呉線

完了2年がかりの呉線全駅訪問~最後までとっておいた呉駅で締める

呉駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

26番目の駅はやはり

呉線で最後の紹介となる26駅目(三原、海田市をのぞく)

呉に到着。訪問そのものは初めてではなく、90年代の終わりごろ二河球場によく来たので、その度に呉駅で降りていた。ただし駅周辺は大きく景色が変わっていて、特に南側はかつての巨大な貨物ヤード跡が残っていたが、再開発ですっかり姿を消していた

足かけ2年に及ぶ呉線訪問で、何度も当駅を通過したが、最初は車窓の変化に驚いた

観光で訪れる人の多くは、南側へと向かう。駅と直結となるペデストリアンデッキでゆめタウンを経由して大和ミュージアムにそのまま行けるからだ

観光用の駅名標にも、もちろん戦艦「大和」が描かれているし、列車の接近メロディーは「宇宙戦艦ヤマト」である

戦前にコンクリート駅舎

北側の駅舎は私の記憶にあるものだ

現在の駅舎は4代目。JR移管を翌年に控えた1986年(昭和61)に完成した。呉線以外の乗り入れがないにもかかわらず、1903年(明治36)の開業から4代目というのは、かなりの建て替えの多さだが、これは戦争を挟んでいるため。明治生まれの初代はもちろん木造駅舎だったが、20年後の1923年(大正12)には、早くも2代目駅舎となっている。当時としては画期的なコンクリート駅舎で呉以東の三原への工事が決まったこともあり、軍都・呉にふさわしいものを、と建て替えられた。なお呉駅を出てすぐ東側は高架となっているが、これは建設時からのもので、昭和初期の車も少ない地方路線だということを考えると画期的。「踏切が多いと軍需輸送の際、妨げになる」という軍のアピールで高架化された

地方路線とはいっても、終戦時の人口は40万人と呉市は全国でも指折りの人口を誇った都市だった。市内を路面電車が走っていたことからも都市需要が大きかったことが分かる

しかし立派な2代目駅舎は1945年7月の空襲によって全焼。全焼というより壊滅に近いものだったという。それでも軍都への鉄路は重要だということで空襲の直後には仮駅舎が建てられ、終戦間もない同年8月には3代目駅舎建設が始まり、翌年5月には完成している。早すぎる復興だが、これは呉を占拠した連合軍が鉄道を必要としたからで、東京と呉を結ぶ連合軍の専用列車も運行を開始した。連合軍は呉市電の復旧も手助けしている。さんざん壊滅させておいて、即座に復旧に協力したことになる

呉線の思い出

すでにコンビニおにぎりで昼食は終わっているので、駅ビル内のロッテリアで一休み。呉線の中で駅ビルがあって多数のテナントが軒を並べているのは当駅のみである

前記事でも触れたが、路線内でみどりの窓口があるのは新広と呉だけで、特に呉には立派なものがある。ただ営業時間は短く、お昼休みの間はみどりの券売機を利用する旨が(駅員さんは改札に常駐している)。時計を見ると14時15分。営業再開まで45分もあるが、おそらくきっぷの変更か払い戻しだろうか、お年寄り夫妻がきっぷを手に待っていたことだけを報告しておく

ホームは2面3線構造。広と当駅間は、昼間は快速のみの運転(広~呉は各駅停車で呉から快速運転となる)で普通は当駅で始終着となる。2、3番線は広島方面だが、3番線は一部三原方面への列車も出るので番線案内には何も書かれていない

呉線を初めて利用したのは小学生の広島への修学旅行の時だった。今にして思うと新幹線が暫定的に岡山まで延伸されていた絶妙のタイミングだったが、岡山から広島までは呉線経由の急行。「こんな海沿いを通るんだ」と思ったことだけを覚えている

山陽本線の地図を見ると赤穂線、呉線、岩徳線のバイパス的な3路線があり、それぞれの歴史を背負っているが、幹線は呉線のみで他は地方交通線である

かつて東京や大阪からの直通列車が走っていた経緯もあって、山陽本線の三原~海田市の途中下車可能な乗車券を持っている場合は、呉線内の各駅でも途中下車は可能である。ただし三原近辺の駅へ行く場合は海田市経由か三原経由かで運賃は異なる(IC乗車だと必然的に同料金となる)。また矢野駅が広島市内となっているため、該当のきっぷへの注意書きが大きく書かれている。矢野までが330円で広島までが510円なので目立つよう喚起する必要がありそうだ

