JR

氷見線の各駅訪問~鉄道ファンならずとも憧れの景色は入場券の売れる貴重なローカル駅

雨晴駅の観光駅名標

※訪問は2020年3月1日

氷見線の代名詞

こちらは昨年9月に城端線のタラコ車内に掲げられていたもの。氷見線の雨晴海岸から立山連峰を望んだ写真であることは説明不要だろう

というとこで、今回の目的はもちろん雨晴駅からの、この景色である。鉄道ファンでなくても有名すぎるこの場面をお目当てに全国から(もはや各国といえるかもしれない)多くの人が集まってくる。そしてベストシーズンといえば、もちろん冬から春そして初夏にかけて。絶景はいわば氷見線の代名詞

ということで、氷見駅に着くと、折り返しの「べるもんた」を雨晴駅でキャッチすべくタクシーで先回りすることにする

自分の予想では2000円ぐらいだろうと思っていたが、3000円以上かかって、ちょっとビックリ。ただ、こういう時はお金ではないのである

とはいえ、往路のべるもんたの車窓からは

なんとなく結果が出ている気がするが、じゃあまた明日というわけにいかない

知名度は最高でも利用者数は最低

そして到着した雨晴駅。美しい光景で知られる割には無骨な感じを受ける駅舎だ。本来は古い木造駅舎だが、老朽化した外壁に手が加えられてこのような形となった。全景ではなく、この角度の写真しかないのは車が停まりすぎていたためである。ご覧のように駅前は手狭なので、400メートル離れた道の駅に車を置くことが勧められている

それにしても「雨晴」という駅名は実に素晴らしい。開業は1912年(明治45年)4月。すでに1900年に伏木まで中越鉄道が開通していたが、12年経って伏木~島尾が開業。途中駅となった。終点の氷見まで最後の1区間が開通したのは同じ1912年の9月である(7月30日から大正元年)

当初からの駅名だが、雨晴という地名はない。これは訪れた初めて知ったことだが、駅周辺の地域名は「太田」で駅の住所は氷見市でもなく「高岡市渋谷」。当然だが人が多数行き交うスクランブル交差点があるはずはなく、それどころか駅の乗降者は氷見線全7駅(高岡駅除く)で最小。2021年のデータでは1日の乗降者数は128人。6位能町が266人なので、この時点でダブルスコアである

それでも地元に委託された簡易委託駅でホームへの立ち入りは乗車券または入場券が必要となる(私は当時発売されていた、おとなびパスというフリーきっぷを持っていた)。事実、駅舎内には多くの人がいて入場券というのが当駅らしいポイントだ

ホームは2面2線。構内踏切で行き来する

駅の裏手はすぐ雨晴海岸。雨晴の由来は義経と弁慶に基づくもので、海岸で大雨に見舞われた義経を守るべく、弁慶が大きな石を持ち上げ、雨がやむまで、その石を傘代わりにして持ち続けたという伝説に基づくという。駅名を地名ではなく海岸名にしたあたり、当時駅名を考えた人のセンスを感じる

べるもんた到着

べるもんたがやってきた

列車が目指す先には立山連峰の美しい姿…といきたかったが、ホームに出た時、すでに答えは出ていた

こればかりはしょうがない。2015年にもチャレンジしたが見事に失敗していて、これで2打数ノーヒットだが、雨晴海岸からくっきり立山連峰が見られるのは年間で50~60日しかなく、青い空と白い山々となると、さらに確率は下がるという

この後、島尾駅にも立ち寄るつもりなので氷見行きのタラコに乗る。この写真だけでも背後の景色が異なれば、赤と白のコントラストで全く違ったものになっていたのだろう

さて、そんな雨晴駅だが、近い将来、簡易委託が解消されて無人駅になる。三セク移管後の展望は不明ではあるが、ローカル線の小駅ながら入場券が売れるという貴重な存在である。駅舎内の観光案内所が残るのであれば、せめて入場料ぐらいは徴収してもいいのではないかと感じてならない

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氷見線の各駅訪問~「べるもんた」で到着の終点駅には2つの地名表記

