北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~かたくなに「こ」にこだわる駅

※訪問は2025年7月12日

小さな駅に降り立つ

小川原駅にやって来た。ホームの花壇がきれいに整えられている。丁寧に世話をしている方がいるのだろう。どうしてこのようなことを言うのかというと、当駅は小さな簡易駅舎とホームがあるだけで周囲には特に何もない駅だからである

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小川原湖は至近だが

線路と並行して駅前には県道が走る。八戸から三沢を経て野辺地へと至る重要道路だが、近くを自動車専用道路の上北自動車道が走るため、運行量はそこそこという感じで、それほど多くはない。もちろん駅ができた時は自動車専用道路はなかったわけだが、周囲は住宅が点在する場所になぜ駅が設置されたかというと、信号場としてスタートしたからである

信号場としての設置は1944年(昭和19)と戦時中。戦時中は、鉄道による物資の輸送が特に求められた時代で、観光路線などは不要不急として休止になったり、駅が休止になった一方、東北本線のような幹線はできる限りの運行量を求められた。信号場の設置も多かった

やがて戦争は終わり、1953年(昭和28)に駅へと昇格する。信号場から9年後のことだった。だから開業は1953年である

もともとは信号場だった駅は全国に数あるが、その後に人でにぎわう重要駅になることはまずない。もともと周辺に何もないから信号場として開設されたのだから、当然のことだ。当駅の2023年度の1日あたりの利用者数は17人。これは青い森鉄道の25駅(青森、八戸をのぞく)の中では24位とブービー賞である

ただこういう駅こそ、見どころは意外と多いものである。県道と逆側にコンクリート式の駅舎がある。もちろん無人駅。建て替えられたのは1970年代だ

無人駅につき、駅舎と逆側の県道からも出入りできる。こちらにも手入れされた花壇がある。ご覧のように跨線橋で上下線を行き来できるが、道路をホームの端まで行けば踏切もある

浜道踏切という徒歩専用の踏切がある。「セニアカーは通行できません」とある。セニアカーという言葉は初めて聞いた。調べるとシニアカーのことだが、最初に開発したスズキが登録商標としてセニアカーと名付けたことでその名が広まったという。鉄オタ活動をしていると、1日の利用が20人にも満たない駅で思わぬ博識になれるのだ

駅名の由来はもちろん…だが少し違う

こちらが駅舎内の待合室。きれいに清掃されている。寒冷地なので、雪かきの装備もある

さて駅名についてだが、これは分かりやすい。小川原湖に基づくものだということは容易に推察できる

地図をたどっていただけると分かるが、小川原湖畔まではすぐ。10分ちょっと歩けばすぐにたどり着ける。ただ、ここで冷静に考えてみると、湖は「おがわらこ」のはず。にもかかわらず駅名は「こがわら」これはどういうことかというと、もともとは「こがわらこ」だった湖の名前が1958年に「おがわらこ」に変更されたからだ。それでも駅名は変更されることなく「こがわら」で現在に至る

湖の名前が変わってから70年近くが経過しても駅名は変わらない。実にかたくなである。ただ推察するにかたくなというより、駅名はそのままでも大勢に影響はないと判断された可能性が高い。小川原湖観光の最寄り駅は両隣の三沢と上北町である。湖には近いが、湖の観光地にはそれほど近いわけではない。だからスルーされたのだろう

駅近くには観光用の周辺案内図があるが、時間とともに実に味わい深いものとなっている。地名と駅名が異なっていた有名例として米原があるが、有名ではないにしろ、このような例に出会えたことがうれしい駅訪問となった

