福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~これは貴重なホームからの眺め

道上駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

ICOCA圏外の最初の駅

道上駅に到着。神辺駅から北へ2駅。ICOCAは福山~神辺のわずか3区間のみでしか利用できないので圏外となっている。ただ福塩南線の各駅は1日の利用者が千人を超える駅が14駅中7駅もあり(福山のぞく)、これは2021年とコロナ禍での数字なので、その後は増えている可能性が高い。前記事で述べたように2007年に神辺までがIC乗車対応となってから17年もエリアが広がっていないのが不思議なぐらいだ。IC非対応ということでワンマン電車での運行の際は運転士さんの仕事も増える。道上駅の1日の利用者も1088人で私の訪問時は朝の9時だったが、後に福山方面への電車に乗ろうとするとホームには多くの人が立っていた

当駅は単式ホーム。写真にあるホーム柵と駐輪場の間のスペースは貨物ヤード跡のようである

駅舎といえるものはなく、待合所があるのみ。備後本庄と横尾はICOCA導入で形が変わったが、これが福塩南線の標準形である。国鉄時代、早々に無人化されているので、かつての駅舎についての情報は分からなかった。道路とホームの高低はあまりなく、短いスロープから直接ホームに入る

こちらが駅の全景。踏切の傍らに狭い駅前+ホームという私鉄駅のような風情が残る

元々は道上村

読みは「みちのうえ」。「の」が入るのがポイントで意外と難読。開業は福塩南線の多くの駅と同様に1914年(大正3)と古い。現在は福山市だが、平成の大合併までは神辺町。さらにさかのぼると駅の設置時は道上村だった。1954年(昭和29)に神辺町となっている

周辺には住宅街が広がっていて、駅の所在地は「福山市神辺町字道上」だが、少なくとも「村」の雰囲気はない。1日の利用者が千人を超えるのも納得できる

ビックリの発見に心躍る

各駅訪問のため、ここで福山行きの列車で折り返す。ホームに人も増えてきたので、私もそろそろ…とホームに戻ってぼんやりしていると

先ほどの踏切方面で何やら発見

こ、これは…

「国鉄旅行連絡所」の文字が残っている

国鉄旅行といえば

芸備線の市岡駅で看板がはがされていたことに衝撃を受けたことを記事にした。時系列的には、ここ道上駅が1月、市岡駅が4月なので道上駅が先なので、道後山駅(芸備線)、市岡駅に次ぐ3駅目の「国鉄旅行」の文字発見に大いに心躍り、3カ月後に市岡でガッカリすることになる(道後山の現状は不明)。しかし市岡駅の記事でも述べたように国鉄旅行の連絡所が何をする所なのかは国鉄を20代前半まで利用した私にも分からない。ただ現在は閉店しているこの駅前店舗では一時きっぷの委託販売をしていたようだ

道後山駅の訪問(乗降)は難易度が高いが、道上駅は福山から20分で行けて昼間でも電車の本数は1時間に1本は確保されているので、いつまで残るのか分からない貴重な看板を見に行ってほしい。もっとも看板を近くで撮影しようとすると、明らかに私有地の中となるので撮影はホームからということだけは厳守である

それが「思いやりの駅」にふさわしい行動だと思う

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~利用者数にホーム幅が追いつかず増設

横尾駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

あえて混雑時を狙った結果

横尾駅で下車。ご覧の通り高校生の通学時間と重なり、ホームはあふれんばかり。電車内も一斉にガラガラになってしまった。写真を見れば分かるが、ホームの片側には柵があり、その向こうにも電車が停まっている。これは福山行きの電車で福塩線は全線が単線のため、列車交換可能駅の当駅では同時刻の列車到着が見られる

もちろんすれ違いを行った両方の電車に生徒さんは乗っていて電車が去った後も改札方面へと向かう人の波は終わらない

ようやく波が終わろうとしている時の跨線橋からの様子。ホーム構造は変則2面2線で右側のホームは島式としても使えそうだが、前述した通り柵があって使えない。というか、あまりにも不自然な形である。どう見ても島式1面2線構造に後から駅舎側にホームを新設したとしか思えない

その証拠に

柵の向こうに福山方面への乗車口が今も残っている。柵があって間違うこともないからか、消されていない。今回は混雑ぶりを見るため、あえてこの時間帯を狙ってみた

IC乗車は当駅のため?