氷見駅の駅名標

※訪問は2020年3月1日

微妙な時期に乗車

話は4年前にさかのぼる

高岡駅から観光列車「べるもんた」に乗車。氷見へと向かった

美しい調度品と美味しい食事がべるもんたのアピールポイント。車窓には美しい海。正式名称は「ベル・モンターニュ・エ・メール」でフランス語で「美しい山と海」の意味だそうだが、これでは外国のお客さんにはアピールできても、日本人客にはアピールしづらい。ということで「べるもんた」の愛称の知名度が高い。週末を中心に高岡~氷見間を1日2往復する(始終着駅については新高岡、砺波、城端があって列車ごとに異なる)

キハ40を改良。扇風機にも列車名がしっかり刻まれているなど、なかなか凝っている

だが乗車時は大変微妙な時期だった。2020年の3月1日といえば、コロナ禍に覆われ始めたころ。ただきっぷを購入したのは、それよりかなり前で、なおかつ、その後社会生活において、あれほど制限を受けるようになるとは想像すらできなかった

飲食類の提供はまだ普通に行われていて、手指消毒というものもなかった

街の中心部までが遠い終着駅

高岡~氷見は16キロと城端線の半分程度。線内には区間運転はなく、普通でも30分で着いてしまう。べるもんたは停車駅は少ないが、景色の良い場所で徐行するので、やはり30分

氷見駅はもちろん氷見市の代表駅で氷見の観光拠点でもある。駅にはみどりの窓口もあり(やがて無人化されることは決まっている)、観光案内所も入居しているが、初めて駅に降り立った人は、街の中心部までの距離にちょっと面食らうはず

観光ポイントの目印ともなる忍者ハットリくんのからくり時計まで、徒歩で10分以上かかる。からくり時計のある湊川を渡ると商店街がある町の中心部で、さらに駅から遠のく

JR(国鉄)の駅と街の中心部が離れているのは、よくあることとはいえ、ローカル線の終着駅となれば、もう少し駅から近いものだが、駅ができた時期と町の歴史の古さにも理由がある

氷見駅の開業は1912年(大正元年)。氷見線の敷設は城端線と同じく中越鉄道が担ったが、1900年(明治33)に高岡~伏木が開業して以来、徐々に延伸。さて、いよいよ氷見まで到達しようとなった際、当初は港の予定地でもある湊川の河口付近に駅を設けることとなったが、町の真ん中を線路が走ることに難色を示す住民が多く、土地の買収に難渋。結果として現在の駅に落ち着いたという

実は2015年の10月、富山から氷見を目指していた私は、もちろん高岡経由の氷見線に乗車する予定だったが、富山の駅前で全く偶然見かけたのが

氷見の番屋街まで直通で行けるバス。道の駅でもある、ひみ番野街は、氷見駅からだと中心部を抜けてさらに北上しなければならないので駅から20分はかかる。これはラッキーと飛び乗り、そこから先は七尾行きの直通バスがあることを知り、氷見の町を散策することなく離れてしまったのだ

氷見と比美、2つの表記

氷見の地名の由来は、氷見市のホームページによると「海の向こうに立山連峰の万年雪が見えるので氷見」「海の漁り火が見えるので火見」「海が干しあがった場所なので干海」と、地名の由来には諸説あるという

そしてもうひとつ、市内には「比美」がある。あるというか町の中心で、先述した商店街は「比美町商店街」。奈良時代の万葉集に「比美乃江」という言葉が出ていて、現在も公園や橋の名前にもなっている。これは混在しているというより、使い分けができているようで、コンビニにも「氷見比美町店」が見られる

というような氷見駅周辺の散策もしたいところだったが、折り返しのべるもんたを途中で捕まえる、という作戦があったため、駅からタクシーに乗り込むこととなった

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城端線の全駅訪問を思いつく~最後の駅も昭和26年組で全駅乗降完了

東野尻駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

「おなじみ」のスタイル

東野尻駅に到着。これで城端線のすべての駅を訪問したことになる。「すべて」といっても、高岡を含めわずか14駅しかないし、確実に1時間に1本の列車がやって来る路線なので、難易度は高くはない。駅間も短いところが多く、一部に徒歩を加えれば、あっという間に終わってしまうだろう。もっとも今回は初手が、猛暑の残る9月上旬だったので、とてもじゃないが歩く気はしなかったけど

