成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~雪景色旅のちょっとしたエピローグ

※訪問は2024年3月7日

駅前食堂のある風景

前日からの積雪が残る大糸線沿線だったが、不思議なことに有明駅あたりから雪の量は減って当駅付近はかなり少なくなっていた。この後、松本まで戻ったが松本に近づくにつれ、残雪量は増えていったので、前日の雪は松本中心のものだったようだ

安曇追分の駅前風景。2軒の駅前食堂があった。のれんが出ているので営業中だと思われる。旧国鉄の駅というのは町外れに設置されることが多く、そこそこの都市でも駅を降りてみたら何もない、ということが多く、そんな中で癒やされるのが駅前食堂。ただその風景も失われつつある。お客さんはいても後継者がいない、というのが大きな理由のひとつのようだ

なぜか私が

さて、なぜいきなり駅前食堂の話から始めたのかというと、安曇追分駅の駅舎内が「緊急駅前食堂」になったからである

前記事でも紹介した駅舎内の様子だが、実は写真はこの角度のものしかない。撮ろうにも撮れなかった。というのも私と同じ電車で下車したご婦人の3人組グループが持参のお弁当を広げて食べ始めたから。弁当といっても駅弁ではない。自宅で作ったものだ。もちろんお茶もペットボトルではなく水筒持参である。私も昼食のお時間だが、松本駅近くのコンビニで買った恒例のコンビニおにぎり。外は寒いので駅舎内でほおばる。同世代の男性1人、女性3人が駅舎内でランチタイムというシュールな光景。どこからどうというわけではなく会話になり、話を聞くと今日の朝、神奈川県からやって来たという。この駅近辺の一体どこへ?と尋ねると、ある施設の名前。名前だけなら私も知っているが、徒歩ではちょっと無理な場所だと推測できる上、そこって穂高駅からのバスがあるんじゃないの?

「どうやって行くのですか」と、おそるおそる尋ねると当駅からバスが出ているのだという。なるほど、で、バスは一体何時に?と聞くと

「知らない」

秒で答えが返ってきた。私のあ然メーターはあっという間に振り切れてしまった。そういえば駅前の停留所の時刻表なんて見た景色はなく、即お弁当を広げていた。「大丈夫?」と言うと「なんとかなるでしょ」の回答。もちろんここには観光案内所などないので、私が代わりに調べてあげた

「バスは次は○時○分発で降りるのは○○という停留所。ただ帰りは○時○分に乗らないと戻ってこられませんよ」

だが、出発のバスまではかなりある。「タクシーがあるでしょう」と聞かれたので「ここには常駐してないよ」。ついでにグーグル先生とナビタイム先生の両者による徒歩時間を調べると軽く1時間以上はかかるようだ。伝えると「わー、そんなにかかるんだ。ありがとう」とサラリ。決してつっけんどんな言い方ではなく、自然な感じだったので、それ以上私も突っ込まなかったし、とりあえず施設までたどり着けば、帰る方法は教えてくれるだろう

ただ私が感じたのは、ケセラセラ的な旅の原点である。私も成り行き任せの旅は好きだし、ブログ内でもケセラセラという言葉はよく使うが、さすがに列車の数がどのぐらいあるかは調べている。ましてや地方でバスに乗るとなると、事前準備は入念の上に入念である。今はスマホひとつあれば、沿線情報は入手できるし、タクシーも呼べる。自分の若いころはそうだったなぁ、と思った次第(ただ時刻表は必ず調べていた)

半年あまりでなくなったもの

松本まで戻ってしなのに乗り込む。あずさとの並びだ

手には大阪までのチケット。乗継割引の使用はこれが最後である。もちろん分かった上での購入

名古屋経由のしなのは数多くお世話になった乗継割引のひとつ。在来線特急が半額になることで、ちょうど駅弁代になる。これからは駅の立ち食いそば&きしめんで済まそう

こちらは前々日に新潟駅で買った青春18きっぷ。この時は新潟、松本、一ノ関、三ノ宮、三次と各地でハンコをもらったが、もうそれもできない。半年ちょっとで、長年私の旅を支えてきたものもすっかり姿を消し、ひとつの曲がり角を感じている

