である

西脇駅跡に到着

いかにも中心部の周辺

周辺には複数の銀行や商工会議所などが並び、ここが駅跡と知らなければ、一体何だと思ってしまう。街路樹のふもとの歩道がいかにも廃線跡

こう見ると、なお分かりやすい

会社員時代の数年間、50歳を超えてから年に一度必ず西脇に来ていた。だからここ10年ぐらいの話で比較的最近のことだが、訪問先が車でしか行けないところだったため、ここに来るのは初めて

西脇駅の歴史が記されている

運命の分岐点

加古川線の基礎となった播州鉄道は、まず加古川から当駅までの敷設を行った。加古川線は加古川の水運の代替交通として計画されたため、沿線の小野や社といった町は中心部から離れたところに駅が設置され、後に苦戦の原因となるが、ここ西脇に限っては町の中心部に駅が設けられた。1913年(大正2)のこと。1921年には北へ向けて延伸が始まり、約12キロ先の鍛冶屋まで到達したのが1923年のこと。この年のうちに経営は播丹鉄道へと変わり、翌1924年に野村(現西脇市)~谷川が開業。西脇を含む野村~鍛冶屋は支線となり、1943年(昭和18)の戦時買収で国鉄の加古川線と鍛冶屋線に分かれるが、後から思えば、これが運命の分岐点だった

ただ加古川線と鍛冶屋線という2つの路線に分かれながらも、流動は鍛冶屋線の西脇までが圧倒的に多く、加古川から西脇までの直通運転が行われていた。JR移管から1年が経過した1988年3月の時刻表(復刻版)を見ると、加古川~西脇は1日に21往復もの運行があり、半数近くが西脇止まり。また西脇から野村を経て谷川に至るという変則運転もあったため、野村~西脇に限れば25往復もの運行があった。そもそも時刻表は加古川~鍛冶屋と野村~谷川が別となっていて事実上、加古川~鍛冶屋が本線扱いだったことが分かる

車止めを模したモニュメントが置かれていて写真入りの解説文もある

歴史も含めとても詳しい。昭和30年代の国鉄全盛期には西脇駅を1日1万5000人もの人が利用していたという

鍛冶屋線は国鉄末期に特定地方交通線に指定され、廃線へと進み始めるが、野村~西脇については利用者数は廃線の基準となるものではなかったため、この区間のみを存続させるという意見も多く出たが、結果的にはすべてが廃線。利用が多いとは言えなかった野村~谷川は残り、廃線対象は盲腸線というパターンがここでも踏襲された。廃線は1990年。野村駅は西脇市駅へと改められた。阪神淡路大震災の5年前のことだった

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その15 戦時買収から外れ私鉄のままだった路線

本長篠駅はふだんは有人駅

※訪問は2024年10月27日

バスの路線図が物語るもの

本長篠の駅舎内にはバスの路線図と時刻表が大きく張り出されている

これはかつてあった豊橋鉄道田口線の代替バスだ

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鳳来寺参拝と材木運搬

こちらがバスの時刻表。すべてのバスが鳳来寺の参拝道と田口に行く

豊橋鉄道田口線は前身を田口鉄道といって現在の本長篠駅から設楽町の中心である田口を結んでいた22キロの路線。現在、県道32号が土砂崩れで通行止めとなっているようだが、元のルートは県道32号とほぼ同じでUターンして寄り道するようになっている箇所が鳳来寺の参拝道にあった鳳来寺駅。終点の三河田口駅は木材の集積に便利なように田口の町からかなり離れた豊川に近い場所にあったようだ

田口鉄道は資本的にも飯田線の前身となる豊川鉄道、鳳来寺鉄道と密接で鳳来寺鉄道は1929年(昭和4)の田口鉄道開業時に、それまでの「鳳来寺」という駅名を田口鉄道に譲り「鳳来寺口」と改めたほどである。鳳来寺までの参拝客と材木の運搬が目的だったが、豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同じく国鉄と同じサイズの狭軌、しかも電化されていたという。この規格のおかげで戦後、豊橋鉄道に引き取られることになったが、戦時買収の対象から外れ国鉄にならず、国鉄が運行を管理するというハンパな扱いとされるだけだったことが後に影響する。国鉄の運行管理は戦後に終了。豊橋鉄道田口線として再出発したものの、材木運搬や利用者の減少そして台風による水害の影響で1968年(昭和43)に廃線となった

本長篠駅は構内踏切を渡ったところに島式ホームがあるが、駅舎に面したホーム跡らしき場所にぽっかりとスペースがある。これが田口線の跡らしい。規格が国鉄と同じであるため、鳳来寺観光の直通列車も運行されていたらしい

来春に訪れる変化

その一方で当駅は来春、変化を迎える

すでにスタンバイ完了に見える。これは分かりやすい。ICリーダーの読み取り機だ。来春に当駅までIC乗車できるようになる見込み。飯田線は現在、豊橋~豊川の8・7キロのみIC乗車ができるが当駅まで拡大される。23キロもの延伸だ。この区間内にはさすがに1日の利用者数が1ケタという駅は存在しない。本長篠も2022年の利用者は419人と92駅(豊橋、辰野をのぞく)中28位

ただ立派な駅舎がありながら、改札付近にリーダーを設置するのではなく雨ざらしの構内踏切に設置するあたり、すでに駅舎移転と取り壊しが念頭にあるのか、などといろいろ考えてしまうのだ

18時前、豊橋到着。すでに大都会。前日の塩尻旧駅跡、リニア新幹線予定地、ダッシュ疑似体験から始まり、飯田からの各駅訪問と起伏に富んだ2日間だった。駅近辺で夕食を兼ねて一杯やった後に帰宅。ただしすぐには新幹線には乗らない。せっかくの青空フリーパス。せめて名古屋までは在来線で向かおう

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