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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その4(茨城最北に到達)

大津港駅の駅名標

※2024年7月2日

北茨城市の3駅はすべて乗下車

なおも常磐線を北上して高萩で下車。常磐線を走る2つの特急のうち[ときわ]については当駅が「北限」となる。また水戸方面からの普通列車も半分程度が当駅折り返しとなるため、昼間は当駅以南が1時間に2本、以北が1時間に1本となる

そして高萩を過ぎると福島県と茨城県の県境である北茨城市に入る。同市にはJRの駅が3つあるが、関西からだと意外と降りるのが難しい駅だけに、ここはすべての駅を訪問することとする

南中郷駅は無人駅。常磐線は都内からずっと有人駅が続いてきたのだが当駅で1度途切れることになる。とはいえ1日に約1000人の利用がある駅で数年前まではみどりの窓口も設置されていた

磯原駅は北茨城市の中心駅。特急「ひたち」も停車する。基本的には1時間に1本のひたちだが、高萩に停車するタイプは磯原を通過、磯原に停車するタイプは高萩通過と、両駅で停車駅を半分ずつシェアする形となっている

乗車券を買っても途中下車はできないのだが山手線内までの運賃は3080円。かなりの距離を進んできたことを実感する

特急停車駅で駅舎内に北茨城の観光案内所も設置されている磯原駅だが、ホームへの階段付近で工事をしているので何気なくのぞいたところ

文面をそのまま解釈するとホームと橋上駅舎の改札を結ぶエスカレーター廃止の案内。1日の利用者が約3000人ある特急停車駅でエスカレーター撤去というのは初めて見た。経費削減はここまで来ているのか、という印象だ

茨城県最北、最東の駅

そして到着したのが

大津港駅。お隣が勿来であることから当駅が茨城県最後の駅だということが分かる。ちなみに茨城県最北端の駅であり、最東端の駅でもある

立派な駅舎を有する。駅舎の入口は駅名標にも描かれている六角堂を模したもの

六角堂はこの地を愛した岡倉天心の設計によるもの。東日本大震災の津波によって消失したが、後に再建。同じタイミングで駅舎もリニューアルされた。北茨城市の観光地は当駅を最寄りとする場所が多い

木目調の重厚な駅舎とピカピカの駅名板が目を引く

1897年(明治30)に「関本駅」として開業。当時駅の所在地だった関本村に基づく

六角堂の所在地は当時、大津町にあり最寄り駅と自治体は別だったが、1950年(昭和25)に自治体名ではなく「大津港」として駅名を変更。1956年の合併で北茨城市が誕生したため、同じ自治体となった。ちなみにこの北茨城市は当初、「茨城市」となることが決まっていたが、県内には先に茨城町が誕生していて、県庁所在地と間違われやすいのではないか、など混乱しかねないとの理由で「茨城市」として発足した後、同日中に北茨城市と名称変更されたという経緯を持つ

お昼を食べながら地元の方々と会話

さてこの北茨城市の3駅にたどり着くころはちょうどお昼時で、おそらく磯原駅がランチにありつきやすそうだったが、ダイヤ的にどうしても1時間の空きができてしまう大津港駅周辺でお昼とすることにした。ネットで評判の徒歩10分ほどのお店に着いたら営業しておらず、通りかかった地元の方に「この冬に店じまいしたよ」と教えられぼう然。駅前にはセブンイレブンがあるので、またいつものコンビニおにぎりかと覚悟したが、喫茶店を見つけて一安心

暑さにアイスコーヒーをまずガブリ。ピラフをいただいてお腹も気持ちも満たされた。このまま鈍行のみで青森を目指すと言ったら「はぁ~?」と予定調和の反応。ただこういうお店では地元ならではの話が聞けて楽しい

「いわきはここより暑いので気をつけて」と言われるので意味を訪ねたら、北茨城市では道路整備によって海からの風が直接駅の近くまで届くようになったので涼しくなった、とのこと。やはり地域的には県をまたいだいわきとのつながりも強いようで、年配の方は「平」という言葉がよく出てくる

単に駅間距離だけの話にもなるが、大津港から福島県側の最初の駅である勿来までは4・5キロなのに対し、同市内である磯原までは7・1キロもある

こちらは駅舎内の様子(写真は到着時のもの)。「電車が出発したらすぐ福島県だから」と送り出された。確かに県境である大津港止まりの列車は最終の1本のみしかない

観光案内図も福島県側とセットとなっている。こうした地域間のつながりは駅に降りてみないと分からないもの。こんな体験をすると「降りて良かった」と思うのである

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博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(前編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

