宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その15(初めての三沢駅)

三沢駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

三沢といえば

八戸を出た後は

以前から気になっていた乙供駅で1度下車

「おっとも」と読む。諸説あるそうだが、アイヌ語で「激しい戦闘のあった場所」を意味する「オトム」が語源という説もあるそうだ

初の三沢駅

そして三沢駅まで戻って下車。JR時代も含め何度も通りがかったが、降りるのは初めてだ

ちょうど今は高校野球の季節だが、私が物心ついて初めて見たというか、最も古い記憶にある野球の試合といえば、1969年(昭和44)の松山商×三沢高校の決勝戦。今では2度とない延長18回のスコアレスドローの再試合である(翌日の決勝は4-2で松山商が勝利)。もちろん三沢という地名も初めて知った。それから25年以上も経って、担当として甲子園で松山商の優勝を見届けることになるなど想像できるはずもない

三沢を初めて訪れたのは随分と時が経って2012年4月のこと。東京に住んでいるころで、その時は下北駅でレンタカーを借り、海沿いにまだ一部雪が残る下北半島をグルリと回った

大間崎に行き、下風呂温泉で宿泊

未成線となった大間線の遺構などを見ながら

尻屋崎へ。GWの直前でとにかく誰もいなかったことを覚えている。そのまま南下して三沢市内まで行ったが、帰りはこういうタイミングでしか利用する機会がないだろうと三沢空港から飛行機で帰ったので駅を降りるのは初めてとなった

開業時は古間木駅

三沢駅は1894年(明治27)の開業。19世紀の誕生で今年130歳を迎えたが、開業時の駅名は地名の古間木。三沢の町は少し離れている上、駅の所在地は当時の三沢村ではなかった。三沢市の成立は戦後の1958年(昭和33)。それより先の1948年に六戸村(現六戸町)にあった駅の所在地が三沢市の前身である大三沢町に移管されていた。駅も三沢市に所在することになったことを受け、1961年に三沢駅へと改名された。駅の歴史の長さもあって、まだ古間木駅としての歴史の方が長い

かつては在日米軍への貨物専用線が当駅から出ていて、今も地図を見ると途中まで線路は残っているようだ

現在の駅舎は2020年からのもの「駅前交流プラザみ~くる」となっていて(正確には駅舎に隣接)観光案内所のほか、隣接していた十和田観光電鉄(2012年に廃線)の駅舎内に入ったいた駅そばが入店している

東北本線時代は特急停車駅だった。現在も有人で管理駅

改札口を出た場所の案内は三沢ならではのもの。私が到着した14時半には大きなバッグを手にした乗客が多く降車したが、おそらく星野リゾートを目指す人々だったと思われる

ホームの地図には今も十和田観光電鉄が掲載されたままだが、これはあえて残されているのだろう

さて肝心の宿の方だが、価格はすでに調べてあって十分満足のいくものだったが、駅前にはほぼ何もないと言ってよく、ホテルは2~3キロ離れた町の中心部に行くしかない。事前に駅と街が離れていることは分かっていたが、駅に張られていたバスの時刻表を見ると、私のように早朝の電車に乗って去るタイプには、なかなか使いこなすのが難しいようだ

ということで青森まで向かうことに

こんなきっぷがあるんだ、としげしげ眺める。本州から北海道への船旅というものを私はしたことがない。次はこんなきっぷを利用して旅をしたいと思った

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その14(青森で宿確保に苦戦)

八戸駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

主役の座を譲った駅

県境を越える列車の空白があるため、金田一温泉から一戸へいったん戻る。規模の大きな駅は東北本線時代は交通の要衝の座にあった

特急の停車駅で機関区も設けられた。SL時代は給水のため、列車が必ず一休みする場所でもあった。東北新幹線の八戸延伸の際に東北本線は三セクかされたが、新幹線駅がお隣の二戸となったことで鉄道駅としての地域の顔は二戸に譲ることになった

大きな構内と今は使われない長大ホームが往時を伝える

そして岩手県とはいったんお別れ、次の列車でいよいよ青森県へと入る

大湊線には18きっぷの特例あり

八戸へと到着。すでに青い森鉄道に入っている。青い森鉄道は青森県最初の駅となる目時から青森までの旧東北本線を引き継いだ路線だが、運行は必ず八戸で分断される。これはJR時代からの運行の形式で三セク転換されても、パターンは踏襲されている。そして八戸駅の乗り継ぎがあまりにも絶妙で、わずか5分。しかも次の列車は1時間後。ちょっと悩みながらも先へと向かう列車へと乗り換えた

