JR

師走の外房線各駅訪問~沿線の発展を物語る戦後生まれのコンクリ駅舎

永田駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

本納から1駅戻る

本納から1駅千葉方面へと戻り永田で下車。本納は茂原市だったが、こちらは大網白里市。漢字4文字の都市として認知度の高い同市の中心駅は大網で、東金線との分岐駅でもあり、千葉方面から来運行運行本数が減少する境目となる駅でもあるが、元々は同市(当時は大網白里町)には大網しか駅はなく、1959年(昭和34)に、もうひとつの駅として永田駅が設けられた

明治期に房総鉄道という会社によって工事が始められ、最終的に千葉から大原までが鉄路で結ばれた後に国鉄となった外房線(当時の名称は房総線)は1929年(昭和4)には全通しているが、全通以降の新駅は少なく5駅しかない(うち1駅の大巌寺は戦前にできてわずか3年で廃止されている)

永田駅の後に開業したのは観光目的の行川アイランドのみなので、周辺人口の増加という必然性で設置された最後の駅となっている。千葉そして東京までの時間と距離、ベッドタウン化を考えると、やや意外でもある

昭和30年代を物語るようなコンクリート駅舎。このころ全国には規模は違えど国鉄の手によって同様の無骨な駅舎がいくつも造られた。建設費用や強度、耐火性を考えると最も効率が良かったのだろう。と同時にそれまでの主力だった木造駅舎は姿を消していく

周辺は住宅街

ホームから、やや低い場所に駅舎がある。構造は2面2線

駅入口から千葉方面ホームへはすぐ入れる。本納駅とは異なり、開閉式の自動改札機はなくIC乗車の場合はカードリーダーにタッチする

無人駅ではないが訪問時は無人の時間帯だった。営業時間を見ると朝夕の通勤通学を避けるようになっている。最も利用者の多い時間帯になぜ?と思われるかもしれないが、JR東日本のHPによると2022年度の当駅の1日あたりの乗車人員は786人で、うち定期利用が612人。利用者数は基本的には、この2倍となる。前記事で取り上げた本納は、もっと利用の多い駅で、1日の乗車は定期利用1093人を含む1402人。本納も、有人となるのは永田とほぼ同様の時間帯だったが、通勤通学帯は、ほとんどの旅客が定期利用者でピッと触れるだけで出入りするので駅員さんの出番はほぼないのである。IC利用時のトラブルについては、おそらく定期利用のもう片方の駅は、終日駅員がいるような、大きな駅である可能性が高いので、そちらで処理してもらおう、という発想だろう

ホームのキロポスト。こちらは駅舎の逆側だが、新興住宅街となっている様子が垣間見える

地図を見ても新しく設けられた駅を中心に住宅街が広がっていることが分かる

先に挙げた利用者数はコロナ禍の影響を受けた数字で、それまでは1日の利用者は1000人を超えていた

跨線橋からの眺め。駅の設置時はまだ非電化単線時代で、利用者も100人に満たなかったという

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師走の外房線各駅訪問~レンガ土台の柱が印象的な木造駅舎は19世紀の開業

本納駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

1年前と同じ電車に乗車

朝6時半の品川駅。こうして見ると、まだ人は少なく感じるが各ホームを結ぶ通路はいっぱいだった

手元には冬の青春18きっぷ。いつもは地方の駅に出かけたタイミングで購入するが、今回はそれに適した旅はなく、神戸市内の駅で購入。それでもやや渋めの駅で買い求めた

6時41分発の総武線快速君津行きに乗車(当時の時刻)。何のことない、1年前に内房線の各駅訪問で乗車した電車と同じ。今回は外房線を目指す。ただグリーン利用を控えたことがやや異なる。なぜかというと蘇我での乗り換えがあるから。蘇我までは約1時間。昨年は終点の君津まで乗り通し、1時間50分の乗車だったためグリーン車に乗ったが、1時間しか利用しないのなら普通車である

蘇我駅でそば&明太子ご飯のセットの朝食。ここから上総一ノ宮方面への列車に乗り換える。ちなみに内房線、外房線そして京葉線と交通の要衝となっている蘇我駅だが、帳簿上の所属は外房線である

