青春18きっぷ

城端線の全駅訪問を思いつく~終点のひとつ手前も新設の棒状駅は踏切に名を残す

越中山田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

駅訪問の鉄則

油田から7駅進んで

越中山田で下車。7駅といっても17キロしかない。高山本線なら40キロほど進みかねないが、とにかく駅が多い。待合所が前々記事で紹介した東石黒と同じ形状で理解できると思うが、こちらも戦後の新設駅。棒状ホームと待合所のみの構造で貨物の扱いをしたことは一度もない

開業は1951年(昭和26)の8月10日。同日に東石黒駅そして東野尻駅とともに設置された。ちょっと意外だが、路線内で「越中」が付くのはここだけ

次は終点の城端。過去に訪問済みということや滞在時間が短くなることで今回は城端はスルーとしたが、ローカル線において終点駅の手前というのは駅を巡る上で重要。比較的早い時間に折り返してくることが多いので、ここで待つという手段もあるし、折り返しまでの時間を利用して次の駅まで徒歩で先回りすれば、2駅を回収できる

昨年は名松線の比津駅と伊勢八知駅を訪問した際、この手段を利用した

駅への手段が鉄道以外になく、徒歩もままならない時は、じっと待機。越美北線の越前下山という駅は、とても歩くような道路ではないので、そちらの方法を利用した

小学校の名前を残す踏切

もっとも越中山田駅については、1時間に1本の運行があり、両隣の駅までもそう大した距離ではないので、のんびり折り返しを待つことにする

隣駅は終点の城端ということで線路の先には山々が迫っている

駅名は1952年まで存在した山田村に由来する。駅周辺には集落がある。駅の開業翌年に福光町となり、現在は南砺市(富山県には、もうひとつの山田村があり、こちらは2005年まで存続。現在は富山市となっている)

こちらは駅の遠景。ホームへは踏切横の小さな階段から入ることになるが、その踏切をぼんやり見つめていると、気になる文字があった

「山田小学校」とある

踏切名も「山田小学校踏切」となっている。だが周囲に学校らしきものは見当たらない。調べると、かつて駅付近には、山田村立から福光町立となった山田小学校があった。明治初期から100年以上の歴史を持つ学校だったようだが、1981年に閉校となっている

「山田小学校のあゆみ」というサイトを参考にこの記事を書いているが、生徒さんたちは越中山田駅の清掃活動に取り組んでいたようでたびたび表彰も受けている。金沢鉄道管理局長からの表彰もあり、最後は国鉄総裁賞も受賞。ただし小学校のあゆみの次の行が閉校式だった…

閉校から40年が経過しても、新しい看板に更新されながら小学校は残っている

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城端線の全駅訪問を思いつく~ハッと思ってしまう意外な難読駅名の由来

油田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

隣駅とセットで理解

東野尻に次いで油田にやって来た。ご覧の通りの単式ホーム。ただ向かいに廃ホームが残る。かつては、交換設備があったようだ

ただ注目は駅名である。「油田」は「あぶらでん」と読む。多くの人が思うのは「ゆでん」だろうが、いわゆる湯桶読みという訓音読みは、それだけで難読になってしまう

一瞬、富山にかつて油田(ゆでん)があったのか、と思ってしまうが、そうではない。これはお隣の戸出駅とセットにすると分かりやすい

城端線の駅は1駅だけ紹介したことがある。昨年2月にグリーンきっぷで旅をした際、当駅に立ち寄った

「戸出」(といで)だけだと、油田との関係は分からないが、時代ははるか昔の平安時代までさかのぼる。このころから当地は油の産地だったようだが、そのころに石油なんてものが使用されるはずはない。油というのはごま油のこと。付近ではエゴマが多く栽培されていた

それにちなんで「灯油田」(とうゆでん)が地名の由来で、歳月を重ねるうちに「とうゆでん」→「とゆで」→「といで」と変化したとか。隣町となる油田は、文字もそのまま残った

明治の町村制では、それぞれ戸出町、油田村となり油田村は、戦後の1952年(昭和27)の砺波町誕生まで存続。現在は砺波市である

現在は簡易的な駅舎

油田駅の誕生は1900年(明治33)で、1897年生まれの戸出駅より若干若い

現在の城端線が最初に開業したのが戸出駅設置の1897年で、同じくその時に開業した砺波駅(当時の駅名は出町)との間に開業した。少し遅れたとはいえ、もう120歳を超える歴史を持つ