横尾駅は1914年(大正3)に福塩南線の前身となる両備軽便鉄道が開業した際に設置された。現在は福山市郊外の住宅地となっていて利用者は多く、2021年の1日の利用者(乗降客)は1538人。福塩線では神辺駅、府中駅に次ぐ第3位(福山駅のぞく)。それを支えるのが高校野球の強豪校としても知られる盈進中学高等学校への通学利用

駅から見ると山の上に学校がある形となっている。学校のHPによると徒歩15分。利用者数は第3位と記したが、井原鉄道との乗換駅である神辺が2068人で、やや突き抜けているものの府中は1544人で横尾とは6人しか変わらない。コロナ禍で大きな影響を受けていたのが学校生活だということを考えると再び逆転している可能性が高い

前記事の備後本庄駅の紹介でレールがはがされ棒状化されたホームを紹介したが、それは列車交換の設備を横尾へ移動させたためである(正式には復活)。通学時に多くの利用があって、どうせ長めの停車を強いられるのなら、すれ違いの駅にしようという考えに基づくものとも思われるが、単式ホーム幅のまま島式ホームにした結果、人の多さでホームが狭すぎ危険な状態となったため、新たにホームが新設された

福塩線では福山~神辺がIC乗車可能区間となっているが、対象となる駅は備後本庄、横尾、神辺のわずか3駅のみ。利用者の多い駅を対象にしたとも言えるが、同時刻に集まる生徒さんを一斉にさばくための措置でもあるようだ。この区間がIC乗車可能になったのは2007年のことだが、それ以降17年が経ってもICエリアは広がっていない

簡素な駅舎からの車窓に注目

駅舎は簡素なものである。元々あった開業時からの駅舎はJR移管後に解体されて待合所のみの駅となったが、後に備後本庄と同じく少し駅舎ぽく改良された

こちらもJR西日本の駅でよく見かける簡易式の自動改札機を設置するにあたって自然から改札機を守るためのものだろう

さて前記事で横尾~福山で線路の付け替えが行われ、現在の線形になった話をしたが、そのため横尾~備後本庄は福塩南線では最長の4・3キロもある。2位が横尾~神辺の2・3キロなので、かなり長い。線路を市街地から川沿いにしたための現象だが、比較的住宅街を走る福塩南線で車窓が楽しめる区間なので乗車の際は、ぜひ注目してほしい

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~化粧直しもされた国鉄時代からの駅名標があまりにも有名

備後本庄駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

逆向き発車に驚くかも

乗車列車は井原鉄道のアート列車だが、私は1駅目の備後本庄で下車した

初めて福山から福塩線に乗ると自分のイメージした方向とは逆に発車するので驚くかもしれないが、それもそのはずで福山を離れた線路はグルリと迂回するかのように進んでいく

福山を離れると間もなく備後本庄に到着するが、その後は芦田川に沿うように北上し、横尾駅へと至る。実に不自然な線路の進み方となっているが、これは開業してしばらく経過してから線路の付け替えが行われたため

福塩南線の福山~府中は両備鉄道という私鉄が軽便鉄道として敷設したもの。開業は1914年(大正3)なので110年もの時を刻んでいる。業績は好調だったようで、昭和の声を聞いた1927年(昭和2)には同社の手により電化されている

その後、国有化して福山と三次をつなげようということになり1933年に国有化。現在の塩町から府中を目指して南下しながら部分開業していったが、すでにあった福塩南線は線路幅762ミリのナローゲージで、そのままでいいはずがない。国鉄と同じ1067ミリへと改軌される。しかしその際に元の線形が問題となった。地図を見れば一目瞭然だが、以前は横尾駅から現在は国道313号となったルートで福山を目指し、市街地に入ったらグイッと西向きに進んで現在の福山駅の北あたりで南下。福山城の堀を埋めて両備福山という始終着の駅が設けられていた