いくつもの顔を持つ沿線

外房線は千葉を発して安房鴨川までの約93キロを結ぶ路線。内房線が房総半島を東京湾沿いに走るのに対し、太平洋側を走る。千葉から太平洋までの距離があるため、沿線はさまざまな顔を持つ。内房線が千葉から見て君津までと、それ以遠に二分されるのに対し、外房線は東金線との分岐になる大網までと東京からの直通電車の終点となる上総一ノ宮と、それ以遠で本数が異なり、大網~上総一ノ宮でも途中の茂原止まりがあるため本数がどんどん減っていき、茂原を越えると30分に1本、上総一ノ宮からは1時間に1本が昼間の標準ダイヤとなっている。要は千葉から離れていくと徐々に本数が減っていく運行だ

ということで最初に下車したのは本納駅

外房線は千葉から東に進み、大網から南下して太平洋沿いを進むが、大網から二つ目の駅。現在は茂原市だが、以前は本納町だった。平成の大合併ではなく1972年(昭和47)に茂原市となった

本納駅の開業は1897年(明治30)で19世紀からの歴史を有する。当時は房総鉄道の駅だった

木造駅舎とホーローの案内板

木造駅舎を有する。千葉から大網までは近代的な橋上駅舎が並ぶ外房線だが、大網を過ぎると駅舎の雰囲気が急に変わる。開業時からの駅舎かどうかは判然としないが、かなりの歴史がある駅舎であることは一目瞭然

到着は8時半ごろで既に高校生の通学時間帯は終わっていたが、所要時間約30分の千葉方面への通勤の方で千葉行きは、まだにぎわっていた。上総一ノ宮までは東京からの快速がやって来るが、大網~上総一ノ宮は総武本線経由の快速は通過するが、京葉線経由の快速は停車という駅が複数あって、本納もそのひとつ

開閉式の自動改札機があるが、訪問時は無人。JR東日本のHPによると窓口の営業時間は9時20分~正午と13時~16時となっている。また同HPによると1日の乗車人員は定期利用1093人を含む1402人なので、1日の利用者数は単純計算で約2800人ということになる

ダイヤは東京、千葉方面への通勤通学に特化されていて朝の7時台は6本もの東京、千葉方面列車が運行されているのに対し、上総一ノ宮へは始発から、ずっと1時間に2本態勢。主に昼間に運行される京葉線経由の快速があるため、むしろ昼間の方が停車列車が増える

入口の柱や建物の土台がレンガであることが特徴的。なかなか見ない構造で、これを見るだけでも一見の価値がある

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延岡~宗太郎の5駅完了~その4(終) 駅名板の芸術点が高すぎた

北延岡駅の鳥居式駅名標

※訪問は2024年4月23日

高校生の姿はすでになく

時間はあまり与えられていないが、さっそく駅の観察に入る

かなり怪しくなった駅名標。初めてここに連れて来られたら(そんなケースはほぼないと思うが)両隣の駅がどこか分からなくなっている。ただしJR九州おなじみのイラスト入り駅名標にはアユが描かれていることは分かる。ちなみに前訪問駅となった北川のイラストはすっかり姿を消しているが、以前の写真を見るとホタルが描かれているようだ。そろそろ塗り直しをとも思うが、1・5往復の停車では意味をなさないのだろう。ただしサムネに使用した鳥居式駅名標はくっきりと文字が読める

延岡~佐伯間の各駅と同様、すれ違い可能な構造。ただし駅舎は撤去されている。お手洗いもないので冷え込む季節などでは要注意

開業は1953年(昭和28)で、1・5往復区間の5駅では最も新しい。ただ駅の開設理由については調べてみたが分からなかった。いわゆる「よんさんとー」の1968年10月の時刻表を見るとすでに1日6往復の停車となっているが、当時は駅舎もあってもちろん駅員さんもいた。ただ6往復とはいっても、優等列車の通過が12往復もある。まだまだ貨物の輸送は列車が花形だった時代で、貨物列車の通過も含めると線路は飽和状態だったはずで延岡~日向長井の距離が10キロもあることを考えると信号場的な役割があったのかもしれない。ちなみに現在も当駅は9往復もの特急が通過する

こちらは駅前光景。駅舎は平成に入って間もなく解体されたようだ。駐輪場には現役かどうかも釈然としないものも含め、2台の自転車。前記事で延岡学園の高校生は、ここに自転車を留めて通学すると書いたが、写真を撮っている間に高校生の姿はすでになく、通学模様は分からなかった

