中津川以北の中央西線全駅を訪ねてみることを決める~(番外編)リニア駅予定地は「誤字」ではない

※訪問は2022年10月8日

中津川から1駅南下

前回の記事と前々回の記事に間違いがありました。訪問日を「2024年10月8日」としていましたが「2022年10月8日」の誤りです。先ほど気付いて訂正いたしました。今回も2年前の同日の話です

やって来たのは中津川からひとつ名古屋方面の美乃坂本駅。「中津川以北」のくくりだが、どうしても紹介したい駅で、このタイミングでしか紹介する機会がなかないと考え、ここで記事とさせていただくことにする

パッと見て目につくのは「美乃」の文字。ここは岐阜県そして美濃地方。だったら「美乃」ではなく「美濃」となるはずで、元々が「美乃坂本」という地名だったのか、それともひょっとして間違いのまま駅になってとまったのかと思ってしまう。以前も紹介したが

IGRいわて銀河鉄道の「奥中山高原」駅の例もある。ただ事情は多少異なるようだ

当駅の開業は1917年(大正6)。両隣の中津川、恵那(当時は大井駅)がともに1902年(明治35)の開業で15年が経過してから、その間に設置された。駅名は当時の所在地である坂本村(現中津川市)に基づくが、すでに坂本駅が熊本県にあったため、多くの駅と同様に旧国名である「美濃」を頭に付けようとなったが、「濃」という文字が難しい、地元では略字として「美乃」の文字を使用しているので駅名もそちらにしてほしい、と要望したところ認められたという歴史を持つ。今だったら、ちょっとあり得ない話だが、国鉄側も寛容な時代だったのか、書類を受理した人が懐の広い人だったのだろう。以降100年以上、駅名は美乃坂本のままである

リニアのもたらす変化

駅舎は開業時からのものが、そのまま使用されている。昼間は名古屋から直通の電車が1時間に2本運行され、特急停車駅ではないものの2022年度の1日あたりの利用者は2191人と多い

営業時間に制限はあるが「全線きっぷうりば」がある。JR東海では「みどりの窓口」という名称やロゴを使用しないのが原則だが、昔からの施設をそのまま使っているからか、みどりの窓口のロゴが残る

ただ、この駅にも近々大きな変化がもたらせられることがすでに決まっている。記事の最初の写真で駅名標の向こう側に工事を行っている様子が見えるが、これはリニア中央新幹線の工事。2年前の写真なので、現在はもっと進んでいる。当駅がリニアとの乗り換え駅となる予定だ

駅舎と逆側のぽっかり空いた場所にリニア駅ができて車両基地も設置される予定。と同時に駅は橋上駅舎となって、リニア駅とは自由通路で結ばれる。橋上駅舎となるからには大正期の開業以来の駅舎ともお別れである。またリニア駅は現状では駅名がない。仮称として「岐阜県駅」となっているが、まさかこのまま正式駅名にはならないだろう。その場合は乗り換えとなる当駅も駅名が変更される可能性がある

個人的には駅名決定の経緯に歴史的価値がある「美乃」を残してほしいとは思うが、まだまだこれからの話だ

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中津川以北の中央西線全駅を訪ねてみることを決める~長野県最初の駅は何もなく…ではなかった

※訪問は2022年10月8日

ホームと階段があるだけ

列車はいよいよ長野県に入る。記事上のスタート地点を中津川にしているので、すぐやって来たように見えるが実際は、この日も朝から青空フリーパスで名古屋からスタートしている。愛知県、岐阜県で何駅も降りながら来ているので、ついに長野県まで来たか、という感覚だ。ちなみに時刻はお昼の12時すぎ

ご覧のようにホームと待合所そして階段があるのみ。掘削された場所に設けられている

今いるホームは塩尻方面で向かいが名古屋方面。待合所は「部屋」になっているわけではなく、むき出しで屋根とイスがあるだけ。いかにも山中の県境といった静かな駅である。元々は信号場だったということで、納得できる

階段を昇ってビックリ

予定では、ここが本日の訪問駅では「最北端」となっている。向かいホームから中津川行きに乗車するつもりだが、この駅は跨線橋というより公道を経由する形となっているようだ。とりあえず階段を昇ろう。と、そこにあったものは

