JR

高山本線全駅訪問のシメ行脚~猪谷駅「大きな変化あり」の報に驚く

猪谷駅に到着

※訪問は2023年10月19日

まだ暗い富山駅から出発

富山駅は青春18きっぷの最終日となった9月10日以来。1カ月以上が経過して季節も秋へと移り変わり、いつまでも暑い2023年だったが、朝の5時過ぎはまだ暗い上に肌寒い

今日明日で、ようやく高山本線の全駅訪問を終えるつもりである

昨年の18きっぷ最後の2日間でフラリ高山本線に乗ってみたのがことの起こり。当時は主要駅や気になった駅だけを訪問するつもりだったが、妙に気持ちに火がついてしまい、その後

2月 西日本グリーンきっぷで北陸新幹線の各駅訪問をした際にJR西日本管内の2駅訪問

4月 青空フリーパスで岐阜~下呂の8駅を訪問

9月 青春18きっぷでJR西日本&JR東海の7駅を訪問

のべ5日もかけている。2月は西富山から日本で最も長い駅名となった「トヨタモビリティ富山 Gスクエア五福前(五福末広町)停留場」まで歩くという目的もあったが、それでも2駅を訪れている。4月と9月はそれなりに「ガチ」で早朝から臨んだつもりだが、1日では意外と回れていない。なぜこのようなことになったのかというと、最初につまみ食いのように回ってしまったため、相互に訪問しづらい駅ばかりが残ったためだ。当初から計画的に回っていれば、もっと早く終わったと思われるが、終わったものはしょうがない

本来なら9月の青春18きっぷで終わらせるつもりだったが、どう考えても2日では終わらないことに気付いた。そこで高山本線は1日で終え、18きっぷの残る1日は城端線に充てることに。城端線と氷見線の三セク化ニュースが出たばかりで、こういうのはまとまり始めると早いと高岡へ

そして今回は秋の乗り放題パスを使用。城端線、氷見線の未回収駅を訪れた後に富山で宿泊。さすがに今日明日の2日間で回り終えることになる。その後は名古屋方面へと向かい、名鉄を2日間、満喫する予定となっている

駅数が増えた高山本線

新幹線は6時を回ってからということで、まだシャッターが降りているが

あいの風とやま鉄道と高山本線の改札はすでに営業を始めている

高山本線については、北陸新幹線の開業で「新駅が開業したわけではないのに駅数が増える」という現象が起きている。これは富山駅の所属によるもの。2015年の北陸新幹線延伸まで駅としては北陸本線の所属だったが、同線が三セクのあいの風とやま鉄道に移管されたため、必然的に残る高山本線の所属になった。だから高山本線は現在45駅で所属は44駅(岐阜駅の所属が東海道本線となるため)。44という数字を見ると、なかなかの数だが、とにかく今日と明日で終わらせよう

2両編成のキハ120で降りた衝撃

高山本線のJR西日本区間である富山~猪谷はキハ120が担当する。同じ富山県の氷見線、城端線はいわゆるタラコのキハ40の運行だが、こちらはキハ120。キハ120というと山中を走る単行のイメージが強いが、こちらは常に2両編成で通勤通学の時間帯は多くの人であふれる。また直線部分では、かなりの猛スピードを見せてくれるなど、他地域とは違う姿を見せてくれる

猪谷駅の衝撃ニュース

列車は50分で猪谷に到着

乗車しているうちに、すっかり夜は明けた

ここまでが富山県、ここまでがJR西日本で両社をまたぐ普通列車は現在、運行されていないので必ず乗り換えとなる。乗り換え時間は列車によってさまざまで、すぐに乗継ぎ列車が出発するパターンもあれば、しばらく待機、さらには数時間にわたって普通がないこともある。私の乗車列車は18分の接続。昨年から何度となく降り立つことになったこのホームもしばらくは来なくなるかもしれない、とこれまた何度も撮った駅舎を記念撮影

やがてやって来たJR東海の車両に乗り継ぐ

同一ホームで前後の乗り換え。このパターンに出会うのは初めて。これまでは島式の向かいホームへの乗り換えばかりだった。頻度は分からないが、私にとっては貴重な体験。この後、JR区間を目指して山中に入っていったが、つい先日、X(旧ツイッター)のフォロワーさんから年明け訪問した際、特徴ある駅名板が変わっていたとの投稿があってビックリ

これは9月のものだが、猪谷駅の存在感を際立たせていたこの駅名板が普通の「JR 猪谷駅」という板に付け替えられていたという。猪谷で降りて、まず目に飛び込んでくるのはこれだろうという存在感を放っていたものがなくなったとは。新年から衝撃のニュースだった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~「上り列車」しかない途中駅が終着