ただし駅舎は簡易的なもの。かつては木造駅舎があったようだが、国鉄末期に無人化され、JRになって間もなくの1989年(平成元年)に現在の姿となった

簡易的とはいっても駅舎には事務室があり(どのぐらい使用されたのかは不明である)、待合室も扉が開閉できるものとなっている。駅舎そのもののデザインも欧州風なおしゃれなものだ

駅からすぐのところには江戸時代から続く若鶴酒造があり、ここには北陸唯一のウイスキー蒸留所がある

そんな油田駅だが、駅舎はあるものの少し気をつけなければならないことがある

最近の流れではあるがお手洗いにはカギがかけられ閉鎖されている。長時間滞在する場合には事前に備えが必要である

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城端線の全駅訪問を思いつく~戦後生まれの棒状駅からスタート

東石黒駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

1時間に1本の運行

高岡から約40分。東石黒駅が本日最初の訪問駅

こちらが当駅の時刻表

城端線は基本的に1時間に1本の運行で高岡~城端を走る。臨時扱いの観光快速を除くと、すべてが普通列車で、平日の朝のみ高岡からあいの風とやま鉄道に乗り入れて富山まで直通する列車が2本運行されている。話はそれるが、この2本は高岡~富山で見られる貴重な気動車ということになる。運用にあたるのは、いわゆる「タラコ」のキハ40、47

1時間に1本というのはローカル線では本数の多い方だ。元々はひとつの路線だった高岡からの氷見線は、城端線より少ない。前記事で記した通り、全体で14駅しかも30キロの中に詰め込まれているので全駅訪問はそれほど難易度は高くない。2キロにも満たない駅間もあるため、徒歩も駆使すれば次の列車に間に合ってしまう。もっとも訪問当日は9月10日と、まだまだ酷暑の日だったので、できるだけその手段は避けよう

駅の開業までは戦争をはさむ

東石黒駅は棒状ホームと待合所のみの簡素な構造

立派なキロポストがホームに建っているが、開業当初から現在の姿

設置は戦後の1951年(昭和26)。駅が造られることは戦前から決まっていたが、戦争をはさんで開業となった。駅の構造が旅客営業のみの対応なので貨物の運用は最初からない

駅名は1954年まで存在した東石黒村に基づく。東石黒村は福野町を経て現在は南砺市。ちなみに東石黒村があったのだから石黒村もあったが、こちらは戦後、福光町に入る形となった。ただし今はともに福光町

福野、福光の両駅は19世紀からの歴史があり、その中間に設置されたため、距離も近い

線路に沿って真っ直ぐ歩くと福野の街に入り、福野駅に着くことができる。線路とともに歩けるという駅巡りでは絶好のルート。ただ繰り返すが、この暑さでは歩かないのである

駅の全景はこんな感じ

自転車置き場があり

踏切横の小さな階段を昇ってホームに入る

ただし駅全体を見ると

その気になれば、小さな土手を上がると柵もなく容易にホームに入れてしまう、よく北海道で見られる構造。もちろん、それが合法的なものかどうかは不明。1日に50人ほどが利用する駅で、滞在中はどのような入り方、降り方を地元の皆さんがされるかどうか注目していたが、ちょうど朝の通勤通学の時間帯が終わったばかりで駅にやって来る人はいなかった。ずっとホームにいたのは明らかに同業者(鉄道ファン)で、なおかつ駅訪問を趣味としているであろう方と私の2人きりだった

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城端線の全駅訪問を思いつく~急きょ行先を変更して富山から高岡へ

城端駅のホーム

※訪問は2023年9月10日

直前のニュースに触発されて

昨年の夏の青春18きっぷ最終日の朝。私は富山の駅前にいた

本来ならここから高山本線の残った駅の回収に向かうはずだったが、前日のうちに急きょ予定を変更した

11月の記事でも記したが、理由は①あと1日では高山本線の全駅回収は不可能だと判断したこと②直前に城端線と氷見線の三セク編入検討のニュースが流れたこと-の2つ

報道では今後、協議に入るとなっていたが、こういうのは話がトントン拍子に進むものである。表現は乱暴だが、JR西日本としては新幹線以外と接続しないローカル線とは、一刻も早く縁を切りたいだろう