ただこれはあくまで小回りの効くナローゲージならではの線形で、1067ミリの車両は対応できないということとなり現在のルートが新たに敷設された。1935年のことだ。両備福山は廃止され、福塩線は既存の福山駅に入居。しばらく福山~横尾に駅は設けられなかったが、戦時色の強くなった1940年に備後本庄駅が新設開業した。福塩南線の他駅はすべて大正生まれで、当駅が唯一の昭和生まれである

片方だけ残るホームと線路

駅舎は簡素な造りのもの。開業時からの木造駅舎は1990年代に解体され待合所のみとホームのみの駅となったが、ICOCA導入の2007年に入口が設けられて駅舎ぼくなった

対面式だったホームは片方の線路がはがされ廃ホームのみが残るが、ここには貴重なものが残されている

国鉄時代の駅名標。独特の字体で鉄道ファンには有名である。行ったことはないが駅名標の存在は知っているという人も多いのではないだろうか。しかも歳月を重ねると塗装がはがれて読めなくなっていくものだが、明らかに化粧直しの「更新」が行われている。貴重さが認められているということだろう。福塩南線というのは、なかなか興味深い一面を持っていて、線路がはがされ棒状ホームになった駅があると思うと、その一方で利用者の増加対策で新たにホームができた駅もある。また国鉄時代の旧駅名標が残る駅は他にもあるのだが、こちらはあまり話題になっていない

そんな福塩南線を進んでいきます

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~南線の時刻表は確認せずとも

福山駅始発の井原鉄道はアート列車だった

※訪問は2024年1月10日

スタートは1区間のみ運行の電車

年明け早々に呉線の全駅訪問を終えて三原に宿泊

朝のまだ暗い三原駅-と言っても、真冬の西国の朝は遅めですでに7時を回っている

7時22分三原始発の糸原行きという1区間のみ運行の電車に乗車。乗ったら3分で終点となってしまうが、糸崎には多数の留置線と乗務員のための列車区があるため、この運用はかなり多い。糸崎始発の岡山方面行きにすぐ乗り継ぎできるようになっている。ちなみにこの後すぐ出るのは同じく三原始発だが相生行き。こちらは通勤通学のラッシュを挟んで3時間もの電車旅を楽しめるというか、修行ができる18きっぱー向けの乗り物である

その青春18きっぷは本日が最終日。いつも最後の方でバタバタと使い切ることを繰り返しているが、最後は福塩南線の全駅訪問を行って帰宅の予定である

福塩南線とは

まず最初に触れると「福塩南線」という路線はない。戦前には正式路線としての名称があったが、福山と塩町(ともに広島県)の78キロを結ぶ福塩線が正式な路線名。ただ電化と非電化、本数、駅間距離そして何より利用者があまりに異なりすぎて福山~府中23キロの戦前の名称が今も通称として使われている。簡単言うと私鉄に源流を持ち電化されている福塩南線と国鉄が敷設した非電化の福塩北線という構図。鉄オタ界隈では府中以北の福塩北線55キロの方が人気が高く、かくいう私も福塩南線は過去何度も利用しながら、いつでも行けるだろうと先送りを繰り返し、降りた途中駅はわずか。せっかくここまで来たのだから、今日は全駅訪問を目指すことにした。といっても朝から動けば大丈夫だろうと正直な話、時刻表もロクに見ていない。23キロの間には14もの駅があり(福山のぞく)、10時ごろから1時間に1本の運行になってしまうが、朝からの雨が気になるものの、まず問題ないだろう。その理由は今後述べていく

ただ14駅といっても過去に複数訪れたことのある

神辺駅

新市駅

府中駅は今回はパスすることにした。ということで残る11駅なので、さらに負担は減る。もっともこれも今後の記事内で述べていくことになるが、思いつきのように各駅訪問ができる福塩南線に対し、福塩北線の各駅訪問には「綿密な計画」と「根性」が必要である

今冬の18きっぷ最初で最後の気動車

福山駅のホームで待っていたのは井原鉄道直通の列車。井原鉄道は神辺からの第三セクターだが、1日3往復が福塩線乗り入れで運行されている。午前中の乗り入れ列車はこの1本のみ。偶然ながら貴重な1本に乗れたことになる。今冬の18きっぷ利用は外房線×2、東海道本線、呉線で使用。福塩南線も電化路線なので電車のみの利用となるのかと思っていたら、最初で最後の気動車に乗車できることになった