安房鴨川駅の駅名標

※2022年12月17日

ゴールはちょっとあっけなく

太海からひとつ進んで安房鴨川に到着。内房線の終着駅で前日から始めた内房線の木更津以南の全駅訪問のゴールである。階段でも「お出迎え」があった

ただ個人的には「ようやく着いた」という達成感はあっても、駅構内の風景に感慨は生まれにくい。というのも乗車してきた電車は外房線の上総一ノ宮行き。現在、内房線を走る列車は木更津~上総一ノ宮の直通運転がほとんどで安房鴨川で多少の待ち時間はあるものの、内房線と外房線を乗り越す際、なにごともなかったように去ることになるからだ。「終着駅」ではあるが途中駅。東海道本線と山陽本線の境界駅となっているが、始終着がほとんどない神戸駅のようなものである。2021年3月、コロナ禍のまっただ中、新型車両の投入と同時に直通運転、ワンマン運転がメインとなった

ただ房総半島をグルリと回る内房線と外房線の特殊な事情から、安房鴨川は「当駅を出発する列車はすべて上り列車」というユニークな特徴を持つ。これは房総半島の東側と西側でそれぞれ少しずつ延伸されてきた「房総線」が安房鴨川でつながった後、あらためて「房総東線」「房総西線」(戦後に現在の名称に変更)という2つの路線に分けられたからだ。前者が千葉が起点で終着は安房鴨川、後者は蘇我が起点で終着は安房鴨川と、安房鴨川が2つの終着駅となったため、安房鴨川から出る列車はすべて上り列車となっている

安房鴨川駅の開業は1925年(大正14)。線路が太海から1区間延伸されてたどり着いた。現在の外房線がやって来たのは、その4年後である。もちろん拠点駅。周辺は鴨川市の中心部で、経済だけでなく観光の拠点駅となっている

全国ニュースで取り上げられることも鴨川シーワールドまでは無料の送迎バスで10分。天候に恵まれれば、歩いても行ける距離にある。またかつては駅裏の印象が強かった西口にはイオンができている

変化の30年

そのイオンがある西口が長距離バスの発着場になったことで発展した場所でもある。安房鴨川から千葉、東京までは外房線の特急「わかしお」を利用するのがメインルートだったが、90年代に入ってわかしおが京葉線経由となり、千葉に立ち寄らなくなったあたりから潮目が変わり始める。アクアラインもできて車との競合も増える。鴨川から県都の千葉へは長距離バスのカピーナ号、東京へは八重洲口、渋谷への便もあり、私も、訪問の数ヶ月前の夏にお世話になったことがある

久留里線の末端にあたる、閑散区間の3駅を通って千葉もしくは東京に行くことができる。このバスがなかったら、その3駅訪問を試みようとはしなかったかもしれない。内房線や外房線だけでなく、久留里線にとってもライバルとなっている

安房鴨川はもちろん管理駅だが、昨年の1月をもってみどりの窓口の営業は終了した。その後、館山、浜金谷と、みどりの窓口が閉鎖されたため、内房線の君津~安房鴨川でみどりの窓口がすべてを消した。というか、所属が外房線となっている蘇我駅を除くと現状、120キロにも及ぶ内房線の全29駅でみどりの窓口があるのは木更津ただ1駅である

AKB48の「会いたかった」という曲があり、このMVは今も容易に見ることができ、那古船形駅がロケ地となっている。チラリとしか出てこないが、駅舎は現在の塗装ではない1918年(大正7)開業時のそのままの姿。メンバーが追いかける列車もいわゆる「スカ車」である。AKB48というと、ついこの間のことのように思えるが、リリースは2006年10月で17年前。たった17年というか、わずか17年というか、走る電車を見るだけで隔世の感がある

帰路につく。わかしおを利用。安房鴨川~東京と完乗するのは、これが初めて。もちろん自由席だが、こちらも今春に全車指定席という変革がある。また内房線、外房線から京葉線経由でダイレクトに東京を目指す朝の快速廃止問題は、もはや全国ニュースである

ここからは青春18きっぷの出番はない(新大阪に到着してから再登板するが)ので乗車券は大阪市内まで。この乗車券は年間にどのぐらい売れるのだろうか

東京着。18時ちょうど発の新幹線に乗車したが、この時間にホームに降りても駅弁を買ったりしていると、すぐ新幹線の発車時間となった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~豪華な簡易的駅舎のお披露目直後

太海駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

安房鴨川まであと1駅

太海に到着。郵便局と一体となった江見までたどり着いた後、少し戻ってまた進んでを繰り返しながら、太海へ。駅名標で分かる通り、隣駅は内房線の終点である安房鴨川。こうした各駅訪問にふさわしい表現かどうか分からないが「リーチがかかった」状態である