「山手」のイメージとは

「山手」という地名から何をイメージするだろうか。鉄オタ的感覚は別として一般的に思い浮かぶのは高台にある住宅街だろう。高級住宅街に代表されるようなかなり古い地名もあるし、新たに造成されたニュータウンのような場所もある

鉄道的には山手線(やまのてせん)を知らない人は日本中で探しても、かなり少数派だろう。こちらは大都会を支える東京の基幹路線となっている。駅名を見ると有名度は地域によって異なるかもしれないが「山手」(根岸線)、「松井山手」(片町線)、「甲南山手」(東海道本線)と、いずれも住宅街の駅。共通して言えるのは戦後にできた新しい駅だということ

という認識のもと、今回降り立ったのは福岡県の篠栗線にある筑前山手駅である。開業は1968年(昭和43)と、こちらも戦後生まれの駅という共通項がある

先に駅の運賃表を見てみよう

博多から7駅の篠栗線の駅。篠栗線は福岡の最中心部である博多から1駅の吉塚から分岐する路線だが、筑前山手を発着する電車はすべて博多まで直通する。所要時間は25分、運賃380円とアクセスも良い

篠栗線には快速が走っていて当駅は通過するが、それでも全く困らない本数は確保されている

待っていたのは眺めの良すぎる棒状駅

ということで到着。見て分かる通り棒状ホームだ。この日は博多とは逆側からの訪問となったので電車は博多行き。これだけで雰囲気は分かりそうなものだが、電車が過ぎ去った後のホームからの景色は

山と高規格の自動車専用道が見えるのみ。逆側を見ると

山あいののどかな風景を見下ろすことができる

横浜の山手駅は一度しか訪れたことはないが、神戸の甲南山手駅はご近所だし、京都府の松井山手駅は仕事の関係で何度も訪れたことがある。いずれにせよ、この3駅とは随分と異なるようだ。少なくとも住宅街ではない

写真で分かる通り、ホームはかなり高いところにある。まずは下まで行かなければならない

ホームの真ん中あたりに「改札」があるが、ICリーダーと運賃表、時刻表があるだけの無人駅である。エスカレーターやエレベーターといったバリアフリーはないようだ

かなりの段数になりそうだが、ウサギさんに見送られて階段を降りていくことにする。といっても必ずまた昇ってこなければならないのだけど

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる4~大いにバズった駅でのフレッシュな感覚

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

国道が国と市の境界

雨の中を国道まで出てみる。駅とほぼ隣接するようにビュンビュン車が走る国道10号が並行している

これが国道から見た駅の待合室の様子。後に触れるが、右奥に進んだところが下り線ホームの入口。かつて駅舎があった時代があり、写真の中央部に建っていたとされるが、私は資料を見つけられず、現地で痕跡も探せなかった

そして国道に出る

「西屋敷駅前」という交差点がある。押しボタン式。話はそれるが、押しボタン式信号というのは、押してしばらく経ってから横断歩道が青になるものと、押した瞬間に青になるものに二分されるが、地方に行くと圧倒的に後者の方が多い印象だ。渡る人が少ないからだろうか。この後も2度ほどボタンを押すことになったが、すべて利用者は私のみ。何か申し訳ない気持ちになってしまう

宇佐駅や宇佐神宮への案内表示もある。国道沿いにある左の建物はレストランで、その奥にはラーメン店。訪問時は9時で、まだ開いていなかったが、どちらも現役の店舗のようだ

そして駅と店舗は所属自治体が異なる

西屋敷駅は宇佐市なのに対し、店舗は杵築市である。立石駅の紹介で立石峠を豊前の国と豊後の国の境界と記したが、厳密には峠を下りたこのあたりが国境というか、峠を下りた西屋敷駅付近まで杵築市が食い込んだような形となっている。国道が市境になっていて、雨が激しく歩を進めることができなかったが、国道沿いに国境の碑があるのは、そのためだ

SNS上で話題を集める

さて、この西屋敷駅。昨年SNS上で主役の駅となったことがある。出張で当地を訪れた方が逆方向の電車に乗ってしまい、それに気付いて慌てて降りたのが西屋敷。明るい時間帯だったが、あまりの何もなさと逆向きホームへの移動地下通路の不気味さを投稿したところ、大いにバズって、さらには有名ユーチューバーも後に現地訪問して「凄いところだ」となった

