出直し2年がかりの呉線全駅訪問~キュービック駅舎が続々と

吉名駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

美しい車窓に癒やされる季節は冬場がベスト

瀬戸内海に沿って走る呉線は車窓も美しい。特に三原に近い安芸長浜あたりから東側は国道とともに海沿いを走る区間が多いので、乗り鉄の方も目を凝らして見ていただきたい。私的にオススメは夕陽の沈む時間帯か。こちらは朝のおそらく須波~安芸幸崎間の車窓

さらに言うと、季節的なオススメは冬場である。夏場だと「ブラインドを閉めてください」の圧が半端ない。そして、それは十分に理解できるもの。前回の訪問は、まだまだ暑さの残る10月1日だったが、圧の前に自主的にプラインドを閉めてしまうほどまぶしかった。ずっと南側に向いているので当然のことだが、青春18きっぷの季節に特化するとギラギラ太陽の照りつける夏場はおすすめできない。冬かせいぜい春だと思う。この写真は訪問の年末のものだが、冬の柔らかい日差しが暖かかった

いわゆる簡易的な駅舎

その意味では当日は三原から安芸長浜へと向かってから、須波に戻り、再び呉方面へと乗車したので3回も同じ景色を見られて楽しかった

そして到着したのは

吉名駅。こうして見ると単式の棒状駅に見えてしまうかもしれないが、車両に塞がれているものの、すれ違いの列車交換ができる2面2線構造。広から東側はローカル線のムードが漂う呉線だが、単式ホームの駅は安芸長浜、新広、呉ポートピアの3駅のみ。いずれも平成になって設置された新駅で、他はレールがはがされて単式ホームになったりすることなく2線以上の構造を保っている

ホームは盛土の上にあり、結構急峻な階段で駅舎を抜け外に出る

駅舎は簡易的な立方体の、いわゆるキュービック駅舎である

吉名駅は1935年(昭和10)の開業。同年の2月に竹原から三津内海(現在の安浦)までが延伸された際に設置された。当時は吉名村。同村は1956年に竹原町に編入となり、現在は竹原市である。かつては開業以来の木造駅舎があったが、30年近く前に現在の姿となった

周辺は吉名の町の中心部にあたり、タクシーもいる。吉名村は「所得倍増計画」や、最初の東京五輪時の首相として知られる池田勇人元首相の出身地である

駅前の地図。駅前の道路を道なりで歩いていくと港に出る

こちらは駅舎内の様子。椅子が並んでいてすぐに階段があり、ホームへと向かう。ICリーダーと自動券売機という呉線ではおなじみの光景。もちろん無人駅だ

ちょっと古典的なホーム案内。駅舎と階段を結ぶあたりは柱も木造なので、駅舎の改築以前のものかもしれない

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

出直し2年がかりの呉線全駅訪問~三原のお隣のモニュメント駅はヤード跡横断も可能

須波駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

ホーム間移動は公道経由で

須波に到着。三原駅を出てからの呉線は、すぐに山陽本線に別れを告げて左に折れると三原の市街地を見渡しながら南下。河口付近で川幅も広くなっている沼田川を渡ると、すぐ山となるため、再び左に弧を描き、今度は海と山の間の狭いスペースに沿うように右へとカーブして須波へと向かう。車窓的にも海が一望できて見どころのある場所だが、地形的には自然の影響を受けやすい場所となっている

ただしこの日は安芸長浜に一度行ってから戻る形になったため、到着は三原方面のホーム。つまり山側

ここから階段を降りて敷地外に出る

見上げた先にはICタッチのみがあって

やや狭い公道がある。上りホームへの移動はこの公道を介して行う

須波は漁港として栄えた町。駅の開業は1930年(昭和5)。三原から1区間分が敷設されて、ほんのひとときの終着駅だった。1年後に安芸幸崎まで延伸されている。当時は須波村。1936年に三原市に編入されて現在に至る

ヤード跡を横切って駅へ

呉線をくぐって駅の玄関である上りホームへと向かうが

そこに広がるのはかつての構内であるヤード跡

写真で分かるように、いくらでも横切ることができる。全国に残るヤード跡とその中は入れないように柵が設けられていたり、立ち入り禁止の看板があること多いが、こちらは広大なスペースに柵などは設けられておらず、言い方を変えると「入りたい放題」である