その太海駅は独特な駅舎となっている

なかなか立派ではあるが、簡易型の駅舎である

手前の青いものは波を表していると思われる。JR東日本のプレスリリースによると

「駅から海を眺められる環境を活かし、自然を感じ取ることができる駅としています。電車をお待ちいただきながら、駅前広場側からは海を、待合室側からは山を眺めることができます」とある

また「構造体に木材を採用することで、潮風による塩害に強い駅としています」「壁材にも木材を使用し、炭素固定の量を増やし、環境負荷を削減しています」「周辺の風を取り込み、風が抜けやすい駅形状とすることで、待合室等の温熱環境を改善しています」とも

要は最近流行りの簡易駅舎とは、ひと味違う細かい気配りが随所にちりばめられているということだろう

駅舎内のベンチに驚き

そして、もうひとつ「新駅舎のベンチは、(公社)土木学会・東京大学・會澤高圧コンクリート(株)と連携し、最新の技術を用い、コンクリート3D プリンタで製作しています」とあるが、そのベンチがこちら

最初に見た時「わー!駅舎内にソファーがある」と思ってしまった。もちろんプレスリリースにある通り、コンクリート製である。同じくプレスリリースにある通り、木がふんだんに使われている。これは簡易的な駅舎では珍しい。とくに最近のバス停のような簡易駅舎とは大きく異なる構造だ

そして全くの偶然だったが、駅舎の使用開始は12月14日。私の訪問は、まだお披露目から4日目のことだったのだ。写真で分かる通り、到着直後から雨が激しくなり、外にはいられなくなって駅舎内で過ごすことになったのだが、どこで聞いて、どんな関心を持ったか分からないが、わざわざ駅舎を見にきたグループが私の滞在中に2組もあった。ともに車でお越しになっていて、どう見ても同業者(鉄道ファン)ではなかったので、車でわざわざ立ち寄ったのだろう

雨のため一堂が駅舎内に居座ることになり、人を避けて写真を撮るのが大変だった。できれば、駅を見にきたついでに列車にも乗ってみよう、となれば鉄オタの私にとってはうれしいのだが、さすがにそれはかなわなかった

観光資源に恵まれた場所

太海駅は1924年(大正13)の開業。江見からの1区間、4・6キロが開通して一時的に終着駅となった。ただ安房鴨川までのたった3・4キロの開通は、さらに1年後だった。以前の記事でも触れたが、シャクトリムシ的なジワジワした前進である

太海駅は1955年まで存在した太海村に基づく(江見町を経て現在は鴨川市)。いくつかの村が合併した際に「太平洋」と「海産物」が複合された村名が付けられたという。ただ、村ではあるが、観光資源にも恵まれていて、海水浴場はもちろん、漁港や変化に満ちた海岸線、千葉県で最も大きな島である仁右衛門島があり、宿泊施設も多い。新駅見学に来た方々も、観光や宿泊のついでだったと思われる。それだけに開業時からの駅舎を解体しての簡易型駅舎への移行は意外といえば意外だが、観光地に敬意を表した精一杯の簡易型移行だったのかもしれない

もっとも駅舎は新しくなったが、ホームはそのまま。枕木の柵などは鉄道風景の古典に属するものだ。さて、お次の安房鴨川でゴールである

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~全国各地にある「おめでたい駅」

千歳駅のきっぷ回収箱

※訪問は2022年12月17日

千葉の「千歳」

千歳駅で下車

千歳というのは「鶴は千年亀は万年」に基づいたもので、とてもおめでたい言い伝えにちなんだ地名が全国に数多くある。駅名も「千歳烏山」(京王線)、「千歳船橋」(小田急線)とあるが、単なる「千歳駅」は当駅と、北海道の空の玄関口である新千歳空港を持つ都市の千歳駅の2つしかない。2つしかない、というより「2つもある」と言った方が正しいのか。国鉄そしてJRの駅は同名駅を避けるため、国名を入れるなどして区別するようにしているが、北海道の駅については平然とダブらせていることが多い。歴史だけを見ると、開業は北海道の千歳駅が1926年(大正15)、千葉県の千歳駅が1927年(昭和2)と、わずかに北海道の駅が先だが、ともに駅名の変更はなく今日に至る(その一方で「落合」については何も付かないのは北海道の駅だけで、その駅が来春になくなり、JRには「単なる落合駅」がなくなってしまう)

北海道はアイヌ語に源を発する地名が多いが、千歳については、それまでの地名の「シコツ」(アイヌ語で「大きな窪地」の意味)の響きが悪いと、鶴が多く住んでいたことから、江戸時代末期に現地名となったという