さて、こちら東野尻駅は単式ホームに待合室のみ、という、ある意味城端線では、おなじみのスタイル。9月に最初に降り立ったの東石黒も同様だった。ちなみに同じ形式の両駅そして越中山田駅は、いずれも1951年(昭和26)の8月10日に開業した同じ誕生日の駅。路線そのものの開業や延伸ではなく、すでにあったわずか30キロの路線の途中駅が3駅も同時に開業するのは、戦後では、なかなかレアである

かつての東野尻村に基づく

待合室は昭和26年組や1956年に開業した林駅で一斉に更新されたもの。周辺には小さな集落と農地が広がる

ただし少し歩くとコンビニや大きなスーパーが国道沿いに並ぶ地域でもある。駅名は1954年まであった東野尻村から。東野尻村があったのだから、野尻村や西野尻村もあったが、今はすべてなくなっている。東野尻村は砺波町に編入されて現在は砺波市

野尻という地名は当時の庄川は今の流れとは異なり、小矢部川と合流していたことによるとされる(2つの川によって造られたのが砺波平野)。重要地域で野尻氏が野尻城を築き、支配していた。もっとも、それは「野尻村」の話で、現在の地域的には福野町に入る。最寄り駅で言うと高儀駅や福野駅。東野尻村は、その名の通り、やや東側に位置した

存続危機を乗り越え三セク移管

ホームと待合所のみの構造だが、1日の利用者は約300人と一定の数がある。砺波工業高校は、砺波駅より当駅の方がやや近く、その利用もあるようだ。ホームには地元の方々の手による花壇があり、彩りを添えている

そんな城端線だが、北陸新幹線の延伸時にはピンチがあった。前記事で新幹線がやって来た代わりに貨物輸送がなくなった記事を書いたが、路線そのものの危機がそれ以前にあった

北陸本線が三セク移管することで氷見線と城端線は高岡で接続する両路線以外は他の在来線と接続しない路線となってしまうことで、一時はJR西日本が城端線のバス転換もしくは運行本数の削減を表明。見方によっては「脅し」のような案だったが、これは地元の猛烈な反対により撤回。路線も運行本数もそのままで運行は維持されているが、このころから鉄路維持の動きが始まり、地元では氷見線との直通運転や電化が検討されてきた。地図を見れば2つの路線はつながっているが、旧北陸本線である、あいの風とやま鉄道のホームを挟んで城端線と氷見線のホームがあるという高岡駅の構造もあって、すぐには直通運転は難しい状況にある。観光列車の「べるもんた」は直通運転を行うが、高岡駅ではロング停車となっている

城端線の各駅で、1日の利用者数が1ケタという駅はない。コロナ禍の2021年のデータでも最小は東石黒駅の48人。2ケタは3駅のみと、非電化ローカル線としては優秀な方である。5年をメドとしている三セク移管までに新型車両の導入も順次行われる

高岡から15・5キロ。次回の訪問はいつになるか分からないが、変わりゆく景色をあれこれ想像しながら、素敵なキロポストを目に焼き付けて城端線を後にした

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城端線の全駅訪問を思いつく~新幹線開業と時を同じくして貨物列車が消えた木造駅舎

二塚駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

この駅をわざわざとっておいた

二塚に到着。1カ月前、青春18きっぷで城端線を訪れた際、2駅だけ残して撤退したのは、こちらをじっくり見たかったから。高岡または新高岡から城端方面へ向かうと、左手方向へ線路が分岐しているのが分かる

これは気になる。調べると、ついこの間まで城端線で唯一の貨物列車が運行されていたとのこと。いつか、じっくり時間をとって訪ねてみたいと思っていた

まずは位置関係

元々は高岡の次の駅が二塚だったが、北陸新幹線の延伸によって、その間に新高岡駅ができた。そのため新高岡までは至近。徒歩でも問題ない。途中に高岡市の運動公園やイオンもある。ちなみに城端線の前身である中越鉄道は、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったため、1897年(明治30)の開業時は黒田仮停車場を設けてとりあえずの起点としたが、仮の起点駅はこのあたりにあった