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~18きっぷ駅舎とホーム越しの絶景に旧駅名を思う

※訪問は2024年3月7日

リアルすぎる駅舎と財産票

有明のお隣の安曇追分に到着。この日最後の訪問駅だ。大糸線では安曇野市には9つもの駅があるが、最も北にある駅となっている。市内には篠ノ井線の駅も2つあるが、ちょっと意外なことに「安曇」が付く駅は当駅ひとつしかない。ちなみにサムネ写真の駅名標で分かるようにローマ字にすると「azumi」で、こちらは安曇野市も同様に「azumino」だが、ひらがなにすると駅名は「あずみ」で自治体名は「あづみ」となっている

ホームは島式の1面2線。ただ写真で分かるように上り下りでホームは固定されていない。構内踏切の駅でよくある形式だが、すれ違いがない場合は、駅舎と反対側のホームを使用して遮断機ができるだけ降りないようにしている

その構内踏切を渡って駅舎に入ろうとすると、いきなりこのような文字のお出迎え。手書きの明朝体が凄い。否が応でも期待は高まる

そしてまさに期待通りの駅舎。当駅は1915年(大正4)の開業。有明から信濃松川(当時は池田松川)まで延伸された際に設置された

この後の記事を読んでくれなくなるかもしれないので、書くのに躊躇してしまうが大糸線の古い駅舎というのは、数が少なくなっている。元々、ホームと待合所のみの駅が多いのもあるが、この十数年で新しく生まれ変わったり簡易化したりで、この後の記事では年季の入った木造駅舎はほとんど出てこない。その分、こちらで楽しんでいただきたい

JR東日本の駅では見かける機会が減っている財産票が当駅には残る。ただ残ってはいるが判別不能だ。「昭和」の文字の下に、わざわざ「大正」と手書きされているので、もちろん張られたのは昭和になってからだろうが、張ってから竣工期を書こうとしたものかもしれない。「財産票そのものが財産」のたまにある例だが、開業時からのものだと判断しておこう

分岐駅の歴史と絶景

かつて当駅からは池田鉄道という昭和戦前に12年だけ運行された幻の鉄道が運行されていた。鉄道の来なかった池田町への運行を地元有志が担ったものだが、痕跡はほとんどない。わずかに駅舎側にあるホームらしきものの小さい土台がそうではないか、と推察できるぐらい

池田鉄道については、また別の駅紹介で行う予定だ

駅は現在、安曇野市による簡易委託で窓口は午前中のみの営業となっている。安曇野市は篠ノ井線の駅も含め、各駅で簡易委託を担って頑張っているが、それに応えた形になったのが、2022年春の青春18きっぷのポスターら当駅が選ばれたこと。安曇野市のHPによると、大糸線の駅が18きっぷのポスターに選ばれたのは初めてのことだったという

駅を出たところからホームの駅名標を写そうとしたら

いやいや、これは絶景としか言いようがない。昨日は曇天だったが、今日は晴天で北アルプスの山々が美しすぎるし、ホーム周辺の残雪もいい味付けとなっている

実は当駅は開業時の駅名は「アルプス追分」だった。しかし登山者にとっての最寄りは、お隣の有明駅で、間違って当駅で下車する登山者が多く、わずか4年で現駅名に変更されたという歴史がある。ただこうやって景色を目の当たりにすると、ここはまさにアルプス追分である

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~安曇野観光の拠点を譲った駅

※訪問は2024年3月7日

全ドア開閉は当駅まで

有明駅に到着。当駅も大糸線の中で知名度の高い駅である。松本から当駅までの列車は車掌乗務の有無にかかわらず、すべてのドアが開く。当駅を過ぎるとワンマン運転の列車は1両目の後部ドアから乗車、降車時は運転士のいる先頭ドアのみとなり、きっぷの回収と運賃支払いが行われる。列車によっては当駅まで車掌が乗車し、以北はワンマン運転となる場合もある。大糸線の列車は原則2両編成(JR東日本の電車に単行運転はない)。つまり松本~有明でドアをひとつにすると旅客が多く時間がかかりすぎると判断されていることになる。有明折り返しの列車の設定もある

有明駅は島式の1面2線。構内踏切で跨線橋はない。開業は1915年(大正4)。信濃鉄道が穂高から1区間延伸させて暫定的な終着駅とした柏矢町、穂高それぞれの項で説明したが、この年の1月に松本市(現北松本)~豊科が開業すると、6月に柏矢町、7月に穂高と1カ月に1区間のペースで延伸が行われ、有明への到達は8月。現在の信濃松川駅(当時は池田松川)まで延伸されたのは9月のことなので、終着駅としての働きは2カ月未満である

観光拠点としての役割

有明駅に与えられた役割は安曇野観光そして登山の拠点だった。開業当時、有明村があったが、駅の所在地は北穂高村。有明村とは、やや離れていた。戦後に両村は穂高町などと合併して新たな穂高町となり、同じ自治体となっているが(現在は安曇野市)、今も駅の住所は安曇野市穂高北穂高である。このような事情がありながらも有明駅となったのには、穂高の次の駅を北穂高とするよりも、著名な有明山にちなんだ駅名とした方が分かりやすいとの判断だろう

駅舎は木造で戦前からのもの。リニューアルはされているが、山小屋風の駅舎は変わらない。登山の拠点駅を意識したものだろう。駅舎の柱を支える石は重厚である

現在、定期的に大糸線に入る優等列車は1日1往復の「あずさ」だが、以前は多くの優等列車が東京からの直通列車として入っていた。さかのぼり始めるとキリがないが、最も著名なものは急行「アルプス」だろう。こちらはJR移管後も夜行便として残っていたが、新宿方面から中央本線をやってきて一部は松本止まり、一部は大糸線に乗り入れていたが、70年代初期までは穂高に停車する優等列車はなく有明停車だった。それが国鉄末期の80年代に入ると穂高への停車が始まり特急も停車するようになった。一方で有明に停車する急行はどんどん減っていった。バスも含めた観光拠点は穂高となり、大糸線の定期優等列車が1日1往復の特急となった現在、有明に停車する優等列車はなくなった

現在の有明駅は簡易委託駅。1日の利用者は有明駅が約400人、穂高駅が約2000人と大きく差がついている

それでも立派な駅名板が掲げられているのは、重責を担った当駅への敬意だろう

駅舎内にはリニューアル前の駅名板が残る

もう一度ホームへ。優等列車が数多く停車していた時代からの留置線が、かつての名残だが架線は残され、まだ現役。緊急時用に備えられているという

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~109年前は安曇野への唯一の架け橋

※訪問は2024年3月7日

車窓が下車の合図

柏矢町から5駅松本方面へと戻って梓橋で下車。この駅で降りた理由、それは車窓に見えたこの文字のため

当駅が安曇野の入口であることを示した木標。これを生で見るために降りた。例によって、この時点では何の予習もしていないので降車のモチベーションのすべてだったわけである

単式ホームの駅だが、かつては島式ホームだったようで、使用されなくなった片側ホームは留置線となっている

大糸線オリジナル駅のひとつ

当駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の前身である信濃鉄道が豊科~松本市(現北松本)を開業させた際に設置された。現在この間の駅数は多い(というかかなり多い)が、スタート時は豊科と松本市以外は明盛駅(現一日市場)そして梓橋の4駅のみ。つまり大糸線のオリジナル駅のひとつw当駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の前身である信濃鉄道が豊科~松本市(現北松本)を開業させた際に設置された。現在この間の駅数は多い(というかかなり多い)が、スタート時は豊科と松本市以外は明盛駅(現一日市場)そして梓橋の4駅のみ。つまり大糸線のオリジナル駅のひとつである

なぜ早々に駅が設置されたかというと

私の想像も入るが梓川の対岸にあったから。川を渡れば安曇野である。駅名はここに架かる梓橋からとられた。現在の梓橋は地図で分かる通り、県道にかかる橋を指すことが一般的だが、信濃鉄道が開通した時に道路の橋はまだなく、松本地区と安曇野地区を結ぶ唯一の橋は、鉄道の橋だった

ちなみに当時の所在地は「高家村」。戦後に豊科町となり、現在は安曇野市。今も駅の所在地は「安曇野市豊科高家」だが、読みは高塚と書いて「たきべ」と読む。交通として重要な梓橋があることで駅名になったのだろうが、普通に自治体名を冠していたら、屈指の難読駅となっていたかもしれない

ホームでリンゴを

梓橋の駅舎は真新しいもの

かつては戦前からの駅舎があったが、2015年に改築された

簡易委託駅でホームは森土の高台にあるため、大糸線では珍しく跨線橋ではなく地下通路から入る形。梓川の増水で鉄道橋が大きな被害を受けたため、1967年(昭和42)に橋の付け替えが行われ、ホーム位置もわずかに変化した

目につくのは、この案内板。ホームでの栽培といえば塩尻駅のぶどうが有名だが、こちらはリンゴ

残念ながら季節が季節でお目にかかることができなかったことが残念である

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~クラシックな駅舎にクラシックなホーロー

※訪問は2024年3月7日

こちらも合成駅名

突然、大糸線の全駅訪問を目指すことになり

松本駅の大糸線乗り場へ。とはいえすでに11時になっていて、今日は15時ごろの特急「しなの」で帰宅するため、それほど時間はない。持ち時間の範囲で頑張ろう

松本から14キロ。約30分の電車旅。わずか14キロで30分も要するのは駅数が多いため。松本から9駅目。14キロで9区間もあるのだから、出発するとすぐ到着のイメージだ

ご覧のように1面1線の単式ホーム。右側に「いかにも」のスペースがあるが、かつては島式ホームだったらしい

かつての島式ホームの跡を利用したと思われるスロープで駅舎へと向かう。その駅舎はというと

どう表現して良いのか、いかにも「駅」である。最近見かけなくなりつつある1文字ずつ分離した駅名板がいい味を出している

開業は1915年(大正4)。松本と豊科を結んでいた信濃鉄道が延伸された際に設置された。豊科~松本市(現北松本)から開業したのが1月で柏矢町までの1区間延伸が6月。一時的に終着駅だったが、まさに一時的で1カ月後には穂高まで延伸。その後も続々と延伸され、翌年には信濃大町まで信濃鉄道としての全線が開通した

駅舎は開業時からのものとされる。ユニークなのは駅名で「柏矢町」という地名は当時も今もない

駅の所在地は「安曇野市穂高柏原(かしわばら)」。駅から近い2つの地名である「柏原」と「矢原(やばら)」を合わせて駅名としている。柏原駅といえば、近畿圏に3駅もあって、それぞれ微妙に読み方が異なることで知られるが、そのまま地名を付ければ、もうひとつの柏原駅が誕生していたかもしれない

ただ当時の所属自治体は西穂高村。戦後まで続いた自治体で1954年(昭和29)に合併して穂高町となっているが、それまで自治体としての「町」になったことはなく、なにゆえ「町」が付いたのかは調べても分からなかった。そもそも長野県内の自治体の「町」は「まち」が原則(唯一、阿南町のみ「ちょう」)で、柏を「はく」と読んだことも含め、私にとっては謎のままである

思わぬ発見

駅前には住宅街が広がる。単式ホームの駅とはいえ、1日に1000人以上と利用者も多い

安曇野市の簡易委託駅。安曇野市内の駅は篠ノ井線の駅も含め、営業時間は異なるものの、市の簡易委託でいずれも駅員さんがいる

そして

こちらは駅の窓口利用を促進する案内。来春にはIC乗車ができる区間となるが、駅の将来について現時点での発表はない

駅舎内では

「指差確認」のギリギリ残されたホーロー。いつからあるのかは分からないが、少なくとも10年20年というものではない。そしてもうひとつ

これはもっと貴重だ。思えば城端線の戸出駅で同じようなものを見た

戸出にあったものは「計量器使用事業場」で、やや文言は違うがおそらく同じ意味のもので、旅客の荷物を計る駅に与えられた認可のようだが、富山県から遠く離れた長野県で、ちょっと感動の再会となった

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~40駅と知ってがぜんヤル気が

※訪問は2024年3月6、7日

松本駅は気温3度

南豊科駅から松本駅まで戻ってきたのは16時前。本日は松本に宿をとっている。最初に松本駅に到着したのは12時半ごろ。その時はすでに雪はやんでいて、その後も雪には一度も見舞われなかったが、積雪はたっぷり残っている。駅に表示されている気温は3度。あくまで体感だが、この日に限っては豊科あたりより松本駅周辺の方が寒そうだ

ホテルは徒歩5分ほどのところだが、歩道に残る雪を避けていくのに時間がかかる。踏みしめられた後の方が氷のようになっていて油断するとスッテンコロリとなりそうだ。この日、観光で松本を訪れた人は松本城までの徒歩が大変だったと思う。ホテルのフロントの方に尋ねると「たまにありますけど、この時期(3月)の積雪はやはり珍しいですね」とのこと

大浴場付きのホテルにつき

早々に山賊焼きそして信州そばを熱燗とともに

翌朝は6時半の時間開始とともに朝食をモリモリ。いつものことだが、これでしばらくお腹はもちそうだ

篠ノ井線からスタート

昨日あまり降りられなかった篠ノ井線からスタート。この日は青春18きっぷである。松本駅で印をもらう

長野と松本という県内の主要都市を結ぶ幹線だが、道中は深い山の中を走る。道中の自治体も「村」がかなりある

雪と木造駅舎の組み合わせは美しい

難読駅。読めるようで、やはり読めない典型例。旧式の駅名標も残る

西条駅。読みは「にしじょう」。だから広島県の「さいじょう」とは同じ文字のまま。いずれも明治生まれと古い駅だが、広島県の方がわずかに早いため、きっぷについては「(篠)西条」と表示される

こちらは冠着駅のものだが、各駅とも委託化されていて駅員さんがいる時間帯はストーブが灯っていて暖かい

この日の目的のひとつは朝と夜の1日2本しかない快速に乗車すること。通勤用の車両が姨捨駅を通過する。稲荷山は篠ノ井のひとつ手前で長野市内にある。昨日来た時と同様、姨捨から長野方面に雪はない

旧駅名板が駅舎内にきれいに保存されていて、写真駅名標も残る明科駅で一段落

まだ11時になっていない。この日のうちに帰る予定だが、まだまだ時間はある。お次は、となり、昨日の続きでもう少しだけ大糸線に乗ってみるか、で松本駅まで一度戻る。篠ノ井線の各駅は大糸線の駅までタクシーで10分ほどのところもあり、そうすればショートカットで、より多くの駅を回れそうだが、せっかくの18きっぷである。「タダ」なのだから、これはいったん松本まで行く一手だろう

駅の待ち時間と電車内であらためて大糸線について学習。そこで知ったのは40もの駅があること(松本のぞく)。全線105キロで40とは随分と多い。うちJR西日本の大糸北線はすでに全駅訪問済み。今日も朝から篠ノ井線の駅訪問をしているぐらいなので、大糸線への「執念」はそれほどでもなかったが、だったらJR東日本の各駅もいろいろ訪ねてみたいという気になった

今日はお昼になろうとしているので、それほど時間はないが、できる限り回ってみよう

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~こんな足下こそ徒歩15分「あったかいんだから」

南豊科駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

本日の教訓は「急がば回れ」

大糸線の原型が信濃鉄道によって敷設された信濃大町~松本であることは、これまで何度も記してきた通りだが、基本形が私鉄ということで「駅間が短い」という特徴がある。一部を私鉄が造り、全線工事を国鉄が引き継いだ例としては福塩線(広島県)があるが、こちらも私鉄部分の駅間距離が短いのは、福塩線の項で記した通り

この時も駅間徒歩を2つほど行った。原型が私鉄だった福塩線の福山~府中と大糸線の松本~信濃大町には、もうひとつの共通項があって、昼間はほぼ1時間に1本の運行である。この1時間に1本という運行は駅巡りにはある意味、ちょうど良い本数で行ったり来たりを繰り返せば、ほど良い滞在時間で駅訪問ができる。もっとも行き詰まって結局は、ほぼ1時間の時間つぶしが必要となってしまうこともあるが、そんな時の最強武器は「徒歩」となる。まぁ、これについては駅間徒歩の距離限界には個人差があるので何とも言えないが、私の場合は1時間以上空いてしまうのなら4キロまでは歩いてみることにしている

さらに言うと、距離以上に重要なのは気候で、トシをとると炎天下に15分も歩けない。かといって風ビュービューの真冬もイヤだ。だから徒歩という手段を使うのは春の青春18きっぷ期間が多い

前置きが長くなったが、ここで豊科駅前の周辺案内図である

ふと見ると赤丸で囲った豊科と南豊科の駅間が極めて近いことが分かる。ここはグーグル先生の出番であろう

うーん、これは近い。実はちょうど前述した行き詰まりの時間帯で豊科駅で待ち時間が発生していた。この時は大糸線全駅訪問など考えていなかったので執念じみたものはなかったが、駅でボーッとするぐらいなら歩いてみよう。幸いなことに現在は15時。午後になって気温も上がり体感で10度近くにはなっているのではないか。もっと幸運なことに無風である。ちょうど良いではないか。ただし松本駅から北松本駅を歩く際、近道を行こうとして誰も踏みしめていない雪の路地に突っ込んでしまい大変な目に遭ったので、その学習機能を生かしてできるだけ広くて立派な道を行こう。スマホ液晶をできるだけピンアウトで広げた結果、地図では「18分」と表示されている線路から最も離れたコースを行くことにする。「急がば回れ」が本日の教訓だ

簡易的なようで簡易的ではない新駅舎

ということで実際には15分を切るペースで順調に広い道を歩き続けて南豊科駅に到着。かなり広い2車線道路で歩道もある。これだけ広いと積雪を避けながら歩くことも可能。もっともそこまで余裕がなく道路の写真を撮ってはいなかったけど

南豊科駅は真新しい駅舎だった。開業は1926年(大正15)。豊科駅の開業から10年以上遅れて豊科と中萱の間に設置された。4月14日で先に紹介した島高松と同日の開業。後から付け足す形で駅が新設されるのも大糸線の特徴である

現在の駅舎は2020年に新築されたものなので、まだ4年。一見すると簡易的なものにも見えるが

訪問時は時間外だったが、無人駅ではない。JR東日本の子会社による業務委託駅で改札も行われるようだ。周辺は新しい家が並ぶ住宅街で最寄りの高校が2つもあるため、1日の利用者は約1500人で実は豊科とそう大きくは変わらない

ホームは棒状の単式。貨物駅になったことはないが、島式ホームになる予定があったかのような構造だ

そしてふと目にとまったのは

きれいな待合室。先客がいる。入ってみるとエアコンが設置されていてポカポカだ。ちょっと前に流行した「あったかいんだから」のフレーズが勝手に出てくるほどだった。夏季は逆に涼しいのだろう。お手洗いもあるので安心して自販機で暖かい缶コーヒーをいただいた

ホームへの経路はスロープでバリアフリー対応

さて新築同様の当駅だが、気になるのはそれ以前の姿だ。戦前からの駅舎があったことは分かっているが一体どのような姿か、と思った方はグーグル地図で南豊科駅を指すとよい。ここの写真には旧駅舎の勇姿がしっかり残されている

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~安曇野市中心駅の地名由来に驚く

豊科駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

長野らしい地名だと思っていただけだったが

穂高の次は豊科で下車

前回の穂高駅の記事で「大糸線には知名度の高い駅が多い」と記したが、当駅もそのひとつ。見方によっては難読駅だが、かなりの人が読めるのではないだろうか。駅の所在地は、かつては豊科町だった。平成の大合併で周辺の町村と合併して安曇野市が誕生したが、市役所は豊科駅近くにある

長野県には「○料」という地名が多い。「更科」「蓼科」がパッと思いつく。安曇野市内には「明科」があり、こちらは篠ノ井線の駅にもなっている。「料」が多い理由としては、信濃の国で多く獲れる「科(シナ)の木」は「信濃の木」がなまったもので、地名にもよく使われるようになった、など諸説あるようだが、とにかく「豊科」も「科シリーズ」の一環だろうと勝手に考えていたが、この地名は明治になってからできたもの。複数の村が合併する際、それぞれの地名である「鳥羽(とば)」「吉野(よしの)」「新田(しんでん)」「成相(なりあい)」の頭文字をとって作られたという。新しい地名をそれぞれの頭文字をとって並べるというのは、よく聞く話だが、わざわざ長野らしい「科」を入れたことが凝っていて、なおかつニクい

路線では貴重な管理駅

安曇野市内の駅では、観光客の多い穂高の利用者の方が多いが、鉄道駅としては豊科の方が上位となる。大糸線内では松本を除くと管理駅は豊科、信濃大町、白馬、南小谷の4駅のみ。うち白馬、南小谷の2駅が「村」に所在するのが大糸線らしいが、その4駅のうちのひとつ(JR西日本区間の各駅は北陸広域鉄道部の管轄となっている)