ととても貴重な機会ともいえる

なぜこのように開放されているかというと、山側から来ると呉方面へはここを通るのが最短距離だからだと思われる。正面から回り込むと、やや遠回りになる。現実に私以外にも、ここを通って呉方面への列車に乗ろうとする方々がいた

現在の姿はモニュメント駅

呉線ホームへと向かう。ずっと「ホーム」という表現をしてきたが、それは現状がこうなっているから

階段があって「須波駅」の駅名板が立てられているだけ。かつては駅舎があったが、解体されて簡易駅舎すらない。私はこのような構造を「モニュメント駅」と呼んでいる。ポストだけが残されているのも定番のような気がする

呉線は2018年の平成30年7月豪雨で全面運休となった。徐々に復旧して最後に残ったのが安浦~三原。12月に全線再開となったが、この間に開業以来の木造駅舎は解体となった。構内やヤード跡の広さを見ると、かなり大きな規模の駅だったことが理解できる

盛土の上にあるホームで列車を待つ。駅舎があった時代からホーム移動は公道を介して行われていたようだ。年末の朝9時すぎという時間に、ここで過ごすのはちょっと寒かった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内では異例づくしのUFO駅

安芸長浜駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

帰省ラッシュ前夜の新幹線で再開

年の瀬の早朝6時すぎの新神戸駅

6時38分のさくらで西へと向かう。今日は呉線の再訪。前回から3カ月近くが経っていて当時はまだまだ暑かったが、当然そんなことはなく、この時間でもまだ真っ暗だ。もう数日で新幹線は帰省ラッシュで大いに混雑するのだろうが、世間的には正月前の追い込みモードで新幹線もビジネス客中心のようだ

福山で在来線に乗り換え、青春18きっぷに3回目のスタンプをもらう。購入したのが和泉砂川で、これまでの2回が五反田と木更津。12月に入っての阪和線各駅訪問の際に買って、ここまでの2回は内房線全駅訪問の際に使用。前回の利用時は鉄道の日の秋の乗り放題パスで自動改札機を通ることができるのが最大のストロングポイントだったが、今日の行程については、あまり世話になることがなさそうなので、ほとんど関係がない(笑)

広から東では唯一の戦後生まれ

8時52分、安芸長浜駅に到着。見て分かる通り、単式ホーム

安芸長浜駅は1994年(平成6)の開業。国道そしてホームという構造。他路線でもそうだが、こういう形式は後から強引に設置した駅であることが多い。呉線内で棒状ホームの駅は他に新広、呉ポートピアの計3駅しかなく、いずれも平成になって生まれた。呉線では広島のベッドタウンとして戦後にいくつかの駅が誕生しているが、広~三原では戦後生まれの駅は当駅のみ。この区間はいずれも戦前からの駅ばかりで、駅間もそれなりに離れているが、新駅だけに両隣へは忠海までが2・8キロ、大乗までが1・8キロといずれも近い。そもそもホームからすっきり海が見渡せる駅がほとんどないのだ

駅は火力発電所の中?

駅の場所はというと周囲をグルリと火力発電所に囲まれている

駅舎は盛土の小高い場所にあるが、背後に電源開発竹原火力発電所が見える

というか、駅はその敷地内にある。つまり火力発電所の最寄りとして設置された。駅を出たところの跨線橋を渡れば火力発電所の入口がある。おそらく徒歩で3分は絶対にかからないだろう。ただし車で当駅に行くには山側からグルリと回り込む必要があるので、かなり時間がかかりそうだ

なんといっても駅舎のフォルムが独特だ。何をイメージしたものだろうか。私にはUFOにしか見えなかった。いずれにせよ、戦前というか昭和時代から、このような駅はなかなか想像できない。いろいろな意味で路線内では異質の駅ということになる

無人駅でICカードリーダーと券売機がある。これは呉線ではおなじみの光景。当駅では朝からちょっとした思い出がある。立派な駅舎でトイレももちろん設置されていて冷え込む朝には大変ありがたのだが、その前で私は立ち尽くしてしまった。左右どちらが男性用、女性用なのか分からなかったのだ。これは困ったとトイレを見つめていると、ホームに居合わせたご婦人が「男性はこちらです」と教えてくれて窮地を脱することができた。正確に再現すると「男性は右です」または「男性は左です」と左右を言ってくれたのだが、どうも右か左かが思い出せない。あくまでも1年以上前の情報だが、当駅を訪れる方は、ぜひ留意しておいていただきたい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