何やら建物とバス停。「田立花馬の里ひろば」と看板が掲げられていて入口は開放されている。入ってみると

これはどう見ても駅の待合所である。ただ雰囲気はJRのものではない

その証拠といっては何だが、最近なかなか見なくなった電話がある。調べると、こちらは南木曽町営の待合所。建物の前は広い駐車場となっている

旧田立村の駅

田立駅は旧田立村に基づく。明治の町村制施行以来、ずっと田立村だったが、1961年(昭和36)に複数の村が合併して南木曽町となった。駅前の広場を中心に街がある。実際に降りたっても地図で見ても納得だ。町営の待合所の「田立花馬」は年に一度、毎年6月に行われる祭りで、花で飾った3頭の馬が駅から五宮神社へと練り歩き、その花は住民が厄除け、虫除けとして持ち帰る

駅は前述した通り、1929年(昭和4)に信号場としてスタート。戦後の1948年に駅に昇格した。ただ歴史をたどると1973年に中央本線の複線化に伴い、駅の位置が大きく変わっている。以前の駅は1・5キロも南木曽寄りにあったという。当駅から隣の県となる坂下までが2・8キロで、同じ町内となる南木曽までは6・3キロと離れているのは駅移動のためだろうが、1・5キロ南木曽寄りとなると、集落から大きく離れた山間部となつてしまう。移動のおかげで旧来の村の中心部に駅ができたとことになる。ちなみに長野県最西端の駅となっている

駅は名瀑の「田立の滝」の最寄りではあるが

こちらはとても徒歩では行ける場所ではなく、ガイドによると車で行く場合も駐車場から、かなりの徒歩を要する。公共交通機関の場合もタクシーがいる坂下、南木曽両駅からのタクシー利用が推奨されているようだ

こちらは駅のホーム案内。公道を利用しての移動となるが、名古屋方面行きの階段のところで公道は終わっていて、そこは農地である

「やっぱりホームだけの駅だよな」という下車した時の感想と、その後の驚き。なかなか貴重な体験ができる駅だった

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中津川以北の中央西線全駅を訪ねてみることを決める~すぐそこは県境、始終着列車も

坂下駅に到着

※訪問は2022年10月8日

2区間のみの電車

11時すぎの中津川駅。当駅始発の電車に乗車

ビックリするぐらい乗客がいなかった。週末の昼間なので、こんなものなのかもしれないが、乗客の少ない理由は明白だ。中津川を出ると前記事で紹介した落合川に停車すると、次はもう終点の坂下駅なのだ。春から秋にかけての中央西線の週末は観光客も多く、原則2両の電車はかなりお客さんが乗っているが、たった2区間、9分で完結する電車には観光客もあまり用事はないようだ

このような短い区間で完結する列車の設定は各地でもそれなりにあって、当ブログでも五能線の能代~東能代(1区間)、高山本線の高山~飛騨古川(3区間)を紹介した。特に五能線の1区間については、この区間運転の方が他の列車より多いほど。沿線人口や利用者数に基づくものが多いが、中津川~坂下については県内完結である。しかも複線電化区間の一部というのは、ちょっと珍しい

長野県との県境はすぐそこ。何なら前記事でも紹介した落合川駅は同じ岐阜県にもかかわらず線路の距離が6・1キロもあるのに対し、長野県側の田立駅は2・8キロしかない

開業時からの駅舎

ただ落合川とは異なり、駅舎は風格のある木造駅舎を有する。開業は1908年(明治41)。中津川から当駅まで延伸された際に開業。約1年間、終着駅だった(その後、現在の南木曽まで延伸)

平成の大合併までは坂下町の駅だった(開業時は坂下村)。駅の周辺は坂下町の中心部が広がる。車窓からの眺めだと中津川を出た列車が木曽川沿いの山中に入り、再びパッと開けて坂下の町に到着するイメージだ

坂下は沿線の他の地域と同様、森林で栄えた町で、かつては当駅から森林鉄道も出ていた

こちらはホーム上の待合所。S16(1941年)8月の財産票が張られている

こちらは駅舎内の様子。簡易委託化されているが無人駅ではない

2022年度の1日あたりの乗降客数は537人。これは中津川~塩尻では木曽福島駅に次いで2番目に多い数となっている(中津川、塩尻を除く)。区間運転が行われるのも納得だ