実際には下り線ホーム(大分行き)で降り、上りホーム(小倉行き)へ移動したそうで、私の行動は逆というか乗下車はともに上りホームだったので、上りホームから下りホームへの移動を体験してみた

まず上りホームから下りホームを眺める。写真の右手が国道方面。上りホームからはすぐだが、下りホームの先端はかなり遠くにあるように見える

国道方面へと歩くと、記事の最初の写真の右端にある分岐点へ

国道とは逆方向に。そこには巨大水たまり。これはバズったSNSにもユーチューブにも出てこなかったが、現実的にはかなり前進意欲をそぐものだった

ただ、ここまで来て行かないという選択肢はないので左手を見ると(真っ直ぐ行くとナゾの空き地)

これが下りホームの入口。カーブミラーが丁寧に付いているのが、ちょっとウケた。二輪車の通行ならあるかもしれない

そして何の表示もないが、これが下りホームへの出入口

ちなみにホーム方面の階段を利用せず、真っ直ぐ行くと

田園地帯が広がる。足下はかなり悪いが、いわゆる「自由通路」である

これが下りホームから通路へと至る歩道部分で確かに遠い。最初に下りホームで降りると不安でいっぱいになりそうだ

あらためて知った普通の感覚

ユーチューブでも、駅の構造や本数の少なさが詳細にリポートされていた

ただし私の感じでは、地方の駅にありがちというか、あっても別に不思議ではない構造である。本数が少ないとはいっても1日に10往復以上がある。バス路線は駅付近にはないようだが、その気になれば宇佐駅まで50分ほどで歩けるし、駅の近くには飲食店もある。食事もできるし、頼めばタクシーも呼んでくれそうだ。いわゆる「秘境感」はない

それでもSNSでの投稿やユーチューブを拝見して知ったのは「一般的な普通の感覚」だ。いつの間にか自分自身、このぐらいでは何も感じなくなってしまっていることを改めて教えられた。この記事を読んでくださっている方も、どちらかというと私寄りの人が多いのかもしれないが、考えてみれば1両編成の単行列車に驚く人や、電化と非電化の区別が分からない人も普通にいるのだ

上りホームの「昭和14」の待合所へと戻る。ここには日豊本線でたびたび見かける青い駅名標がある。1時間はあっという間に経過した。ちょっとフレッシュな気分になってやって来た電車に乗る。もっとも下車時と同じで乗車は私一人のみだったけど

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安芸高田市「お太助バス」で三江線の駅跡を目指す

式敷駅で出発を待つバス

※訪問は2024年4月3日

予報通り朝からの雨

芸備線で三次まで到達した翌朝の三次駅。この日はあいにくの雨で、朝7時すぎのこの時点では、それほどの雨でもないが、天気予報によると終日降り続き、ときおり激しい雨になるとか

この日は福塩北線で未回収の2駅を訪問する予定だが、長い昼休みがある福塩線はダイヤ的に午前と午後に分けて訪問せざるを得ない。その合間の時間を利用して旧三江線の駅跡を訪れることに。2年前も同様の行程で

船佐駅そして

長谷駅を訪れたが、今回はバスの終点まで行くことに

三次駅前を10時2分に出る安芸高田市「お太助バス」。これで式敷駅跡まで運んでくれる。写真でも分かる通り、雨はかなり激しくなっていた

駅の所在地となると三次からの三江線は4駅目の船佐から安芸高田市に入り、式敷までの4駅が安芸高田市。お次の香淀で再び三次市となるが、たった1駅で島根県へ。と思ったら3駅を経て再び三次市となり、そこから再度島根県となる。江の川沿いに芸術的に敷設されていて、市境や県境を複数またぐためだが、いざ廃線となっての代替バスとなると自治体単位での住民サービスの側面があるため、鉄路と同様にバスで、というのは、なかなか難しい。三次駅からは三江線沿線へのバスがあるが、江の川が市境になっていることもあって、三次市沿線と安芸高田市沿線では別路線となっている

式敷駅に到着

道中、長谷駅の前を通過したが階段を上がったところにあった味のある駅舎は姿を消していた

2年前は駅舎内にも入れるようになっていてバスの待合所の役割を果たしているのかと思っていたが、バスの停留所から微妙に離れた位置にあるため、役割を終えたと判断されたのか

そして約30分で式敷駅に到着。駅舎もそのまま残っている

駅名標は外されているがホームと線路はほぼ当時のまま。三江線では貴重な列車交換のできる駅だった。三次側からの三江線は1955年(昭和30)に当駅までやって来て、8年間終着駅だった

