復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~周囲に見当たるものがない新駅

※訪問は2025年8月27日

残るは立野から1、2駅目

いよいよ残るは立野から1駅目の長陽、2駅目の加勢の2駅となった。それなりに回る順序を決めたつもりだが、詰めまで来て昼間に運行本数がガクンと減る時刻表の壁がやってくる。何度も書いてきたが、これは「ローカル線あるある」で、その壁には何度も直面してきた。だから移動手段も含め、この2駅をセットにしたのだ。その理由については後述する

とにかく中松駅を出て加勢駅に到着である

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コンパクトな駅舎に包まれた周辺は

南阿蘇鉄道の10駅のうち国鉄高森線時代からの6駅で三セク移管後に新設されたのは4駅。7駅を回ってきて気付いたのは、国鉄時代からの駅は周辺に集落があり、街の顔として約100年にわたり歴史を刻んできたが、新駅は観光などの目的が設置されているということだ。それはそうで、新駅の設置はすべて南阿蘇村。山中の村に新たな集落が誕生することはほぼない。ここまで巡ってきた3駅は「見晴台」「南阿蘇白川水源」「南阿蘇水の生まれる里白水高原」と、道中でも触れてきたが、何らかの目的があったり感じたりする駅ばかりだった

ということで加勢駅。ここまで見てきた南阿蘇鉄道の駅舎で最もコンパクト。ホームは植え込みの向こうにあり、階段を登ると待合室があって、そしてホーム

待合室はきれいに掃除が行き届いている。駅舎の写真でも分かるようにお手洗いも設置されている。ホームへはここから出るが、他にもホームへの行き方はある

そして駅前には細い道路があるだけだ。ちなみに隣駅の長陽までは徒歩も可能なぐらい近い。というか結果的にはここから歩いたのだけども

集落が目的だったのか

これまで見てきた南阿蘇鉄道の駅舎の中で最もコンパクト。言い換えれば最も小さい。開業は1986年(昭和61)の11月。この年の4月に三セク移管が行われ、見晴台と同時に南阿蘇鉄道最初の新駅として設置された。周辺に何もないのだから利用者も少ない。全線復旧後のデータは発表されていないが、震災前の2015年のデータによると1日の利用者はわずか6人で路線内最少。震災前でこの数字なので、おそらく現在もその地位を保っていると思われる。ただ全国に周囲に何もない駅は数多くあるが、それは長い歴史を積み重ねていく上でそうなってしまったものがほとんどで、JRから三セク転換をする際、何の意味もなく新駅を設置するはずがない

一応私なりに考えた駅の設置の意味は

駅舎の逆側、旧国道沿いにある集落の存在ではないだろうか。徒歩7分の場所に集落があり郵便局や南阿蘇西小学校がある。もともとは長陽小学校があった場所に旧長陽村にあった3つの小学校を統合して誕生した。集落側に駅舎を設置したかったのだうが、そちら側は森。道路や地形の関係で駅舎の位置も決まったというのが私なりに導き出した考えだ

こちらはホームと駅舎の様子

ホームには「ワンピースを探せ」のキャラクターがいる。列車を見送ったのは8時45分。次の立野行きは10時52分で2時間以上もない。さすがにここで2時間時間をつぶすわけにはいかないので、朝の9時とはいえ、かなり気温が上昇してきた中、最後の長陽駅まで歩き始めることとした

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~震災後もずっと走り続けていた路線

※訪問は2025年8月27日

あらためて駅舎内

あらためて中松駅。こちらは列車を降りた際の駅舎の出迎え。「19870401」とあるのは、新駅舎が開業した1987年4月1日の日付だ

こちらは駅舎入口。ぶらさげられたちょうちんが、近代的なフォルムの駅舎と微妙なミスマッチをしていてかえって目立っている

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駅舎ではカフェが営業

当駅にはカフェが「秘密の基地ゴン」が入居している。週末と金曜日の営業ということで私の訪問日は休業だったが、名物というイノシシ肉のミートボール入りカレーが人気メニューだそうで