※追記 Xのフォロワーさまからコメントをいただき、駅近くの小川原郵便局は「こがわら」郵便局で、近年閉校になった小学校も「こがわら」小学校だったとのことです

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~荘厳な地名にひかれる

※訪問は2025年7月12日

最終日は弘前から青森方面へ

津軽湯の沢駅から弘前に向かって2泊。11日は1日かけて弘南鉄道を味わった

1日のことは昨年すでに記事化している

12日の朝7時すぎに弘前駅へと向かい

「またきて」と見送られ、青森方面へ30分

大釈迦駅で下車した

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規模の大きさを感じる駅名

地元の方は慣れているだろうが、関西からやって来て「大釈迦」という名前には驚かされる。先日、山陽本線の曽根駅の木造駅舎がなくなるという話を記事にしたが、当駅の地名は阿弥陀。駅舎に住居表示が張られているので知識がないと驚く人も多いかもしれない。現実にもともとの駅名は阿弥陀だったわけで、今もその駅名が続いていれば、もっと話題になっていたのではないだろうか

そしてこの話の流れで推察できるかもしれないが、大釈迦は地名である。開業は1894年(明治27)と19世紀から当時は大杉村。戦後に浪岡町となり、現在は青森市だが、そもそも大杉村が発足した明治の町村制施行前は大釈迦村だった

近くに梵珠山(ぼんじゅさん)があり、山頂にある釈迦堂が地名の由来とされる。平城京からの遷都を行った桓武天皇が建立したとされるので歴史は長い

そしてその大釈迦駅。ホームから駅舎へと向かうと

「大」が付く我には随分とコンパクトなお出迎え

駅舎内はこれだけ。もちろん無人駅でICリーダーがポツンと設置されている。駅舎はというと

随分とかわいい。そして真新しい。これを見て今はやりの駅舎の簡易型改造が行われたかと思われるかもしれない。確かに2007年(平成19)に建て直されたばかりの駅舎だが、それ以前の駅舎もコンクリートの簡易的なものだった。だから寺院風の屋根となった現在の駅の方が大釈迦の名前にふさわしいかもしれない。ただしそれは国鉄末期に建てられたもので、それ以前の様子は調べても分からなかった

周辺は主に住宅街となっている

重要駅だった時代も

駅は2面3線。島式ホームには、駅舎に合わせた独特の屋根を持つかわいい待合所がある

かつては貨物の扱いもあったようで

今は使用されない側線が残る

さて現在の1日の利用者数は100人程度とみられる当駅だが、かつては重要な駅だった

五所川原と当駅は近いのだ。奥羽本線を経て五所川原に行くには川部での乗り換えとなるが、線路の形状は1度南側の川部に向かってから五所川原に向かうという遠回りとなっている。五所川原に最も近い奥羽本線の駅は大釈迦で、明治期は大釈迦駅から五所川原へと向かう馬車が出ていたという。大正期に入り、現在の五能線が開業したため、移動には列車が使用されるようになったが、それまでは青森へ向かうメインコースだった

地図を眺めないと、このショートカットは意外と思いつかない。とあるテレビの旅番組を見ていると、このショートカットのヒントが紹介され、調べてみると馬車で結ばれていたことが分かった次第。もちろん当時の道路事情に加えて馬車なので、17キロの道のりにどのぐらいの時間を要したのかは不明だが、交通の要衝としての役割を果たしていた時代もあったということを心に留めておきたい

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~秘湯、秘境…どうしても降りたかった冬季閉鎖駅

※訪問は2025年7月10日

津軽線の訪問から弘前を越え誰も下車しない駅へ

この日は朝から津軽線の訪問を行っていた。今年も含め2回に分けて津軽線の廃止予定駅を巡り、それについてはすでにリポート済みだが、この時はどうしても行きたい駅があり、青森から奥羽本線を弘前へと向かい、弘前駅を通過。降り立ったのは

津軽湯の沢駅である

まずこの時の状況から説明すると到着時間は15時13分。列車内には帰宅の高校生もかなり乗っていて2両編成の列車内は立ち客もいるほどの乗客数だったが、誰1人として降りない。私だけ。それなりに乗客はいるのに降りたのは私1人というシチュエーションは、全国各地で体験しているが、幹線の電化区間では体験数がグンと減る。逆に言うと、オタ的には訪れなければならない駅ということになる