さらに幸運なことに乗車列車は2両編成で先頭部分が

アート列車だった。井原鉄道HPでアート列車の運行時刻が公開されていて連日福山までやって来るものではないらしいので超幸運

切手をコンセプトにしたもので、これでは車窓が見えないのでは、と思ってしまうが現実にはそんなことはない。また内装も素晴らしいので、ぜひ味わってほしいのだが、いかんせん車両はほぼ女子高校生専用のようになっていて、これでは写真は撮れない(笑)。内装も外装も井原鉄道HPでパノラマ的に見ることができる。何よりぜひ乗車してほしい

ということで、かなり得した気分になって福山を出発である

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博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(後編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

80段の階段を利用

階段の途中には殺風景さを避けるため、絵画などが飾られている。その数80段。天空の駅として知られた三江線の宇都井駅(島根県)がバリアフリーなしの116段だったので、同様の80段もかなりの高さだと言える

階段を降りきると券売機はここにあり、ホーム改札部分と同様に時刻表が設置されている。待つにはそれほど困らない本数はあるが、昇りきった後にしばらく電車が来ない絶望感を味わうのを防ぐ意味でも、階段の上下に時刻表を置くのは良いことだと思う

見上げるとこんな感じ。まず高台への階段を昇ると券売機の場所に到達して、そこからはビルの階段を昇る形でホームへと上がる

前掲は裏側から見た方が分かりやすい

駅前には土俵?

駅前には国道201号が走り「山手」の交差点がある。朝の時間帯なので営業については分からなかったが、民家は少ない。公民館があり

これはおそらく土俵だろう。最近は見る機会が少なくなったが、小学校や公共施設には土俵が置かれていたものだ

駅周辺の地図があり、こちらを見ても山中の駅だということが分かる

篠栗線の歴史に起因

2022年の駅利用者は「データなし」となっている。公表されているコロナ禍前のものが約100人なので現在はさらに少なくなっていると想像できるが、電化されていて本数も多く、IC乗車もできる路線になぜこのような天空の駅ができたのかについては篠栗線の歴史をひもとく必要がある

篠栗線の歴史は古く、開業は1904年の明治37年で今年で120歳を迎えた。なぜこのような長い歴史を持つかと石炭輸送のためである。元々は同じく炭鉱で栄えた飯塚への短絡線として計画された。ただし開業時は吉塚から篠栗まで。なぜかというと篠栗から飯塚(桂川)方面には交通の難所である八木山峠があったためだ

鉄道図でなく道路図で示すと分かりやすい。現在は筑前山手駅ホームから見える八木山バイパスの一本道だが、筑前山手駅前を通る旧道を見るとクネクネが連続するつづら折りとなっている。道路でこれなので鉄道工事となると、さらに難所で筑前山手駅を含む篠栗~桂川の開業は1968年(昭和43)。短絡線としての計画から60年以上が経過し、石炭産業は曲がり角を迎えていた。全通から20年も経たない国鉄時代に篠栗線の貨物輸送は廃止される

転機が訪れたのはJR移管以降。博多への通勤通学圏として注目されるようになり、博多~吉塚に独立した線路が敷かれたことで、すべての列車が博多まで直通。篠栗までの間に3つもの新駅が設置され、やがて電化。沿線はマンションが建ち並ぶ住宅街となった。新駅設置で駅間が短いにもかかわらず、篠栗までの各駅の利用者はいずれも1000~4000人である。飯塚の事実上の中心駅である新飯塚から博多までは快速で50分で結ばれている

電化時には利用者増に備えるため、各駅で列車交換可能な構造への改良工事が行われたが、唯一そうならなかったのが、構造的に無理な筑前山手駅だった

駅近くには篠栗四国八十八箇所の第五十二番札所がある。山手地区には6つの札所があるようだ

ホームからの階段に篠栗町立篠栗小学校萩尾分校の紹介もあった。当駅からも車で10分かかる分校は、同校のHPによると開設は1883年(明治16)で現在の児童数は10人だという。過去の学校日記も公開されていてホームでの電車待ちの間、楽しく読んでしまった

