JR

青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~列車遅延で降りた駅は出口が分からず

木曽福島駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

木曽山中の要の駅

木曽福島まで戻ってきた。言わずと知れた中央西線の要の駅で木曽観光の拠点で全列車が停車。中津川~塩尻の山中では原則的に特急は当駅のみ停車が多いので特急「しなの」に乗車したことがある人は降りる降りないは別として名前は知っているはず。もちろん管理駅。大きな島式ホームを持つ

駅は1910年(明治43)の開業。駅舎は1981年(昭和56)に現在のものとなった

時刻表がアテにならない

奈良井から中津川行きの電車に乗車したのは11時20分。青空フリーパスは米原まで乗車できるが、さすがに名古屋からは新幹線に乗るつもりだ。だからまだまだ時間はある。せっかくなので長野県内の中央西線の駅をいくつか回ってみようと思ったはいいが、ここで路線内の遅延を知る。特急の遅れらしい

中央西線はほとんどが複線化されているのだが、いくつか単線区間があり、この区間に集中している。幹線でなおかつ東海道本線に何かあった場合のバイパス線の役割を担っていたため、すべて複線化する予定だったが、東海道新幹線の開通によってバイパスとしてのニーズはほとんどなくなった。中央本線から篠ノ井線へ入るためには塩尻駅でスイッチバックする構造になっていたのも、バイパスの役割があったからだが、こちらが解消されているのはご存じの通り。ただでさえ狭い山中を走る中央西線は複線化工事が難しい地域なので、全線複線化の計画は消滅している

上下ともに1時間に1本走る特急の他はいくつかの貨物列車と2時間に1本程度の普通が走るだけなので、単線区間は駅での列車交換(すれ違い)で間に合う。中央西線はすべての駅での列車交換が可能である

ただ遅延発生時の対応はダイヤを多少変更しなければならないので、このように単線と複線が混在する区間は上りと下りがどこでどのように遅延しているか、さっぱりお手上げだ。上りで降りて下りで駅を去る、下りで降りて上りで去るという方法で駅を回っているので、ひとつ間違うと普通しか停まらない駅で長時間ぼんやりすることになる。奈良井駅で待っている間に時刻表とにらめっこしながら、いくつかの駅を回ることを決めたが、あまり効率が良すぎるとタッチの差で逆方向の列車を逃しかねないのでダイヤ通りだと駅で1時間待ちぐらいの駅をチョイスして回ってみることに。そこで最初に選んだのが倉本駅

20分遅れで到着

例によって何の情報も事前にはない。駅は木曽福島から2駅。要は朝に立ち寄った上松のひとつ中津川寄りの駅である

ということで時刻表から20分の遅れで倉本に到着。下車したのは私ともう一人のご婦人。290と書かれたキロポストがあるが、これは旧線(辰野支線)経由の距離と思われる(新線経由だと278キロ)。しばらく手が入っていないことに駅の古さを感じさせる

向かいに木造駅舎が見える。とりあえずはそこまで行こう。ただ跨線橋も構内踏切もない。どうやって行くんだ? 前を行くご婦人だけが頼りである

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~奈良井駅の意外な数字

古い街並みが残る奈良井宿

※訪問は2024年6月22日

出発に要する大変な時間

ホームにまで立派に「奈良井宿」と記されている奈良井駅は有人駅ではあるが、簡易委託駅であり駅員さんはいるが、きっぷ販売に特化されていて改札業務は行わない。つまり乗務員がきっぷや料金の収集にあたるわけだが、当駅を通る電車はほとんどがワンマン運転で、運転士さんが集札業務にあたる

運転士部分のドアのみが出口となり、私もこの時期から8月にかけて何度か当駅を通る電車に乗車したが、下車する人の数が多くて長蛇の列となる。観光客を主体とする駅という性格から途中の無人駅から整理券で乗車して現金で下車というお客さんは少なく、どこかの主要駅からのきっぷを渡すだけだったり、青春18きっぷや青空フリーパスのような見せれば終わりというきっぷを持つ人がいる一方で、塩尻方面から乗車してきた人の中にはSuicaで乗車してきた人もいて(JR東日本区間の中央本線と篠ノ井線の松本まではIC区間)、処理に時間がかかったりする。塩尻から5駅ということもあって首都圏方面からの利用者が多い

出発を待っているだけの私としては駅巡りに影響を与える遅延が気になるところで、数分間の遅れで出発することもしばしば(奈良井~贄川は単線区間で、ここから南はいくつかの単線区間がある)だが、乗っているといつの間にかダイヤが時刻表通りになっているから不思議である

