2024年 12月 の投稿一覧

2024年の降り鉄を振り返る(後編)

やってみたかった旅を決行

7月の1日から東京へ

一度やってみたかった「適当に旅をして飽きたらヤメ。現地でホテルを探す」旅を決行

品川駅を出発して常磐線、東北本線、IGRいわて銀河鉄道、青い森鉄道と乗り継いで青森まで。乗り鉄の方にとってはなんてことない作業でしょうが、とにかく1時間同じ乗り物に乗ると飽きてしまう体質の私にとっては大変なこと

東日本大震災前に足繁く通っていた時期もあるJヴィレッジに新設されたJヴィレッジ駅に降り立った時は感無量

青森まで到達した時は、それなりの感慨がありました

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この時に感じたのは都内のホテルのお値段。コロナ前にも都内のホテルの容量と価格に随分と悩まされましたが、東京五輪のおかげで容量は増えたものの、価格はさらに上がっている気がしました。そのおかげで7月以降、東京には一切立ち寄らず。来年に東京まで行く用事ができたため、早々に予約サイトをのぞいたところ、さらにめまいがするような料金になっていました。地元にいると気付かないものですが、大阪のホテル事情もなかなかのもののようです

7月の旅では、県庁所在地を避けて宿泊するという作戦が奏功し、かなりお安く宿泊することができました

帰って間もなく四国バースデーきっぷを利用。四国へはいつも旧交を温める目的が多いのですが、今回もその一環。以前から行きたかった伊予鉄の松前(まさき)駅は良かった

今年も宗谷本線がストップ

7月中旬以降、あまりの酷暑に青春18きっぷの連続使用記録ストップかと思っていたのですが、9月上旬に長野に行く用事ができたため購入して8月上旬に中央西線の各駅訪問。青空フリーパスからなぜか外れている3駅の訪問もこちらで消化できました

以降は猛暑で昨年に続き8月はどこにも出かけず、最終週に昨年に続いて北海道へ。昨年は大変な目に遭いましたからね。今年は昨年と違って無事に抜海駅から乗車…となったのですが、今度はそこから先が豪雨ということで先に行かない

抜海駅の撮影会となりました。その後はJR北海道が仕立ててくれたタクシーで名寄駅まで1時間半のタクシー旅という芸能人のような凄い体験(タクシー料金も見たことのない数字でした)。毎年ちょっとあり得ない体験をさせてくれる宗谷本線ですが、事実として残ったのは雄信内や南幌延という来春廃駅予定の駅へ行けなかったこと

特急「大雪」とのお別れをできたことだけが救い

考えてみれば去年も今年も何日間か北海道にいたその日だけピンポイントで宗谷本線が止まりました。前後は良いお天気。北海道旅の予定は1カ月以上前に組んでしまうのでさすがにどんな天候かまでは分からないのですが、この縁のなさはある意味凄い。実は10月の航空券タイムセールというのがあり、ラストチャンスにかけてみるか、と一瞬脳裏を横切りましたがやめておきました

そして6日間予定していた旅の台風進路がまずい、仕事に行けなくなると4日に短縮して慌てて帰ったのですが、過去に体験したことのないノロノロ台風は結果的には神戸・大阪はもちろん、北海道もほとんど影響なく本州の真ん中あたりで消滅するという、何のために日程を詰めたのか分からない結果となりました

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大糸線の全駅訪問

9月以降は行動が鈍っています

18きっぷの残りで、まだ紹介していない大糸線の各駅訪問そして紹介済みの大糸線増便バスに乗車しました

これまでは普通の景色だった南小谷駅での特急「あずさ」が見られなくなるとは、この時予想もしていませんでした。「とりあえず目の前にいるから撮っておくか」が鉄道にとっては大切なんだと痛感。3月まで現地訪問の予定はないので、これが最後の勇姿となりました

こちらもまだ紹介していませんが、10月は秋の乗り放題パスで大糸線の未回収駅の訪問。9月と同じく増便バスも利用して糸魚川経由で帰ってきました

こちらはすでに紹介しましたが、大糸線の非電化区間最初の駅である中土駅へ再訪。やはり良い駅です

10月後半は飯田線。つい先日まで記事をアップしていましたが、リニア駅の最寄りになるとされる元善光寺駅。リニア開業の際はどのような表情になっているのでしょうか

そして小和田駅。記事でも書きましたが、動物はもちろんのこと、昆虫やは虫類が苦手な方は冬場の訪問を強くおすすめします

11、12月はこちらは記事展開中の三岐鉄道の北勢線と三岐線の訪問。三岐線については、まだ全駅行けていないというか、あえて残している部分もあります。とにかく両線ともおもしろいのです

そして「新生18きっぷ」の旅は2本前の記事でも紹介した通り

自身にとって、来年の降り鉄のテーマは18きっぷの裁き方となっています

皆さんの2024年はどのように年でしたか。そして来るべき2025年が良い年でありますように

今年も1年ありがとうございました

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2024年の降り鉄を振り返る(前編)