これで26駅すべての紹介が終わったが、駅の紹介をしている課程で仁方駅が簡易駅舎になってしまったことを知った。1日に900人もが利用する駅としては寂しいニュースだが、かつては長大編成の列車が走っていた呉線の各駅には戦前からの駅にも平成に入ってからの駅にも、歴史と理由があることを知った各駅訪問だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~路線内で最も新しい駅は利用者数第4位

新広駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

広駅とは至近

新広に到着。時刻は13時40分と平日の昼間だったが、ホームが小さいこともあって利用者が多く感じる

開業は2002年で呉線では最も新しい駅。一番若い駅ながら1日の利用者数(2021年)は5628人で路線内4位(三原、海田市をのぞく。以下の路線内も同様)を誇る。1位はもちろん呉で2位は矢野で、ここまでが1万人以上。3位は広で5760人だから、新広と広はほぼ同数といえる

広と新広は極めて近く

なぜかグーグル先生は徒歩ルートだと、駅舎と逆側にある労災病院経由の歩き方ばかりを指南してくるので自動車ルートにしたが、20分もあれば十分歩ける距離。新広~広は線路だと1・3キロしか離れていない。また逆側の安芸阿賀ともわずか1・4キロ。元々近かった広~安芸阿賀の間で、かゆい所に手が届くように設置された形だ

みどりの窓口は呉以外では当駅のみ

みどりの窓口がある。昼間は長時間の休憩がある(実は呉駅も同様)ものの、この2~3年でバタバタとみどりの窓口が営業終了したため、路線内でみどりの窓口があるのは呉と当駅の2駅のみ

そのみどりの窓口も路線内では最も新しく、設置は2017年と、ついこの間のこと

おしゃれな駅舎である。元々は簡易委託駅としてスタートしたが、利用者が増加したため開閉式の自動改札機とみどりの窓口が設置された

利用者が多いのは駅を降りると分かる

駅前ロータリーを行くと広島国際大学の呉キャンパスがあり、高校もある。正面に見えるのは消防署

呉市の支所や図書館も備えた広市民センター。2007年に完成した。先述した労災病院は駅に隣接する形となっていて、駅舎と逆側にあるが、バリアフリーで移動できる

こちらは駅前にあった周辺地図

いろいろな施設が駅付近に集まっているため、利用者が設置時の想定よりはるかに多くなったため、呉市も出資する形で駅の改良が行われた

2016年の呉市の発表によると設置時は2400人だった利用者の想定が3642人となり、駅の利便性を高める整備事業を行うこととなり、JR西日本と協力してホームの拡幅やみどりの窓口を設置し、1億7461万円(予定)を呉市が負担することになった、とある。つまり自動改札機もみどりの窓口も市の出資によるものだ。とはいえ、昨今の状況からみどりの窓口の営業がいつまでも続くとは限らないが

窓口の営業時間帯の問題もあるだろうが、呉線の全駅訪問で私が駅員さんにきっぷを提示したのは、呉、竹原そして当駅の3駅だけだった

狭いスペースに駅が設置されているため、ホームは単式。乗り間違えがないよう、複数の注意書きがある

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~全線開通へ三原への第一歩は30年経ってから

安芸阿賀駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

路面電車が先行

安芸阿賀駅に到着。駅名標で分かる通り、呉のひとつ三原寄り。呉線は海田市から呉までが1903年(明治36)に開業したが、当駅の開業は1935年(昭和10)。1区間の延伸に30年以上かかったことになる。広島と海軍の呉鎮守府を結ぶことが当初の目的だったため、その後の延伸については動きが鈍かった。しかし「東京から直通列車で海軍基地まで行けないのはどういうことか」と論議が高まり、1927年(昭和2)にようやく三原と呉の両方から延伸工事が開始された。三原からは1930年に須波までが開業したのを皮切りに順調に線路が伸び、1932年には竹原までたどり着いたが、呉側からがなかなか進まなかった。呉と安芸阿賀駅の間の休山(やすみやま)トンネルが2・5キロにも及ぶ長大トンネルで難工事だったため。貫通したのは工事開始から6年も経った1933年のことだった

