若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~床屋さんが守る開業からの木造駅舎

※訪問は2025年3月26日

もうひとつのメインディッシュ

若狭和田駅から敦賀に向けて2駅目。加斗駅に到着。この時間帯になると列車の本数も、やや増える。電車に揺られる時間も減ってきて、ようやく駅訪問の時間が来たという感じだ

そしてこの駅は今回の小浜線で松尾寺に次ぐもうひとつのメインディッシュである。「もうひとつ」と記したのは、やや質が異なる、和食と洋食のようなイメージだろうか

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瓦屋根のホーム待合所

掲載した写真にもホームの待合所が写っている

瓦屋根の待合所という変わった構造。観光地にある駅では、たまに見かけるが、ここは観光地ではない。オリジナルの待合所のようだ

近づくと財産票もしっかり張られている。大正10年(1921年)3月とある。駅の開業は同年4月なので、開業に先駆けて造られ、100年以上頑張っていることになる

当駅は小浜線が舞鶴方面へと延伸される途中、小浜から若狭高浜までが開業した際に設置された。小浜線は翌年、全線開通している

当時は加斗村に所在し、戦後の1955年(昭和30)から小浜市。今も加斗は地名として残る

駅の位置は内陸部にあるが、20分ほど歩くと加斗海岸に出る。線路沿いに西側に歩いていくと海が開けて鯉川シーサイドパークへと行くことができる

かつては島式1面2線ホームだったようで、線路がはがされた部分は空白になっている。その向こうには貨物ヤード跡も残る

路線内の貴重な駅舎

駅舎に向けてはかつて構内踏切があっただろう敷地内を抜けていく。木造駅舎が見える。駅舎があった小浜線内の多くの駅舎は前記事の若狭和田駅の項でも触れた通り、この20年で大きく様変わりしている。開業時からの姿を、ほぼそのまま残すのは先に紹介した松尾寺駅と、ここ加斗駅の2駅だけだ。木はきれいに手入れされていて、駅舎にはBSアンテナも見える。生活感を感じる

改札から駅舎内へと向かう

駅舎内のイスには丁寧に座布団が置かれているが、なんといっても目を引くのは「キップ売場」というカタカナ文字そして理髪店のサインポール。当駅は駅舎内に入居しているのだ

もちろん駅舎入り口にも理髪店のサインポール

松尾寺駅は取り壊しの危機から舞鶴市のものとなって後に登録有形文化財となったが、当駅は登録有形文化財でもなければ、小浜市のものでもない。その意味では小浜線内の唯一無二の駅だが、理髪店が入居しているために、ほぼ手つかずで形を残している。駅前には花壇がきれいに並んでいた。いわば理髪店が守る駅となっているのだ

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~お腹いっぱいの大満足でした

※訪問は2025年3月26日

待ち時間を有効に

こちらは東小浜駅の時刻表。朝の通勤通学時間帯にそれなりの本数があって、しばらくお休み。正午ごろに1往復だけあって、また夕方までお休みというローカル線の典型的なダイヤとなっている。それでも14時台から動きがあるのは、本数の多い方だ。沿線には高校が複数あり、それに対応したものだと思われる

今から12時20分発の東舞鶴行きに乗車するが、2時間の空きは有効に利用しよう。ふだんの駅訪問では列車のダイヤ優先で時間がなければ、コンビニおにぎりやコンビニ惣菜パンでやり過ごすのがスタイルだが、時間もちょうど良いのでどこかでランチとしよう。そういえば朝の7時に長浜から電車でやって来たが、それこそ朝食は長浜駅近くのコンビニで買ったおにぎりのみだ

その後のダイヤも調べると、「若狭○○」が3駅続く若狭本郷、若狭和田、若狭高浜の3駅のどこかが候補になるが、若狭和田に決定。駅前の規模は本郷と高浜だろうが、各駅訪問には若狭和田が良さそうだ。コンビニが駅近くにあることは確認しているので、最悪何も口にできないということはない

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ピースフルな駅舎

約30分で若狭和田駅に到着

ご覧の通り、単式ホームのみの構造

駅前には「WADA BEACH」の文字。若狭和田海水浴場の最寄り駅。もともとの駅の設置理由が海水浴客向けで、1922年(大正11)の小浜線全線開通から3年後の1925年に仮停車場として設置された。当時の所在地は和田村。正式な駅となったのは昭和に入った9年後である。和田村は1955年(昭和30)に高浜町となった