千葉県の千歳駅は1954年まで存在した千歳村に基づく。千歳村が千倉町と合併する形で新たな千倉町が誕生したが、翌年に旧千歳村の一部が千倉町から「脱退」する形で周辺自治体と合併。「丸山町」が誕生した。結果的には半世紀後の2006年に丸山町は千倉町などと合併して南房総市ができ、同じ自治体となったが、そのような経緯もあって「千歳」の名は駅名と海岸ぐらいしかとどまっていない

歴代が簡易的駅舎

駅舎は簡易的なもの。内房線で見てきた竹岡駅、九重駅と同じ形だ。1921年(大正10)に南三原まで延伸された際に駅は設置されず、6年後に仮乗降場として開業。3年後の1930年(昭和5)に正式駅となった。単式の棒状ホームだが、過去に1度も構内ですれ違いができるようになったことがない、ある意味貴重な駅で、現在の姿になった2007年より前は貨車利用の駅舎という、首都圏では貴重な存在でもあった

待合所のような駅舎から小さな階段を昇ると、すぐホームである

千歳発富浦行きに注目

駅前にはポツンと商店がひとつ。時間はすでに13時半。朝食を7時前に摂って以来、何も食べていなかったので

ポテトチップスと暖かいボトル缶が本日の昼食である

簡易的な駅舎だが、お隣に立派なトイレはある。12月の冷たい雨が降ってきた。正直、この環境では相当冷えるが、安心して暖かい飲み物を摂取することができる

ちなみに内房線には既に紹介した南房総市役所の最寄りである富浦駅があり、当然ながら千歳発富浦行きの列車がある。そして北海道の千歳駅は千歳線にあるのだが、室蘭本線にも富浦駅があり、こちらにも1日1本だけ千歳発富浦行きの列車がある。「富浦駅」もまた全国で2つしかない。北海道の千歳駅には若干知名度で劣り、利用者数でも相当差がついているが(富浦駅は千葉県の圧勝である)、なかなか存在感を見せている駅だと思う

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~よく見てください その読み違いますよ

南三原駅の駅名板

※訪問は2022年12月17日

パッと見ではなく凝視しよう

南三原に到着。このあたりまで来ると、ゴールが見えてくる。奥に見えるのが駅舎

駅舎紹介の前にまずは駅名標

パッと見ると、何でもないようで素通りしそうである。「ハイハイ、『みなみみはら』ね」

だが、もう一度よく見る必要がある

縦のひらがなだけの駅名標を見ると、よく分かる。駅名は「みなみはら」

実は「ハイハイ、『みなみみはら』ね」と思い込んだのは私自身。駅でしばらく滞在したが気付かず、次の列車に乗り込む寸前に気付いたので、よく覚えている

開業は1921年(大正10)。先に紹介した千倉を含む安房北条(現在の館山駅)~当駅が開業した時に設置され、1年半にわたって終着駅だった。内房線の歴史を見ると、長い区間が一気に開業という例は少なく、シャクトリムシのようにジワジワ延伸されたことが分かる。1日でも早く鉄道を、という願いが強かったのだろう

駅名は当時の南三原村から。南三原村は戦後10年が経過した1956年に丸山町と和田町に分割されるような形でそれぞれ合併して自治体としては消滅したが(結果としては両町とも南房総市となったので同じ自治体に戻ったことになる)、村名は「みなみみはら」だった。では、なぜ駅名が「み抜き」になったのかというと、とてもいい加減な回答になってしまうが、現地ではどちらの読みも存在した、ということになる

このような例で有名なのは岐阜県の各務原市で、自治体は都市名と同じものを利用してもらうよう各所に要請しているが

JRの高山本線の駅名はご覧の通り、異なる。JR東海は今もきっちり駅名標に自治体名を入れるようにしているので、縦に並ぶと違和感を感じてしまう。読みも異なる。高山本線の全駅紹介がまだ終わっていないので、その時に詳しく扱うつもりだが、そのおかげで各務原市はテレビなどでよく特集される場所となっている

南三原も同じように歴史を深掘りして特集すれば、おもしろいものになると思う

太陽光発電を備えた駅舎

南三原駅は千倉駅へと「寄り道」した鉄路が再び館山からの主要国道128号と合流した地点にある。駅舎は海側つまり国道側に面しているため、各商店やコンビニも近い

駅舎は開業時からの駅舎が2003年に新築されたもの。当時の和田町が出資した。屋根には太陽光発電があり、小規模ながらも駅舎内にある多目的ホールなど、駅内の電力をまかなっている

駅舎内は木のぬくもりを感じさせるもの。業務委託駅で無人駅ではない

跨線橋から俯瞰すると、かつては2面3線構造だったようだ。レールは残るが架線もない雑草に覆われたレールの上を列車が走る予定はなさそうである。ただ保線車用の車庫は現役で、こちらは日常的に使用されている