ただ駅舎内にはこのような掲示が

訪問時の窓口営業時間は金~火曜日の午前中のみとなっていた

私の訪問は2022年10月だが、その年の春のダイヤ改正までは当駅から名古屋まで直通する電車も運行されていた。早朝には名古屋行き快速もあったが、現在は中央西線の特急以外の列車はすべて中津川で運行が分断される形となっている

現在は都心部の利用者数千人の駅でも、あたりまえのようにほぼ無人となっている駅も多い。ただ利用者としては駅を降りた時に駅員さんがいる安心感は何とも言えないものがあるのは、否定できない事実である

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中津川以北の中央西線全駅を訪ねてみることを決める~ホームからの景色は川のみ

落合川駅は島式ホーム

※訪問は2022年10月8日

奈良井駅で火がつく

6月に木曽平沢から徒歩で奈良井に到達したときのこと。駅舎内で張り紙が目にとまった

塩尻市のコミュニティバスの時刻表。塩尻駅から奈良井駅までを結んでいるようだ。当然のように青空フリーパスで行けない洗馬、日出塩、贄川の3駅も含まれている。これは良い情報ではないか。と同時に「こうなったら、幹線上のローカル区間の全駅訪問をしよう」

急に気持ちに火がついた。結果的にこの日は列車の遅延で、もともと予定していた駅訪問がいくつか行けなくなった。その分、倉本駅のような出会いもあって満足はしたが、ならば行けなかった駅はもちろん、すべての駅を訪ねたい。幸いにも9月に長野県に行く用事がある。この時に頑張って回ってみようということになった。この区間は中山道の旧宿場町も多く、古い駅舎がかなり残るのは、これまで紹介してきた通り。もっとも2年前までに名古屋から南木曽の手前まで中央西線の駅はすでに訪問済み。まずは、その中での中津川以北の3駅の紹介から始めよう

目の前は川だけ

ちょうど2年前の今ごろとなる10月8日、私は中津川駅にいた。名古屋から徐々に北上。手にはもちろん青空フリーパス。普通だと当駅で強制乗り換えとなる。さらに時間の許す限り駅訪問を行おう

やって来たのは

中津川のお隣の落合川駅。ご覧の通り駅舎はなく、待合所があるだけ

ホームに降り立つと

目の前は木曽川で民家は川の向こうに並んでいる。駅前が大きな町だった中津川から、わずか1駅で景色は一変した

目の前の川は落合ダム。木曽川に設けられた発電用のダムで1926年(大正15)竣工と歴史は古い。落合川駅は、それより少し先の1913年に信号場として設置された。ホームからの景色だけだと、まさに信号場だが、本来は中山道の落合宿に基づく。旧落合宿を中心にした落合村が1956年(昭和31)まで存在したが(現在は中津川市)、線路が木曽川沿いに敷かれたため、駅は村の中心部から、かなり離れたところとなった

明治生まれの駅が多い中央西線で、設置が遅れたのは、このような事情もあったとみられる

「駅前」はない

写真には工事中となっている箇所が多く写っているが、これは直前にあった豪雨で斜面の崩落があったため

駅を出ると人が1人通れるスペースしかなく

コミュニティバスもやって来ない時期となっていた。もちろん現在は復旧しているが

逆側の道路を見ても大変狭い。いわゆる「駅前」や「ロータリー」とは無縁の駅である

それでも以前はこの場所に木造駅舎が建っていたという。JR移管よりかなり前に現在の姿となっている。その分、駅名板の字体はかなりクラシックで、味わいはある。ダムをぼんやり眺めるのもいい時間だった。全国に多々ある「落合駅」は、どこの駅も特徴と歴史があって興味深い

ただ、こんな場所にあるのでは利用者もほとんどいないと思われるかもしれないが、2022年度の1日あたりの乗降客数は45人で、先に紹介した倉本駅の28人よりも多い。中央西線37駅(金山と塩尻をのぞく)中33位である

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塩狩駅で降りてきました その2~鉄道職員の殉職と小説、映画化そして塩狩峠記念館