こちらは駅前の地図。呉線の広以西は新駅や復活駅が多く駅間は短いが、呉と安芸阿賀は4・1キロと比較的長いのはこのためだ。呉市の中心部とは休山を挟んだ位置にあり、元は阿賀町だったが、1928年に呉市に編入され、安芸阿賀駅の開業時はすでに呉市となっていた

もっとも呉の中心部と阿賀とは、山を回り込むように走っていた後の呉市電となる路面電車で1927年につながっていた。路面電車が走るほど呉市は大規模な街だったことが分かる

かつては松山行きのフェリーも

現在の橋上駅舎は2006年(平18)から。それまでは開業時からの木造駅舎だったが、構内の南側にあった側線を撤去する形で従来駅舎があった北側だけでなく南口が設けられた

南側は海側。以前紹介した

松山市の堀江駅。仁方駅との連絡船の四国側の駅だったが、この記事でも紹介したように堀江港と阿賀港とは仁堀航路とは別に呉・松山フェリーが開設され、結果的に仁堀連絡船の客を奪うことになった。その呉・松山フェリーも2008年に安芸阿賀駅から車で10分と、かなり遠い場所に乗り場が変更され、翌年に航路廃止となった。新駅舎から間もなくのことだった

開閉式の自動改札機が設置されている

張り紙にもある通り、昨年9月いっぱいでみどりの窓口は営業を終了した。みどりの券売機が設置されている。無人駅ではないが、昼間と夜間は無人駅になるようだ

ホームは2面2線。後から張り付けた広方面の案内が印象的だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~呉線で唯一の特定都区市内に存在する駅

矢野駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

「特定の特例」を生む

坂から1駅広島方面へと進んで矢野に到着。両駅とも快速停車駅(朝の一部広島行きをのぞく)なので移動は楽々である

こちらは駅名標。お隣は山陽本線との分岐駅である海田市。海田市は山陽本線の駅ということになるので、広島から来ると最初の駅となる

駅名標には「広」マーク。これは乗車券のルール上、広島市内の駅であることを示すもの。乗車券には「特例都区市内」という設定があり、201キロを超えるきっぷを買って、その発駅や着駅がこの設定区域に入ると、すべて中心地となる駅からのものとして計算する。大都市で適用され、大都市には駅が多く1駅ごとに発券すると面倒だということで、今回の例だと広島市内にある駅はすべて広島駅発着で計算してしまおうという制度。乗車券は101キロを超えると途中下車できるが(大都市近郊区間内ではできない)、この制度は201キロを超えると適用される。現在は11都市で12の区域(東京は23区と山手線が存在)が指定されている

広島駅に発着が集約されていることで得をすることも損をすることもあるが、今回はきっぷのルールが主目的ではないので、その部分は触れない。ただ201キロを超え「広島市内」と書かれたきっぷを持っていた場合は途中下車ができず、西側から山陽本線を来た場合、海田市で一度降りてしまうと、きっぷは回収され、海田市~矢野の乗車券を別途購入しなければならない。ただ坂までのきっぷだと途中下車は可能となる

矢野は呉線の駅では唯一、広島市内にある駅で当然、広島市内マークが駅名標に付いているわけで、先ほど例に出した海田市にも

広島市内マークが付いているが、海田市駅の所在地は広島市ではなく安芸郡海田町。ちなみに広島寄りの向洋駅も府中町。なぜこのようなことになっているかというと矢野が広島市の飛び地にあるためだ

呉線で2番目に利用者の多い駅

矢野と同じ理由で山陽本線の海田市以東の安芸中野、中野東、瀬野の3駅も飛び地にある広島市内駅となっている。平成の大合併のはるか前、瀬野川町が1973年に広島市となったことで安芸中野、瀬野の2駅が広島市内の駅となった(中野東は広島市となってから開業)。1975年に矢野町も広島市となり、矢野駅も広島市内の駅に。基本的には行政上、広島市にある駅は広島市内駅となるので、そのような扱いとなるが、向洋と海田市を広島市内駅扱いにしないと便宜上、不都合が生じるので安芸中野と同じタイミングで広島市内駅となった

