2023年 1月 の投稿一覧

参宮線、今のうちに~JRホームからの近鉄の眺めが見どころ

伊勢市駅の記念撮影ボード

2022年10月29日12時

三重県内で見られる「全く同じ駅」

あらためて伊勢市駅です

近鉄と同じ駅になっています。これは本当に「同じ駅」で、分かっている方は分かっていると思いますが、中間改札も何もない。全く止められることなく両社のホームを行き来できます。駅舎は一応、JR側と近鉄側に分かれていますがどちらからでも入れるようになっています。初めて来た人は面食らうのではないでしょうか

スタートした時から別会社で相互乗り入れもなく、どちらも主要駅だというのに同じ改札内という構造は紀勢本線、参宮線と近鉄が並行する三重県内では他にも見られ、津と松阪が同じ形。かつては関西本線の桑名と鳥羽も同様でしたが、桑名は新駅舎誕生に伴い改札が分離され、鳥羽はJR駅の無人化に伴い別の入口となりました(ちなみに四日市はJRと近鉄が徒歩15分ほど離れています)

それゆえ、注意しなければならないこともあります

伊勢市駅には自動改札機が設置され、案内表示で分かるようにJR側の改札で、見たところJR仕様の改札機に見えますがICリーダーについては近鉄用。参宮線はIC乗車ができません。やったことはありませんが、JR系のIC乗車券もおそらく軽快に通してくれるもののJRの駅で降りようとすると大変面倒なことになるはずです。大きな文字で注意していますが、観光地だけに初めて来る人がついついやってしまうことも多いのでしょう

写真はJR車が到着した時の様子。無人駅からの整理券乗車や車内で車掌さんに発券した場合は自動改札は通れないわけで、ほとんどの方が自動改札機を使用しないという、現在の鉄道ではちょっと珍しい光景が見られます

伊勢市の駅舎です。もともとの駅舎を改修する形で現在のものとなっていますが基本は空襲で焼けて再築された駅舎と同じです

JRの駅舎を出るとすぐ参道

駅を降りるとすぐに参道。駅舎の写真で分かる通り、参道はJR側にあり、近鉄の駅舎は伊勢神宮とは逆側でやや寂しい上にJRと近鉄のホーム間の距離も長く参拝道まではやや距離がある形になっているのですが、そこは近鉄(当時は参宮急行電鉄ですが以降も近鉄と表記します)もちゃんと考えたようで当駅乗り入れのわずか半年後に、さらに1駅行った宇治山田を終着駅としました

1駅といってもこんな感じ

グルリ回り込む形で自社としての参拝駅を設けたことが分かります。ショートカットして歩けば電車賃を支払うまでもない距離です

伊勢市という駅名になったのは戦後のこと。意外に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそも自治体名は「伊勢市」ではなく「宇治山田市」。近鉄がやって来た時の自治体名は宇治山田ですから当時としては違和感のない駅名でした。学校名が「宇治山田」なのも、そのためです

では、もともとの駅名は何だったのかというと「山田」。近鉄の駅は山田の次が宇治山田だったことになります。国鉄の駅名も伊勢市誕生から数年を経て伊勢市となりました

ちなみに国鉄の駅名で「○○市」と付けられているのは旧国名と都市名が同じになった場合に混同を避けるためのものが多い。三重県内には至るところに「伊勢○○」という駅があって、はるか彼方の伊勢市内にない駅があります。山口県の「長門市駅」、愛媛県の「伊予市駅」も同様だと思われます

近鉄を見上げる

駅のJR側構内には特急券を含めた近鉄のきっぷ売場が独立して、かなり大きなスペースで設置されています

当駅はJRも管理駅で全線きっぷうりばも設置される重要駅ですが、利用者は3倍も違います。近鉄利用もこちらの方が多いのでしょうから、利便性を考えるとこうなります

ゆっくり進む近鉄

JRと近鉄のホーム間はかなりの距離があると前述しました。その間に巨大な留置線があるからです。列車も停まっているため車庫のように見えるかもしれませんが、正確には「車庫の跡」です。明治期の開業と同時にできた車両基地で、当時は唯一の伊勢神宮への参拝路線として幹線扱いだったことが分かります。この車両基地のおかげで近鉄は基地の向こう側にホームを設置せざるを得ませんでした。その車両基地も7年前に廃止。今は留置線です