悩みというのは、この時間になっても宿のメドも立っていないこと。最終的には青森までは必ず行くことにしているのだが、できれば途中のどこかで宿を確保したい。青森で宿泊すると夕方以降に到着して飲んで、翌朝早い時間に宿を出て終わりという行動になってしまうので、できればお昼の時間帯に到着して駅周辺を味わってからUターンというのが旅程的には好ましい。しかも、おそらくだが、県庁所在地の宿は高いのである

となると、都市は限られていて、最初の候補はここ八戸。以前も紹介したが、八戸の中心地は八戸駅ではなく本八戸でホテルの数も圧倒的

こちらは八戸から2駅。予約サイトを見ると、本八戸まで行けば安価に泊まれる。ただ本八戸駅の場所は繁華街から徒歩10分ほどの場所にあり、ちょっと遠い。八戸駅行きのバスは繁華街の真ん中を通るが、せっかく乗り放題のパスを持っているのにバス代を払うのはしゃくだ。そもそも朝が早いことは確定しているのだから、2駅分で行動を制限されるのはあまり好ましくない

ということで夜はチェーン店居酒屋が中心とはなるが、別に八戸駅近くにも問題ないだろう。複数のホテルチェーンが進出しているし、久しぶりに八食センターにでも行ってみようか、などと考えていたが、ちょっと今回の旅の基準からはかけ離れた高さだ(初日の東京は別として7000円を上限に考えていた)

ということで沿線の次の候補地として考えていた三沢に向かうことにする

ここで少し話はそれるが、八戸からは青い森鉄道の線路を使用するJRの大湊線が出ている。野辺地で分岐して大湊へ向かう路線は東北新幹線が新青森まで延伸された際、自社路線と一切接続しない飛び地路線となったことで有名になったが(現在は七尾線も加わっている)、前記事でも触れたIGRいわて銀河鉄道の線路を使用する花輪線とは異なり、青春18きっぷでも通行できる特例が設けられている(青い森鉄道内では途中下車不可)ので今の季節は安心して下北半島を目指してほしい

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その13(青森との県境まで来た)

金田一温泉駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

青春18きっぷでは通れません

優先順位1位の渋民駅訪問を終えた後は盛岡方面へと少し戻る。前記事でも触れたが、渋民のひとつ盛岡寄りとなる滝沢までは、昼間も1時間に2本の運行があるからだ

盛岡から二つ目の厨川駅は開業時の1918年(大正7)からの駅舎が残る

この駅に来たのは、駅舎が魅力的なことがもちろん第一義だが時刻表を見て

気動車に乗れると思ったから。IGRいわて銀河鉄道にはJRの列車も走っている。好摩駅で分岐する花輪線が乗り入れているためで、花輪線の列車は盛岡駅でも基本的にはIGRいわて銀河鉄道のホームから出発する

ということで、お隣の滝沢までJR東日本の非電化区間の王者であるキハ110に乗車。この時点では今回の旅では最初で最後となる気動車乗車のつもりだったので「記念」の感覚が強かった

さてIGRいわて銀河鉄道を介しての花輪線だが、ここに特例は存在しない。北陸新幹線の開業によって三セク転換された旧北陸本線沿線では途中駅から分岐するJR線に乗車の際、途中下車しない限りは青春18きっぷで乗車できる特例がいくつか設けられているが、花輪線にはない。盛岡から好摩を経て花輪線の各駅に向かう場合、途中下車せず乗り通してもこの区間の料金660円が必要となるので注意が必要。もっとも私が持っている北海道&東日本パスでは、どこをどう乗ろうと乗りたい放題、降りたい放題だ

そのキハ110には多くの学生さんが乗っていて滝沢駅でドッと降りる。車内は一気に人がいなくなった。盛岡~滝沢の1時間に2本の運行には花輪線の列車も器用に組み込まれている

滝沢駅のある滝沢市は10年前までは「5万人を抱える日本で最も人口の多い村」として知られていた。盛岡のベッドタウンとして住宅が増え、岩手県立大学か開校したことによって人口が急増。今は当駅折り返しも設定されている。サブ駅名は「学園の杜」。一番目立つところにある広告が、それを物語っている