「十日天下」も新幹線の全駅利用を駆け込みで目指す~後編・駆け込み訪問にこそ意味がある

※訪問は2024年3月5日

美しい雪景色の車窓

一夜明けて十日町駅から飯山線で飯山駅を目指す

朝から雪が降り続いている。ただ十日町の中心部は歩道が屋根付きで、駅は徒歩だと5分以上離れたところにあるものの駅へも屋根はつながっている

交差点部分はさすがに屋根はないが、ちょっとした小走りを交えることで、ほぼ雪からは逃れる形で駅へと到着できた

列車が停車しない部分はすっかりホームも雪。上に見えるのが北越急行のホーム。十日町は接続駅で、北陸新幹線の金沢延伸前まで北陸から東京へのメインルートでもあった北越急行からの越後湯沢乗り換えで使用されていた特急「はくたか」の一部も停車していた

8時半に十日町発。飯山線のダイヤは決して本数の多いものではなく、2~3時間に1本の運行。以前の訪問時は、暑さの残る9月で、いくつかの駅で降りたりもしたが、今日は飯山駅が目的だし、列車本数や天候も考えると、線内は乗り鉄である。だが平素は同じ乗り物に1時間も乗ると飽きてしまう私が見とれてしまうほど車窓は素晴らしかった

雪の中のレール

雪化粧の信濃川。飯山線は信濃川・千曲川に沿って走る。戸狩野沢温泉までの1時間20分、ずっと見とれていた

この日の車両もおいこっとだったが、戸狩野沢温泉で乗り換えとなる。乗り換えといっても対面ホームの2分乗継ぎで、実際は車両の交換。すでに長野県に入っている。3駅目が飯山。このまま乗車していれば1時間で長野まで連れて行ってくれるが、さすがにそうはいかない

予想以上の人出

飯山駅に到着。戸狩野沢温泉から2両編成となったが、多くの人が下車した。こちらは一段落した後の写真。はっきり分かる通り、雪が舞っている。十日町より激しい

在来線の改札口を出てすぐ、きっぷ売り場を挟んで新幹線の改札口で長い列ができている。ほぼスキー客の様子で海外からのお客さんの姿も目につく。当駅は無人駅ではないが、2021年11月いっぱいでみどりの窓口を終了。2台の指定席券売機がその代わりを果たしている。旅慣れた人なら券売機の方が楽かもしれないが、ふだん使い慣れていない人は時間がかかるだろう。横で立つ駅員さんが案内しながらの発券。国際色豊かで駅員さんも大変そうだった

私はというと自由席特急券だけ買えばいいので、駅員さんに尋ねると、誰も並んでいない券売機を案内され

あっさり購入。その気になれば、特急券さえ買えば軽井沢まで乗車券は有効だが、新幹線自由席の1区間特例分のみを購入。飯山駅に特化しているので、これで十分

30分ほど時間ができたので駅舎の写真をと外に出てみたが

激しい雪に、撮り逃げするようにして駅舎に戻る

飯山駅は1921年(大正10)に飯山鉄道という地元設立の私鉄によって開業した。戦時買収で1944年(昭和19)に国有化。現在に至る。路線名にもなっている飯山駅は、もちろん主要駅で2015年の北陸新幹線金沢延伸の際に新幹線駅が併設された。その際、在来線のホームも300メートルほど移動。その跡地は留置線として現在も使用され、車窓からも見える。グーグル地図にも側線跡が描かれている。どこまで近づけるか分からないが、事前の計画では行ってみることにしていたが、天候により中止である

ただし飯山鉄道の開業に尽力した五島慶太をたたえる石碑は旧駅から新駅に引っ越しているので、そちらは撮った

三日天下だからこそ意義がある

10時39分のはくたかで1駅乗車である

通過線のない2面構造のホーム。ちょっと遅れたが、これで新幹線駅の全駅訪問を達成。といっても11日後に北陸新幹線の敦賀延伸があるので、10日間だけの至福感。新幹線の駅が廃業になるなんてことは基本的にないので、延伸後にあらためて新駅とともに訪れればいいだろう、という考え方はあるし、その方が合理的でもある(ただし新幹線駅をひとつずつ訪問するのは、お金がかかり、なおかつ飯山駅と新駅では会社が違うので、すべての駅を訪問できるフリーきっぷの発売は難しいと思われる)