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~千葉県最南端の駅は南房総観光の拠点

千倉駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

多目的ホールも備えた合築駅舎

千倉に到着。内房線の駅は「大正期の開業以来の駅」「簡易化された駅」そして「立派に建て替わった駅」の3つに分類されるが、ここは3つ目に該当。中でも最も大きな規模の駅舎を持つ駅となっている

立派な改札口で訪問時は駅員さんが出迎えてくれた

立派なコンクリート製の駅舎は2007年からのもの。開業は1921年(大正10)。安房北条(現在の館山)~南三原が延伸された際に設置された。当駅は旧千倉町の中心駅だが、2006年3月に周辺自治体と合併して南房総市が誕生。新駅舎が完成したのは2007年8月なので、新しい都市の誕生とほぼ同時期ということになる

駅舎内には観光協会が入居するほか、多目的ホールもある大きなもの。フォルムは千倉の風や波をイメージしていて町のシンボルにはふさわしい造りとなっている

最南端の駅と最南端の観光

そんな千倉駅は千葉県最南端の駅。そして館山駅と並ぶ房総半島南部の観光拠点のひとつでもある

船舶にとって東京湾の入口を示す野島埼灯台へは車で20分。灯台があるのは千倉町などとともに南房総市に参加した旧白浜町にあり、もちろんバス路線もある

駅の名所案内にも、しっかり野島埼灯台は記されているが、張り紙はバス会社が替わったからだと思われる。めくれている部分がかすかに「R」と読めるのは「JR」のようだ。白浜町は鉄路のない町ではあったが、かつては国鉄バスが主要路線となっていて、町の中心のバスターミナルは今も「安房白浜駅」と「駅」が付けられている。白浜だけでは和歌山の白浜とダブってしまうので、わざわざ「安房」を付ける念の入れよう。国鉄バスからのJRバスが主要路線となっている駅は今も大きく「乗り換え」案内があることが多く

以前紹介した嬉野温泉へのJRバスが出ている大村線の彼杵駅や

大島へ渡るJRバスが出ていた山陽本線の大畠駅(山口県)には、今も「のりかえ」と鉄道路線でもあるのかと勘違いしてしまう案内が残っているし

同じく山陽本線の光駅(山口県)には、目立つように光市の中心部である室積と記されているのは、当地への路線バスがJRの運行だからだ

白浜町のJRバスは現在、主に長距離を担い、かつての国鉄バス路線は日東交通に引き継がれている。千倉駅からのJRバスも東京行きである

わざわざ鉄路が立ち寄った規模の大きい構内

千倉駅の構内は広い。ホーム構造は2面3線。夜の最終と早朝には当駅始終着の列車も設定されている。跨線橋からの俯瞰や

ホームからの景色で駅の位置がカーブ途中にあることが分かる

こちらは駅前の観光案内図だが、こうして見ると内房線がわざわざ千倉に寄り道するかのように敷設されていることが分かる。重要な町だった。千葉県の最南端にして関東最南端の駅。内房線と同じく、わざわざ下車する価値のある駅である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~クジラをイメージした駅舎

和田浦駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

旧自治体名に「浦」が付いた

和田浦駅に到着

内房線と外房線は路線としては、もちろん別で外房線の特急「わかしお」は外房線の終着となる安房鴨川での折り返しとなるが、昼間を中心とした普通は東京・千葉への直通がある外房線の上総一ノ宮、内房線の木更津を結ぶ列車が運行され、「接続駅」となる安房鴨川は、あくまで途中駅となっている(長時間停車もあり)。安房鴨川が房総半島の南端でない以上、ある意味、合理的な運用で東京や千葉を目指す際は、どちら側からもアプローチできる選択制となっている

和田浦は、そんな選択が可能な位置にある

開業は1922年(大正11)で、南三原~江見の2区間が開通した際、途中駅として設置された。当時の和田町の駅。駅名に「浦」が付いたのは奥羽本線の「和田駅」が明治期に開業していたためと思われるが、旧国名ではなく「浦」が付けられた

首都圏唯一の捕鯨基地

駅舎は開業時からの駅舎を1996年に改築したもの。和田町は2006年に周辺自治体と合併。南房総市となったが、改築は和田町時代である。コンクリート製ではなく、美しい木造の駅舎となっているが、イメージはクジラ。和田町は捕鯨の町として知られ、現在も首都圏で唯一の捕鯨基地がある。江戸時代からの歴史を持つ