矢野駅は坂駅と同じ1903年(明治36)の開業。呉線の最初の駅のひとつ。当時は矢野村だった。

1日の利用者は1万1924人(2021年)で呉線では2番目に多い。ちなみに呉線内で1万人を超える駅は呉(1万6266人)と当駅だけ

2008年からの橋上駅舎前にはズラリとタクシーが並んでいた。駅舎は矢野の代表産業だった日本髪の添え髪をモチーフにしているという

矢野は天然の良港がある上、海以外の三方を山で囲まれ防御面でも優れているため、古来から時の為政者に重宝され、平安時代末期から街作りが行われ、鎌倉時代末期から戦国時代にかけては幾度も激しい攻防戦が行われた

みどりの窓口は4年前に営業を終え、みどりの券売機にプラスしてオペレーターとの会話機能が付いたみどりの券売機プラスが設置されている。駅員さんは主に昼間の時間帯は不在となるようだ

構内にはセブンイレブンもある。矢野駅到着は12時すぎ。坂そして当駅と昼食を摂る場所はいくらでもあったが

メシよりもダイヤ優先である。いつものパターンでコンビニおにぎりが今日も昼食である

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~開業時に設置された明治期以来の駅

坂駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

呉線では5位の利用者

呉線の沿線は平成の大合併が続き、いわゆる「郡部」は坂町しかない(分岐駅の海田市はのぞく)。人口1万2000人の坂町だが、鉄道駅は3つもあって、いずれも呉線。既に紹介した小屋浦、水尻そして今回紹介する坂駅である

その坂町に到着。駅名から分かる通り、同町の中心駅

2面3線のホームを持ち、1903年(明治36)に海田市~呉が開業した時に設置された5つの駅のひとつ。2021年の1日の利用者数は5584人で呉線内では5位(三原と海田市をのぞく)

以前は国鉄型のコンクリ駅舎だったが、2000年に現在の橋上駅舎となった

橋上駅舎と商業施設

こちらが以前から駅舎があった南口。橋上駅舎になったことで、海側となる北口とは自由通路で結ばれた。北口はいわゆる再開発地域となっていて、大型店舗が並ぶほか、広島翔洋高校や町役場もあって利用者が増えている。広島翔洋高校は平成になって坂町へと移転してきた

こちらは北口。国道31号は北口側を走っているため、大型店舗はロードサイド店でもある

橋上駅舎にあった周辺図。「商業施設」とだけ書かれ、いつ設置されたものかは分からないが、北口の方に大きなスペースがさかれている。町の中心が北口に移りつつあるのか

呉線が開業したころは坂村だった。戦後の1950年(昭和25)に坂町となって現在に至る

なおグーグル地図を見ると、坂町には「横浜」がある。かつては横浜島という島が埋め立てによって陸続きとなったという

無人駅ではないが、時間帯によっては無人となるようだ。みどりの窓口は昨年に営業を終了したが、みどりの券売機が設置されている。呉線では全線でIC乗車が可能だが、開閉式の自動改札機を導入しているのは6駅のみ(三原と海田市のぞく)で、そのうちのひとつ

坂町の鳥がメジロだということは小屋浦駅の項でも紹介したが、坂駅の屋根の緑っぽい色はメジロをイメージしたものとなっている

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~たった5年で休止→復活→拡張→移転の歴史

川原石駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

輸送力強化の駅

川原石に到着。ご覧の通りホームは極めて狭い

列車が去った後の構内を見ると

狭いホームが向き合っている。前記事、前々記事と輸送力強化のための「新駅」を紹介してきたが、当駅もそのひとつ。ただ異なるのは新駅ではなく移転した駅だということ

川原石駅は1935年(昭和10)の開業。海田市~呉は1903年(明治36)に開業していたが、三原まで全通した際に呉~吉浦間に設置された。ただし、それはまさに設置というもので地元の要望に応えた駅のホームは1両分しかなく、当時導入が開始されたガソリンカーという単行列車のためのものだった

その後、戦時色が強まっていくにつれ燃料の節約でガソリンカーは廃止。川原石駅も列車が止まることができなくなったので1940年に休止される。戦後もしばらく放置状態だったが、戦後13年も経過した1958年に復活。ただし1両分のホームというわけにはいかないので、初代駅のすぐ近くに6両分のホームを設けて新たな川原石駅とした