塩狩駅の駅名標

※訪問は2024年8月27日

駅のすぐそぱに立つ石碑

駅の周辺にはほぼ何もない

「手塩」「石狩」の2つの国にあることで名付けられた塩狩峠。今でこそ国道からのアクセスは容易だが、道路は駅に突き当たって終わっている

駅近くで目につくのは

峠の木碑そして石碑

解説文がある

1909年(明治42)、塩狩峠にさしかかった列車の最後尾の客車の連結器が外れ、1両分が峠を逆走。乗り合わせた職員の永野政雄さんが身を挺して暴走を防ごうとして殉職した。28歳の若さだった。乗客にけが人は出なかった。後に当地に信号場(現在の塩狩駅)ができるきっかけにもなった

その話を知った作家の三浦綾子さんが1966年に小説化し映画化もされた

塩狩峠記念館へ

駅からスロープを上がると

塩狩峠記念館。三浦さんの旭川市の一度は解体された旧宅の資材を利用して復元されたもの。中には関連の展示物が並んでいる

三浦さんといえば私にとっては過去に映画化され、何度もテレビドラマとなった「氷点」で小学生のころに初めてテレビで見て、その頃は何のことかさっぱり分からなかったが、大学生のころだったか、再びのドラマ化を見て初めて内容を理解したという記憶が鮮明だ

中は撮影禁止だが、玄関からなら大丈夫ということで、この角度から

復元までの過程が解説文として張られている。入館料は300円。前記事で塩狩駅へのアクセスを記したが、早朝と夕刻以降は閉館しているので旭川から塩狩駅までやって来て、再び塩狩から旭川へ折り返すのはダイヤ上、不可能に近い(開館していない時間のロスが長すぎる)

旭川からなら13時8分に到着して14時40分発の名寄行き普通で一度、隣駅の和寒まで行き、約30分の乗り継ぎで、快速に乗車して折り返す(塩狩通過)のが、記念館へのほぽ唯一の鉄道アクセスとなる。その意味でも名寄からアプローチできたのは良かった

ちなみにこの後、永山駅で

100周年記念入場券を購入

士別駅バージョンもあるらしく、販売は原則来年3月まで。入場券の裏面を並べると塩狩駅の駅舎写真となるので、こちらは実際に購入して並べてほしい。入場券セット(1000円)を塩狩峠記念館で提示すると入館料300円が無料になる。私は順序が逆になってしまったが、300円ならカンパの部類であるので問題ない。ただ記念館は冬季休館があるのでお出かけは早めに

寄付金の力で維持される駅

駅に戻ってきた。無人駅ではあるが保線の方が利用されているようで、全くの閑散という感じはしない。ただ

駅そのものの存続は必ずしも明るい未来とはいえない。前述したように駅から徒歩3分ほどの記念館に行くにしても鉄道アクセスが悪く周辺にはほぼ何もない。1日の利用者が数人あるかどうかの駅は現在、和寒町が維持管理の費用を出している状況だ。主にふるさと納税や寄付金でまかなわれている

名残惜しいが、お別れの時間となったようだ。かつては中間線があったようだが、今は撤去されている。駅舎の逆側はさらに何もないが

桜の季節は美しい光景になるという

ここで注意をひとつ

旭川行きの列車は駅舎側と逆側の2つのホームを使用する。列車交換の際は逆側に停まるようだ

乗車する11時58分は、その逆側だったが列車が接近すると警報器とともに遮断機が降りてしまって焦った。ただ5分間の運転停車があり、再び遮断機が開いてホッとした

抜海駅での運転休止があり、予定していた旅程は完全に崩壊してしまったが、そのおかげでいろいろな体験ができた。そのことを生涯の思い出にしようと思う

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塩狩駅で降りてきました その1~峠を司って100年超、駅として100周年

塩狩駅の駅名板

※訪問は2024年8月27日

時刻表を見て思いつく

かなり激しい雨の降る名寄駅

話はこの続きとなる。JR北海道産手配の代行タクシーで抜海から160キロ、2時間半かけて名寄までたどり着いた。いろいろな予定がゼロになってしまったが、まずは名寄までたどり着けたことに感謝である。名寄から旭川方面へは列車も動いているようだし、名寄まで来れば旭川までバスという手段もある

といっても時間はまだ9時半。抜海駅到着が5時半だったのでタクシーで2時間半揺られてもこんな時間なのだが、ふと我に返ると「この後何をしよう」となる。本日の宿は旭川に確保してあるが、時間はまだまだある。この後、10時8分の旭川行き快速に乗車して旭川着が11時28分。正午にもならない。いずれにせよ乗るしかないのだが、時刻表を見てふと思いついたことがある