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周囲には何も見えず

駅は高台にあり、降りていくと駅舎がある

誰も降りなかった駅は立派な駅舎を備える。駅舎内にもホームにも待合室がある

駅名板は風雪にさらされ、かなり薄くなっている。ベニヤ板が目立つが、これはおそらくお手洗いを塞ぐためのものだろう

そして駅前はこのような感じ

道路が1本続いていくのみ。この道路を通っていくと国道7号に出る

まず駅についての情報はというと、開業は1949年(昭和24)。奥羽本線は1905年と明治38年の全通なので、駅としては新しいものとなる

ただ駅に残る財産票を見ると

昭和45年(1970年)と新しい。ここに当駅の秘密がある。駅舎は建て直されたものではなく移転したものだ

地図を拡大していただくと分かるが、当駅は青森県側から来ると最後の駅で、お隣の陣馬駅は秋田県。つまりは県境越えで、現在の地図では、この間は真っ直ぐに線路が伸びているが、元々は違った。国道7号はいかにも県境らしく、クネクネと峠を越えているが、かつての奥羽本線も国道に沿って敷設されていた。急カーブやトンネルで勾配を越えるもので、運行面の難所でもあった。それを解消すべく陣場~津軽湯の沢の間に新たにトンネルが通された。その際、駅も移転した。国道沿いにあった駅がやって来たのが現在の場所

湯の沢とは、いかにも温泉が近くにありそうだが、実情はやや異なっていた。湯の沢とは旧駅のさらに秋田寄りにある川(沢)の名前で、さらに奥に行くと湯の沢温泉はあったものの、場所はさらに県境の山深い場所。温泉までは現代の感覚では徒歩という距離ではなく、駅の開業時は温泉と川の名前の両方をとって駅名をつけたと思われる

そのような事情から周囲が閑散とした新たな駅も、当初から利用者は少なく間もなく無人化。2018年からは冬季通過駅となった。12月1日から3月31日まではすべての列車が通過するばかりか、現在も一部の普通は通過する

ちょっとした驚き

それでも時刻表を見ると

駅が営業している夏季はそこそこの本数があり、訪問難易度はそれほど高くはない。私は15時13分でやって来て、30分後の15時46分で弘前に戻った

駅の跨線橋にあった数字は最初は何のことかと思ったが、財産票を兼ねたもののようだ

福島からの距離も記されている

ホームの端から見えるものは旧線跡だろうか

ホームの待合室もきれいに清掃されている

そのように30分を過ごしていると、ちょっと驚いたことがあった

ホームから駅舎を眺めていると、徒歩でやって来る人の姿が。当然だが、間もなくホームで一緒になった。どう見ても同業者(鉄道ファン)ではない。同業者の間では、当駅は有力な廃駅候補となっているようだが、利用者がいるんだ、と思うとちょっとうれしくなった

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~すぐ向こうに海が望める海産物でにぎわった駅

※訪問は2025年7月9日

八戸方面へやや戻る

青森市に入っていた野内駅から八戸方面へ4駅戻って再び青森市を出る。到着したのは清水川駅。ここは津軽郡平内町である。平内町の中心駅である小湊駅については2024年に訪問しており、すでに記事としている

つまりは町の中心部ではない駅となる

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目を引く駅名板

こちらが駅舎。戦後に建てられたものとみられる。目を引くのは駅名板で

明らかに国鉄時代からのものが今も残る。木の板に手書き。今は思い出したようにしか見かけなくなってきたが、不意に出会うとうれしくなる。と同時に残してくれたことに感謝である

駅は高台にあり、海が望める

清水川港やその周辺の集落からは、やや離れたところにある。国道4号のさらに向こう側。それが高台から海を望む光景になっている

駅は遅れてできた。この地に鉄路がやって来た明治期に駅は設置されず、1922年(大正11)に清水川信号場ができ、昭和の声を聞いた後の1936年(昭和11)に駅へと昇格した

