阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~私鉄から国鉄となって繁栄

和歌山駅の駅名標

2022年12月7日16時

高架線から和歌山駅へ向かう

紀和~和歌山間の高架区間の車窓は市内の様子が俯瞰できて楽しい

ただ高架区間はわずかで阪和線と交差する部分は昔ながらのアンダーパス。ここまで高架しようとすると和歌山駅そのものを高架化しないといけないので、阪和電気鉄道が造った堤築の下を行きます

和歌山駅に到着。夕方なので下校の高校生でにぎわいます。ただ紀勢本線である和歌山~和歌山市間に与えられたホームは和歌山線と同一面。メイン出口である西口に近い阪和線と紀勢本線のホームとは別となっています。阪和線と紀勢本線は特急をはじめ、直通運転が行われていますが、紀勢本線の終点である和歌山市駅へ向かう和歌山~和歌山市は支線扱いです

ちなみにこのホームには中間改札があるので青春18きっぷのシーズンは要注意

発展するJR駅

和歌山駅には東口と西口があり、メインは前述した通り西口です

写真は2018年のものですが、商業施設が入る総合ビルとなっています。また周辺は飲食店が並ぶ繁華街です

それに対し東口は

こぢんまりとしていて周辺に派手なネオンサインはありません(写真は2021年)

しかし近年、多くのホテルが東口に建設され、それに伴い飲食店も増えています。私も最近は和歌山に宿泊の際はもっぱら東口を利用します

このように和歌山駅周辺は発展を続けている印象があります

JRと南海2つの玄関口

さて和歌山市には南海の和歌山市駅という、もうひとつの玄関口があります

「暴れん坊将軍」で有名すぎる和歌山の中心は和歌山城で旧市街地はお城を中心にできています。こうして見ると、旧和歌山駅である紀和駅は街の外れにあり、紀勢本線も中心部を避けるように敷設されていることが分かります

徒歩ルートで表示しましたが、和歌山駅と和歌山市駅は車で10分程度。そしてお城へは和歌山市駅の方が若干近い。先に発展したのは和歌山市駅です。南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅までやって来たのは1903年ですから、まだ明治期です。阪和電鉄が大阪から和歌山に到達したのは、それから約30年後なので、大阪から和歌山への「足」と「輸送」は南海が独占していたことになります(当時は車などないに等しい)

駅としての重要度も南海が上で、それはわざわざ終着駅だった和歌山(現紀和)から和歌山市駅へ1区間だけの路線が設けられたことでも分かります

ただ戦時買収で阪和電鉄が国鉄となり、戦後本格的に運用が始まると徐々に状況に変化が出てきます。東和歌山駅が和歌山駅へと改名された1968年あたりには戦後20年が経過して白浜や新宮に直接行ける国鉄利用者が増え、もともと複線電化のスピード優先で建設された阪和線の構造が通勤通学も含め、利用客増加に貢献することになります

2000年あたりから利用者も逆転が始まりました。つまり国鉄と一体化したことが繁栄につながったわけです

南海も挽回に

写真は2017年9月の和歌山市駅。この直前まで津や松阪といった近鉄の駅のようにJRと同一改札になっていたのですが、IC乗車が可能になったことを機に別の改札となりました

当時は105系。ただワンマンの2両編成、昼間は1時間に1本の運行というのは今とあまり変わりません

私が和歌山市駅を初めて訪れたのは15年ほど前と遅く、個人的なイメージで「JR駅より私鉄駅周辺の方がにぎやか」と思って和歌山市駅近くのホテルをわざわざとったのですが、ホテルで飲食店を尋ねたところ「繁華街はJRの駅近くですから」と言われるほど寂しい駅前になっていて驚いたことを鮮明に覚えています

和歌山のような歴史のある大きな都市で駅を中心とした繁華街が戦後数十年も経って「移動する」のは珍しいことです

こちらも2017年の写真。ターミナルビルの建て替えが始まっていました。こちらも1972年完成とは思えない大規模なもので、正面から駅に入る大階段はターミナルとしての威容を十分示すものでしたが、新駅舎が2020年にできました

和歌山の両玄関口の「新たな争い」が始まっています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~かつての和歌山駅は今

