※訪問は2024年4月15日

エポックを見越して造られた新駅

阪神の大石駅。大石駅は2面4線構造。線路の付け替えで都賀川の上にホームができた際に現在の形となった。なぜ2面4線構造になったかというと1968年(昭和43)に山陽電車の乗り入れが始まったからだ。この昭和43年というのは神戸市の鉄道にとってはエポックな年で、神戸高速鉄道が開業。山陽電車と阪急、阪神が線路でつながった。山陽電車は元々、兵庫駅がターミナルそして国鉄(当時)との連絡駅となっていて、姫路方面から来ると、神戸市中心部のやや手前で線路が終わる形になっていたが(戦前までは神戸の繁華街の中心は新開地だったので新開地まで徒歩圏内の兵庫駅が終点でも正しい姿だった。兵庫駅前には山陽電車の廃駅跡を思わせるものはほとんど残っていない)、神戸高速鉄道という第三種事業者によって三宮まで乗り入れることが可能となった。その頃は三宮が神戸の中心になっていたので山陽電車は三宮まで入れることになったのだ

ただ姫路から山陽電車の特急が乗り入れることが可能にはなったが、阪神、阪急ともにホームは手狭で、そもそも大阪側へと折り返す態勢はあるが、姫路方面へと折り返す態勢はなかった。そこで選ばれたのが阪急は六甲、阪神はここ大石だった。姫路発の山陽電車の特急は阪神、阪急ともに三宮が終点ではなく、六甲と大石のどちらかに向かう形式をとっていた。つまり山陽電車で三宮にやって来ると乗る電車によっては阪急か阪神か、どちらかの三宮駅で下車するというユニークな形となっていた。ちなみに山陽電車の特急は三宮から東は阪急、阪神ともに各駅停車だったが、阪神の西灘駅だけは規格が異なるということで山陽電車の普通も通過していた時代があった

大石駅の現位置への移転は1967年で神戸高速鉄道開業の1年前。山陽電車の当駅折り返しを見越しての2面4線構造だった。しかし、その後に山陽電車が原則時に乗り入れを三宮までとし、特急については姫路から大阪までの阪神の直通特急にほぼ一本化。朝のラッシュ時に停車していた阪神の急行については、急行という種別の電車がこの区間で消滅したため普通のみの停車となった。つまり2面4線の設備そのものが不要となったわけだが、今も山陽電車の一部はこの設備を利用して当駅で折り返す。ただし客扱いはせず回送扱いである

線路の延長上には小学校があるが

都賀川を西側から見ると、一部が石積みではなくコンクリートであることに気付く。この部分はかつて阪神電車の橋脚があった場所とも思えなくもないが、線路が付け替えられたのは50年以上も前の話でコンクリートが妙にきれいすぎる。実は、この付近が散策でちょっとしたナゾだった

今回紹介するのは、この徒歩コースだが廃線跡らしいコース上に小学校そして幼稚園がある。写真で分かるように、校舎の形がいかにも線路の場所に建てましたという形をしていて私も長年、そう信じていたのだが、神戸市立西郷小学校のHPによれば、明治31年(1898)に「現在地に新校舎完成」とある。当時は神戸市ではなく大石村。その後、付近が西郷町となって西郷尋常小学校に。ちなみにHPを見ていて自分の無知に驚いたのは西郷町が神戸市に編入されたのは1929年(昭和4)だということで、結構最近のことだった

その後の歴史では1963年の国道43号開通、1970年の阪神高速道路開通は記されているが、校舎の全面改築開始が1988年とあるだけで阪神電車の線路付け替えによる校舎の変化は書かれていない

ただし小学校と幼稚園を過ぎると現れる東町公園は地図の形状で分かる通り、明らかに廃線跡に設けられた公園である

旧新在家駅の跡へ

「いかにも」の遊歩道を歩いていく。新しいマンションの建築中のようだが、マンションの間にある廃線跡というのがミスマッチである

やがて廃線跡の先に阪神高速が見えてきた。阪神高速と国道43号はセットになっているので、廃線跡は国道43号に合流することになる

ここで廃線跡が一度消える

なぜかというと新在家駅が国道43号の拡張に場所を提供したためだ。このあたりが利用された場所だと思われるが、当然ながら道路があるだけで痕跡はない。国道43号は手狭になった国道2号のバイパス線でもあるが、この頃は社会全体がモータリゼーションに突入している時期で、後に国道43号の騒音が社会問題になるとは思われていない

新在家の交差点に到着。奥に見えるのが現在の新在家駅である

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