ということで富山からあいの風とやま鉄道に乗車して高岡を目指すことにする

わずか30キロに14駅

城端線は高岡駅と城端駅を結ぶ29・9キロのローカル線。この距離は東京~横浜より、ほんの少し長く大阪~三ノ宮より、ほんの少し短い。そして約30キロの間に14もの駅があるという(高岡駅は城端線所属となっている)、まるで私鉄のように路線だが、実際に元々私鉄だった路線である

中越鉄道という会社が1897年(明治30)に福野までを敷設したのが最初だから、130年近い歴史を持つ。ちなみに当時の起点は高岡ではなく黒田仮乗降場で、これは現在の新高岡駅近く。なぜこのような場所が起点となったのかというと、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったから。国鉄が金沢からやって来ることは決まっていて、もちろん接続駅とすることは決まっていたが、駅の場所が未確定だったため、仮乗降場を設けた。高岡までの線路がつながったのは、翌1898年のこと(仮乗降場は廃止)。つまり国鉄より先に開業した路線で、富山県では初の鉄道である

そしてもうひとつのポイントとしては、最初から城端が終点だったことが挙げられる。山中に伸びて行き止まりとなっている路線は、先の延伸計画がありながら、工事が行われず、結果として未成線、盲腸線となっているものも多いが、中越鉄道が目指したものは、どちらかというと海で、豊かな農業地帯の農作物を伏木港へと運ぶことを目的とした。後に現在の氷見線も同社が敷設している

国有化されたのは1920年(大正9)。当初は城端から伏木までが中越線で、伏木から氷見までが氷見線だったが、戦時中の1942年(昭和17)に城端~高岡が城端線、高岡~氷見が氷見線と現在の形となった

駅が多いのは元が私鉄だったことはもちろん、戦後に5つもの駅が新設されたため。30キロしかない区間に5つの新駅なので明らかに多いが、駅舎の有無やホームの形式で戦後生まれかどうかが分かりやすい

高岡から出発

そんな城端線だが、私が過去に訪れたのは高岡、新高岡、戸出、城端の4駅のみ。全線の乗車は果たしているが、駅の経験値が乏しい。それだけに各駅が楽しみである

高岡駅はあいの風とやま鉄道の管轄となっている

構内ももちろんあいの風とやま鉄道の管轄だが、城端線と氷見線は専用のホームが与えられている。ちなみに両線のホームは主に1番線と7番線で間にあいの風とやま鉄道のホームを挟み、中間線も存在すめため遠い

ホームに行ったのは7時半過ぎ。通学の高校生がドッと降りてきた。降りきって間もなく出発である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~「上り列車」しかない途中駅が終着

安房鴨川駅の駅名標

※2022年12月17日

ゴールはちょっとあっけなく

太海からひとつ進んで安房鴨川に到着。内房線の終着駅で前日から始めた内房線の木更津以南の全駅訪問のゴールである。階段でも「お出迎え」があった

ただ個人的には「ようやく着いた」という達成感はあっても、駅構内の風景に感慨は生まれにくい。というのも乗車してきた電車は外房線の上総一ノ宮行き。現在、内房線を走る列車は木更津~上総一ノ宮の直通運転がほとんどで安房鴨川で多少の待ち時間はあるものの、内房線と外房線を乗り越す際、なにごともなかったように去ることになるからだ。「終着駅」ではあるが途中駅。東海道本線と山陽本線の境界駅となっているが、始終着がほとんどない神戸駅のようなものである。2021年3月、コロナ禍のまっただ中、新型車両の投入と同時に直通運転、ワンマン運転がメインとなった

ただ房総半島をグルリと回る内房線と外房線の特殊な事情から、安房鴨川は「当駅を出発する列車はすべて上り列車」というユニークな特徴を持つ。これは房総半島の東側と西側でそれぞれ少しずつ延伸されてきた「房総線」が安房鴨川でつながった後、あらためて「房総東線」「房総西線」(戦後に現在の名称に変更)という2つの路線に分けられたからだ。前者が千葉が起点で終着は安房鴨川、後者は蘇我が起点で終着は安房鴨川と、安房鴨川が2つの終着駅となったため、安房鴨川から出る列車はすべて上り列車となっている

安房鴨川駅の開業は1925年(大正14)。線路が太海から1区間延伸されてたどり着いた。現在の外房線がやって来たのは、その4年後である。もちろん拠点駅。周辺は鴨川市の中心部で、経済だけでなく観光の拠点駅となっている