塩狩駅で降りてみよう

小説や映画にもなった塩狩峠で有名な塩狩駅。宗谷本線は名寄を境に運行本数が大きく変わるが、比較的本数が多い名寄~旭川でも快速「なよろ」が停車する駅としない駅では事情が異なる。名寄を基準にすると旭川へは1日8本の普通と4本の快速があるが、普通のみしか停車しない駅は何時間も列車が来ないため、救済で部分停車を行っている。その部分停車がこれから乗ろうとしている快速にあった。塩狩である。以前も行こうとしたが、ここに行くと他の駅に行けなくなってしまうと断念したことがあった(もうひとつ理由があるが、それは後述)が、これはある意味好機である。というのは1時間後に旭川行きの普通があるからだ。現地で1時間というのは、ちょうど良い

念のためにと塩狩はほとんど普通しか停車しない認識があるので、運転士さんに停車するかどうかわざわざ確認。実は、この確認作業で席を立ったことが、かつての社友に会えたという偶然も引き起こした

塩狩までは50分。その間は社友との会話に終始していたため、時間はすぐに過ぎ去った

そして到着。幸運にも雨はもう上がっていた。当然ながら満員の列車から降りる人は他にいない

北海道でよく見かける形でホームは千鳥状に配置されていて構内踏切がある。通過列車が多いためか、警報器も遮断機もある

当駅は1916年(大正5)に山中の塩狩信号場としてスタートした。今もそうだが、特にSLの時代は坂が最大の敵だったので、峠にはよく信号場が設けられた。その8年後に正式駅に昇格した。だから今年でちょうど100歳となる

ホームからは周囲に何も見当たらないので駅舎は、それこそポツンと一軒家である

立派な駅名板は、まるで家の表札だ

こちらが時刻表。訪問の難易度は意外と高いことが分かる。上り下りが同時刻なのは列車交換なので使えない。私は10時57分に到着して11時58分で去る。これを逃すと悲惨で次は17時19分と5時間以上の待ち時間(名寄行きが13時8分に来るが)となってしまう

旭川側から来て折り返すには1時間ぐらいの滞在だと考えると6時44分に着いて7時36分で戻るか、17時19分に着いて18時16分で折り返す-の二択となってしまうが、後者は季節によっては真っ暗だ。2時間以上の滞在ならあと2つほど方法はあるが、とにかく難易度は高い。ただし名寄側からを考えると、この日の私の利用ダイヤは、日照時間を考慮しても1日で最も理想の時間帯となる(名寄方面へ抜けてしまうのなら13時8分に着いて14時40分で去るという手段もある)

全くの偶然ながら見つけられた1時間。しかもお昼の時間。それを利用してぜひ行きたいところがあった(1カ所しかないのだけれど)

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~木曽義仲旗揚げの地は「中央東線最後の駅」

宮ノ越駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

通過時に見えていたもの

倉本駅から4駅北へと戻って宮ノ越駅に到着。今日はこの後、特急利用はしないつもりなので、中津川以北の駅は最後の訪問駅となりそうだ。例によって情報のインプットなしでの下車だが、その前の通過時に重要な情報が分かっていた。この写真の右側、現在は使用されていない貨物ヤードのホームにのぼりが見えているが、これが車窓からよく見える

これ以上の情報はないだろう。基礎部分の石に日義村と書かれている。現在の駅舎の住所は「木曽町日義宮ノ越」だが、平成の大合併で木曽町が成立するまで、当地は日義(ひよし)村だった。村の名前については木曽義仲にちなみ「朝日将軍木曽義仲」から2文字をとったという

駅名は中山道の宿場町、宮ノ越宿に基づく

こちらは駅にあった周辺案内図。少し歩くと宿場町だが、中山道が整備されたのは江戸時代。それより500年以上前となる木曽義仲に関連するものが多い町となっていて、史跡や記念館がある