2022年12月7日15時

紀伊中ノ島から徒歩で旧和歌山駅へと向かう

前回記事の最後に紹介した紀伊中ノ島の駅前風景

一連の記事で「和歌山駅(現紀和駅)」と何度も書いています。「東和歌山駅の地位が上がって和歌山駅に昇格し、それまで和歌山の代表駅だった和歌山駅は紀和駅になった」と

しかし紀州藩で有名な和歌山という古くからの都市で代表駅の交代があるというのはあまり聞いたことがありません。これも何度か書いてきましたが、すでに町ができていると線路は街外れに敷くしかなく、大きな都市の代表駅が街の中心部から外れているのはよくあること。別にそのままでもいいのではないか、となりそうですが和歌山の場合は前回の紀伊中ノ島の項でも記した通り、大阪から真っ直ぐやって来た阪和電気鉄道が当時の和歌山駅への乗り入れを拒んだことで現在の形になりました

ただ、その和歌山駅はどうなっているのかを伝えないと、文字と地図だけでは何のことか分からない。ということで紀和駅は阪和線ではなく紀勢本線の駅ですが、リポートすることにします

先に書きますが、ここから紀和駅は実は近い

徒歩10分です。線路があるので携帯のアプリも必要ないでしょう

高架に沿って進む

最初の写真を左に折れるとすぐ紀勢本線の高架が見えてきます。左側にある建物がJRの社員寮で、紀伊中ノ島の旧和歌山線ホーム跡のあたり。その中を突っ切ると早いのですが一応、公道を進みました

後は高架に沿って進むだけです

結論から言うと途中で信号はひとつだけ。大きな通りを渡ります。新しいマンションや住宅街と古い建物が混在しています

時系列的には南方貨物線の探索から、それほど日は経っていなかったので高架ばかりを見ながら歩くと廃線か未成線かと錯覚してしまいますが、もちろん現役の紀勢本線です

すぐ高架下が遊歩道となり

左右が公園となって子供たちの歓声が。公園部分はかつての「和歌山駅」の敷地内だったのでしょう。かなり広い

子供の自転車にビュンビュン追い越される。奥に見える黒い部分が紀和駅です

ムダを省いた姿に

紀和駅に到着しました

15年前に高架化され、ホームへは階段またはエレベーターが向かいます

外から見るとこのような高架駅。かつての駅構内は一帯が公園化され、お手洗いもあります

まずはホームに行ってみましょう

「和歌山・和歌山市方面」と案内されています。駅には、そのどちらか行きしかやってきません

簡易型IC改札と券売機がたったひとつに、1面だけのホームは、もちろん無人駅。よく言えばスタイリッシュ、ムダなものはすっかり省かれていますが、ここが戦後20年経つまで和歌山駅だったとは誰も思わないでしょう

私は紀和駅になってからの地上駅時代に来たことがあります。駅舎はありましたがすでに往時の面影はありませんでした

南海と阪和電鉄の挟み打ちに

紀和駅の駅名標。こうして見ると両サイドが和歌山駅、和歌山市駅ってすごいですね

和歌山駅は1898年に現在の和歌山線の終着駅として誕生。歴史は古い。その当時、南海はまだ市内中心部まで入っておらず、文字通りの中心駅でした。なぜここに駅ができたかというと紀ノ川の存在です。当時の技術では、なかなか渡れなかった広大な河川。和歌山線は紀ノ川に沿って進んでいますし、将来の南方面への敷設も含め、旅客はもちろん、貨物の海運という意味でもここに駅を設置するあったのです

ただ数年後に南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅を開設。大阪ともつながったことで優位性がなくなります。和歌山市駅との接続も考慮して当駅~和歌山市駅が開通。中間駅となってしまいます

その後は前記事の通りで阪和電鉄が東和歌山(現和歌山)での接続を選び、阪和線として国有化されると大阪~和歌山、さらには和歌山以南への列車は当駅を通らなくなり、やがては駅名変更。元々、街外れの駅だったので周囲のにぎわいも消えました

現在、周囲は新たな住宅地となっています

昼間は1時間に1本

時刻表を見ると朝夕の多客時間帯でも30分に1本、昼間は1時間に1本の運行しかありません。駅周辺から大阪方面へ向かう人は紀伊中ノ島まで歩いた方が便利なので、やむを得ないところ。紀伊中ノ島の利用者が一時よりは増えているのは、紀和駅周辺にできたマンションや住宅に住む人が利用するようになったからだと思われます

