加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その4 阪神間の迂回路として集まった注目

※2024年12月10日

一度比延駅へ

利用客数を調べつつ、比延駅で下車。時刻は8時過ぎ。霧の中の到着だ

これまで加古川線の現状について語ってきたが、歴史についても触れてみたい

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水運の代替路線としてスタート

車窓からの眺めだが、加古川線の特徴は加古川に沿って走っていることだ

ピッタリ寄り添うように敷設されている。それもそのはずで、元々の目的は水運の代替手段だった。最初は播州鉄道という会社が加古川から西脇までの線路を敷設した。1913年(大正2)のことだった。この西脇とは現在の西脇市駅とは異なる。西脇市駅から北へ2キロ弱いの場所に存在し、今はない。後になってみると加古川線にとって重要な駅だったが、後に路線の運命を変えることが起きる。現在と同じ谷川への直通で、開業が1924年(大正13)12月27日のことだった。つまり100周年は、ここからスタートしている

ただ敷設にあたっての問題は谷川へは野村駅と名乗っていた現在の西脇市駅で分岐していたことだった。分岐が西脇でなかった要因は線路の設置予定地まで川を2回渡る必要があり、またすでに市街地を形成していた西脇の街の中に線路を通すことは難しかった。この部分の工事を請け負ったのはシリーズの最初で触れた播丹鉄道という会社で、播州鉄道はすでに播丹鉄道に吸収された形となっていた

このため野村駅で分岐する形となった西脇からは、さらに線路が延伸され途中駅となった

現在の路線名となったのは1943年(昭和18)に行われた戦時買収。加古川~谷川が国鉄の加古川線となり、西脇を含む路線は鍛冶屋線という加古川線の支線となった

分岐点は国鉄民営化

大きな転換期となったのは鍛冶屋線の特定地方交通線指定(1986年)と国鉄民営化(1987年)。鍛冶屋線の廃線は避けがたいものとなったが、野村(現西脇市)~西脇の1区間については業績堅調で、加古川からの列車は多くが西脇まで直通されていて、どちらかというと加古川~西脇が加古川線の主力の扱いとなっていて、この区間のみの存続も検討されたものの結局は廃線。西脇市を境に運行本数が大きく変わるほぼ同じ形となった。「ほぼ」としたのは、当時は非電化だったからだ

加古川線そのものの利用者は西脇駅を失ったことで、さらに減少していた状況で迎えたのが1995年1月17日の阪神淡路大震災。阪神間の線路は寸断され、西明石以西は間もなく運転したものの、姫路方面から大阪へ行くことはままならない。そこで迂回路として注目されたのが加古川線だった。単線非電化路線の上、谷川駅で福知山線への直接乗り入れができないという欠点はあったものの、多くの人が加古川で乗り換え谷川を目指した。JRも臨時便を増発。4月1日に全線復旧(当初の見込みより、かなり急ピッチだった)するまで多数を運び続けた

この一連の経過、つまり加古川線が非電化で、緊急時に山陽本線、東海道本線のバイパスとして不便だということが電化の機運を高めた。費用を地元が負担するという形で2004年に電化が行われた。つまり昨年は電化20周年の年でもあったのだ

だが利用者数の低迷で近年、西脇市~谷川の閑散区間は再び危機が報じられるようになっている

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その3 早朝から単行電車に乗車したわけ

※訪問は2024年12月10日

薄いダイヤ

福知山線の分岐駅である谷川駅の時刻表

パッと見ただけで本数の違いは一目瞭然。福知山線も昼間は1時間に1本の運行となっているが、さらに少ない

拡大するとこのようになるが、時刻表の空白部分に告知などを掲載するのは全国共通である

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9時発では次がない

このダイヤを見ると利用状況の調査うんぬんよりも、これに乗らざるを得ないことがよく分かると思う。平日のみ運行の6時9分は物理的に乗車できないし、次の9時ちょうどでは単純に西脇市まで乗って終わりになってしまう。「次」がないのである。西脇市以降は1時間に1本の運行が確保されているが、過去に全駅訪問済みとはいえ、せっかく来たのだから、特に本数の少ない谷川~西脇市はいくつかは降りてみたい