青森県はすぐそこ

滝沢からは一気に北上。というか、この先のいわて沼宮内を過ぎると本数が大きく減るので選択肢も限られてくる

いわて沼宮内の通過時は昨年3月を思い出した

東北新幹線の全駅巡りの途中で当駅で降り立ち、盛岡までは新幹線のダイヤが薄いためIGRいわて銀河鉄道に乗車したのだが、目の前で雪が積もっていく吹雪に遭遇。ホームで震え上がった。今日の景色は車内のお客さんの服装も含め、全く別の世界である

1時間揺られて到着したのは金田一温泉駅

文字通り、金田一温泉の最寄りでバスで約5分と近い。読みは「きんたいち」なのが留意点。金田一駅として1909年(明治42)に開業したので歴史は古い。JR移管のタイミングで現在の駅名に変更された。江戸時代にはすでに温泉地として名をはせていた

座敷わらしの里にもなっていて

その解説がこちら。IGRいわて銀河鉄道の各駅にはミニ解説が設置されていて読むと楽しい

当駅まで来たのは、IGRいわて銀河鉄道で北上すると岩手県最後の駅となるからだ。次の目時は青い森鉄道との境界駅で共同使用駅となっているが、所在地は青森県。岩手県は47都道府県で北海道に次ぐ広さを誇る。つまり県の面積は日本一。昨日、宮城県から岩手県に入り、東北本線と旧東北本線を北上してきたが岩手県は広いと実感した

そして当駅訪問のもうひとつの理由。それは乗車電車が当駅止まりだったため。行こうにも行けないのである

こちらが時刻表。上り下りとも11往復。昼間は2時間に1本の運行となっていて私は11時31分に当駅着。青森県に入るためには1時間20分後まで待たなければならない。乗車電車は12時発の盛岡行きとなって折り返す。さすがに12時50分までは待っていられないので、折り返し電車でもう少しだけ岩手県にとどまることにした

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その12(一直線に啄木の故郷へ)

渋民駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

盛岡駅で痛恨のホーム間違い

朝の盛岡駅で

蕎麦と卵かけご飯の朝食。駅の立ち食いそばのお店でよくお世話になるこの朝食セットは関西も岩手県も共通のようだ。満員電車で50分立ち放しの疲れもこれで癒やされた。そしていよいよ北海道&東日本パスの特性を思い切り生かすべくIGRいわて銀河鉄道に乗車する。旧東北本線の盛岡~青森が三セク転換されたIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道にも乗降自由なのが、このきっぷの最大のストロングポイントで青春18きっぷでは乗降できない区間でできるだけ乗って降りてみようというのが、今回の旅の主目的。ここまで来るのに2日以上要したが、自分の漠然とした予定では順調な方だ

と思っていたら、ここで痛恨のミス。IGRいわて銀河鉄道は盛岡駅の専用ホームから発車する。ここにはJRとは全く別の改札があり、IGRいわて銀河鉄道と途中の好摩駅まで同線を走るJRの花輪線車両はこのホームから出発する

ただし、これには例外があり、朝のラッシュ時に限っては、わずかながら東北本線との相互乗り入れが行われていて、この列車はJRのホームから出発する。私が乗車しようとしたのは、その例外の列車で、そばのお店もそちらの改札に近い方にある。計画は完璧であった…はずだが、これが全くの勘違いで乗ろうとしていた電車は従来の専用ホーム発だったのだ。要は深く考えずに専用ホームへ向かっていれば乗れたという、何ともなオチ

IGRいわて銀河鉄道の専用改札は階段を降りたところにあって、かなり離れているので、もう間に合わない

ということで駅ビルのカフェで時間をつぶして

今度こそ専用改札へ

青い森鉄道の車両による同線の八戸まで直通する電車に乗り込む。目的は渋民駅である

まずは何も考えずに訪問

この八戸行きは実は貴重な乗り物で、いわて銀河鉄道のダイヤを見ると盛岡から滝沢までは昼間も30分に1本の運行が保証されていて、滝沢から東北新幹線の駅でもあるいわて沼宮内までは1時間に1本、そこから先の県境部分に入っていくと、さらに厳しくなって2時間に1本ぐらいの運行になってしまう。今から行く渋民駅は滝沢のひとつ向こうで、1時間に1本ヘッドの場所にある。とにかく、ここには必ず行くと決めていたので真っ直ぐ渋民を目指す