ただ車両が消えたおかげでJRのホームからは

近鉄がよく見えます。地図で分かるように近鉄はここから大きくカーブしながらJRをオーバーパスしていくので高架の上り降りはかなり減速します。カラフルな近鉄特急が、ゆっくりとそして数多く見られる光景は飽きない。ある意味皮肉な絶景が生まれたわけですが、この空間を有効利用するには道路も含め、駅の構造をガラリと変更する必要があるため、しばらくはこの光景が見られそうです

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

参宮線、今のうちに~青空フリーパスを利用しています

伊勢市駅を出るとすぐ参道

2022年10月29日12時

在来線特急も使えます

伊勢市駅に到着しました

早朝に名古屋を出て、この日は土曜日ということもあり、その時点では名古屋駅も人が少なく、亀山~一身田の高校生でギューギュー以外は列車も降りた駅も比較的閑散としていたので(そういう駅ばかり利用していたという話もある)、あまりの人の多さに面食らいます。週末の観光客に学生さん。おそらく地元の方でしょう。待ち合わせの姿も見られます。勝手な推測というか、ほとんど正解でしょうが、近鉄の利用者が圧倒しているのでしょうね

さて今回利用したのは

こちらの青空フリーパス。利用が多すぎて、いちいち写真を撮っていないのですが、昨年6月、仮駅舎で営業中の半田駅は販売の券売機がなく窓口(全線きっぷうりばです)で購入。ICタッチ以外の自動改札機もなく、この手のきっぷでは珍しく入鋏となったため写真を撮っていました

写真がすべてを物語っていますが、かなり広範囲で使えます

東海道本線が豊橋の次で終わっているのは豊橋以東には熱海までの東海道本線と身延線、御殿場線に使用できる「休日乗り放題きっぷ」という同内容のフリーきっぷが存在するからだと思われます

恥ずかしながら、中央本線の木曽平沢という駅はこのきっぷを買うまで知りませんでしたが、奈良井のひとつ北側の駅で塩尻までは残り4区間と、かなりの場所

飯田なんて、その日のうちに帰って来られるのか、という感じですが青空フリーパスは特急料金を追加すれば、運賃部分は有効で在来線の特急も乗車できます。ですから中央本線、高山本線、飯田線もかなりディープな所まで到達でき、マニアックな乗り方としては特急と貨物列車しか走らない大垣~関ヶ原の新垂井線(実はこちらが本線ですが説明は略します)に乗車して車窓から新垂井駅の遺構を見ることも可能(左手車窓に一瞬ですから目を離さないようにお願いします)。ちなみに名古屋~奈良井の乗車料金は2640円なので日帰りでなく片道だけでも元がとれる計算です(参考までに名古屋から飯田までは乗車券だけで3740円もしますが新幹線利用は不可で乗継割引の適用もないため名古屋からだと少し微妙)

もうひとつの特筆すべき点は伊勢鉄道も利用できることで、こちらは青春18きっぷでは不可能な大きなポイント。このため快速「みえ」にも気兼ねなく乗ることができます。実はこの10月29日はF1の日本グランプリ開催日で、そちらの様子もうかがおうかとも一瞬、考えたのですが久しぶりの開催に前夜、名古屋の街で見かけたファンの皆さんの熱気が凄くて遠慮しました

料金は写真にある通り2620円で青春18きっぷの1回分よりは少し高いですが、書いてきた通り有利な点もあります。当日の購入が可能というのもプラスな点で、もちろん自動改札機も通れます。留意点としては土、休日だけの利用となっていること、そして何といっても最近の流れである窓口業務の終了や営業時間縮小に伴って、購入できる券売機が設置されているかどうかは事前にしっかりチェックすることです

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

参宮線、今のうちに~JRが近鉄に勝る駅

2022年10月29日11時

名勝とは読みが異なる

二見浦の駅舎です。駅名からも想像できるし、あらためて説明するまでもありませんが夫婦岩で誰もが知る二見浦の最寄り駅で、駅舎はそれをイメージしたガラス張り

以前は学校か役場のような大きな木造駅舎でしたが20年前に現在のものとなりました。現在は伊勢市ですが旧二見町の中心駅

前記事でも触れましたが、伊勢市~鳥羽の観光地へのアクセスで立地的にJRが唯一、勝っている駅です

夫婦岩の二見興玉神社まで約1キロ。徒歩15分です

ただ漢字は同じですが景勝地は「ふたみがうら」で駅名は「ふたみのうら」と読みが異なる。もともと、どちらの読みもあるようです。ちなみに駅からすぐの小学校は「ふたみうら」です