全国ニュースで取り上げられることも鴨川シーワールドまでは無料の送迎バスで10分。天候に恵まれれば、歩いても行ける距離にある。またかつては駅裏の印象が強かった西口にはイオンができている

変化の30年

そのイオンがある西口が長距離バスの発着場になったことで発展した場所でもある。安房鴨川から千葉、東京までは外房線の特急「わかしお」を利用するのがメインルートだったが、90年代に入ってわかしおが京葉線経由となり、千葉に立ち寄らなくなったあたりから潮目が変わり始める。アクアラインもできて車との競合も増える。鴨川から県都の千葉へは長距離バスのカピーナ号、東京へは八重洲口、渋谷への便もあり、私も、訪問の数ヶ月前の夏にお世話になったことがある

久留里線の末端にあたる、閑散区間の3駅を通って千葉もしくは東京に行くことができる。このバスがなかったら、その3駅訪問を試みようとはしなかったかもしれない。内房線や外房線だけでなく、久留里線にとってもライバルとなっている

安房鴨川はもちろん管理駅だが、昨年の1月をもってみどりの窓口の営業は終了した。その後、館山、浜金谷と、みどりの窓口が閉鎖されたため、内房線の君津~安房鴨川でみどりの窓口がすべてを消した。というか、所属が外房線となっている蘇我駅を除くと現状、120キロにも及ぶ内房線の全29駅でみどりの窓口があるのは木更津ただ1駅である

AKB48の「会いたかった」という曲があり、このMVは今も容易に見ることができ、那古船形駅がロケ地となっている。チラリとしか出てこないが、駅舎は現在の塗装ではない1918年(大正7)開業時のそのままの姿。メンバーが追いかける列車もいわゆる「スカ車」である。AKB48というと、ついこの間のことのように思えるが、リリースは2006年10月で17年前。たった17年というか、わずか17年というか、走る電車を見るだけで隔世の感がある

帰路につく。わかしおを利用。安房鴨川~東京と完乗するのは、これが初めて。もちろん自由席だが、こちらも今春に全車指定席という変革がある。また内房線、外房線から京葉線経由でダイレクトに東京を目指す朝の快速廃止問題は、もはや全国ニュースである

ここからは青春18きっぷの出番はない(新大阪に到着してから再登板するが)ので乗車券は大阪市内まで。この乗車券は年間にどのぐらい売れるのだろうか

東京着。18時ちょうど発の新幹線に乗車したが、この時間にホームに降りても駅弁を買ったりしていると、すぐ新幹線の発車時間となった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~豪華な簡易的駅舎のお披露目直後

太海駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

安房鴨川まであと1駅

太海に到着。郵便局と一体となった江見までたどり着いた後、少し戻ってまた進んでを繰り返しながら、太海へ。駅名標で分かる通り、隣駅は内房線の終点である安房鴨川。こうした各駅訪問にふさわしい表現かどうか分からないが「リーチがかかった」状態である

その太海駅は独特な駅舎となっている

なかなか立派ではあるが、簡易型の駅舎である

手前の青いものは波を表していると思われる。JR東日本のプレスリリースによると

「駅から海を眺められる環境を活かし、自然を感じ取ることができる駅としています。電車をお待ちいただきながら、駅前広場側からは海を、待合室側からは山を眺めることができます」とある

また「構造体に木材を採用することで、潮風による塩害に強い駅としています」「壁材にも木材を使用し、炭素固定の量を増やし、環境負荷を削減しています」「周辺の風を取り込み、風が抜けやすい駅形状とすることで、待合室等の温熱環境を改善しています」とも

要は最近流行りの簡易駅舎とは、ひと味違う細かい気配りが随所にちりばめられているということだろう

駅舎内のベンチに驚き

そして、もうひとつ「新駅舎のベンチは、(公社)土木学会・東京大学・會澤高圧コンクリート(株)と連携し、最新の技術を用い、コンクリート3D プリンタで製作しています」とあるが、そのベンチがこちら

最初に見た時「わー!駅舎内にソファーがある」と思ってしまった。もちろんプレスリリースにある通り、コンクリート製である。同じくプレスリリースにある通り、木がふんだんに使われている。これは簡易的な駅舎では珍しい。とくに最近のバス停のような簡易駅舎とは大きく異なる構造だ