ターミナル駅の面影は

かつては急行「きのくに」という、南海の難波から出て和歌山市~和歌山を経て国鉄に乗り入れ、白浜・新宮に向かう、今では信じられない列車が運行されていましたが、国鉄末期に廃止され、その後は紀勢本線でありながら、当駅付近を通る優等列車はありません。和歌山市~和歌山は区間運転として独立した形になっている支線扱い

広大なターミナル駅だったことを思わせるものは何もありません。現役の駅なので解説文や碑を残すわけにもいかない。わずかに駅正面の通りにのみ面影が残ります

和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームにむ和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームに向かいます

2両編成のワンマン車がやってきました。実は今回利用しているICOCA定期券利用者の「どれだけ乗っても1000円」エリアには和歌山線も入っているのに当区間は外れていて「別路線」の感を強くさせます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~ひとつの役割を終えた駅

紀伊中ノ島駅の駅名標

2022年12月7日14時50分

和歌山まで1キロの駅

紀伊中ノ島駅に到着しました。こちらに来るのは3度目。この駅の雰囲気が好きで和歌山方面に来ると自然に足が向いてしまいます

和歌山まで1駅の当駅ですが利用者は多くはなく、1日の利用者は千人にも満たない(これでも以前からは増えています)

理由のひとつとして和歌山までの距離の近さがあります

線路にして1・1キロしかなく歩いても大した距離ではないため、多くの人は利便性の高い和歌山を利用するのでしょう

ではなぜこんな短い区間に駅ができたかは、上記の地図で分かります。当駅を基準に東側には和歌山線、西側には紀勢本線があり、阪和線を含めた3線が和歌山に向かっていますが、和歌山線と紀勢本線の強引なカーブは、どこか違和感がある

これは元々、和歌山線の線路が真っ直ぐ紀勢本線に向けて伸びていたからです。現在の紀和駅は以前、和歌山駅で国鉄の和歌山における中心駅でした。では現在の和歌山はというと東和歌山という途中駅でした。改名は戦後20年以上が経過してからです

南側から東和歌山を経て和歌山(紀和)まで線路が到達したのは明治時代。阪和電気鉄道が和歌山まで到達したのは昭和初期です。当然、当時の国鉄としては和歌山までの鉄路を求めたのですが、ここから直角に和歌山駅まで行くのはイヤだと阪和電鉄が拒否。阪和電鉄としては将来の国鉄との相互乗り入れを目指していたため、和歌山に向かっていてはスイッチバック構造になってしまいます

阪和電鉄は東和歌山での接続、乗り入れを選択。その際の交換条件として和歌山線と交差する最初から少し南側の地点に紀伊中ノ島駅を移設しました。元々近かった東和歌山との距離がさらに近くなり、現在の1・1キロになったわけです

美しい駅舎は国鉄の手によるもの

紀伊中ノ島の駅舎です。美しい形をしています

1935年建築のものが、そのまま残ります。これは国鉄が建設したもの。乗換駅にふさわしいもので、阪和電鉄も国鉄との接続を図って特急を停車させていました

その痕跡は今も色濃く残っていて

和歌山線のホーム跡です。上を行くのは阪和線。こちらは阪和電鉄が建設しました。先に和歌山線ができていたので堤築上のホームからオーバーパスするようになっています

駅舎入口から見ると、このようになっていて直接和歌山線ホームに入れていたことが分かります。国鉄の駅ですから国鉄優先です

現在の改札はホーム跡を左に折れたところに設けられています

急速な地位の変化

戦後になって和歌山駅の地位がどんどん低下していきます。阪和電鉄が国鉄に戦時買収されたため、大阪方面からやって来る列車は和歌山以南へすべて直通できることになり、戦後のレジャー回復による県南部への移動も和歌山駅は通らず東和歌山経由となりました。和歌山県内からの通勤圏の拡大も東和歌山が起点