仕事を始めて行動規模縮小

2024年も間もなく終わろうとしています。今年は年明けから少し仕事を始めたおかげで行動規模はやや縮小することになりました。それでも各地でいろいろな思い出を得ることができました。そこで駆け足ではありますが、今日そして明日で今年を振り返っていきたいと思います

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恒例の18きっぷ消化から

年明けは青春18きっぷの消化すら始まりました。毎年というか季節ごとにそうなのですが、18きっぷの最終日に向けてドタバタと旅を始めます。1月9、10日で広島県へ。呉駅で呉線の全駅訪問を完了させた後に三原で宿泊

翌日は福塩南線の全駅訪問を行いました。最後は久しぶりの高木駅。前回もそうだったのですが、自撮りに慣れていないとうまく撮れません。それなりに利用者のある駅ですから、電車の出発時間前になると人が集まってくる。「このオッサン何してんの?」と思われたでしょうね

2月はそう大きな動きはありません。滋賀県で食べた近江ちゃんぽん。チェーン展開しているこのお店が神戸駅にも出店していることを、かなり暑くなってから知りました。そろそろ行かなければ、と思っています

雪また雪

3月は新潟空港からスタート。まだ利用していなかった空港で、JALのタイムセールでチケットを確保。ただ地方空港あるあるで、飛行機が到着すると、空港バスが接続よくやって来るので本当に写真を撮るだけでした。この旅はある意味、2024年を決定づける旅になりまして

新潟市内は全くなかった雪が長岡あたりから猛烈に

宿泊した十日町は少し雪が積もっているな、という感じでしたが、翌日に新幹線全駅訪問の最後となった飯山を訪れた時は、目の前で雪がどんどん積もっていく姿を目の当たりにしました。北陸新幹線の敦賀延伸を目前に控え、暫定的にでも絶対に全駅訪問を達成しようという私的には価値ある訪問だったのですが、とにかく雪の印象が強すぎました

長野に移動すると雪はすっかり姿を消していてひと安心したのもつかの間、松本へと向かうと姨捨あたりから、また銀世界に。記事でも紹介しましたが、積雪の境目がこのあたりにあることが分かって興味深かったです

ということで松本では久しぶりの3月の大雪に遭遇して、たまたま手頃な電車があったからと雪の大糸線に乗車したことが今年を運命付けました。今年は何かと長野に通う1年になったのは、この日がきっかけ

帰って間もなくJR東日本のたびキュンパスを利用して

ガーラ湯沢を初訪問。3月半ばでこれだけの雪があることを地元では喜んでいらっしゃいました。新幹線のパワーというのは凄まじく

熊谷、宇都宮、那須塩原、新白河と寄り道したにもかかわらず当日の15時すぎには一ノ関に到着。平泉駅に立ち寄って一ノ関に宿泊した翌日からは18きっぷの登板。気仙沼からのBRT経由で仙台に到着。こちらもタイムセールで用意した飛行機で帰ってきました

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やはり18きっぷは広島

4月の声を聞いて18きっぷ消化は芸備線。過去に行ったことはあるが乗降ともにしたことのない駅に行ってみようと市岡駅へと坂根駅へ。市岡で2時間待ちとなりましたが、徒歩10分ほどの商店でお弁当がひとつだけ残っていて美味しくいただくなどして時間を潰せました。実は仕事がひとつ舞い込んできてスマホでのエクセル操作にかなり悪戦苦闘したことが時間つぶしの大きな要因でした

三次に宿泊して翌日は福塩線で未訪問の吉舎駅と河佐駅へ。朝から吉舎駅に行ったのはいいが、次の河佐への列車まで何と7時間の待機

安芸高田市の三江線代行バスで旧式敷駅へ訪問するなどして時間をつぶしました。前日の記事に書いたばかりですが、やはり広島県は18きっぷでした

今年一番印象に残った駅

帰宅してから行ったのは阪神電車の廃線跡巡り。阪神のしかも神戸市内に廃線があるなんて一般的にはほとんど知られていないと思いますが、50年以上前に線路の付け替えで廃線となった線路跡は今もくっきり残っています

4月は九州へ。延岡~宗太郎の1日1・5往復区間の全駅を無事に訪問。その後訪れた

立石駅。今は設備を持て余すほどの大きな駅。ひとつの役割を終えた駅というのは大好きなんですが、2024年では最も印象に残る駅となりました。そういえば阪和線の紀伊中ノ島駅の駅舎解体が話題になっているようですが、この後どうなるのでしょう

寒さに震えた北海道

5月の最終週は北海道へ。無事に予定していた行動を終えることができたのですが、とにかく連日寒かった。気温の10度台はそうでもないのですが、連日の風が強くて強くて。昨年の同時期にも北海道を訪れましたが、寒いと感じたことは一度もなかっただけに、ちょっと甘く見ていました。1日2・5往復の川端駅。周辺は意外と大きな集落で、レストランでお昼まで食べられたのは望外でした。道路交通のちょっとした要衝なんですね