式敷という地名には後鳥羽上皇が立ち寄った際に使用した敷物に由来するという

1面2線の島式ホームと、もう1本の線路と貨物ヤード(この付近を貨物列車が走ったことはないようだが開業時に準備されていたようだ)があり、こちらは立入禁止の柵がなかったので上がってみる。こうして見ると急速に自然に還りつつあるようだ

いろいろ計画したものの

今回、当地を訪れることを決めてから、いろいろと行程を考えてみた。まず最初に思いついたのは江津方面の隣駅となる香淀駅訪問。三江線は式敷駅を出た後、江の川を渡り再度三次市に入るが、江の川沿いに大きく弧を描くので式敷からの直線距離は意外と近い

国道をショートカットすれば徒歩も十分可能な距離で、香淀まで行けば三次駅からの別のバス路線がある。三次行きのバスは13時ごろなので、時間的には余裕がある。ただしこの部分はほとんどがトンネルとなっていてトンネル内の徒歩環境は行ってみないと分からない

三次駅のバス時刻表。私が乗車したのは式敷三次線で、その下にある川の駅三次線が香淀に向かう路線。ともに1日5往復と本数はある方だ

もうひとつは、もっと簡単で、お太助バスが式敷駅で50分ほど待機する時間を利用して三次側の隣駅である信木駅まで行く行程。この駅間は近く、30分もあれば十分に歩ける。道路もほぼ一本道。信木駅は川沿いの低地に器用に設けられ、立派な駅舎はなかったが「川に近い駅」だった

雨の予報に、それぞれプランA、プランBとしたが、結論から言うと、あまりの激しい雨にすべて中止。残念ながら、ちょっと歩く気にはなれず、江の川を渡る式敷大橋の近くに行くこともかなわず駅舎で待機となった

駅舎内の様子。お手洗いもあるので雨でも過ごすには問題ない。駅前の商店は営業はすでにしていないようだが、自販機はちゃんとあって(しかも100円自販機)、暖かいコーヒーはいただくことができた

こちらはバスの時刻表

駅には「三江線 式敷駅 1955~2018」のスタンプがあり、デザインは名産の柚子(柚子の産地については三次市となる香淀駅からの方が近いようだ)

三江線沿線のバスについては、線路的には広島県の飛び地となっている伊賀和志駅方面への路線もあり、こちらは島根県内となる口羽駅付近も通る。便によっては石見都賀駅まで達するようである。次回は他の路線バスも利用して訪れてみたい

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~「上り列車」しかない途中駅が終着

安房鴨川駅の駅名標

※2022年12月17日

ゴールはちょっとあっけなく

太海からひとつ進んで安房鴨川に到着。内房線の終着駅で前日から始めた内房線の木更津以南の全駅訪問のゴールである。階段でも「お出迎え」があった

ただ個人的には「ようやく着いた」という達成感はあっても、駅構内の風景に感慨は生まれにくい。というのも乗車してきた電車は外房線の上総一ノ宮行き。現在、内房線を走る列車は木更津~上総一ノ宮の直通運転がほとんどで安房鴨川で多少の待ち時間はあるものの、内房線と外房線を乗り越す際、なにごともなかったように去ることになるからだ。「終着駅」ではあるが途中駅。東海道本線と山陽本線の境界駅となっているが、始終着がほとんどない神戸駅のようなものである。2021年3月、コロナ禍のまっただ中、新型車両の投入と同時に直通運転、ワンマン運転がメインとなった

ただ房総半島をグルリと回る内房線と外房線の特殊な事情から、安房鴨川は「当駅を出発する列車はすべて上り列車」というユニークな特徴を持つ。これは房総半島の東側と西側でそれぞれ少しずつ延伸されてきた「房総線」が安房鴨川でつながった後、あらためて「房総東線」「房総西線」(戦後に現在の名称に変更)という2つの路線に分けられたからだ。前者が千葉が起点で終着は安房鴨川、後者は蘇我が起点で終着は安房鴨川と、安房鴨川が2つの終着駅となったため、安房鴨川から出る列車はすべて上り列車となっている

安房鴨川駅の開業は1925年(大正14)。線路が太海から1区間延伸されてたどり着いた。現在の外房線がやって来たのは、その4年後である。もちろん拠点駅。周辺は鴨川市の中心部で、経済だけでなく観光の拠点駅となっている

全国ニュースで取り上げられることも鴨川シーワールドまでは無料の送迎バスで10分。天候に恵まれれば、歩いても行ける距離にある。またかつては駅裏の印象が強かった西口にはイオンができている