トンネルから出てくる電車を待つ。わずか3キロしか離れていない、お隣の篠栗駅の利用者は4000人を超える。これからの盛夏に80段の大変かもしれないが、アクセス容易なパノラマ駅は、旅のお供にぜひ加えてほしい

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博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(前編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

「山手」のイメージとは

「山手」という地名から何をイメージするだろうか。鉄オタ的感覚は別として一般的に思い浮かぶのは高台にある住宅街だろう。高級住宅街に代表されるようなかなり古い地名もあるし、新たに造成されたニュータウンのような場所もある

鉄道的には山手線(やまのてせん)を知らない人は日本中で探しても、かなり少数派だろう。こちらは大都会を支える東京の基幹路線となっている。駅名を見ると有名度は地域によって異なるかもしれないが「山手」(根岸線)、「松井山手」(片町線)、「甲南山手」(東海道本線)と、いずれも住宅街の駅。共通して言えるのは戦後にできた新しい駅だということ

という認識のもと、今回降り立ったのは福岡県の篠栗線にある筑前山手駅である。開業は1968年(昭和43)と、こちらも戦後生まれの駅という共通項がある

先に駅の運賃表を見てみよう

博多から7駅の篠栗線の駅。篠栗線は福岡の最中心部である博多から1駅の吉塚から分岐する路線だが、筑前山手を発着する電車はすべて博多まで直通する。所要時間は25分、運賃380円とアクセスも良い

篠栗線には快速が走っていて当駅は通過するが、それでも全く困らない本数は確保されている

待っていたのは眺めの良すぎる棒状駅

ということで到着。見て分かる通り棒状ホームだ。この日は博多とは逆側からの訪問となったので電車は博多行き。これだけで雰囲気は分かりそうなものだが、電車が過ぎ去った後のホームからの景色は

山と高規格の自動車専用道が見えるのみ。逆側を見ると

山あいののどかな風景を見下ろすことができる

横浜の山手駅は一度しか訪れたことはないが、神戸の甲南山手駅はご近所だし、京都府の松井山手駅は仕事の関係で何度も訪れたことがある。いずれにせよ、この3駅とは随分と異なるようだ。少なくとも住宅街ではない

写真で分かる通り、ホームはかなり高いところにある。まずは下まで行かなければならない

ホームの真ん中あたりに「改札」があるが、ICリーダーと運賃表、時刻表があるだけの無人駅である。エスカレーターやエレベーターといったバリアフリーはないようだ

かなりの段数になりそうだが、ウサギさんに見送られて階段を降りていくことにする。といっても必ずまた昇ってこなければならないのだけど

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師走の外房線各駅訪問~千葉市内に戻って終了 早くも発表された「秋」のダイヤ改正

鎌取駅の駅名標

※訪問は2024年12月14日

3駅まとめて紹介

鵜原から上総一ノ宮で乗り換え、大網を越え

土気駅まで戻ってきた

ここから千葉市に入り、1日の利用者が万単位の駅が続くので3駅まとめて紹介したい

そして誉田駅

こうして見ると「とけ」「ほんだ」と意外と難読駅であることに気付く

そして鎌取駅

過去に大網と本千葉は訪問済みなので、外房線は全駅完了となった

難読とした土気、誉田(開業時は野田)は1896年の房総鉄道が蘇我~大網で開業した時からの明治29年生まれなので、歴史的には外房線の原点でもある。駅ができた時は、それぞれ誉田村、土気本郷町だったので周辺の景色が今とはまるで異なるものだったことは想像に難くない。いずれも千葉市となったのは戦後10年、20年が経過してから

鎌取駅については戦後の1952年(昭和27)の開業だが、宅地開発も進み、今では1日の利用者が3万人を超える外房線では千葉、蘇我に次ぐ第3位の駅となっているので、単独駅としては1位の駅となった

ひらがなの駅名標が目を引く。当駅は島式の1面2線構造で朝のラッシュ時は人があふれかえって危ないと、当駅停車の本数を増やすことになったが、折り返し可能な構造ではないので隣の誉田折り返しの電車が登場している。また土気には東京方面への通勤用として朝夕の一部特急が停車するほか、誉田では列車の増結や切り離し作業が行われる