6月はわたらせ渓谷鉄道そして宇都宮ライトレールに乗車

念願のひとつだった群馬県の「神戸駅」に行くことができて良かった。足尾駅周辺にサルさんがいっぱいいるとは知りませんでした

6月終わりは「青空フリーパスの券面に書かれた駅で唯一行ったこともなくて、どんな所かも知らない」木曽平沢駅を訪問。奈良井とある意味セットになっていることを知りました

列車遅延の関係で初めて降りることとなった倉本駅が素晴らしかった

かつて各地の登山駅で見られた山の情報板まで残っていて、これが後の中央西線の全駅訪問にもつながりました。大糸線と中央本線そして飯田線。今年の後半は長野県ばかりでした

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2024年を振り返る前に自身の「18きっぷ依存度」を診断してみました

早速の3日間利用

2024年も間もなく終わりです。本来なら、まず今年の振り返りなどをするところですが、10月に入ってビックリの発表がありました

早速、先日利用してみましたが、その振り返りとともに、今夏までの青春18きっぷは当ブログにも大きく貢献してくれたので、私的な依存度も自ら診断してみました

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お試し利用はすべて日帰り

こちらが新しい青春18きっぷ。変更点については上記に再録した過去記事を読んでいただくとして、とにかく1日3333円以上の元を取らなければなりません。ということで、今回やってみたのは3日連続の日帰り行脚

加古川線

湖西線

日生(赤穂線)のカキオコツアーで過ごしました。私の場合はバンバン途中駅で降りる上に逆戻りしてまた進むという行動をしょっちゅうするため、運賃的には簡単に元をとれます。日帰りとなると、なおいっそうで、100キロの壁となる1690円の区間を単純往復すれば、おつりが来るので問題ありません。ただ当然ながら日帰り区間というのは過去に行ったことのある場所ばかりになってしまいます。せっかく自動改札機を通れるのだから近場にしようという考えもありましたが「う~ん、なんだかなぁ」という部分は否めません。今回は加古川線に行くという明確な目的があった以外は思いつきに近いものでした。これまでのルールなら、まず加古川線をやっつけて、それから4回はどうしようか、思っていたはずですが、とにかく1度乗ると絶対に3日続けて使用しなければならない(1日や2日で1万円分使えれば回収したことになりますが)ので、いろいろ考える必要があります

変更時にも書きましたが、大阪から名古屋まで在来線のみで移動しても3410円なのです。途中、新快速があり、本数も多い区間ですが3時間かかります。3333円の壁はかなり高い。5日券だと1万2050園で1日2410円とハードルはグンと下がりますが、5日続けて利用できる、つまり旅ができるというのは、かなり恵まれた環境にある人でしょう。私自身は今回はお試しとして利用して側面が大きい

ブログ記事の貢献度はどうなのか

では自身がどれぐらい18きっぷに依存している(頼りにしている)のか、記事の本数を数えてみました(結構しんどい作業だった)。ブログを開始したのが2022年の9月。昨日までに619本の記事をあげていますが、18きっぷを利用した旅の記事本数は

200本

なんと3分の1の記事が「18きっぷ経由」のもの。新幹線の全駅訪問ではもちろん使用していないし、JRだけでなく私鉄や三セクの記事もあります。また私は過去一度も北海道で18きっぷを利用したことはなく、当ブログを立ち上げてからは四国、九州で18きっぷを使用したことはありません。それを考えるとものすごい数です

地域別のチェックまでさすがにしていませんが、パッと見た感じでは広島、岡山両県では18きっぷと秋の乗り放題パスの登板がほとんど。岡山県ではやくもに乗ったりするので必ずしも18きっぷとは言えないのですが、優等列車のない広島県では、この2種類以外のきっぷをほとんど使っていません。新幹線に乗る時はエクスプレス予約かe5489ばかりなので、JR西日本の広島支社というか、中国統括本部には全く貢献していません(笑)

これからは思い出に

数年前、18きっぷの旅をしている最中、こんなことがありました。1日に万単位の利用者があるかなり大きな駅でのこと。もちろん自動改札機のある駅です。改札を出ようとすると先客の方がムニャムニャ中。よくある光景ですが「参ったな」と待っていると、対応中の駅員さんとは別の駅員さんが私に気付き、対応中の駅員さんの背中越しに18きっぷをチェック。「どうぞ」と手で合図してくれたので、改札を出ると数メートル歩いたところで「お客さん、きっぷは!」の大声。先ほどまで対応していたというか、まだ対応中の駅員さんでした。同僚の駅員さんの行動が見えなかったのでしょう

振り返ると私も駅員さんも悪くはないのですが、あまりの大声というか怒鳴り声に周囲の人が一斉に立ち止まって私を見ました。利用の多い駅なので、相当な数です。さすがに私も「この人、不正乗車している」という目で見られることにイラッときて「後ろの人に見せた」と言いながら18きっぷを提示しました(後ろの人はいなくなっていました)