歴史を感じる駅

古くからの木造駅舎が残る

財産票によると1920年(大正9)からの駅舎。当駅の歴史は移り変わりが大きく、中越鉄道の開業から2年後の1899年、新たに二塚駅が誕生。駅名は当時の二塚村に由来する。鎌倉時代に当地で亡くなった武将の遺言によって2つの貢ぎ物を埋葬したことで二塚の地名になったとされる

だが、この駅はわずか3年で廃駅となってしまう。当時の村の集落から離れていて利用者が少なかったようだ。復活は12年後の1914年(大正3)。停車場として再開業。廃駅となった時も簡易な停車場だった。正式に「駅」となったのは財産票の1920年で、中越鉄道が国鉄に移管された時。その際、現在の駅舎が建てられた。今でこそホームだけの簡易駅は珍しくないが、当時は「駅」というのは偉いものだったのだ

立派なホーローの駅名標が健在である

なお二塚村は戦時中の1942年に高岡市に編入されて自治体としては消滅した

2015年までは貨物駅

分岐線の話に戻ろう

駅そのものは2面2線だが、側線が今も残る。もっともレールがあるだけで列車が走ることはない

跨線橋から眺めると側線は城端線の線路をまたいで左奥に消えていくのが分かる

駅舎を出てそちらの方向に歩いていくと

分岐した線路は左奥へと進んでいき、その先に工場らしきものの煙突が見えるが、それが線路の目的地。中越パルプ工業の二塚工場

経路で隠されてしまっているがグーグル地図にはまだ線路が残っている

工場ができた1957年(昭和32)に専用線が敷かれた。貨物専用線としては新しい部類に入る。この貨物輸送は国鉄からJRになっても続けられ、1日に2往復の貨物列車が当地を走り、2015年まで続けられた。2015年といえば、3月に北陸新幹線の延伸で新高岡駅が開業した年である。時を同じくして貨物列車は臨時列車扱いとなり、半年後に列車そのものがなくなった(正式な貨物駅としての廃止は2017年)

貨物列車の休止とともに二塚駅にも変化が訪れる。駅の無人化だ

駅舎は立派だが、改札にはきっぷの収集箱があるだけ。貨物列車の運行に必要だった駅員さんはいなくなった。同様の事例は高山本線の坂祝駅でもある

駅舎には事務所もあるが、もちろん使用されていない

事務所内にはひょうたんが並んでいた

きっぷの窓口跡に加え、手荷物の受付跡もある。新幹線の開業と新駅の誕生は大きなエポックだが、同時に貨物列車の休止、駅の無人化という小さなポックがあったことを残してくれる駅である

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城端線の全駅訪問を思いつく~終点の城端への再訪からあらためてスタート

城端駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

乗継割引使用で8年ぶりの訪問

1カ月ぶりに城端線にやって来た。今回は「秋の乗り放題パス」を使用。前回、未回収だった2駅を巡り、その後に氷見線の未回収駅を経た上で富山に移動して高山本線の全駅訪問を終了させる(高山本線については先に記事化済み)

ということで

6時30分発のサンダーバード1号で大阪駅を出発

3時間かけて新高岡までやって来た

1カ月前は逆コースで帰宅したが、これだけ来ているのだから、あいの風とやま鉄道にも貢献しようと新幹線ではなくあいの風とやま鉄道で金沢へ

IRいしかわ鉄道との直通に乗車した。料金は870円。この時の乗継割引利用については

この時の記事で。結論からすると新高岡~金沢の特急料金は880円だが、1区間新幹線に乗車しただけでサンダーバードの料金が2400円→1200円になる。通しで乗車券を買えることや、スピードの違いを考えると、この春までは圧倒的に新幹線利用に軍配が上がる。制度そのものもサンダーバードも既にカウントダウンに入っているので、今のうちの利用をおすすめしたい

新高岡から乗車して約40分。終点の城端線で下車。前回の訪問が2015年10月だったので、8年ぶりの訪問となった

あらためて訪問の意味

8年ぶりでも変化は分からなかったが、写真では分かりにくいが、観光用のものも含め、駅名標がズラリ並ぶこの角度はやはりいい

終着駅の風情は全国どこに行っても癒やされる

今回の再訪問は城端駅でじっくり時間をとるためのもの。前回は滞在数分ですぐ折り返してしまう列車に乗ってしまい、慌ただしすぎた

もうひとつ言うと、昨年の今ごろ放送されていたトレビドラマ「最愛」で最寄り駅として城端がいつも登場していたのを見て、また行きたくなった。吉高由里子さんと井浦新さんは、今年の大河ドラマでも共演しているが、最愛ほど接する場面は多くはないようだ