若狭地方は関西圏からの海水浴客でにぎわい、小浜線も重要なアクセスを担っていた。私も幼少期に若狭まで両親に連れられ海水浴に来たことがある。1960年代終わりごろの話で、どこの海水浴場に行ったのか全く記憶にないが、交通手段はもちろん鉄道である。すでに世の中は車社会に突入していたが、自動車専用道などは数えるほどしかなかった時代。マイカーは浸透しつつあっても、道路というハード面が不備だったので、もちろん長距離バスもなく、アクセス手段はまだまだ鉄道が優勢だった

そして駅舎。観光案内所「ピースフル和田」が併設されている。開業時代からの駅舎がずっと残っていたが、2005年(平成17)に現在の駅舎となった。おしゃれな洋風である。小浜線の電化は2003年。路線内の駅舎の多くはこのころに変化している。現在各地で見られる簡易化ではなく、むしろ立派なものとなった。電化も駅舎の改築も原子力発電所によるものが大きいが、小浜線を語る上で避けられないものなので、どこかでまとめたいと思う

地元の繁盛店で大満足

10分ほど歩いたうどん店で、うどんとカツがセットとなった定食。地元の有名店らしく平日の13時を過ぎた時間でもお客さんは多く、私ももちろん大満足

駅前の漁港を眺めながら駅に戻る

駅舎内の待合室の様子と、こちらは到着時の窓口の様子

訪問時は自治体への簡易委託駅だったが、いずれは無人駅になる予定だという。並びの様子を見ると、そうなのかなぁ、と思ってしまうが、おなかいっぱいの満足感とともに次の駅を目指そう

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~新幹線を待つ駅

※訪問は2025年3月26日

美しい若狭湾を眺めながら

松尾寺から敦賀方面へと戻る。すぐに福井県へ入り、美しい若狭湾を眺めながら進む。海沿いに走る単線区間ということで、JR西日本名物の速度制限区間があるが、日常的に利用される方はイライラするかもしれないが、旅人は目の保養になる

列車は東小浜駅に到着。約50分のトコトコ移動。最初に乗車した敦賀から1時間50分かけて松尾寺、そして50分かけて東小浜と、なんとも効率が悪いが、通勤通学時間帯以外は空白の多い路線なので、やむを得ない

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超難読駅になった可能性も

こちらは東小浜駅と、その周辺地図だが駅の住所が「遠敷」だということが分かる。「おにゅう」と読む。かなり古い地名で、もともとは「小丹生(おにふ)」と記されていたものが、7世紀には転訛して現在の読みと漢字が充てられるようになった。隣町となる小浜が発展するまで長らく若狭国の中心地だったため、文献にも多数登場するので地名の歴史も分かりやすくなっている

駅の開業は1953年(昭和28)と戦後で、その際も駅の所在地で由緒ある地名の遠敷を駅名にすることが地元の要望だったが、難読すぎるということで東小浜となった。確かにこれは読めないが、もし実現していれば、難読駅クイズの上位常連駅となっていたことは間違いないだろう。ちなみに私のPCとスマホは「おにゅう」と入力すると、ちゃんと一発変換できた

駅舎は小浜市総合福祉センターとの合築で、とても大きい

ガラス張りの待合室があり、夏や冬も快適に過ごすことができる

小浜市への簡易委託駅となっていて、きっぷ売り場もあるが、改札業務は車内で行う。単式ホームのみの構造で、ラグビーの強豪として知られる若狭東高校の最寄り駅で、時間帯によっては多くの生徒が下車するが、大量の利用者をさばきやすい構造となっている

新幹線を待つ

基本的な順序からだと逆になってしまうが、駅正面からの写真がこちら

大きな駅舎に大きな駅名板。そしてその横に「北陸新幹線小浜・京都ルート 早期実現」の看板がある。北陸新幹線の新駅を当駅の西隣に設置することが、すでに発表されている。東小浜駅の西側には舞鶴若狭自動車道の小浜インターがあり、車との接続も便利。小浜駅の周辺が手狭なので、こちらに新しい小浜駅(駅名未定)ができる。大阪方面への延伸については、2016年に敦賀から小浜を経て京都へと至るルートが決定した…はずだったが、工事は敦賀駅から先は全く手が付けられていない

