吉浦駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

変則2面2線ホームの快速停車駅

広から快速に乗って吉浦に到着。ご覧の通り、貨物ヤードの側線が残る。駅名は旧吉浦町に基づく。1928年(昭和3)に呉市に編入された。駅の歴史はもっと古く、1903年(明治36)に海田市~呉の開業と同時に設置。当時の途中駅は他に矢野、坂、天応のみ。120歳を越えている

ホームは変則2面2線構造。こういう形は島式ホームが手狭なので、新たに外にホームを設けたものが多いが、元よりこの形式。島式部分はどちら側にも降りられるが、2012年に柵が設けられた。その年に快速停車(安芸路ライナー)駅となっている(朝の通勤ライナーは通過)

天井からの照明に見とれる

堂々とした駅舎。戦後間もない1946年から現在の形となった

吉浦も貨物で栄えた駅である。元々は芦が生い茂っていて「あし浦」と呼ばれたが、「あし」が「悪し」に通じるとして「吉」が使用されるようになったという説があるという。芦が茂るぐらいなので、のどかな地域だったのだろう。海上保安大学校のHPによると、吉浦全域で874戸の住居があり、推定人口は約4000人だったという

その後、呉が軍港として発展していく過程で火薬庫の場所となり、1888年(明治21)に整地が終了。1894年には一帯の買収で30戸の住民が立ち退いた。火薬の試験場ともなり、レンズ工場や信管の工場も造られ、規模は大きくなったが、戦後は英連邦軍が占領。1950年の返還後にその場所に設置されたのが海上保安大学校である

吉浦駅は駅のすぐ裏に港があり、戦後も貨物輸送でも栄えた。貨物ヤード跡が残り、1本は保線車用に利用されているが、かつてはもっと規模が大きかったのだろう。また火薬庫と逆側の軍事施設とは線路でつながり、その後、海上自衛隊の呉造修補給所貯油所となった専用線として戦後も利用されていた

駅を挟んで東西の関係となっている

駅はひさしも立派。そして外から見ると二階建てのように見えるが

中は吹き抜け。将来的に規模が大きくなることを想定していないと、なかなかこれだけの建物は作れない。長くつり下がった照明にしびれてしまった

こちらは駅舎を逆側から撮ったもの。階段は多くの人を一気にさばけるようになっている構造だ

古風な文字を見上げながら、跨線橋を渡った。2年前にみどりの窓口が営業を終了して現在は無人駅だが、2021年の1日の利用者は2082人。これは呉線内では8位の数字(三原と海田市をのぞく)である

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