その度に「なんで週末やハイシーズンに特急の臨時停車がないのかな?」と思っていた。手元に9月号の時刻表があるが、9、10月で「しなの」が臨時停車するのは10月12日の1日のみで、これはJR東海が力を入れる「さわやかウォーキング」の実施日。奈良井から古来、中山道の難所だった鳥居峠を経て藪原駅に向かうもので、藪原にも臨時停車があるようだ。少し前までさわやかウォーキングの開催を知らず、本来は閑静な駅に多くの乗下車があって面食らうことが多かったが、最近は時刻表を見てJR東海の同一路線で2カ所の臨時停車があるのを見ると、すぐピンとくるようになった(笑)

なぜ臨時停車がないのか

こちらは駅舎内の様子。訪問時は11時台に上下の電車が同じような時間帯に来ることも重なって、待合室はどんどんお客さんが増えてきた。きっぷ売り場を利用するお客さんも、それなりにいて外国の親子4人連れは京都までのきっぷを買おうとして、翻訳機などを駆使してのきっぷ販売に時間を要したりしていた

窓口の特徴は、かつての手荷物受付が今は荷物一時預かりになっていること。観光案内所も兼ねてはいるが、日本中の古風な駅で見られる手荷物受付跡のほとんどは、今は固く閉ざされているところがほとんど。荷物の性格は異なるが、荷物を渡す機能が今もあるのは貴重な光景だ

と、このように駅としてのにぎわいぶりを記してきたが、データを見て驚くことがある。2022年度の中央西線各駅利用者

JR東海区間の中央西線には39の駅がある。ここから他路線の利用者が多い金山と塩尻を省くと37駅。その中には名古屋市内や名古屋への通勤通学となる大都市区間も含まれるが、奈良井駅の利用者は1日わずか89人で37駅中29位。おそらくこの数字には18きっぷや青空フリーパスのようなフリーきっぷは含まれておらず、途中下車した人も入っていないはずで実際の利用者はもっと多いのだろうが、下から数えた方が圧倒的に多く、奈良井から塩尻方面へ2駅の宿場町である贄川の183人とはダブルスコアである。2022年といえば、まだコロナの影響が残っていて、ならばコロナ禍前の2019年を調べると、確かにやや多いが、それでも140人ほどである。数字だけを見ると特急をわざわざ停車させるほどでもない数字だ

これには周辺人口の側面があって、観光地ではあるものの駅周辺の人口はそれほど多くはなく、通勤通学といった生活駅としての利用が少ないからだと思われる。では駅周辺を埋め尽くす観光客の皆さんはどうやって来たのか、ということにもなるが、実態としては鉄道利用よりも車利用の方が圧倒的に多いという

ぜひ列車利用を

鳥居峠の話が出たが、奈良井宿は中山道の宿場町としては最も標高の高いところにあり、当時の旅人にも貴重な宿場だったという。奈良井駅の標高も高い。すでに触れたが、JR東海では最も高いところにある駅だ

駅にはこんな遊び心も。東京スカイツリーが「武蔵(ムサシ)国」に基づいて634メートルなのは有名な話だが「クサシ」は聞いたことがない。末尾が「34」と同じことから、このような造語にしたのだろうが、さすがに吹き出してしまった

こんな遊び心もある奈良井駅。ぜひ訪れてみてほしい。もちろん電車利用をお願いします

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~奈良井駅の観光資源ぶりに驚く

奈良井駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

現在とは異なる中央東線と西線

徒歩30分で到着の奈良井駅。誰もが知る奈良井宿の最寄りだが、私は初訪問。たまたまなのだが、この日朝6時すぎに名古屋を出てから下車した駅は中津川、上松、木曽平沢の3駅で、いずれもコンクリート駅舎。中央本線の中でJR東海エリアとなる、いわゆる中央西線は古い駅舎が多数残る。いずれもかつての中山道の宿場町の雰囲気を壊さないための配慮もあると思われるが、この日初めて出会う木造駅舎には、やはり感慨がある

駅舎入口の駅名板の横には「M42(1909年)10月」の財産票がある

奈良井駅の開業は1909年の12月1日なので、駅舎は2カ月前に竣工していたのだろう。塩尻から当駅までが開通して約1年間終着駅だった。当時の名称は中央東線。中央本線の各駅を回って初めて知ったことだが、現在の中央東線、中央西線とは位置付けが異なる。現在は塩尻を境に東線、西線となっているが、当時は線路もつながっておらず、塩尻方面からと名古屋方面から延伸されていった順に、それぞれが東線、西線となっていて路線名も中央東線、中央西線が正式名称。全線がつながって正式に中央本線と名付けられた。国鉄でずっと採られていた路線名の付け方で、将来的につながる予定ではあるが、つながらないうちは同一路線名にするわけにはいかず「○○北線」「○○南線」と名付ける。「越美北線」(福井県)のように工事が中断したまま再開されることはなく、恒久的な路線名になってしまうこともある