中央東線と中央西線

話が後になってしまったが、こちらが駅舎。説明するまでもないが、年季の入った木造駅舎が残る

扉部分や窓枠はアルミ補強されているが、風格ある駅名板もある。駅舎は開業時からのもの

財産票によると駅舎は1910年(明治43)にできた。駅の開業が11月なので、それより2カ月前に竣工したようだ。開業時は塩尻方面から伸びてきた中央東線の終着駅だった。以前も触れたが、中央東線と中央西線は現在のように塩尻で分かれた愛称ではなく、東京方面からと名古屋方面から、それぞれ延びてきた線路の終点までを東線、西線とした正式名称としていた。終着駅として存在したのはわずか半年で、翌年の5月には木曽福島まで線路がつながり途中駅となったのだが(現在、両駅の間にある原野駅は戦後の開業)、これで東線と西線が一体化。と同時に東京から名古屋までの路線は、中央本線という現在の名称となった。つまり宮ノ越は中央東線で最後に開業した駅ということになる

駅は国鉄末期に無人化され、きっぷ売り場も手荷物受付ともに固く閉ざされているが、手荷物受付がアルミ補強されていることで、無人化ギリギリまで扉が開閉されて使用されていたことが分かる

駅舎内の木曽義仲と巴御前。外に掲げると傷みが激しくなるので、ここに置かれているのだろう。木曽義仲は最期が分かっている武将だが、巴御前の方は木曽義仲と鎌倉の和田義盛という2人の武将に仕えたということになっているが、ナゾが多く、その分、映像化の際はいろいろな脚色をしやすい。ゲームにおいても人気キャラとなっている

当駅も800メートル以上の高地にある。古い駅で定番の温度計。お昼の13時半、最も気温が高そうな時間帯でも25度とさわやかだった。この後は中津川行きの電車に乗って名古屋経由で帰路につく

もともとは木曽平沢とはどんなところか、というだけの企画だったが、ここまで来ると他の駅も気になる。もっと言うと青空フリーパスから外されたわずか3駅は大いに気になる

機会を見てチャレンジしなければならない、と思いながら電車に乗り込んだ

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~何もなさすぎる場所に立派すぎる木造駅舎

倉本駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

ホーム移動は公道経由

ホームをどんどん中津川方面へと歩いていくと、やがてホームの端も過ぎ

たどり着いたのは公道。右側が線路をくぐる形となっていて、そちらに向かうと駅舎側に行けることは分かる。左側は「登山道 空木岳」と書かれているが、そういえばホーム上の待合所にこのような名所案内があった

ちゃんと読みも入っているが「海抜2864メートル」って簡単に言われても困る高さである

ということで登山道側は私には無縁のものだということが分かったので駅舎側へと出る

出たところにあったものは坂道と、わずかに頭をのぞかせる屋根。前を行っていたご婦人がそこを登っていく。左側を見ると

国道そして、その向こうは木曽川。つまりは何もない。店舗はもちろん民家もない

あらためて坂道を登ると、そこにあったのは立派な木造駅舎だった

信号場としてスタートした歴史

ここからは後に学んだこととなる

倉本駅は1914年(大正3)に信号場としてスタートした。道理で周囲に何もないはずだ。駅へと昇格したのは戦後すぐの1948年(昭和23)で、この時に「倉本」という駅名が付けられた(それまでは立町信号場。ちなみに現在、当駅から塩尻側が複線で中津川からは単線となるので信号場的な役割を果たしてはいる

高台のスペースが少ない場所に設置されているが駅名板も重厚。財産票によると駅舎は駅に昇格した時に建てられたものだ

当然のように無人駅で窓口も手荷物受付もともに板でふさがれているが国鉄末期まで有人駅だったという

駅舎内には向かいホームへの案内がある。字体から、かなり古いものだと推測できる

駅舎の逆側から少し離れた場所が倉本の集落となっていて、旧中山道がその中をぬう。ふだん駅を利用する方は、こちらの方だろう

自転車置き場が坂の途中にある。訪問時の台数は1台。2022年の1日あたりの平均利用者は28人。これはJR東海の中央本線では37駅中35位(塩尻、金山をのぞく)と下から3番目。もっとも駅周辺を眺めると28人の乗降があることが凄い