京都市内で地下水枯渇のおそれがあるとのことで、長大トンネルが多くなる京都・小浜ルートについて懸念の声が出て、石川県から米原ルート再考の声が出たと思ったら、先日あらためて8つのルートの再考案が出てきた。小浜・京都ルート以外はこれまでに議論されて一度却下された形になったものばかりで、9年を経て「振り出しに戻る」となってしまう可能性もある

京都・小浜ルートはトンネルが多い分、工事費もかかるルートになっていて、簡単に着手できず、予算確保の時間を費やしているうちに、他の意見が出てきたと形だ

すでに春休みに入っているはずだが、お昼すぎのホームは高校生でにぎわっていた。3月末といえば、まだまだ寒い日もあるはずだが、この日の気候は春の訪れを感じるもの

このころら最初の訪問を行った小浜線の紹介がなかなかできなかったのは、私が様子見をしていたこともある。もっとも、まさか8ルート再検討なんていうものが出てくるとは思ってもいなかったが

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~京都府唯一の駅は登録有形文化財

※訪問は2025年3月26日

1時間半の待機

松尾寺駅の時刻表。9時37分に到着して11時13分の敦賀行きで折り返す。1時間半の待ち時間があるが、それぐらいは滞在しないと、とこちらの駅については最初から思っていた

いくつかのトリビア

時系列は前後するが

ホームから階段を降りていくと、雰囲気のある木造駅舎が出迎えてくれる

あらためて駅舎。1922年(大正11)からの駅舎が健在。当駅はいくつかの「トリビア」を持つ駅でもある

まず読みは「まつのおでら」である。初見だと「の」はなかなか出てこない。そして松尾寺駅の最寄りということで駅名がつけられているが、名刹松尾寺は

駅から山を登ること、徒歩約1時間の場所にある。公共交通機関はなくタクシーもしくはマイカーでの訪問が一般的なようだ。駅の開業した大正時代はマイカーという概念はなく、現在とは徒歩に対する価値観は異なる。当時は立派な最寄り駅だった

そして駅の所在地は京都府舞鶴市。終着駅の東舞鶴は、帳簿上は舞鶴線の所属となっているので小浜線唯一の福井県にない駅となっている

そして駅舎は

登録有形文化財となっている。登録有形文化財の駅舎は全国に多数あるが、JRの駅というのは駅数を考えるとかなり少ない。登録有形文化財になってしまうと、自由に建て替えができなくなってしまう。立派な駅になるならいいが、ローカル線の現状は駅舎の建て直しは、ほとんどが簡易駅舎への転換である

舞鶴市に譲渡された駅舎

当駅の駅舎も取り壊しの危機があったが、地元から駅の保存を求める声が上がり、2008年に舞鶴市へ無償譲渡される形で決着。改修工事を経て現在のものとなった。古い駅舎の自治体への譲渡という話題が出ることがよくあるが、簡単なことではない。引き受けたからには、税金も含む駅の維持費を捻出する必要がある。利用の少ない駅がほとんどで、松尾寺駅の2022年度の1日あたりの利用者数は54人。自治体の住民のほとんどが利用しないわけで、予算の捻出に自治体も理由付けが必要となるため、JRからの譲渡の申し入れを断るケースや、後に維持をあきらめるケースが多い。国鉄の施設をそのまま受け継いだ三セクの駅に登録有形文化財が多いのは、そんな理由もある

駅舎内外はきれいに改修れていて

昔からのものが、そのまま残る

貨物で栄えたことを示す黒板が残るが、金額が記入されていたのだろうか。ただ一般の旅客に見えるように掲示するものではないので、駅舎に眠っていた業務用のものがこうやって掲示されていると思われる

駅舎内にはカフェが入居している。舞鶴市はお茶の名産地としても知られ、日本茶カフェ「流々亭(るるてい)」

お茶の販売も行われていて

舞鶴の茶葉を利用した紅茶を土産に買って抹茶ラテを味わう。営業時間は10時から17時で日・月曜日が定休日。「私のSNSで紹介させてください」と、お願いしながら掲載まで9カ月も要してしまい、申し訳ありませんでした