現在は塩尻で運行が分断され、別会社の運行となっていることもあって塩尻を境とした東線、西線の印象がより強いが、国鉄末期までは塩尻駅の位置は現在とは若干異なっていて中央本線はそのまま直通できるが、東線→篠ノ井線はスイッチバック構造と今とは全く逆の構造だった。線路がつながるまでの、あくまで暫定的な東線、西線だったのだ

工夫が凝らされた駅舎

奈良井駅が(現在の)中央西線の他の駅舎と多少異なるのは、開業から今日まで手が入れられ続けていること

わざわざこのような木版が張られている。観光客の多さゆえのものだろう

駅を降りるとすぐ奈良井宿が広がる

奈良井宿は中山道34番目の宿。中央西線は中山道の宿場町と一体化しているように敷設されていて、他にも宿場町の駅はあるが、駅からの距離も近いことで観光客も多い

駅を降りると奈良井宿の大きな看板があって駐車場がある。右側にイスが見えるが、係員の方が席を立ったタイミングを待って写真撮影

すぐに広がる宿場町は重要伝統的建造物群保存地区となっていて景観を壊さないよう昔からの建物が残されている。まだ朝の10時だが、週末とあって歩いている人の姿も多い。土産物店や飲食店、旅館が並ぶ

詳細な解説文も複数ある。私は木曽平沢まで行く際に当駅を通過したのは9時15分ごろだったが、それでも当駅ではかなりの下車があった。この後、当駅付近では11時ごろまで滞在したが人はどんどん増えていった。もちろん外国人の姿も目につく。観光資源としての力を感じる

ただし、ときおり行われる臨時停車を除くと奈良井は普通のみが停車する駅となっている

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~特に短い駅間距離

木曽平沢駅から奈良井駅は徒歩でも可能な距離

※訪問は2024年6月22日

年に一度の漆器祭

前記事でも掲載した木曽平沢駅の時刻表。きっぷの有効は当駅までなので、9時21分に到着した私が中津川方面に折り返すには11時9分まで待たなければならず、さらにその列車に乗車しても2時間待ちとなってしまう

ということでお隣の奈良井に向かうには、最も有効な手段は徒歩である

中央本線の中津川~塩尻は山中の鉄路とあって駅間距離は5~8キロと長いところが多いが、この木曽平沢~奈良井に関しては線路の距離がわずか1・8キロ。道路は鉄道に全く寄り添っているわけではないが、それでも2キロほど

グーグル地図の木曽平沢駅の位置情報が微妙にずれている(ホームの端が駅となっていて駅舎の位置とは異なる上、国道に面するように記されている)ので、うるし塗りお手洗いのある公園からの経路を示すが、奈良井川に沿った良い景色である

うるし塗りのお手洗いからすぐの場所が木曽平沢のメインストリート。旧村役場方面に向けて大きめの集落が続き、漆器の店舗が居並ぶ。一帯は建造物群保存地区となっていて昔からの街並みが残されている。この道路は旧中山道でもある

年に一度、6月上旬の週末に「木曽漆器祭」が行われ、各店舗がイチオシの商品を並べ全国から人々が集まる。この日は木曽平沢駅も特急が臨時停車し、応援の職員も駆けつけ有人駅になるという。青空フリーパスの「終着駅」となっている理由のひとつはこれだろう。期間中は無料のシャトルバスも奈良井との間で運行される。私の訪問はその2週間後で、いわば「祭りの後」だったことになる

標高900メートルの爽やかさ

こちらが駅にあった木曽平沢の周辺案内図。駅は列車交換設備設けるため、1959年(昭和34)に以前の場所から中津川寄りに約500メートル現在の場所に移築されたが、このおかげで、元々短い奈良井までの距離がさらに短くなった。私のように1駅歩いてしまおうという人間(どれぐらい存在するのか分からないが)にとっては、7~8分は時間短縮となったわけで、ポイントは大きい