約20分で渋民駅に到着。国鉄時代からの木造駅舎が残る

「啄木のふるさと」とサブ駅名が付いている

渋民村(現在は盛岡市)は歌人の石川啄木の出身地として知られる。跨線橋には啄木の歌が並べられ

駅の外にも啄木。石川啄木記念館までは徒歩で30分(現在は工事で休館中)だが、啄木の息吹を感じようと全国から啄木ファンが訪れるという

もっとも26歳という若さで大正期にこの世を去った啄木は、この駅のことを知らない。当駅は戦時中の輸送力強化の際に信号場として開設。旅客駅となったのは戦後の1950年(昭和25)。啄木が利用していた駅は好摩駅だとされる

石川啄木の女性関係や金銭感覚は、もし今の時代に生きていたら世の中に出ることすらかなわなかったものかもしれないが、それでも生活した各地で詠んだ歌は広く愛されている。有名な上野駅の石碑をはじめ、函館や釧路の町を歩いていても、ばったり啄木に出会うのは、そういうことだろう

とにかく目的のひとつは達成したので、この後はゆるりと北上することにする

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その11(北上から三セクの盛岡へ)

北上駅の駅名標

※訪問は2024年7月3、4日

宿泊地は北上

一ノ関から予約サイトとにらめっこしながら北上。本日の宿泊地はあっさり北上に決まった(北上して北上泊とか別にシャレではありません。偶然です)。こういうのは実際に現地を訪れてみないと分からないが、盛岡をのぞくとホテルの数は圧倒的に北上が多く、ホテルチェーンが続々と進出していることはサイトで一目瞭然。これはその後に知ったことで、過去2度、北上で下車したものの素通りばかりだった私は恥ずかしながら全く無知だったのだが、北上には東北新幹線のほか、東北自動車道、秋田自動車道が入っていて流通の拠点となっていて、多くの工場が進出している。ビジネス出張も多いのだろう。そこに宿泊するかどうかは別として、私の体験では多くのホテルチェーンが進出している地区は、食事やコンビニの有無も含め、まず間違いない。結局はあるチェーンのホテルを予約したが、5500円と盛岡より安価に宿泊できた

北上を選んだもうひとつの理由は列車の本数。一ノ関から盛岡を目指すと北上までは昼間は1時間に1本だが、北上からは当駅始発着の列車が加わり2本態勢となる。途中に花巻を含む距離にして48キロ、所要時間50分のこの区間は盛岡への通勤通学エリアと認識されているようだ

魚と日本酒で疲れを癒やすこの瞬間は最高だ

北上駅は1890年(明治23)と130年以上の歴史を有する。開業時は当時の町名に基づいて「黒沢尻駅」。1954年(昭和29)に付近の自治体が集まり北上市が発足したのに伴い駅名も変更となった。国鉄コンクリート式の駅舎が健在

もっとも黒沢尻が北上の中心であることには変わりはなく、住居表示のほか、施設名や学校名にも黒沢尻の名は残る。高校ラグビーの名門、黒沢尻工は有名だ

街中を歩いているとこのように説明文が残っていた。地名の由来は「クロサワジリ(畔沢尻)」から来ていて草の密生した湿地だったという。「黒沢」については「黒土の沢」「水が淀んだ湿地の沢」を意味するとされる

ラッシュ時とかぶる

翌朝はホテル出発が7時すぎと前日から1時間以上遅くなってしまった。それほど飲んだわけではないが、2日続けて5時台の出発となっていて、さすがに身体が動かなかった。事前に予定を決めている旅なら、設定は早い時間にしがちで、それに従って行動するだけだが、逆に言うと、朝も適当にというのは、こんなケセラセラ旅の良さである

とはいえ7時台には駅にいるので、それほどの寝坊ではないが、時間帯が悪すぎた

電車が着くと北上駅のホームは乗降客でいっぱい。私の選択も悪く、北上発7時23分、盛岡着8時18分という最も混雑しそうな時間帯の電車で、なおかつ北上始発ではないため、ドッと降りる人、乗る人が多過ぎて出発は数分遅れた(盛岡には定刻に着いたので、おそらく混雑込みのダイヤだと思われる)。途中、花巻を通るため、ここでも出入りは激しく、その他私が認識できていない学校最寄り駅もあるようで、単に満員というだけでなく、駅に着く度に人の動きが激しい電車で座れることなく過ごしたため、かなりの疲労度だった。とにもかくにも盛岡到着である。ここからIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、三セク区間に入る