駅舎内にはJRが三セク転換する際の毎日新聞の連載記事が張られていて(著作権に抵触する可能性があるので写真は掲載できません)、その記事によると今の規模の大きな集落から想像できないが、当地はもともと人の少ない場所だったため、駅がなかなか設置されなかった。そもそも線路は港からやや離れた場所に敷かれている。ただ信号場のころから駅にする気運が盛り上がり、清水川駅は貨物を扱う駅として誕生。ホタテをはじめとする海産物の積み出しでにぎわったという

東京から708キロ

駅はかなり以前に無人化されていて窓口はふさがれている

上下線は跨線橋で結ばれているが、上り線と下り線の間隔が広く、かつてはここにももう1本レールが通っていたことが分かる。待避のための線路

無人駅につき、駅舎の逆側からもホームに出入りすることができるようになっている。防雪林の奥にも集落がある

同じ青森県の弘南鉄道大鰐線の石川駅にあった看板を思い起こさせる子どもへの注意看板がここにもある

そしてホームに残るキロポスト。地面に埋まった形のものだけではなく、高く掲げられているものも含め目立つように2つある。言うまでもなく東京から708キロという距離を今も伝えてくれるもの。青い森鉄道は海に沿って走っているように見えて、実は意外と海が近い場所は少ない。ましてや高台から海を望める駅は、さらに貴重な存在である

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~明治生まれの「新駅」がもたらした成功

※訪問は2025年7月9日

高架の新しい駅

野内駅に到着。青い森鉄道は東北本線をそっくり引き継いだものだが、三セク移管後に開業した駅もある。全国各地の三セクにあてはまることだが、細かく駅を設けることによって地元のニーズに応え、収益増を目指すのは当然のことだ

この写真だけを見るだけで新しい駅の雰囲気は十分あ。ホームもフェンスも真新しいし「エレベーター」の文字も見える。つまりバリアフリーに対応した高架駅ということになる

そして駅の姿はこちら。無人駅ながら高架。明らかに新しい駅だ。だが駅の誕生は明治。ならば、元は地上駅だったものが高架化されたありがちなパターンかというと、それは微妙に違う。順を追って説明しよう

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山中の駅として出発

野内駅は1893年(明治26)の開業。すでに130歳を超えた長い歴史を持つ駅だ。かつての野内村に基づく。野内村は1962年に青森市に編入されたが、駅の設置時はもちろん野内村。しかし駅の場所は町の外れの山中だった。線路は町の中心部を通っているが、駅は街外れだった。理由は山からの石灰石を積むため。また後に野内には石油やガスのタンクが設置されるようになり、その運搬にも当駅が利用された。つまり貨物駅としての役割が大きかった

ただし一時は大いに栄えた貨物輸送は徐々に衰退。国鉄末期には貨物駅としての役割は終わり、旅客専用となった駅の利用者は少なかった

駅はそのまま青い森鉄道に引き継がれたが、大きな転機となったのは三セク移管直後のこと。2011年春に県立青森工業が移転してきたことに合わせ駅も移転した

野内の集落の東の端にあった駅が西の端、といってもかなり開けた場所へと移転したのだ。距離にして1・5キロ以上の移転。大都市に行けば隣駅になりそうな距離だが、ともに旧野内村にあるためか、駅名は同じく野内。駅の引っ越しという扱いなので、15年前に建てられた駅も明治来の駅ということになる。つなみにJRからの三セク移管が2010年12月で新たな野内駅が営業を開始したのが2011年3月だったので、青い森鉄道としての旧駅はわずか3カ月だったことになる

駅は上り線と下り線が別々に独立していて、往来には駅の外に出る必要がある

その解説板がこちら

移転がもたらしたもの

駅の移転が何をもたらしたかというと、高校生による利用者の激増である。JR時代末期のデータがないが、多くてもせいぜい1日50人ぐらいと予想される利用者数が、2023年度には974人。これは路線内25駅(青森、八戸のぞく)中、第6位の数字となっている。大幅な利用者増だ