現在の国道と合流して、またすぐ旧中山道を進むべく奈良井川を渡る。これから向かう奈良井駅は934メートルとJR東海の駅ではもっとも標高の高い駅である。そして木曽平沢駅も915メートル。神戸の六甲山が931メートルなので、ほぼ同じ高さ。6月下旬ともなると、かなり暑くなっていたが、標高900メートルともなると、まだまだ爽やかだった

踏切を渡ると線路の分岐が見えてきた。駅はすぐそこ

周辺案内図にあった解説によると、木曽平沢は河川敷だった場所で広い平地となっていたため、江戸時代になって人が多く住むようになった。奈良井宿の枝郷という位置付けで、元々は木曽漆器の産地はほとんどが奈良井だったが、エリアが人の多い平沢に拡大。やがては平沢が漆器の主役に変わったという。鉄道についても線路が敷かれた明治期は奈良井から近すぎるため駅は設置されなかったが、昭和に入ると周辺人口の多さから木曽平沢駅の開業となった。

青空フリーパスのエリアが奈良井までではなく木曽平沢までとなったのは、距離も近すぎる奈良井と木曽平沢がセットとなっているからだと思われる

奈良井駅のホーム端までやって来た。駅舎へは、もう間もなくである

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~漆塗りのトイレを経て列車の空白を考える

木曽平沢駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

昭和生まれの楢川村の中心地

木曽平沢の駅舎。ご覧のように鉄筋コンクリートの造り

駅舎内で「漆塗りの町」を知ったので、駅名板の色合いにも納得がいく。背景の木の部分も同様だ。その横には「S35」(1960年)と記された財産票がある

木曽平沢駅の開業は1930年(昭和5)。両隣の奈良井、贄川が明治生まれなのに対して当駅はかなりの弟となる。先の2駅はいずれも中山道の宿場町なので先に駅が設けられた理由なのだろうが、この木曽平沢も江戸時代から漆器生産で知られた町だった。明治になって成立した楢川(ならかわ)村は当初、楢川、贄川の2駅を有していたが、後に村の中心地は木曽平沢となり、村役場も当駅が最寄りとなった。ちなみに旧役場を中心とした村の中心地は線路が通っているにもかかわらず、駅から若干離れていて、なおかつわざわざ高台に造られているよう感じるが、それは中央本線の容量が増えたことによって、駅のすれ違い設備が必要となり、500メートルほど名古屋寄りに駅を移動させたため

あくまで想像だが、かつての駅はこのあたりにあったと思われる。地図を見れば分かるが、このような歩き方をするとは思えないので実際は10分もかからないはず。また現在の木曽平沢駅の位置はグーグル先生の指定する場所は明らかにおかしい。ホームの端の駅名標の場所が指定されていて駅舎は私が印をつけた場所だ

それが1959年のことで現在の駅舎はそのころに建てられたもの。そしてこの500メートルというのは私の道程にはとても貴重なものとなる(後述)

なお楢川という村名は「奈良(なら)井」「贄川(かわ)」という2つの村名を足したもので、村役場はその間である木曽平沢に置かれた経緯があるという。その楢川村は平成の大合併で塩尻市となった

こちらは駅の運賃表だが、松本までわずか590円という金額で駅の場所がなんとなく想像がつく。この後も中央西線に何度か乗車することになるが、週末に松本へ出かける人々で車内は混み合っていた

目にとまった張り紙

木曽平沢の駅舎内で目についたものがある

うるし塗りのお手洗い。これはぜひ体感しなければならないだろう

駅から階段を降りると

公園がある。写真の通り駅を見上げる形となっている。この階段がグーグル先生から精度を奪っているのかもしれないが、そこに目的はあった

重厚な木造のお手洗い。この時の利用者は私のみだったが、トイレ内の写真をパシャパシャ撮るのは、マナーの面でどうかとも思えるので、実際に訪問して体感していただきたい

さてこちらは駅の時刻表。私は9時21分の塩尻方面行きでやって来たが、きっぷのルール上ここから先には行けないので中津川方面へと折り返すことになる。その場合は11時9分発で1時間半以上の空白がある。好天には恵まれていたが、さすがにうるし塗りのお手洗いだけで90分の時間つぶしをするわけにはいかない。ということで、この空白時間の有効活用を考えることとする

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~いよいよ木曽平沢駅に到着

木曽平沢駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

薄いダイヤは工夫が必要

いよいよ木曽平沢へと向かおう。その前に中央本線のダイヤの概要を少し

こちらは上松駅の時刻表。前記事で触れた通り、私は名古屋方面からの8時23分の特急でやって来て、同47分の普通で木曽平沢へと向かう(後に上松駅では長時間の停車、いわゆる「バカ停車」が多いことを知って、ちょっと後悔した)。いくら予備知識なしで向かうとはいえ、ダイヤや駅間距離ぐらいは調べておかないと、旅程は立てられない