豊科駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の駅紹介で何回か触れているが、大糸線の信濃鉄道は豊科~松本市(現北松本)を開通させたことが始まりで、その後、北へと線路を伸ばし国鉄によって全通された。いわば基礎となる駅

現在の駅舎は2007年(平成19)に大幅リニューアルされた。以前は無骨な駅舎だったが、いわゆる「スイス風」に変更

ただ駅舎の基礎部分は旧来のものをそのまま使用しているようだ。ちなみにワイン造りも行う安曇野スイス村は駅から車で数分の場所にある

また長野自動車道の安曇野ICも至近である

これもまた大糸線内では貴重な自動改札機が設置されている。現時点ではSuica使用不可の改札機である。指定席券売機も設置されているが、みどりの窓口は昨年に営業を終えていて、管理駅なので人は常駐しているはずだが、改札業務も含め早朝と夜は休み。おかげで夏の青春18きっぷのハンコをもらうのに苦労したが、それについては当該記事で触れるつもり

撤去が続くJR東日本ならではの写真入り駅名標もまだ現役。駅舎の駅名板にも白鳥が描かれているが、豊科は白鳥の飛来地として有名でもある

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~有名駅まで東京近郊区間延長か?

穂高駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

知名度「高」の観光駅

穂高駅に到着。大糸線には松本を中心とする通勤通学のほか観光路線としての役割も持つ。知名度の高い駅も多いが、当駅はそのうちのひとつ

島式ホーム構造で1日約2000人の利用がある。平日の昼過ぎながら、多くの人が電車を待っている。奥に見えるのが構内踏切。跨線橋はない

訪問日は曇り空でこのような美しい景色には出会えなかったが、晴天のホームからの眺めはこのようになるらしい。もし見られたら、これだけでも来た甲斐がありそうだ

当駅は安曇野観光の拠点となる。徒歩圏はもちろん、駅前からは各方面へのバスも出ているほか、東京や大阪からの長距離バスもある。大糸線沿線への長距離バスは安曇野と白馬がセットとなっている運行も多く、鉄道のライバルでもある

目を引く駅舎

駅舎は社殿をあしらったもの。地名の由来ともなった穂高神社を模したもので、駅から至近というか、ほぼ駅前である

駅の開業は1915年(大正4)。大糸線の前身ともなる信濃鉄道は同年1月に松本市(現北松本)~豊科を開通させた後、急ピッチで延伸。同年7月には穂高までを開業させた。現在の駅舎は1940年(昭和15)に改築されたもの。その後、化粧直しは施されているが、原型は変わらない。1940年といえば、すっかり戦時体制のころで、当時の観光や神社参拝がどのようなものだったかは分からないが、時代背景を考えると大きな工事である

みどりの窓口は営業を終えたが、指定席券売機が設置。もちろん1日1往復の特急「あずさ」も停車する

来年春からSuica利用可能に

訪問時は出ていなかった話だが、今年6月に「長野県におけるSuicaエリア拡大」の発表を行った

それによると2025年春以降に篠ノ井線の松本~長野、大糸線の松本~穂高がSuica利用可能エリアになるという。現在、都内から長野県に向けては、中央本線の松本までである。高崎からの信越本線については在来線がある横川まで。これまでの例だと、IC乗車可能ということは東京近郊の大都市近郊区間に含まれることとなる。現在、この区間の「北限」は常磐線の浪江駅

浪江から松本までの乗車券を購入した場合、途中下車ができないばかりか、きっぷの有効期限は1日のみとなる。現実的にこの区間の乗車券を買う人は「試してみよう」の同業者(鉄道ファン)意外は、ほぼ皆無とみられるが、新宿から中央本線に乗車して松本までのきっぷを買った場合、もちろん100キロは超えているが、甲府での途中下車は不可能となっている。そのため、当ブログの過去記事でも塩尻駅や松本駅までのきっぷを買う際には洗馬駅や北松本駅駅までの乗車券を購入すれば、途中下車も可能だということを当該駅の記事で紹介してきたが、松本駅とした場合の事情が大きく変わってくる。篠ノ井線については、東京から長野に行く際、わざわざ松本経由で行く人はあまりいないはずなので、それほど大きく事情が変わることはないだろう(長野経由で松本に行くと必然的に北陸新幹線に乗車するので東京近郊区間のルールからは外れる)。問題は東京方面から松本をゴールとして中央本線の各駅で途中下車したい人だ