駅にあった解説。とても分かりやすい。観光客に親切ですね

にぎわった面影が残る

駅前のロータリーは広く、参拝道に向け鳥居があります

鳥居側から見るとこのようになります。駅前広場の大きさが分かります

駅の構内はというと、これもまた大きい。有名観光地ですから、もちろん快速「みえ」停車駅です。現在、当駅にやって来る列車はほとんどが2両編成で、長くても4両編成。正直言ってホームは持てあまし気味

側線の跡がありますが、かつては長大列車が往来していたことを思わせます。おそらく現在は点字ブロックのところまでしか使用されないのでしょう

全国的に有名な二見浦の最寄りで観光の際は伊勢神宮とセットで訪れる方も多いと思われます。そもそも二見興玉神社でみそぎを受けてから伊勢神宮に参拝するのが習わしでした

今も変わらぬ観光地でもちろん多くの人が訪れるのですが、それにしては1日の乗降車は約500人と決して多くないというか、観光規模を考えると少ない。マイカー発達もあるでしょうし、宇治山田駅や伊勢市駅、内宮、外宮からの直接のバスアクセスで夫婦岩にもっと近いところまで行けるようになっていて、週末は内宮からのバスも含めると(内宮発は現在、コロナで休止中)、列車より多い本数が設定されています

駅も10年以上前に無人化されています

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

参宮線、今のうちに~「参宮」の名が許される唯一の存在

二見浦駅の駅舎

10月29日11時

ほぼ全員が下車

列車は二見浦に到着

乗っていたお客さんのほぼ全員が降りてしまいました。参宮線にIC乗車券は導入されておらず、ワンマンの運転士さんも忙しそうです。考えてみれば隣駅は単式ホームのみで駅舎もない松下、その次が終点の鳥羽。快速「みえ」だったら名古屋を含めた主要駅から鳥羽への利用者もあったでしょうが(二見浦は快速停車駅)、私が乗っていたのは普通。鳥羽へは近鉄が圧倒しています。付近の主要観光地で立地的にJRが唯一、有利となっている駅。当日は土曜日で観光客も多かった。と同時にJRと近鉄の関係性を雄弁に物語る光景ともなっています

ご覧のようにこの付近では人の多そうな海沿いをJRが走るのに対し、近鉄は山の中を走っています。乗れば分かるのですが、近鉄の車窓はひたすら山中で人里の雰囲気はほとんどない。伊勢市から鳥羽に向け真っ直ぐ敷設されています。なぜこんなことになっているのかというと、近鉄がずっと後から線路を敷いたからです

正式名称は「神宮」

この関係を語ると、とても長くなるのですが、できるだけ短く説明すると、まず「お伊勢参り」が、移動手段が徒歩しかなかった古来から「一生のうちに一度は行きたいものだった」ことだったことに由来します

伊勢神宮の正式名称は「神宮」。最高の格式を持つため地名が入らない唯一の神社です。「伊勢神宮」とは他の神社と区別するための通称

そんな「神宮」ですから鉄道が日本にやって来た時に放っておかれるはずがない。参宮鉄道という会社が、まず宮川まで線路を伸ばし、やがて現在の伊勢市駅まで到達したのは明治のまだ19世紀。ちなみに、この参宮鉄道は現在の関西本線を作った関西鉄道という会社とも縁が深く、亀山から津まで関西鉄道が敷設したものを継続する形で津~伊勢市までを建設しました。ちなみに関西鉄道という会社は草津~柘植の現在の草津線も建設しています

少し話はそれますが柘植の駅に行くと奈良方面に向かう関西本線が大きくカーブを描いて離れていくのが分かります。そこだけを見ると草津線が本線のように見えてしまうほど。それは草津線が先にできたため

また地図を見ると名古屋からの関西本線と紀勢本線の接続は、かなり内陸にある亀山で、名古屋から、なんでわざわざこんな遠回りをして伊勢方面に向かうのかと思うかもしれませんが(三セク伊勢鉄道の前身となる国鉄伊勢線は戦後に開通)、それは大阪や京都からスムーズに伊勢神宮まで行くためです

この路線はやがて国有化されるのですが、明治のうちに、こちらも観光地である鳥羽まで延伸。当初は亀山~鳥羽が参宮線とされ、関西からだけでなく東京方面からの優等列車も乗り入れ、大いににぎわいました。需要に応じるため複線化が計画され、一部は実現しました