貨物輸送も東和歌山に重点が置かれるようになり、和歌山線も東和歌山への短絡線が設けられました。やがて東和歌山駅が和歌山駅へと改められると、この短絡線が旅客運輸でもメインルートとなり、間もなく、かつての和歌山駅(紀和駅)へ真っ直ぐ伸びていた線路は不要、廃線となりました

つまり紀伊中ノ島は乗換駅ではなくなったのです。それが1974年のこと。以来、ホームはホーム跡となって現在に至ります

乗換機能を失ってからの流れは急速で国鉄時代のうちに無人化。利用者が増える紀伊、六十谷が朝のラッシュ時の快速停車駅となったのと入れ替わるように通過駅となりました

駅舎内から外をうかがうと、建設時は気合の入ったものだったことが分かります

駅名板は確実に国鉄時代からのものですね

こちらが駅前風景。かつての乗換駅は今は静かにたたずんでいます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~難読駅のお手本は文教地区に

六十谷駅の駅名板

※当駅の情報は2021年3月のものです

難読駅の条件

難読駅に定義はありませんが、基本的に2つに大別されます

①そもそも漢字が分からない

②簡単な漢字なのに思わぬ読み方をする

①については普段絶対見かけない漢字が使用されているもの。轟木(五能線・青森県)、櫟本(桜井線・奈良県)、岩峅寺(富山地方鉄道)などが有名ですね

②は挙げ始めるとキリがありませんが、小学校の低学年レベルになればなるほど価値が上がると私的には考えています。最たるものが阪急の十三だと思いますが、こちらは駅の規模が大きくて有名すぎる。普通しか停車しない駅だったら、かなり上位に来ると思います

その意味で今回の駅も小学校低学年レベルの漢字。しかも3文字

3文字なので普通の読み方はしないだろうな、とは思うはずですが、3文字目が「た」と読むは、なかなか思い浮かびません

六十谷は地名で有功(いさおと読みます。こちらも難読)村のひとつの地域。諸説あるようですが「墓所谷」(むしょたに)と呼ばれていた地名の名前の縁起が悪いので「六十谷」の文字を充て、読み方が変化したというのが多く語られています

しかし、この難読駅。スポーツメディアで高校野球の取材に携わった人は、ほとんど読めてしまうのです

ドラフト1位を同時に輩出

冒頭に注釈を入れさせていただきましたが、写真などの情報は2021年3月に訪問した時のものです。一瞬ウトウトしている間に通過してしまったらしい。翌日、大阪市内まで戻って駅巡りをしている最中に「あれ?」と気づいたのですが、さすがにもう遅い

ただ開き直りになりますが、当時だからこその情報(写真)も今となっては貴重かもしれません

駅舎は1970年代に改築されたコンクリート駅舎です。国鉄の香りが漂います

そして写真にある通り「祝 甲子園出場 和歌山市立和歌山高等学校」の文字が目に入ります。ちょうどセンバツ高校野球の直前で、最寄りとなる市立和歌山高校が出場を決めていました。後にバッテリーがそろってドラフト1位指名されます。名門とはいえ公立高校で2人同時にドラフト1位というのは、なかなかないことです

「高校野球の取材に携わると読める」というのは、そういう意味。強豪校ですから足を運び、読めるようになります

その他にも私立の学校が進出してきたため、多くの利用者があります。前回、紀伊駅を県内JRで二番目に利用が多い駅と紹介しましたが、激しく2位を争っていて、1999年に紀伊駅と同時に特急以外の全列車が停車することになりました

学校が多いとコンビニも多いですね

しかし、そんな多客の駅ですが

私の訪問は2021年の3月13日。みどりの窓口の終了翌日でした

しかし終日無人というわけではなく、通勤通学時間帯を中心に駅員さんはいるようで、みどりの券売機はないものの、定期券を購入できる券売機は設置されています

構造は2面2線。入口は原則駅舎側にひとつですが、駅舎と逆側にある開智中学・高校の生徒用専用出口があります

跨線橋の文字はおそらく国鉄時代からのもの

駅といえば左側通行が多い印象がありますが、右側通行が徹底されています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~「村」の駅は県第2の駅に