駅舎内の告知板

少し時間があるので再び国道まで降りてみる

国道なので車の通行量はあるが、歩道を歩く人の姿はない

コミュニティバスの立派な停留所があった

さすが材木の上松町。現地産のヒノキで造られている

中津川方面へは約20分の遅れだったが、塩尻方面へは定刻で動いているようだ。駅へと戻ろう

ちょうど貨物列車がやって来た。いい光景だ

駅舎側にも空木岳への案内があることに気付いた。調べてみると当駅からの道程は空木岳登山の有力コースのひとつだそうだ

駅舎内にはこのようなものも残されていた。登山者のための気象情報のようだ。有人駅時代は駅員さんが日々書き込みをしていたのだろう。冒頭が「S」と固定されていることから、無人化された後、ずっと更新されず、それでももしもに備えて捨てることはできず、そっと置かれたままになっているのか

列車が遅延したため時刻表優先で降りてみた駅だが、こういう「たまたま降りてみた」駅こそ、いろいろな発見がある。だからこそ「ふらりの降り鉄」はやめられない

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~列車遅延で降りた駅は出口が分からず

木曽福島駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

木曽山中の要の駅

木曽福島まで戻ってきた。言わずと知れた中央西線の要の駅で木曽観光の拠点で全列車が停車。中津川~塩尻の山中では原則的に特急は当駅のみ停車が多いので特急「しなの」に乗車したことがある人は降りる降りないは別として名前は知っているはず。もちろん管理駅。大きな島式ホームを持つ

駅は1910年(明治43)の開業。駅舎は1981年(昭和56)に現在のものとなった

時刻表がアテにならない

奈良井から中津川行きの電車に乗車したのは11時20分。青空フリーパスは米原まで乗車できるが、さすがに名古屋からは新幹線に乗るつもりだ。だからまだまだ時間はある。せっかくなので長野県内の中央西線の駅をいくつか回ってみようと思ったはいいが、ここで路線内の遅延を知る。特急の遅れらしい

中央西線はほとんどが複線化されているのだが、いくつか単線区間があり、この区間に集中している。幹線でなおかつ東海道本線に何かあった場合のバイパス線の役割を担っていたため、すべて複線化する予定だったが、東海道新幹線の開通によってバイパスとしてのニーズはほとんどなくなった。中央本線から篠ノ井線へ入るためには塩尻駅でスイッチバックする構造になっていたのも、バイパスの役割があったからだが、こちらが解消されているのはご存じの通り。ただでさえ狭い山中を走る中央西線は複線化工事が難しい地域なので、全線複線化の計画は消滅している

上下ともに1時間に1本走る特急の他はいくつかの貨物列車と2時間に1本程度の普通が走るだけなので、単線区間は駅での列車交換(すれ違い)で間に合う。中央西線はすべての駅での列車交換が可能である

ただ遅延発生時の対応はダイヤを多少変更しなければならないので、このように単線と複線が混在する区間は上りと下りがどこでどのように遅延しているか、さっぱりお手上げだ。上りで降りて下りで駅を去る、下りで降りて上りで去るという方法で駅を回っているので、ひとつ間違うと普通しか停まらない駅で長時間ぼんやりすることになる。奈良井駅で待っている間に時刻表とにらめっこしながら、いくつかの駅を回ることを決めたが、あまり効率が良すぎるとタッチの差で逆方向の列車を逃しかねないのでダイヤ通りだと駅で1時間待ちぐらいの駅をチョイスして回ってみることに。そこで最初に選んだのが倉本駅

20分遅れで到着

例によって何の情報も事前にはない。駅は木曽福島から2駅。要は朝に立ち寄った上松のひとつ中津川寄りの駅である

ということで時刻表から20分の遅れで倉本に到着。下車したのは私ともう一人のご婦人。290と書かれたキロポストがあるが、これは旧線(辰野支線)経由の距離と思われる(新線経由だと278キロ)。しばらく手が入っていないことに駅の古さを感じさせる

向かいに木造駅舎が見える。とりあえずはそこまで行こう。ただ跨線橋も構内踏切もない。どうやって行くんだ? 前を行くご婦人だけが頼りである

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~奈良井駅の意外な数字

古い街並みが残る奈良井宿

※訪問は2024年6月22日

出発に要する大変な時間

ホームにまで立派に「奈良井宿」と記されている奈良井駅は有人駅ではあるが、簡易委託駅であり駅員さんはいるが、きっぷ販売に特化されていて改札業務は行わない。つまり乗務員がきっぷや料金の収集にあたるわけだが、当駅を通る電車はほとんどがワンマン運転で、運転士さんが集札業務にあたる