駅の両側は細い道路でつながっている

駅名板に目が釘付け

恒例となった野ざらし時刻表+運賃表+きっぷ入れのセット

これもまた恒例だが時刻表。同一路線で3駅続く南延岡、延岡、北延岡だが全列車が停車する他の2駅と「待遇差」が顕著すぎる

そんな中、ふと目にとまった駅名板に違和感を感じ近づいてみると

ローマ字の象形文字状態が凄い。目を凝らすと今の文字の下には、ずれていない文字がうっすらと見える。「Station」の部分を見ると元々は普通だったものが年月を経てずれたようにも思えるが、このような駅名板は初めて見た。駅名板の文字に芸術点がつくのなら、かなり高得点となりそうだ

バス停の場所は?

一通り駅周辺を見た後は「脱出」である。駅前は国道が走るが、ここを延岡行きのバスが走っている。北川駅でも触れた路線バスだが、調べたところ駅前にバス停はない。少し歩いたところに「差木野」という停留所があるはず。北延岡駅到着は7時18分でバスの出発は同35分ということになっている

こうして見ると楽勝のような気もするが、地方の路線バスは軽く見てはいけないことは、これまで各地で体験済み。そもそも停留所があるのかどうかも分からないし時刻表が掲げられているかどうかも分からない。今回の場合、地図にはイラストがあるので停留所はあると思われるが、なぜか同名の停留所が微妙な距離で2つ並んでいる

これは早めに行かなければウロウロすることになりかねないと歩を進める。この時間帯は雨はやんでいた

延岡市街がすぐだということで山中の雰囲気はない。2つのおにぎりが並んでいるということは重複区間のようだ。すると右奥にバスが見えるではないか

延岡行きのバスが止まっていた

差木野(さしきの)と読むと初めて知った。時刻表で分かる通り、平日は1日に4本。幸運なことに乗車するバスは当停留所が始発なので、早々にスタンバイしていたようだ。地図で示した停留所2つのうち、手前側が目的の停留所だったが探す手間も省けた。交通ICカードも使えた

佐伯~重岡の各駅訪問の際も見た光景だが、廃校もあってバス通学の小学生がいるようだ。延岡駅までは約15分。小学生とともに1・5往復区間の全駅訪問を終えることとなった

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延岡~宗太郎の5駅完了~その3 ダイヤの微妙な変化に驚く

北延岡駅では高校生2人が下車

※訪問は2024年4月23日

車内で乗車券を発券

北川から5駅の最後の駅となる北延岡へと向かう。朝7時8分発で、延岡行きはこれが初電にして最終なので北延岡で降りてしまうと、その先には行けないのだが事前の調べによるとバスがあるはず。バス停は駅から微妙に離れていて乗り継ぎもたっぷり時間があるわけではないが、ここまで来れば開き直りも通用する。北延岡は駅名から想像できるように延岡のひとつ北にある駅で、線路だと延岡まで4・9キロ。万が一バスに乗れなくても1時間もあれば歩けるし、少し行くと延岡の市街地に入るので徒歩に不安はない。同じ4キロを歩くにしても山中を歩くのと住宅街や商店の多い街を歩くのでは気持ちの面で全く異なる

乗り込むと間もなくして車掌さんが検札に来た。日豊本線の多くの区間は普通はワンマン運転となっているが、延岡~佐伯の特急車両を利用した区間は整理券の発券ができないためか車掌さんが乗務している。また延岡行きについては先頭車両のみを使用するとグリーン車も付いているので車内で自由席グリーン券を発券する。宗太郎以北も含め何度かこの車両に乗車したが、おそらく記念的にグリーン車に乗る人もいる。また確信は持てないが、車両が列車番号を変え、そのまま特急となる場合は引き続き車掌さんが乗ることもあるようだ

「北延岡まで」

と告げる。北川駅で運賃表を見ていたので料金も分かっている。230円を用意して待っていたが、あまりというか、ほとんど発券されない区間なのか「えーと」と、やや時間がかかった。時に鉄オタとは手間をかけてしまう存在である

アレレの日向長井

北川と北延岡の間には日向長井という駅がある。現在の日豊本線が最初に宗太郎越えを目指した時、一時的に終着駅となったが、現在は途中駅で駅舎もないが、こちらは訪問済み

列車交換に伴う3分間の停車時間を借りて一瞬の訪問。これを訪問として良いのか自問するところでもあるが、ダイヤがダイヤだけに許してもらうことにした

今回もこちらの停車を狙ったのかカメラを持った人がドアの前へと移動。皆さん考えてることは同じなんだな、と思いきや、すれ違い列車は既に向かいのホームにいて何か空気が異なる

あれれ?

と感じるや否やすぐにドアが閉まって発車してしまった。昨年の5月と10月に来た時からダイヤが微妙に変わってしまったようだ。ドアに向かった方は大丈夫だったのか心配したが、無事に帰って来られて安心した

とにかく昨年の手段は使えないわけで、その意味では昨年来て良かった

延岡学園の最寄り駅

間もなく5駅目となった北延岡に到着。高校生が2人降りていったが延岡学園の生徒さんだろうか。延岡~北延岡に校舎が見える。夏の甲子園で準優勝したのは、ついこの間と思っていたが調べてみると2013年と11年も前のことだった。多くのプロ野球選手も輩出している

最寄りといえば最寄りだが、日豊本線の本数があまりにも少ないため当駅を利用する生徒さんは少ないようだ。駅前に自転車を留めておいての通学が、わずかながらあると聞く

とにかく駅と近辺散策を手短に終え、バス停に向かうことにする

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延岡~宗太郎の5駅完了~その2 5駅の中で最も規模の大きい周辺を持つ

北川駅の駅名標

※訪問は2024年4月23日

キーワードは「細」

北川駅に到着

位置はこちら。佐伯まで950円もすることで、かなり距離があることが分かる

時刻表はもう「定番」となってしまったが、1日1・5往復。つまり大分県側から列車で朝の7時過ぎに降り立つと、先に行く列車はなく、その時間が「始発にして終電」。折り返し電車も13時間以上後の20時22分なので駅周辺に夜まで過ごすような訪問先がない限り、事実上折り返しはないことになる。私は6時25分着でやって来て7時8分で延岡に戻る

ホームは島式で見て分かるように非常に細い。跨線橋も同様で

こちらは後に列車の到着間際になってのものだが、外に出る跨線橋も細い。大人同士のすれ違いも困難な幅で、上下列車が同時刻に停車したら、ホーム内での乗降も大変そうだが、そのような電車の設定は今はなく、1日の利用者数は近年のデータは発表されていないが、おそらく10人を割り込んでいると思われる(私が利用したのは平日だったが、1・5往復のうち1往復を利用し、私以外の乗降客は1人だった)

旧北川町の代表駅

延岡~宗太郎の各駅は停車列車の本数はさることながら、特急の本数は多く列車交換に伴う運転停車のため、各駅ともすれ違い可能な構造となっていて、比較的ゆったりとした構造となっているが、北川だけは頑張って設置した構造となっている。この区間は大正期の宗太郎越えなった頃からの駅と戦後の駅に区分されるが、市棚と日向長井が戦前から、北川と北延岡が戦後の駅。宗太郎は戦前は信号場で戦後になって駅に昇格した

北川については旧北川村(後に北川町となって現在は延岡市)の中心部に近いということで駅が求められ、1949年(昭和24)に市棚と日向長井の間に設置された経緯があり、このような構造となっている

40分ほど時間があるので中心地方面へと歩を進める

駅を出て川を挟んだ向こうが北川町の中心部

川向こうとは言っても駅を出るとすぐ立派な橋があり中心部へと到達する。地図で分かる通り、徒歩5分

朝もやに包まれ良い風情だ。橋を渡った所に旧北川町役場の延岡市役所北川町総合支所がある。平成の大合併で2007年に延岡市となった

駅舎は消滅

再び駅へと戻る

橋の方から駅を眺めると駅舎があって跨線橋があるように見えるが、近づいてみるとこれは違う。駅を出てその前を通ってからこちらにいるので既に答えは出ているのだが

北川地区の水道を司る水源地の建物のようで鉄条網で厳重に守られている

駅前には立派なお手洗いがあり、市棚駅同様、私は大いに助けられた。しかし建物は2つもあるが駅舎はない。開業時からの駅舎は平成になってから解体されたという

そしてお手洗い前の地面で分かる通り、駅前はアスファルトの部分が少なく

駅から外に出る道路は車の轍が水たまりになっていて一瞬途方にくれそうになったが、水源地の建物の隣に小さな階段があって事なきを得た

川からの朝もやは写真としては優れているが、滞在の40分は小やみになったかと思うと本降りの雨がやってくる状況で結構困った。お手洗いのひさしと隣接する駐輪場で雨宿りさせてもらったが、大いに助かったのは、そそれも含まれている

ホームへ戻る。屋根のある部分はあるが、これぐらい降ると役立たないレベルだ。消滅した駅舎の代わりに跨線橋に駅名標が掲げられている

ホームには石碑らしきものが建っているが文字は読み取れなかった

延岡行きの787特急車両が到着。名残惜しいが北川駅を去ることにする

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延岡~宗太郎の5駅完了~その1 いつもの列車で細いホームに降り立つ

北川駅の駅名標

※訪問は2024年4月23日

夜明け直前の延岡駅から

朝の5時40分。この時間の延岡駅は昨年の10月以来だが、何やらいつもの光景になってしまった。ほぼ日の出の時刻だが、昨日夕刻からの雨がずっと降っていて雨雲に覆われ暗い。あまりにも酷い雨だと予定変更もあるかとも考えたが、少なくとも現在は小雨なので決行である。これぐらいの雨で予定変更していたのでは、ここまで来た意味がない

1日1・5往復の列車しか停車しない延岡~宗太郎の5駅訪問を今回で終わらせるつもりだ

初回が昨年5月9日で

2回目が昨年10月5日

この2回で宗太郎、市棚、日向長井の3駅を訪問。きっぷ売り場の運賃表を見ると

残るは北川と北延岡の2駅。とにかく早朝の1往復と夜20時台の上り(延岡→宗太郎)1本しかないので、すべての駅で乗降のどちらもこなそうとすると早朝からのべ5日間、延岡駅に行かなければならない。どちらかだけにまけてもらって、日向長井は3分間の交換停車中の時間を訪問とさせていただき、残る2駅を訪ねることにする

今回はきっぷを買っての乗車となった。前日に空路宮崎に入り、旅名人きっぷで宮崎県内をウロウロして夕刻までに延岡に到着

前日に宮崎空港駅で発券した2種類のきっぷ「旅名人きっぷ」は昨日1回目を利用して宮崎県内をウロウロした。今日は午前中のうちに大分県に入り「福岡・大分DCきっぷ」を利用するのだが、後者はエリアが大分県内つまり宗太郎以北となっている。大分県側から宗太郎まで来て、宗太郎から再び大分県に戻るのは事実上不可能なのだが、大分県内の駅と決まっているため日豊本線の南限は宗太郎。つまり早朝の部のみは現金乗車しかないのだ。1日に3700円分乗らないと元がとれない旅名人きっぷの1回分の権利をそれだけに利用するのはあまりにももったいない

いつもの列車に乗車

早朝の改札口

そして特急車両を利用した普通の佐伯行きに乗る。「3号車自由席」となっているが、過去にも紹介した通り、客扱いをするのは先頭の4号車のみ

本日の乗車は私を含め3人。一人はおそらく同業者(鉄道ファン)で、もう一人はスーツ姿の女性でビジネス客のようだ。この列車は車掌さんが乗っていて検札を行う。きっぷを提示すると「北川ですね」。料金表の写真で分かる通り、宗太郎までのすべての駅で料金が異なる。女性の方は佐伯で特急に乗り継ぐようだ。乗車したこの列車は、車両そのものは特急「にちりん」の大分行きとなるが、列車種別は普通から特急になるという説明をしていた

北川へは路線バスもある。北延岡、日向長井も通り、北川駅から徒歩5分ほどの熊田という停留所が終点で所要時間は30分ほど。もっとも「バスもある」とはいっても平日は1日3・5往復、週末は2往復である

延岡から15分で北川に到着。細長い島式ホームの駅となっている

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~最後までとっておいた呉駅で締める

呉駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

26番目の駅はやはり

呉線で最後の紹介となる26駅目(三原、海田市をのぞく)

呉に到着。訪問そのものは初めてではなく、90年代の終わりごろ二河球場によく来たので、その度に呉駅で降りていた。ただし駅周辺は大きく景色が変わっていて、特に南側はかつての巨大な貨物ヤード跡が残っていたが、再開発ですっかり姿を消していた

足かけ2年に及ぶ呉線訪問で、何度も当駅を通過したが、最初は車窓の変化に驚いた

観光で訪れる人の多くは、南側へと向かう。駅と直結となるペデストリアンデッキでゆめタウンを経由して大和ミュージアムにそのまま行けるからだ

観光用の駅名標にも、もちろん戦艦「大和」が描かれているし、列車の接近メロディーは「宇宙戦艦ヤマト」である

戦前にコンクリート駅舎

北側の駅舎は私の記憶にあるものだ

現在の駅舎は4代目。JR移管を翌年に控えた1986年(昭和61)に完成した。呉線以外の乗り入れがないにもかかわらず、1903年(明治36)の開業から4代目というのは、かなりの建て替えの多さだが、これは戦争を挟んでいるため。明治生まれの初代はもちろん木造駅舎だったが、20年後の1923年(大正12)には、早くも2代目駅舎となっている。当時としては画期的なコンクリート駅舎で呉以東の三原への工事が決まったこともあり、軍都・呉にふさわしいものを、と建て替えられた。なお呉駅を出てすぐ東側は高架となっているが、これは建設時からのもので、昭和初期の車も少ない地方路線だということを考えると画期的。「踏切が多いと軍需輸送の際、妨げになる」という軍のアピールで高架化された

地方路線とはいっても、終戦時の人口は40万人と呉市は全国でも指折りの人口を誇った都市だった。市内を路面電車が走っていたことからも都市需要が大きかったことが分かる

しかし立派な2代目駅舎は1945年7月の空襲によって全焼。全焼というより壊滅に近いものだったという。それでも軍都への鉄路は重要だということで空襲の直後には仮駅舎が建てられ、終戦間もない同年8月には3代目駅舎建設が始まり、翌年5月には完成している。早すぎる復興だが、これは呉を占拠した連合軍が鉄道を必要としたからで、東京と呉を結ぶ連合軍の専用列車も運行を開始した。連合軍は呉市電の復旧も手助けしている。さんざん壊滅させておいて、即座に復旧に協力したことになる

呉線の思い出

すでにコンビニおにぎりで昼食は終わっているので、駅ビル内のロッテリアで一休み。呉線の中で駅ビルがあって多数のテナントが軒を並べているのは当駅のみである

前記事でも触れたが、路線内でみどりの窓口があるのは新広と呉だけで、特に呉には立派なものがある。ただ営業時間は短く、お昼休みの間はみどりの券売機を利用する旨が(駅員さんは改札に常駐している)。時計を見ると14時15分。営業再開まで45分もあるが、おそらくきっぷの変更か払い戻しだろうか、お年寄り夫妻がきっぷを手に待っていたことだけを報告しておく

ホームは2面3線構造。広と当駅間は、昼間は快速のみの運転(広~呉は各駅停車で呉から快速運転となる)で普通は当駅で始終着となる。2、3番線は広島方面だが、3番線は一部三原方面への列車も出るので番線案内には何も書かれていない

呉線を初めて利用したのは小学生の広島への修学旅行の時だった。今にして思うと新幹線が暫定的に岡山まで延伸されていた絶妙のタイミングだったが、岡山から広島までは呉線経由の急行。「こんな海沿いを通るんだ」と思ったことだけを覚えている

山陽本線の地図を見ると赤穂線、呉線、岩徳線のバイパス的な3路線があり、それぞれの歴史を背負っているが、幹線は呉線のみで他は地方交通線である

かつて東京や大阪からの直通列車が走っていた経緯もあって、山陽本線の三原~海田市の途中下車可能な乗車券を持っている場合は、呉線内の各駅でも途中下車は可能である。ただし三原近辺の駅へ行く場合は海田市経由か三原経由かで運賃は異なる(IC乗車だと必然的に同料金となる)。また矢野駅が広島市内となっているため、該当のきっぷへの注意書きが大きく書かれている。矢野までが330円で広島までが510円なので目立つよう喚起する必要がありそうだ

これで26駅すべての紹介が終わったが、駅の紹介をしている課程で仁方駅が簡易駅舎になってしまったことを知った。1日に900人もが利用する駅としては寂しいニュースだが、かつては長大編成の列車が走っていた呉線の各駅には戦前からの駅にも平成に入ってからの駅にも、歴史と理由があることを知った各駅訪問だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~路線内で最も新しい駅は利用者数第4位

新広駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

広駅とは至近

新広に到着。時刻は13時40分と平日の昼間だったが、ホームが小さいこともあって利用者が多く感じる

開業は2002年で呉線では最も新しい駅。一番若い駅ながら1日の利用者数(2021年)は5628人で路線内4位(三原、海田市をのぞく。以下の路線内も同様)を誇る。1位はもちろん呉で2位は矢野で、ここまでが1万人以上。3位は広で5760人だから、新広と広はほぼ同数といえる

広と新広は極めて近く

なぜかグーグル先生は徒歩ルートだと、駅舎と逆側にある労災病院経由の歩き方ばかりを指南してくるので自動車ルートにしたが、20分もあれば十分歩ける距離。新広~広は線路だと1・3キロしか離れていない。また逆側の安芸阿賀ともわずか1・4キロ。元々近かった広~安芸阿賀の間で、かゆい所に手が届くように設置された形だ

みどりの窓口は呉以外では当駅のみ

みどりの窓口がある。昼間は長時間の休憩がある(実は呉駅も同様)ものの、この2~3年でバタバタとみどりの窓口が営業終了したため、路線内でみどりの窓口があるのは呉と当駅の2駅のみ

そのみどりの窓口も路線内では最も新しく、設置は2017年と、ついこの間のこと

おしゃれな駅舎である。元々は簡易委託駅としてスタートしたが、利用者が増加したため開閉式の自動改札機とみどりの窓口が設置された

利用者が多いのは駅を降りると分かる

駅前ロータリーを行くと広島国際大学の呉キャンパスがあり、高校もある。正面に見えるのは消防署

呉市の支所や図書館も備えた広市民センター。2007年に完成した。先述した労災病院は駅に隣接する形となっていて、駅舎と逆側にあるが、バリアフリーで移動できる

こちらは駅前にあった周辺地図

いろいろな施設が駅付近に集まっているため、利用者が設置時の想定よりはるかに多くなったため、呉市も出資する形で駅の改良が行われた

2016年の呉市の発表によると設置時は2400人だった利用者の想定が3642人となり、駅の利便性を高める整備事業を行うこととなり、JR西日本と協力してホームの拡幅やみどりの窓口を設置し、1億7461万円(予定)を呉市が負担することになった、とある。つまり自動改札機もみどりの窓口も市の出資によるものだ。とはいえ、昨今の状況からみどりの窓口の営業がいつまでも続くとは限らないが

窓口の営業時間帯の問題もあるだろうが、呉線の全駅訪問で私が駅員さんにきっぷを提示したのは、呉、竹原そして当駅の3駅だけだった

狭いスペースに駅が設置されているため、ホームは単式。乗り間違えがないよう、複数の注意書きがある

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~全線開通へ三原への第一歩は30年経ってから

安芸阿賀駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

路面電車が先行

安芸阿賀駅に到着。駅名標で分かる通り、呉のひとつ三原寄り。呉線は海田市から呉までが1903年(明治36)に開業したが、当駅の開業は1935年(昭和10)。1区間の延伸に30年以上かかったことになる。広島と海軍の呉鎮守府を結ぶことが当初の目的だったため、その後の延伸については動きが鈍かった。しかし「東京から直通列車で海軍基地まで行けないのはどういうことか」と論議が高まり、1927年(昭和2)にようやく三原と呉の両方から延伸工事が開始された。三原からは1930年に須波までが開業したのを皮切りに順調に線路が伸び、1932年には竹原までたどり着いたが、呉側からがなかなか進まなかった。呉と安芸阿賀駅の間の休山(やすみやま)トンネルが2・5キロにも及ぶ長大トンネルで難工事だったため。貫通したのは工事開始から6年も経った1933年のことだった

こちらは駅前の地図。呉線の広以西は新駅や復活駅が多く駅間は短いが、呉と安芸阿賀は4・1キロと比較的長いのはこのためだ。呉市の中心部とは休山を挟んだ位置にあり、元は阿賀町だったが、1928年に呉市に編入され、安芸阿賀駅の開業時はすでに呉市となっていた

もっとも呉の中心部と阿賀とは、山を回り込むように走っていた後の呉市電となる路面電車で1927年につながっていた。路面電車が走るほど呉市は大規模な街だったことが分かる

かつては松山行きのフェリーも

現在の橋上駅舎は2006年(平18)から。それまでは開業時からの木造駅舎だったが、構内の南側にあった側線を撤去する形で従来駅舎があった北側だけでなく南口が設けられた

南側は海側。以前紹介した

松山市の堀江駅。仁方駅との連絡船の四国側の駅だったが、この記事でも紹介したように堀江港と阿賀港とは仁堀航路とは別に呉・松山フェリーが開設され、結果的に仁堀連絡船の客を奪うことになった。その呉・松山フェリーも2008年に安芸阿賀駅から車で10分と、かなり遠い場所に乗り場が変更され、翌年に航路廃止となった。新駅舎から間もなくのことだった

開閉式の自動改札機が設置されている

張り紙にもある通り、昨年9月いっぱいでみどりの窓口は営業を終了した。みどりの券売機が設置されている。無人駅ではないが、昼間と夜間は無人駅になるようだ

ホームは2面2線。後から張り付けた広方面の案内が印象的だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~呉線で唯一の特定都区市内に存在する駅

矢野駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

「特定の特例」を生む

坂から1駅広島方面へと進んで矢野に到着。両駅とも快速停車駅(朝の一部広島行きをのぞく)なので移動は楽々である

こちらは駅名標。お隣は山陽本線との分岐駅である海田市。海田市は山陽本線の駅ということになるので、広島から来ると最初の駅となる

駅名標には「広」マーク。これは乗車券のルール上、広島市内の駅であることを示すもの。乗車券には「特例都区市内」という設定があり、201キロを超えるきっぷを買って、その発駅や着駅がこの設定区域に入ると、すべて中心地となる駅からのものとして計算する。大都市で適用され、大都市には駅が多く1駅ごとに発券すると面倒だということで、今回の例だと広島市内にある駅はすべて広島駅発着で計算してしまおうという制度。乗車券は101キロを超えると途中下車できるが(大都市近郊区間内ではできない)、この制度は201キロを超えると適用される。現在は11都市で12の区域(東京は23区と山手線が存在)が指定されている

広島駅に発着が集約されていることで得をすることも損をすることもあるが、今回はきっぷのルールが主目的ではないので、その部分は触れない。ただ201キロを超え「広島市内」と書かれたきっぷを持っていた場合は途中下車ができず、西側から山陽本線を来た場合、海田市で一度降りてしまうと、きっぷは回収され、海田市~矢野の乗車券を別途購入しなければならない。ただ坂までのきっぷだと途中下車は可能となる

矢野は呉線の駅では唯一、広島市内にある駅で当然、広島市内マークが駅名標に付いているわけで、先ほど例に出した海田市にも

広島市内マークが付いているが、海田市駅の所在地は広島市ではなく安芸郡海田町。ちなみに広島寄りの向洋駅も府中町。なぜこのようなことになっているかというと矢野が広島市の飛び地にあるためだ

呉線で2番目に利用者の多い駅

矢野と同じ理由で山陽本線の海田市以東の安芸中野、中野東、瀬野の3駅も飛び地にある広島市内駅となっている。平成の大合併のはるか前、瀬野川町が1973年に広島市となったことで安芸中野、瀬野の2駅が広島市内の駅となった(中野東は広島市となってから開業)。1975年に矢野町も広島市となり、矢野駅も広島市内の駅に。基本的には行政上、広島市にある駅は広島市内駅となるので、そのような扱いとなるが、向洋と海田市を広島市内駅扱いにしないと便宜上、不都合が生じるので安芸中野と同じタイミングで広島市内駅となった

矢野駅は坂駅と同じ1903年(明治36)の開業。呉線の最初の駅のひとつ。当時は矢野村だった。

1日の利用者は1万1924人(2021年)で呉線では2番目に多い。ちなみに呉線内で1万人を超える駅は呉(1万6266人)と当駅だけ

2008年からの橋上駅舎前にはズラリとタクシーが並んでいた。駅舎は矢野の代表産業だった日本髪の添え髪をモチーフにしているという

矢野は天然の良港がある上、海以外の三方を山で囲まれ防御面でも優れているため、古来から時の為政者に重宝され、平安時代末期から街作りが行われ、鎌倉時代末期から戦国時代にかけては幾度も激しい攻防戦が行われた

みどりの窓口は4年前に営業を終え、みどりの券売機にプラスしてオペレーターとの会話機能が付いたみどりの券売機プラスが設置されている。駅員さんは主に昼間の時間帯は不在となるようだ

構内にはセブンイレブンもある。矢野駅到着は12時すぎ。坂そして当駅と昼食を摂る場所はいくらでもあったが

メシよりもダイヤ優先である。いつものパターンでコンビニおにぎりが今日も昼食である

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