待合スペースにはワンピースにちなむ装飾が施されている

そして地元の中松小学校の生徒さんによるイラストが張られている。2001年となっているので、手がけた小学生は30代半ばに達しているが、この中松小学校は今はない。2021年春に他校との統合によって閉校になった

明治維新から間もない1875年(明治8)に開校された歴史ある学校だった。学校のHPは今も残されていて、行事日記も細かく更新されていたことが分かる。以前、山陰本線の長門粟野駅を訪問した際、駅舎内の装飾を地元の小学生が手がけていたことを知り、学校のHPを調べたところ、すでに廃校となっていてカウントダウンの日記に思わず目頭が熱くなってしまったことがあったが、同様の思いで、コロナ禍の時期になってしまった閉校式までの日々は苦労を感じさせる。閉校式まで3週間という時期にアップされた動画は校歌に合わせてドローン撮影した校舎の風景を描きながら、最後は生徒関係者が集合して「145年間ありがとう中松小学校」と幕を掲げて締めくくられるもの。わずか4年前のことだけに迫る思いがある

バルタン星人からのメッセージ

2023年に全線復旧した南阿蘇鉄道だが、多くの人がおそらく間違った印象を持っていると思われるのは、2016年の熊本地震以降も列車は走っていたという事実だ。2016年4月に熊本地震が発生。南阿蘇鉄道は全面運休となったが、7月には中松~高森で運行が再開されている。だから表現も「全線復旧」となっている。ここ中森駅は折り返し駅だった。三セク移管後に列車交換可能駅となり、信号設備が設けられたことが役立った。とはいえ豊肥本線の立野駅とつながっていないと各方面から列車で南阿蘇村、高森町に来ることはできない(豊肥本線の全面復旧も2020年である)ので1日3~4往復と限られた運行数だったが、7年にわたり全17・7キロ中の7・2キロを走らせ続けていたことが、その後の全線復旧につながったことは言うまでもない

そんな中松駅で出会った「人物」がいた

お手洗いにあったバルタン星人からのメッセージ。「科学特捜隊九州支部」の「中松駅特務清掃課」から「きれいに使って」と地球人に呼びかけている。ウルトラシリーズを通して登場する「人気悪役」。後期のものについては私は見ていないので何も語れないが、ウルトラマンは子どもの頃にリアルタイムで見ていた。実は最初の登場は「極悪星人」でなかったことを知る人は意外と少ない。最大の特徴である大きなはさみでこのように言われたのでは、素直に言うことを聞くしかないのである

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~悲しい説明文と80年前の弾痕

※訪問は2025年8月27日

今朝も直通列車でスタート

朝7時20分の肥後大津駅。南阿蘇鉄道の全駅訪問を再開する。といっても前日に「奇跡の飛行機早着」があったおかげで10駅のうち7駅の訪問を終えることができ、残りは3駅。天気も良さそうなので、午前中にここまで戻ってこられそうだ

朝の7時29分、9時26分と、1日2本のみ運行される南阿蘇鉄道直通列車に乗車。昨日は9時26分の方で今日は7時29分。通学の時間だが、方向的には下りになるので楽勝だろうと思っていたら、単行列車の車内はあっという間に高校生で埋め尽くされてしまい、少し驚いた。結論から言うと、私が下車した中松まで誰も降りなかったので、この先にある学校へと通うのだろう

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独特のフォルムに包まれた駅

約30分揺られて中松駅に到着。ご覧のように列車交換が可能な駅。南阿蘇鉄道の駅はすべて単式ホームで、起点の立野、終点の高森も単式ホーム(高森駅には留置線があるので列車を停めるスペースは他にもある)。つまり同時に2つの列車の乗り入れが可能な駅は当駅だけだ