ユニークなバス停

駅の周辺も歩いてみよう

駅から国道27号までは歩いてすぐ。店舗の跡があった

バス停があった。小浜線の若狭高浜駅から東舞鶴駅を結ぶ府県境をまたぐバスが運行されていて、松尾寺駅近くを通る

停留所の建物では、視力検査ができるようになっていた

バス停の向かいには

どう見てもコンビニの跡。背後に駅が見える。コンビニが現役だったら、さらに時間を潰せる神駅だったかもしれない

あっという間の1時間半だった。ラッチを眺めながらホームに戻ることにしよう

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線小浜線を行く~まずは2時間近い乗車

※訪問は2025年3月26日

125系で出発

東舞鶴行きに乗車して出発である。小浜線で使用される車両は125系のみ。電車車両の125系は小浜線と加古川線のみしか運用に入っていない。後に詳しく触れたいが、2003年デビューと新しい車両でありながら、寂しさも漂う車両である

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メインディッシュを先にいただく理由

目指すは松尾寺駅である

どこにあるかというと

敦賀からはるか彼方78キロも先。東海道本線の大阪から姫路までが87キロなので、姫路市内に入るぐらいの距離を進むことになる。もちろん新快速はおろか快速もないのでトコトコ進むのみ。1時間50分もかかる。さらに言うと松尾寺駅は終点の東舞鶴のひとつ手前。小浜線は敦賀と東舞鶴をのぞくと全22駅。つまり21番目の駅となる。途中の駅がいくらでもあるだろうと思われるかもしれない。私もそうしたい。だが、そうはさせてくれない理由がある

こちらが敦賀駅の時刻表。私が乗車するのは7時49分の東舞鶴行き。その後の列車はというと、9時50分の小浜行きがあるように見えるが、そこには「土休日運転」と注釈がある。つまりこの後は3時間半ほど運行がないのだ。朝の通勤通学時間帯を過ぎると、お昼に1本運転があって、またしばらくお休み。逆方向も同様の運行体系なので、途中駅で降りてしまうと3時間ぼんやりすることになる。もうひとつ言うと、松尾寺駅は小浜線のメインディッシュ。この駅では多めに時間を確保しようと思っていた。それらの条件を合わせていくと、最初の選択は松尾寺駅の一択となってしまうのだ

若狭湾の絶景を見ながら電車は進んでいく。小浜線に乗車するのは2016年10月以来9年ぶり。その時は京都から山陰本線に乗り、福知山から東舞鶴を経て小浜で遅い昼食をとって帰宅した。前日や翌日の活動記録がないので、どのようなきっぷを利用をしたのか全く記憶にない。ひとつ言えるのは下車したのは小浜のみだったということだ

荒涼とした敷地とスノーシェッド

1時間50分かけて松尾寺駅に到着。見れば分かるが、かつてはすれ違い可能な構造だった

荒涼とした空き地と線路跡が残る

そして今は使用されていないスノーシェッドも。駅名から風光明媚なものを感じるが、かつては軍事路線その後は貨物の重要駅だった歴史を有する

6番線まであった構内

松尾寺駅は1922年(大正11)の開業。若狭高浜~新舞鶴(現東舞鶴)が開通して小浜線が全線開業した際に設置された。駅名は同名のお寺から

戦時中の1943年(昭和18)に転機が訪れる。当駅から海にかけて線路が敷設された。路線名は「第三海軍火薬廠鉄道側線」。随分おどろおどろしい名前だが、火薬工場への線路である。終戦を迎えると工場は連合軍に接収されたが、やがて舞鶴市へ返還。そこに日本板硝子舞鶴工場ができ、火薬を運んでいた線路は、そのまま工場と小浜線を結ぶ専用線となった。当駅は貨物駅として栄えた

こちらは駅舎内に張られていた当時の構内図。工場図に昭和61年11月1日現在とある。松尾寺駅の貨物線が旅客用の1、2番線とは別に3~6番線まであったことが分かる。昭和61年11月といえばJR移管の半年前。この貨物輸送はJRになっても続けられ全盛期は国鉄時代は福知山鉄道管理局で最大の貨物量だったという。1990年代に入って鉄道による貨物輸送は終わり、トラック輸送へと転換。工場は今も現役だ