旧城端町の中心駅で観光拠点

途中下車はせず、乗り潰しの人も必然的に下車することになるので、この駅舎は有名だ

財産票によると明治31年。1897年(明治30)に福光駅から当駅まで延伸されて全線開業した際に設置されたが、財産票の情報を信じると駅舎は翌年竣工したことになる。なお城端線の最初の記事でも記したが、城端線の前身となる中越鉄道は最初から当駅を終着駅としたため、未成線ではない

駅の周辺は町の中心部でもある。城端は絹織物で知られ、その輸送も担っての開業だった

駅舎には観光案内所が入居している。窓口は観光協会への簡易委託で、みどりの窓口はないが駅員さんはいるが、こちらも近い将来、無人化されることとなっている

こちらは観光用の駅名標

週末を中心に運行される臨時の観光列車「べるもんた」の出発駅

駅舎内の待合室に掲げられている駅名板はかつて駅舎外に取り付けられていたもののようだ

地味ではあるが、見どころのひとつがホーム上屋にある「海抜123・4メートル」の板。1から4までが順番に並ぶ珍しい数字で、旧字体で書かれた歴史を感じさせる案内板も、わざわざ残されているようだ

城端野市街地を越えると地形は急峻な山々に入っていく。山を越える人々にとっては重要な地域で、この地を巡っては多数の争いが行われたが、数々の為政者がやって来たことで町には多様な文化が持ち込まれ、絹で栄えたこともあって越中の小京都と呼ばれる町が形成された

鉄道ができ、道路が充実すると白川郷を目指すバスの発着地となり、観光の拠点ともなった

ただ道路の充実やコロナ禍でバスで白川郷を目指す導線は高岡駅、新高岡駅が中心になっているようだ。それでもすべてのバスは城端駅を経由する。素通りせずに鉄路とのセットで世界遺産を目指してほしいものである

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城端線の全駅訪問を思いつく~沿線で最も大きな駅は県内初の橋上駅舎

砺波駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

127年で2度の建て替え

この日、最後の訪問となる砺波で下車

沿線では高岡そして新幹線の接続駅である新高岡を除くと最も利用者の多い駅である。2022年度の1日平均は1866人。コロナ禍前よりもそれほど減っていない

橋上駅舎を持つ。開業は1897年(明治30)5月で、これは福野駅、戸出駅と同じだが、戦後に国鉄コンクリート駅舎になり、1998年(平成10)に現在のものへと2度の改築が行われている。これは富山県内で最初の橋上駅舎だった。また城端線では高岡を除くと唯一の橋上駅舎でもある。127年にわたり、同じ姿の福野、戸出とは真逆の歴史を持つが、これは利用者の多さからのものだろう

みどりの窓口あり。「もちろん」と付けたいところだが、当駅レベルでも近い将来の無人化が決まっている

鉄道のみならず道路交通の中心部

駅の周辺一帯には砺波平野の中心部である砺波の街が広がる。駅は鉄道のみならず、地域の交通の中心にもなっていて地域の路線バスのみならず、白川郷を経由して高山に至る路線のほか、東京、大阪への長距離路線バスも当駅から出ている。また北陸自動車道と東海北陸自動車道の結点でもある

また砺波といえば

道路に描かれているようにチューリップがあまりにも有名

チューリップ公園は駅からも十分に徒歩圏となっている

変わったの駅舎だけではなく

さて駅前の案内標を見るとチューリップ公園ともうひとつ、出町子供歌舞伎曳山会館の文字がある

子供歌舞伎は当地で200年以上演じられているものだが、「出町」とは現在の砺波市の中心部をなした自治体。戦後の1952年(昭和27)に周辺の自治体と合併して砺波町が誕生。「となみ」の自治体はそれまでなく、出町の所在は礪波郡出町。砺波町が発足して東礪波郡砺波町となった。郡の名前は旧字で町名は新字体を使用。砺波町はすぐ砺波市となったが、東礪波郡、西礪波郡の名は平成の大合併まで続いた