変化の30年

そのイオンがある西口が長距離バスの発着場になったことで発展した場所でもある。安房鴨川から千葉、東京までは外房線の特急「わかしお」を利用するのがメインルートだったが、90年代に入ってわかしおが京葉線経由となり、千葉に立ち寄らなくなったあたりから潮目が変わり始める。アクアラインもできて車との競合も増える。鴨川から県都の千葉へは長距離バスのカピーナ号、東京へは八重洲口、渋谷への便もあり、私も、訪問の数ヶ月前の夏にお世話になったことがある

久留里線の末端にあたる、閑散区間の3駅を通って千葉もしくは東京に行くことができる。このバスがなかったら、その3駅訪問を試みようとはしなかったかもしれない。内房線や外房線だけでなく、久留里線にとってもライバルとなっている

安房鴨川はもちろん管理駅だが、昨年の1月をもってみどりの窓口の営業は終了した。その後、館山、浜金谷と、みどりの窓口が閉鎖されたため、内房線の君津~安房鴨川でみどりの窓口がすべてを消した。というか、所属が外房線となっている蘇我駅を除くと現状、120キロにも及ぶ内房線の全29駅でみどりの窓口があるのは木更津ただ1駅である

AKB48の「会いたかった」という曲があり、このMVは今も容易に見ることができ、那古船形駅がロケ地となっている。チラリとしか出てこないが、駅舎は現在の塗装ではない1918年(大正7)開業時のそのままの姿。メンバーが追いかける列車もいわゆる「スカ車」である。AKB48というと、ついこの間のことのように思えるが、リリースは2006年10月で17年前。たった17年というか、わずか17年というか、走る電車を見るだけで隔世の感がある

帰路につく。わかしおを利用。安房鴨川~東京と完乗するのは、これが初めて。もちろん自由席だが、こちらも今春に全車指定席という変革がある。また内房線、外房線から京葉線経由でダイレクトに東京を目指す朝の快速廃止問題は、もはや全国ニュースである

ここからは青春18きっぷの出番はない(新大阪に到着してから再登板するが)ので乗車券は大阪市内まで。この乗車券は年間にどのぐらい売れるのだろうか

東京着。18時ちょうど発の新幹線に乗車したが、この時間にホームに降りても駅弁を買ったりしていると、すぐ新幹線の発車時間となった

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本年もよろしくお願いいたします

今年の初詣

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします

元日のお昼前から初詣へ。まず訪れたのは六甲八幡神社。阪急の六甲駅のすぐ南にあり、JRの六甲道駅の途中にあり、阪急↔JRをショートカットする際の道路は神社に沿って進む形となります

徒歩10分となっていますが、ここは結構な坂道で阪急からJRに向かって歩くとずっと下り坂なので、徒歩に要する時間は2~3分は短くなります

参道は写真のように六甲道駅のすぐ北側にあり、いつもは阪急側からすぐ社務所に到達するのですが、参道から正式に参拝しようとすると

「ここが最後尾」の案内。好天に恵まれていたこともあって人も多く、50分も並ぶことになりました

さらに徒歩5分の春日神社へ

こちらは住宅街の中にある小さな神社。神戸市内にも「春日神社」はいくつもあって、日本にどれぐらいの「春日神社」があるのか分かりませんが、そのひとつ

阪神淡路大震災で大きな被害を受けましたが、樹齢500年の神木が健在です

3日は有名(正確には全国的に有名となった)な

弓弦羽神社へ

こちらも阪急とJRの間にあり阪急なら御影駅から5分ほど、JRなら住吉から10分ちょっと

八咫烏(やたがらす)をシンボルとしていることで、以前はサッカーの関係者が多く訪れる神社として知られる神社でした

こちらも阪神淡路大震災で深刻な被害を受けました

年明け早々にも大きな天災があり、最近の日本各地は自然災害と隣り合わせのようになっています。降雨被害についても、線状降水帯なんて言葉は一般的には知られていなかった。以前は台風だけに気をつけようという感じだったものが、今はそうではなくなっています

もちろん交通インフラとも無縁ではありません。戦前にできた多くの路線は、当時はほとんどなかった天災を想定されずにつくられているので、被災した時の影響も大きい

そんなことを感じながらも今年も多くの駅で降りてみたいと思っています

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三セクの優等生・伊勢鉄道を全駅訪問4~門前町「東」の高架駅

東一身田駅の駅名標

※訪問は2023年5月20日

伊勢鉄道単独の南端駅

東一身田駅に到着。F1の話をしたばかりだが、気動車のエキゾーストノードも良いもの

ご覧の通りの高架駅。毎回のように書いているが、伊勢鉄道は国鉄伊勢線が高規格で造られたため、高架駅が多く、運行や周辺を行く歩行者、自動車の妨げにならないよう踏切もほとんどない。というか、1カ所あるのみ

そして中瀬古以南は単線ではあるものの、将来複線化できるようスペースも設けられている

お隣は津駅なので、伊勢鉄道単独駅では南端にあたる駅でもある。ただ南端といっても伊勢鉄道の単独駅同市で完結する列車の設定はない

3つのアクセス駅のひとつ

さて「東」が付くのだから、付かない一身田駅があるのではないかと思うかもしれないが、その駅は伊勢鉄道にはない。一身田はJR東海の紀勢本線の駅。紹介が遅くなったが、一身田は難読駅のひとつとして知られる。「いしんでん」と読む

そのJRの一身田駅

無人駅ながら華麗にして荘厳な駅舎を持つ(訪問は2022年3月)。紀勢本線の駅でも駅舎のバス停化は進むが、こちらの駅はおそらく大丈夫。一身田は真宗高田派総本山専修寺(せんじゅじ)の門前町だからだ。駅の開業は1891年と明治24年生まれ。現在の駅舎も1923年と大正12年からのもの。たまたま下校時で写真に生徒さんが写っているが、高田中学・高校の最寄りで利用者は多く、2021年のデータは1日2396人。利用者が多い時間帯などでは駅員さんが派遣される。ちなみに駅名は「いしんでん」だが、地名は「いっしんでん」。東一身田も国鉄伊勢線の駅として誕生した(1973年)ので「いしんでん」を採用している

一身田地区をはさむ形でJRの駅と伊勢鉄道の駅がある形

駅にも地図と説明があった

もうひとつの駅も

東一身田駅は一身田駅とは、あまりに対照的な無骨なコンクリート高架駅。国鉄時代から姿は変わっていないが、昭和40年代にこれだけの高架設備を造ったのだから、それはなかなかのものだと思う

駅舎と呼んでいいのかどうか、高架下の階段を昇っていくとホームに出る

ちなみに専修寺を目指すには、もうひとつ近鉄名古屋線の駅がある

東側にある高田本山駅。元々は「一身田町」という駅名で大正期に開業したが、間もなく現駅名となっている。こちらは専修寺からは離れる形にはなっているが、通学も含め、当駅の利用者も1日1413人。JRや伊勢鉄道に比べ、普通のみの停車ながら列車本数の多さが圧倒的に違う。現状では東一身田は他の2駅と比べると桁数が異なる利用者数となっている

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牟岐線の木造駅舎紹介7~高校野球の思い出

桑野駅の駅名標

※訪問は2019年10月26、27日

最初の終着駅

阿南から先は2時間に1本と本数の少ない区間となるが、少なくとも現時点ではこの区間の方が駅舎は残っている。もちろん将来は分からないが

本来は徐々に南下しながら紹介したいところだが、少し飛ばした上で2駅紹介したい。というのも私の写真の管理が悪く、合わせて5枚の写真しか残っていないからだ

まず1駅目は阿南から3駅先の桑野駅

ロクな写真がなくて申し訳ない

駅前に駅は1936年に開業。前回そして前々回でも紹介したが、国鉄によって那賀川を渡ることができた鉄路の最初の終着駅。この後、牟岐線は戦時中の1942年までに牟岐までレールを延伸していくことになる

周辺は比較的大きな町が広がっていて駅前には、かつての旅館と思える建物もある。特筆すべきは「徳島県南部健康運動公園」の最寄りだということ。野球場、陸上競技場、テニスコートなどがそろう総合運動公園。2007年開業の野球場「JAアグリあなんスタジアム」では高校野球の公式戦も開催される

駅舎はおそらく開業時からのもの。無人駅だが、10年ほど前までは有人駅だった。特急「むろと」の停車駅で朝夕には2・5往復の当駅始終着の列車が設定されているが、牟岐線内の途中駅で始終着が設定されているのは、当駅と阿南、牟岐の3駅のみ。通勤通学時の需要を考慮したものだと思われる

甲子園で旋風

お隣の駅は新野

線路と平行して入口がある構造。牟岐線は桑野延伸の翌年に新野、阿波福井と2駅分だけが延伸されたが、当時からの駅舎で、JR民営化後に手が入った駅舎が多い中、こちらは板張りで当時の面影を色濃く残す

当駅は阿南光高校新野キャンパスの最寄り駅。阿南光といえば2021年の夏の甲子園に出場したが、2019年までは新野高校という名前で春夏の甲子園にも1度ずつ出場。そして両大会でジャイアントキリングを起こしている

1992年のセンバツでは初戦で横浜高校と対戦。下馬評ではもちろん横浜有利だったが、部員わずか18人の新野が終盤に一挙6点を挙げて7-3で逆転価値。「タケノコ旋風」と呼ばれた。1996年の夏の選手権にも出場。92年のセンバツはテレビで見ているだけだったが、96年は現場で担当として見ていたので、よく覚えている

対戦相手は明徳義塾。ともに初戦を突破しての2回戦で四国同士の対戦となったが、こちらも下馬評は圧倒的に明徳義塾で試合も7回まで3-0で明徳義塾がリード。「誰の原稿を書けばいいんだ」と考えていると、新野の無死一、二塁からのバスターエンドランなどが決まるなど、あっという間に同点そして9回に勝ち越し。その裏、明徳義塾の信じられない走塁もあって一死一、三塁から一死満塁のピンチを魔法のように0点で凌いで逃げ切り勝ち。私はもちろん、甲子園全体が「!」「?」の空気となったのを昨日のことのように覚えている

阿南光として出場した2021年の大会では、定年で最後の指揮となった中山寿人監督が甲子園までチームを導いた。私も大変お世話になった方だけに現場まで行きたかったがコロナ禍で自粛。電話だけにとどめた。「最後の最後でいい思い出をいただけました」と語られた電話口が印象に残る

その新野駅は、かつての島式ホームの1面がつぶされて単式ホームとなっている。こちらも1日1往復の特急が停車する。阿南光高校の最寄りとあって利用者数は桑野より多いが、1面をつぶしたおかげで構造的に折り返し運転ができないようだ

高校野球の思い出が多い両駅である

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新幹線単独駅巡り再び~旅情を誘う星座の駅

新花巻駅の駅名標

※新幹線単独駅ではありませんが初訪問なので記事に加えます

2023年3月2日17時20分

請願駅として開業

いわて沼宮内からIGR岩手銀河鉄道で盛岡に向かった後、再び新幹線に乗車して再南下

新花巻に到着しました。周囲は夕闇に包まれつつあります。駅名から想像できるように花巻とは別の場所に設けられています。東北新幹線が計画された時、一ノ関と盛岡は最初から駅が設置されることが決まっていたのですが、ともに主要駅である北上には駅が設けられたものの、花巻には設置されませんでした。北上と花巻がわずか13キロしかないことが原因でした。北上~盛岡は48キロ、花巻~盛岡は35キロで距離感も考慮されたようですが、この決定は地元で猛烈な反発を招き、国鉄は将来的な駅の設置を匂わせる形で東北新幹線の開業にこぎつけ、1982年の開業直後から新駅に向けたプロジェクトがスタート。わずか3年後の1985年に地元の出資による請願駅として水沢江刺とともに開業しました。水沢江刺駅の項でも触れましたが、両駅は新幹線請願駅の第1号です

設置場所は釜石線と交差する場所となり、駅名も新花巻ですんなり決定しました

花巻とはJRで2駅、車でも10分ほどの距離です

釜石線への導線がすごい

改札に行くと目につくのが釜石線への乗り換え案内。大きいとはいえない改札を出ようとすると「これでもか」というほど釜石線への導線が。こうして写真を見るだけで4点もあります。これは迷いようもないでしょう

新幹線から見た釜石線の線路。ローカル線感が漂いますね。このあたりは雪はそうでもありませんでした。地形のことや気候のことは分かりませんが、盛岡以北と以南で随分と違うのですね

外の通路の先は

では在来線へ向かいましょう

導線に導かれると釜石線への連絡は駅の外。これは面食らいました。新花巻は新幹線と釜石線が交差する場所にあるので、完全に合体した駅となっているものと思い込んでいた

通路の先の地下道をくぐると釜石線のホームに出ます。こちらは無人駅。新幹線の駅を設置する際、近くにあった矢沢駅を廃止して新たにこの場所に新花巻駅を誕生させました

単式ホームなので乗り間違いのないように釜石方面と花巻方面を分かりやすくしています。このあたりは北陸新幹線と小海線の交差する佐久平駅と同じです

釜石線は2時間に1本程度の運行。新幹線は1時間に1本の運行なので連絡は決していいとは言えません。花巻へはバスも出ています。バスの時刻の調べ方や乗り方は意外とハードルが高いものですが、新幹線駅には観光案内所も設置されているので、問題なく花巻に行けるはず