近鉄の追撃

ただ、こんな「おいしい路線」を他が放っておくわけがありません。その後、参宮急行電鉄という、こちらも「参宮」を冠する現在の近鉄の前身が大阪から伊勢までをつなげたのが昭和初期。先行する国鉄に対抗するため「特急」を運行。これが、その後「近鉄特急」となります

ただこの時点では国鉄側もまだまだ余裕があったのですが、戦後の伊勢湾台風からの復旧工事の際に名古屋~伊勢中川を狭軌から標準軌に改軌。大阪からだけでなく名古屋からも乗り換えなしで伊勢まで行けるようになり立場が完全に逆転。国鉄にとって不幸だったのは戦時中の金属供与でせっかく複線化した区間を単線に戻していたこと。複線電化と単線非電化では、なかなか勝負になりません

さらに近鉄は戦前から細々と走るローカル私鉄だった鳥羽~賢島間の志摩電鉄を買収。これが現在の志摩線。しばらくは国鉄の鳥羽駅から発車する飛び地路線でしたが、その後に鳥羽までの線路がつながり賢島へも直接行けるようになったため、亀山~多気が紀勢本線に組み込まれたことで、わずか30キロの路線になっていた参宮線は完全なローカル線になってしまいました。それが大阪万博と同じ1970年のことです

小学生の前半を三重県の名張というところで暮らしていた話は前記事でも触れましたが、当時「近鉄で直接、鳥羽と賢島へ行けるようになったので行ってみるか」という両親の話し合いがあって鳥羽と賢島まで泊まりがけの家族旅行に行ったことを今でもよく覚えています。「かしこじま」と読めるようになったのもその時。近鉄延伸がきっかけで鳥羽、賢島まで足を運ぶようになった人は多かったと思いますよ

そもそも近鉄大阪線沿線に住む小学校低学年の私はお伊勢参りは近鉄で行くものと覚えていて国鉄の駅があることすら知らなかった。当時SLが走っていたなんて前記事の田丸城に保存されている車両の説明書きで今年初めて知ったぐらいです。近鉄の鳥羽線はたった13キロしかありませんが、すでに差があった国鉄と近鉄の競争にさらにダメージを与えたわけです

ただ繰り返しますが「参宮線」を名乗れるのは唯一ここだけなのです。沿線には歴史がちりばめられています

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

参宮線、今のうちに~田丸駅と最後のお別れとSL

田丸城の歴史解説板

1月7日14時10分

3ヶ月ぶりに再訪

年が明けて田丸駅を再訪。最後のお別れをしてきました。連休中でしたが何かイベントがあったのか高校生が多数下車していきました

前回も紹介しましたが惜別のメッセージがズラリ

駅前のロータリー。ちなみにタクシー会社もあります

駅前にはかつての旅人のオブジェがあります

江戸時代の当地は紀州藩(広大だったのですね)で各街道の合流点。お伊勢参りを終えた旅人は各街道を経てそれぞれ帰路または次の目的地に向かったそうです。合流点、分岐点として田丸宿は大いに栄えました。にしても、文字にすると簡単に「熊野詣」となりますが、えらく遠い。吉野、高野にも向かったと書かれていますが、現在、車で向かっても何時間もかかりそうな距離です

ちなみに翌日、名松線に乗って伊勢奥津駅も訪れたのですが、そこで見たものは

田丸にも記されていた伊勢本街道の解説。こちらは大阪へと向かう道で田丸宿もあります。現在のJRや近鉄の駅名と同じものも見られ、こういうものを見ると鉄路が敷かれた理由や、途中で未成線となった名松線のように敷かれようとした理由もよく分かります。ただ多気の次が奥津とは…。ここは歩くだけで1日かかりそうです。昔の人は皆さん健脚だったのですね

珍しく周辺散策

次の列車まで1時間あります。ということで今回は珍しく観光というか周辺の散策を行うことにしました。幸いなことに駅は玉城町の中心部にあるので城跡の訪問も含め、ちょうど良い環境です

5分ほど歩くと

町役場(右手の建物)と保育所が見えてきます。堀の内側に建てられているのが分かります。役場の向こうはすぐ城郭への入口です

登っていきましょう

相当な攻防の歴史があったようですが、各地の城郭と同様に明治維新とともに廃城となり、現在は城跡となっています

坂を登っていくと玉城中学校

駅から学校までは徒歩10分ほど。こうして見ると学校は完全に城の中です

写真で見るとよく分かる

そして天守の場所へ。途中、この季節とは思えない薄着のご婦人2人連れとすれ違いました。私より明らかに年上です。地元の方で日課なんでしょうね。お元気です。ここまで簡単に登ったように書いていますが盛夏だったら、途中で引き返したかもしれません(笑)