駅の入口と駅名板。入口の照明は細かくおしゃれなものだ

旧和田町役場の場所には「道の駅和田浦WA・O!」ができていて、市役所の支所である地域センターと隣接。そこには鯨資料館もある。コンビニも近くにあり、駅からも見えるが、駅舎は町の中枢である海岸沿い、国道沿いとは逆側にあり、到達するには回り道が必要で徒歩5分以上を要する。線路がやや高台を走っているため、海側に駅舎を設けられなかったようだ。そのためか駅前はロータリー以外はひっそりしている

現在は無人駅

駅としては国鉄時代に無人化されていたが、新駅舎の完成後、自治体委託によるきっぷの販売が再開。そのための窓口もあるが、その後再び無人化されている

完全に無人化されてから数年が経つので、他の駅の過去のパターンから考えると駅から海側に直接出られる出入口の設置も期待できそうだ。またそうしないと「無人駅の意味」がなくなる

駅舎内は広い待合室があり、ギャラリーにもなっている

駅前のオブジェ。基礎の部分はクジラをイメージするもので、そこにいるのはイルカである。おそらく単独の和田町時代からのものだろう

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天候に左右された2023年を振り返る(後編)

7月初日から足止め

7月は佐伯のホテルで迎え

早朝から名前シリーズを無事に全駅訪問。たった4駅ですが2日かかります。10月も同様の行動となるのですが、佐伯~延岡の超難関区間を訪ねる際は、必ず朝の6時台に活動を開始して7時台には強制終了となるので、ホテルに戻って改めて朝食というパターンが定着してしまいました。この日は蒸し風呂に入っているような気候だったので朝からあらためてシャワーを浴びたりする(笑)

ただ雨の方はというと最も活発な前線は九州を去ったようなので、すっかり安心

結果的に佐伯から延々と普通のみを乗り継いで日豊本線小倉に到着後、まだまだ明るいため、せっかくの旅名人きっぷなので小倉モノレールを堪能しているうちに前線が東に移動して山口県内のJRが全線ストップ。帰れなくなりました

もっとも足止め先が小倉という大都市だったので宿をとり、一度は残る1回の権利を持ち帰ろうとしていた旅名人きっぷは翌日に消化することにして事なきを得たのですが、山口県の鉄道網は、この時の雨で大きな爪痕を残しています

翌日は旅名人きっぷはフル活用して平成筑豊鉄道と

筑豊電気鉄道の両社に乗車。よく混同される両社ですが、全くの別会社。平成筑豊鉄道は元国鉄の第三セクター、筑豊電気鉄道は西鉄の子会社です

この月は四国バースデイきっぷを利用して

営業中の田井ノ浜駅で降車。コロナ禍が明けて久しぶりの営業となった海水浴用の臨時の当駅。訪問は青春18きっぷ利用初日の平日で、さすがにまだ人の姿は少なかった。自分の誕生日が7月で良かったと思える瞬間。この旅では香川県内の駅はほとんどいかなかったにもかかわらず、高松で2泊もしてしまい、どちらかというと「高松での飲み」が中心でした

雨のおかげでライトレール

この後は酷暑のおかげで行動は停止。急な葬儀で横浜に出かけることはありましたが、この後の1カ月間、猛暑の中で何をしていたのか、ほとんど思い出せません。活動再開は8月後半からで、残る4回の青春18きっぷをそろそろ使い切らないとマズいとなり、広島へ。当初は呉線方面へと出かける予定でしたが、三原で新幹線を降りると激しい雨のため呉線は遅延。山陽本線も遅延していましたが、しばらく経つとダイヤも復活しそうだったので、思いつきで瀬野で下車

久しぶりのライトレールは。おそらく私にとっては最後の乗車になりそうです

そして31日からは月またぎで北海道へ。これは私にとっては一生忘れられない体験になることは、ほぼ間違いありません

トラブル続出の北海道

到着の当日は天候にも恵まれ、旭川空港から順調に稚内へ到達

折り返しで抜海で降り立ち、地元の宿で楽しいひとときを過ごしたまでは良かったのですが、翌日に宗谷本線が全線でストップ。旅人宿「ばっかす」のご主人の機転で稚内→(バス)→札幌→(JR)→旭川というルートを教えてくださり、無事に旭川にたどり着くことができましたが、大回りをしての500キロもの移動はかなり大変でした

そして、これはあまり書いてこなかったのですが、北海道上陸とともにカードのトラブルが発生していました。カード会社も電話をくださるのですが、旅先の移動中ばかりで、うまく通話がつながらない。稚内でバスのチケットを確保してから出発まで2時間近い時間があったため、これは良い時間だと、こちらから電話。ただカード会社でよくあることで、オペレーターとの電話が全くつながらず

稚内に行ったことのある方なら、距離感が分かると思いますが、駅で電話をかけ、つなぎ放しにしたまま防波堤ドームまで歩き、探索して駅へ戻ったころに、ようやくつながった。感覚的には稚内から札幌までのバス6時間より、長かったです