上松から塩尻方面へと向かう列車はほぼすべてが松本行きで1日2本(始発と16時台の1本)の当駅始発があるが、パッとみて分かる通り動脈ともいえる幹線のローカル区間のもので、通勤通学時間帯以外の昼間の運行が極めて少ない。中央西線は特急は1時間に1本の運行があり、ローカル区間では普通より特急の本数の方が多いぐらいだが、これも定番。名古屋近郊区間を過ぎると特急で名古屋から松本、長野へとお客さんを運ぶ方が重要なのだ

昼間の運行を見ると名古屋からの中央本線は、瑞浪までは1時間に3本が運転され、このうち1本が瑞浪止まり、残る2本が中津川止まりで本数は多い(種別はいずれも快速だが、通過駅は多治見以南のわずかな駅)が、問題はここから塩尻側で、岐阜県の境界となる坂下までは、たった2駅の区間運転があったり、長野県に入って最初の大きな駅となる南木曽までの運行もあるが、南木曽から塩尻側は上松駅のような時刻表となる。だから薄いダイヤをぬって各駅を訪問するには工夫も必要となる

高台の鉄骨駅舎で見たものは

ただ本日の目的はとにかく木曽平沢へと行くことなので、8時47分に乗車

線路の距離はほぼ30キロ。決して線形が良いとは言えない中央西線だが、駅の数も少ない上に、さすが電車のパワー。所要時間は34分

なお地図で見ると飯田線の線路が並行しているようにも見えるが、線路と線路の間は、木曽山脈の高い山々で簡単に往来することはできない

9時21分の到着

高台の2面2線構造

キロポストは東京からの距離である241・4キロを示すものだろう。お隣の奈良井は観光地としても有名だが、JR東海で最も標高の高い駅としても知られ、ここ木曽平沢駅も標高900メートル超。上松駅も標高700メートルと高地の駅だが、電車によって200メートルも登ってきたことになる

ということで駅舎へと向かう。こちらも上松と同じく木造駅舎ではないようだ

無人駅ということは分かっているというか、容易に想像できていた

ちなみに週末の当駅で下車したのは私だけ。展示があったのでのぞいてみる。ガラスに反射して展示物の写真はうまく撮れなかったが、より分かりやすいものがあった

なるほど、こういうことだったのか。青空フリーパスの限界駅であることのナゾがほぼ解明できた瞬間だった

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~森林鉄道と寝覚の床

上松駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

気になる車内アナウンス

上松駅に到着。意外と初見では読めないプチ難読駅は上松町の代表駅。駅名はかつての上松宿に基づく。朝夕に上下1本ずつ、1日に計2往復の特急が停車する。その朝の長野行きに乗車すれば、20分後にやって来る塩尻方面への普通に乗ることができる計算だ。このあたりは幹線の電化区間とはいえ普通のダイヤは薄いので特急をうまく使えば効果的に乗ることができる。青空フリーパスならではの芸当

材木の森林事業で古来より栄えた。江戸時代は尾張藩の重要な財源だったという。いわゆる名所案内も木製でお出迎え

ここにも書かれているが

跨線橋にも書かれている「寝覚の床」

こちらの名所案内にも一番上に書かれている寝覚の床とは木曽川が岩を浸食しながらできた景勝で、名称については千年以上ここに住んでいた翁の伝承から来たという説や、竜宮城で良い思いをした浦島太郎が目覚めて現実に戻った場所という説もある

特急「しなの」に乗車すると、ときおり車内アナウンスによる紹介がある。進行方向に向かって左側。ただ以前は木曽川そのものが急流で、水位も高かったが、治水によって平素の川は穏やかになり、姿は変化しているという。一見するとゴツゴツ岩が並んでいるだけなので、寝覚の床というロマンチックな名前とのギャップによって分からないこともあるため、通り過ぎた際は再びアナウンスが入る

火災によってコンクリ駅舎で再建

いわゆる中央西線には古くからの木造駅舎が多く残るが、ここ上松駅は1910年(明治43)の開業で、木材の町として栄えてきたにもかかわらずコンクリート駅舎となっている。これは1950年(昭和25)に町で大火があり、駅舎も全焼したため