しかし現在の感覚だと信じられないかもしれないが客車中心の当時の鉄道事情では、6両以下という編成は少数派で、それ以上の編成列車は当駅を通過していた。1968年10月の時刻表(復刻版)を見ると、広島行きの列車は5時39分が始発で次が8時35分。もう通勤通学の時間は終わろうとしている。昼間はほぼすべての列車が停車しているが、夕方になるとまた通過だらけで広島から呉への列車は15時51分の次が5時間以上も空けて21時31分。かなりの残業か一杯やってからでないとホームに降りることはできない時間である

つまり旅客が多い朝夕ラッシュ時は必然的に長い車両となるので停車することができない困った駅だったのだ。それでも呉までは、わずか1・2キロの距離だったので地元住民は呉駅を利用していたと思われる

しかし、そんな川原石もJR移管の際にようやくホームが拡張され、すべての普通列車が停車するようになった

複線化対応のため移転

次に転機が訪れたのは呉線の輸送力強化。新設の水尻駅、復活のかるが浜駅とともに単式ホームの川原石駅でも列車交換(すれ違い)ができるようにしようということになったが、住宅密集地に設置された単式ホームは交換設備を設ける余裕がないということで500メートル広島側へと移設することになった。それが現在の川原石駅

私が降りたのは呉方面ホーム。ホームはそれぞれ独立していて駅舎はない

向かいのホームへは公道を通るよう案内されている。呉線内では須波駅と同じ構造だが、こちらは当初から駅舎はない

広島方面の入口も狭い場所に器用に造られている

ホームからは工場が一望

現在のホームからは工場群がよく見える。この付近では軍事機密を守るということで1937年に車窓からの景色を見えなくする目隠し板が設置され、広島から呉方面へと向かうと吉浦あたりから車掌や憲兵が窓を閉めるよう指示を与えたという。右手前の建物は、おそらく「敵から目立ちやすい」との理由で黒く塗装され直されたものが、そのまま残っていると思われる

さて今回の心残りは旧駅跡を訪問できなかったこと。たった500メートルの距離だが、30分ほどの滞在時間で住宅密集地の小路を迷うことなく行って、今はホームもない駅の跡地を確認して戻ってこられるかどうか不安だったので断念したのだが

帰宅後に調べると開業記念碑がある。これはちょっと後悔

駅のすぐ近くにある建物は呉市立港町小学校。昭和30年代に全国でこぞって建てられ、私が子供のころは神戸市内でもいくつか円筒型校舎が見られたものだが、いつの間に姿を消した。こちらの校舎も建て替えの話が出ているそうだ

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~32年ぶりに復活した海水浴場最寄り駅

かるが浜駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

ひらがな駅に到着

かるが浜駅に到着。ご覧の通り、すべてではないが、ひらがな駅

開業は1999年(平成11)の2月7日で、前記事の水尻駅と同日。天応~吉浦の間に設置された。写真で分かる通り、島式ホームで交換(すれ違い)可能。ということは、設置の理由は水尻と全く同じで海田市~呉の輸送力強化、列車本数を増やすため

ただし水尻が全くの新規開業駅だったのに対し、かるが浜は復活駅というのが多少事情が異なる点だ。復活といっても、かつては仮停車場で正式な駅ではなかった。また夏季のみの臨時停車場でもあった

元々は漢字の駅名

「元祖かるが浜駅」ともいえる狩留賀停車場は1928年(昭和3)に設置された。海水浴客対象で夏のみの臨時営業

狩留賀一帯は呉線によって発展した。それまでは、ほとんど住む人がいなかったが、呉線開業によって注目が集まり、大正期に海水浴場が開業。その頃はマイカーというものはほとんどなく、多くの人は吉浦駅を利用していたと思われるが(かるが浜~吉浦は現在も1・2キロしかない)、せめて海水浴のシーズンだけは、との要望で開業

当時の全国の流行りは海水浴+別荘のセット販売モデル。昭和初期で、まだまだ平和を楽しむ余裕があったころで、狩留賀一帯も別荘地として発展していくが、そのような時期は長く続かず、軍事工場の工員用の寄宿舎ができ、戦時中は海水浴場も軍関係の施設に利用されるようになって海水浴場用の臨時駅は本来の目的を失う