石垣の上に天守があったのですね

眺望は素晴らしい。桜の季節は華やかだろうし、四季それぞれの顔があるのだと思いました

SLは北海道から

城から降りていくとSLが展示されていました。もちろん静態保存ですが屋根もあって状態はとてもいい。てっきり参宮線で活躍していものかと思ったら

北海道で活躍していたものが町政80周年でこちらにやってきたそうです。確かにそう言われると先頭部分には雪かきが付いていて納得。初めて知ったのですが昭和13年から19年までの6年間で382両も製造されたのですね。戦時下の需要がうかがい知れます

参宮線では昭和48年つまり1973年までSLが走っていたと記されています。これも初めて知りました。私は67年から72年まで三重県で幼少期を過ごしていて、つまりはSLがバリバリの頃に県内にいましたが、住んでいたのは名張という近鉄しか走っていない町だったので全く知らなかったというか縁がありませんでした。ただ私が名張にいるころに近鉄は鳥羽まで延伸して賢島まで直接行けるようになり、近鉄特急もバンバン走っていました

参宮線の歴史については後述しますが、近鉄の鳥羽延伸が大きなダメージを被ったという事実は知っていたものの、まだSLが走っていたとは初耳です。郷愁というより近鉄特急にSLでは、とても対抗できないな、と思ってしまいました

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

参宮線、今のうちに~このために来た

田丸駅にはさよならメッセージがビッシリ書き込まれていた

2022年10月29日10時10分

いよいよメインイベント

宮川からひとつ戻って田丸駅に到着。この日は6時24分名古屋発の列車に乗り、亀山経由で参宮線に入り、出発すらすでに3時間半。車内でウトウトする時間帯になっていますが、しっかり目覚めた。ここに来るためにホテルを早めに出てきたのですから

跨線橋を昇り降りして、まずは駅舎を拝見

うーん、これはほれぼれするような立派な駅舎だ

駅名板は宮川の巨大ホーローに対して、こちらは筆書き。かなり古いものであることは間違いない

柱は赤く塗られています

財産票によると大正元年(1年と書かれているところがまたいい)ですから1912年。昨年で110歳の誕生日を迎えたことになります。駅の開設は宮川まで線路が伸びた1893年なので、1回改築されていることになります

100年以上の歴史。間もなく姿を消す

田丸駅の所在地は三重県の玉城町。駅の開設時は田丸町で、伊勢神宮への要路となる当地の田丸城は古くから攻防が繰り広げられ、江戸時代になってからは、お伊勢参りの宿場町として栄えました。駅の設置も当然だったのですが、この歴史ある駅舎がなくなる、というのが今回の訪問の趣旨。その時点では解体の時期を知らず(今年の春ごろとされる)、慌てて駆けつけたのでした

玉城町には鉄道駅は、ここひとつしかなく町でも風格のある駅舎を引き取っての保存、管理も検討されたそうですが、調査の結果、耐震性に問題があるとされ、やむなく解体となりました。建て替えを行い、空洞の超簡素な駅舎にはならない予定です。現在、駅にあるものが、いくつか残されるといいですね