財産票によると翌年にコンクリート駅舎として再建された

上松駅は木曽山中に400キロにもわたって張り巡らされた木曽森林鉄道の拠点のひとつだった

こちらは解説文。役割はもちろん木材の運搬だが、旅客輸送も行っていた。その代替バスは現在も上松町を走る

材木の町ながらコンクリート駅舎となってしまった上松駅だが、駅の至るところに木材でアピールされている。駅に着くと最初の木製の名所案内に始まり、ラッチも木製で「ようこそ」の歓迎板も木製

きっぷ売り場も木材のアピールがある

駅前の観光案内所も木造である

なおJR移管後に全線きっぷ売り場(みどりの窓口と同意)が設置されたが、現在は簡易委託駅となっている

現在は秋場所中ということで、こちらの写真で上松駅を締めくくろう

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~早朝出発で気になる駅へ寄り道

中津川駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

唯一の「知らない駅」

朝6時前の名古屋駅。最も日が長い時期なので、すっかり明るい

6時13分の中津川行きに乗車する。中津川より北に向かおうとすると名古屋からは、この電車が一番早い。もっとも7時発の特急に中津川のすぐ先で追い越されてしまうのだけど

手には過去何度もお世話になった青空フリーパス。週末は通年販売されていて当日購入も可。もちろん、このブログにも何度も登場している。JR以外は伊勢鉄道が利用できるのがミソで、伊勢鉄道の全駅訪問もこのきっぷで行った。高山本線の全駅訪問や参宮線、記事化していないが武豊線全駅訪問にも登板している

利用エリアが広いことが特徴で、名古屋から飯田に行って帰って来られるのか?と思ってしまう。それぞれの方面の限界はきっぷに明示されているが、こうやって見ると終着駅、乗り換え駅、JR西日本との境界駅が並ぶ。当然だが知名度の高い駅ばかりだ

と、その中に少なくとも全国的な知名度はどうかという途中駅が2つ。きっぷで見ると東海道本線の二川駅そして中央本線の木曽平沢駅。二川は豊橋の東隣の駅で、かつての宿場町。ここまでが豊橋市となっていて、最初にJR東海がIC乗車券「TOICA」を導入した時の限界駅だったという歴史がある。JR東海では青空フリーパスと同趣旨の「休日乗り放題きっぷ」を発売していて、こちらは豊橋以東のJR東海区間がフリーエリアとなっている。二川は両方のきっぷが利用できる緩衝地点のようになっていて、もちろん下車したこともある

そしてもうひとつが木曽平沢である。私が無知なだけなのかもしれないが、全く知識がない。ちなみにひとつ手前が観光地としても有名な奈良井宿で知られる奈良井駅である。奈良井が限界駅なら、このような疑問は持たないだろう。もっと言うと、木曽平沢以北はたった3駅挟むと塩尻で、ここからはJR東日本エリア。つまりはJR東海エリアでありながら、青空フリーパスで行けない駅が3駅のみ存在する不思議。これはぜひとも解明したいと名古屋前泊の旅となった

「ならでは」の特急乗車

電車は1時間20分で中津川に到着。当駅は中央本線における名古屋近郊区間の北限的な意味合いを持つ。名古屋からの普通及び快速は必ず当駅までで運行は分断される。また当駅を境に運行本数がガラリ変わる

そして

中津川からは特急ワープを利用。ワープといっても特急券の追加だけで乗車できる。青空フリーパスの特徴として在来線特急に乗車する際は、乗車券は有効で特急券だけ買えば良いルールがある。これもいろいろな路線で活用してきた

目指すは上松。木曽平沢に行く前に降りてみたい駅だった。時刻表を見ると上松まで特急利用すると後続の普通にスムーズに乗り継げる。そしてご覧の通り、自由席特急料金は50キロまでなら660円と安い。乗車した「しなの」はもちろん名古屋始発で、乗車した普通よりも約50分遅い7時発。ゆっくり名古屋から乗車しても良いのだが、それだと自由席特急料金は1440円もかかってしまう。ここは800円ほど節約しよう

上松までは特急で約30分の道中となる

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大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その3(終)

南小谷駅の増便バス停留所

※訪問は2024年9月10日

14人で出発

まず前提として触れなければならないのは、私が乗車したのは青春18きっぷ期間ながら最終日の平日だったということ。夏休みの土日なども含め、何回か乗車したのであれば、標本数も増えるわけで、数字を比べたり分析することも可能だが、標本数はひとつで、しかも平日のお昼すぎだったというお断りを入れさせていただきます