ただ、まずは北海道から九州までの全駅訪問を新線開業までに終えたとという事実が私にとっては大切で、直前の滑り込みによる三日天下と分かっている達成にこそ意義があるのだと思っています

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

「十日天下」も新幹線の全駅利用を駆け込みで目指す~前編・痛恨の通過列車乗車

※訪問は2024年3月5日

旅のスタートは新潟空港

この記事を書いている傍らのテレビのニュースでは北陸新幹線敦賀延伸で持ちきりとなっている。私のX(旧ツイッター)のフォロワーさんも訪れているようだ。という事実を百も承知で2週間ほど前のことについて触れてみたい

8時20分、新潟空港にいた。今日は新潟駅から信越本線、上越本線、飯山線と乗り継いで十日町へと至る。大阪から新潟へはJALタイムセールで。最大目的地は明日の飯山駅で、大阪からだと名古屋経由で長野まで行くのが、おそらくノーマルルートだろうが、それだと往復同じコースになってしまう上、新潟空港はこれまで利用したことがなかったので、新潟から十日町経由で向かうことにした

バスで30分揺られ新潟駅に到着。すっかり変わったな、という感慨に浸る間もなく

春の青春18きっぷを購入。信越本線を南下。道中、いろいろな駅を回りつつ、十日町を目指すが、新潟近辺の駅では少しの雪が道ばたに残っている程度で雪のことなど、この時点では考えてもいなかった。しかし長岡あたりまで来ると、風景は一変。車窓は雪一色となってきた

3月16日より前の訪問が絶対

話は昨年秋にさかのぼる。10月に九州新幹線の全駅訪問を目指していた。この旅で全国の新幹線駅訪問を達成することになっていたが、時刻表の路線図を眺めていた時、あることに気付いた

飯山駅が未訪問だ

それよりさらに1年前の2022年10月、JR東日本パスで東京から北陸新幹線→上越新幹線→北陸新幹線とグルリ回って新幹線各駅を回収。これで本州と北海道の新幹線全駅を利用したことになったと、すっかり満足していたのだが、私が上越妙高から乗車したのは飯山通過のはくたかだった

はくたかは基本的に昼間は金沢から長野までが各駅停車で、長野以降が速達運転となる。だが、その中の一部に「飯山のみ通過」という、全駅訪問の死角を狙った(?)列車があり、私はまんまと、それに乗車していたのだ

これはマズいと思ったが、飯山駅のみの訪問というのは、金銭的にも時間的にもなかなか辛いものがある。そのうち北陸新幹線の敦賀延伸の時が迫ってきた。その時期は3月の青春18きっぷの季節以外ないだろうと今回の旅となったのである

上越線に入り、小千谷駅では2台の除雪車が待機中。飯山線の乗り換えとなる越後川口でも雪一色

乗り換え時間2分という優秀すぎる接続で、単行のため駅名標の位置が車両から、かなり離れたところにあるため、写真を撮るだけでも必死だった。ちなみにこの足跡はすべて私のものである(笑)。地元の皆さんは雪に対応した靴だったが、当然私は違う

幸運だったのは、週末中心の観光列車「おいこっと」の定期運用車両に乗れたこと。JR東日本は観光列車を定期運用に使用することはほとんどないが、飯山線では使用されているようだ

ちなみに「OYKOT」とは東京(TOKYO)を逆さ読みしたもので、大都会とは対照的なふるさとを意識して名付けられた

フリーきっぷ購入が問題

さて今回の移動で課題となったのが、きっぷの購入である。新潟エリアには「えちごワンデーパス」「えちごツーデーパス」、信州エリアには「信州ワンデーパス」という、なかなか優秀なフリーきっぷがある。ただし「えちごー」についてはワンデーとツーデーでエリアが異なり、ワンデーは小千谷までしか行けず1570円。ツーデーはエリア拡大で2740円で十日町まで行けるので自分の行動エリアを考えるとツーデーを購入して1日だけ利用しても十分に元がとれるが、こちらは基本的に週末のみの販売。ということで18きっぷの登板となった。ただし飯山駅利用には信州ワンデーパスが必須である

というのも新潟エリアのパスにしてもそうだが、特急料金さえ払えば乗車券は有効なのだ。青春18きっぷだと飯山から新幹線に乗車した場合、乗車券も含めて当該区間は一から買わなければならないが、フリーパスだと特急券だけ買えば大丈夫。また明日は松本に宿泊することになっているので、長野から特急移動することになっても同じく特急券追加だけで済む。2680円で通年発売。こちらの方がお得となる