ホームにいると貨物列車が通過。時間は15時前で、この後すぐホームは高校生でにぎわう。駅にはコンビニが隣接していて、こちらもにぎわう

駅の移転が大成功した例となった。ちなみに旧駅の様子は浅虫温泉~当駅で車窓を見ているとホームが今も残っていることで確認できる

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~明治以来の同名駅同士のお付き合い

※訪問は2025年7月9日

下田駅といえば…

下田駅に到着

かつての下田町の中心駅で優等列車の停車もあった。現在も快速停車駅で2面3線のホームが現役だ

おそらく「下田駅」で最も有名なのは観光客でにぎわう伊豆急行の伊豆急下田だろう。だが、伊豆急下田駅の開業は戦後の1961年(昭和36)なのに対し、こちら青森県の下田駅は1891年(明治24)と70歳も年上だ。歴史は圧倒している。私鉄と国鉄の違いはあれど、伊豆急下田という駅名にならざるを得なかったのだ。ちなみに「伊豆急」が付く駅は伊豆急行では伊豆急下田のみである

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微妙に先輩のもうひとつの駅

ただ今年で135歳になる下田駅には、なんということか先輩の下田駅があった。和歌山線の下田駅(奈良県)である。今ではローカル線の路線となっている和歌山線だが、下田駅の歴史は古く、こちらも実は1891年の開業と同じ年齢。しかも開業日は青森県の下田駅が12月20日なのに対し、奈良県の下田駅は3月1日と9カ月先だった。駅名というのは、後からできた方が旧国名を入れたりするのが通例で「陸奥下田」となりそうなものだが、同じ年という理由なのかどうか、駅名は「下田」のまま今日に至っている。参考までにアイキャッチ写真の駅名標を見ていただくと隣駅は「陸奥市川」。これは想像に難くなく、総武本線の市川駅(千葉県)が先に開業していたからである。ただし陸奥市川の開業は1944年と、下田駅に比べるとかなり遅い

このような経緯で明治期からずっと「下田駅」が国鉄、JRに共存していたわけだが、その均衡は今は崩れている。平成になって奈良県の下田駅は香芝駅に名を変えたのだ

こちらが現在の香芝駅。駅名が変わったのは香芝市に香芝という駅がなく地元の要望もあったというが、歩いて数分のところにある市役所に近い近鉄の駅は「近鉄下田」のままである

その流れが現在に何をもたらしたのかというと、奈良県の駅名が変わり、青森県の駅が青い森鉄道の駅になったことで、JRに下田駅はなくなってしまったのだ

木造駅舎が今も残る

その下田駅の駅舎はというと

木造駅舎が今も残る。財産票を見つけられなかったので年代は分からないが、屋根を支える木の柱を見ると、かなり年季の入ったもので、戦前からのもののようだ

数年前に無人化され、窓口の場所には自動券売機が設置されている

その下田町はイオンモール下田でも地元では知られる。いろいろな駅からイオンモールへのバスが出ているが、ここ下田駅とは

おいらせ町民バスで結ばれている

下田町は平成の大合併でおいらせ町となった。町名は町を流れ、上流は観光地として有名な奥入瀬川から来ている。そのおいらせ町。「おいらせ」はひらがななので、説明は不要だが、読みは「おいらせちょう」である

前回の記事で「町」の読みについて触れたが、青森県は「まち」が圧倒的に多い県で、南部町と当地のみが「ちょう」となっている

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~「まち」ですか?「ちょう」ですか?

※訪問は2025年7月9日

急かされるように乗り換え

諏訪ノ平から八戸までやって来た。以前にも書いているが、青い森鉄道はJR時代からの名残で運行は八戸で分断される。そして乗車した電車は5分の乗り継ぎで慌ただしく接続だった。お手洗いに行く間もなく青森行きは出発である(現在は接続時間がほんの数分増えた上で、接続電車は快速となっているようだ)

そして約20分で

上北町駅に到着である

かつての特急列車停車駅

当駅はかつて、一部の特急が停車する優等列車の停車駅だった。上北町の代表駅で1891年(明治24)の開業というから、135歳と年齢に例えるのが困難なほど歴史のある駅だ。上北町は平成の大合併で東北町となっている

