2026年の北海道&東日本パス旅~絶対読めない難読駅は住宅街に溶け込む

※訪問は2026年7月15日

弘前の隣駅

青い森鉄道の各駅を訪問して青森に泊まった翌日、朝から津軽線の各駅を訪問した後に、本日の宿泊地である弘前に向かう。その途中で降り立ったのが撫牛子駅。青森側から見ると弘前のひとつ手前で、奥羽本線はここから弘前市に入る

そして一目瞭然だが、難読駅。しかも「超」が付くレベルである

スポンサーリンク

昔の難読駅と現在の難読駅

当ブログでも難読駅はかなりの数を紹介してきたが、昔と今ではかなり異なる。現在は難読駅クイズを出されてもスマホが手元にあれば、解答はすぐに出る。漢字そのものが難しく、どうやって入力すればいいのか分からない場合は苦戦するかもしれないが、便利な難読駅サイトなどもあるし、所属路線さえ分かれば、もう答えにたどり着いたも同然だ

ネットもないような昔は違う。ご存じのように時刻表にはズラリと駅名が並んでいるが、読みは書かれていない。極端に言うと現地に出向くしか確認する方法はないのである。今も同じ感覚を味わえるのは路線バスだ。地方でなくとも整理券方式のバスに乗ってぼんやり先頭の料金案内をぼんやりと眺めていると「これなんて読むの?」と思うことがしばしば。次の停留所を告げるアナウンスと前方の停留所案内を見て「今なんて言ったっけ?」と反応してしまうこともある

ただそんな時代でも難読駅を知る方法がひとつあった。難読駅やクイズの書籍を読むことだ。「ほうほう、なるほど」と楽しんだものだ。もっともこの方法には、当該書籍でその駅が選ばれなければならない。そんな状況で複数の書籍から「ドラフト指名」された駅が別の意味での有名駅となるわけだが、ここ撫牛子駅は、何度も指名を受けている「難読ゆえに有名な駅」のひとつである

構造は2面2線と標準的なもの。背景で分かるように駅の近くには住宅が並ぶ。弘前の隣駅なので当然といえば当然だ

簡易的なコンクリート駅舎

当駅は1935年(昭和10)の開業。明治期に青森~弘前が開業している奥羽本線では新しい駅となる。当時は和徳村に所在した。和徳村は1955年に弘前市に編入されているが、それまでは和徳村唯一の駅だった。駅名が和徳とならなかったのは、同時期に和徳駅が開業したからだ。和徳駅は撫牛子~弘前の間に設けられた駅で、今も地名は残っているが、1940年に廃駅となった。わずか5年で廃駅となってしまったのは、戦時体制ということや、和徳駅と弘前駅があまりにも近かったからだろう

撫牛子駅から弘前駅への徒歩ルートの途中に和徳駅があったであろう場所を入れてみたが確かに近い。そんな事情で撫牛子駅が残ったと想像

跨線橋を渡って駅舎へと向かうと駅舎を経由せずとも出入りできる構造になっていることが分かる。つまりは無人駅

簡易的なコンクリート駅舎。国鉄時代からすでに現在の姿になっていたようだ。駅名板に記された文字が平凡なものだったら、それほど関心を集めない駅かもしれない

駅前は住宅街で新しい家が並ぶ

さて肝心の地名の由来だが、判明していないのが実情と、なかなか現代では珍しいことになっている。牛を撫でる民間信仰があり、津軽方言がによくある「っ子」がくっついて「撫で牛っ子」が転訛したとか、アイヌ語で川岸に近い「ナイジョウシ」に基づくなど、さまざまな説があるという

こちらは駅舎内の様子。IC乗車もできる区間にあり、弘前のお隣と訪問難易度はそれほど高くはないので、ぜひ訪れてほしい難読駅である

もっとも私が最も驚いたのは

こちらの張り紙だったけど

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~週末は鉄道ミュージアムに

※訪問は2026年7月14日

跨線橋の階段は写真館

向山駅に到着。三沢、下田という路線内では主要駅にあたる両駅の間にある。行政的には下田駅と同じおいらせ町に所在する

列車を降りて駅舎に向かうと

跨線橋には鉄道写真が並べられている。これが当駅をよく表す姿である

スポンサーリンク

もともとは信号場

向山駅は1922年(大正11)に信号場としてスタートした。信号場の名前は「木ノ下」。駅に昇格したのは14年後の1936年(昭和11)。信号場の名前が駅名になるのではなく、現在の向山と名付けられた