その駅については写真を撮っただけで10分後にまた改札に戻ってきましたが、当然のようにその駅員さんはまだ改札にいて、気まずい空気が流れました(笑)。もうこんなことはなくなります

考えてみると、このような小さなトラブルはしょっちゅう全国で起きたいたのかも。こんなことでも両者の対応の仕方によっては、大きめのトラブルになるかもしれません。また最初の入場時に改札でもらうハンコはインクがにじんで見にくくなることも多かった

高校野球の甲子園連続出場ではないけれど、もうどのぐらい連続で18きっぷを利用しているか、私自身も分からないぐらいになっています。春の18きっぷシーズンは何らかの作戦を練って臨むつもりです

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その3 新生北勢線を象徴する駅

※訪問は2024年11月20日

有人の東員町の代表駅も開業は2005年

東員駅に到着。私が乗車した電車は当駅止まりで、この後は車庫に入る

車庫があり、運転司令をつかさどる、いわば北勢線の中枢駅で立派な駅舎を備える終日の有人駅。町役場の最寄りでもあり、東員町の代表駅。だが駅名や施設から想像されるものとは異なり、駅の開業は2005年と近鉄から三岐鉄道への移管後。110年もの歴史を有する北勢線で、どういったことなのかと思ってしまうが、実はこの駅こそが新しい北勢線を象徴する存在なのだ

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廃線寸前からの存続

北勢線は1914年(大正3)に大山田(現西桑名)~楚原が開業したのを皮切りに徐々に延伸され、最後の1区間は難工事だったものの、1931年(昭和6)に全線が開業。と同時に電化された。ナローゲージの方式が今も続くのは、業績が好調だったこと、総路線が約20キロと短い上に独立した路線だったからである

森林鉄道も含めると全国に数百もあったとされる軽便鉄道は徐々に姿を消していったが、北勢線は戦争もくぐり抜け、戦時中の統合で三重交通の傘下に入り、その後、近鉄の一部となった。だが、例によってモータリゼーションの波には勝てず業績は悪化。近鉄は2000年になって廃線を打ち出し、一度はほぼ既成化したかのようになったが、沿線自治体が存続を決定。三セク化には時間とノウハウがないことから三岐鉄道に運行を依頼。その際に土地は自治体が所有。三岐鉄道は車両や線路、駅舎といった鉄道施設を所有することになった

移管にあたって課題とされたのがパーク&ライドの拡充。大正期からの各駅は簡素な構造のものも多く、駅前に車が乗り入れるのもやっと、という形だったが、駅の統廃合を進め、新たに設置された駅は駐車場を充実させることに。前記事で取り上げた穴太駅は同じ場所で規模の大きな駐車場を設置できた珍しい例だ(ホームを従来とは逆側に移し、駐車場を設けられる側にした)

そして東員駅。北大社(きたおおやしろ)駅と六把野(ろっぱの)駅を統合して新設された。西桑名駅の記事でも触れたが、北大社は車庫のある駅で現在は信号場となっているが、東員駅は車庫も備えた形の駅となったわけで、西桑名にあった司令室も引っ越し。乗務員の宿泊所も設けられ、文字通り北勢線の中枢駅となった。ホームは北勢線の多くの駅で採用されているバリアフリー形式

このため当駅には終日、駅員さんがいる

駅の設置理由は

東員駅が現在地に設置されたのは町役場の最寄りだったため。以前から役場の近くに駅を設置する計画はあったそうだ

こちらが駅の全景。かなりの規模である。広いロータリーを持ち駐車場も140台分が確保されている

こちらは東員町のコミュニティーバス停留所。北勢中央公園口駅とは三岐線の駅

駅の北側は住宅街で、南側にはコスモス畑が広がる

楚原れんげさんに見送られて次の駅へと向かう

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その2 高校生とともに難読駅で下車

※訪問は2024年11月20日

ひらがなから見せられても困ってしまう

西桑名から約20分で「あのう」駅に到着。どのような漢字が充てられているのか想像もできないが、サムネ写真にある通り「穴太」と書く。ちなみに当駅は「員弁郡東員町に所在する穴太駅」となっていて難易度は高め。自治体名は「いなべぐん とういんちょう」。普通に「とういん」と読むのも意外とハードルが高いかもしれない

「穴太」という地名は各地にあり、京阪電車の石山坂本線にも「穴太(あのお)」駅が存在する。「あなお」と読む地名もあるそうだ。私は以前、阪急神戸本線の園田駅(兵庫県尼崎市)近辺をよくウロウロしていたことがあり、当地の古い地名として「穴太(あのう)」が今も残っていることをたまたま知っていたため、おそらく「あのう」と読むのだろうとは思っていたが、各地にあるとはいえ、やはり難読である。地名の由来は各地それぞれあるようだが、交通的に重要な場所によく見られるという。三重県の穴太は大きな桑の木に空いていた穴から、毎年稲穂が生まれたことから「穴穂」と呼ばれるようになったとの説もあるという