外に出ると

独特なフォルムの駅舎が利用者を出迎えてくれる。中松駅は1928年(昭和3)の開業。国鉄高森線の1期生の駅だが、国鉄時代に駅舎は撤去され、三セク移管時はプレハブ小屋のような仮駅舎の姿になっていたようだ。現在の駅舎は南阿蘇鉄道となって1年後の1987年(昭和62)からのもの。熊本を中心に活躍する建築家桂英昭さんの設計によるもの。こうやって各駅を訪問していくと南阿蘇鉄道の発足時は「生まれ変わった鉄道」として、どの駅も気合の入った駅舎が建てられたことがよく分かる

ただふと目にした説明文の前で足が止まってしまった

阿蘇の山中を襲った米軍機

1945年5月に中松駅に停車中の列車が米軍機の機銃掃射を受け、乗客に死傷者が出たとの解説文がある。事前に情報を知らなかった私は衝撃を受け、駅舎や駅周辺の探索は後回しにして再びホームに戻った

白く囲われたホームが欠けている部分が、80年経っても残る弾痕だ。そこにも案内板があり

ここにも解説板がある。このような山中に米軍が目標とする施設があるはずもない。山中で思い出すのは、廃線となった三江線の船佐駅(広島県)

こちらは廃線前の2016年に訪問した際のものだが

ホームに解説文がある。廃線後の2022年にも訪問したが、すでに立ち入り禁止となっていたホームながら、この解説文の前までは行けるようになっていた。中松駅と同様、軍事的に標的とするものがない山中の出来事。船佐駅の空襲からわずか8日後に阿蘇の山中で同様の悲劇があったことになる

戦争末期には、ゲーム感覚で米軍が機銃掃射をしたとしか思えない悲劇が全国で起きている。ここ阿蘇の山中でも80年前に同じ出来事があったことを知り、しばし立ちすくんでしまった

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~起点そして分岐駅の立野駅を再訪問

※訪問は2025年8月26日

宿泊地の肥後大津へ

かつて日本一長い駅名だった「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅で、この日の南阿蘇鉄道の駅訪問を終えて本日の宿泊地としている肥後大津駅へ戻ることにした。戻るためには豊肥本線との接続駅で南阿蘇鉄道の始発駅でもある立野で乗り換える必要がある。来る時は1日2本しかない肥後大津からの直通列車だったため、この日は初訪問

その道中、立野を出た列車が白川を渡る際に通る立野橋梁、第一白川橋梁は車窓の見どころのひとつとなっている

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復興からの大工事

往路は満員で車窓を見る余裕はなかったが、肥後大津へと戻る時間帯は車内もすいていて、私も含め撮影会か始まる。橋の上では徐行運転をしてくれて景色を眺める時間もある

2016年の熊本地震で大きな被害を受けた沿線で、最難関とされたのは第一白川橋梁の復興だった。大正期から工事が始まり、1928年(昭和3)の完成時は川からの高さ日本一の高さ64・5メートルは日本一。その後、105メートルの高千穂橋梁(宮崎県)、70メートルの関の沢橋梁(静岡県)に抜かれたが、今も日本で3位。高千穂橋梁が営業列車の運行を終えたため、事実上第2位の座にある

この区間では3つの橋梁と2つのトンネルを経由するが、トンネルの被害も甚大で結果的に山全体を削ってトンネルをひとつなくす作業も行われ、新しい橋が完成したのは2022年。翌年の4月から強度の試運転が行われ、2023年7月の全線再開となった

2年ぶりの立野駅

立野駅に到着。乗り変え時間が約30分あるので外に出てみよう

南阿蘇鉄道の立野駅は単式ホーム。スロープを経てJRの立野駅へと移動する。直通運転される朝の2本はJRホームから出発する注意書きがある

駅舎は階段を上がったところにあるが、エレベーターも設置されている

こひちらが駅舎。熊本地震で被災したため、建て替えられた。南阿蘇鉄道がクローズアップされがちだが、豊肥本線も肥後大津~阿蘇が4年間にわたって運休している

木をふんだんに使った駅舎には

きれいな待合室がある。クルーズ列車の七つ星以外の特急はすべて停車。事実上、全列車が停車する駅となっていて立派な設備を持つが無人駅である。所在地は南阿蘇村で、特急が停車する「村」の駅でもある