紀伊駅の駅名標

2022年12月7日14時30分

長い県境越えを経て

山中渓から南下した阪和線はひたすら山中を走り続けます。県境感が漂います。車窓に見えるのは山肌と阪和自動車道の橋脚のみ。個人的な勝手な観点から言うと景観において橋脚は邪魔。山間部で鉄路と高速道路がぴったり寄り添う光景は各地で見られるですが、ここだけ現代に戻されてしまう気がします

8キロという阪和線最長区間を経て和歌山県で最初の駅となる紀伊に到着。和歌山の旧国名である「紀伊」が頭に付く駅は20軒以上ありますが、紀伊だけの2文字が許されているのだから、県の代表駅かと思ってしまいます

駅の設置は阪和電気鉄道が全線開通した1930年。当時、ここは「紀伊村」でした。紀伊村の駅だから紀伊駅です。もっとも紀伊村は律令時代に国府が置かれていた場所とされ、その意味では代表駅です

利用者は県内第2位

ホームは築堤の高台にあり駅舎もその位置にあります。戦後間もなくから現在の姿になっています

訪問はお昼の14時半でしたが、駅前はロータリーがあり、バス乗り場があります。今や県内のJR駅では第2位の利用者を誇る駅となりましたが(もちろん1位は和歌山駅です)、それを支えているのが大学生の存在

改札へ向かうと複数の注意書きに出会います

1993年に開設された近畿大学生物理工学部に通う生徒さんは、当駅からのバス利用がメインルートのひとつとなっています

近畿大学の和歌山キャンパスというと粉河や岩出など和歌山線沿線のイメージが強かったのですが、大阪府から真っ直ぐ南下してきた阪和線が街並みに沿ってカーブを描くその部分に紀伊駅があるのですね。確かに和歌山線より阪和線の方が利便性は高い

なお南海に対抗するべく、できるだけ直線に引かれた線路がここで急カーブとなるのは用地確保のしやすさに加え、当時の和歌山駅(現在の紀和駅)方面を目指したからです

それにしても改札機の位置まで指定されるということは、朝はバスへの導線が相当混雑するのでしょうね。バスの本数は多いです

駅構造は2面4線

県境の駅ということもあって保線用の側線もあり、構内は広くなっています

改札を入ってすぐの案内文字は年季の入ったものとなっています

昨年、みどりの窓口がなくなりましたが、みどりの券売機は設置され定期券の購入や延長には対応しています

訪問が12月だったため、クリスマスツリーが飾られていました

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~阪和電鉄もうひとつの目玉

山中渓駅に入線する列車

2022年12月7日14時10分

府県境駅の新旧

山中渓に到着しました。阪和線を南下すると大阪府最後の駅。鉄道ファンの中では有名ですが「やまなかだに」と読みます。最後の1文字が難関ですね

ご覧になって分かるように工事が行われていました

駅舎はというと

ピカピカの新駅舎です。昨年4月にできたばかり

旧駅舎です。訪問は2021年3月。同年7月に解体が始まったので滑り込みでした。1930年の阪和電気鉄道全通時からのものでした

かなり早い時代から無人化されていました。JRも入っていない駅名板も雰囲気に一役買っています

こういう歴史ある駅舎が消えるのは残念なことですが、バス停のような簡易駅舎ではなく立派になるのはいいことでもあります。特にトイレがきれいになりました

ハイカーの利用も多い当駅なのでお手洗いが充実したのは意味のあることだと思います

新線の目玉商品

案内板は2021年の訪問時に撮影したもの。旧熊野街道に沿って駅が設置されていますが、ここから和歌山方面の県境は険しい峠が待ち受け、関所と本陣が設けられていました

険しい峠は江戸時代までの旅もそうですが、鉄道にとっても難所です。この先の車窓はひたすら山中ばかりで駅を設けることもありません。当駅と和歌山の最初の駅である紀伊までは8キロもあり、阪和線の最長区間

しかし、この険しい峠の前の閑散とした村の不便さに阪和電鉄は逆に目をつけます。和泉砂川駅の項では大遊園地を造ったことに触れましたが、ここを温泉地としたのです

駅から歩いてすぐのところで山中渓温泉として開発を開始。その戦略は大当たり。戦後になり、レジャーが戻ってくると、もう国鉄になっていましたが、数軒の温泉宿で大変にぎわいました