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あまりの変化についていけず

穴太駅の駅舎。北勢線については20年以上前に乗車した。近鉄の時代だったが、近鉄が廃線を表明したことで慌てて乗りに行ったのだが、今は信号場となった「北大杜」という駅で降りたのみで、後は終点までの単純往復。今後の記事でも出てくるが、北大杜は車庫のある場所で車庫そのものは今も現役。北勢線は三岐鉄道に移管した際、駅の統廃合や新設が行われたため、以前乗車してからの変化に全くついていけておらず、ほとんど初乗車と同じだ。当駅についても難読という意識はあったが、降りてもいないので全く知識はない。駅としての歴史は1914年(大正3)の開業時と同じだが、駅舎は見て分かる通り新しい

棒状ホームだが、ホーム幅はしっかりとってある

パーク&ライトと高校生

今回すべての駅で降りてみたのだが、パーク&ライドのシステムが多くの駅で採用されている。パーク&ライドとは駅までマイカーで来て、そこからは列車で勤務先を目指すシステム。都心の渋滞を減らすとともに鉄道利用者を増やす二重のプラスを生み出すもの。大都市の近郊でも採用され、駐車場は安価にされているが、北勢線沿線では鉄道利用者においては駐車場は無料のようだ

また朝の通学列車に乗ってみて、沿線には甲子園の高校野球で名をはせた学校への通学があることも知った

当駅からは桑名西高校への通学バスが登下校時に運行されている

通勤通学帯から列車に乗るとピーク時と、その後の混雑具合や利用具合がよく分かる

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その1 「東」にあるのに駅名は「西」

※訪問は2024年11月20日

もともとは改札内を共有

朝6時45分の近鉄名古屋駅。時間帯は早く、方向的には通勤通学コースとは逆だが、人は多い

6時51分発の急行で桑名へと向かう。この時間帯に近鉄名古屋駅に来たのは初めてだが、大混雑とは言えないが発車ギリギリとなると、もう座れない。20分で

桑名に到着。JR東海、近鉄、養老鉄道の3社が利用。養老鉄道はもともと近鉄だったが、少し前までは津や松阪のように改札内は中間改札もなく共有されていた。4年前に新駅舎ができ、それぞれが別の改札となっている

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徒歩100メートルの乗り換え

今回は三岐鉄道北勢線の旅

桑名駅の東口から出て100メートルも歩くと北勢線の起点駅である西桑名駅がある。へばりついたような構造となっているが、元はもっと規模の大きな駅だった。そして起点駅でもなかった

駅の東側を国道1号線が走っているが、北勢線は国道を横切った先にある「桑名京橋」という駅が起点だった。だが1961年(昭和36)に渋滞が酷いということで、国道を横切る部分はカットされ西桑名が始発駅となった。西桑名駅も車庫も備えた規模の大きいものだったが、駅前の再開発で車庫は移転。かわいい駅となった

かわいい駅だが、路線内で圧倒的1位の利用者数(2023年は3461人。2位は星川駅の1019人)だけあって有人駅。行先案内がパネル式になっているのが印象的。写真を撮った時間は、たまたま電車の到着直前だったが、この後に到着した電車からはさすがに朝の7時台とあって通勤通学客がドッと降りてきた

さて、ここまでの記事で「東口」「東側」という言葉を意図的に使用してきたが、初めて当駅を訪れて感じるであろうことは「近鉄、JRの東側にあるのに、なぜ西桑名なのか」という疑問

これは種明かしをすれば何でもない、ここが西桑名という地名だったからだ。1914年(大正3)の開業時の駅名は「大山田」だった。これは所在地が大山田村だったから。1929年(昭和3)に大山田村は西桑名町となる。間もなく駅名も西桑名に改められ、1937年に桑名市が発足した後も駅名は変更されないまま現在に至っている。北勢線が近鉄の駅となってからも変わらなかったが、桑名駅と同構内にないのでは桑名駅と名乗らせるわけにはいかなかったのだろう

国内に3社しかない特殊狭軌

乗車するのは、かわいい駅以上にかわいい小さな車両。北勢線は線路幅762センチしかない特殊狭軌。日本の列車は旧国鉄からの流れをくむ狭軌(1067ミリ)と、新幹線や一部の私鉄で見られる標準軌(1435ミリ)に大別されるが、ごくわずかの特殊狭軌も残されている。かつては全国の森林などで活躍した軽便鉄道でよく利用された。スペースをとらずに敷設できるのがストロングポイントだが、車両は小さくなってしまうので人間を大量に輸送するには向かない。都市部を走っていたものも改軌が進み、現在残っているのは、ここ北勢線と四日市あすなろう鉄道(三重県)、黒部峡谷鉄道(富山県)の3社4路線のみ(四日市あすなろう鉄道は2路線保持)となっている

線路の幅にちなんで「ナローゲージ」とも呼ばれる。三重県のそれも比較的近いところに2社があるのも貴重だが、線路幅が標準軌の半分ほどしかない車内はどんな感じなのか。ちょうど通学時間帯で高校生が多く乗車する時間帯なので分かりやすい