戦後は一帯が進駐軍(英連邦軍)の接収対象となり、臨時駅が復活したのは接収解除の1952年。以降、1967年まで続いたが利用者減により終了した。つまり、2度の復活を遂げた駅ということになる

駅名はひらがなが採用された。当時ひらがなの駅が流行ったのもあるが、広島県内では芸備線に狩留家駅(芸備線のIC乗車北限として知られる)があり、読みは同じで1文字違いなので、そちらへの配慮もあったと思われる

ホームからは海を望むことができる。臨時駅の廃止後にあった新線付け替えによって線路は高台を走ることになった

駅舎というものはなく、入口に券売機が置かれ

盛土下の入口からホームに入る。簡易型の自動改札機が置かれている

海水浴場は今も現役

駅から間もなくのところに海水浴場は今も現役である

正月明けの訪問で砂浜を訪れる人はもちろんほぼいないが、新駅(復活駅)誕生直前に海水浴以外でも楽しめる「ロマンチックビーチかるが」に改造されている。前記事で紹介した水尻とともに平成の新駅はいずれも海水浴場最寄りの駅である

こちらは公園内の地図。駅からは徒歩2、3分と至近

ただし地図そして交差点、さらには駅前のバス停も使用されているのは漢字の「狩留賀」である

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~2番目に新しい駅ながら利用者数はブービーの異色駅

水尻駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

開業は1999年(平成11)

平成以降において、わざわざ駅を新設置する理由のほとんどは沿線人口の増加だろう。他には通勤通学の利便性を向上させる、スタジアムやテーマパークなどのハコ物ができた、というのもあるが、基本的には利用者が多そうなので設置した、というベクトルは同じ。平成以降というのは、JR化後とほぼ同じ意味合いなので、民営化された後は、お金にならなさそうなことはあまりしないのがノーマルな考えだ(民営化直前に駆け込み開業した駅も存在するが)

呉線でも平成以降にいくつかの駅が開業した。すでに紹介した中では、テーマパークのためにできた呉ポートピア駅(1992年開業)が代表格だろう。こちらは駅の設置費用もテーマパーク持ち。また安芸長浜駅(1994年開業)は発電所への利便性を図るもの

まだ紹介していない駅は他に新広駅、かるが浜駅そして今回の水尻駅となるが、呉線で最も新しい駅は新広で2002年の開業、次が水尻とかるが浜で1999年の開業(2月の同日開業)。厳密に言うと、かるが浜は復活駅なので、水尻は2番目に新しい駅となるが、1日の利用者数(2021年)は26駅中25番目(三原と海田市をのぞく)の142人。最も少ないのが三原からひとつ目の須波の124人、下から3番目が大乗の184人なので、あわや最少利用者になりかねないところ。平成生まれとしては、なかなか異例ともいえるが、その異例さが駅そして呉線の特色をよく表しているのだ

狭い島式ホームに到着

小屋浦から、ひとつ広島方面へ戻る形で水尻に到着。狭い島式ホームでのお出迎えである

呉ポートピア、安芸長浜、新広と新駅は単式ホームとなっているのが特徴で、新駅らしく器用に駅を設けている。水尻も国道が迫る位置に器用に設けられているが、列車交換可能な複線構造となっているのが、特徴である

駅舎が当初からないのも特徴。つまり

・新駅ながら利用者は少ない

・駅舎はないが列車交換はできる構造

なのである

高まる需要に応える

呉線は1970年(昭和45)に電化されたが、今も単線だ。複線化の話は戦前からあり、特に戦時色が強まった1939年には軍都・呉への輸送力を強化しようと海田市~呉の複線化が決定。工事が開始され、新たな路盤やトンネルがいくつも造られたが、開戦後の資材不足もあって工事は中断して終戦。せっかくの新線は「未成線」のまま放置されていたが、電化の際に利用されることとなり、いくつかの区間で線路の付け替えが行われた。ただし旧来の路線は「廃線」となった