カード会社との話はまだ終わらず、今度は向こうから電話をくれることになったのですが、当日は移動だけで電話に出る時間がなさそうなので

翌日に廃線予定の根室本線各駅を回って一度富良野に戻ってくるタイミングの、おそらく富良野カレー店の前で並んでいるであろう時間帯を指定したところ、ピッタリその時間に電話をいただき、電話を切った直後に入店の順番が来てトラブルは解決しました

北海道から帰ると今度は青春18きっぷの残る2回を消化すべく高山本線へ。あまり世の中で話題にならないのですが、廃ホーム上に神社がある角川駅が路線すべてで最も印象に残る駅となりました

9月は

珍しく観光で長野県の戸隠神社で戸隠そばを食べたりして

広島県の庄原で芸備線・木次線のイベントに参加

岡山での乗継ぎ割引もなくなっているので、岡山まではおとなび割引で新幹線を利用。岡山からは普通を乗り継いで備後庄原まで行ったのですが。3080円という運賃にビックリ。考えてみると、このあたりの区間って青春18きっぷのようなフリーきっぷか、神戸市内からの通し運賃でしか乗車したことがないので、こんなに距離があるとは実感できていませんでした

平日にもかかわらず、備後落合駅は件の1日1本の集合便に乗車する人でいっぱい。18きっぷの季節はもっと凄いのでしょうね

イベントを夕刻に終えると、バスで広島駅まで行き新幹線で帰宅。考えてみると、この日は一切、芸備線には乗車していない。この時間帯なら、このコースが最速なのでやむを得ませんが、芸備線のイベントに来て芸備線に乗らずに帰るというのは、ちょっと複雑な気持ちでした

完全制覇…とはならず

10月はハロー自由時間きっぷで九州新幹線の全駅訪問を達成。これで全国各地の新幹線駅すべてを訪問したと喜んでいたら、北陸新幹線の飯山駅という乗り残しがあったことに後で気付く。昨秋、JR東日本パスで上越新幹線と北陸新幹線の各駅を訪問した際に乗車した新幹線が飯山駅通過だったのです。わずか1駅だけ残して、これは痛恨。来春の敦賀延伸以降の課題となりそうです

この旅では再び宗太郎ルートにチャレンジして市棚駅訪問。またもや訪問後、延岡駅のホテルで朝食となりました

この後、鉄道の日記念パスでようやく高山本線の全駅訪問を達成

その足で名鉄訪問となりましたが

名鉄275駅で最も利用者の少ないこどもの国駅に寄ったり

信号の赤↔青だけで飽きない西枇杷島のデルタ線が楽しかったです

急な「主役」に驚き

11月は降り鉄にとっては、徒歩も苦にならない最も良いシーズンなんですが、歯科医の自費治療で会社員時代の1カ月分の手取りに近いお金が消えていったので、どこにもでかけず。12月の声を聞いて青春18きっぷによる外房線の全駅訪問を行いましたが、その後、大きなニュースになって驚きました

こちらが浪花駅時刻表。6時36分発の青文字となっているのが、話題となっている勝浦6時25発の1日1本の東京行き通勤快速です。この時は貴重な1日1本だなぁ、としか思っていなかったのですが、まさか県知事や市長、町長が正式抗議する事態になるとは考えてもいませんでした

前編より長くなってしまいましたが、おそらくそれは後半の方がアクシデントが多かったからだと思われます。年明けは青春18きっぷの残り2回分を使用すべくスタートするつもりです

皆さま、よいお年をお迎えください

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~9つの村が集まってできた

九重駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

再び館山市内へと戻る

安房鴨川から再び木更津方面行きの電車に乗り込み

九重駅で下車。格好いいキロポストは帳簿上の内房線の起点となる蘇我からの距離。江見からは20キロ戻ったことになる

内房線は房総半島に沿ってグルリと線路が走っている印象を持たれがちだが、館山からは、ちょっとショートカットするように安房鴨川を目指す。「ちょっと」としたのは、地図を見れば分かるようにそれでもやや南側に進路をとっている。本当にショートカットする国道と比べると、かなりの回り道となっているが、千倉町(現在は南房総市)を素通りすることはできなかったのだと思われる

当然だが、マイカーなど無縁で道路整備も行き届かない大正期には、どうやっても列車より早い乗り物などあるわけがなく、各市町村を丁寧に回りながらの敷設となり、現在全国のローカル線が苦戦する要因ともなっているが、これだけはどうしようもない