ただ、このフリーパスは購入が問題で、発売はエリア内のみどりの窓口または指定席券売機となっている。名古屋または東京から行く場合はそれほど苦労はしないだろうが、新潟から入る時はエリア内最初の駅は越後川口そして十日町となるが、両駅はみどりの窓口はあるものの、指定席券売機はない。みどりの窓口の営業時間はJR東日本のHPに記されているが、休憩時間などについて私的には現地に着いてみないと分からないと思っている。新幹線に乗るだけなら飯山まで行けば何とでもなるが、きっぷの購入については何ともならない時は何ともならない

という理由もあって本日の宿は十日町とした

十日町到着は15時前。そして

無事みどりの窓口は開いていた。結論としては私が乗車する翌日の朝から営業していたが、とにかくひと安心

これで明日に何の憂いもなくなった。十日町で宿をとったのは、へぎそばを食べる目的もあった。過去に2度ほど新潟駅近くのへぎそばのお店に行ったが、いずれも長蛇の列で断念。かねてより本場の十日町で食べたいと思っていただけに

大変満足。二人前でも食べられたかもしれない

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~テーマパーク閉園も駅も駅名も残る

呉ポートピア駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

至近の駅には徒歩移動

国道を海沿いに歩いていくと呉ポートピア駅の入口に到着した

天応駅で、やや急いでいたのは、お隣の呉ポートピア駅まで徒歩移動するため。といっても駅間距離はレールでも1・3キロ。線路と並行して国道があるため、歩いても、ほぼ同距離である。ちなみに呉ポートピアと隣の小屋浦も1・5キロと駅間は短い

呉線の呉以西は昼間は1時間に3本の運行があり、うち2本が快速で1本が普通の運行となっていることは何度か触れたが、つまるところ普通のみの停車駅は1時間に1本しかない。駅で1時間待つという選択肢もなくはないが、歩けるところは歩いて次の列車を待つ方が合理的だ(乗降の両者を行うことはできないが)。日中はまだまだ暑いころで、かなり汗だくとなった

元々は私鉄だったという路線や都心には歩いてすぐという駅間も多いが、ずっと国鉄だった地方路線(といっても呉線は地方交通線ではなく幹線)としては珍しい。特に広から西側は戦後になって新駅や復帰駅がいくつかあって駅間距離は短くなっている。その都度紹介していくつもりだが、その理由もさまざまで、周辺人口が増えたとは必ずしも限らない

その意味では呉ポートピア駅は新たにテーマパークができたので設置された駅である

テーマパークが全額出資

橋上駅舎を出ると跨線橋があり、そこは「呉ポートピアパーク」という公園となっているが、元々は「呉ポートピアランド」というテーマパークで、さまざまなアトラクションが並んでいた。ポートピアランドといえば、連想するのは神戸ポートアイランドにあった神戸ポートピアランド。こちらは阪急電鉄によるもので、1981年の博覧会であるポートピア81とともに開業し、博覧会終了後も大いににぎわっていた。ならば他にもポートピアランドをと、同じく阪急が呉市と第三セクターを作って1992年に開園した。駅については三セクの全額出資という力の入りようで開園前日の3月19日に開業となった

住宅地と国道の間の狭いスペースに単式ホームが器用に設けられている

すれ違いのできない棒状ホームながら橋上駅舎となっているのは、駅から国道をまたいで直接公園に入れるようにするためだ。これもなかなか気合が入っている。JRも新たな新名所誕生に応える形で、快速停車駅としてみどりの窓口も設置した

テーマパークは終焉も

このころは日本中でテーマパークが流行ったころで、1996~98ごろ高松にいた私は出張でよく呉二河球場を訪れていた私は車窓から見える大観覧車に驚嘆していた。ちょうどその頃、倉敷の駅を出たところにチボリ公園も開業している

だが華々しく開園した呉ポートピアランドはわずか6年で経営悪化により閉園。ちなみに倉敷チボリ公園も2008年いっぱいで閉園した。日本中でテーマパークが流行する一方、アトラクションについてはディズニーランドやUSJのように更新が求められる時代にも突入していて、戦前からの歴史を持っていた阪急の宝塚ファミリーランドや阪神の阪神パークも2000年代に入って閉園し、阪急撤退後も営業が続いていた神戸ポートピアランドも2006年に閉園となった