1916年(大正5)の開業。しばらくは終着駅だった。豊肥本線は、ここから山中深く入っていくため、隣駅の赤水との間は有名なスイッチバック区間となる。当駅を訪れたのは2年ぶり

前回はスイッチバックを堪能した。訪問は2023年の6月29日。新駅舎の完成がこの年の3月なので、まだ木の香りが残っていた。そして

7月15日の全線再開を2週間後に控えた南阿蘇鉄道のホームは、その日までのカウントダウンに入っていた

JR九州でよく見かける姿だが、ホームのフェンスに時刻表が掲げられている

JRは島式ホームでホーム上に自動券売機が置かれている

震災からの復興を告げる看板を眺めながら肥後大津へと戻る。残る駅はまた明日

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~元「日本一」の駅はどんなところ?

※訪問は2025年8月26日

今でこそネットの発達によって駅の情報が手軽に入手できるようになったが、「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅が開業した1992年(平成4)ごろ、駅の情報はほぼ何もなかった。鉄道知識を得るための有力な手段のひとつは文庫本サイズの鉄道雑学の本だったが、その手の書籍には必ずといっていいほど当駅についての知識つまり日本一長い駅名だということは掲載されていたが、一体どんな駅なのか、周囲に何があるかについては、ほとんど触れられていなかった。というか駅の写真すらなかったと記憶する。そのころは鉄道会社にお願いして「駅の写真を添付してメールで送ってください」という手法はとれなかった。今にして思うと執筆にあたった方は実際に駅で降り立ったことはなく、情報だけを集めて本を作っていたのではないかと推察してしまうのだが、当時はただただ「そんな駅があるのか」という興味があるだけだった

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正十二角形の木造駅舎

駅舎はご覧の通り、時計台を持つ木造駅舎で開業以来のもの。正十二角形という独特のフォルムが目を引く。そういえば三セク移管されて最初の高森駅も時計台を持っていたし、阿蘇白川駅にも立派な時計台がある。見晴台駅も駅の正面に立派な時計がある

駅舎の中には古書店が入居している

私の訪問日は営業日ではなかったが、週に2度ほどの営業で南阿蘇村では唯一の書店だという。駅ピアノも置かれている。実はこの日、当駅で降りたのは私だけではなかった

ご覧の通り、駅周辺には特に何があるわけではない。平日のお昼14時に降りる人がいるとすれば、ほぼ同業者(鉄道ファン)だろうと思っていたら、驚くことに女性の3人組。どう見ても旅の観光客だ。「ここで本当にいいんだよね」などと会話している。どうやら周辺の宿泊施設を予約していて車での出迎えを待っているようだが、車が来るまでの間、ピアノの音が鳴り響いていた

昔は日本中の駅にあったよなぁ、と思い出させてくれる伝言板が残されている。駅ノートの役割を果たしているようだ。また駅前には特に何もないと記したがレストランがあってちゃんぽんが有名な地元の人気店のようだが、どうも私が訪れたのは火曜日で定休日だったようだ(いずれにせよ私の道程ではランチタイムに間に合わなかった可能性が高い)

注目の車内アナウンスは

ここで前記事にも掲載した駅前の周辺案内図を再び。、右下部分から中央に目をやっていただくと周辺にはさまざまな水源があることが分かる。先に掲載したグーグル地図でも、そのあたりはよく分かる「南阿蘇水の生まれる里」のゆえんである

ちなみにこの記事を書いている私のPCでは駅名は一発変換できないし、予測言葉にも出てこないがスマホについては予測言葉として登場した

さて私がもうひとつ楽しみにしていたのは車内アナウンス。読みで22文字にも及ぶ駅名をどのように語るのかと思っていたら、ワンマン運転の録音されていたアナウンスから流れてきたのは「次は『はくすいこうげん』です」のたった8文字の読み。まぁ、それはそうですよね