複線化が再び持ち上がったのはJR移管前夜あたりから。呉が広島のベッドタウンともなったことで輸送量が限界に達しつつあり、複線化が強く求められるようになったが、今度問題となったのは、お金。複線化に際しては数百億円が必要とされたが、交換設備を備えた新駅を設置すれば、数十億円で済むということになり、それで開業したのが水尻駅と復活のかるが浜。つまり新規開業でありながらも信号場の役割が強い駅だった

それでも駅は山と山の間にある小屋浦~坂の水尻地区に設置された。小さな集落ではあるが、利便性は大いに増した

食券型の自動券売機とICリーダーが設置されている

跨線橋からは山側にしか出られないが、すぐ踏切があるので国道つまり海側にはすぐに出られる

国道を渡ると人工砂浜の「ベイサイドビーチ坂」。夏場は海水浴でにぎわう。訪問時は1月で盛夏の様子は分からず、広大な駐車場を見ると多くの客は車利用と思われるが「海に近い駅」であることは間違いない

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~大正期に開業 現在はメジロの駅に

小屋浦駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

姫路ワープで広島へ

年明けの1月9日

朝7時の三ノ宮駅。本格的なラッシュアワー直前という感じで、まだホームに余裕はある。ここから新快速に乗車。時間が時間だけに着席はあきらめていたが、下りが幸いしたのか神戸で座れた。しかし

8時過ぎの姫路駅はピークタイムとなっていて階段は降車専用のような状態

今日は広島まで

以前も紹介したが、広島に行くなら青春18きっぷの季節は姫路ワープが圧倒的にお得である

呉線完結へ

今日で呉線が完結となる。広から東側はすべて訪問したので、出発は三原からではなく広島からである。最後の訪問が2022年12月だったので、1年以上空いてしまったが、本当は夏の18きっぷシーズンに訪問予定で、その通り自宅を出たが、三原まで行ったところで雨のため呉線が遅延していることが判明。急きょ山陽本線から瀬野で下車してのスカイレール訪問となった。いつかはもう一度乗ってみたいと思っていたので、これはこれで有意義なことではあった

本数の多い通勤通学時間は既に終わろうとしていたが、おそらく最後の1本あたりには間に合ったようだ。乗車電は9時40分の広行き

約30分で小屋浦に到着

小屋浦駅は1914年(大正3)の開業。海田市~呉の開業は1903年(明治36)だったので、呉線に誕生した最初の「新駅」となった(仮乗降場は他にもあったが、正式な駅は小屋浦が最初となる)

天災を乗り越え

こちらが駅舎。ユニークな形をしているが、こちらは所在地である坂町の鳥メジロを模したもの。現駅舎となったのは1999年(平成11)。それまでは開業からの規模の大きな木造駅舎だった

現在の駅舎となっても、しばらくは有人駅で完全に無人化されたのは7年前。窓口はふさがれて簡易型の自動改札機が設置されている。ただ券売機は食券販売機型ではなく、大都市近郊と同じものが置かれている

駅舎からホームへは階段とスロープで出入りする。駅舎は山側にあり、広島方面への電車ホームへは跨線橋で移動

跨線橋からは海と国道が望むことができ

昼間は1時間に1本の運行だが、朝夕の特に広島方面への本数は多い

こちらは駅前の地図。小屋浦地区は山と山の間に挟まれていて、交通事情の悪い時代は海沿いを歩くのも困難で、山越えを強いられていたため呉線開通と同時に駅の設置が地元から求められていた

そして地図で分かるように街の中を通る一本の天地川を中心に発展してきた街だが、平素は穏やかな川は、山との落差が激しく大雨が降ると大量の土石流が押し寄せる暴れ川としても知られており、有史以来、何度か天災に遭っている。明治時代には死者44人という被害が発生。2018年の7月豪雨では上流の砂防ダムが決壊して死者と行方不明者が合わせて16人という大きな被害が起きた

訪問日は冬の小春日和という穏やかな陽気に包まれていたが、歴史は忘れてはならない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~聞き耳が過ぎて最後の駅で痛恨のやらかし

風早駅のホーム

※訪問は2022年12月27日

駅訪問で必ず行うこと

風早駅に到着。これで広~三原の駅はすべて訪問したことになる。残る広以西は列車本数が多く、昼間き普通が1時間に1本の停車という駅もあるが、朝の通勤通学時間帯は本数が多い上、呉ポートピア駅のように至近な駅間もあって、なんとでもなるはずだ。とにかくひとつの区切りである