しかし旧熊野街道が整備・拡張され、国鉄の電化で白浜温泉まで手軽に行けるようになるとレジャー客は白浜そして勝浦を目指し、当地は通過が目立つようになって、温泉旅館も衰退していきました。地図で分かるように今は目の前に阪和自動車道の橋脚。車がビュンビュン通過していきます

現在、山中渓温泉はすべての旅館が営業を終えていて一時は廃墟探索のメッカになってしまったほど

当駅は阪和線だけでなく、大阪府のJR駅で利用者最小の駅となっています(それでも300人ほどの乗降が1日にあります)

新駅舎は当初から無人を前提としたもので券売機と簡易IC改札のみ

こちらは前回訪問時の様子。かつては貨物輸送もあったようで、側線跡の雑草はしっかり刈り取られていました

こちらは今回の訪問時。前回も見えていたホーム跡と基礎部分が分かるようになっていましたが、工事中で現在の姿は不明

駅前の静かな様子は同じでした

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~貴重な戦後生まれの駅

2022年12月7日13時50分

カーブ状に設置

和泉鳥取駅に到着しました

ご覧のようにホームはカーブ状の場所に器用に設置されています

駅前広場もロータリーがあって大きい。手狭な感じの駅前が多い阪和線にあってこのような構造になっているのは珍しいことです

これらは当駅が戦後生まれだからです。1963年の設置。阪和電鉄という私鉄として誕生したため、阪和線は駅が多いのが特徴。沿線は戦後になって宅地開発が進んで大阪中心部へ通勤する人のベッドタウンとして人口も増えていきましたが、従来から駅数が多かったため戦後に新設された駅は3駅しかありません

歴史ある地名

現在は阪南市ですが駅が開設したころは東鳥取町でした。駅が開設される少し前までは東鳥取村。現在は1日に3000人以上の乗降がありますが、当時はそこまでの利用がなかったのではと推測されます

「鳥取」という地名はかつての荘園に基づくもので阪南市のHPによると日本書紀に

『垂仁(すいにん)天皇の第一皇子である誉津別王(ほむつわけのみこと)は30歳になっても稚児のように泣き、ことばを発しませんでしたが、白鳥が空を飛ぶ様子をみて「あれはなにか」と初めて声をあげました。天皇は喜び、臣下に「誰かこの鳥をつかまえてきてほしい」とおっしゃり、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が「必ず捕まえて献上しましょう」と白鳥を追って出雲国で捕えました。その後、誉津別王はこの白鳥をもてあそび、物を言うことができました。この功により、天皇は天湯河板挙に鳥取造(ととりのみやつこ)の姓を賜り、鳥取部(べ)を定めました』

との記述があるので歴史は古い。市内には南海の「鳥取ノ荘駅」もあります

地図でカーブ状に駅が設置されていることがよく分かると同時に駅周辺が住宅街として開発されていることも理解できます。また阪和線はここから南海と離れていきます。真っ直ぐ線路が敷かれている阪和線で、ここまでのカーブは珍しい

元々は入口はこちらだけでした。開業時からのものです

駅の東側からの利用者も増えたことで6年前に新たに改札が東口として設置され、従来の出口は西口となりました。東口は開設時から無人。改札内でホームの上下線の行き来はできなくなっています。西口は以前はみどりの窓口がありましたが2年前に営業を終えました

ホームは屋根の後ろに通路というユニークな構造

ホームは築堤上にあり、改札からは階段かエレベーターで向かいます。こうして見てもカーブ状がよく分かります

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~最大の見所にして最大の歴史

和泉砂川駅に到着

2022年12月7日13時30分

美しい三角屋根、ブラタモリの世界

和泉砂川駅に到着しました(駅名標の写真は2021年3月のものです)

乗務員交代も行われる大阪南部の重要駅。この駅で最大の見どころは

東口に残るきれいな三角屋根。阪和電鉄の最も「らしい」ものが現存します。当時の鉄道としては珍しく開業直後に東西に出口が設けられました。町が広がるのは市役所や南海に向かう西側ですが、早々に出口が設けられたのは遊園地のためです

南海に比べて後発の阪和電鉄は宅地開発の他に観光にも力を入れました。とはいえ昭和初期の娯楽の柱のひとつだった海水浴については海沿いを南海が独り占めしている以上、なかなか難しい(それでも何とかしてやろうとしたのですが、こちらについては後述します)