そして全くの偶然だったが、駅舎の使用開始は12月14日。私の訪問は、まだお披露目から4日目のことだったのだ。写真で分かる通り、到着直後から雨が激しくなり、外にはいられなくなって駅舎内で過ごすことになったのだが、どこで聞いて、どんな関心を持ったか分からないが、わざわざ駅舎を見にきたグループが私の滞在中に2組もあった。ともに車でお越しになっていて、どう見ても同業者(鉄道ファン)ではなかったので、車でわざわざ立ち寄ったのだろう

雨のため一堂が駅舎内に居座ることになり、人を避けて写真を撮るのが大変だった。できれば、駅を見にきたついでに列車にも乗ってみよう、となれば鉄オタの私にとってはうれしいのだが、さすがにそれはかなわなかった

観光資源に恵まれた場所

太海駅は1924年(大正13)の開業。江見からの1区間、4・6キロが開通して一時的に終着駅となった。ただ安房鴨川までのたった3・4キロの開通は、さらに1年後だった。以前の記事でも触れたが、シャクトリムシ的なジワジワした前進である

太海駅は1955年まで存在した太海村に基づく(江見町を経て現在は鴨川市)。いくつかの村が合併した際に「太平洋」と「海産物」が複合された村名が付けられたという。ただ、村ではあるが、観光資源にも恵まれていて、海水浴場はもちろん、漁港や変化に満ちた海岸線、千葉県で最も大きな島である仁右衛門島があり、宿泊施設も多い。新駅見学に来た方々も、観光や宿泊のついでだったと思われる。それだけに開業時からの駅舎を解体しての簡易型駅舎への移行は意外といえば意外だが、観光地に敬意を表した精一杯の簡易型移行だったのかもしれない

もっとも駅舎は新しくなったが、ホームはそのまま。枕木の柵などは鉄道風景の古典に属するものだ。さて、お次の安房鴨川でゴールである

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~よく見てください その読み違いますよ

南三原駅の駅名板

※訪問は2022年12月17日

パッと見ではなく凝視しよう

南三原に到着。このあたりまで来ると、ゴールが見えてくる。奥に見えるのが駅舎

駅舎紹介の前にまずは駅名標

パッと見ると、何でもないようで素通りしそうである。「ハイハイ、『みなみみはら』ね」

だが、もう一度よく見る必要がある

縦のひらがなだけの駅名標を見ると、よく分かる。駅名は「みなみはら」

実は「ハイハイ、『みなみみはら』ね」と思い込んだのは私自身。駅でしばらく滞在したが気付かず、次の列車に乗り込む寸前に気付いたので、よく覚えている

開業は1921年(大正10)。先に紹介した千倉を含む安房北条(現在の館山駅)~当駅が開業した時に設置され、1年半にわたって終着駅だった。内房線の歴史を見ると、長い区間が一気に開業という例は少なく、シャクトリムシのようにジワジワ延伸されたことが分かる。1日でも早く鉄道を、という願いが強かったのだろう

駅名は当時の南三原村から。南三原村は戦後10年が経過した1956年に丸山町と和田町に分割されるような形でそれぞれ合併して自治体としては消滅したが(結果としては両町とも南房総市となったので同じ自治体に戻ったことになる)、村名は「みなみみはら」だった。では、なぜ駅名が「み抜き」になったのかというと、とてもいい加減な回答になってしまうが、現地ではどちらの読みも存在した、ということになる

このような例で有名なのは岐阜県の各務原市で、自治体は都市名と同じものを利用してもらうよう各所に要請しているが

JRの高山本線の駅名はご覧の通り、異なる。JR東海は今もきっちり駅名標に自治体名を入れるようにしているので、縦に並ぶと違和感を感じてしまう。読みも異なる。高山本線の全駅紹介がまだ終わっていないので、その時に詳しく扱うつもりだが、そのおかげで各務原市はテレビなどでよく特集される場所となっている

南三原も同じように歴史を深掘りして特集すれば、おもしろいものになると思う

太陽光発電を備えた駅舎

南三原駅は千倉駅へと「寄り道」した鉄路が再び館山からの主要国道128号と合流した地点にある。駅舎は海側つまり国道側に面しているため、各商店やコンビニも近い

駅舎は開業時からの駅舎が2003年に新築されたもの。当時の和田町が出資した。屋根には太陽光発電があり、小規模ながらも駅舎内にある多目的ホールなど、駅内の電力をまかなっている