有人駅として10年前まで頑張ってきましたが、現在は無人

駅舎内の細かい造りに目が行きます

レンガの土台の上にコンクリートそして、その上に木造駅舎というのも独特な造りのようです

実は年明け早々にも最後のお別れのため再訪問してきました

駅舎内に設けられたメッセージボードには感謝と惜別の文字がびっしり書き込まれていました

参宮線については近鉄との比較や詳細な現状をさらにゆっくり見てから記事にしようと思っていたのですが、解体間近ということで今回の紹介となりました

まだ少し時間はあります。ぜひ田丸駅に足を運んでみてください

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

参宮線、今のうちに~大みそかに開業した駅

宮川駅の柱駅名標

2022年10月29日10時

最初の終着駅、伊勢神宮参拝の拠点として栄える

前日、名古屋に宿泊した私は早朝から関西本線、紀勢本線といくつかの駅を巡りながら10時前に宮川で降りました

宮川駅の歴史は古く、開設は1893年というから明治26年。そして開業日が12月31日の大みそかというのが、特別な駅だということを物語っています

年明けを目前にした大みそかに開業というのは、あまり聞いたことがない。ただどんなに遅くても新年を前にスタートする必要があったのです

こちらが伊勢神宮参拝の「最寄り駅」となったからです

現在も伊勢市駅つまり伊勢神宮の最寄りまで徒歩で1時間近くかかります。そして鉄道の工事は宮川に阻まれ、やや遅れ気味でしたが日本に初の鉄道が走ってまだ21年しか経っていません。車なんてまだまだ。そんな時代に徒歩1時間の場所まで行けるのですから、当時としては画期的なこと。参拝の拠点駅として大いににぎわった記録が残っています。伊勢神宮への参拝は当時の人々にとって大きなイベントだったのですから

面影が残る。ビッグホーローも

木造駅舎が残ります

財産票によると昭和になってあらためて再築されたもののようですが、駅前のロータリーの大きさにも名残が感じられ

跨線橋から構内を眺めた様子。カーブ状にホームが設けられていますが、規模は大きい。駅舎新築のタイミングでカーブも緩やかになったようです

そして長い。参宮線が延伸された後も長大列車の到着や行き違いがあったため、構内は広いものとなっています。長大列車対応でホームの外まで複線区間が伸びています

そして何と言っても

この巨大なビッグホーローの駅名板。とても価値のあるものだと思います

ただそのように栄華を誇った宮川駅ですが、国鉄時代の末期に早々に無人化されています。参宮線そのものが近鉄に圧迫されたというか、伊勢や鳥羽に向けての導線として大きく水をあけられたためです

参宮線の沿線はどこも名所が多く、こちらも駅に隣接して離宮院跡があります

無人駅となっているため駅舎と逆側にある離宮院の側にも出入り口が設置されています

写真でお分かりのように参宮線にはIC乗車は導入されていません

実は駅リポートしては不完全な状態なのですが、早めに紹介しなければならない事情があります。また歴史と格式としては指折りともいえる参宮線について次回以降も報告させていただきます

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

終日の沼にはまる~トリを飾るのにふさわし過ぎる駅だった

信濃川島駅の縦駅名標

2022年10月23日16時30分

降りたのは私一人

中央本線の新線と旧線の環状線。ようやく最後の駅

正確には16時36分で降りたのは私一人。というより、手前の小野でほとんどの人が降りてしまいました

もう少しいい角度の写真を撮りたかったのですが、ご覧の通り黄色い線がここ。ホームが狭くて角度がつけられない。そして駅名標が2つ並んでいます

川岸にも残っていた旧式のものと

観光仕様のもの。わざわざこれが作られた理由は分かりませんが、JR東日本のすべての駅にある標準的なものは設置されていません。というより、2つ並べて置かれることの方も珍しいのですけど

ホームからの景色は

こんな感じで自転車置き場がポツンとある以外は、何もありません。ただ目の前の国道153号は塩尻と伊那を結ぶ重要道路なのでひっきりなしに車が往来します。生活音は全くなくエンジン音だけが響くローカル線の駅でよく見かける光景だといえます

ただここまでは車窓からも見られる。この後、私はひたすら感嘆することになります

驚きの連続

当駅の住所は辰野町大字上島。まとまった集落ははここから南へ10分ほど歩いたところで上島の街はさらに南側にある。両隣の辰野と小野が明治の敷設時に開設された駅であるのに対し当駅は戦後10年が経ってから。辰野と小野のちょうど中間点に設けられていて上島の集落に接した場所に駅を作ると辰野までの距離が近すぎて運行上、あまり役に立たない(すれ違いがしにくい)と考えられたとしか思えません

自転車置き場にはポツンと1台。これはホームから見て分かりましたが、ホームへの階段の向こうにポッカリとトンネル。入ってみます

ホーム下のトンネルをくぐるとすぐ右手の階段を昇るようになっていて、すでに撤去されたホームへ向かうのですが、そこには何と

駅舎があります。一瞬、物置か倉庫かと思いましたが、奥には電話ボックスも見えるので、これは駅前ロータリーなのでしょう

ちゃんと駅名板もあるし

もちろんドアも開いて中もきれいに掃除されています。椅子も設置されているので駅舎です。というか正確には待合室なのかもしれません

振り返るとこんな感じ。駅舎(待合室?)側にはかつてホームがあり2面2線構造だったのですが撤去されてしまいました。ホームの撤去はよくある話ですが、普通は駅舎側が残される。その意味では驚きです