「ひざ付き合わす」とは、まさにこのこと。一応、車内にはつり革もあるが、体格の良い男子生徒が並ぶと立つスペースも厳しい。つり革を持って立っているのは、座っている生徒のいわゆる「ツレ」が中心

とにかく、このかわいい車両で出発である

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~番外編 不思議なJRと名鉄の線路共用

※訪問は2022年6月12日

※動画あり音声注意

豊橋駅の不思議な構造

豊橋駅の写真なら、いくらでもあると思っていたが意外と撮っていなかった。こちらは2019年6月30日のもの

豊橋駅は初めて来る人は面食らってしまう構造となっている。名古屋まで完全なライバル関係となる名鉄と改札を共有するどころか、名鉄のホームは飯田線と東海道本線に挟まれる形で存在する。三重県でも津や松阪、伊勢市でも改札の共有が行われているが、両社のホームは別で、厳密にはそれぞれが駅舎を所有していて、桑名のように自由通路を設けることで改札口も別にすることは可能だが、豊橋だけは永久に変えられそうもない

JRの構内の一角というか真ん中に名鉄のICリーダー(乗り換え用)やきっぷ売り場があったりするが、これも歴史の積み重ねのひとつ。なかなか飯田線を扱う機会がなく、お蔵入り気味になっていた平井信号場の紹介を番外編として取り上げることにする(訪問は2022年6月12日)

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かつては重要駅だった小坂井

豊橋から飯田線で3駅目。小坂井で下車

駅舎は平成になってから建て直されたもの。コンクリート構造の簡易的なもので無人駅。1日の利用者数(2022年)は787人。周辺は主に住宅街だが、近くにある名鉄の伊奈駅や東海道本線の西小坂井駅に比べると、両駅が名古屋から直通できることもあって少ない。ただ、かつては名鉄の乗り換え駅の時代もあり、また運行の重要駅でもあった

平井信号場へ

冒頭で豊橋駅のホームについて触れたが、小坂井に至るまでの飯田線の2駅である船町と下地のホームに立っていると名鉄の車両がやって来る。営業列車でお客さんも乗せている。あまり旅人が行く駅ではなく、日々利用している方にとっては日常の光景なので驚く方はほとんどいないが、初めて遭遇するとビックリするはずだ。そして名鉄の車両は普通もすべてこの両駅を通過するのだが、JRと名鉄が同じホームを走行するシーンは飯田線のひとつのハイライトともいえる

ではJRと名鉄は一体どこで分岐するのか。その分岐点が平井信号場。信号場というと山中の近寄りがたい場所にたたずむイメージがあるが、平井信号場は違う

10分もかからず歩けてしまう。通行量の多い道路で歩くには注意が必要なほどだ

信号場とは平井踏切。名鉄、JRともに複線区間となっていて、こちらは下り線(名古屋方面)の分岐地点。踏切の上で分岐するという見やすい構造

さっそく踏切が降りて列車が来るようだ

名鉄車両が来て

あっという間に通過

去っていった。右に行けば飯田線である

元々は民民協力事業

これまでの記事で何度も書いているが、飯田線は4社の私鉄が戦時買収で国鉄となったもの。この部分を「担当」したのは豊川鉄道という会社だったが、その後に名古屋から豊橋へと線路を伸ばしてきたのが愛知電気鉄道(現在の名鉄)である。当初は伊奈から小坂井へと敷設され、豊橋(当時の駅名は吉田)へと向かうには小坂井で乗り換える形をとっていたが、やがて直線で豊橋と結ばれるようになったのが1927年(昭和2)。豊橋へは豊川鉄道、愛電ともに単線だったが、この部分は両社で共有して利便性を向上させようということになって現在の形が出来上がった

現在のJRの線路を名鉄が走る形となったのは、戦時買収で豊川鉄道が飯田線という国鉄路線となったため。吉田駅は国鉄の駅名だった豊橋に変更されて同じ駅となったが、線路の共有だけは変えようがないので南側の部分は国鉄が、北側の部分は名鉄(1935年から名古屋鉄道)が所有することになり、JRになった今もライバル同士が同じ線路を共有するという形態が続く。グーグル地図では両線からの点線部分が重要で注目点である

今度はJRの車両がやって来て右側へと進路をとっていった

小坂井駅と伊奈駅を結んでいた名鉄の線路は名鉄が戦後、独自に豊川線を敷設したため廃止。分岐の操作を行っていた小坂井駅もCTC導入によって分岐をつかさどる役割を終えた

なおライバルが呉越同舟する形となっている豊橋駅だが、飯田線との線路共有のため名鉄は豊橋駅への乗り入れが毎時6本に制限されているジレンマを抱えているため、普通列車の多くは隣の伊奈駅で折り返すという形式をとっている