向山は全国で見られる地名で、開墾作業を山に向かって進めていったことに基づく。おいらせ町は平成の大合併で下田町と百石町が合併して生まれた。下田駅と同様、当駅は下田町に所在していた

跨線橋を渡ると、そこには機関車のようなものが置かれていた

正面に回ると、車両知識に乏しい私でも、弁慶号であることが分かる

例によって駅の下調べをせず、ふらりと下車するスタイルだが、跨線橋の写真そして弁慶号と、順番に目にすると「これは?」と思わずにはいられない

そして見た「向山駅 ミュージアム」の文字に納得。駅が鉄道ミュージアムとは驚きである

日曜日の開館

まずは駅舎の姿から

いかにも、という国鉄コンクリート駅舎である。青い森鉄道には今も数多く残っているが、おそらく1960年代から70年代にかけてのものだろう。黄色く塗装されているが、それは近年のもの

当駅は国鉄時代、早々に無人化されているが、その駅舎に入館しているのが鉄道ミュージアムである。2011年に開館した

営業日は基本的に週末ということで、平日の訪問となった私は入れなかったが、青森県観光情報サイトによると、開館日は毎週日曜日で、開館の時間は10時から16時、国鉄時代に向山駅で使用されていた金庫や信号旗、硬券入れなどが展示されているという

なぜ駅にこのような鉄道遺品が残されているかというと、元は信号場で周囲には特に何もなかった向山駅だが、近くにフジ製糖青森工場ができたことで工場と結ぶ専用線ができ、貨物輸送でにぎわったからだ。ただし1960年代終わりごろに工場は閉鎖され、専用線も役割を終えている

ミュージアムに携わる向山駅愛好会のブログによると、弁慶号はイオンモール下田に展示されていたもので、2013年にミュージアムに寄進されたものだという

こちらがミュージアムの入口

ホーローの縦駅名標が出迎えてくれる

手作りの駅名板にもあひとつのホーローも

こちらは駅舎内の様子。寄進された本が並んでいる

貨物輸送のなごりでもある側線には保線車が並んでいた。その向こうには防雪林が見える

信号場が駅へと昇格し、貨物で栄え、無人化されてから三セク移管、そして鉄道ミュージアムと、密度の濃い100年を過ごしてきた駅である

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~ようやく降りた「周辺には一切何もございません」駅

※訪問は2026年7月14日

下調べをせずとも見れば分かる

千曳駅に到着。当駅は今回の旅で「起点駅にもかかわらず、なかなか行けない」目時駅と並ぶ絶対条件の駅だった。時刻表は調べるが、駅についての事前情報の入手はしないというのが私の主義だが、当駅については昨年そして一昨年の車窓から事情は丸わかり

スポンサーリンク

何もございません

電車が去った後に残された私を待っていたのは、ただただ静寂だった。写真で分かるようにどちらのホームも森に囲まれている。ただし普通、駅というのはたとえ森や林に囲まれていても、ちょっと歩くと民家の1軒、2軒はありそあなものだが、ホームから外に出ると

砂利道があって頭上を道路が横着るのみ。旧東北本線なので、もちろん複線だが、上下ホームを結ぶ跨線橋や構内踏切というものはなく、この道路が跨線橋代わり

青い森鉄道は時間帯によっては女性のアテンダントの方が乗車していてきっぷの回収を行うのだが、下車する際に北海道&東日本パスを提示しながら「この駅で降りる人っていますか?」と尋ねると「昨日、この駅で降りてみたかった、というお客さんが降りられました」と答えが返ってきた。おそらく、やって来るお客さんはかなりの割合で同業者(鉄道ファン)なのだろう

向かいのホームへ行くために跨線橋となる県道を行くと、全景が見える。左奥に見えるのは農地で、あとは森というか林というか、木に囲まれている。駅前広場というたぐいのものもない

明治来の歴史を有する

こういう駅というのは、かつては信号場で、その後に正式駅に昇格したケースがほとんどだ。信号場を設置するような山奥にあったりするため、もともと人はいないのだ。ただここ千曳駅は1910年(明治43)と、116年もの歴史を誇る駅である。千曳という地名は奈良時代に征夷大将軍坂上田村麻呂が北進いる際、大きな岩に行く手を阻まれ、千人で曳きあげたという伝承に基づく由緒あるもの。かなり以前からのものだったと考えられる

そもそもその時代の駅というのは、あまり人のいない場所には設置されない。というか、少しぐらいいてもスルーされて後から設置というパターンとなる。では、昔は周辺に人がたくさんいたのかというと、この雰囲気では昔はにぎやかだった、という感じでもない。この場所に駅がある理由と歴史があるのだ

実を言うと、もともと千曳駅はここにはなかった

約2キロ離れた国道4号に近い場所にあった。現在地に移ったのは、複線電化工事のため。1968年と60年近く前のこと。さらに言うと、もともとの千曳駅は南部縦貫鉄道の起点駅で東北本線と接続する重要駅だった。ただ、南部縦貫鉄道の駅も一緒に山中に引っ越しするわけにはいかない。そこで南部縦貫鉄道のとった作戦は、東北本線の旧線をそのままいただいて、野辺地まで延伸(というかレールの主が変わった)するというもの。ただ千曳駅が2つというわけにはいかないので、旧千曳駅は西千曳と駅名を変更。途中で駅の位置が多少変わったものの、2002年の廃線まで営業が続いた。南部縦貫鉄道の乗り入れにより、野辺地の要衝具合はさらに上がった

向かいホームにやって来た。といっても、構造はほとんど何も変わらない

待合室はきれいで

もちろん駅ノートもある

そんな千曳駅は普通の一部も通過するため、時刻表を調べずに下車すると2時間ぐらい待たされることもある。少し前までの私なら、こんな駅を独り占めできるなんて、こんな素晴らしい体験はなかなかできない、と喜んでいただろう。だが実際に駅に滞在したのはわずか7分。跨線橋代わりの道路まで昇って、渡って、また坂を下りてと、かなり迅速にというか余裕なく動いた

そして、それは時刻表を眺めに眺めて発見した時間帯だった

昨今、こにような山中では動物との出会いが危険である

防雪林に囲まれた駅で、この林の中からのっそり怖い動物が現れたのではシャレにならないので、現実的には「行きました、下車しました」というだけだ

そんな千曳駅。実は調べていて一番驚いたのは、1日あたりの利用者数で、なんと11人(2023年度)。もちろん青い森鉄道25駅(八戸、青森をのぞく)の中では最下位なのだが、このシリーズで紹介した下から2番目の小川原駅の17人、目時駅の19人と、そう大きくは変わらない。私は限りなくゼロに近い一ケタを予想していたが、さすがは旧東北本線というところなのだろうか。もちろん私が滞在した7分とそれぞれの電車では乗降ともにゼロだった

向かいホームにある青い森鉄道のマスコット入りの待合室は、つい先日、きれいにされたものらしい。ということは、周辺に全く何もないこの駅は、またまたしばらく静寂の空間をわれわれに提供してくれそうである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~大火災からの復興と念願の駅そば

※訪問は2026年7月14日

ビッシリの住宅街の合間に置かれた駅

鮫駅方面にひとつ戻って白銀駅に到着。写真で分かるように棒状ホームのみの駅

列車が去った後の姿を見ると分かりやすい。ホームの向かい側まで住宅でビッシリだ

スポンサーリンク

昭和初期からの駅

小さいホームには待合所そして

厳重にガードされた自動券売機があるのみ。JR東日本の駅に来てJR西日本との違いを感じるのは券売機の扱いで、小さめの駅に設置してある券売機については、JR東日本の駅は仮に駅員さんがいる時間帯がある駅でも、夕方から早朝までの無人時間帯はシャッターが下ろされてしまうことが多い。券売機荒らしの対策だろうが、JR西日本の駅はそのままとなっていることがほとんどのように感じる。1万円札が使えるかどうかで券売機に入るお金の量も異なるのだろうが、ここまで厳重なものはJR西日本では、あまり見かけない

駅を出てふりむくと、すぐにスロープで自動車侵入防止の車止めがある

そして短い坂を昇ると

道路があって、小さく白銀駅の案内板がある。左下に見えるのが駅。知らずに道路を行くとこの案内板がなければ素通りしそうだ。そしてホームがある側もビッシリ住宅街である

白銀駅は1934年(昭和9)の開業。八戸線は明治期に八戸(当時は尻内)~本八戸(当時は八戸)が開業してスタート。大正期に種市までが開業、昭和に入った1930年に久慈までが全通した。だから路線内では後から設置された駅ということになる。駅の構造上、過去に貨物に使用されたことはない

戦時中の1944年には不要不急駅として休止されている。復活したのは、戦後7年が経過した1952年のことだ。住宅街にあるため、1日の利用者は1500人ほどある。券売機が設置されているのもそのためだろう

千戸以上が焼失する大火

白銀という地名は江戸時代からのもので、「白金」と表記されたこともあった。白銀浜があり、明治時代は寒村の風情だったという。現在の住宅街からは想像もできない。駅が設置されたことで宅地化が進んだが、1961年に一帯は大火事に見舞われる。放火に起因するものだったが、折からの強風で火の手はあっという間に広がり、千戸以上が焼失した。「白銀大火」と名付けられた戦後最大級の火事となった。その後の復興事業で街づくりが進んだものが現在の姿になっているという

近くの踏切から駅の全景を眺めて八戸線と別れを告げる

三沢駅で待望の味に出会う

八戸駅へと戻り、青い森鉄道の旅を再開

三沢駅で下車。昨年、一昨年も下車した三沢駅だが、今回だけは明確に目的があった

三沢駅の駅ビルに入る「とうてつ駅そば」である

とうてつとは十和田観光電鉄のこと。三沢駅と十和田市駅を結んでいた路線で、2012年に廃線となったが、会社はバス会社として残っている。私の青い森鉄道の駅紹介でもたびたび登場している

十和田観光電鉄が運行していた旧三沢駅時代から半世紀にわたって親しまれてきた駅そばを復活させたのが当店。昨年も一昨年も当然ここを通ったが、お腹がいっぱいだったり移動の時間があったりで食べられなかった。つまりは3年目の悲願である。ここは当初から計画にあった。陸奥湊駅の朝市を逃したことをかなり後悔したが、仮に朝市に行っていても「そばぐらいなら」と食べていただろう

スペシャルそばをいただいて大変満足。次の駅へと向かおう

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~駅で出会った「イサバのカッチャ」とは?

※訪問は2026年7月14日

ここは鮫より八戸寄り

種差海岸駅を発って陸奥湊駅で下車。ここは鮫駅より八戸駅寄りにある。つまり本数の多い(1時間に1本程度)場所に入っており、何かトラブルに見舞われても何とかなる。付近のバスもそれなりにあって、本八戸駅付近の八戸中心部まで行けば、八戸駅まではバスが頻発している。八戸中心部と八戸駅を結ぶバスはJRよりも圧倒的に本数が多く、1時間に4本という頻度で運行されているはず。ただバスだと別料金になってしまうので、あくまでも非常用の場合である

スポンサーリンク

駅名は文字通り

陸奥湊駅は1926年(大正15)の開業。前記事の種差海岸駅を紹介した際、1924年に種市までが開業し、その際に設置されたと記したが、陸奥湊駅は後から設置された駅だ。開業年の12月に年号が昭和に変わるので、大正ギリギリに設置されたことになる。100歳を迎えた駅ということになる

駅名はまさに文字通り

地図を拡大していただけると分かるが、歩いてすぐの所が八戸港である。駅と港の間には大きな街が形成され、踏め区からの港町であることが分かる

かつては貨物列車でもにぎわう

改札付近にガラス張りの待合室を持つ橋上駅舎は近代的なもの

ただし無人駅。窓口の跡だけが残る。少し前まではみどりの窓口も備えた有人駅だった。5年前に無人化されている

島式ホームのさらに隣には側線が残る。港町でもあるが、セメント工場への専用線があり、貨物取り扱いの駅でもあった。国鉄末期に廃止されている

駅舎は真新しさを感じるもの。2016年にリニューアルされたばかり。当時JRグループでは「青森県・函館デスティネーションキャンペーン」を行っていて、その際に様変わりした。ただわずかその5年後に無人化されるとは、時の流れは早い

出会った石像

駅を降りたところで出会ったのが

「イサバのカッチャ」???

何のことかさっぱり分からない。基本的に事前調べをせず(時刻表は調べる)駅で降りるのが私の駅訪問のやり方だが、これは一体何なのだろう

慌ててスマホで検索すると、もともとは「五十集」(いさば)と書いて魚を取り扱う人のことを指したそうだが、今は朝市で働くご婦人たちのことを指す言葉になったらしい。「カッチャ」とは方言で「お母さん」。つまり背後に見える朝市で元気に働くお母さんのこと

私以外の人も撮影していたので撮影スポットなのだろう

ただ、いろいろ残念なことに駅を降りたところにある朝市には行けずじまい

こちらは駅前の周辺案内図で、当駅付近には駅前と港に2つの朝市があり、港の朝市は日曜のみだが、駅前の朝市は日曜日をのぞく毎日開催されている。八戸の台所と呼ばれるゆえんである

しかし、この日の私はもともとが岩手県との県境にある目時駅を訪問するのが第1のミッションで、当初八戸線は予定に入ったいなかった。そんな流れもあり、ホテルでモリモリと朝食を食べ、さらに八戸駅で乗り換え時間があったため、カフェでさらにモーニングまで食べてしまった。つまりはお腹いっぱいだったのだ。そもそも時間はすでにお昼前で、朝というより深夜の3時に営業を開始している朝市の時間は終わろうとしている

こちらは八戸線仕様の駅名標

朝市では市場で魚介類を買い、ご飯とみそ汁だけを買って食べる「勝手定食」が名物だという。実に食欲をそそる話である。駅について調べないのだから、朝市も勝手定食も知るよしがない。列車は1時間に1本あるのだから、食べる余裕はいくらでもあった

下調べをせずにフラリ降り立つ旅の良さは十分に感じているが、遠路はるばる行くのだから、その土地でしか食べられないものについては、事前に優先的に調べておいても良いのではないか、とこの時ばかりは、痛切に感じた

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~観光地最寄り駅に残る栄華の跡

※訪問は2026年7月14日

やや薄いダイヤとともに

種差海岸駅にやって来た。元々は八戸から青い森鉄道をそのまま青森方面へ向かう予定だったが、朝の行動が順調だったため、そのまま青森に向かうのにはまだ早いと急きょ八戸線を少し入ってみることに。このあたりが気ままな北海道&東日本パス旅の良いところである

ただし

駅に列車がやって来るのは1日8・5往復で決して多いとはいえない

鮫駅の項でも触れたが、八戸線は八戸から本八戸を経て鮫まで到達すると、その先はガクンと本数が減る。今回は10時2分に種差海岸駅に到着して同27分で折り返す予定である

スポンサーリンク

リニューアルされたばかりの駅舎

駅舎は真新しさがホーム側からも一目瞭然

正面に回ると

いかにも新しい。昨年12月にそれまでの駅舎を元にリニューアルされた

当駅は1924年(大正13)の開業と100年以上の歴史を持つ。八戸線が現在の本八戸駅(当時は八戸駅)から種市まで延伸された際に設置された。当時の駅名は「種差」。ただし当時も何も、この駅名は平成になってもそのままで、現駅名となったのは2002年(平成14)。有名観光地である種差海岸をアピールしようと地元からの依頼で駅名変更となった

天然の芝生地で知られる種差海岸へは駅からすぐ

駅前の通りを真っ直ぐ行くとたどり着く。訪問時は平日の午前で人はまばらだったが、インバウンズの方々がゾロゾロと歩いていった。それにしても観光地に行くと必ず存在感を示すインバウンズの皆さんは、京都などの有名観光地ならいざ知らず、ちょっとした観光地ならどこでも出会う。どういうモチベーションで、というかどうやって全国各地の観光地を探し当ててやって来るのだろうか。AIが教えてくれるといっても、どのような過程でターゲットにするのか不思議だ。東京まで飛行機でやって来たとしても、なかなかここまでたどり着くのは難しい

こちらは駅前の観光案内図。こちらも真新しく保たれているようだ

案内図で紹介されている鳥瞰図絵師の吉田初三郎は当地に別荘「潮観荘」を設け、戦時中から戦後はアトリエにもなっていた。駅舎はその潮観荘をモチーフにしたものだという

かつての2面3線ホーム

新しい駅名板を眺めながら駅へと戻る

現在は1面1線の棒状ホームだが、向かいには島式ホームが残る

開業時から貨物を取り扱っていた当駅だが、戦後20年も経たないうちに貨物は取りやめ、記録ではまだ国鉄時代の1982年に交換機能はなくなり、現在の姿となるとともに無人化された。40年以上前から現在の姿になったようだ。確かに現行のダイヤでは不要な設備だろう

八戸市では夏季の週末に鮫駅と当駅を結ぶ「種差海岸遊覧バスうみねこ号」を運行。途中の観光地に立ち寄りながら、鮫駅と種差海岸駅を結ぶ市営バスを1日7往復運行している。このバスは鮫駅で八戸線の鮫~八戸の列車との接続を行う

1日8・5往復と決して多くはない八戸線を補完して観光地への利便性向上を図っている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~新幹線と雄大にクロスする駅は、かつてりんご輸送でにぎわった

八戸のひとつ手前

北高岩駅で下車。八戸のひとつ手前。そして当駅から八戸市内に入る。ちょっと意外に思われるかもしれないが、人口約20万人と青森県第2の都市である八戸市に所在する青い森鉄道の駅は当駅と八戸、そしてひとつ青森寄りにある陸奥市川の3駅しかない。これは八戸市の構造によるもので、その分、八戸線には10駅もの駅が所在する。駅間の間隔もあるが、海に沿って発展した街だということを感じさせる。八戸市の中心が八戸線の本八戸であるように、八戸駅はどちらかというと市の西の端の方にある

スポンサーリンク

印象的な駅前の木

木造駅舎に、それを支える屋根と柱。古くからの国鉄駅の形式を感じさせるが、駅の歴史は意外と浅い。といっても開業は1923年(大正12)と100年以上の歴史を持つ。旧東北本線の各駅は明治からのものが多く、当駅は後から設置された。その意味で「浅い」と記しただけである

風雪を感じさせる駅前の木

駅舎を眺めて「おっ」と思った。上記の写真でも分かるが、離れた場所から見るともっと分かりやすい

木の上が完全に傾いている。根の部分は真っ直ぐなので、枝葉の部分が左を向いている。訪問時は盛夏だったので天候的なものは特に感じなかったが、冬場の風雪を感じさせるものとなっている。なお緑の塗装は青い森鉄道移管後に行われたもののようだ

駅構造は2面3線。すへてのホームが生きているが、真ん中の線路はレールのさび具合から見て常時使用されているものではないようだ

奥に見えるのは東北新幹線。雄大に当駅をオーバークロスしている

岩手県内では比較的旧東北本線と並行して走る新幹線だが、青森県に入るとかなり離れた所を走る

地図を拡大していただければ分かるが、新幹線が真っ直ぐ八戸を目指すのに対し、旧東北本線は古くからの街を順番に訪ねていく形になっているので、やや遠回りしながら八戸駅を目指す。といっても鉄道黎明期に昔からの街をすべて無視することなどできなかっただろうし、技術的にも山中を貫くことは無理な話だ。北高岩駅でオーバークロスした後、新幹線は再び山中を直進。青い森鉄道は平野部を探しながら弧を描くように八戸駅へと向かい、再び新幹線と合流する

八戸方面を見ると盛岡方面行きのホームの向こうに跨線橋のようなものが見えるが、実はここにも入口があり、駅舎と逆側の集落に配慮されている。そのため八戸方面行きのホームは現状の車両編成に即してホームすべてには入れないようになっているが、向かいのホームは長い有効長が生かされている

りんごの出荷でにぎわう

無人駅だが、駅舎の写真でも分かるように駅の内外はきれいに整頓されている

駅舎には以前も紹介した三セク移管時の毎日新聞の連載記事が張られていた。それによると、開業時から「南部りんご」の輸送による貨物列車で当駅は大いににぎわったという。近辺からのりんご輸送には三戸、諏訪ノ平、剣吉、尻内(現八戸)そして北高岩の5つもの駅が利用され、全国に青森のりんごをアピールした

やがてりんごの輸送はトラックへと置き換えられていき、もともと大きな街があるわけではなかった北高岩駅は静かな駅となったという。八戸駅に近すぎるのがかえって不幸なのか、北高岩駅の1日の利用者数(2023年度)は26人。これは青い森鉄道25駅(青森、八戸をのぞく)の中で22位。前記事で紹介した目時駅の19人(23位)と、大きく変わらない数字となっている

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~わざわざ八戸駅前に宿泊したワケ

※訪問は2026年7月14日

八戸駅から朝のスタート

7時前の八戸駅。昨夜はここ八戸の駅前で宿泊した。東北本線の重要駅で、後には東北新幹線の終着駅にもなっていた駅だが、駅前は閑散としている。青森県第2位の都市とは思えない寂しさだ。それもそのはず、かつて記事にしたが

八戸市の中心駅は八戸線で2駅目の本八戸駅である。大きな繁華街もあり、ホテルも数が多いためか、本八戸駅周辺の方が安い。過去に2度宿泊した八戸市はいずれも本八戸駅周辺だった。わざわざ八戸駅前のホテルとしたのにはワケがある

スポンサーリンク

目指すは青い森鉄道の起点駅だが

南下して盛岡県との県境付近を目指す。というか、ほぼ県境にある目時駅だ

というか、ほぼ県境に位置し川を渡れば岩手県。県境にあるということは、旧東北本線である第三セクターのIGRいわて銀河鉄道は、当駅から青い森鉄道となる。つまり青い森鉄道の起点駅ということ。この駅に行くために八戸の駅前に泊まったのだ。駅についての下調べはあえてしない主義だが、当然ながら時刻表はどちらかというと入念に調べる

実は一昨年、昨年と2度にわたって北海道&東日本パスでここを通っているが、いずれも下車を断念した。起点駅に行くのに随分と苦労しなければならないのだが、それは当駅の時刻表を見ていただければ分かる

見ていただければ分かるが、昼間は2時間に1本ぐらいの運行しかない。青森県側、岩手県側のどちらかから来て折り返すと1時間ぐらいの滞在で済みそうだが、それにしても結構長い。ただ実際には八戸駅からは目時方面へと向かう列車はもっと多くが出ているのだが、ここに青い森鉄道ならではの特殊なダイヤ事情が

多くの列車は手前で折り返し

その事情とは多くの列車が隣駅の三戸駅で折り返してしまうのだ。さらには県境を越えた金田一温泉駅で折り返す列車も存在するため、当駅にやって来るのは、青い森鉄道とIGRいわて銀河鉄道の直通列車のみなのである。本数も少なくなるはずだ

ただし朝なら、それほど待たずに駅を離れることができる。今回私が八戸から乗車したのは7時14分発の盛岡行き。目時に7時39分に着く。すると8時1分の八戸行きが来るため、20分ほどの滞在で駅から八戸方面へと向かえるのだ

築堤の高い所に駅があり、この後に川を渡って県境を越える

上り線と下り線の行き来は築堤の下の通路で行う。かなり以前からのものと思われる案内板が残る

そして駅舎はかなり大きい。当駅は1924年(大正13)に信号場として出発した。駅に昇格したのは戦後の1948年(昭和23)。これもお決まりのパターンだが、信号場出身ということで、周囲には特に何があるわけではなく住宅と農地が広がり、集落を形成している

目時とはアイヌ語で「メントケ」と言われる沼や泉の意味だという。現在の駅舎は1967年からのもの。典型的な国鉄コンクリ駅舎だ。付近の複線化工事が行われ、駅そのものが移転した際に新たに建てられたものだ。現在は無人駅だが、川に臨む県境の駅で多くの保線要員が待機できる大きな構造になったのかもしれない

広い待合室が今も残る無人駅だが

立派なお手洗いがあり

駅名板もカッコいい

付近の写真が並べられていた

こちらは駅前の様子

ひとつ豆知識を披露すると、多くの列車が折り返し、かつては特急停車駅でもあった三戸駅は三戸町には所在していない。所在地は南部町である。そしてここ目時駅が実は三戸町唯一の駅だが、実際の三戸町の中心部は三戸駅に近い場所にある

ホームを貨物列車が通過していった

目時駅の1日あたりの利用者数は19人(2023年度)で、青い森鉄道25駅中(青森、八戸のぞく)23位。ただし7時台とあって、ホームには通学の高校生がズラリ。それほど少なさは感じさせない。県境を越えての通学があることも知った

三セク転換ならではの乗り換え駅でもない途中駅の起点駅は青森県の最南端駅でもある。3年目にようやく訪問できて良かった

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~キャベツの駅舎内は記念館風に

※訪問は2026年7月13日

駅名は埼玉県の駅に配慮

園井恵子さんの話に夢中になりすぎて、駅そのものの話を全くしていなかった

国鉄らしい駅舎からは段差なしで入れる2面3線構造(ただし中線は架線もあって使えるようになっているが、レールのさび具合を見るとあまり利用されていない様子だ)

駅名に「岩手」が付くのは、お察しがつく通り、京浜東北線の川口駅(埼玉県)があるからだ

ただ実は岩手県の川口駅の方が歴史は古い。旧東北本線の駅はいずれも長い歴史を有するが、1898年(明治31)の開業と、もう130歳近い。埼玉県の川口駅は1910年と10年以上遅れた開業だ。当時の所在地は川口村で駅名はそれに由来する(1955年から岩手町)。埼玉県の川口駅は川口町にあったことから、駅名も川口町だったが、1934年に川口町が川口市となったことで、駅名を川口に変更。同名を避けるため岩手県の駅が現駅名となった。つまり「元祖川口」を譲ったことになる

スポンサーリンク

2017年新築の駅舎

駅舎はというと、斬新なデザインだ。もともとは国鉄時代からの木造駅舎だったが、2017年に現在の姿になった。前記事でも紹介したが、エアコン完備の快適な駅だ

ホームに答えがあった

岩手町のオリジナルブランドのキャベツをモチーフにしたものだという

駅前には鉄道50年の石碑が建てられている。単純に計算すると戦後間もないころに建てられたものということになる

2階を利用して

再び駅舎内へと戻る

キャベツの形をしている駅舎は2階建てとなっていて、らせん階段で昇ることができ

そちらはさながら園井恵子さんの記念館となっていて、園井さんの歴史が語られて

「夢への旅立ち」という文字と昭和20年で終わる年表が印象的だ

園井さんは被ばくする前日まで知人宅のある神戸にいた。8月6日が劇団の集合日だったため、前日の5日に広島に戻った。そして翌朝に被ばくした。直後の園井さんは大けがをすることもなく元気で、3日後に動き始めた列車で神戸に行き、無事を報告することができたが、終戦を迎える15日ごろから急速に放射線被害の症状が表れ始め、21日に帰らぬ人となった

駅前の様子。もちろん建物は新しくなっているが、駅前風景は長らく変わっていない気もする

書店で宝塚歌劇団の本と出会い、憧れ、昭和に入って間もなく学校を中退して大阪へと単身向かい、宝塚を受験した。現在とは情報収集も交通も現在とは全く異なる。旅立つころの駅名は、まだ川口だったはずだ。何日かけて大阪にたどり着いたのかは、さすがに分からなかったが、少女の一人旅としては、今でもあまり見かけない距離だ

事前に何の予備知識もなかったため、以前に調べたことがある園井恵子さんと、まさかここで出会うとは思っていなかった

それだけに驚きも大きく、内容も濃かった。今回の北海道&東日本パスの旅は主に青森県内を巡るものだったが、乗り換え以外で岩手県内で下車した唯一の駅は、旅のハイライトのひとつとなった

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

2026年の北海道&東日本パス旅~岩手県の駅舎内で聞こえる「すみれの花咲く頃」

※訪問は2026年7月13日

国鉄らしい2面3線のホームから一歩中に入ると

岩手川口駅で下車。前記事に記した通り、この日は朝7時台の飛行機で大阪を出発。仙台空港からトコトコ北上。宿泊先は八戸駅近くと決めていた。かなりの移動で駅訪問はほとんど考えていなかったが、ダイヤの都合で岩手県内の駅でどこか1駅下車することが可能だった。乗車した電車はいわて沼宮内行き。そこから先は一気に本数が減り、なおかつ青森県との県境越えはさらにハードルが上がる。つまり盛岡~いわて沼宮内間でどこかとなってなんとなく選択したのが、ここ岩手川口駅だった。15時10分に当駅着で、15時51分に貴重な戸行きがやって来る。下車理由は駅名に惹かれたこと。例によって駅についてはほとんど調べていない。それが大きな驚きにつながるとは私も全く予想していない

駅舎に向かうと

エアコンの効いた駅舎が出迎えてくれてビックリである

スポンサーリンク

園井恵子さんが宝塚へと旅立った場所

暑い日ではあったが、ビックリしたのはエアコンではない。かすかに流れる「すみれの花咲く頃」である。言うまでもない、宝塚歌劇団の歌である。「えっ?」と頭の中がはてなマークでいっばいとなったが、すぐに理解できた

ご覧理通り駅舎内は立派だ。立派というより真新しい。簡易委託駅のようだが、私の訪問時は無人だった。そこに流れるすみれの花咲く頃

柱に貼られていたのは元タカラジェンヌ園井恵子さんの宝塚歌劇団殿堂入りを祝うポスター

実は記者時代に園井さんについて調べたことがあり、経歴については理解している。ただし、こちらが出身地だとは知らなかった(厳密には現在の八幡平市出身だが、宝塚音楽学校入学時は実家はこちらにあった)

園井さんは戦時中に宝塚歌劇団を退団。映画に出演するかたわら、劇団で女優活動を続けていた。所属していたのは戦時中に全国で慰問活動を行う劇団だったが、東京の空襲で本拠地がなくなってしまい劇団ごと広島へと本拠地を移した。広島で被ばくし、帰らぬ人となった。2019年に宝塚歌劇団の電動入りを果たした

それを知らせるリリース。まさかIGRいわて銀河鉄道の駅阪急電鉄のプレスリリースを見ることになるとは思ってもいなかった

亡くなった時は32歳。そのまま女優活動を続けられていたら、きっと私も知る女優さんになっていたはず。清涼飲料水の自販機には、1929年(昭和3)に、ここ岩手川口駅から旅立った時の園井さんのイラストが描かれていてジーンときた

↓2つクリックしていただけると励みになります

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