9時ちょうどに乗ってしまうと次は3時間以上空いて12時10分、さらにその次は再び3時間以上の空白で15時13分。朝が終わると夕方までほとんど運行がない、これまでも当ブログでたびたび出てきた典型的なローカル線の運行パターンだ。西脇はそう遠い場所ではなく、神戸の中心部からだと車なら1時間ちょっとで行けてしまう場所なのだが、もちろんそれは高速道路の使用があるからで、鉄路でも神戸の中心部である三ノ宮からだと15分に1本の新快速に乗り加古川まで30分、加古川からの乗り換えも1時間に1本の運行があって西脇市まで50分と、乗り換えを入れても90分もあれば行ける場所のイメージがあるが、少し離れただけで、このような現状が待っている

JRでは貴重な単行可能な新車の電車

今回主に乗車したのはJR西日本の125系である。ご覧のように単行での運転が可能で加古川線内では主に単行の運用となっている

電車というのは車内にいろいろな装備を詰め込む必要があるため、長らく最低の運行単位は2両とされてきたが、近年は技術の進歩で単行でも可能な車両が生まれたり改造されたりしている。ただJRでの新車となると四国の7000系と、この125系しかない

JRの単行電車といえば

今も現役で宇部線、小野田線を走るJR西日本の123系が有名だが、これは余剰戦力となった郵便荷物用の電車を改造したもので新車ではない。JRで単行可能な電車の新車が生まれない理由は、基本的な考えとして電化区間=利用客の多い路線だからだ。古くから電化されていて現在は乗客の少ない区間や路線はできるだけ最低単位の2両で運行するか、古い車両の改造で対処するというのが基本的なスタンスである。電車の新車を投入するなら利用の多い路線となる。近年は蓄電方式の車両も登場しているが架線は不要である

だが、この125系は2003年デビューと近年になってからのものだ。投入は小浜線と加古川線。JR四国7000系は四国内で電化が進む中で製造されたもので、同じ路線には特急列車も走る。特急車両が電化なら、普通用も電化となる道理だが、小浜線と加古川線に優等列車は走らない。ではなぜ21世紀になって新車が投入されたかというと、両線がほぼ同時期に電化され(小浜線が2003年、加古川線が2004年)、しかもそれは地元負担によるものだった。加古川線に話を絞ると、当時すでに西脇市~谷川は利用者の少ない区間だったが、それでも電化された。それには30年前の阪神淡路大震災が大きくかかわってくる

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その2 朝の通勤通学帯の利用者数は?

※訪問は2024年12月10日

乗継ぎを待って出発

同一ホーム乗り換えができる谷川駅での福知山線と加古川線の乗り換え。谷川駅の福知山線列車は上下とも駅舎側つまり加古川線ホームのある側のホームに到着するが、列車交換の時間帯では跨線橋を渡ったホームも使用される。ちょうどその時間帯だったようで、私が乗ってきた福知山線の普通は7時32分に到着して6分間停車する。その間に大阪行きの快速がやってきて7時38分に上下列車が同時に出発。加古川線列車は乗継ぎを待って7時42分に出発する

私が車内で出発を待っていると、おそらく大阪行きからの乗継ぎだろう。あわただしく2人の夫婦らしき方が乗り込んできて、その直後に出発となった

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出発時の利用者数は?

さて、その出発時の乗車人員はというと

6人

である。もちろん私も含まれている

私が最初に車内に乗り込んだ時の様子。1人死角に入っているが、私を入れて4人。ここに前述の2人が加わった。18きっぷの初日だが、同業者(鉄道ファン)はいない。最初の3人は地元の方のようだ。後からのご夫婦は、どうも跨線橋を降りて一度逆方向に行ってしまったようで「危なかった」と話しているので地元の方ではないようだ

今回のテーマは加古川線の西脇市~谷川の利用状況を見ること。後に触れるが、全線50キロに満たない加古川線は、加古川~西脇市と西脇市~谷川で歴史も異なれば、利用者数も大きく異なる。ほとんどの電車は西脇市で運行が分断される。利用者の少ない後者は7駅しかない(西脇市と谷川をのぞく)が、過去の体験でも着席が困難だった記憶はない。ちなみに全駅訪問済みである