木造駅舎が残る。さすがに明治のものではなく、戦後に改修されたものだと思われる。現在は無人駅だが優等列車が停車していたことを感じさせる立派な構え

駅は現在も2面3線構造

側線も残る

名所案内はやや薄れているが、駅のすぐ東側から北側にかけて広がる小川原湖の最寄りでもあり、観光拠点の駅でもある

こちらは駅に掲げられた案内図。町名は上北町のままだ

また七戸町にも近く、そちらからの利用もある。優等列車が停車していたゆえんでもある。ちなみに十鉄とは十和田観光電鉄のことで、鉄道は廃線となったが現在はバス事業を行っている

駅を出ると「ようこそ」の歓迎

逆方向から見ると

アーチの向こうに駅舎。こちらは「またきて」。ちなみに駅前はこうして見ると駅前広場かロータリーのようになっているが、道路のセンターラインが見える通り、写真の右に向けて主要道路が続く

「上北まち」にあった「上北ちょう駅」

さて私が電車を降りて「あれ?」と思ったのは駅名である。駅名標に「かみきたちょう」とあったが、調べてみると自治体名は「かみきたまち」だった。自治体としての「町」を「ちょう」と呼ぶか「まち」と読むかは、国内では二分されいていて、例外はあるが、ざっくり言うと東日本が「まち」で西日本と北海道は「ちょう」。九州は混在となっている。また東日本の中では岩手県は混在である。私はそのジャンルの専門家ではないが、もともとは武家が住む場所が「まち」で、武士以外の商人や町民が住む場所が「ちょう」と呼ばれていて、明治維新後に新政府が「もう武士の時代ではない」と「ちょう」を推進したという話を聞いたことがある。だから新しい町が多い北海道は「ちょう」になったが、東日本では旧来からの呼び方を重要視して「まち」となったとか

あくまで伝聞で、自治体名でなければ日本中に「本町(ほんまち)」はあるので、なんとも言えないところだが、ここ上北町は町村制施行時の1889年に「かみきたまち」として成立し、2年後に当地にやってきた鉄道の駅は「沼崎駅」だった。現在の駅名となったのは戦後10年以上も経ってからで、当時の国鉄は「ちょう」と名付けた。駅名と自治体名が異なることで、地元で反対の声が多かったという記録は見られなかった

駅舎内のかつて窓口や手荷物受付があったと思われる場所には自動券売機が置かれている

駅舎から外に出ようとして出会った言葉。なかなか言い得て妙である

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~駅舎解体の全国ニュースで40年前の朝ドラが蘇った駅

※訪問は2025年7月9日

何も考えずにふらり下車

剣吉駅から1駅岩手県方面へと戻り、諏訪ノ平駅で下車。少し見にくいかもしれないが、2面3線だったホームの中線がはぎとられている。カーブの途中に駅がある構造だ

それゆえ、岩手県方面への電車は駅舎から離れたホーム、旧3番線に到着する。現在は2番線。中線が撤去されているのは前記事で紹介した剣吉駅も同じだ。貨物列車は今も走るが、優等列車の運行がなくなった今、列車の待避の必要性は薄れている。これは三セクに限らず、新幹線の運行で優等列車がなくなった各地の本線も同じである

ホーム有効長は長いが、一部はほとんど草むらとなっている。そしてホーム側から見た駅舎。今は無人駅だが、屋根の煙突がいい味を出している。実は数年前まで駅舎内の待合室ではストーブが稼働していたという。とにかく時刻表を見ながら、フラリ降りてみた。いつものことだが、駅についての予備知識はぼ入れていない。駅を眺めつつ。列車を待ちながら学習するつもりだ

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訪問後に流れたニュース

時系列が混同するが、私の訪問からしばらくして駅舎解体のニュースが流れた。現在、古い駅舎の解体それほど珍しいことではない。だから、かつてよほど話題となった駅舎でない限り、廃線にでもならない限り、あくまでローカルニュースで終わってしまうことが多い。ただし当駅については全国ニュースとして取り扱われた。つまり「よほど話題になった駅」なのだ