のれんに見送られ

在来線の駅名標は手の届かないところにあります。釜石のアピールも

釜石線の各駅には花巻出身の宮沢賢治がよく用いた国際人工言語のエスペラント語による愛称が付けられていますが当駅は「ステラーロ(星座)」

新花巻の駅舎は宮沢賢治の代表作「銀河鉄道の夜」に基づくものとなっていて

駅には宮沢賢治についての解説もあります

再び新幹線に乗車する時は温泉ののれんによる見送りがあります。いかにも新幹線駅という、あまり愛想のない無骨な駅も見どころですが、細かいところで旅情を感じさせるこうした駅もいいですね

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悲運の岩徳線を行くその6~駅舎に意気消沈も思わぬ幸運

西岩国駅の駅舎内

2022年10月3日12時30分

悲運の象徴

西岩国に到着しました

岩徳線はまず1929年に岩国~当駅の1区間だけが開業。この時点で将来は山陽本線となることが決まっていたため、それまでの岩国駅を麻里布駅に変更し、新設された当駅を岩国駅としました

その後、徳山側(正確には櫛ヶ浜側)からも徐々に工事が進み、岩徳西線と命名されましたが、麻里布~岩国の岩徳東線は全通時までの5年間も1区間だけの運行が続けられていました。東側が最後に残ったのは欽明路トンネルの工事に他ならないのですが、1区間だけをこれだけ長期運行するのは、それだけ重要だったことになります

ちなみに麻里布は現在も岩国駅の所在地で住所はまさに「岩国市麻里布町1丁目1番地」。ただ当時、岩国市はなく麻里布町という独立した自治体で、すでにあった岩国町の中心部付近に設置されたのが岩国駅なので、麻里布駅への改名と新駅が岩国駅を名乗ったのも自然なことでした(岩国市岩国という住所は錦帯橋付近です)

再改称となったのは麻里布町や岩国町などが合併して1940年に岩国市が発足してから。麻里布町の麻里布駅も岩国市に存在する駅となり戦時中の1942年に再び岩国に名を戻し、岩国駅は西岩国に。その後、山陽本線から岩徳線になり、現在に至る。岩徳線の悲運の象徴のような駅でもありました

ただ幸運だったのは、岩国駅としてスタートしたため立派な駅舎となったこと。終戦前日の1945年8月14日の大空襲で岩国駅は消失しましたが、西岩国駅は残りました。価値ある建物ということで現在は岩国市がJR西日本から譲り受け所有しています

予想できない事態

そんな西岩国駅は…と解説していきたいのですが

改札から外を見ると何やら足場のようなものが見え、雰囲気がおかしい

外に回り込むと

泣くしかない

改修工事中でした。一気にやる気をなくしてしまい、その後は以前紹介した

錦帯橋観光に変更。写真や中身はややダブりますが、お昼過ぎながら岩徳線の駅巡りはもうヤメ。自分の考えていたコースだと、駅間徒歩が生じる上、回り終えるには日没ギリギリです。この日は錦帯橋のふもとで子供たちが水遊びをするほど暑かったのでヘタレヤメの側面も大きい。何よりも欽明路の駅でやって来た列車を乗らずに見送ることになるなど、自らの道程に大いに問題ありです

貴重な場面に出会えた

ということで改めて出直すことにして岩国から山陽本線を広島へとたどっていくこととする

まずは岩徳線の玖珂駅の項でも触れた和木駅

開業して15年の新駅にして山口県最東端の駅。現在、玖珂郡には和木町しかありませんが、かつては今日立ち寄った玖珂駅と同じ郡だったと思うと広さを感じます

そして広島県に入って最初の駅である大竹駅。こちらは広島県最西端にして最南端

見ただけで説明は不要の昭和40年代の国鉄コンクリート駅舎。全く知らなかったのですが

新駅舎の建設中でした。橋上駅舎となって両側から駅に入れるようにするとのことで、駅舎のおかげで逆側から駅に入りにくくなっているのを解消するためには、やむを得ないこと

結論から言うと2月から新駅舎の使用が開始され、新駅ではみどりの窓口はなく、みどりの券売機となっているので、貴重な写真となりました。飛び出している「きっぷうりば」がいいですね

西岩国は改修中でしたが大竹は駅そのものが変わるということで、ある意味、改修工事に感謝です。ただ岩徳線のリベンジはしなければならないと思いつつ、帰路につきました

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