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~路線内「最も有名な駅」の大駅名標に圧倒される

※訪問は2025年8月26日

30年来のあこがれの人に出会う心境

結果的にすべての駅を訪問できたが、不測のハプニングに見舞われた場合も絶対に降り立たなければならないと思っていたのが、こちら「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅

この記事を読んでくださっている方なら、お分かりだろう。日本一長い駅名として長らく高い知名度を誇っていた駅だ。鉄道も含めた雑学クイズでの出題率も高かった。もちろん私もその存在はずっと知っていたが、なかなか来る機会な恵まれず、こうしてようやく初訪問できた次第。開業が1992年(平成4)なので30年来のあこがれの人に会う気持ちだ。もちろん気分は高まる

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とにかく巨大な駅名標

ホームに降り立つ

率直な感想は「駅名標デカッ」だった。ここまでの2枚の写真ではうまく伝わらないかもしれないが既出の他駅と比べると違いが分かるのではないか

こちらは阿蘇白川駅のもの。たまたま同じ車両だったので、車体と比較していただきたい

1992年、日本一長い駅名の駅としてさっそうとデビューした

駅前の周辺案内図で足が止まった

水源などを示した案内図だが、否が応でも右下に目が行く

長い駅名についての解説がある

日本一合戦の先鞭をつける

当駅は読みで22文字、文字表記で14文字。それまでの首位だった鹿島臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」駅は読みで22文字、文字表記が13文字だったので、読みで首位タイ、表記で首位となった

以下の経緯はこの説明文にある通りで、2001年に読みが24文字、文字表記18文字の一畑電気鉄道の「ルイス・C.ティファニー庭園美術館前」に首位を奪還されたが、美術館の閉館によって6年後に駅名変更となったため、再び首位の座に返り咲いた。当時「・」は文字数に数えるのか、という論議があったことが懐かしい。そもそも車内アナウンスができない上、きっぷの券面に余分な文字が入って面倒だということで駅名に「・」が入ること自体が珍しい時代だった(JRの鉄道駅で正式名称となっているのは群馬県の万座・鹿沢口の1駅しかない)

つまり1992年から約20年間首位で、一時陥落したものの6年後に再び返り咲いたことになるが、今度は2015年に富山地鉄の富山軌道線に「富山トヨペット本社前(五福末広町)」停留場が登場。こちらは読み24文字、表記17文字で全国首位となった

その後については京福電鉄の「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」(京都市)が首位の座を奪い、さらには「富山トヨペット-」が再び改名

2021年に「トヨタモビリティ富山 Gスクエア五福前(五福末広町)」停留場という読み32文字、表記25文字という最長不倒距離ともいえる駅名となった…と思いきや2023年に岡山電気軌道で「西大寺町・岡山芸術創造劇場ハレノワ前」停留場が誕生。こちらの読みは32文字で「読み部門」については首位タイとなった

そもそも岡山の駅については明治期の開業以来、ずっと「西大寺町」だった駅名が100年以上の時を経て改名されたももので、わざわざ「日本一合戦」に参加した感がある

JRや大手私鉄では、まず不可能な「長い駅名合戦」。鹿島臨海鉄道の「長者ヶ浜-」の開業が1990年。その2年後に誕生した南阿蘇水の生まれる里白水高原駅は「長い駅名合戦」の先鞭をつけた駅であることは間違いない。写真で分かる通り、案内図の解説文は日本一の座から降りたことで1度は紙かテープで塞がれ、歳月とともに風雨や雪によりはがれてしまったようだが、そこにまた歴史を感じるのである。ぜひ、このままの姿でいてほしい