ちなみに駅舎側もひたすら農地で、民家がポツン、ポツンと見えるだけ。なぜこのような構造になったのか不思議ですが、個人的な推測としては国道153号の源流となっている三州街道の旧道は、この地点では駅舎側を通っていて、駅の設置時点ではこちら側に比重が置かれていたのではないかということ。そのうち153号側が重要になっていき現在のホームが残ったのではないでしょうか。国道まではロータリーというより小さな未舗装の道があるだけだもの

ある意味の斬新さ驚いて再びホームに戻ります

駅舎が逆側にあるということで時刻表はホーム入口にあります。形状からすると駅名標だったのでしょうか。奥に待合所も見えますが、その位置まで車両が到達することはなさそう

さらにこの駅にはキロポストが2つあって驚く

岡谷からの13・9キロの下の部分が消えてしまったのか

ホームの勾配標の向こうにはもうひとつキロポストがあって、こちらは新線ができる前からのもののようですが東京駅からの距離とは微妙に合いません。神田からのものでしょうか

ちなみに現状、中央本線で唯一、すれ違いのできない駅となっています。また利用者ですが、私の使用している資料だとデータなし(汗)。ウィキペディアには乗員8人と記されていたので乗降16人ということになります。17時4分発の電車がやってきました。私はこの30分間、駅を独り占めです

生活音のない中、アナウンス音だけが響きます。電車は既に点灯。これに乗らないと大変というか、ちょっと夜の当駅にポツンと一人1時間半は怖いかも。秋の陽が落ちるのは早く、東塩尻信号場付近ではもう真っ暗で何も見えませんでした。思いつきから終日の新線旧線環状線の沼にはまってしまい、モバイルバッテリーも残り0%になってしまいましたが、最後の最後で良い光景に出会えました。とても満足です

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

終日の沼にはまる~塩尻の思い出

10月23日15時30分

懐かしい写真

再び塩尻駅へ戻ってきました。今日、塩尻のホームに降り立つのは4回目です。朝の10時に着いて、そこから6駅を訪ねるのに5時間半が経過してまだ終わっていない。岡谷については特急利用しているにもかかわらずです。実に効率の悪い行動をしている。もっと早く新線と旧線の環状線回りを思いついていたら、本数の多いみどり湖は後回しにするとか、いろいろやりようはあったのでしょうが、しょうがない。ここで50分の待機

塩尻駅というば、ここですよね

日本で唯一のホームぶどう園。ただ長大な塩尻駅のホームの端にあるので自分が利用するホームが別だと結構遠い

私が初めて塩尻駅に降り立ったのは今から30年ぐらい前のことでした。駅を降りたら相当な積雪。翌朝の仕事に備えて前日夜に入ったのですが、雪の中の業務でかなり大変でした。ですから鉄道関連の思い出は全くありません

次に訪れたのが、それから20年近くが経過した2011年の9月。この時は休暇で新宿からあずさに乗って小海線をウロウロして諏訪湖近くに宿泊。翌日は松本に泊まって塩尻まで戻って今回主役の旧線を経て辰野に行き、ひたすら飯田線を南下。途中で疲れてしまって飯田に宿泊しました

その時、塩尻で乗車した電車は今も明確に覚えています

郵便車を改造したクモハ123系。今は宇部線や小野田線の運用として有名ですが123-1から123-6までがあり、新線ができて旧線が支線扱いになった時にやってきたのが、この123-1。そのままJR東日本の所属となりました

ただそんな事情は後から知ったことで、いきなり目の前に現れてビックリ。今は技術が進んでいますが、当時は電車というのは床下に入れるものが多く最低単位が2両とされていた中、郵便車を改造して1両単行として宇野線で走っているのは高松に住んでいた時に見ていましたが、JR東日本が1両だけ所持しているのは知らなかった

2から6までは今も宇部線や小野田線で現役のはずですが、トップナンバーのこちらは今はありません。フォルダを引っかき回しても、この写真しかないということは1枚しか撮っていなかったのかも。もっと撮っておけば良かった。今としては惜しいことです