ホーム近辺の探索は終わり、ようやく駅舎の外に出てみる

なんとも美しい木造駅舎がそこにあった

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若狭湾に沿って走る84キロのローカル電化路線の小浜線を行く~青春18きっぷの出番

※訪問は2025年3月25日

名古屋折り返しの長浜泊

今回の旅のお供は青春18きっぷ。利用方法が変わって3日間の予定を立てた上で行動しなければならないが、最初は新快速に乗車して

米原ダッシュにチャレンジ。幸いにも車内は余裕があり、無事に着席。名古屋での用事を済ませ

再び米原へと向かう。写真を見て気づいたのだが、3月終わりの名古屋の18時はこんなに明るい

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敦賀まで行ければ良かったが

米原到着は19時10分。夕方以降の時間帯は大垣乗り換えのない米原直通があるので楽である。対面乗り換えで大阪方面への新快速に乗車するお客さんが多い中、私は北陸本線に乗り換え長浜で下車

というか長浜止まりである。12両でやって来た新快速はここ米原で8両を切り離し、4両編成の「新快速という名の各駅停車」となって敦賀方面へと向かう。その逆は数え切れないほど乗車したが、編成が一気に減る方面へは乗車回数が少ない。夜という時間もあって、ちょっと寂しい

今回の旅の目的は小浜線だ。敦賀と東舞鶴を若狭湾に沿って走る84キロの路線

もちろん乗車したことはあるが、小浜駅以外の駅で降りたことはほとんどない。途中駅の22駅を訪問する。前日入りなら、敦賀で宿泊するのが利便性に富むのは言うまでもないが、このころの敦賀駅近辺のホテルはおそろしく高かった。新幹線の敦賀延伸に合わせてチェーン店ホテルが進出しているが、まだ供給が追いつかないようだ。敦賀は仕事で随分訪れた場所で(といっても20年以上前だが)、当時のイメージは敦賀のホテル=安いだったが、今や全く事情が異なるようだ

ただ長浜に宿泊したことで、私的に前身したことがあった。全国47都道府県で宿泊したことのないのは山梨と滋賀の2県だったが、これで王手となった。近畿2府4県の宿泊は、ほとんどが日帰り圏のため、以外とハードルが高い。兵庫、京都は日本海側に泊まり、奈良は十津川温泉に泊まった。大阪は四国勤務時代は出張の地だった。新快速という便利な乗り物で直結している滋賀県は、なかなか宿泊の機会が生まれなかった

遅い出発になってしまったが

翌朝は長浜駅からスタート。有名な豊臣秀吉と石田三成の出会いの銅像を見て

7時2分の敦賀行きに乗車。鉄オタにしては随分遅い出発と思われるかもしれないが、敦賀で小浜線に乗り継ぐことを前提にすると、これが始発になってしまうのだ。5時50分、6時20分とこれより早い列車が2本あるが、結局は7時2分に収束してしまう

敦賀着は7時41分。この列車は小浜線との接続を考慮したもので、7時49分の東舞鶴行きに連絡している。小浜線の専用ホームにはすでに電車が待機している。ちょっと遅い時間となったが、小浜線の各駅訪問スタートである

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わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~消えていない残り約10キロの延伸計画

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

上野直通便もあり

京成千原線の運行態勢はちはら台から千葉中央、京成千葉を経て京成津田沼との折り返しで1時間に3本。千葉中央から始発の列車が1時間に3本入ってきて千葉中央からは10分に1本の運行となる。都内を目指すには、京成本線の駅である京成津田沼で成田方面からの特急と乗り換えることになるが、朝夕の通勤通学時間帯は、わずかではあるが、京成上野行きの直通列車も運行されている。もっとも普通に乗車したまま上野まで乗り通す人はいないだろう。1時間半もかかってしまうのだ。いるとすれば私を含めた同業者(鉄道ファン)というか、今この記事を読んでくださっている方ぐらいだろう

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先に伸びる線路

ちはら台駅から先は線路少し伸びている。まるで次の駅があるようで、未成線ならではの光景だ

京成千原線は前身の千葉急行電鉄が小湊鐵道の海士有木駅からちはら台を経て千葉中央を目指したものだった。途中駅は2つ計画されていた。辰巳台と国分寺台である。位置関係はこのようになっている