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その15 戦時買収から外れ私鉄のままだった路線

※訪問は2024年10月27日

バスの路線図が物語るもの

本長篠の駅舎内にはバスの路線図と時刻表が大きく張り出されている

これはかつてあった豊橋鉄道田口線の代替バスだ

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鳳来寺参拝と材木運搬

こちらがバスの時刻表。すべてのバスが鳳来寺の参拝道と田口に行く

豊橋鉄道田口線は前身を田口鉄道といって現在の本長篠駅から設楽町の中心である田口を結んでいた22キロの路線。現在、県道32号が土砂崩れで通行止めとなっているようだが、元のルートは県道32号とほぼ同じでUターンして寄り道するようになっている箇所が鳳来寺の参拝道にあった鳳来寺駅。終点の三河田口駅は木材の集積に便利なように田口の町からかなり離れた豊川に近い場所にあったようだ

田口鉄道は資本的にも飯田線の前身となる豊川鉄道、鳳来寺鉄道と密接で鳳来寺鉄道は1929年(昭和4)の田口鉄道開業時に、それまでの「鳳来寺」という駅名を田口鉄道に譲り「鳳来寺口」と改めたほどである。鳳来寺までの参拝客と材木の運搬が目的だったが、豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同じく国鉄と同じサイズの狭軌、しかも電化されていたという。この規格のおかげで戦後、豊橋鉄道に引き取られることになったが、戦時買収の対象から外れ国鉄にならず、国鉄が運行を管理するというハンパな扱いとされるだけだったことが後に影響する。国鉄の運行管理は戦後に終了。豊橋鉄道田口線として再出発したものの、材木運搬や利用者の減少そして台風による水害の影響で1968年(昭和43)に廃線となった

本長篠駅は構内踏切を渡ったところに島式ホームがあるが、駅舎に面したホーム跡らしき場所にぽっかりとスペースがある。これが田口線の跡らしい。規格が国鉄と同じであるため、鳳来寺観光の直通列車も運行されていたらしい

来春に訪れる変化

その一方で当駅は来春、変化を迎える

すでにスタンバイ完了に見える。これは分かりやすい。ICリーダーの読み取り機だ。来春に当駅までIC乗車できるようになる見込み。飯田線は現在、豊橋~豊川の8・7キロのみIC乗車ができるが当駅まで拡大される。23キロもの延伸だ。この区間内にはさすがに1日の利用者数が1ケタという駅は存在しない。本長篠も2022年の利用者は419人と92駅(豊橋、辰野をのぞく)中28位

ただ立派な駅舎がありながら、改札付近にリーダーを設置するのではなく雨ざらしの構内踏切に設置するあたり、すでに駅舎移転と取り壊しが念頭にあるのか、などといろいろ考えてしまうのだ

18時前、豊橋到着。すでに大都会。前日の塩尻旧駅跡、リニア新幹線予定地、ダッシュ疑似体験から始まり、飯田からの各駅訪問と起伏に富んだ2日間だった。駅近辺で夕食を兼ねて一杯やった後に帰宅。ただしすぐには新幹線には乗らない。せっかくの青空フリーパス。せめて名古屋までは在来線で向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その14 100歳を超えた駅舎訪問は今のうちに

※訪問は2024年10月27日

ゴールは見えた豊橋まで32キロ

本長篠に到着。時刻は16時を回り、秋の日は暗くなり始めている

ホームのかたわらにある32・1キロのキロポストは豊橋までの距離。飯田から195・7キロもある飯田線のゴールはもう間もなく。これは大阪~神戸(33・1キロ)と、ほぼ同じ距離だが、残念ながら飯田線には25分で結んでくれる便利な新快速はないので、トコトコと1時間かかる

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急増する運行本数

本長篠駅の時刻表。左が豊橋方面、右が飯田方面だが運行本数が大きく異なることが容易に分かる。当駅折り返しの列車が多数あるためだが、当駅が運行の重要駅だということも分かる。もちろん特急「伊那路」停車駅

開業時からの駅舎

本長篠の駅舎。少し離れて撮らないと全景が入らないほど横長の木造駅舎は開業時からのもの

当駅は1923年(大正12)に鳳来寺鉄道によって設置された。鳳来寺鉄道は飯田線の原型となる4私鉄のうちのひとつで、当駅をはさむように大海~三河川合を結び、それぞれ両端で豊川鉄道、三信鉄道と接続した当時の駅名は「鳳来寺」。会社名を名乗る駅となった。鳳来寺は当駅から車で約20分の名刹だが、現実的には湯谷温泉駅からの方が近い。ただ路線バスは本長篠駅から出ている

駅舎にある財産票は

大正12年12月となっている。開業は同年3月なので微妙なズレがある

駅名は開業から6年後に「鳳来寺口」となった。さらに1943年(昭和18)の戦時買収時に「本長篠」と変更。ちょっと話はややこしいが、当時の駅の所在地は「長篠村」で、別に「鳳来寺村」があったため、駅名変更は現状に基づくものだった。しかし戦後にこれらの村が合併して「鳳来町」が発足。過去に手放した駅名が自治体名となった。以降、本長篠駅は鳳来町の中心駅となった(平成の大合併で新城市となる)