中吊り広告の位置に素晴らしいものがあった。途中7駅のうち久下村だけが丹波市に所属し、他はすべて西脇市にある。現地の校区のことは分からないが、西脇の高校に通うのなら船町口あたりから高校生が乗ってくるのだろうか。乗車車両の西脇市到着は8時12分。まさに通学に乗ってください、という列車でだ。次の電車は1時間以上後なので高校には行けない。この電車に乗るための早起きだった

結果を書くと

久下村 乗車1 降車0

船町口 乗車2 降車0

本黒田 乗車6(すべて高校生) 降車1

黒田庄 乗車7(高校生6) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗車1 降車2

で、いったん下車。つまり降車客のうち1人は私だ。西脇市までは、この後は新西脇駅のみしかないが、新西脇駅近辺からなら自転車通学だろう。結論から言うと高校生の12人を含めても20人ちょっとの利用者だった

比延で下車した後の私は一度黒田庄まで戻り、黒田庄から再び西脇市行きに乗車して新西脇で降りた。このあたりの過程は後に記すが、その道中の利用は

8時26分比延発谷川行き

先客8人

比延 乗車2(私を含む) 降車0

日本へそ公園 乗車0 降車2

黒田庄 乗車0 降車1(私)

9時16分黒田庄発西脇市行き

先客4人

黒田庄 乗車1(私) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗降ともに0

新西脇 乗車1(私) 降車0

という状況。周囲は公園のみの日本へそ公園で朝の8時台に2人降りたのは驚いたが、公園内で働いている方々だろうか

それを除くと「私」がドアの開閉に重要な役割を果たすことになってしまった。これは想像を大きく下回る結果だった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その1 新生18きっぷの旅は早朝から

※訪問は2024年12月10日

早朝の尼崎駅からスタート

時刻は朝の6時前。冬至目前のJR尼崎駅前は真っ暗だ

手には改訂されて初めて手にする青春18きっぷ。たまたま18きっぷ期間の初日となったわけだが、それは今回の件とあまり関係ない。少しでも寒さがマシなうちに、というのが本音である。さらに言うと3日間利用のこの日がメインイベントであって、朝の時点では翌日と翌々日のことは考えていなかった。前日の時点では天気が悪ければ、訪問日を翌日か翌々日に変更してもいいと思っていたほどだ

前記事で三岐鉄道北勢線での自動改札機におけるオペレーターとの通話システムについて記したが、その時に例として挙げたJR西日本の同システムは尼崎ほどの大きな駅にもある。西口は有人だが、東口はほぼ無人状態で、ここを通らなければならないが、新生18きっぷはここでの面倒な作業は必要なくなった

とにかく6時1分の福知山線福知山行きに乗車して出発である

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多くの高校生でにぎわう

大阪から福知山に行くには、この列車が事実上の始発となる。福知山線のさらに早い便もあるが、宝塚や新三田止まりで福知山まで行かない。また時間が経つと福知山線は篠山口での乗り換えが必要となるため貴重な1本。過去何度乗ったか分からない。ただ4両編成という窮屈さで朝の5時台という時間ながら、かなりのお客さんがいる。今日は座れないということはないだろうが、18きっぷの最盛期は大阪から乗らないと着席に危険信号が灯る列車である

何とか座席にはありついて篠山口も通り過ぎて下車したのは

1時間半後の谷川駅。「たにがわ」ではなく「たにかわ」と読む

広い待合室がある。5年以上前に来た時は自販機が並んでいる場所が売店だったはずだ。待合室で多くの人がテレビを見ていた。今もテレビはあるようだが、訪問時は消えていた

それでも1899年(明治32)の開業で昭和初期に改築された立派な駅は多くの高校生でにぎわっていた。過去、高校生の記憶がないのは当駅訪問が週末ばかりだったからかもしれない。自宅からご両親に駅まで送ってもらう地方都市ではおなじみの光景