徒歩ルートにしたが、辰巳台は千原線の計画の初期段階ですでに開発が進んでいた団地で、国分寺台には市原市の市役所がある。辰巳台まではすでに用地は取得済みで、敷設工事がすぐにできそうになっているが凍結されたまま。それ以外は一部の用地は取得されたものの、すぐ工事着手とは言えない状況だ

踏切なし、最速110キロの重厚路線

千原線の工事を手がけたのは日本鉄道建設公団いわゆる鉄建公団である。1960年代から全国の鉄道建設を担った。簡単な表現をしてしまうと「頑丈」「高架」のイメージか。東北新幹線などの東日本の新幹線のほか、京葉線や湖西線も手がけた。地方路線も含めると枚挙にきりがなく、すでに廃線となった路線もある。鉄道ファン的には三江線の宇都井駅を含む最後に開業した区間が有名だ。国鉄のイメージが強いが私鉄も手がけている。近鉄のけいはんな線といえばイメージできる人も多いはず

千原線には踏切がない。線路は高架が中心で、駅も掘削か高架となっている。110キロの速度まで出すことが可能だ。片側ホームしか使用されていない駅を2駅紹介したが、路線内は単線運行ではあるものの、複線にするための用地は確保されていて車窓から確認できる。つまりはそれだけお金がかかっているということ

それゆえに運賃が高いということは以前の記事でも紹介したが、運賃計算も千原線のみ独特のものとなっている

こちらは千葉寺駅の運賃表。これだけではよく分からないかもしれないが、千葉中央までは千原線の運賃で、千葉中央を過ぎると急に高くなる。これは千葉急行電鉄から京成が事業を引き継いだ時に千葉急行電鉄の運賃をそのまま引き継ぎ、京成の他路線とは異なるものとしたため。別々の鉄道会社同士の相互乗り入れの場合、別会社に入った瞬間に運賃が急に高くなることがあるが、それと同じシステム。もちろん割引は適用されるが、同じ鉄道会社の同じ列車に乗っているうちに急に料金が高くなるのでは利用者も首をひねってしまうだろう

2029年まで残る計画

当初の計画では複線化も2000年をめどとするはずだったが、それすらも実現していない。バブル時代は遠距離通勤もひとつの形とされていて、少々遠くてもマイホームが持てるなら、と都内の会社までドアトゥードアで2時間近くかけても通勤する人は珍しくなかったが、現在はどちらかといえば都心回帰である。そもそも少子化で広い家を持つ必要もなくなり、予定地を含む沿線のニュータウン開発は目論見通り進まなかった。そのような現状では延伸はおろか複線化も無理ではないかと思ってしまうが、計画は今も「現役」である

2019年に京成電鉄は2029年までの工事申請の期限を延長。つまり今も事業としては継続していることになる

ニュータウンの中を先に向かっているように見える線路。全線開通にはあと約10キロ。予定の線路は約8キロ。途中に大きな山や川があったりするわけでなく、8キロぐらいなら現在の技術をもってすれば、あっという間に敷設できそうだが、近くて遠い8キロとなったまま30年が経過した

訪問難易度は極めて低いので、機会があれば、路線内の豪華施設だけでもぜひ眺めてほしい。そして私はまだ訪問したことのない難読駅の海士有木(あまありき)が気になってしょうがないのである

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わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~終着駅は路線内で唯一千葉市外に

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

片側のみのホームから出発

おゆみ野駅からちはら台駅を目指す

入線してきた電車に乗車するが、改めて眺めると片側だけしか利用されていないホームを覆う上屋は美しくそして立派である。利用状況を考えると、やはり「バブリー」という言葉が浮かんでしまう

3分でちはら台駅に到着

島式ホームで到着した列車は折り返していくが、右側にスペースと線路が見える

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ちはら台の由来

このスペースは将来の延伸に備えたもの。2面3線のホームにして優等列車の待避を行う計画だった。「千葉急行電鉄」なので当然、速達列車は走らせることになっていたが、当駅までしか線路がない「暫定開業」では、すべて普通列車で運行せざるを得ず、幻の存在となりつつある

そこには千原線の使用されないホームで見た映画館の広告が

線路は先に伸びているが、もちろん途中で終わっている

駅の位置については駅の案内図が分かりやすい

千葉市から市原市に入ってすぐの場所に所在していることが分かる。といっても徒歩ですぐ千葉市に入ってしまうが、路線内で唯一、千葉市にない駅そして京成電鉄で唯一、市原市にある駅となっている