自治体名の変更により、駅名も変わった。駅の開業時は自治体名にちなんで出町駅だったが、1954年に砺波町が砺波市となったタイミングで砺波駅へと改称されている。自治体名が変わっても駅名はそのまま、という例は案外多いが、こちらはすんなり移行されたようだ

ということで昨夏の青春18きっぷはここまで。未訪問駅を2つだけ残しての撤退となったが、いずれにせよ秋の乗り放題パスを使用して、10月にまた高山本線に来なければならない。また氷見線にもいくつかの未回収駅があり、そちらを合わせると今日だけでは終われない。城端線の未回収駅のひとつは、じっくり味わいたい駅でもあり、また城端線もゆっくりと再訪したい。1カ月半後の再訪で出直すことにしよう

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城端線の全駅訪問を思いつく~県内最古参の駅舎は復活の駅名板も丁寧に保存

福野駅の駅名板

※訪問は2023年9月10日

「ほどほどに」ゆえの保全

福野駅に到着。見ただけでクラシックな雰囲気が漂ってくる。富山県では北陸本線がやって来る前に現在の城端線である中越鉄道が県内最初の鉄路となったことは以前記した。また国鉄とともに使用する予定だった高岡駅の位置が決まらなかったため、黒田仮停車場を今の新高岡駅あたりに設けて仮開業したことも紹介した。その仮開業は1897年(明治30)5月。その年のうちに線路は城端まで到達しているが、5月の開業は、こちらの福野までだった。設置されたのは仮停車場の他に戸出、出町(現在の砺波)そして福野の3駅。仮停車場は高岡駅の開業とともに消滅したので、残る3駅が県内で最も古い駅となり、当時からの駅舎が今も現存すれば、それがつまり富山県最古の駅舎ということになる

127年前という気の遠くなりそうなぐらい以前のこととなるが、福野駅の写真で見れば想像がつくように、今も当時の駅舎がしっかり残っている。それが当駅と戸出駅。言い方は悪いかもしれないが、これはローカル線ならではの事象。沿線で最も大きい町で利用者も最も多かった砺波駅(高岡を除けば、今も新高岡に次ぐ2位)が、開業後2回も改築されたことでも分かるように、利用者が多かったり幹線上にある駅は改築、改修される運命にある。逆に利用者が少なすぎると今度は簡易化されてしまう。つまり本数、利用者とも「ほどほど」が残りやすい

こういう条件は満たそうとして満たせるもものではなく、それこそ時の流れに任せるしかないのだが、戸出、福野の両駅は条件を見事にクリアしている

さて、次は2駅のどちらが古いのか、という比較になるが

こちらは福野駅の財産票。明治30年5月とは開業時。そして当然といえば当然だが、戸出駅にも全く同じものが張られている。となると「最古」の基準は、いつ建物が完成したかになるが、これについては調べても分からなかった。というか、駅は人または貨物が使用してこそなので、現役であればこそ。開業は同じなので、私としては両雄を並べた上での「最古の駅」としたい

かつてのターミナル駅

現在は南砺市に所在するが、2004年の平成の大合併までは福野町の中心駅だった。さらには加越能鉄道加越線の乗り換え駅でもあった。加越線は北陸本線の石動駅から福野駅を経由、井波町を経て庄川町へ向かっていた路線で、大正期から運行を開始し、1972年(昭和47)まで営業していた。井波駅は寺院風の駅舎で知られ、登録有形文化財として今もバスの待合室などに利用されている。現在は福野駅からバス連絡である

福野駅には、もうひとつ見逃せないものがある

改札を入ってすぐ左手、跨線橋に向かう途中にある、これまたクラシックな駅名板。駅舎に掲げられていたものが、一時破棄されてゴミ扱いとなっていたが、しっかりアクリル板でカバーされて復活した。これだけでも見る価値はある

駅周辺は旧福野町の中心部

有人駅で、みどりの窓口あり。こちらも福光駅と同じく簡易委託ながらみどりの窓口がある(こちらも福光駅と同様に将来は無人化の予定)という珍しい形式。なにげに「自動券売機」の文字がシブい