ということで駅そのものも、もはや無意味…とはならなかった。地図で分かる通り、旧天応町の中心部は天応駅と呉ポートピア駅の真ん中あたりにある。住民にとっては呉ポートピア駅の方が便利なのだ。また当駅は逆側の小屋浦駅とも1・5キロしか離れていない。こちら側からの需要もあった

ということで駅は残り、ポートピアランドの跡地も呉ポートピアパークという公園となったために駅名もそのまま、ということになり、2021年の利用実績では天応駅が1日900人の利用なのに対し、呉ポートピア駅は1326人と大きく上回っている(開園直後の数字よりは少ないが)

現在は無人駅。これはホーム案内ではなく(といっても単式ホームだが)、進行方向を示すもの

ひらがな表記だと当然こうなる

トイレにあった張り紙。やや古めの新幹線が並び、広島駅では見られないものも含まれていて年代不明だが、職員さんの手作りだろうか

列車がやって来た。この日の呉線訪問はここまでである。華々しいテーマパークの開業から数奇な運命をたどったともいえる駅をあとにした

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~沿線唯一の明治生まれ駅舎が現役の駅は夕陽で知られる

天応駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

わずか5年だった天応町

天応駅に到着。ご覧の通り、1面2線の島式ホームとなっている

開業は1903年(明治36)年12月。呉線が海田市~呉で開業した際に生まれたので駅としては、前記事の吉浦と同じく、120歳の誕生日を迎えている。呉線はその後、延伸に時間がかかり、呉から東の区間が三原、呉の両側から少しずつ延伸され始めたのは昭和になってから。海田市~呉の先行開業区間の新駅も大正になってから、小屋浦が開業したのが最初で、つまり明治生まれの駅は山陽本線でもある海田市を除く(当時は山陽鉄道という私鉄だったが)と最初に開業した矢野、坂、天応、吉浦そして呉の5駅のみ

天応以外は戦後すべて駅舎の形を変えているので、戦前からというより明治生まれの駅舎が残る唯一の駅ということになる

手は加えられているようだが、屋根や上屋を支える柱などにも歴史を感じる

付近は呉市に編入された1956年(昭和31)まで天応町だった。では駅名も町名にちなんだのかというと、駅の開業時は大屋村だった。大屋村が町制を施行して天応町となったのは1951年なので、自治体としての天応町は、わずか5年間だった。駅名は村名ではなく駅周辺を取り囲むようにしている天応山、天応烏帽子岩山、天狗城山の3つの山にちなんだ

2021年の1日の乗降者数は900人で13位。明治開業の他の4駅がいずれも2000人以上であることを考えると少ない。もっともこれは近い所に新駅が誕生したことにも要因があり、地形的に海に沿った線路に近い場所に住宅地が広がっているため、新駅に利用数が分散したとも考えられ、単純に少ないと言い切るものではないが、明治生まれの他の4駅が快速停車駅なのに対し、当駅は普通のみの停車。別の見方をすると、普通しか停車しない駅だからこそ、明治の駅舎が現役でいられるともいえる

海に近い駅

駅舎にはホームから跨線橋を渡る。山が迫りスペースのない山側にわざわざ駅舎があるのも呉線らしいところ。地図で分かるように当駅は海に近く、跨線橋からの夕陽の美しさでも知られているようだ。「ようだ」というのは、駅の紹介をしたところX(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったから。到着時は15時半を過ぎたあたりで、まだ夕陽の時間には早く気付かなかったこともあるが、ちょっと先を急いでいて駅について調べる余裕がなかったことが大きな原因。今調べると当駅や当駅近くからの夕陽がネット上にいくつもある。ふだんは遅くとも駅に着いてから、いろいろ調べてみるものだが、これは大きな反省点である。だから跨線橋からの写真はない

2018年から無人駅となった。窓口や、かつての手荷物受付と思われる場所は板で塞がれている。無人化された駅でよく見かける「きっぷは正しく目的地まで」の文字はいつからのものかは分からないが、券売機だけでは、もちろんすべての目的地までは購入できない

駅舎内には地元の子供たちの手による展示物があった。花瓶の花も定期的に入れ替えられているようである

先述した通り、ちょっと先を急ぐことになっているため、駅からすぐに離れることになった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~吹き抜けの天井と階段の構造に往時を思う