待合室では120周年のちょっとした写真展が行われていました

こういうものを見ていると時間はすぐに潰せます

帰路も決定

そして帰還コースも決まりました。朝の時点ではいろいろ考えていて大糸線を抜けて糸魚川から北陸新幹線→北陸本線、乗り放題なので新型あずさで新宿まで行っての東海道新幹線、あずさを甲府で降りて身延線→東海道新幹線などなど。ただ飯田線で豊橋まで行って…というコースは頭の片隅にもなかった(笑)。話としてはおもしろいけど、そもそも家までたどり着くのかという話ですよね

ただこの時間になってしまうと中央本線の名古屋経由というノーマルなルートしかありません

早めにきっぷを確保しましょう。乗り継ぎ割引があるのでエクスプレス予約は使いません

週末や行楽シーズンの夕方以降の名古屋行き特急「しなの」は、いつもめちゃくちゃ混むのでヒヤヒヤしましたが、何とかこの時点では数席空いていました。私が乗る時がたまたまそうなのか分かりませんが、しなのって当日のきっぷ需要が多いようで前日のシートマップで楽勝、と思っていても、いざ乗ると人だらけということが多い。この日も乗車すると自由席は座れない人もいる混雑だったようです

ともあれ、座席も確保できたことで最後の信濃川島に向かいます

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります

終日の沼にはまる~車窓を含め見どころの多い小野駅だった

小野駅の駅名標

10月23日14時30分

信号場跡と盆地の一望は必見

電車のダイヤの悪さなど諸条件が重なって、たった4キロお隣の信濃川島訪問が2時間後になってしまいました。実際の私の行動は、ここにいてもしゃーない、と40分後の塩尻行きで1時塩尻に戻ってしまうのですが、中央本線旧線の見どころなどもお伝えしたいと思います

東京方面からやって来た線路は松本盆地を目指す上で、いずれにせよどこかの峠を越えなければなりません。明治期に選ばれたのは善知鳥峠でした。「うとう」は海鳥(PCで入力すると一発変換できました)で山中に迷い込んだヒナを追って親鳥がここまでやってきたという言い伝えによるものですが、当時の敷設技術なのでできるだけトンネルを造らないように線路は行きます。峠越えのため、塩尻と小野の間は駅間が10キロもありますが塩尻から来ると車窓左手に盆地が一望できます。盆地が一望というと松本から篠ノ井線を北に行った姨捨駅が有名ですが、それに似た感覚があります。少し残念なのは森の木が多すぎて全面展望とはいかないところですが、それでも一見の価値はあります

そして姨捨といえばスイッチバックですが、ここにもスイッチバックがありました。単線区間で駅間が10キロもあるため、どこかに信号場(すれ違う場所)を設置しないと列車本数が増やせないと昭和になって設置されたのが東塩尻信号場。そしてせっかくだからと戦後は臨時駅(国鉄では仮乗降場と呼んで北海道にはかなりあった)のようにして付近の住民が旅客利用もできるようにしていました

ここで以前記事にしたみどり湖駅近辺の地図をもう一度

かつて信号所があったあたりは旧線と新線が接近していることが分かります。みどり湖駅の設置は信号場廃止による利用者救済の意味もあったようです

塩尻からの車窓では右手となりますが、その跡は廃止から40年が経ってもしっかり残っています。ホーム跡も残ります

ホーム跡は明確には写っていませんでした(謝)。ぜひ乗車して確認してください

小野宿で栄える

さてようやく小野駅です

かつては小野宿として栄え、明治期の線路敷設とともに駅も設置されました。駅前は国道です。屋根の文字が国鉄ぽい

入口の駅名板の雰囲気は縦と横で異なりますが川岸駅で見たものと同じ。同時期に付けられたものなのでしょう

簡易委託できっぷを発売していますが15時までのようで、駅でボーッとしていると「閉めますがきっぷはよろしいでしょうか?」と声をかけてくださりました

こんな文字がありました

さて実際の私は訪ねていないのですが、行けば良かったと激しく悔いたことを紹介しておきます。当駅から徒歩10分のところに神社があります

小野神社と矢彦神社という2つの別の神社が並んでいるのです。しかも矢彦神社については神社だけが辰野町の飛び地になっていて、なかなか興味深い。私は寺社仏閣については詳しくないし、実際に訪問もしていないのでこれ以上のことは語れませんが、40分後の電車でわざわざ塩尻まで戻って、そこで1時間の時間つぶしをするのなら参拝してみたかった。帰宅してから知っても遅い。思いつき旅で駅と線路の点と線ばかりだけ見ていると、こんなこともあります

にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
にほんブログ村

↑2つクリックしていただけると励みになります