駅舎内は木のぬくもりを感じさせるもの。業務委託駅で無人駅ではない

跨線橋から俯瞰すると、かつては2面3線構造だったようだ。レールは残るが架線もない雑草に覆われたレールの上を列車が走る予定はなさそうである。ただ保線車用の車庫は現役で、こちらは日常的に使用されている

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~千葉県最南端の駅は南房総観光の拠点

千倉駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

多目的ホールも備えた合築駅舎

千倉に到着。内房線の駅は「大正期の開業以来の駅」「簡易化された駅」そして「立派に建て替わった駅」の3つに分類されるが、ここは3つ目に該当。中でも最も大きな規模の駅舎を持つ駅となっている

立派な改札口で訪問時は駅員さんが出迎えてくれた

立派なコンクリート製の駅舎は2007年からのもの。開業は1921年(大正10)。安房北条(現在の館山)~南三原が延伸された際に設置された。当駅は旧千倉町の中心駅だが、2006年3月に周辺自治体と合併して南房総市が誕生。新駅舎が完成したのは2007年8月なので、新しい都市の誕生とほぼ同時期ということになる

駅舎内には観光協会が入居するほか、多目的ホールもある大きなもの。フォルムは千倉の風や波をイメージしていて町のシンボルにはふさわしい造りとなっている

最南端の駅と最南端の観光

そんな千倉駅は千葉県最南端の駅。そして館山駅と並ぶ房総半島南部の観光拠点のひとつでもある

船舶にとって東京湾の入口を示す野島埼灯台へは車で20分。灯台があるのは千倉町などとともに南房総市に参加した旧白浜町にあり、もちろんバス路線もある

駅の名所案内にも、しっかり野島埼灯台は記されているが、張り紙はバス会社が替わったからだと思われる。めくれている部分がかすかに「R」と読めるのは「JR」のようだ。白浜町は鉄路のない町ではあったが、かつては国鉄バスが主要路線となっていて、町の中心のバスターミナルは今も「安房白浜駅」と「駅」が付けられている。白浜だけでは和歌山の白浜とダブってしまうので、わざわざ「安房」を付ける念の入れよう。国鉄バスからのJRバスが主要路線となっている駅は今も大きく「乗り換え」案内があることが多く

以前紹介した嬉野温泉へのJRバスが出ている大村線の彼杵駅や

大島へ渡るJRバスが出ていた山陽本線の大畠駅(山口県)には、今も「のりかえ」と鉄道路線でもあるのかと勘違いしてしまう案内が残っているし

同じく山陽本線の光駅(山口県)には、目立つように光市の中心部である室積と記されているのは、当地への路線バスがJRの運行だからだ

白浜町のJRバスは現在、主に長距離を担い、かつての国鉄バス路線は日東交通に引き継がれている。千倉駅からのJRバスも東京行きである

わざわざ鉄路が立ち寄った規模の大きい構内

千倉駅の構内は広い。ホーム構造は2面3線。夜の最終と早朝には当駅始終着の列車も設定されている。跨線橋からの俯瞰や

ホームからの景色で駅の位置がカーブ途中にあることが分かる

こちらは駅前の観光案内図だが、こうして見ると内房線がわざわざ千倉に寄り道するかのように敷設されていることが分かる。重要な町だった。千葉県の最南端にして関東最南端の駅。内房線と同じく、わざわざ下車する価値のある駅である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~クジラをイメージした駅舎

和田浦駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

旧自治体名に「浦」が付いた

和田浦駅に到着

内房線と外房線は路線としては、もちろん別で外房線の特急「わかしお」は外房線の終着となる安房鴨川での折り返しとなるが、昼間を中心とした普通は東京・千葉への直通がある外房線の上総一ノ宮、内房線の木更津を結ぶ列車が運行され、「接続駅」となる安房鴨川は、あくまで途中駅となっている(長時間停車もあり)。安房鴨川が房総半島の南端でない以上、ある意味、合理的な運用で東京や千葉を目指す際は、どちら側からもアプローチできる選択制となっている

和田浦は、そんな選択が可能な位置にある

開業は1922年(大正11)で、南三原~江見の2区間が開通した際、途中駅として設置された。当時の和田町の駅。駅名に「浦」が付いたのは奥羽本線の「和田駅」が明治期に開業していたためと思われるが、旧国名ではなく「浦」が付けられた