こちらが駅舎。木造モルタルの造りで1933年(昭和8)の開業。両隣の三戸、剣吉が明治期開業だったことを思うと、30年以上後に設置された。三セクの駅というのはJRの駅に比べると、古い駅舎がそのまま残されることが多い。こちらの駅舎は開業時からのもの。残念なことだが、柱の部分を見ると、かなり老朽化していることが分かる。老朽化だけでなくシロアリ被害もあるそうで、このまま放置すると駅舎そのものが危なかったという

そして駅舎解体のニュースが全国ニュースになった理由も、さすがに私は分かっていた

こり諏訪ノ平という地は、黒柳徹子さんが戦時中に疎開していた場所として知られていたのだ。なぜ知られるようになったかというと、黒柳さんの母を主人公としてNHKの朝ドラ「チョッちゃん」で、疎開の場面が描かれたからだ

1987年のドラマなので、若い方は知らないかもしれないが、すでに社会人になっていた私はよく分かっている。当時の朝ドラというのは、お茶の間の娯楽=テレビだった時代、今よりはるかに社会現象だった

駅舎解体の事案が進行していることも分かっていない私は、駅舎内で駅について調べ「疎開の地だったんだ」と感心していた。シャッターの降りた場所にはかつて売店があったのだろうか

こちらは事務室の入口。もちろん無人駅なので閉鎖されている。「有言実行」はいつからのものだろう

かつての写真が掲げられていた。服装から推察すると戦時中のものか

印象深いホーローの注意案内

青い森鉄道の駅舎には、JRから三セクに移行する際の毎日新聞の連載記事が張られている。著作権に触れる可能性があるので掲載は自粛するが、当駅は南部りんごを貨物として扱っていて、三戸駅に次ぐ発送量を誇っていた。また最大の干し菊の産地でもあるという

今年7月にも青い森鉄道に乗車し、簡易的になった駅舎を車内かに眺めた。下車する時間はなかった

ホーローの注意書き。かなり古いもののようで、鉄オタ的には価値のあるものだが、今も残されているのかどうかは分からない

こちらはもう見ることのできないかつての駅舎の全景。こうして見ると大きなもので、よくぞ事務室部分が最後まで残ったと思う。ふらり降りたからこそ、黒柳徹子さんと駅の歴史を知ることができた。そして何より、駅舎そのものに間に合った。偶然に感謝しよう

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~駅前通りと広告そして駅舎内の写真

※訪問は2025年7月9日

規模の大きな駅

剣吉駅に到着。青森県に入って最初の駅となる目時駅(帳簿上はIGRいわて銀河鉄道の終着駅で青い森鉄道の起点駅となる)から3駅目。青い森鉄道は国鉄時代の名残で八戸駅で運行が分断されていて、目時~八戸と八戸~青森が別路線のようになっているが、剣吉は前者に含まれている。この区間で最も規模が大きな駅は三戸駅で、かつての特急停車駅だが、その次に規模の大きな駅で、1日あたりの乗降者数は三戸の334人に対し、剣吉は236人(2022年度)とこの区間では2位の数字となっている。かつては優等列車の停車もあった

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無人駅ながら立派なお出迎え

かつては2面3線構造だったようだが、真ん中の線がはがされて2面構造となっている。貨物の取り扱いもあった。ホームに降りたって駅舎を眺めただけで規模が分かる

かつてというより、ついこの間まで名川町(ながわまち)唯一の駅だった。鉄道がこの地にやつて来たのは1897年(明治30)と、19世紀からの歴史を有する古い駅。そのころは名川町もまだなく北川村。北川村は剣吉村など複数の村が集まってできた自治体で、駅名はそこから採用された。北川村が戦後、名久井村合併して名川町となり、2006年から南部町。剣吉とはアイヌ語で、榛(はん)の木のある場所という意味。かつては湿地帯でハンノキ林だったのかもしれない

駅もまで有人駅で

駅舎に入ろうとすると立派なお出迎えがある。無人駅とは思えない

駅前で見た風景と駅舎内の風景

駅舎は昭和30年代から40年代にかけての国鉄コンクリート駅舎だ

駅の近くには商店街がある

駅前の商店にあるホーロー広告。かつては全国にあったおなじみの光景だが、今は急速に数を減らしている。いつからのものだろうか

駅舎に入ると

窓口と荷物受付があったと思われる場所は塞がれていて自動券売機が置かれているが、駅舎内はきれいに清掃されている

設置はそれほど古くはないようだが、駅舎内に立派なお手洗いがあるのが特徴。そしてその上を見ていただくと、地元の方々の撮った写真が並び

そこには貴重な写真が飾られていた。昭和19年というと、まさに戦時中の写真だ

駅前のバス停を見ると、南部町の中心である三戸駅へと向かう路線が多いようで、1時間に1本ほどの本数も確保されている

もう一度駅へと戻る。こうして見ると構内は広い。駅舎も含め、かつてのにぎわいが大いに感じられる

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北海道&東日本パスの長閑旅ふりかえり~一気に170キロ移動し青森県へ

※訪問は2025年7月9日

県境移動が最大の課題

朝の一ノ関駅。大船渡線の間もなく100歳を告げるカウントダウンのボードを見ながらスタート。読者の方には全く関係のないことだが、7月26日というのは私の誕生日。もちろん私の人生の長さは遠く及ばないが、親近感はわく

そして多くの高校生とともに北へと進む。始発なので座れた。途中、高校生が激しく入れ替わり、やがて高校生の時間も過ぎ去って車内が落ち着いた9時過ぎに盛岡へと到着

1時間半も普通に揺られると、かなり飽きてくるが、そんな余裕はないのである

IGRいわて銀河鉄道の改札口へと急ぐ。一応、東北本線の盛岡着の列車と銀河鉄道の盛岡発の列車は接続が考慮されていて、9時5分が盛岡着で盛岡発は同14分。9分の時間がある。ただしもともとは同じ東北本線ではあるが、両者の改札口には距離がある。JRの改札を出てビルを抜けて階段を降りなければならない。普通に歩けば間に合うが、それなりの早足が求められる

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絶対に遅れられない列車に滑り込む

ホームに到着したのは9時10分で、発車の4分前

八戸行きが待機している。車両は青い森鉄道のものだ

ここから一気に岩手県を抜けて青森県へと向かうのだが、そのためにはこの列車に乗らなければならないのだ。IGRいわて銀河鉄道は盛岡駅から毎時2~3本の列車が出ているが、多くが岩手県内で完結するもので県境を越える列車は少ないのだ

ちなみにこの前の列車は6時41分で3時間近く前。次の列車は11時27分発と2時間後。一ノ関に宿泊した以上、「始発」はこの9時14分となる。JRとの接続が図られている理由もなんとなく分かる気がする。これを逃すと2時間もの待ち時間が生じてしまうのだ。乗り逃した場合は東北新幹線という手段があるが、もちろんそれは別料金になるので、できればその奥の手は使いたくない

さらに付け加えると銀河鉄道の列車は途中の滝沢、いわて沼宮内止まりのものが多く、いわて沼宮内から先の岩手県内の駅へと向かう列車も多くはなく、県境のはるか手前で待機というパターンにもなるのだ

盛岡を出発した列車は1駅ずつ丁寧に停車しながら北へと向かう。そして盛岡から1時間半かけて

この日の最初の目的駅である剣吉に到着。時間は10時47分で一つ目の訪問駅としてはかなり遅い。それもそのはず。一ノ関から盛岡までが約90キロ。IGRいわて銀河鉄道の全区間が約80キロで、青森県に入るだけで170キロを要し、青森県に入ってから約15キロ。7時半の列車に乗って。盛岡での乗り継ぎの数分間を除くと、それだけの距離をトコトコ揺られてきたのだから、こんな時間にもなる

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