話はややそれるが、駅訪問を趣味にしている人なら必ず行うであろうことがある。駅舎と駅名標の撮影。これをしないと駅を訪ねたことにならない。駅舎がない駅はホームと待合所を撮る。当然すぎることだが、まずこれを念頭に置いて以下を読み進めていただきたい

万葉集にも残る地名

風早駅は1935年(昭和10)の開業。竹原~三津内海(現安浦)が延伸された際に設置された。当時の所在地は「早田原(はやたわら)村」。この村名は「風早」「大田」「小松原」という3つの村の名前から1文字ずつとって付けたもの。戦時中の1943年に他の自治体と合併して安芸津町となり、平成の大合併で東広島市となった

「風の郷」という風早自治協議会のHPによると、伊予の国で勢力を持っていた風早氏が海を渡って瀬戸内海の島々にも支配を広げ、当地に定住したため地名となったという説があるという。これが6世紀の話。また万葉集にも船の寄港地として風早の地が詠まれていて、少なくとも奈良時代には風早という地名は定着していたようだ

駅は海に近い

駅舎を出ると、すぐ海である

2面2線構造のホームはカーブ状に設置されている。弧を描きながら入線または去っていく電車を見ることができる

駅から海の方へと向かうと右手に商店があった。早朝に三宮の牛丼店で朝食を摂ったが、時刻はすでに14時前。さすがに腹が減ってきたので

おにぎりとお茶で少しばかり空腹を満たす。ちなみに風早駅には、ちゃんとお手洗いがある(男性視線だが)のでお茶もコーヒーも安心だ

会話に引き込まれ

駅舎で食べようと、駅に戻った。風早駅もキュービック駅舎だが、前記事の安登駅と同じく、1970年代に早々に現在の姿となったため、窓口跡がある

だが駅のベンチには先客が

正確に言うと、安登から風早へと向かう車内から、ご一緒だった。ご婦人の二人連れ。私よりは確実に一回りは上と思えるので70代以上だろう。その時は熱のこもった会話に何とも思わず、風早で「あー、一緒に降りるんだ」と感じた程度だったが、商店でおにぎりを買って駅に戻ると、駅舎内のベンチで延長戦を行っている

で、その会話内容が全く分からない。地方に行くと、お年寄りに限らず方言が全く理解できない、というのはよく体験するが、広島県で会話が分からない、というのは初体験に近い。正確には明治生まれだった尾道(といっても船で尾道から1時間もかかる小さな島)の祖母以来だが、当時は私も子供で理解力に乏しかった。しかも、さすがに目の前の方々は明治生まれではないだろう

ただ会話のディテールは理解できなくても、テーマぐらいは分かる。というか12月27日という年の瀬で、吹きさらしの駅舎内は結構寒い。おしゃべりなら家に帰ってやればよろしい。なぜ、わざわざ寒中行うのかというとテーマが「嫁姑問題」だからだ。それは家ではできんなぁ(笑)。私は明らかにヨソ者なので、いくら聞かれても大丈夫である

数年前、鹿児島の枕崎に行った時も「嫁がネコを拾ってきて…」というあたりまでは分かったものの、その後はちんぷんかんぷんだったことがあったが、ここは広島県である。ちょっと私も何とか理解してやろうとムキになってきて、お茶を飲むふりをしながら耳をダンボにしていると、少しずつ中身が分かるようになってきて「お母さん、そのぐらい大目に見てあげなさいよ」と思えるようになった。大変満足

お二人が去った駅舎内の様子(笑笑)。正しくは次の列車に乗るお客さんがやって来て、どうも顔見知りのようで強制終了となった(笑笑笑)

ということで方言も何とか理解でき、とても満足して次の訪問地である岩国に向かったわけだが、帰宅後しばらくしてから駅舎の写真も駅名標の写真もないことに気付いた。お茶とおにぎりを買って食べたぐらいなので時間はいくらでもあったはず。駅に着いた時、随分と傷みの激しい駅名標を後でゆっくりチェックしようと思ったことは覚えているのだが、いつの間にかすっかり失念していたようだ

ただこの日の旅先で最も印象に残る場面だったことだけは間違いない

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