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その10(仙台は素早くパスして北上)

一ノ関駅の駅名標

※訪問は2024年7月3日

18きっぷシーズンと被らぬように

今夏は発売がないのではないか?という声すら出るほど発表がギリギリだった北海道&東日本パス。私なんぞは5月のタイムセールで早々に飛行機のチケットを買っていたので、最悪は大幅な手数料を支払っても飛行機をキャンセルしなければならないのか、とやきもきさせられた口だ。6月もかなり経ってから発売が発表された時はホッとした。飛行機も例年の利用期間の初日である7月1日にとっていたのだが、なんで初日スタートにしたかというと基本的には青春18きっぷの季節とかぶらないようにしたかったから。この北海道&東日本パスはJR区間で一人で乗る分には18きっぷと同じルールだが、有効期間が長いのが特徴のひとつである。有効期間といっても期間内のどこでも5回と、乗車したらその日から強制的に1週間では事情が違うが、できれば18きっぷの利用者と被らない方が、少しでも混雑を避けられるだろう。何より7月に入ったばかりで、まだホテルの稼働にも余裕がありそうな時期だ

鹿島駅から1時間15分。仙台に到着。いつのまにか東北本線に入っている。つまり普通だけで常磐線の約340キロを完乗した。鹿島のいわき寄りに一駅の原ノ町から出る普通列車はすべて仙台行き。日暮里からの常磐線は岩沼が帳簿上の終点だが、列車はすべて仙台まで直通する。岩沼から仙台までは20分で完全に仙台都市圏内だ。東北本線と合流する岩沼以北は運行本数も都市圏のもので昼間も常磐線の1時間に1本、東北本線の1時間に2本と、ほぼ20分に1本の運行で朝夕は両路線の列車が増える上に岩沼折り返しの列車が加わる。また名取からは仙台空港アクセス線も加わるので多くの電車が運行される

仙台ではランチのみ

早朝からコンビニおにぎりのみだったので、仙台駅構内の立ち食いそばでカレーそば。カレーなんで白いご飯を注文しようと思ったら自動的に付随してきた。この記事を書いている今の季節だったらカレーはちょっと…となったかもしれないが、この時期の東北地方は、テレビをつけると東京の猛暑ぶりを報道していたものの、まだそこまででもなかった。普通におかずと白飯として食べようと思ったら周囲の人々はそばを平らげた後、雑炊のようにして食べている。私も半分ほどは白飯として食した後、カレー雑炊に。なかなか満足

腹が満たされたら即北上である。そもそもあまり仙台で泊まりたくなかった。仙台が嫌いというわけではなく、過去何度も、まさに「美味しい」思いをしている。ただ少し前にホテル事情の記事を書いたが、仙台のホテルはやはり高い。午前中のうちに福島県を抜けられたので少しでも北へと向かおう

一ノ関は3月に泊まった

乗車電車は45分かけて小牛田止まり。というか東北本線を真っ直ぐ北へと向かうと昼間はほぼここで1度降ろされる。そして1時間に1本のダイヤに戻る

小牛田は石巻線、陸羽東線が交わり、気仙沼線も入ってくる鉄道の要衝駅。私も東北に来る度にここで乗り換えをしているため、本来はかなりの難読駅のはずだが、難読ではなくなってしまった

一ノ関行きに乗車。このあたりで本日の宿について真剣に考え始める。すでに13時半を回っている。このままだと14時半ごろに一ノ関へ到着するが、3月に泊まったばかりだし、時間的にはまだ北上できそう。明日は盛岡からIGRいわて銀河鉄道で北上の予定なので、盛岡泊が便利そうだが、予約サイトをチェックすると県庁所在地の盛岡はさすが結構な価格。となると盛岡の手前あたりがいいな、と思案しているうちに一ノ関到着。東北本線は必ず一ノ関で運行が分断されるので、こちらも強制下車となる

3月中旬に来て以来、3カ月半ぶりの一ノ関。そのころは雪が降っていてブルブル震えたが、当然ながら別世界。10分ほどで乗り継ぎ列車に乗車。ここはまだ宿泊したことのない北上か花巻で降りることとして後は予約サイトにかかりきりである