駅舎建替えか

そのような歴史を持つ本長篠駅は今年で101歳。鳳来寺鉄道が建設した貴重な駅舎となっている

かつては管理駅でもあったが、現在は新城市の簡易委託駅

この駅舎が移設、建て替えの対象になっているという。現在の駅舎は老朽化している上、地形的に地滑りの可能性があるため、駅そのものを現在の位置から少し北に移動しようという案があるのだが、その場合、JR東海は窓口もお手洗いも設置する予定はなく、早い話が簡易型の駅舎とする構想だという。もし窓口やお手洗いを設置したいのなら、新城市に費用負担が求められる

新城市の答えはまだ出ていないようだが、建て替えの理由が地滑り危機という自然災害が影響している以上、何らかの形での駅舎の変更は免れることはできない。豊橋から1時間で行ける上に本数も多い。101歳の勇姿には早めに会いに行くことをおすすめします

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その13 超難読駅は路線ナンバーワンだった

出馬駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

静岡県へ一度戻る

東栄駅から1駅戻る。1駅戻るということは静岡県に再び入るということになるが、ダイヤ的には東栄で、そのまま次の豊橋行きを待つと1時間20分の待ち時間。だったら約40分の待ちで静岡県の出馬駅へ向かい、出馬で30分過ごせば、もともと乗車予定だった豊橋行きに乗れる

初めて降りる駅となったが、大きな目的のひとつが駅名標の撮影である

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選挙には関係ありません

真っ先にサムネ写真で紹介しているように「出馬」(いずんま)と読む。まず駅名を見て「まさか『しゅつば』ではないよね」とは思うだろうが、それ以上は無理というもの。駅名が学業向上にあたるとの理由で知名度が上がるという話はよく聞くが、こちらはあくまで「出馬」であって「当選」ではない。だから縁起担ぎや必勝祈願で選挙に出た人が訪れたという話もあまり伝わってこないので、知名度的には、難読駅としての存在が上となる

しかしいざ駅で降りてみると、存在感はなかなかのもの

こうして見ると単式ホームと待合所のみという、お決まりの駅の姿。かつては交換可能駅だったという話もあるが、確認ではなかった。問題は駅への出入り口

ホームの端まで歩くときっぷ集札の箱があり、そこが出入口。細い道が続く。写真で分かる通り、左手には民家が並んでいるが、右側は農地そして川で生活感はあまりない

振り返るとこんな感じ。当然だが、車で近づくことは不可能である。さらに進むと踏切があり

ここが本質的な出入口。遠くにホームが見える

隣駅への距離は路線最短そしてもうひとつの最○

出馬駅は1934年(昭和9)の開業。三信鉄道が北へと線路を伸ばす過程で東栄(当時は三信三輪)~中部天竜(当時は佐久間)開業時に設置された。敷設と同時からあった駅となる

難読の駅名については「馬を飼育する牧場があった」「川から泉が湧き出た『いずみ』がなまった」などあるようだが、詳しい由来は分からなかった。

当駅のポイントのひとつは隣の上市場駅との距離。600メートルしかなく、駅間距離が1キロを切ることが多い飯田線でも最短となる。徒歩だと線路の上をまさか歩くわけにはいかないので、もう少し長くなるが、それでも1キロを切っている(ただし県境越えとなる東栄へは4キロ以上の距離がある)

踏切を渡ってみても集落の逆側にホームと出入口が設けられた理由は分からずじまい。普通は人の生活のある側に設置される。交換設備をなくす際、道路拡張のじゃまになるから出入口ごと逆側にされてしまったのか

いずれにせよ付近の住民にとっては不自由な構造となっているわけだが、実を言うと、ここ最近の利用実績は不自由も何もないのである。とにかく、ここ数年の1日あたりの平均利用者は、限りなく「0」に近い「1」なのだ。2022年のデータでは「金野」「伊那小沢」と並ぶ「1」は飯田線92駅(豊橋、辰野をのぞく)で最下位タイ。秘境駅号停車駅と並んでいるのだ。ちなみに「田本」は「2」、「小和田」は「9」である

さらに言うと、この「1」にはしっかり順位付けがあり、小数点以下の数字は分からないが、出馬は堂々の92位である。これは帰宅して調べてから分かったものだが、周囲にこれだけ民家がありながら限りなくゼロに近く、なおかつ最下位とは知らなかった。小数点以下の数字はすぐ変わりそうで2023年以降がどうなっているかは分からないが、てっきり金野が最下位だと思っていたので驚いた

駅にあった周辺案内図。いつのものかは分からないが、出馬駅の案内図というより、お隣の上市場駅の案内図となっている。周辺に民家がありながら、利用者がほとんどいないという駅は珍しくはないが、民家もあって、上下11・5往復あっての「0」はあまり見かけない。おそらく周辺の民家から通学する生徒がいなくなってしまったのだろう。訪問して、そして帰宅してなお一層驚かされた駅となった

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