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~今は貴重となった9つもの駅がある村

※訪問は2025年8月26日

戦国時代の城がモチーフ

あらためて阿蘇下田城駅。前記事でも記したように三セク移管から7年後の1993年(平成5)に温泉施設が入居する駅となり、開業時の木造駅舎から大きく姿を変えた

駅舎内に下田城についての解説がある

下田城は戦国時代に当地を治める下田氏の居城だったが、島津の大軍に攻められ落城。高森線(南阿蘇鉄道)のルートにもなり、跡はほとんど残っていないようだが、駅舎はその城をモチーフにしたもの。駅舎の写真を見れば分かるが、2階部分が展望台にもなっていたようだ。温泉は熊本地震の被害によって営業が続けられなくなったが、地元の愛着もあって、駅名から「城」を外すわけにはいかなかったのだろう

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数々の「からくり」に癒やされる

その阿蘇下田城駅は「ザ・マニアックステーション」の異名をいただいている。「無人歓迎システム」については前記事で触れた駅到着時の大歓迎だが、それ以外のものは

駅舎の外にある「おみくじ小屋」

駅舎の中では

「好きなの買えない自販機」やガチャにおみくじ

グッズ売り場そして

黒電話ボックスと、数々の仕掛けと楽しみがそろっている。さすがにすべてに興じるわけにはいかなかったが、おみくじ小屋には興味をそそられ入ってみた。結論としては遊園地のお化け屋敷も苦手な私には…というものだったが(笑)、ぜひ明るい時間帯に試してもらいたい

ちなみに駅にはこのような文言も添えられていた

南阿蘇村の村役場最寄りに

当駅は南阿蘇村役場の最寄りにもなっている

南阿蘇村は2005年に長陽村、白水村、久木野村の3村が合併して誕生した。村同士が合併して村が誕生した例は5月に日田彦山線BRT乗車のために訪れた東峰村を含め全国に3例しかない(もうひとつは長野県の筑北村)

村同士の合併で村が誕生したのは全国で初の例だった。ちなみに南阿蘇村HPによると2020年(令和2)の時点での人口は1万325人と「町」の要件を十分に満たすものだったが、自然との共生を掲げるため、あえて村を選択したという

現在の村役場は熊本地震から約1年後にできた新庁舎

鉄道的な視点で言うと、合併によって村内には9つもの鉄道駅が誕生することになった。南阿蘇鉄道にはJR豊肥本線の接続駅である立野を除くと9つの駅があるが、その立野駅も所在地は南阿蘇村。、つまり終点の高森駅(高森町)以外は始発駅の立野からすべて南阿蘇村に所在する。国内には183の村がある(北方領土の村はのぞく)が、自治体の合併が進み、地方の廃線が増えた現在、9つもの駅がある村というのは、なかなか思いつかない

阿蘇下田時代の写真が駅舎内に張られていた。昭和の末期には駅前で客待ちをするタクシーが並んでいたのかと思うと感慨深いものがある

列車待ちのため、先ほどの文言通り「無料」で「出入り自由」のホームに再び出てみる

路線内の各駅で見てきた眺め。この景色だけは、その頃から、そして将来も変わらないものだろう

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~開業から約100年で駅名変更2度の駅でビックリおもてなし

※訪問は2025年8月26日

※動画あり音声注意

衝撃のお出迎え

高森駅から折り返す形で阿蘇下田城駅へとやって来た。まず驚かさせるのは、駅に降り立つと衝撃的なお出迎えがある

列車が駅に到着すると乗客を歓迎するかのように音楽が流れて歓迎のロボットが動き始め、これは列車の出発まで続く。この日の私は最初に見晴台まで行ったため、1度当駅での停車を体験しているので、驚きも衝撃も半分になっていたが、それでも車内を埋め尽くしていたインバウンズの皆さんを含む観光客は「何事か」と身を乗り出し(もちろん私もその一員)、車中から写真撮影をしていた

このからくり人形は当駅を象徴するものだ

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全国にいくつもある「下田」駅

開業は1928年(昭和3)。「阿蘇下田」としてスタートした。開業から国鉄時代まで高森線には5つの駅しかなかった(立野駅のぞく)が、うち3駅が「阿蘇白川」「高森」そして「阿蘇下田」と、他地域にもある駅名が並んでいた。阿蘇白川については、先の記事でも紹介した通り東北本線の白河駅との同音が気遣って阿蘇の名を冠し、高森については岩徳線に「周防高森」があるが、こちらは微妙に高森線が早いため、国名や地域名は付いていない