運転士部分のドアのみが出口となり、私もこの時期から8月にかけて何度か当駅を通る電車に乗車したが、下車する人の数が多くて長蛇の列となる。観光客を主体とする駅という性格から途中の無人駅から整理券で乗車して現金で下車というお客さんは少なく、どこかの主要駅からのきっぷを渡すだけだったり、青春18きっぷや青空フリーパスのような見せれば終わりというきっぷを持つ人がいる一方で、塩尻方面から乗車してきた人の中にはSuicaで乗車してきた人もいて(JR東日本区間の中央本線と篠ノ井線の松本まではIC区間)、処理に時間がかかったりする。塩尻から5駅ということもあって首都圏方面からの利用者が多い

出発を待っているだけの私としては駅巡りに影響を与える遅延が気になるところで、数分間の遅れで出発することもしばしば(奈良井~贄川は単線区間で、ここから南はいくつかの単線区間がある)だが、乗っているといつの間にかダイヤが時刻表通りになっているから不思議である

その度に「なんで週末やハイシーズンに特急の臨時停車がないのかな?」と思っていた。手元に9月号の時刻表があるが、9、10月で「しなの」が臨時停車するのは10月12日の1日のみで、これはJR東海が力を入れる「さわやかウォーキング」の実施日。奈良井から古来、中山道の難所だった鳥居峠を経て藪原駅に向かうもので、藪原にも臨時停車があるようだ。少し前までさわやかウォーキングの開催を知らず、本来は閑静な駅に多くの乗下車があって面食らうことが多かったが、最近は時刻表を見てJR東海の同一路線で2カ所の臨時停車があるのを見ると、すぐピンとくるようになった(笑)

なぜ臨時停車がないのか

こちらは駅舎内の様子。訪問時は11時台に上下の電車が同じような時間帯に来ることも重なって、待合室はどんどんお客さんが増えてきた。きっぷ売り場を利用するお客さんも、それなりにいて外国の親子4人連れは京都までのきっぷを買おうとして、翻訳機などを駆使してのきっぷ販売に時間を要したりしていた

窓口の特徴は、かつての手荷物受付が今は荷物一時預かりになっていること。観光案内所も兼ねてはいるが、日本中の古風な駅で見られる手荷物受付跡のほとんどは、今は固く閉ざされているところがほとんど。荷物の性格は異なるが、荷物を渡す機能が今もあるのは貴重な光景だ

と、このように駅としてのにぎわいぶりを記してきたが、データを見て驚くことがある。2022年度の中央西線各駅利用者

JR東海区間の中央西線には39の駅がある。ここから他路線の利用者が多い金山と塩尻を省くと37駅。その中には名古屋市内や名古屋への通勤通学となる大都市区間も含まれるが、奈良井駅の利用者は1日わずか89人で37駅中29位。おそらくこの数字には18きっぷや青空フリーパスのようなフリーきっぷは含まれておらず、途中下車した人も入っていないはずで実際の利用者はもっと多いのだろうが、下から数えた方が圧倒的に多く、奈良井から塩尻方面へ2駅の宿場町である贄川の183人とはダブルスコアである。2022年といえば、まだコロナの影響が残っていて、ならばコロナ禍前の2019年を調べると、確かにやや多いが、それでも140人ほどである。数字だけを見ると特急をわざわざ停車させるほどでもない数字だ

これには周辺人口の側面があって、観光地ではあるものの駅周辺の人口はそれほど多くはなく、通勤通学といった生活駅としての利用が少ないからだと思われる。では駅周辺を埋め尽くす観光客の皆さんはどうやって来たのか、ということにもなるが、実態としては鉄道利用よりも車利用の方が圧倒的に多いという

ぜひ列車利用を

鳥居峠の話が出たが、奈良井宿は中山道の宿場町としては最も標高の高いところにあり、当時の旅人にも貴重な宿場だったという。奈良井駅の標高も高い。すでに触れたが、JR東海では最も高いところにある駅だ

駅にはこんな遊び心も。東京スカイツリーが「武蔵(ムサシ)国」に基づいて634メートルなのは有名な話だが「クサシ」は聞いたことがない。末尾が「34」と同じことから、このような造語にしたのだろうが、さすがに吹き出してしまった

こんな遊び心もある奈良井駅。ぜひ訪れてみてほしい。もちろん電車利用をお願いします

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