松本~穂高間は約16キロもある。Suicaエリアではないお隣の有明までは約2キロ。松本~北松本は800メートルしかないので運賃に大した差は出ないが、18キロ分も余分に乗車券を買わなければならないので、最初に買う駅によっては負担が大きくなる

6月の発表時は「サービス開始は2025年春以降」となっているだけで、まだ正式な日時や内容は発表されていないが、気になる点だ

ちなみに「ほだか」と読む人が多いが、正しくは「ほたか」である

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~松本から至近もチェックもれの駅

島高松駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

路線図を見て気付く

私にはひとつの夢があって、それは「全国の高松駅を順番に訪問すること」

日本各地には高松という地名が無数といえるほどあって、その分「高松」が付く駅名は多い。それを順番に回っていこうという計画である。きっかけは子どものころに知った豊臣秀吉の「高松城水攻め」で、しばらくその地が四国にあると思い込んでいた。後に岡山だと知ったのが、各地に高松があることを知ったきっかけで、ほぼ同時期に当時の西宮球場そして西宮北口駅の住所が西宮市高松だということも知った

だったら各地の高松駅を順番に回ることはできないか、思い描くようになったが、これにはかなり膨大な経費と時間がかかる。一番有名なのは四国の高松駅で、高松市内には「高松」が付く駅がいくつかある(数は意外と少ない)。高松で暮らしていたこともあるので、これは漏らすことはないが、他の高松駅を調べると行き止まりとなる路線上に存在することが多い。山形県の左沢線、鳥取県の境線、宮崎県の日南線。これはひとつの乗車券としてまとめられないことを意味する。青春18きっぷのようなフリーきっぷを使えば、到達はできるが正規の乗車券として「高松駅から高松駅」がほしい。ただ、行き止まりとなる路線を含むと、かなりのお金がかかるし有効期間の都合上、旅を始めると、なかなか帰ってここられない。そうこうしているうちに全国の高松駅はかなり訪問するようになり、乗下車したことがないのは左沢線と日南線ぐらいになっていた。立川に行ったついでに多摩モノレールの高松駅にも立ち寄ったほどだ(さすがJRの駅ではないので単に「高松」という駅名で妙に感心した)

と、随分前置きが長くなったが、大糸線にふらり乗車して路線図を見た時、ここにも高松駅があったことを初めて知った。しかも松本からわずか3駅という至近距離。チェック漏れである。これはぜひ降りなければならないだろう

ということで島高松に到着

大いに逡巡したワケ

ただ降車に大きな逡巡があった。先にある一日市場でまず降りたため、車窓から駅が見えた。例によって予習することなく訪れているので、どのような駅かは知らなかったが、いざ車窓から眺めると、これは迷う、それでも「エイヤ」で降りてみたが

単式ホームと待合所のみの構造だったのだ。うーん、寒い

道路とはスロープで結ばれている。単式ホーム+待合所のみの駅が路線内に数あることは後に知ることになるが、その最初だった。このような気候の時の訪問は私には不向きである

松本市最後の駅

島高松は大糸線では松本市最後の駅となる

開業は1926年(大正15)4月。すでにあった島内と梓橋の間に信濃鉄道によって設置された。住所は松本市島内高松。島内とは2つの川に挟まれた三角地帯の意味で、そこにあった高松という地名が駅名になったようだ

駅はスタート時から私鉄らしい簡素な姿らしく、貨物や荷物を扱ったことはない

駅の入口にあった石碑。簡素な構造ながらお手洗いもあり、自販機で暖かい缶コーヒーを安心して飲むことができた

当駅で安心できたのは、かなり新しい待合所があること。滞在は30分に満たない時間だったが、それでも多くの時間をここで過ごせたのはありがたかった

外では鳥の活動が盛んで

冬の農地で多くの鳥が何かをつついている。新芽でもあるのだろうか

このような写真ばかり並べると終日閑散としている印象を持たれるかもしれないが、松本まで10分ということで周囲には住宅も広がり、1日に約500人の利用がある

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