全国各地に地名がある下田については、おそらく最も知名度が高いのはペリー来航の静岡県の下田だろうが、開業は戦後で、しかも国鉄の駅でないことから「伊豆急下田」となった。明治期から「下田」を名乗っていたのは、東北本線の下田駅(青森県)と和歌山線の下田駅(奈良県)で、両駅がともに1891年(明治24)開業だったからか、ともに駅名に国名などを冠することはなく2つの下田駅が存在していたが、かなりの後発ということもあって「阿蘇」の名が付くことになった

ただ下田駅には、ちょっとした顛末(てんまつ)があり、現在JRには「下田駅」はない。というのも東北本線と高森線の駅はともに三セクの駅となり、和歌山線の駅は約20年前に自治体名の「香芝駅」へと名前が変更となったからだ。話はさらにそれてしまうが、香芝駅から歩いてすぐの場所に「近鉄下田駅」があるのだが、こちらは元々は単に「下田駅」で、近鉄と国鉄が至近にそれぞれ同名の駅を持っていて、そのこと自体は珍しいことではないのだが、1970年に現在の駅名に変更(近鉄は至近にある同名の駅に「近鉄」と付けることをよく行う)。駅名の重複はなくなったと思ったら、JRで駅名が変更されてしまった

話を戻すと、阿蘇下田駅は南阿蘇鉄道となってしばらく経つと「阿蘇下田城ふれあい温泉駅」へと変更された。これは駅舎を大々的に改装して温泉施設にしたからだ。ただ2016年の熊本地震によって温泉の設備が被害を受け、鉄道も運休となったため、2023年の復旧のタイミングで「阿蘇下田城駅」として再出発となった。国鉄時代の阿蘇下田駅にしなかったのは

こちらの駅舎を見れば一目瞭然である

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~路線の顔役は唯一の有人駅

※訪問は2025年8月26日

全線復旧直前に新装

高森駅である

現在の駅舎は3代目。国鉄時代は1928年(昭和3)の開業からの木造駅舎が長らく使用されてきたが、1986年の三セク移管直後に時計台のある駅舎に全面改修。施設の老朽化と熊本地震による被災もあったことで建て替えとなり、震災からの全線復旧となった2023年に現在のものとなった。つまりまだピカピカの2年目

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本社の所在地

開放感のある駅舎内はエアコンも完備。休憩スペースには充電コーナーもある。南阿蘇鉄道が入居する路線内唯一の有人駅。乗車券の販売も行うが、改札業務は列車の乗務員が行うため、外からダイレクトにホームに入ることも可能で開放感が漂っている

なお言い忘れたが、私は翌日にも高森駅を訪れている。その事情は後の記事で紹介するが、駅の内外の写真については2日分が混じっていることを了承願いたい

駅の外には

ワンピースのフランキー像。大変な人気者で撮影の人が絶えなかった。もうひとつの人気は

ワンピースのキャラクターによるサニー号トレイン。こちらもカメラの放列。ワンピースの作者尾田栄一郎さんが熊本出身という縁で全線復旧となった2023年から運行を開始。主に週末に運行されていて私が訪れたのは平日だったので留置線で休憩中だった。1日1往復と2往復の日があり、2往復の場合は1往復が全席指定となり、指定席料金510円が必要。それ意外の便は全席自由席で乗車券のみの追加料金不要となっている。運行日など詳細は南阿蘇鉄道HPを参照していただきたい