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その9(気になる駅へ引き返す)

鹿島駅の駅名標

※訪問は2024年7月3日

原ノ町到着でひと安心

原ノ町に到着。浪江駅の項でも書いたが、常磐線は長年交通の要衝であり続ける当駅を境に運行本数が大きく変わる。昼間の普通列車は広野~原ノ町は2時間空きや3時間空きになってしまうが、原ノ町から仙台方面は昼間も1時間に1本程度は確保されていて、どうも最近、時刻表の読み間違えが多い私もここまで来れば「あっ!」となっても修正が可能だろう

と同時に普通は必ず原ノ町での乗り継ぎが必要となる。いわきを早朝に出てから、随分と長い時間が経っている気がするが、時間はまだ朝の9時すぎ。今日は下手すると仙台までかとも思ったが、もう少し先まで行けそうだ

原ノ町では30分以上の乗り換え時間があり、仙台行きに乗り込むと、お隣の駅を通りかかった際、古い駅名標がチラリと見えた。「お~」と思っているうちに電車の扉は閉まってしまったが、時間もまだ早いことだし、ここは出直しだろう

ここは戻って確認

ということで鹿島に到着

まずは先ほどチラリと見えた駅名標を改札口で確認。これはなかなかの年代ものだ。古い駅名標がそのまま設置されている駅を全国各地で、思い出したように見かけるのだが、こういうのって、どんなモチベーションというか理由で残るのか、知りたいものだ

平成の大合併により、現在は南相馬市鹿島区となっているが、それ以前は鹿島町。もちろん駅名も町名に基づく

鹿島といえば、サッカーで有名な茨城県の鹿嶋市が有名だが、JR鹿島線、鹿島臨海鉄道という路線はあるものの「鹿島」という駅はない。鹿島神宮駅をはじめ「鹿島○○」という駅はいくつもあるが、単独であるのは路線名だけ

鹿嶋市は1995年(平成7)に鹿島町から市になったが(つまり明治以来、鹿島町は茨城にも福島にも存在していた)、市制施行の際、佐賀県に鹿島市があったため、重複を避けるため「嶋」の文字を使用することになり、当時はかなり話題になった

そして佐賀県鹿島市にあるのは西九州新幹線建設の際に話題となった「肥前鹿島」駅である。福島県の鹿島駅が明治生まれだったのに対し、こちらは昭和一ケタの開業。この時期は全国で駅名の重複をできるだけ避けるようになっていたので、先頭に旧国名がついた(ちなみに開業当時は佐賀県鹿島町だった)

また東北本線には鹿島台駅(宮城県)があり、鹿島駅より歴史は古いが、こちらは元々の自治体名が鹿島台である

話が茨城県から佐賀県そして宮城県まで飛んでしまったが、要は「鹿島駅」はここだけである

古典の宝庫

鹿島駅の開業は1898年(明治31)。周辺は旧鹿島町の中心部となっている

駅舎はおそらく開業時からの木造駅舎

なぜそのように考えたのかというと、あまりにも渋い財産票が残っていたからだ

この財産票そのものが財産ではないかと思えるほど古いもので「M30」と記されているというより、刻まれている。駅の開業より少し前に駅舎ができたということなのだろう。駅の財産票についてはJR各社で姿勢が異なり、JR東海では簡易駅舎はもちろん倉庫やお手洗いにも細かく張ってあり、JR西日本もなかなか頑張っているが、私見ではJR東日本は探すのに苦戦することが多い。ただその分、このようなクラシックな財産票にまれに巡り会えることもある

屋根に乗っかっている駅名板も明治のものとは言わないまでも国鉄仕様。駅そのものが古典の宝庫となっている

駅は2面2線。かつては貨物の取り扱いがあった雰囲気が残る

現在は無人駅で窓口は閉ざされているが、原ノ町のお隣にこんな素敵な場所があるとは知らなかった。こんな気ままな旅だからの発見である

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~「列車では行けない」駅でシメ

備後矢野駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

最後にもう一駅

福塩線の全駅訪問は終わったが、列車のダイヤを利用してもう一駅。こちらは訪問済みではあるが、列車で下車したこともなければホームから乗車したこともないので、ぜひこういう機会に行っておきたかった