早々に秋のダイヤ改正を予告

外房線、内房線沿線から東京へと直通する朝の通勤快速廃止が発表されたのは私が外房線の各駅訪問を終えた直後。途端に県知事をはじめ。沿線各自治体の首長から猛烈な反発が起きた。全国ニュースでも取り上げられるほどで、結局は朝の快速を2本復活させることになった。線路や駅には容量があり、一度引いたスジを改めて引き直すのは容易ではないので、いったん発表したものを引っ込めて引き直すのは異例のこと

それでも反発は収まらないため、JR東日本では5月30日に9月1日からのダイヤ改正を改めて発表。それによると朝と夜に内房線、外房線に直通する普通4本を快速に変更するという。内房線、外房線それぞれ2本ずつの変更で、朝の始発駅は内房線は上総湊、外房線は上総一ノ宮である。3月以前の勝浦からの直通復活は実現しなかったが、自治体の要望を受け入れ、早々に「再々改正」に応じたことになる。ただし、これでもまだ火種は残っている状態で沿線からは不満の声があがる。「首都圏」が拡大しすぎて通勤通学が遠距離になった反面、コロナ禍で鉄道利用者が一時的に減少したことのひずみだともいえる

千葉から100キロに満たない外房線。1年前の内房線と合わせ、房総半島の各駅を回ってみた。当然ながら千葉から離れていくにつれ、幹線ではあるものの、ローカル線感が強くなっていく感覚は東京から1時間半で味わえるのは、なかなか貴重だ。また京葉線のダイヤを巡る沿線自治体の反発とは逆に外房線の各駅もバスとの競合は避けられなくなっている。安房小湊駅の記事で、小湊鉄道の目的地だったにもかかわらず、同社のバスはずっとやって来なかったと記したが、2013年に駅へと乗り入れたバスは東京行きの長距離バスである

その一方で古典的な木造駅舎も貴重な景色として残り、地元の方々に大切に使われている場面に出会える。また行川アイランドのような別の歴史にも触れられる。東京からは十分に日帰り圏内なので、ぜひ興味がわく駅や地域があれば、訪れてほしい路線である

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師走の外房線各駅訪問~郵便局と一体化して姿を変える文人の愛した理想郷

鵜原駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

事実上最後の駅訪問

鵜原駅に到着。これが大網以南で最後の訪問となる。大網から千葉にかけては首都圏ダイヤのようなものなので、事実上2日間の旅はここで終わりである

1面2線の島式ホームにログハウス風の待合室がある

両隣の勝浦、上総興津は特急も停車する駅だが、当駅は普通のみの停車。周辺は森に囲まれたようになっていて一見すると、なぜここに駅が?となりそうだが、駅の開業は1927年(昭和2)。勝浦から上総興津まで延伸された際に同時設置となった。元々は鵜原村だったが、駅の開業時にはすでに興津町となっていた。いずれにせよ、最初から駅が設置される予定だった

多くの文化人に愛された理想郷

駅の設置理由は駅前の地図を見れば分かる。駅そのものは山中の谷間のような場所にあるが、駅の設置時にはすでに観光名所だった

中でも有名なのは鵜原理想郷で、入口までは徒歩10分ほどでたどり着ける。荒波に浸食されたリアス式海岸の美しさは多くの文化人を魅了し、理想の別荘地として開発する計画ができたことで理想郷の名前が付いたという。勝浦市のHPによると与謝野晶子は1936年の4~5月に当地に滞在して76もの歌を詠んだ

私と同じ電車で降りた5人組の外国人旅行者グループはスマホアプリ片手にスイスイと歩いていった。スペイン語のグループのようだったが、東京から1時間半以上もかかる普通のみしか停車しない駅からの観光地を外国の方が訪れる時代だということを実感する。どのように紹介され、どのようにオススメされているのだろう

無骨ながらも味わいのある駅舎は今のうち

駅舎は無骨なコンクリート製。昭和2年から、この姿ではないと思うが、いつから現在のものになったのかは分からなかった。形具合やさび具合から見ると国鉄時代にはすでに現駅舎となったと思われる

無人駅でICリーダーと乗車証明書発券機があるだけだが、窓口があった痕跡はある。証明書発券機が丁寧に格納された形になっているのはなかなか見かけない

こちらの看板は最近のものだと思われるが、こちらの車両とも房総半島では見られなくなる季節が迫っているのかもしれない

そんな味わいのある駅舎だが、間もなくお別れである

今年の2月に日本郵便とJR東日本が「鵜原駅で郵便局窓口業務と駅窓口業務の一体運営」を発表した。駅舎を郵便局として郵便局が駅の窓口業務も行うというもの

そこで思い浮かぶのはこちらである

ちょうど1年前に訪れた内房線の江見駅。この形式になるようだ

現在の駅り隣には元々郵便局があり

ローカル線駅の近所にある郵便局は、いつも撮るようにしているのだが、郵便局ごと駅舎内に引っ越しするのだろう。新駅舎は2025年夏と発表されている

「ようこそ」と「またのお越しをお待ちしています」の看板が残るのかどうかは分からないが、現在の駅舎を訪問するなら今のうちだということだけは間違いない

折り返しの列車を待っていると到着時とは別の外国人旅行者グループが駅にやってきた。こちらは英語である。訪日する方には有名スポットとなっているようだ。来年の夏に新駅舎が誕生すると皆さん、驚き、喜ばれるのだろうか

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師走の外房線各駅訪問~童謡で歌われたラクダが駅名板に光るリゾート駅

御宿駅の駅名標

※訪問は2024年12月14日

料理店で驚いたこと

御宿駅に到着。リゾート地として有名だが、なじみのない地域の方にとっては難読かもしれない。写真の通り「おんじゅく」と読む

話は当駅訪問から数ヶ月が経った年明け以降のことになる

かねてよりなじみの料理店。40歳ぐらいの店主さんは千葉県出身。といっても柏の方になるので当地からはかなり離れている。外房線をくまなく回ったという話をしたら、東京での修行時代は勤務店での仕事が終わったら仲間と深夜のドライブで当地付近まで来て朝方まで過ごした後、再び都内へと戻り、ほとんど寝ずに厨房にいたという思い出話となった。当然「おんじゅく」という読みも知っている

そこで「あそこは『月の沙漠』の歌ができたところ」と言うと「何ですか?それ?」

「えっ!」となって「〽つきのさばくをは~る~ばると~」と誰もが知るであろう童謡の冒頭を歌ってみると「いやぁ、知りません」。店主さんより若い奥さんも首をひねるばかりである。私もこの歌をどこで覚えたのか既に定かではないが、近ごろは教えたり流れたりすることはないのか、とちょっとショックを受けた

すべての特急が停車するリゾート駅

という横道の話題から本筋に戻ると

御宿の駅舎である。1913年(大正2)に大原~勝浦が延伸された際に開業した。現在の駅舎は開業時からの駅舎を基に2009年に大幅リニューアルされたもの

所在地は夷隅郡御宿町。古来からの海水浴のほかサーフィンなどのリゾート地として観光地として知られ、特急「わかしお」も全列車が停車する

残念ながらみどりの窓口は2年前に営業を終えているが

さすがリゾート地の駅とあって駅舎内の待合室はエアコン完備で快適だ。夏場はもちろん、冬場もありがたい

「砂漠」ではなく「沙漠」

話を童謡に戻そう

駅名板にはラクダと月が描かれている。初めて見ると何のことだか分からない。これは童謡「月の沙漠」のモチーフが御宿海岸にあるため

作詞した画家、詩人の加藤まさをが若い頃に結核の療養のため当地を訪れていて御宿海岸が歌詞のモチーフになったからだ

海岸までは徒歩でも十分な距離。ちなみに一般的には「砂漠」と書くが、歌の題名は「沙漠」である

平日ではあったが、当駅付近ではお昼に困らない

海産物は昨日もたっぷりいただいたので、ここはソースたっぷりのハンバーグ定食と生を一杯。天候に恵まれた穏やかな昼下がりだった

御宿の地名は鉢の木伝承で有名な執権北条時頼が当地を訪れた際、海岸の美しい光景に見とれて当地で宿をとった際に「御宿(みやど)した」と一句読んだことが由来とされる

御宿は古くから海女さんでも知られ

ホームでは海女さんが列車を見守る

「月の沙漠」については少なくとも一番はそらで歌えるので、かなりの回数を聞いて自分の中にすり込まれているようだ

ただここまで偉そうに書いてきたが、つい最近まで、この歌は海外の歌を和訳したものだと完全に思い込んでいたのも事実。だから駅名板のラクダを見た時はちょっと心が躍った

ホームは島式の1面2線。リゾート系の施設も見える。鉄オタ的訪問だけでなく周辺観光も十分に楽しめる駅である

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師走の外房線各駅訪問~目標半ばとなった房総横断列車と、その思い出

大原駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

海と海を結びたい願望

大原駅に到着。外房線の歴史を語る上で絶対に欠かせない駅である

外房線の原型は房総鉄道によって造られた。明治期に蘇我から伸びてきた線路は大網までが、まず敷設され、逆側の千葉ともつながったのが1896年(明治29)。翌年に上総一ノ宮(当時は一ノ宮)までが延伸され、1899年に大原までがつながった。大原駅の歴史は19世紀からのものとなる。当時は中魚落村だったが、駅の開業に合わせて大原町が発足。鉄道の終着駅にもなり、勝浦までの延伸に14年もかかったこともあって夷隅(いすみ)地域の中心地の座が強まる

さらに変化があったのは木原線の開業。こちらに関しては前回の安房小湊駅の項で触れた通りだが、木更津と大原を結ぶので「木原線」。木更津側からは久留里線として上総亀山までが開通。大原からは上総中野まで延伸されたが、両者がつながることはなく未成線のまま現在に至る。同じタイミングで五井から安房小湊を目指した小湊鉄道も上総中野で力尽き、木原線と小湊鉄道が国鉄と私鉄で乗り換えの接続を行う形で「決着」となった

海と海を結ぶのは全国各地の夢と願望だった。車という交通手段がほぼない時代、徒歩で最も困難な山越えができれば、人も物流も劇的に変化するはずだと。太平洋と日本海、日本海と瀬戸内海と各地で線路が敷かれ、そして今、各地で苦戦が続く。貨物列車の通行がなくなると、元々人の少ない山中での苦戦は必然でもあった。房総半島は距離が短いことで戦前に単独での縦断はあきらめの決断が下されたようだが、それでも木原線を引き継いだいすみ鉄道とともに順調な旅客数とはいえない

当然だがつながっていた線路

大原駅のホーム柵を挟んで右側が内房線、左側がいすみ鉄道。当然だが、以前は同じ駅だった。木原線については1960年代後半に早々と、首都圏で唯一の「赤字83線」に指定され(関東では茨城県と栃木県にまたがる真岡線があった)、その後に特定地方交通線となり、国鉄としての廃止が決定。JR移管後は1年間の引き継ぎ期間を経て三セクのいすみ鉄道となった

一応、線路そのものは現在もつながっているが実際に使用されることはない

駅舎は独立して並んでいるが

中でつながっていて外に出なくても往来は可能。いすみ鉄道の駅舎内には売店があり、グッズや土産物が並ぶ。私はクリアファイルを購入した

いすみ鉄道とともに

すべての特急が停車する有人駅で、昼間の普通は1時間に1本だが、朝夕のラッシュ時には当駅折り返しの運行もある。JRの改札は開閉式の自動改札機。ただ残念ながら私の訪問時から3カ月後の今年3月にみどりの窓口は営業を終えているはず

駅周辺は大原町の中心地。現在のいすみ市役所は旧大原町役場である。駅舎と逆側の海へ進むとイセエビで有名な大原漁港がある。大原=イセエビにはいすみ鉄道も一役買っていて、2年前まで走って好評だったレストラン列車でイセエビを提供したところ大好評で知名度を上げた

こちらは2011年7月に上総中野駅で小湊鉄道といすみ鉄道を乗り換えた時の写真。この後、大原経由で勝浦へと行き、人生で初めてなめろうを食べた

一時は存続が危ぶまれたいすみ鉄道は数々の企画が好評で息を吹き返した。JRからは経営分離となり「他人」となってはいるが、どちらが欠けてもいけないものである

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