となると阪急が宝塚で大いに成功している遊園地だ、ということで当地に大規模遊園地を建設することになりました。なぜ当地が選ばれたかというと景勝地でもあった「砂川奇勝」があったからです

泉南市のHPによると

『およそ200万年前に始まる洪積期(こうせきき)に、海底の砂や粘土が積み重なったものが隆起し、丘陵となったものです。元来海の底にあったものですから大変もろく、雨水によってどんどん削られ変形してしまいます。この削られた姿が、砂が流れる川のようにみえ「砂の水を流せるを以て此の名あり」といわれるように、「砂川」の名がつけられたのです』

となっています。規模は相当違いますが、要は日本のグランドキャニオンだったわけです。ブラタモリの世界ですね

この景勝地を中心とした遊園地を造るにあたり、駅名も地名である「信達」から「阪和砂川」へと変更。1930年の開業からたった2年のこと。遊園地「砂川遊園」は1936年に開業し、大いににぎわったそうです

しかし1936年といえば昭和11年。不運なことに間もなく戦時下となり、遊園地というのは真っ先にリストラされる運命にありました。実際のところ7年ほどしか稼働しなかった遊園地となりました

地図を見れば一目瞭然ですが、戦後になって遊園地の場所は宅地開発されました。砂川奇勝はかなり規模が小さくなりながらも保存されています

メインストリートは西側に

メイン出口となる西口には駅の北側すぐにある踏切を渡ります

駅の構造は2面4線。踏切は駅近くなのでまだ線路が4本あります。東西出口がはっきり分かる

こちらも東口ほどではありませんが、三角屋根が残ります

駅前にはスーパーがあり、街のメインストリートにもなっています

市役所には南海の樽井駅より当駅の方が若干近いですが、ほぼ一本道。ただ特急の一部も停車する和泉砂川より樽井の方が利用者は多い

少し前までは東西出口両方にみどりの窓口があるぜいたくな構造でしたが、4年前に東口、昨年春に西口のみどりの窓口がなくなりました

ただし駅員さんはいます。みどりの券売機は設置されているので、昨冬の青春18きっぷはこちらで買いました

このきっぷで岩徳線全駅訪問を達成しました

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~さりげなく難読

新家駅に到着

2022年12月7日13時10分

微妙な距離ゆえ

新家駅に到着しました

意外と読めそうで読めません。所在地である泉南市は関西国際空港の敷地の一部があることで知名度も上がりましたが、発足は1956年。いくつかの自治体が合併して戦後10年以上が経ったて誕生しました。そのうちのひとつが「新家村」。今は大阪府唯一の村として千早赤阪村が知られますが、泉南市を構成した6つの町村のうち4自治体が「村」。このころはまだ大阪府下にも村が数多くあったのですね

駅舎は元々の木造駅舎にモルタル部分を付け足したような形となっています。こちらも駅のすぐ南に踏切があり、数年前に新たに天王寺方面ホームに直接入れる西口が設けられ、どちら側からも入れるようになっています

長滝と新家の距離も近い。阪和線の大阪府下の駅は元々が私鉄だったこともあって駅間が近いのが特徴です

また阪和線と南海も微妙な距離感のまま大阪市内へと向かっていきます

阪和電鉄の全通は昭和初期。計画の時点で海沿いの主要都市や今以上に重要だった港はすべて南海沿線だったため、山沿いを進まざるを得ませんでした

泉南市には南海、JRとそれぞれ2駅ずつがありますが、今も旅客数は南海の方が圧倒的に多い。それでも当駅が約4000人、お隣の和泉砂川が約7000人と幹線にふさわしい乗降が1日にあるのは阪和電鉄がスピードで勝負したり宅地造成などで新たな需要を呼び込んだからです

線路はほぼ真っ直ぐ引かれていて最初から複線電化で建設されたためスピードも十分でした

周辺も宅地化

駅前に新家地区の地図がありました。右側の緑の部分はゴルフ場です。左下にもゴルフ場があり、その間は住宅地として開発されています。戦後のものですが阪和線がもたらしたものといえます