定刻より3分ほど遅れて到着したバス。乗り込んだのは5人。そもそも大糸南線に乗車して終点南小谷で下車したのは2両編成の電車で全部で9人だったので、それ以上の乗車があることは考えにくい。もうひとつ触れておくと大糸南線も松本~信濃大町は通勤通学にも利用される区間で昼間も1時間に1本の運行は確保されているが、信濃大町~南小谷は乗客、本数ともにめっきり減る。特に観光地でもある白馬を過ぎると車内も閑散とする。営業係数はかなり苦しそうな区間である

バスに乗車すると白馬から乗車してきたと思われる先客9人がいて計14人で出発となった(この区間も3駅に停車するが、乗車はほぼないと予測)。乗車方法は列車とほぼ同じだが、青春18きっぷの場合は先にきっぷを見せて降りる駅を告げる。大糸北線の途中駅はすべて無人駅だが、途中の駅または停留所から乗車した場合は降車駅で現金で支払う。ただ結論を先に言うと途中での降車はゼロだった

乗車にちょっと驚き

前記事でも触れたが、駅と道路の位置関係で既存の駅近くに停留所が設けられない場所があり、それが中土、北小谷、小滝の3駅。平素から1日の乗車が限りなく0人に近づいている駅で道路からも離れている。3年前の9月に大糸北線の全駅訪問を行った時も、すべて「貸切」となった駅だけに最初からメモに「0」と書き込んでいたほどだったが、北小谷で2人の乗車があってビックリ。北小谷の停留所は750メートル離れた道の駅に設置されている

北小谷はホームからの姫川の眺めは美しいが、駅前に公民館のようなものがあるだけで何もない駅。シュプール号のために交換設備を設けたが、やがてまち単式ホームに戻ったという歴史を持つ。大糸北線が最後のにぎわいを見せたのがシュプール号だった。今にして思うと「私をスキーに連れてって」の映画とユーミンの歌で始まったスキーブームの一翼を担ったシュプール号。深夜近くの大阪駅ホームが大にぎわいを見せていた光景はいつから消えたのだろうか

話は少しそれたが、北小谷駅の川向こうにある道の駅小谷には温泉が併設されていて、北小谷駅の訪問時は時間があれば行ってみたいと思ったものだ。増便バスをうまく使えば、道の駅で約2時間過ごせる。温泉に入って食事をすれば、ちょうど良いかもしれない。列車の駅までも15分あれば歩けるので、組み合わせると良い訪問ができるかもしれない

2021年の大糸北線全駅訪問時は、55歳以上は3日間新幹線も含めJR西日本乗り放題でグリーンを含む指定席も6回まで乗車できるフリーきっぷを利用した。グリーン車もバンバン乗れるのに大糸北線へ越美北線の各駅訪問などをする人間は、圧倒的な少数派だろうから実態に近い乗車率を目の当たりにできたと思うが、キハ120に16人も乗車している場面は少なかったと思う

この後、バスは2021年に宿泊した姫川温泉の最寄りである平岩へと立ち寄る。駅は新潟県だが、宿まで数分歩くと長野県となる。山中の県境は何もない険しいところ、のイメージがあった私はビックリしたことを覚えている

その時に国道148号が旧道から現在のコースに変わった際、平岩の駅前を通らなくなったことを知ったが、確かにバスは国道から平岩駅へ1度下って、また国道へと戻るコースをとった

自分の車窓側の根知まで来ると糸魚川まで10キロ。街も開けてくる。ここ根知から糸魚川まではバスもそこそこの本数があり、私も利用した

姫川~糸魚川はJR西日本で最後の未乗車になった区間で昨年2月以来の訪問。その時の頸城大野駅は雪に埋もれていた。今とは対照的な光景で11時になろうというのに雪を踏みしめた跡が極めて少なかったことも覚えている

南小谷からここまで乗車は北小谷の2人だけ、降車はゼロという状態だったが、姫川から高校生が2人乗車(こちらもちょっと驚き)。結果的に糸魚川で下車したのは18人

おなじみの旧車庫をあしらった糸魚川のアルプス口

これで1時間のバス旅は終了。夏休みはもっと多くの乗車があったと聞くので、今日は少ない方だったのか。青春18きっぷの期間が終わると、さらに減ってしまうのかどうかは実際に乗車してみないと分からないので、機会があれば秋にもう1度訪れ姫川温泉に泊まりたいとも思っている

来年3月に結果が出た時、どのような数字が発表されるのかどうかは分からないが、青春18きっぷのようなフリーきっぷを乗車した利用者をどうカウントするかも大きく数字を左右するだろう。フリーきっぷは乗車駅と降車駅が把握できないため、通常は数に入れない。芸備線の青春18きっぷシーズンは、ここ数年1日1本の新見~三次間の列車は、押すな押すなの超満員となっているが、JR西日本にこの季節の数字を入れようという意識は感じないので、どのような数字を出るのだろうか?