緑の窓口もあって一部の特急も停車する

にぎわうホームの片隅に

ただ私が用事があるのは

跨線橋の隣を抜けての切り欠きホーム

西脇市行きの電車が待っていた。100周年のヘッドマークが付いている。加古川線は昨年暮れの12月27日に100周年を迎えた。式典のニュースもテレビで流れていたが、厳密に言うと全通100周年で、野村(現西脇市駅)~谷川が開通して現在の加古川線の形となった。手がけたのは播丹鉄道という播磨と丹波から1文字ずつとった会社である。国鉄の谷川駅に間借りの形となった。それゆえ福知山線と加古川線の線路はダイレクトにはつながっていない

線路そのものはつながっているが、スイッチバックのような形をとらなければならないので旅客列車は直通できないのに等しい。それが問題になるとは、30年前の阪神淡路大震災まで誰も予想だにしていなかっただろう

加古川線ホームは現在、番線の数字も与えられず単に「加古川線のりば」となっているだけで、まるで別会社のようで現状を物語っているようでもある

30年前は多くの人が谷川線と福知山線の間にあるホームを慌ただしく行き来していた。今回は再確認の半日旅である

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その9 通年販売フリーきっぷの利用方法

※訪問は2024年11月19日

敷設から開業の駅

馬道から1駅戻って西別所駅に到着。ご覧の通り狭いカーブ状のホームに張り付くように電車が着く。1914年(大正3)の北勢鉄道開業時に設置された110年の歴史を持つ駅である

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今回利用したきっぷ

西別所駅の改札。これまでずっと紹介してきたように、三岐鉄道移管後、北勢線の各駅には自動改札機が設置され、ここを通らないとホームには入れない。当駅は無人駅でご覧のように窓口も閉鎖されているが、無人駅の自動改札機も遠隔操作で必要に応じて開閉できるようになっている

今回利用したのは「三岐鉄道1日乗り放題パス」。西桑名駅で購入した。通年販売されている。1200円で三岐鉄道の北勢線と三岐線の両方が乗り放題。北勢線の西桑名~阿下喜が510円、三岐線の起点となる近鉄富田から終点の西藤原までが560円なので、どちらか片方の路線だけでも終点まで行って、途中どこかの駅1つだけで降りても元が取れるなかなかお得なきっぷである

ただ西桑名駅で購入した際、利用の注意を同時に渡された。一体何のことかと思っていたが、最初に降りた穴太駅で理解できた

各駅の自動精算機横にはインターホンときっぷを乗せる台があり、ここにきっぷを置いてインターホンを押し「フリーきっぷです」と告げると、オペレーターの「確認できました」の声とともに自動改札機を通れるようになる

JR西日本の幹線でよく見られる

この形式と同じである。このシステムの難点はオペレーターがなかなか出ないことがあってイライラさせることで、昨夏までは「青春18きっぱーの敵」とも言われていたが、同じシステムでもJRで利用するのと北勢線で利用するのでは、こちら側の意識もなぜか大きく変わる。北勢線にオペレーター役を何人で担当しているかは分からないが、おそらく小規模の兼任だろう。駅の出入りで必ず2度使用することになるが、駅によってはダイヤの都合もあって10分ほどで呼び出しボタンを押すこともある。先ほど手を煩わせたばかりなのに、すぐにまた仕事をさせることになるので申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。と同時に私のように各駅を細かく回る利用者はオペレーターの人も「またこの人か」と、なるだろう。ちょっと気恥ずかしかった。だから有人駅で降りるとホッとする。12月にも当地を訪れているので、結果的に十数回この作業を行ったというか、行わせてしまったことになる

すぐ隣をバイパスが通る

西別所駅の駅舎は三岐鉄道移管後に新たに建てられた。単式ホームで駅舎が線路に沿って建てられていることで想像できるように、馬道駅と同様に駅前は狭くパーク&ライドの駐車場は設けられていない。西別所は昔の村名で古い文献で名前が見られる。町村制施行で在良村となり、戦後桑名市に編入となった