駅のキロポスト。天王寺から38・5キロ。紀州路快速で昼間は天王寺まで45分、大阪まで1時間

写真で分かる通り、2面2線構造。4年前まではみどりの窓口設置駅でしたが、現在は業務委託駅となっています

両側に入口がありますが、跨線橋でも結ばれています

泉南市のもうひとつの駅である和泉砂川に向かいます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~特徴的な三角屋根が健在

長滝駅の駅名標

2022年12月7日12時

鉄道国有法を拒否

長滝駅にやってきました。特徴的な三角屋根が今も残ります。特徴的と記したのは、阪和線は元は阪和電気鉄道という私鉄によって建設されたからです。阪和線という名前は「大阪」と「和歌山」を結ぶからだと思えてしまいますが、今でこそ大阪駅まで直接乗り入れているものの、起点は天王寺駅なので国鉄のルールだと「天和線」になります。阪和電鉄という私鉄が、そのまま国有化されたので阪和線となっているわけです

「鉄道国有法」という法律がありました。「汽笛一声新橋を~」の歌で知られる日本初の鉄道が新橋~横浜間で日本初の鉄道として開業したのは1872年10月14日なのは、あまりに有名ですが「こんな便利なものはない」と日本中で鉄道工事が始まりました。ただできて10年も経っていない明治新政府には、お金がなく、多くの路線は民間の手によって敷設されることになったのです

その後、日清戦争、日露戦争を経て鉄道の重要性がクローズアップされると鉄道国有法が成立。地方路線以外は原則として国有化するとの法律で東北本線や山陽本線など、その後、国鉄の骨格となる路線が数多く国有化されます

一見すると少々乱暴ですが、中には関西本線のように区間の一部が閑散路線となってしまうものも含まれ、また東北本線や山陽本線のような長大路線が民間経営のまま維持できたかどうかも微妙で、良かったか悪かったかは何とも言えないところですが、中には「自分たちは地方路線だ」と頑として抵抗した会社もあります。そのひとつが南海鉄道

和歌山と大阪を結んだ南海は業績好調で当時はさらに南に路線を延伸することも考えていたほど。和歌山で終わって南海には行っていないのに会社名が南海となっているのには、こんな背景があります

この拒否に大いに困ったのは国側で、このままだと建設中の紀勢本線が大阪まで行かず和歌山で終わってしまう。国会でも大問題に発展しました

そんな中「将来は国鉄になってもいいですよ」という空気の元、建設されたのが阪和電鉄。昭和初期の突貫工事で天王寺~和歌山を建設、開業しました。それゆえ国鉄とは異なった光景が見られます

2面4線が定着

長滝駅は2面4線。国鉄の定番といえば2面3線で今も各地に残ります。都会の鉄道に慣れた人が初めて見ると何やら半端な構造に見えてしまいますが、これは実によくできたシステムで単線を基本とすると分かりやすいのですが、駅舎に面した側に単式ホームの1番線を造り、もうひとつを島式ホームの2、3番線にする。基本的にどちら方面の列車も1番線から出て、すれ違いや追い越し、折り返しには2、3番線を使用します。高架駅や橋上駅の発想がなく本数も少ない時代。駅舎からそのままバリアフリーでホームに入れるので利用者にとっても便利なのです

ただし阪和電鉄は最初から複線電化で建設されたため、2面を超えるホームは2面4線となっています。その他、手狭な駅近くなど阪和線の沿線は私鉄の雰囲気が残る場所も多い

変貌する中で

しかしさすがに時代とともに駅そのものも変化しています。そんな中、この長滝は阪和電鉄の風情が残る数少ない駅のひとつで

古い案内文字が残ります

こちらにも文字案件

日根野の車両基地はすぐ隣まで広がっています。実は日根野からは至近で

歩いてもすぐ。地図を拡大していただけると車両基地が長滝駅付近まで延びていることが分かると思います。そんな地理関係もあって便利な日根野駅を利用する方が多く、乗降者数は圧倒的に違う

駅前は静かな住宅街。ただ利用者の違いが昭和初期からの駅舎が現在まで残る要因のひとつになったのかもしれません

4年前に無人化され、IC乗車券対応の改札は簡易式となっています。JR西日本の管轄もここから本部から和歌山支社となります

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