首都圏唯一の捕鯨基地

駅舎は開業時からの駅舎を1996年に改築したもの。和田町は2006年に周辺自治体と合併。南房総市となったが、改築は和田町時代である。コンクリート製ではなく、美しい木造の駅舎となっているが、イメージはクジラ。和田町は捕鯨の町として知られ、現在も首都圏で唯一の捕鯨基地がある。江戸時代からの歴史を持つ

駅の入口と駅名板。入口の照明は細かくおしゃれなものだ

旧和田町役場の場所には「道の駅和田浦WA・O!」ができていて、市役所の支所である地域センターと隣接。そこには鯨資料館もある。コンビニも近くにあり、駅からも見えるが、駅舎は町の中枢である海岸沿い、国道沿いとは逆側にあり、到達するには回り道が必要で徒歩5分以上を要する。線路がやや高台を走っているため、海側に駅舎を設けられなかったようだ。そのためか駅前はロータリー以外はひっそりしている

現在は無人駅

駅としては国鉄時代に無人化されていたが、新駅舎の完成後、自治体委託によるきっぷの販売が再開。そのための窓口もあるが、その後再び無人化されている

完全に無人化されてから数年が経つので、他の駅の過去のパターンから考えると駅から海側に直接出られる出入口の設置も期待できそうだ。またそうしないと「無人駅の意味」がなくなる

駅舎内は広い待合室があり、ギャラリーにもなっている

駅前のオブジェ。基礎の部分はクジラをイメージするもので、そこにいるのはイルカである。おそらく単独の和田町時代からのものだろう

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天候に左右された2023年を振り返る(後編)

7月初日から足止め

7月は佐伯のホテルで迎え

早朝から名前シリーズを無事に全駅訪問。たった4駅ですが2日かかります。10月も同様の行動となるのですが、佐伯~延岡の超難関区間を訪ねる際は、必ず朝の6時台に活動を開始して7時台には強制終了となるので、ホテルに戻って改めて朝食というパターンが定着してしまいました。この日は蒸し風呂に入っているような気候だったので朝からあらためてシャワーを浴びたりする(笑)

ただ雨の方はというと最も活発な前線は九州を去ったようなので、すっかり安心

結果的に佐伯から延々と普通のみを乗り継いで日豊本線小倉に到着後、まだまだ明るいため、せっかくの旅名人きっぷなので小倉モノレールを堪能しているうちに前線が東に移動して山口県内のJRが全線ストップ。帰れなくなりました

もっとも足止め先が小倉という大都市だったので宿をとり、一度は残る1回の権利を持ち帰ろうとしていた旅名人きっぷは翌日に消化することにして事なきを得たのですが、山口県の鉄道網は、この時の雨で大きな爪痕を残しています

翌日は旅名人きっぷはフル活用して平成筑豊鉄道と

筑豊電気鉄道の両社に乗車。よく混同される両社ですが、全くの別会社。平成筑豊鉄道は元国鉄の第三セクター、筑豊電気鉄道は西鉄の子会社です

この月は四国バースデイきっぷを利用して

営業中の田井ノ浜駅で降車。コロナ禍が明けて久しぶりの営業となった海水浴用の臨時の当駅。訪問は青春18きっぷ利用初日の平日で、さすがにまだ人の姿は少なかった。自分の誕生日が7月で良かったと思える瞬間。この旅では香川県内の駅はほとんどいかなかったにもかかわらず、高松で2泊もしてしまい、どちらかというと「高松での飲み」が中心でした

雨のおかげでライトレール

この後は酷暑のおかげで行動は停止。急な葬儀で横浜に出かけることはありましたが、この後の1カ月間、猛暑の中で何をしていたのか、ほとんど思い出せません。活動再開は8月後半からで、残る4回の青春18きっぷをそろそろ使い切らないとマズいとなり、広島へ。当初は呉線方面へと出かける予定でしたが、三原で新幹線を降りると激しい雨のため呉線は遅延。山陽本線も遅延していましたが、しばらく経つとダイヤも復活しそうだったので、思いつきで瀬野で下車

久しぶりのライトレールは。おそらく私にとっては最後の乗車になりそうです

そして31日からは月またぎで北海道へ。これは私にとっては一生忘れられない体験になることは、ほぼ間違いありません

トラブル続出の北海道

到着の当日は天候にも恵まれ、旭川空港から順調に稚内へ到達

折り返しで抜海で降り立ち、地元の宿で楽しいひとときを過ごしたまでは良かったのですが、翌日に宗谷本線が全線でストップ。旅人宿「ばっかす」のご主人の機転で稚内→(バス)→札幌→(JR)→旭川というルートを教えてくださり、無事に旭川にたどり着くことができましたが、大回りをしての500キロもの移動はかなり大変でした