駅のすぐ東側を国道バイパスが通り、駅からすぐの場所には新興の住宅街が広がる

時刻はお昼の12時半を回った。三岐線にも乗ってみたいので、残る駅はまた次回の宿題として一度北勢線から離れることにする

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その8 唯一ホームにフリーで入れる駅

※訪問は2024年11月19日

西桑名駅から1駅

終点の阿下喜から、ぐーんと戻って西桑名の手前の馬道で下車。一見どう読むのかと身構えてしまうが普通に「うまみち」と訓読みが並ぶ。当駅を出るとJRと近鉄をオーバーパスしながら、回り込むようにして「標準軌」「狭軌」「ナローゲージ」の3線が並ぶ有名な踏切を経て西桑名に滑り込む

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近鉄時代の面影がそのまま

私が降りたのは西桑名方面ホーム。駅舎はご覧のように逆側にある。木製の柱や屋根の瓦は近鉄時代とほぼそのまま

阿下喜方面のホームにある駅舎の入口は狭いが、奥行きはある

縦長の待合室からホームへ入る形となっていて、お手洗いはホーム上にある

1914年(大正3)に北勢鉄道が開業した際に同時設置された。当時の所在自治体は益生村。益生といえば、近鉄名古屋線の益生駅は目と鼻の位置にある

もっとも現実的に急行通過駅の益生駅と馬道駅での乗り換えは、そう多くはない

豆知識となるが、益生駅は開業した1929年(昭和4)には西桑名駅を名乗っていた。現在の北勢線の西桑名駅は当時、大山田駅を名乗っていた。近鉄の西桑名駅は1930年に現在の益生駅に改名。その翌年には北勢線(当時は北勢鉄道)の大山田駅が西桑名駅となった。つまり名称交換となったわけだが、西桑名駅の記事でも紹介した通り、桑名駅の東側にあるにもかかわらず西桑名駅となっているのは大山田村に変わって西桑名町という自治体が誕生したため

近鉄の駅も自治体名になったことになる。益生村は1933年に桑名町に編入されて、そのまま桑名市になった。西桑名町も1937年に桑名町となった。つまり現在はともに桑名市に所在するわけだが、桑名市の地図だけを見ると益生駅が西桑名駅を名乗っていた方が、どちらかというと自然なのが歴史のおもしろさである

西桑名行きホームは出入りフリー

当駅の最も大きな特徴は西桑名行きホームが自由に出入りできるようになっていること。北勢線の駅は三岐鉄道移管後、駅舎の建て直しも含め、すべての駅で自動改札機が設置され自由に出入りできないようになった。無人駅で改札機を通れないきっぷを所持している場合は、遠隔操作によって開閉が行われるのだが、残り1区間の当駅にでは西桑名行き列車に限り、降車時は乗務員が集札にあたる。乗車の際は乗車証明書の発行機を利用して桑名西駅で精算するか、駅舎側に設置されている券売機できっぷを買ってこちらのホームに来ることになる。ただし阿下喜方面のホームは自動改札機を抜けないと入れない

かつては構内踏切で両ホームは結ばれていたようで跡も残るが、柵で入れないようになっている。西桑名方面のホームを利用する人は絶対に1区間のみの利用しかないのだから、駅舎の逆側に住んでいる人の利便性を考慮しての措置だろう

駅周辺は古い街並みが残る場所で慣れた人でないと自動車で侵入するのも、ためらわれる立地で北勢線特有のパーク&ライドは不可能だが、西桑名までは1区間しかなく、そもそも徒歩でも行ける距離である

話はややこしいが、北勢線の線路が大きく回り込むようになっているため、桑名駅の「西口」までは歩いても大した距離ではない。それでも当駅の利用者は2023年のデータで1日あたり560人で13駅中6番目の数字となっている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その7 終着駅ならではの雰囲気

※訪問は2024年11月19日

終着駅は日本最西端のナローゲージ駅

北勢線の終着駅、阿下喜に到着。車止めを見ると心がときめいてしまう「終着駅フェチ」として、全国どこに行っても櫛形ホームの景色は心躍るものがある

ホームにはこのような表示も

「日本最西端のナローゲージ駅」とある。ある意味マジで、ある意味ちょっとシャレている。シリーズの最初で記した通り、現在ナローゲージを運行するのは、北勢線の他には四日市あすなろう鉄道(三重県)、黒部峡谷鉄道(富山県)しかない。最西端争いをするとしたら同県内で比較的近い所にある四日市あすなろう鉄道しかないことを分かった上での表記だろう。両社ともに、ずっとコトコト電車を走らせてほしい

