仁方駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数減少の最初の駅へは大きなミスの末に

仁方駅に到着。ご覧の通り、バスでやってきた。仁方は安芸川尻駅の隣の駅で、1時間に1本の列車は待ってられないと、ちょうど良いバスを見つけたので乗車したところ、逆向きに乗車してしまう大ミス。10分ほど揺られたところで逆走に気付いたものの後の祭り。しかも戻るバスは30分以上ない。参ったな、と思ったが、たまたま喫茶店が目に入った。前記事で「カープの来季についての番組を見た」と記したのは、この喫茶店でテレビを見ていたのだ

話を戻して仁方駅である

渋すぎる駅舎がお出迎え

仁方駅は1935年(昭和10)の開業。呉線で最後の開通部分となった三津内海(現安浦)から広が開業した際に設置された。当時は仁方町。仁方町は戦時色が強くなった1941年の4月に呉市に編入されている

仁方の名を残すのは1982年(昭和57)まで存在した仁堀連絡船である。当駅から10分ほど歩いた仁方港と松山市の堀江港を結んでいた航路。運営は国鉄が担っていた。国鉄の航路だったというのが、当時のマニアに注目されていたポイントだったわけだが、それについては後述する

自動車8台の連絡船

手元に1968年10月の時刻表がある(復刻版)。いわゆる「ヨンサントー」のダイヤ改正があった時のものだが、こちらを開くまで仁方という駅は広のひとつ隣で、国鉄運営の連絡航路があったぐらいなので、今のように広で運行は分断されず、仮に航路がもう少し続いていたら、仁方まではもう少し便利になっていたかもしれないと思い込んでいたところがあったが、時刻表を開いてビックリ。当時すでに広が運行の境界だったのだ。正確に言うと、今のように広でほぼ乗り換えというわけではなく、広島と三原を直通する呉線で朝夕のラッシュ時に広折り返しの列車が挟まるという形だった。まだ非電化時代だったが、広~三原の本数は今とほとんど変わらず、広~広島が増えている

ちなみに仁堀連絡線の時刻も掲載されていて、本数はわずか1日3往復。丁寧に船との連絡に便利な列車も記載されているが、たったの3往復では列車本数を増やすことにはならない。船の規模は「定員196人、中型自動車8台」と書かれている。自動車8台とは、今ほど車社会が浸透していない時代とはいえ、規模が小さい。逆に言うと、その程度で十分だったということになる

仁方駅が寂しく感じるのは駅舎の規模よりも、窓の多さからだろう。こちらは荷物の受付か。それなりの規模を誇っていた駅だったことが分かる

仁堀連絡線の開業は1946年。終戦直後の復興期で宇高連絡線が手一杯となり、もうひとつの航路をということで設定された。国鉄の運営はそのためである。今も広島と松山を結ぶ航路は需要があるが、仁方港を含む呉港からも四国へと渡る船の需要はあった。だが仁方、堀江とも町の中心部から離れている上、駅からの距離が遠かったこともあって、間もなく乗客は激減。国鉄でなく民間の経営だったら、もっと早く運休していただろう

仁方駅から港までは徒歩で10分を強いられていた。現在、瀬戸内海の島行きも含め港からの定期航路はなくなっている

最長片道切符では貴重な出入口

ただし国鉄の路線ということで、鉄道ファンには貴重な航路だった。いわゆる「乗りつぶし」もそうだが、さらなるマニアにとっては最長片道切符の出入口として必需品だった。つまり宇高連絡線と仁堀連絡線のどちらかで四国に入り、どちらかで四国から出れば、一筆書きができる。最長片道切符に貢献する航路だったが、1982年に廃止され、最長片道切符から四国の路線は消えた

それでも1968年の時刻表によると、呉線を通る急行6本(厳密には7本だが、1本は呉折り返しの長崎行きで当駅付近は通らない)のうち、4本は仁方に停車していた。駅は連絡線がなくなったころに無人化されている

さて仁方駅について、なぜこのように流ちょうに説明できるかというと、駅舎に仁方駅の歴史が張られていたからだ

手書きの上にガムテープで、しかも駅舎の外側に張られている。「ありがとう」「駅舎さよなら」と記されていることから、南側の駅舎がなくなった2018年の作品らしい。せめて駅舎内に張ってあげれば、と思ったのだが、いろいろ事情があるのだろう

その南側には簡易的な出入口がある。ちなみにホームを結ぶ跨線橋もこの時に撤去され、ホームを含めた南北の往来は駅舎外の歩道橋を渡る

国鉄が運営していたことで、今も時折思い出される航路である

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