開業は1995年(平成7)。千葉寺からの延伸で線路はここまでやって来た。92年に千葉寺まで開業した後、延伸が3年もかかったのはJRの外房線をパスするなどの難工事が続いたためだ

そのちはら台は市原市と千葉市にまたがるニュータウン。前記事の「生実(おゆみ)」とは異なり、新しく作られた地名。ひらがなだとピンと来ないかもしれないが、乗車してきた京成千原線の漢字表記を見れば分かる。「千葉」と「市原」にまたがるので「ちはら」となった

市内にある飛び地の駅

1日あたりの利用者数は5991人で千原線5駅(千葉中央のぞく)の中では最も多い。このあたりまで来るとJR外房線ともかなり離れ、代わりに内房線の線路がやって来るが、駅はいずれも遠く、さらには延伸予定だった区間からの利用者もある

改札を出てみる。改札口の前にファミリーマートがある

そして駅舎は各駅で繰り返してきたが、こちらも立派なものだ。奥にマンションが見える。先述した通り、緩急接続も予定していた駅なので力は入っている。コンビニがあるにもかかわらず居並ぶ自販機だけ見ても、1日5000人の利用の駅の規模ではない数だ

大きすぎて入りきらなかったが、右側の部分は

こんな感じ。豪華な柱に支えられている

駅前のロータリーも広々としている。計画的に駅と周辺の開発が行われたことが理解できる。マンションがあり、その向こうには戸建ての住宅も見える

人口26万人で千葉市内はもちろん、都内への通勤もある市原市に所在する駅だが、市内を走るJR路線や小湊鐵道との接続はない飛び地駅となっている。小湊鐵道とつながる予定がつながっていないので当然といえば当然の話だが

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わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~重厚な高架駅と片側だけ使用のホーム

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

また見る光景

おゆみ野駅に到着。こう見ると普通の風景だが、頭上を見てほしい。「電車が来ます」の文字の下に「千葉中央方面」「ちはら台方面」の文字が見える

これは千葉寺駅でも見たもので、電車が去ると

このような景色が目に入ってくる。ここにも主(レール)のいないホームがある

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おゆみ野とは

おゆみ野駅は1995年(平成7)の開業。当時の千葉急行電鉄が大森台~ちはら台を開通させた時に設置された。おゆみ野とは千葉市内のニュータウン。江戸時代に当地を治めていた生実藩が地名の由来。現在はひらがな表記が正式な地名となっている

一帯は市内で最も爆発的に人口が増加した場所で、住居表示もおゆみ野にとどまらずおゆみ野有吉、おゆみ野中央、おゆみ野南と区域が広がる。ただ爆発的に人口が増えた割には当駅の1日の利用者数は5575人とそうでもない。ホームが片側のみで事足りる現実がそれを物語っている。おゆみ野の中心駅は外房線の鎌取駅だ

おゆみ野駅から徒歩約30分に位置する鎌取駅は、JR移管時の1日の利用者数は現在のおゆみ野駅より少なかったが、それこそ爆発的に利用が増え、現在は3万5000人を超える。そのような利用者数を想定していなかったのか、1面2線の島式ホームはラッシュ時は人であふれて社会問題化しているほどだ

こちらは2年前の12月の写真だが、16時前の時間帯でも人がひっきりなしに歩いている。駅前にはイオンとマンションが並ぶ

それに対し、おゆみ野駅の駅前ロータリーは、かなりのどかであるに

高架駅と用地取得時の苦労

ただし駅舎の立派さは鎌取駅に負けていない

バブリーという表現は謹んで重厚という言葉を使うが、外観も凝っている高架駅はまるで新幹線駅のようでもある

千葉急行電鉄の構想はかなり以前からあった。計画したのは小湊鐵道で、五井駅で国鉄(当時)への乗り換えを行う千葉市内や東京方面への乗客をごっそりいただいてしまおうと、海士有木駅から分岐する形で千葉市内へダイレクトに向かう路線の免許を取ったのが1957年のこと。ただ1957年といえば、まだ戦後10年が過ぎたころで沿線には「ごっそり」というほど人口はいない。そもそも五井を含む木更津から蘇我へ向けた内房線が電化されたのは、それから10年以上を経た1968年のこと。まだまだ農村地帯だった