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古くからの町の証明

北勢線の項で何度も繰り返しているような気もするが、ここ「阿下喜」(あげき)も、なかなかの難読。三重県のHPなどによると、阿下喜には「上木」の表記もあり、ヒノキの大木が生い茂っていて御用木に上げたから上木となったとか、ウグイスをお上に献上したところ、年貢を減らされたので阿(あまね)く下に喜んで阿下喜になったなどの説があるようだが、難読の地名というのは、古くから存在する町の証明でもある

風格ある駅舎は三岐鉄道に移管されて新たに建てられたもの。立て書きの駅名に風情を感じる

当駅は1931年(昭和6)の開業。前記事でも述べたが、北勢線は阿下喜へ至る最後の1区間が難工事で、1区間だけの開業まで10年以上を要した。旅人にとっては、山中を行くナローゲージの車両は車窓も含め趣深いものだが、こうして調べるまで、その努力は知らなかった

開業時は阿下喜町(直前に村から町になった)。戦後に町村合併で北勢町となり、平成の大合併を経ていなべ市。北勢というのは、もともとは自治体名ではなく地域を指す言葉で、敷設した北勢鉄道そして北勢線の由来にもなっている

駅の周辺には阿下喜の町が広がる

表現は正しくないかもしれないが、難工事を経てもこの地まで鉄道を通したことがよく理解できる。駅前にはすぐコンビニ。当然お世話になったが、降り鉄にとって駅からすぐのコンビニは大いに勇気づけられる存在だ

いなべ市役所の最寄りともなっている。かつては駅から徒歩10分程度の現在の北勢庁舎が市役所だったが、2019年に新庁舎が誕生して駅からは少し遠くなった

有人駅でエアコン完備の待合室を有する。駅前広場は新駅舎誕生の際に拡張されタクシー、バスの発着所となっていて

3つ並ぶ地域バスの停留所を前に「これに乗って三岐線の駅まで行きたい」と思った

軽便鉄道博物館

当駅で忘れてはならないのが

軽便鉄道博物館

ホームと並んで転車台があり

かつて活躍した車両が残されている

解説によると阿下喜延伸に合わせて製作され、昭和50年代まで同じ近鉄だった現在の四日市あすなろう鉄道で走っていたという。開館日は月に2日。いつかはそれに合わせて必ず来たい

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その6 いなべ市の代表駅で半数が折り返す

※訪問は2024年11月19日

発車番線に注意

楚原駅に到着。ご覧の通りの2面2線構造だが、昼間は半数が当駅で折り返す。朝のラッシュ時が終わると西桑名から当駅までが30分に1本、当駅から終点の阿下喜までは1時間に1本の運行となる。それゆえ西桑名行きは発車ホームが異なり

ホームの時刻表には発車番線が表示されている。時刻表を見ると分かるが、折り返し以外の阿下喜まで向かう列車と阿下喜からやって来る列車が必ず当駅で列車交換を行うのも特徴のひとつ

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いなべ市員弁町

楚原駅の駅舎。近鉄から三岐鉄道への移管の際、駅の統廃合が行われ、従来の駅舎も自動改札機の遠隔操作に対応するため、多くの駅で建て直しが行われたが、当駅は近鉄時代のまま。現在の駅舎が1992年(平成4)に新築されたばかりということもある。北勢線では数少ない有人駅のひとつととなったことも、そのまま利用される一因ともなっている