それは備後矢野駅。なぜ、そのようなことになったかというと、そもそもの本数の少なさももちろんあるが、駅舎内に入店している食堂によるところが大きい

「福縁うどん」という餅入りうどんが有名なこのお店は人気店で、私の訪問は4月初旬の週末で、まだコロナ禍にあったが、お昼時はかなりの列となっていた。私もその1人だったのだが、お客さんのほぼ全員がマイカーで公共交通機関での訪問は私一人だったと自信を持って言える

もっとも公共交通機関といっても列車ではなくバスである

停留所から、それなりの距離はある。にもかかわらず、朝夕を待たずにバスでの訪問にしたかというと福塩線を利用しては飲食ができないからだ

備後矢野駅に来る列車は午前は上下とも7時台で終わり、午後は三次行き15時39分、府中行き15時53分が始発。お店はお昼の営業で夕方も15時か16時までだと思うので、列車でやって来てお昼を食べ、食べ終わったら列車で去るというのは、かなり困難な作業。駅舎内に店舗がありながら、そこへは列車での到達が困難だという「列車で行けない」駅となっている

もっとも飲食が目的でないのなら、三次方面からの列車を降りると10~20分後に折り返しの列車がやって来ることが多い効率の良いダイヤではある

備後矢野到着は18時前で、日没が近づいていた

この日はお店は休み。というか営業日でもすでに閉店している時間だが、後片付けや翌日の仕込みで誰かがいてもおかしくはないかもしれない。ただし、休業日ということで駅舎内は真っ暗。どちらかというと暗すぎて驚くレベルだった

車内の写真展

18時。そろそろ去る時が来たようだ。この後は府中経由で福山に出て、さすがに福山からは新幹線で帰る

さてキハ120の中では、このころ福塩線の写真展が行われていた

過去の沿線風景が車内に展示されていて、見とれてしまうものが多かったが、ポスターとなっている昭和45年の備後三川駅のラッシュアワーに目をひかれた

現在、備後三川駅の1日の利用者数は48人(2022年)。写真を見る限りではひとつの列車で軽くその数字を超えそうだ。区間運転も含め、1日に10往復以上が福塩北線を走っていた時代のものだ

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~淡水浴場って?

河佐駅の河佐峡案内

※訪問は2024年4月3日

湖に沈んだ駅

河佐駅前にあった周辺案内図

駅の開業は1938年(昭和13)。上下~府中町(現府中)がつながり、福塩線が全通した際に設置された。1956年に府中市となった河佐村に基づく。梶田、中畑そして八田原の3駅は戦後の開業で、まだ生まれていない。それまでは福山~府中が福塩南線、塩町~上下が福塩北線という名称だったが、全通したことで正式に路線名が福塩線となった。当時からすでに府中以南は電化されていて、府中以北は非電化だったが、通称とはいえ北線、南線という言葉が80年以上後も、そのまま残っているとは多くの人が考えなかったに違いない。というか現在の方が沿線風景が違いすぎる上、運行が完全に分断されているため北線、南線の色合いがより濃くなっている

そして先述した八田原駅はこの案内図だと芦田湖の底に眠っている。新たに建設された八田原ダムによって廃駅となった。1963年10月に開業して1989年4月に廃駅とという、わずか35年の駅だった。周辺案内図では河佐~備後三川の間は線路が描かれていないが、この区間はダム建設による新線付け替えに伴うトンネル区間となっている。八田原トンネルという名称に鉄道としての名を残す。約6キロにも及ぶローカル線では異色の長さで、キハ120でトコトコ揺られると、その長さが実感できる。当然だが、トンネル内は携帯も圏外。そのようなサービスは採り入れられていない

地元で親しまれる河佐峡

減築された駅舎内

この日の私には雨をしのげるありがたい場所ではあったが、基本的には無機質。ただしに写真の左手に見える文章が残されている

「小生 河佐峡の旅」とある。文章の書き手については私の知識では分からないが、夏に河佐峡を訪れた時の思い出だ

途中の農家で取れたての野菜を分けてもらったという話が、以前の日本の風景を思わせる

河佐峡とは駅から徒歩15分(府中市観光協会HPによると20分)のところにある淡水浴場である。実は3年前に福塩線沿線をウロウロしていて「淡水浴」という言葉を人生60年で初めて知った。文字の通り、海水浴に対して淡水での遊び場。当たり前だが福塩線沿線は当然、範囲を広げても地元では有名なレジャーの場だ

そして私の計画では列車を待つ間の80分は現地まで足を運び「河佐峡」と書かれた赤い橋を見ることになっていた。道としては分かりやすそうだし、この季節(4月3日)にまさか水に浸かることはないので、ちょっと滞在すればちょうど良い

だが、この時間帯は雨が激しく断念。この日は午前の三江線遺構訪問といい、雨に道中を遮られる1日となったことが悔やまれる

ということで、サムネの写真にもある通り「奥備後の行楽地」である河佐峡の情報は観光協会HPによるものだが、ウォータースライダーを備えた川の水泳以外にもキャンプ、バーベキュー、釣りが楽しめるという

そして先ほどの訪問記に戻るが、こちらの筆者がハムと肉を買い込んだであろう「こざっぱりした」商店は今も現役である。駅前には店舗が2つも並んでいて、ともに今ならコンビニ、昔の言い方をするとよろず屋になってしまうのだが、1日に5往復の列車しか来ない駅前で買い物に困らないというのは、なかなかないことだ

ちなみにリュックを背負って歩いていた当時の夏とは違い、近ごろの夏は20分も歩くと、それだけで干上がってしまいそうだが、Xのフォロワーさんの情報だと夏場はありがたいレンタサイクルがあるという

時間となったのでホームで列車を待つ。構内踏切による2面2線。これで福塩線の駅は全駅訪問となったが、赤い橋を見られなかったことだけが心残りというか、ちょっと達成感に欠ける全駅訪問となってしまったことが残念でもあった

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~ようやくたどり着いたラストピース

河佐駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

三次から1時間半

7時間の待機(というか時間つぶし)を経て、ようやく三次から福塩線に乗車。14時40分発に乗り込み

河佐に到着したのは16時8分。約90分間のキハ120旅。正直長かった。1時間半とい乗車時間も長いし、たった2駅を巡るための朝7時からの活動時間も長い。ただ長い分、これで福塩線も全駅訪問可能かと思うと、それなりの感慨はある。日没まではまだまだ時間があるはずだが、雨の空は暗く、かなり薄暗い

その河佐駅は写真で分かる通り、すれ違い可能な構造を持つ2面2線。貨物ヤード跡もレールが敷かれたまま残っている

河佐駅は鉄道以外の訪問手段がないことが特徴。3年前の訪問時、府中~上下を走る路線バスのお世話になったことはすでに書いたが、そのバスは河佐、備後三川の両駅付近からはかなり離れた所を走っていて備後矢野付近で再び近づく

最も近いと思われる落合という停留所から2キロ、徒歩で約30分(日本全国、落合はあちこちにある)。まぁ、歩けと言われれば歩ける距離ではあるが、鉄道とバスとの時間がなかなか合わない。バス利用の場合、バス停で降りて鉄道駅に向かうのは目標も時刻もはっきりしているが、その逆はなかなか不安である。山中であればなおさら。そもそも停留所がどのような形で設置されているのかも分からない。私の過去記事でもバス停もしくは、その付近でウロウロしたことを何度か書いている

それに対し、備後三川は若干事情が異なり、広島駅から世羅町の中心部を通り、上下、甲奴を結ぶ「ピースライナー」という路線バスが1日4往復運行されていて備後三川駅の近くを通る。3年前はわざわざバス会社に電話して「上下~三川局前」の区間だけの乗車が可能なのかどうか尋ねたほど。結果的には鉄道のダイヤとうまく合わずに乗車はしなかったが、3年前に河佐と備後三川の二択で選択肢の多い備後三川を残さなかったことが悔やまれる。というか、1月の福塩南線全駅訪問の際、府中駅あたりで2時間ほど時間をつぶせば良かっただけなのだが

河佐で待機80分

こちらが河佐の時刻表。16時8分着でやって来て、この後は福山に出るつもりなので、となると18時15分の乗車とだが、さすがにそこまで待機していられないので17時30分でいったん三次方面へ向かい、どこかの駅を再訪するつもり。要は約80分の待機となる

順番が後になったが、こちらが河佐の駅舎。かなり減築されたようだが雨は十分凌げそうで、隣に立派なお手洗いもある

本来はこの80分を利用して行きたいところが明確にあったのだが、それは雨の振り方次第となってきた

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