塩漬けにされていた免許が効果を生みそうになってきたのは、さらにその後。70年代終わりごろから、おゆみ野をはじめとするニュータウン開発が始まった。ここが好機と免許を引き継ぐ形で京成電鉄(小湊鐵道は京成グループのひとつ)を中心に第三セクター千葉急行電鉄が結成されて工事が始まったが、用地買収や、まだ山が多かった沿線の工事に時間がかかった。工事中に世の中はバブル時代に突入。各土地代のほか、各駅の規模を見ても分かる通り工事費が高騰。ようやく1992年に開業したころはバブルも終焉しつつあり、経費がかかった分、高めの運賃設定をせざるを得なくなった。その一方、バブル崩壊でニュータウン開発も鈍り、都内へ向かう利便性に勝る蘇我駅や鎌取駅など沿線の客足はJR各駅へと向かい豪華な設備だけが残ることになった

おゆみ野駅の入り口部分。券売機のスペースが多めに確保されていることが分かるが、利用客の数もさることながら、時代はIC乗車に移行していて、券売機を利用するのはチャージ目的ぐらい。券売機のスペースそのものが過去の鉄道遺産になりつつある

「おゆみの」と言われて漢字を想像しろ、と言われて「生実」と答えられる人はほとんどいないなぁ、と思いつつ、終点のちはら台駅へと向かう

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わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~学園前の名前を先にもらった駅の行方

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

早々に駅名が決まったワケ

学園前駅に到着。こちらは交換設備があり、すれ違いが可能な構造となっている。千原線の前身である千葉急行電鉄は1992年(平成4)に千葉中央~大森台を開業させ、大森台以遠は1995年に開業となった。つまり当駅から先は今年で開業20年ということになる

千原線の駅は5駅(千葉中央のぞく)で、うち3駅は、いかにもニュータウンといった駅名がついていて、残る駅は千葉寺そしてここ学園前。千葉寺は名刹の名前であり地名だが、ここ学園前は地名ではない。想像が付くように学園があるから駅名となった。すでに計画段階で駅名は与えられていた

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学校は来ずもキャンパス風駅舎

と、このように書いていくと話の行方を推察されてしまうようだが、結果的に当地にやって来るはずの大学は来なかった

駅を降りると、すぐの場所に千葉明徳学園がある

だから駅名としては十分その通りだが、千葉明徳学園は昭和の時代から当地にあり、駅名が付いた際には別の大学の誘致計画が存在した。それが前提の「学園前」だった

ただ大学は来なかったとはいえ、駅舎は

大学のキャンパスと時計台を思わせる豪華なもの

同じ千葉県内のユーカリが丘線には来るはずの女子大が来なかったものの駅名はそのままという女子大駅があるが

利用者数が異なることもあって、こちらは随分かわいい

まさにバブリー

電車を降りて改札に向かう際の眺めだが、ガラス越しに光が降り注ぐ華やかな構造

駅舎を横から見ると、このようになっているが、こちらも美しい。ここまで千葉寺、大森台そして学園前と3駅を紹介してきたが、日常的に私鉄を利用している人がいれば、私鉄の駅舎を思い起こしてほしい。大手の私鉄でも特にターミナル駅や優等列車が停車する駅でない限り、こぢんまりした駅舎が多いものだ。大きめの駅舎を持ち合わせているのは駅舎内に飲食店などの店舗が入居していることがほとんどだ

千原線は普通のみの運行で20分間隔の運行。大手私鉄の路線ではあるものの、単線運行されているぐらいなので幹線扱いではない。各駅の利用者数も3000~5000人台で京成電鉄の全駅では下から数えた方が早いぐらいだ。店舗もコンビニぐらい。利用者数もすっかり死語となった言葉だが、どの駅舎も「バブリー」な豪華駅舎。この後にも残り2つの立派な駅舎が出てくる

幻の学園前誘致となった駅名がそのままの学園前駅だが、学生の利用はもちろん多く、京成電鉄の発表によると2024年度の1日あたりの利用者数は5794人で、ちはら台の5991人に次いで5駅中2位の数字となっている

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