吉浦駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

変則2面2線ホームの快速停車駅

広から快速に乗って吉浦に到着。ご覧の通り、貨物ヤードの側線が残る。駅名は旧吉浦町に基づく。1928年(昭和3)に呉市に編入された。駅の歴史はもっと古く、1903年(明治36)に海田市~呉の開業と同時に設置。当時の途中駅は他に矢野、坂、天応のみ。120歳を越えている

ホームは変則2面2線構造。こういう形は島式ホームが手狭なので、新たに外にホームを設けたものが多いが、元よりこの形式。島式部分はどちら側にも降りられるが、2012年に柵が設けられた。その年に快速停車(安芸路ライナー)駅となっている(朝の通勤ライナーは通過)

天井からの照明に見とれる

堂々とした駅舎。戦後間もない1946年から現在の形となった

吉浦も貨物で栄えた駅である。元々は芦が生い茂っていて「あし浦」と呼ばれたが、「あし」が「悪し」に通じるとして「吉」が使用されるようになったという説があるという。芦が茂るぐらいなので、のどかな地域だったのだろう。海上保安大学校のHPによると、吉浦全域で874戸の住居があり、推定人口は約4000人だったという

その後、呉が軍港として発展していく過程で火薬庫の場所となり、1888年(明治21)に整地が終了。1894年には一帯の買収で30戸の住民が立ち退いた。火薬の試験場ともなり、レンズ工場や信管の工場も造られ、規模は大きくなったが、戦後は英連邦軍が占領。1950年の返還後にその場所に設置されたのが海上保安大学校である

吉浦駅は駅のすぐ裏に港があり、戦後も貨物輸送でも栄えた。貨物ヤード跡が残り、1本は保線車用に利用されているが、かつてはもっと規模が大きかったのだろう。また火薬庫と逆側の軍事施設とは線路でつながり、その後、海上自衛隊の呉造修補給所貯油所となった専用線として戦後も利用されていた

駅を挟んで東西の関係となっている

駅はひさしも立派。そして外から見ると二階建てのように見えるが

中は吹き抜け。将来的に規模が大きくなることを想定していないと、なかなかこれだけの建物は作れない。長くつり下がった照明にしびれてしまった

こちらは駅舎を逆側から撮ったもの。階段は多くの人を一気にさばけるようになっている構造だ

古風な文字を見上げながら、跨線橋を渡った。2年前にみどりの窓口が営業を終了して現在は無人駅だが、2021年の1日の利用者は2082人。これは呉線内では8位の数字(三原と海田市をのぞく)である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~広島シティネットワークはこちらから

広駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数が急増

広駅に到着。お隣の仁方も当駅も呉市内の駅だが、運行本数が大きく変わる。在来線は広島駅を中心に広島シティネットワークと名付けられた愛称が用いられていて、山陽本線は東は白市、西は(山口県に入っているが)岩国、可部線全線、芸備線の狩留家そして呉線の広駅。エリアの移動に複数のルートがあるわけではないので、いわゆる大都市近郊区間には入っておらず、途中下車や選択乗車など特にきっぷのルールに特例が適用されるわけではない(ただし特定都区市内制度による広島市内区間は別に存在する)。言い方を変えると「ここから先は列車の本数が少なくなります」ということでもある。また非電化の芸備線以外は「シティネットワーク広島」のロゴが入った最新の227系で運用されているが、呉線は全線が227系である

三原方面からやって来ると、ほとんどの列車が当駅で乗り換えとなる。昼間は1時間に1本の運行が広から30分に1本で、すべてが快速。この快速「安芸路ライナー」は呉までの新広、安芸阿賀と各駅に停まり、呉から快速運転。呉からは普通が出ていて快速通過駅を補うが、こちらは1時間に1本。つまり快速の方が運転本数が多いという、ちょっと変わった運行形態となっている(夕方以降は)

ただ朝のラッシュ時は事情が変わり、広から多くの広島方面行きが出ていて7時台、8時台は1時間に5本の広島行きがある(それぞれ1本は広以東からの直通)。また朝の通勤通学帯は快速も「通勤ライナー」と名前を変え、呉以遠は矢野の1駅のみ停車という特別仕様。仁方駅の項で「ヨンサントー」のいわゆる1968年10月号の時刻表について説明したが、当時から最も大きく変わったのは、広から西の運行本数で、このころはまだ非電化時代ではあるが、広を境に朝の本数は増えてはいるものの、朝の6時台に3本、7時台に2本、8時台に至ってはわずか1本(ただし広停車の急行と呉始発の急行が別にある)しかない。広~三原については今とあまり変わらない