そして、これはあまり書いてこなかったのですが、北海道上陸とともにカードのトラブルが発生していました。カード会社も電話をくださるのですが、旅先の移動中ばかりで、うまく通話がつながらない。稚内でバスのチケットを確保してから出発まで2時間近い時間があったため、これは良い時間だと、こちらから電話。ただカード会社でよくあることで、オペレーターとの電話が全くつながらず

稚内に行ったことのある方なら、距離感が分かると思いますが、駅で電話をかけ、つなぎ放しにしたまま防波堤ドームまで歩き、探索して駅へ戻ったころに、ようやくつながった。感覚的には稚内から札幌までのバス6時間より、長かったです

カード会社との話はまだ終わらず、今度は向こうから電話をくれることになったのですが、当日は移動だけで電話に出る時間がなさそうなので

翌日に廃線予定の根室本線各駅を回って一度富良野に戻ってくるタイミングの、おそらく富良野カレー店の前で並んでいるであろう時間帯を指定したところ、ピッタリその時間に電話をいただき、電話を切った直後に入店の順番が来てトラブルは解決しました

北海道から帰ると今度は青春18きっぷの残る2回を消化すべく高山本線へ。あまり世の中で話題にならないのですが、廃ホーム上に神社がある角川駅が路線すべてで最も印象に残る駅となりました

9月は

珍しく観光で長野県の戸隠神社で戸隠そばを食べたりして

広島県の庄原で芸備線・木次線のイベントに参加

岡山での乗継ぎ割引もなくなっているので、岡山まではおとなび割引で新幹線を利用。岡山からは普通を乗り継いで備後庄原まで行ったのですが。3080円という運賃にビックリ。考えてみると、このあたりの区間って青春18きっぷのようなフリーきっぷか、神戸市内からの通し運賃でしか乗車したことがないので、こんなに距離があるとは実感できていませんでした

平日にもかかわらず、備後落合駅は件の1日1本の集合便に乗車する人でいっぱい。18きっぷの季節はもっと凄いのでしょうね

イベントを夕刻に終えると、バスで広島駅まで行き新幹線で帰宅。考えてみると、この日は一切、芸備線には乗車していない。この時間帯なら、このコースが最速なのでやむを得ませんが、芸備線のイベントに来て芸備線に乗らずに帰るというのは、ちょっと複雑な気持ちでした

完全制覇…とはならず

10月はハロー自由時間きっぷで九州新幹線の全駅訪問を達成。これで全国各地の新幹線駅すべてを訪問したと喜んでいたら、北陸新幹線の飯山駅という乗り残しがあったことに後で気付く。昨秋、JR東日本パスで上越新幹線と北陸新幹線の各駅を訪問した際に乗車した新幹線が飯山駅通過だったのです。わずか1駅だけ残して、これは痛恨。来春の敦賀延伸以降の課題となりそうです

この旅では再び宗太郎ルートにチャレンジして市棚駅訪問。またもや訪問後、延岡駅のホテルで朝食となりました

この後、鉄道の日記念パスでようやく高山本線の全駅訪問を達成

その足で名鉄訪問となりましたが

名鉄275駅で最も利用者の少ないこどもの国駅に寄ったり

信号の赤↔青だけで飽きない西枇杷島のデルタ線が楽しかったです

急な「主役」に驚き

11月は降り鉄にとっては、徒歩も苦にならない最も良いシーズンなんですが、歯科医の自費治療で会社員時代の1カ月分の手取りに近いお金が消えていったので、どこにもでかけず。12月の声を聞いて青春18きっぷによる外房線の全駅訪問を行いましたが、その後、大きなニュースになって驚きました

こちらが浪花駅時刻表。6時36分発の青文字となっているのが、話題となっている勝浦6時25発の1日1本の東京行き通勤快速です。この時は貴重な1日1本だなぁ、としか思っていなかったのですが、まさか県知事や市長、町長が正式抗議する事態になるとは考えてもいませんでした

前編より長くなってしまいましたが、おそらくそれは後半の方がアクシデントが多かったからだと思われます。年明けは青春18きっぷの残り2回分を使用すべくスタートするつもりです

皆さま、よいお年をお迎えください

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