訪問時はまだまだ暑い9月初旬だったが、冬を感じさせる車両がホームから少し離れた場所に残る駅名標と並んでいた。いつも置かれているのか、冬への準備のために出てきたのかは分からなかったが、きっと今はこちらの車両が、活躍しているのだろう

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城端線の全駅訪問を思いつく~見渡す限りの農地は最も新しかった駅

林駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

所在地は東藤平蔵

林駅に到着。これまで巡ってきた城端線の駅は、棒状ホームと待合所のみであっても周囲は住宅街というものがほとんどだったが、こちらはホームに立つと見渡す限りの田畑となっている

開業は1956年(昭和31)。城端線に戦後誕生した駅と同じく、当初から待合所と単式ホームのみという簡素な構造で、旅客扱いのみ。貨物を扱ったことはない

2015年に北陸新幹線の金沢延伸で新高岡駅が開業するまで、林駅が路線内で最も新しい駅だった。現在も1日の利用者は50人にも満たない駅が、なぜわざわざ設置されたかというと、二塚~戸出の駅間が長いという理由があったとされるが、その間はわずか4キロ。それでも確かに城端線内では長い方で、戸出~油田の3・4キロが最長で他はすべて3キロ未満である

だから一見、田畑の中にポツンとある駅だが、高岡の市街地まではすぐでホームからも見える

わざわざ歩く人はいないだろうが、高岡駅までは1時間で到達できてしまう。私が山中のローカル線駅訪問でたまに繰り出す徒歩移動の距離だが、その間に二塚、新高岡と2つの駅がある

駅の所在地は「高岡市東藤平蔵」。どう読むのか困ってしまうが「ひがしとうへいぞう」。元々の村の名前で、一体を開墾した「藤平蔵」という人に由来する。江戸時代までは東藤平蔵村と西藤平蔵村があった

全国初の例として移管が認定

この記事を書いているのは2月9日だが、さる8日に国土交通相が、富山県などから申請されたJR城端線・氷見線のt鉄道事業再構築実施計画を認定した。昨年10月の改正地域交通法施行後、全国で初の例になったという

改正法は自治体と事業者が路線のあり方を議論し、利便性を高めて交通網の持続性を高めるもの。報道によると、今回の認定により、2029年をめどに氷見線と城端線があいの風とやま鉄道に移管され、新型車両の導入やIC乗車対応が行われる予定。毎時同じ時間に発着するパターンダイヤが実施して運行本数を増やすことも目指す。国とJR西日本からも、それぞれ100億円以上が負担されるという

かなり順調に推移していきそうで、新型車の導入やパターンダイヤの実施は旅客サービスの向上にもなる。もっとも、この改正法には、自治体や鉄道事業者からの要請によって、地方鉄道の存続やバスへの転換などを議論する協議会を国交相が設置できる項目もあり、対象となっているのは、こちらも何かとニュースとなっている芸備線。多くの援助がある一方、国の決断によって廃線が行われるという地元にとっては正負両面の法律でもあることも知っておかなければならないだろう

林駅など、待合所とホームのみの駅にも変化が訪れることになる。ちなみに「林」は高岡で多い姓だという

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城端線の全駅訪問を思いつく~ホームから目につく「列車」は?

福光駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

城端線の最初の終着駅

福光駅に到着。南砺市は平成の大合併の2004年に福光町などが合併して成立した。旧福光町役場を利用した南砺市役所の最寄り駅

市役所までは徒歩ですぐ。市役所の先に小矢部川が流れ、川をはさむように町が広がっているが、旧来の町の中心部は、その川の向こう側である

旧福光町の中心駅にして現在は南砺市の中心駅なので立派な駅舎を有する。私の道程が偶然そうなったのだが、城端線の駅紹介で。ようやく本格的な駅舎の登場となった

開業は1897年(明治30)と歴史は古い。城端線の元となった中越鉄道の開業も同年だが、福野までだった鉄路が当駅まで延伸され、一時的に終着駅となった。現在のロッジ風コンクリート駅舎は1983年(昭和58)からのもの