少なくとも来年3月まではバスと列車を組み合わせると、なかなか楽しめることだけは間違いない。ただひとつの留意点は、ハイデッカータイプの使用バスは乗り心地はとても良い一方で、お手洗いはない。路線バスで旅する際、お手洗い問題は必ずあるのだが、増便バスでも注意していただきたい点である

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大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その2

南小谷駅の改札

※訪問は2024年9月10日

所要時間は列車と同じ

南小谷は1日1往復ではあるが、特急「あずさ」が新宿からやって来る。所在地は「小谷(おたり)村」で、なかなか初見では読めないが大糸線に乗車していると何度も繰り返しアナウンスされるので1度乗車すると読めるようになる。電車特急の終着駅が「村」というのも、ある意味凄いことだ

列車が到着すると構内に増便バスの案内アナウンスが流れる。青春18きっぷでも乗車できる旨も放送された。この日は2024夏の18きっぷ最終日である

時刻表によると南小谷から糸魚川まで約1時間。これは列車とほぼ変わらない。ただし必ずしも既存の駅前に停車するわけではなく交通新聞社の時刻表にも欄外に「北小谷駅のバス停留所は駅から約750メートル、中土駅のバス停留所は駅から約1200メートル離れています」と記されている。750メートルはギリギリ許容範囲だが、1200メートルはちょっと離れすぎだろう。大糸線の電化区間内は駅間が近い場所がいくつもあるが、おそらくそれよりも長い

定刻より3分ほど遅れてバスがやってきた。私はバスについては詳しくないが、空港のリムジンバスでよく見られる形式である

なにゆえ山中を通るのか

大糸線は松本と糸魚川を結ぶ105キロの路線。歴史をさかのぼると、元々は信濃鉄道という私鉄が松本~信濃大町に敷設したことに始まる。沿線には観光地も多く利用も好調。1916(大正5)に全通すると、わずか9年後には電化を完了させた

と同時に信濃大町から糸魚川に至る旧千国街道は、新潟から信濃に塩を運ぶ古来からの役割に加え、軍事面でも注目されるようになった。有事の輸送はもちろん、山中奥深くにあることが「敵の攻撃を受けにくい」となったのだ。有事に備えた山中の鉄路には現在の天浜線もあてはまるが、計画時はまだまだ航空機ではなく海上からの攻撃の時代。海沿いの線路よりも山中の線路が「いざ」という時に役立つという発想だった。元は鹿児島本線としてスタートした肥薩線も、海沿いルートを走る鹿児島本線に名称を譲りながらも有事の貴重なルートであり続けた

そのような経緯で昭和に入ると国の手によって糸魚川を目指す工事が始まった。1935年(昭和10)には南小谷を越えて中土まで開業。糸魚川からは小滝までが開業した。それぞれが大糸南線、大糸北線と名付けられた。間もなく信濃鉄道も国家買収。通常、両端の駅にちなんだ路線名は、それぞれの駅名から1文字ずつ取るものだが(水郡線のように事実上の始終着駅から1文字取ることもある)、途中駅の信濃大町から「大」の字をとった大糸線という名称は、国鉄が工事に着手した際に決められ、信濃鉄道の買収後もそのままにされたゆえのものである

ただ小滝~中土は冬季の積雪にも見舞われる山中の難工事で、全線開通となったのは戦後10年以上も過ぎた1957年。国防という当初の役割は終わっていた。そもそも人が少ないと分かっていた場所にあえて敷設した路線。戦後に行われた電化工事が南小谷までで終わったこと、国鉄民営化の際に電化、非電化区間で会社が変わったこと。北陸新幹線の開業で大糸線沿線の観光地へは新幹線利用の方が早くなったことなど、マイナス要素が積み重なった

現在、糸魚川から松本までの経路をグーグル先生に尋ねると北陸新幹線を利用した長野経由のコースが案内される。そちらの方が早い。黒部観光の入口となる信濃大町へも長野からのバスルートが優勢である。大糸線105キロのうち非電化区間はわずか35キロしかないが、糸魚川から白馬、信濃大町、安曇野といった観光地へ移動するのは本数も少なく直行列車もない。いわば負の積み重ねとなっているわけだが、今回の増便バスは今夏の青春18きっぷ期間中は、かなりのお客さんを乗せていたと聞く

18きっぷの最終日、1時間のバス旅を始めよう

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