当駅は1914年(大正3)に現在の西桑名駅である大山田から当駅までの敷設が完了して北勢鉄道が新規開業した際の終着駅としてスタートした。当駅から先の部分は山中の難工事続きで、先に紹介した麻生田駅を含む阿下喜東駅(後に六石と改名され、三岐鉄道移管で廃駅)までが2年後に開業したものの、終点の阿下喜まで到達したのは1931年(昭和6)のことだった。駅の開業時は大泉原村に所在。1941年に員弁町となったが、最初に開業したことでも分かるように地域の中心でもあった。「楚原」も現在も当駅の利用者は多く、2023年の1日あたりの乗降客数は991人で西桑名、星川に次ぐ第3位である。有人駅となっているのもよく分かる。いなべ市の市役所最寄りは阿下喜駅だが、いなべ市の中心駅は人の多さからも楚原駅となっている

ちなみに鉄道むすめも「楚原さん」である

駅の住所は「いなべ市員弁町楚原」。平成の大合併でいなべ市が成立した後も旧町名はそのまま使われているが、「員弁」はもちろん「いなべ」と読むため、すべて平仮名にすると「いなべしいなべちょう」と「いなべ」が続く。市が誕生した際、「員弁」が難読だとして平仮名となった。当時は駅名にしても平仮名にすることが流行った時代でもあった。楚原もかなり古い文献に登場していて鎌倉時代には伊勢神宮領として「曾原」の表記があり「蘇原」という表記も見られるという

住宅街にたたずむ

駅の周辺はかなり規模の大きい住宅街

甲子園の高校野球やレスリングでも知られる「三重県立いなべ総合学園高校」の最寄りでもあり、駅の利用者数に大きく貢献している

訪問時はたまたま駅員さん不在の時間帯だったが、駅舎の待合室はエアコン完備で多くの利用者に対応している

緑の布製シートの屋根は近鉄を強く意識させるもの。最初に時刻表を見た時は、なんでこの駅で半分が折り返すのだろう、と思っていたが、行って納得、調べて納得だった

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その5 ロードサイド店の一角で「復活」

※訪問は2024年11月19日

新規開業も路線で2位の利用者

麻生田駅から桑名市内へと戻って星川駅で下車。当駅は2005年と三岐鉄道移管後に新たに設けられた単式ホームの駅だが、路線内では数少ない有人駅のひとつ。しかも2023年の利用者数は1日1019人と北勢線13駅の中では西桑名駅(3461人)に次ぐ第2位。事実上、西桑名駅は桑名駅と一体化しているので、ある意味1位と言ってもいいぐらいだが、数字の理由については現地を訪れると一目瞭然となる

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車窓からの景色

阿下喜方面から西桑名を目指すと星川駅の手前で車窓にMEGAドンキが見える。これだけだと、ありきたりな光景で「ドンキぐらいあるだろう」と思ってしまうが、駅から出ると、ちょっと驚く

左にあるのが駅舎で正面にあるのが三洋堂書店で右がMEGAドンキ。つまりこの2店舗と敷地を共有し、ロードサイド店の一角に駅がある格好となっている

周辺の店舗はこれだけではない。駐車場を出るとすぐ国道421号で、東名阪自動車道の桑名インターも至近であるためファミレス、回転寿司などのチェーン飲食店のほか、病院やチェーンホテルなど多くの施設が集まる。北勢線沿線では駅近辺が最もにぎやかな場所となっている。

別の駅を移転開業

当駅は三岐鉄道移管後に、500メートルほど離れた場所にあった「坂井橋」という駅を移転して新規開業した形をとっている

旧駅は、まさに坂井橋の近くにあった。員弁川を渡る貴重な橋の近くでマイカーなど存在しない大正期の開業時は貴重な場所にあったといえるが、駅前にスペースがない。北勢線は三岐鉄道移管後にパーク&ライドに重点を置く駅を目指しているので現在の場所が選ばれたのだろう。坂井橋駅は星川駅開業と同時に廃駅となっている

駅舎を正面から見ると

デザインはまさに「星と川」だが、駅の住所ともなっている星川は古い地名である。桑名市のHPによると、大和(奈良県)の星川から移住してきた人びとによって開発されたと考えられていて、平安時代の文献には「星川市庭(いちば)」という物資交換の市場が記録されていて、員弁川に港もあったという