簡易型駅舎がお出迎え

九重駅は竹岡駅と同じ簡易的な駅舎となっている。2007年に現在の姿となった。全国各地で駅舎の簡易型が進んでいるが、この九重駅のように、かろうじて「駅」の形をとどめているものから、バス停と同様の超質素なものまでさまざま。こうして駅の紹介をしていると、どちらも同じ扱いをしていいのかと思ってしまうので、表現は前者については「簡易的」「簡易型」と「的」「型」という文字を入れるようにしている

開業は1921年(大正10)。現在の館山である安房北条~南三原が延伸された時に開設となった。駅名は当時の九重村に基づく。村の名前は明治期に9つの村が合併したことによる。現在、駅の住所となっている館山市二子(ふたご)は9つの村のうちのひとつである二子村に依る。九重村そのものは1954年に館山市に編入され、自治体としては消滅した

駅前には小さなロータリーがある。少し歩くと国道に出てコンビニにも容易に行ける

駅構造は単式。向かいのホームは一見すると現役のようだが、よく見ると生々しく線路がはがされた跡が残る。棒状化されたのは2021年3月で訪問時はまだ2年も経っていなかったので、レール跡がくっきり残っていた

旧駅からの駅名板

駅で目につくものがある

地元の九重小学校の生徒さんによる、心癒やされる手作りの駅名板。こちらは旧駅舎時代からのもののようで、現在の駅になっても残された

簡易的な駅舎ではあるが、お手洗いも設置されている。地域の中心である館山駅へは1駅。国道も近く、1日に3ケタの利用者がある駅である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~駅舎は郵便局として生まれ変わる

江見駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

70キロもトコトコ移動

青堀駅で館山~木更津の全駅訪問を終え、いよいよ房総半島の南に向かう。降りたのは

南国ムードのような木も見えるが、季節は真冬。草木にはあまり元気がない。すでに鴨川市に入っているが、青堀からは結構な旅だった

青堀から70キロ。東海道本線だと大阪から草津よりもまだ長く終着駅として有名な野洲まで行ってしまう距離。もちろん新快速のようなスピード違反の列車はなく、トコトコと普通で約1時間半。線路としては房総半島の南端をグルリと回って東京湾から太平洋に面するようになっている。決して乗り鉄ではなく、同じ乗り物に1時間も乗れば飽きてしまう私には、なかなかしんどい時間だった

自動ドアで駅舎へ出入り

江見駅は1922年(大正11)の開業。安房鴨川はもう目前だったが、南三原から当駅までが延伸された際に、とりあえずの終着駅として設置された。安房鴨川までつながるのは3年後のこととなる。長らく大正期からの駅舎が残っていたが、今は趣を異にする

ホームから駅舎を経て道路に出ようとすると自動ドアのお迎えがある。内房線の駅ではなかなかお目にかかれない。少なくとも大正期からのものでないことだけは間違いない

外に出ると

駅舎であり、郵便局でもあることが分かる

当駅は過去にも登場した

由利高原鉄道の子吉駅を訪問した時のものだが、駅舎の郵便局として江見駅も少し紹介した。子吉駅ではかなり前から簡易郵便局が入居しているので、このあたりは微妙な表現となるが、江見駅は「初めて駅と郵便局が一体運営化した駅」ということになる。郵便局業務と駅業務をともにこなしているからだ。それまであった開業時からの駅舎を解体して2020年に現駅舎&郵便局の登場となった

残念ながら土曜日ということで郵便局は休み。平日の営業時間内なら郵便局の窓口が並び、JRのきっぷうりばもある

「通向け」のこだわり

ポストにこだわりがある。もちろん駅舎と郵便局が併設されているので電車をあしらったものだな、ということは分かる。しかしよく見ると「形式」の後に「クモユニ74」と記されている。クモユニ74とは、かつての郵便車である(正式には郵便・荷物車)。房総半島には1974年にやってきた。ポストの塗装が青色とクリーム色の横須賀線カラー、いわゆる「スカ色」となっているのは、房総半島にやってきた際、スカ色に塗装され直されたからである。JRの声を聞くころには郵便輸送も終わりを迎え、1987年に車両の役割を終えたが、ポストとして蘇ったのである。窓口で郵便物を出すと209系の風景印を押してくれるそうだ

駅紹介の時は、江見駅の時に合わせて記そうと、あえて書かなかったのだが

同じ内房線の安房勝山駅も同じく駅業務と郵便局業務の両方をこなす駅として生まれ変わる予定となっている。来年の夏にも開業する予定で、そこからの情報は持ち合わせていないが、大正期からの駅舎をそのまま郵便局にはなかなかできないため、駅舎の建て直しが予想される。もしかするとすでに形が変わっているかもしれない

跨線橋からの構内風景。大正期からの駅舎が消えるのは寂しいことだが、立派な形で生まれ変わり、無人駅が有人駅となって人が集まるようになるのは良いことだと思います

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