かつては広村

広駅は1935年(昭和10)3月の開業。呉から線路が延伸されてきた。11月には広から三津内海(現在の安浦)が延伸され呉線は全通している。開業時は広村。戦時色が強くなった1941年4月に仁方町とともに呉市に編入されている

広駅は貨物列車の拠点でもあった。呉海軍工廠は東洋一の軍需工場だったが、後に広海軍工廠が独立する形となり、貨物需要も必要となった。戦後も呉線の貨物輸送は広駅が拠点となっていた。今も夜間停泊などに使用される側線が残るが、かつては大規模な貨物ヤードがあった。広の地名には埋め立て前の海岸が広々としていたとの説もあるようだが、もちろん現在の広駅周辺に村の雰囲気はない

広以西の主要駅には開閉型の自動改札機が設置されている。みどりの窓口は3年前に営業を終えたが、みどりの券売機が導入された。もちろん無人駅ではない。駅舎は戦前からの木造駅舎が使用されていたが、JR移管直前に現在のものへと姿を変えている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

2年がかりの呉線全駅訪問~番外編・仁方駅と来れば堀江駅も紹介

堀江駅の駅前に残るかつてのきっぷ委託販売を行っていた商店

※訪問は2020年9月20日

松山から3駅目の貨車駅

前記事で呉線の仁方駅の訪問を振り返ったが、仁堀連絡船という意味で、番外編として連絡船の片側の駅である堀江も紹介することにする

堀江は松山から3駅目の予讃線の駅。見ての通り、北海道以外ではなかなかお目にかかれない貨車改造駅

2面2線。松山に近いため、昼間は1時間に1本の列車があり、朝夕は本数も増える

松山から順番に三津浜、伊予和気そして当駅だが、海には最も近い。松山の港といえば伊予鉄道の三津駅だが、三津浜は三津駅からは、やや離れている内陸部にある上、「連絡線」の意味では三津の港は鉄道駅としては、すでに満員御礼だった。国鉄としては堀江駅をドラフト指名したのだろう

開業は仁方駅より少し早い1927年(昭和2)。高松から徐々に延伸されてきた線路の伊予北条~松山が開業した際、堀江駅も誕生した。つまり松山駅と同じ誕生日である。当時は堀江村(1940年に松山市に編入)

なかなか見とれてしまう貨車駅だが、元々この姿だったわけではない。連絡船があったころは、もっと立派な駅舎があった。1982年(昭和57)に連絡線が廃止された2年後に現在の姿となった。貴重な貨物駅は思わぬおまけだったのだ

駅前の商店が簡易委託としてきっぷの販売をしていたが、今は行っていない。「JRキップ」の文字があり、連絡船は国鉄時代に廃止されている。10年ほど前までは委託販売が行われていたようだ

駅からはほぼ一本道

駅から連絡船乗り場までは、ほぼ一本道だった。駅前の広い通りを行くとすぐ分かる。周辺は住宅街

振り返るとこんな感じ。駅前の規模も大きい

真っ直ぐ行って突き当たりを左に折れるとすぐにかつての連絡船乗り場に到着する。徒歩5分。仁方駅から港までよりは、かなり近い

道中、黒ニャンコと目が合ったので、写真を撮っておいた

連絡船だけでなかった堀江港

かつての堀江港は「海の駅うみてらす」となっている。ただ堀江港については、呉へと向かう船は国鉄の仁堀連絡船だけではなく、同じ呉線でも安芸阿賀駅近くの阿賀港とを結んだ「呉・松山フェリー」が仁堀連絡船の後を追うように1964年に就航を開始。便数も多く(最盛期は1日18往復もあった)所要時間も短い航路にすっかり客を奪われてしまい、国鉄の連絡船は航路としての役割を譲ることとなった

ただし、しまなみ海道の開通と、その後のETC割引の影響もあって同航路も2009年に姿を消す。訪問時は朝の8時台で、海の駅近くでは多くの人が釣り糸を垂らしていた

駅に戻る。貨車駅となった駅舎はもちろん無人駅。ちなみにコロナ禍ではあるが、2021年の1日の乗降者数は仁方駅が856人、堀江駅が300人となっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります