2025年 5月 の投稿一覧

QRコード乗車を2日間してみた(よくできました編)

京都2デイズパスのポスター

とても目に付く改札機

最近、多くの駅で見かけるこちらの自動改札機。写真はJR西日本の改札口のものだが、見てほしいのは手前の青いインターホンではない(こちらは後に大きな意味を持ってくるが、それは次回で)。「QR」と書かれた改札

QRコードをかざして開閉するタイプだということは分かる。ただ自身の体感では、目の前で使用している人をほとんど見たことがない。一体どういうものなのか? では実際に自分が使ってみようということになって4月と5月の1日ずつ、計2回使用してみた

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各社猛プッシュのフリーパス購入方法は?

昨年あたりから導入が加速してきたQRコード乗車券については、西日本地区の方が先行しているイメージだ。機械を導入する際の駅の数やバスの規模も異なる上に首都圏は相互乗り入れが多く、設定に手間がかかるからだろう

導入されているほとんどがフリーパス。乗り放題降り放題を標榜するフリーパスについてはQRコード乗車券は鉄道各社にとって便利で、磁気券を発行する手間や経費が不要になる上、改札機の中で磁気券がストップしたり読み取りエラーが発生することもなくなるからだ。阪急電車のHPを見ると阪急と阪阪神が1日乗り放題となる「阪急阪神1dayパス」については今年の3月いっぱいで磁気券の販売をすでにやめている

QRコードのフリーパスを購入するには、もちろんスマホが必要。JR西日本が主体となっている「KANSAIMaaS」と私鉄各社が主体となっている「スルっとQRtto」の2種類があり、前者はアプリのダウンロードとカード登録が必要。後者はWEB方式アプリになっているので名前を登録しておけば、その度にHPでログインして購入する。特に前者については、こちらもJR西日本が最近力を入れているWESTERとの連携が強くなっている

今回の利用は2種類

どちらのアプリも開いてみると無数にQRコード乗車券があるのではないかと思ってしまうほど、画面にズラリ並んでいて大変(特に今は万博関連のものが多い)だが

「堺おでかけフリーパス」そして

「京都2wayパス」である。前者が1000円、後者が1300円。私のような降り鉄にとっては、あっという間に元がとれてしまうすぐれもので、結果的に堺へはJRで向かい、三国ヶ丘で南海に乗り換えて大阪まで戻ってきた。京都へはJRで向かい、奈良線や山陰本線にちょこっと乗って阪急で戻った

自動改札機を通るにはアプリを立ち上げるとQRコードが示される

こちらを改札機にかざすだけ。ただしQRコードの有効期間は1分なので、前回改札を抜けてから1分以上が経過した場合(ほとんどの場合で1分を超えるだろう)は、もう1度アプリを立ち上げればQRコードが再発行される。更新ボタンを押し続ければ画面が維持されるが、次の出入りまでの時間が極端に少ない時以外は現実的ではない

ということで初日は手探りだったものの、2日目は操作にも慣れた。アプリではおすすめの観光地やおすすめコースの案内もあり、それに合わせたフリーパスを表示してくれるので商品の数は多いが、比較的簡単に目指すものに近いチケットを探すことができるだろう

ただ私の操作技術の問題以外にも、QRコード乗車券の利用には、さまざまな問題点があることも分かった。次回は改札口で途方にくれてしまった経験を語っていきたい

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竣工から80年インバウンズも来ない?大阪の隠れ名所 川底を歩く(後編)

西九条駅の駅名標

※訪問は2025年5月11日

エレベーターには多数の人と自転車

いよいよ川を渡ろう、いや潜ろう

トンネルの出入りには階段とエレベーターの2つの方法があるが、当然ながら利用が多いのは圧倒的に後者。そもそも自転車はエレベーターで行くしかない。こうして見ると、人が少なく感じるかもしれないが、そうではない。乗り切れない人がピストン運行されるエレベーターの前で1本見送り、次の順番で先頭に来たところ。エレベーター前には警備員の人が立っていて「人だけだったら、まだ乗れます」「次にしてください」と整理してくれる

エレベーターが到着してドッと人と自転車が降りてきた。次々と乗り込む人々。日曜の16時過ぎという時間帯。ふだんの知識がないので、これが多い方なのか少ない方のか分からないが、トンネル付近の源兵衛渡交差点は、それほど人が歩いている印象はなかったので、まるで駅のようにこちらに集中してやって来た感じだ

私も、この日同行してくれたX(旧ツイッター)のフォロワーしんさん(@sin103neko)もいっぱいで次の便にしようと待っていると「自転車以外は入れますよ」と、促されて乗り込む。安治川トンネルは深さ約17メートル。ビルでいうと4~5階分なので、すぐ到着する。時間にして10秒ぐらいだろうか

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地下道の幅は2メートル

振り返ると早々にエレベーターは西九条側からやって来た人々を乗せて出発するところ。順番待ちの自転車もいる

地下道の幅は2メートル。トンネルそのものは11メートルの幅があるが、前記事で触れたように車の通行は約50年前に止められていて、この部分だけが残されている。安全のためトンネル内にも警備員がいる

左側通行で自転車は押しての通行となる

字体からクラシックさを感じる斜めに掲げられた「防犯ベル」の文字。というか防犯ベルという言葉の響きは久しぶりに感じる

これはお決まりの案内標。というか知らずにここを通る人はほとんど皆無と思われる。長時間滞在したわけではないが、梅田やなんば、通天閣界隈を埋め尽くしているインバウンドの方々も無縁の場所だろう

案内標を足すと105メートル。トンネルそのものの長さは80メートルなので歩き始めるとすぐ到着である

せっかくなので地上に出る際は階段を昇ってみた。急ぎのため降りる時に階段を利用する人以外はほとんどいないようだ。というのも実際に昇ってみて分かったのだが、戦時中に造られたものだけあってtuせっかくなので地上に出る際は階段を昇ってみた。急ぎのため降りる時に階段を利用する人以外はほとんどいないようだ。というのも実際に昇ってみて分かったのだが、戦時中に造られたものだけあってかなり急な階段だ。恥ずかしながら、昇りきっただけで息がゼーゼーになってしまった

そしてこちらが西九条側の出入口。エレベーターは朝の6時から深夜0時までの稼働だが、階段からのトンネル利用は24時間可能となっている

変貌した西九条

西九条側から九条側を見る。橋は阪神なんば線で右側にやって来た九条側のトンネル入口がある。こうして見ると何の建物か初見では絶対に分からないだろう

安治川トンネルの解説文や周辺案内がある

安治川の上流部分をながめると中之島が見える

実は西九条と中之島のロイヤルホテルまでは、そう遠くはない。その先は大阪の経済の中心地である。九条となんばが近いのと同じ感覚だ。歩く人はあまりいないだろうが、車だと数分で着いてしまう

トンネルを出ると西九条駅はほとんど目の前だが、梅田や中之島からほど近い場所で環状線と桜島線の分岐であり、阪神の西大阪線(阪神なんば線)の乗換駅でもありながら、西九条はちょっと渋めの下町という場所だった

その西九条が大きく変わったのはUSJのオープンで、工場地帯への輸送路だった桜島線はUSJを目指す人でにぎわうようになり、阪神も神戸方面からUSJに行きやすいよう尼崎を特急停車駅にした。そして阪神なんば線の開業。神戸からなんばまでの直通運転が開始され、西九条は重要な交通の結点となった。それは九条も同様で、なんばまで乗り換えなし、ほんの数分で行けるようになったことは大きい

しんさんと西九条界隈で2軒はしごして20時に解散。これまで書いてきた通り、安治川トンネルへのアクセスは抜群だ。梅田からもなんばからもすぐに行ける。安治川トンネルが完成した戦時中の1944年におけるマイカーの通行量というのは分からないが、おそらく微々たるものだと思われる。まさか完成から20年も経たないうちに車社会の波が押し寄せるとは想像していなかっただろう。そんなことも考えながら、川底を渡ってみるのも楽しいはずだ。大阪市のちょっとした穴場である

そしてしんさん、お付き合いありがとうございました

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竣工から80年インバウンズも来ない?大阪の隠れ名所 川底を歩く(中編)

安治川トンネル内の方向案内

※訪問は2025年5月11日

グーグル先生も指南のメインルート

阪神なんば線の九条駅と西九条駅の駅間はわずか1・3キロ。歩いても行けそうだし、現に今回は歩いている。ではグーグル先生は徒歩ルートをどのように指南してくれるかというと

このように安治川トンネルを進むルート。というか地図を拡大してほしい。安治川を歩行者が渡るルートはここしかないのだ。大阪市のど真ん中なので川ぐらいいくらでも渡れそうだが、歩行者どころか車でもなかなか渡れない。車は機動力があるので何とかなりそうだが、歩行者はほぼこのルートのみ。貴重な導線となっている

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正解だった戦時中の判断

あらためて安治川トンネルの九条側入口。倉庫のようだと前記事で記したが、建物だけを見てこれが川底トンネルの入口だと思う人はいないだう。写真で分かる通り、自転車の入場も可能で自転車でエレベーター待ちをしている人もいる

建物を見て気になるのは右側の巨大エレベーターの存在

注意書きは、もう文字が見えなくなっているが、かつて安治川トンネルは車も通行できていた。ただこのクラッシックな建物にセンサーのようなものはない。運転手は1度車を降りてボタンを押していたのかとも思ってしまうが、ここにボタン操作を行う係の人が立っていて通行料を徴収していたのだ。ただし車社会の進行とともにトンネル内の空気の悪さや事故の心配もあることから、1963年(昭和38)に国道43号で渡れるようになったことを契機に交通量も減ったことで、1977年に人と自転車専用道となった。60年以上も前のことだ

エレベーターの上には「安治川隧道」の文字。右から左に文字が流れていることで古さが分かる。「昭和十九年九月十五日竣功」と文字が刻まれている。開通日だが、昭和19年といえば、戦争まっただ中。かねてより安治川は大阪市内のネックポイントで人や物の流れを妨げていた

少し九条寄りに戻るが、この建物入口の交差点には

「源兵衛渡」の名が今も残る。安治川には渡し船がいくつかあり、ここがそのひとつ。物流優先の戦時中のこと。何かと渡船では効率が悪いとなって車も通れるルートを作ろうとなって、トンネルができた。もし戦争がなければ事情は変わっていたかもしれない。渡船はトンネルの竣工とともに廃止となった

ただ川を渡る手段が問題となった。手っ取り早いのは橋を架けることだが、こちらは戦時中の資材不足が問題となった。橋をかける時間もかかる。そもそも安治川に橋が造れなかったのは当時物流の中心を担っていた数多くの大型船の通行を妨げない大規模なものが必要だったからだ。そのころの技術で大がかりな橋を架けるのは大変なことだ。何よりせっかく橋を架けても敵の標的となってしまう可能性もある。ということで、地上でトンネルを造った上で、トンネルごと川底に埋めるという工法がとられた。結果的に、この判断は大正解。その後の空襲被害に遭うこともなく「隧道」は今もほぼそのままの形で残っている

では実際に「渡って」みよう

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竣工から80年インバウンズも来ない?大阪の隠れ名所 川底を歩く(前編)

九条駅の駅名標

※訪問は2025年5月11日

スタートは蘇った幻の駅

すっかり陽も長くなった5月の日曜日の夕方。阪神西大阪線の九条駅にいた。この日はなんばに用事があり、阪神なんば線に乗って九条へ。わずか2・5キロの距離だが日曜日でなくても終日人で大にぎわいのなんば周辺とは異なり日曜16時はホームの人もまばらだ

当駅のメインは地下鉄中央線との乗り換えとなる1番出口だが、あえて2番出口へ。ここで本日同行していただくX(旧ツイッター)のフォロワーしんさん(@sin103neko)と合流。しんさんとは昨年12月にダイエー曽根店をともに訪れて以来5カ月ぶり(7月いっぱいでの閉店が決まったらしく、こちらもしんさんから連絡をいただいた)。気候もよくなって、どこかに行こうと話し合った末に選ばれたがこの地である

写真が反射してうまく撮れていなかったので、ここからは2019年に撮影したものとなるが、阪神の九条駅は幻の駅として知られていた。尼崎となんばを結ぶ阪神なんば線は今でこそ神戸と大阪ミナミを直結する利便性の高い路線となっているが、長らくは尼崎から環状線の西九条駅まで来たところで唐突に終わっている西大阪線という路線だった。環状線の高架より、さらに高い場所に駅があり、見る人が見れば「環状線をまたいでどこかに行こうとしているのだな」と一目で分かる構造だった

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いったん計画は凍結

阪神は戦後の早い時期からなんばへの乗り入れを目指していたが、大阪市や地元の反対によって計画は頓挫。九条駅については、まだインターネットなどというものができるとも思っていなかった私の高校生時期である40年以上前に「すでに駅はできていて地下に埋めてある」という話を都市伝説的に聞いたことがある

地下駅の改札口を出て階段を昇ると白い壁が見えてくる。そこにあるのは

古さを感じるタイル張りの壁と説明文

電電公社という固有名詞を目にする場所も貴重だが、今はNTTとなっているビルに出入口を造ったものの、日の目を見ることなく眠っていた。「ようやく皆様に出会えました」の文言がちょっと泣ける

京セラドームあってのなんば線

ちなみに当駅の隣駅は「ドームまえ」。言わずとも知れた京セラドーム大阪の最寄りだが、ここ九条からでも遠くはない

もし当初の計画通り、昭和40年代に開通していたら大阪ドームの最寄り駅としてはもちろん存在していないし、地下をもぐる現在のコースになっていたかどうかも微妙だ。阪神なんば線の着工は2003年。皮肉にも当時大阪ドームを本拠としていたプロ野球近鉄バファローズの消滅直後だったが、それ以前からドームの利用者が増えないことに危機感を覚えていた大阪市が長らくの許可凍結を解禁したともされる

ドームとは逆方向へ

さて今回はドームとは逆方向へと歩いていく。目指すは西九条駅。九条駅と西九条駅の間にある「安治川隧道」を渡ろうというのが今回の本来のテーマである

九条にはキララ九条という大きな商店街があり、安治川を目指して歩くと商店街の端と合流する

こちらは商店街のアーケード。そしてさらに先に進むと安治川へと到達するが、突き当たりに建物が見えてきた

何やら古い建物。遠目からは倉庫のようにも見えてしまうが、こちらが安治川隧道(今後はトンネルと記する)の入口だ

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その18(終) 総ガラス張りの駅でゴール

北勢中央公園口の縦駅名標

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

最後の駅は長い駅名

いよいよ最後の駅となった。「ほくせいちゅうおうこうえんぐち」。ひらがなにすると随分と長い駅名である。三岐線の駅名で地名以外の駅名は2つしかない。暁学園前駅と当駅。昭和初期からの歴史を持つ三岐線。暁学園前がそうであったように、こちらも戦後に名付けられた駅である

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移転して駅名変更

当駅の駅名標を見ると「旧大長」と記されている。大長駅は1931年(昭和6)の開業。当時の大長(おおなが)村に基づく。大長村は戦後の合併で東員村となり現在は東員町。1997年(平成9)に現在の場所に100メートルほど移転して駅名変更となった。目的は同名の公園へのアクセス向上である。と同時に駅の位置は旧大長村の村域からは出てしまったが、それでも新駅扱いではなく、あくまでも駅名変更である

ただし三里駅の記事でも触れたように

「○○口」という駅名は対象となる場所からかなり離れていることが多い(三里駅も戦後に地名以外の駅名に一時変更されている)

公園の公式HPにも駅から徒歩30分と記されている。地図だけ見ると梅戸井駅からの方が近く見える(実際は歩くとほぼ同じ時間のようだ)。それでも駅名変更としたのは駅前の広さなどを考慮してのものだろう

ガラス張りの駅舎に目を見張る

駅舎は新しい

ちょっとした小さなビルのような建物。たった14駅しかない三岐線だが、戦前の開業時からのものと思われる駅が残っているかと思うと東藤原や当駅のような斬新な構造で楽しませてくれる

駅舎内は総ガラス張り。いろいろな方角から光が差し込んでくる斬新な構造だ

周辺案内図は見上げた場所にある。単式ホーム構造ながら、なかなかおしゃれな駅となっている

各駅訪問をふりかえって

駅前のロータリーから駅舎をながめて全駅訪問の終了である。昨年11月から始めた北勢線と三岐線の旅。パッと地図を見ると、ほぼ並行するように走っている2つの線路は何か関係があるのかと思う人も多いだろう。今は同じ三岐鉄道という会社の路線となっているが、もともとは岐阜県に向けて貨物中心の線路を敷設する際、北勢線のナローゲージの路盤では貨物列車は無理ということで新たに三岐線が建設されたものの、岐阜県への延伸をあきらめたことで2つの並行する路線ができたことが分かった

また三岐線の出発駅がなぜ近鉄富田なのかも不思議だったが、貨物を考慮した国鉄の富田駅(当時)での接続は利用者から不評で新たに近鉄との連絡線を設置したことも分かった。いろいろなナゾが解けた有意義な2路線の訪問だったが、まさか今年3月にフリーきっぷが別々のものになるとは昨年11月の時点で私は全く知らず、その意味ではギリギリ滑り込みセーフというか、最後の貴重な体験となった

そして三岐線の各駅で見た自動改札機のない有人改札の美しさ。貨物鉄道博物館の開館日に合わせて、ぜひまた訪問したいと思っている。その際は新しいフリーきっぷを手にしているのだろう

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その17 ぶっちぎりの利用者を誇る駅

暁学園前駅の駅名標

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

単式ホーム構造ながら

暁学園前駅に到着。ご覧のように単式ホームですれ違いのできない構造。ただ路線内では圧倒的1位の利用者数を誇る駅である(近鉄富田のぞく)

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暁学園の移転により

近鉄富田をのぞくと三岐線には14の駅があるが、1日の利用者数が千人を超えるのは当駅のみ。しかも2023年度の数字を見ると2305人。唯一の4ケタでなおかつ2000人超え。2位が保々駅の824人なので、その突出ぶりが分かる。そしてその理由は駅名にもなっている暁学園にあることは容易に察しがつくだろう。暁学園前という駅名だが、学校は駅前にあるわけではない

学校のどこに行くかによるが、徒歩で10~15分の距離である。そして地図に学校に隣接するように萱生(かよう)城が見えるが、こちらが駅の成り立ちにも大きく寄与している

当駅の開業は1931年(昭和6)。当時の駅名は「萱生」。所在の自治体は前記事で紹介した平津駅と同じく八郷村だった(現四日市市)。萱生城は戦国時代の城で織田信長の攻撃に5年も持ちこたえた立派な城だったという。落城後は廃城となり、長らく跡地となっていたが、三岐鉄道が利用者増のため誘致活動を行い1965年に萱生城跡に移転。同時に駅名も現在のものに変更された。つまり城跡は学校となっている。ただし学校の住所は今も四日市市萱生町。

また三岐鉄道では学校周辺の宅地開発も行い、地図をやや拡大すると分かるが、周辺の住宅地は「あかつき台」という住居表示となっている

ターミナル駅の雰囲気が漂う

利用者数に応じるかのように駅の規模は大きい

改札口は大人数を効率良くさばけるよう広くとられている。ホームの向こうには農地が広がり、周辺も農地が多いが、駅に着いて駅舎内と改札付近の様子だけを見ると地方私鉄のターミナル駅のような雰囲気がある

こちらが駅舎。駅舎は昭和の終わりに改築されたものだ

駅舎に隣接するあかつきプラザには売店や郵便局が入居している

ちょうど試験日だったのか、お昼前にもかかわらず下校の生徒さんが多い。間もなく到着する電車をめがけて一斉にダッシュする姿は(行動自体は好ましいものではないが)、高校の最寄り駅ならではの風景である

エアコン完備の待合室も広くとられている。電車が到着するたびに座っていた多くの高校生が出ていった

三岐線14駅の中で、たたずまいが大きく異なる駅である

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その16 ちょっと間違い探し

平津駅のホーロー駅名標

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

駅名標をながめた後に

平津駅にやってきた。近鉄富田から2駅目。線路での距離は4キロほど

島式ホームを歩いていくと構内踏切そして駅舎。お隣の大矢知駅と同様の構造だ

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スルーしそうになって「あれ?」

平津駅は1931年(昭和6)の開業。三岐鉄道の開業と同時に設置されたスタート組。当時は八郷(やさと)村。明治の町村制施行の際、平津村など8つの村が集まって自治体が成立しているので、おそらくそれにちなんだものと思われる。1954年に四日市市となった。駅から朝明川まではすぐで駅舎もそちらを向いているが、近鉄富田からわずか2駅という立地の良さに新興住宅街ができている

駅舎と逆側の南東側には宅地がズラリと並ぶ

線路側から見た駅舎は民家平屋風

こちらが正面からの姿。おそらく開業時からのものだろう。と思いつつスルーしようとしたが、駅名板で立ち止まってしまった

HEIDU?

ローマ字的にやや違和感がある。その前に撮った駅名標を見ると

HEIZUである。どう考えても「Z」が正しいと思われるが、隣駅の表記はOOYACHI。当該駅の記事でも少し触れたが、こちらは駅名標がOOYACHIで駅舎に掲げられた駅名板がOYACHIだった。JRと私鉄ではルールが異なるのかもしれないが、私の感覚では「O」は2つ要らない

他駅も確認

となると、ここは公式HPに登場していただくしかない。三岐鉄道のHPによると、平津は「HEIZU」、大矢知は「OYACHI」。つまり平津は駅名標が正しく、大矢知は駅名板が「正解」ということになる

実は各駅を訪ねているうち、他にも気になるところがあった

こちらは東藤原駅でお次は

西野尻駅。駅名に東西南北が付く時は方角の後にハイフンを入れるのが基本である。ただこれはあくまでも基本であって全国にはハイフン抜きの駅もよくある。これについては気にしなかったが、終点の西藤原に着いてみると

あれ?こちらはハイフンが入っている。というか急に小文字表記なんですけど

こちらも公式HPによると東西南北の駅はすべてハイフン入りだった。ここまで来るとついでにというか伊勢治田駅。旧国名が付く場合もハイフン入りが基本で

駅名標はそのようになっている。というか西藤原と同じく小文字入り表記だ。しかし駅名板はというと

分かりにくいかもしれないがハイフンなしである。もちろん?こちらも公式HPではハイフン入りである

ようやく駅に目を戻すと、こちらも「改札口」の文字とベンチがいい味を出している。よく見かけるが、意外と屋内で目にすることはないベンチである

思わぬ形での「間違い探し」となってしまったが、たまたま気付いただけの話で電車に乗って降りるという意味では何の問題もない。また公式HPを正解としたが、その時々で解釈が異なるのかもしれない。どこか牧歌的で、かえって健やかな気持ちになれた

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その15 駅名板の文字にしびれる

梅戸井駅の駅名標

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

修正の駅名標

近鉄富田の隣の大矢知から6駅西藤原へと向かい梅戸井(うめどい)駅に到着。島式の1面2線。サムネ写真でよくお分かりかと思うが、隣駅が修正されている。これは駅の移動と駅名変更が行われたためだが、それについては当該駅の項でお伝えしたい

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かつての梅戸井村に基づく

ホームから構内踏切を渡って駅舎へと入る。おなじみの光景だが、この時点で駅舎が見えているので期待が膨らむ

「とまれ」はいつからのものだろう。意外と新しそうで実はそうではないかもしれない。そもそも遮断機がいつからのものだろうか

「定期券拝見」。これも路線内で何度も見た。2つあるが、天井からぶら下がっているものがやはりいい

梅戸井駅は1931年(昭和6)の開業。当時の梅戸井村に基づく。梅戸井村は1954年に梅戸井町となって1959年に三里村と合併して大安町となった。現在はいなべ市である

駅の住居表示は「梅戸」。明治の町村制施行の際、周辺の南金井村などと梅戸村が合併して梅戸井村が誕生している。一帯はかつて梅戸氏が支配していて梅戸城を築いた。北勢線沿線を調べている時もそうだったが、現在の滋賀県や岐阜県と山を隔ててつながっている当地域には多くの城が築かれている。そしてほとんどが戦国時代に織田信長の侵攻を受けて落城した

お城の跡は現在、光蓮寺山公園として整備されているが、梅戸城は織田信長の攻勢を受けた際、廃城となっている。北勢線沿線の各地もそうだが、多くの地域が織田信長の侵攻を受けている。梅戸城の場所はどちらかというと大安駅の方が近い。梅戸氏はその後、織田氏の配下となった。もともとは「梅津」という名前で「うめづ」が「うめど」に変換されたともいう

駅舎の文字を凝視した

改札付近の様子。最近は都心にある駅でも無人が多く、私のように地方に駅巡りに出かけると大半というよりほとんどが無人駅なので、西野尻をのぞく全駅が有人そして自動改札機なしという三岐線の各駅は子どものころに見た風景を思い出させてくれて、なぜかホッとする

こちらは駅舎。アルミ補強されているが、おそらく開業時からのものだと思われる

そして思わず目が行ってしまったのは駅名板の存在

いつからの駅名板かは分からないが「梅」の文字は右側が「毎」ではなく「母」となっている旧字体だ。「駅」の右側については「尺」てではなく一部が欠けているように見えなくもないが、最初からそうだったようだ。これはさすがに目が釘付けとなる。これを見られただけで、ここまで来た甲斐があったというものだ

そしてもうひとつ

確かにおっしゃる通りです

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その14 古風な駅でじっくり機関車を見る

大矢知駅の駅名標

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

近鉄富田から1駅

大矢知駅に到着

近鉄富田から1駅目の駅。時間帯によっては区間運転もあるため、できるだけ奥(終点)の駅から訪問していきたいと思っていたので残る駅は近鉄富田に近い駅が多く、すなわち周辺は住宅街である

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地名の由来は

大矢知駅は1931年(昭和6)の開業。当時は大矢知村だった。当然といえば当然だが、三岐線の各駅は当時の自治体単位で駅が設けられていることが多い。1954年に四日市市となっている。先に紹介したかつての三岐朝明駅である現在の信号場も村内にあった。つまり近鉄富田駅の西側のかなり広い地域が大矢知村だった

構内踏切を渡り駅舎へと向かう。踏切と駅舎が少し離れているおなじみの光景。私鉄の駅は線路にビッシリ張り付くように駅舎が設けられていることが多いが、かつては貨物にも対応していた駅もあってス構内は比較的広く、古き良き時代の駅を感じさせてくれる

駅舎はおそらく開業時からのもの。三岐線はずっと独立した私鉄だが、古き時代は国鉄も私鉄も同じような感覚で駅舎を造っていたのだな、と感じる

さて少し分かりにくいかもしれないが、駅名板に書かれたローマ字を見ると「OYACHI」。私の感覚ではこれが一般的なローマ字表記なのだが、サムネや冒頭の写真を見ていただくと駅名標には「OOYACHI」と書かれていることが分かる。どっちやねん、と言いたくなるところだが三岐線では他にも同様のケースがあって、その時にまた紹介したい

大矢知の由来は三岐線とはきってもきれない縁となっている朝明(あさけ)川に沿った大きな谷と川による湿地帯という意味だとされる。当地が有名になったのは「久留倍官衙(くるべかんが)遺跡」の存在だろう

飛鳥時代から平安時代の初期にかけられて建てられた建物群で、当時の朝廷とのつながりの深さが分かる国の史跡で現在は遺跡公園として整備されている。当駅からは徒歩でも15分ほどの距離。ただし

ホームの周辺案内には表記がない。それもそのはずで詳しい調査が行われ多くの遺跡が見つかったのは北勢バイパスの工事が行われた2000年ごろでつい最近の話だ。地図で見るとバイパスが遺跡をまたぐようになっているのが分かる

交換停車の機関車が間近に

ホームには貨物用の機関車がやって来た。列車交換のための運転停止のようだが、こんな近くの触れるような場所で見られるのはローカル鉄道ならでは。JRのローカル線では貨物列車の運行がほとんどなくなっているので貴重な体験ともいえる。そちらのジャンルは詳しくない私も間近で見てみたい

「ED458」とプレートがある。調べると東武から譲渡されたもので

「昭和29年」の文字が輝いている。線路はこの先でJR方面と近鉄方面へと分かれるので、当駅での交換待ちとなるのか。なかなか良い場面に遭遇できた

手作り感があふれる

話を駅に戻すと

他駅でも見られるように当駅も手作りがあふれている

こちらは改札の全景

お手洗いはプレハブの新しいものとなっているが案内文字はそれ以前からと思われる手書きのものだ

そして駅舎裏には

駅名板が置かれていた。形から推察すると駅舎正面に掲げられていたものだろう。捨てずに残されていることに感謝である

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その13 観光結点として期待された

三里駅の駅名標

※訪問は2025年2月7日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

残り6駅

三里駅で下車。当駅を含め残りは6駅。三岐線は近鉄富田と旅客列車の走らない富田をのぞくと全14駅。列車本数は1時間に1~2本あるにもかかわらず当地訪問3回目でまだ8駅とは随分遅いペースだが、北勢線の訪問も含んでいる上、楽しい駅が多すぎてついつい長居してしまったり、廃駅訪問も含んでいるのでゆっくりペースとなっている。現在の時刻は9時20分。さすがに本日のお昼過ぎには終わるだろう

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惹かれる駅舎

構内踏切を渡るいつもの光景。実は当駅は内と外では随分景色が異なる

円筒型の駅舎はちょっと斬新だが、それも古い感じが漂うあたりがまたいい

三里駅は1931年(昭和6)の開業。三岐鉄道が富田~東藤原を開通させた時に設置された1期生。当時は三里村。三里村は1959年(昭和34)に大安町となり、現在はいなべ市

と書くと駅の歴史はこれで終わってしまうのだが、実は駅名変更が行われたことがある。1968年に「宇賀渓口」と改められた。宇賀渓とは多くの滝があり、キャンプでもにぎわう観光地。その名を駅名にするということは最寄り駅として認定されたことになる

ただし「○○口」という名前は実際の場所から離れていることは当ブログのバスによる訪問で何度もお伝えしている通り。バス停なら歩ける距離にあるが、そもそも渓谷がこのような平地の駅近くにあるはずもない

宇賀渓の入口まで車で10分ほどの距離なのですぐといえばすぐだが、歩いて行く場所ではない。ではなぜわざわざ駅名変更をしたのかというと、当駅が宇賀渓へと向かうバスの発着所となったからだ。もちろん運行は三岐鉄道バスである。当初はかなりにぎわっていたようだが、60年代終わりといえばモータリゼーションの波が全国に普及していたころだ。宇賀渓谷の最寄りとしての当駅は、まずバスの発着が大安町(当時)の中心地で駅前広場も大きくなり、駅名が大安駅へと変更となった86年に大安駅からの発着となり、最寄り駅ではなくなった。駅名も三里に戻された。そして現在、宇賀渓へのアクセスはほぼマイカーとなっているようだ。宇賀渓観光案内所のHPには160台の駐車場に加えて満車時は臨時駐車場も利用できる旨が告知されている一方、「バスなどの交通機関はありませんので大安駅または三里駅からのタクシーをご利用ください」と記されている

円筒型駅舎の理由

駅舎について「古い感じが漂う」と書いたが、それは雰囲気だけのもので現駅舎は2004年(平成16)に改築されたもので、そう古くはない

駅舎には「博物館 三岐鉄道車輌大図鑑」の文字がうっすら残る。駅舎が改築された際、2階が博物館としてオープンした。ただし文字から想像できるように現在は閉館している

こちらは駅舎内と改札。見て分かる通り、なかなか快適な空間だ

ホームの周辺案内は真新しい。更新がいつのもので、以前の内容は分からないが、宇賀渓が入っていないことだけは間違いない。観光地への最寄り駅に博物館。歴史を紐解くと興味がわいてくる、そんな駅である

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