そのように古い地名なので、実は過去にも「星川駅」が存在した。しかも2回も。初代は北勢鉄道の開業(1914年)と同時に設置され、現在の駅より西の嘉例川を渡った先にあったが、ホームを設置するスペースがないということで間もなく廃止。昭和になって嘉例川の砂利を運搬する目的で嘉例川西岸付近に2代目の星川駅ができたが、戦時中の電力節約のあおりを受けて休止駅となり、戦後20年以上を経て正式に廃駅となった。名称だけなら現在の駅は復活した3代目となるが、正式には坂井橋駅の移転という形になっている。駅間の近い北勢線ならではの話でもある

暑さも寒さも凌げるエアコン完備の待合室も備え、早朝や夜間以外の駅員さんがいる時間帯では定期券も買える。利用者数第2位にふさわしい施設を備えている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その4 こちらの難読駅は山中にひっそり

※訪問は2024年11月20日

30分に1本の運行

東員駅から終点である阿下喜行きの電車に乗る

こちらは列車交換の西桑名行き。訪問時は11月の後半だったが、すでにクリスマスムード

朝夕のラッシュ時は本数も増える北勢線は昼間は、きっちり30分に1本のパターンダイヤとなっている。内訳は途中の楚原止まりと終点の阿下喜行きが半々。つまり楚原以遠は1時間に1本となるが、駅の配置だけを見ると楚原は阿下喜の2つ手前。たった2駅区間なので、すべて最後まで行けばいいのに…と思うのが人情である。ということで車窓や乗車状況などもできるだけしっかり確認しながら電車に乗り込んだ

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朝のラッシュが終わると

9時を過ぎると朝の通勤通学ラッシュは終わり

突如として乗車車両は貸切状態に。人がいないと写真は撮りやすいが、誰もいないとナローゲージの車内の狭さが分かりにくくなる

列車は麻生田駅に到着した。1時間に1本となってしまう2区間の途中駅。格好いいデザインは

Jリーグ入りを目指すJFLのヴィアティン三重である。東員駅の記事で東員町役場の最寄りと書いたが、町役場近くには町の中心機能が集まっていてクラブがホームスタジアムとするLA・PITA東員スタジアムもその一帯にある

三岐鉄道移管後に駅舎設置

ということで麻生田駅だが

これは読めない

駅前にあった名所案内にも「麻績塚古墳」があり、いなべ市観光協会のHPによると、麻生田の地は古来から伊勢の神領であり、麻の栽培や紡織が盛ん。「和名抄」にもその名をとどめているという。古墳があり、埋葬された人物の名をとって一般に「麻績塚」と呼ばれ、墓の主は伝承によれば神麻績連。天物知命の后、また、桑名玖賀の姫ともいわれていると記され「その名のとおり、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたことがうかがえる」と綴られている。全国には「麻」の付く町は数多くあるが、当地でも麻の栽培が行われていたのだろう

駅の開業は1916年(大正5)。楚原から阿下喜までが延伸された際に設置された100年以上の歴史を持つ。開業時は山郷村に所在し、戦後に北勢町そして現在はいなべ市

楚原を出ると車窓は急に山深くなり、それまでの桑名市からの都市圏というムードが一変して当駅に着く。ここから阿下喜までも山中を行く。当駅の両側には近鉄時代はそれぞれ駅があったが、ともに廃駅となっていて、そんな事情も山深さを感じさせる要因となっているのかもしれない

駅舎はあるが、これは三岐鉄道移管後に建てられたもの。駅の全景は

このような感じで、かつてはホームと待合所だけだったことが想像できる。ただ写真では自由に入れるように見えるホームだが

おそらくかつての出入口だった箇所は塞がれていて駅舎に備えられた自動改札機を通らないと入れなくなっている。北勢線はその部分がしっかり守られていて、多くの無人駅も遠隔操作できる自動改札機が必ずあり、後で出てくるが、全13駅のうち自由にホームに出入りできる駅はひとつしかない

周辺はポツポツと民家が存在するだけだが、当駅もパーク&ライドができるようになっていて舗装されていない部分もあるが、駐車場は備わっている。なお北勢線の中では利用者数が最も少ない駅となっていたが、2023年のデータでは13駅中11位の260人となっている

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