また車窓からキャラクターを探すという企画も行われていて、南阿蘇白川水源駅での記事で紹介したキャラクターはそのためのもの

この車両は定期運行での運用に入ることもあるそうで密かに楽しみにしていたが、残念ながら私の2日間で出会うことはなかった

広大な敷地

サニー号トレインの写真で分かるように国鉄以来の路線の顔として広い敷地を有する

靴を脱いで入る交流施設は展示コーナーのようになっていて

九州内の三セクからの全線復旧を祝う声が届き

アニメの人気キャラも再開を祝っていた。2016年4月の熊本地震から2023年7月の全線復旧まで7年もの歳月を要した。地方の鉄道がこれだけの空白期間を経て復活するのは現在では、なかなか貴重なことである

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復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~不自然な弧を描いて入線する終着駅

※訪問は2025年8月26日

終着駅のいつもの感慨

終着駅の高森に到着。全国どこでもそうだが、国鉄由来の終着駅には旅愁が漂う。旅情というより、ここから先に線路はないという旅愁だ。国鉄が全国に線路網を伸ばしていく際、機回しの面倒もあって、港へ向かう路線以外はできるだけ終着駅は設置しない方針で敷設されていった。弊ブログでも各地の路線を紹介する度に触れてきたが、現在残るいわゆる「盲腸線」のJRや三セク路線の多くは、結果的に延伸をあきらめた未成線であることが多い

行き止まりなので利用客は制限される。地方の路線では苦戦が続く。結果的に多くの路線が廃線になったり三セク転換されている。「本当はこの先にも線路が伸びていて…」そう感じるからの旅愁かもしれない

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路線名にもなった駅

南阿蘇鉄道が運営する路線は1本のみのため、記事でもずっとその名を使用しているが、正式な路線名は「南阿蘇鉄道高森線」である。国鉄の高森線を引き継いだためのもの

高森線の線路は1928年(昭和3)に立野から高森までやって来た

こちらは立野駅のホームにあるイラストだが、阿蘇山を囲むように敷設されていることが分かる。豊肥本線と高森線が計画され、豊肥本線は大分へ高森線は高千穂を経て宮崎県の延岡へとつながる予定だった。ただ豊肥本線は高森まで線路が到達した1928年に全線開業したのに対し、高森線と接続予定の高千穂線は1935年の一部開業から戦争をはさんでジワジワと延伸が続けられ、1972年に高千穂まで到達。以降も高森まで延伸すべく工事は続けられたものの、県境を越える長大トンネルを造ることができず、それぞれ高森、高千穂が終点の盲腸線となってしまった

その原因はトンネルを掘る際の出水事故である

現在は高森湧水トンネル公園というとても分かりやすい名前の公園となっているが、元々はこのあたりに高森駅を設置し、高千穂に向けて延伸されるはずだったが、高千穂到達の後に始められた7キロ近い長大トンネルの工事中に相次ぐ出水事故があり、1980年に工事は中断。1985年正式に工事の凍結が決まった。1985年といえば、国鉄からJR移管(1987年)の目前。というか1984年にはすでに三セク移管が決定していた

1970年代というのは鉄道にとっては不思議な時代で、赤字ローカル線が各地で姿を消す一方、果たして採算がとれるのかという路線の工事が着々と続けられた時代でもあったが、工事凍結が1985年と知った私も今、この記事を書きながら少し驚いている。もっと早く断念したのかと思っていた

この公園は今、高森町の名所として多くの人が訪れる場所となっているが、工事凍結は思わぬ結果をもたらした

南阿蘇鉄道は、この公園のあたりで大きく弧を描いて高森駅へと向かっているが、これは最初の開業時に「いずれ延岡へ延伸されるが、それまで暫定的に街の中心部に駅を置いておこう」という理由で現在地に駅が設置されたもの。延伸されると高森駅は湧水トンネル公園近くであらためて開業される予定だった。普通は街外れを覚悟で駅を設置する。そもそも各地の国鉄駅は街外れにあることが多い。約100年近く前に将来のムダを覚悟で線路を不自然な形でよくぞ敷設したものだと感心してしまうが、別な視点だと1928年のトンネル技術では、全線開業は相当先になると考えたのかもしれない。このような経緯で街の中心部にやってきた線路は、恒久的に現在地で営業することになったのである

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