駅前にはD51の動輪が保存されていた

ユニークなみどりの窓口

高岡方面から到着するとホームの待合所で立派なホーローのお出迎えがある

この字体はなんと言うのだろう。同様のホーロー板は改札付近にもある

見たところ、同じもので同時期の製造と思われる。こんな立派なものが2つも設置されているとは、なかなか貴重

待合所には、もうひとつホーローが健在で目の保養になる

改札には、これもまた古典的なラッチが現役で、ご覧の通り、みどりの窓口もある。こちらは、なかなかユニークで、JR西日本のおでかけネットによると、みどりの窓口はあるものの、EXサービス、e5489のきっぷ受け取りは不可。当駅の窓口業務は駅を使用するタクシー会社に委託されていて、簡易委託駅ながらみどりの窓口があるという、今ではなかなかお目にかかれない形式だ

もっとも、このユニークな形式もそう時間が経たないうちに終了して、無人化されることとなっている(少なくともこの記事を書いている時はみどりの窓口が存在している)。福光駅では3年前に駅舎と逆側にも新たに無人の東口が設置され、跨線橋が自由通路化されている

これは何でしょう?

福光駅で車窓からも否が応でも目立つのは

車両仕立ての構造物。造られてから、それなりの歳月は経っているようだが、これは気になる。早速見に行くと

なんのことない駐輪場だったが、それぞれの置き場には列車名が張られている。白鳥と日本海は大阪~青森の長距離特急。特に白鳥は1000キロ以上もの距離を12時間以上かけて走る最長の在来線昼行特急として名をはせた

そのほかにも「雷鳥」「白山」があったので、北陸に縁のある列車に絞られているのかと思ったら、そうとも限らない。ただ、この列車名駐輪場は「のぞみ」登場以前のものだったことだけは確実で、そのころは白鳥も日本海ももちろん現役。30年以上の歴史があるようだ

これを見られただけで何だか楽しい気分になった

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城端線の全駅訪問を思いつく~何よりも最優先事項で訪問となった駅

高儀駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

ひらがなだと一層気分が

やって来たのは高儀駅。お察しの通り「たかぎ」駅で、今回の訪問ではまず時刻表チェックから始めた

私が知る限り、「高木駅」は日本でひとつしかない

福塩線の高木駅(広島県)で、これは年明けの1月10日に3年ぶりに訪れたもの

もうひとつ、身近なところ、神戸のお隣の三木市にも、ついこの間まで高木駅はあった

三木鉄道の高木駅。国鉄三木線が三セク三木鉄道に転換されたものの、2008年に廃線となった。こうして見ると普通の道路にしか見えないが、駅の跡地であることを教えてくれる案内板があるので往時をしのぶことができる(訪問は2019年11月)

三セク転換後に設置され、約20年の存在だった

そして今回の「高儀駅」である。城端線の訪問は急きょ決めたが当駅だけは、そこそこの滞在時間がとれるよう日程を考えた

縦駅名標は平仮名とローマ字のみの表記なので、より気分が高揚する

19世紀から120年以上の歴史を有する

高儀駅は砺波市との境界線近くにある南砺市の駅。平成の大合併前は福野町

市境の線引きがやや複雑だが、駅から1~2分歩くと砺波市に入ってしまう。開業は1899年(明治32)だから、19世紀生まれで120年以上の歴史がある。少し前の1897年に城端線の元となった中越鉄道が開業していて、砺波(当時の駅名は出町)~福野の間に設置された。高儀の住居表示は今も残っていて、駅から10分ほど南に歩いた場所となる。現在は当駅と砺波の間にもうひとつ東野尻駅ができているが、設置当時は東野尻村からのアクセスも考慮されたという

そんな歴史ある高儀駅だが

現在は簡易的なコンクリート駅舎。駅としては1970(昭和45)に早々に無人化された。現在の形になったのはJRとなった1987年(昭和61)なので、この駅舎になってからも40年近くが経過している

その時に構内は棒状化された。かつてのホーム跡は40年の歳月を物語る

現在の姿となる前は開業直後からの木造駅舎が残っていたようで

駅前広場と花壇に面影を残す

駅舎内の待合室はきれいに清掃されている

私は「高木さん」には出会ったことがあるが「高儀さん」には出会ったことがない。富山県を中心に北陸方面にはいらっしゃるようだ。町村制度が始まった明治以降では高儀という自治体は誕生しなかったが、高儀村は江戸時代にはすでにあった地名らしい

せっかくなので駅名板もあるだけ撮っておこう

こちらが駅舎の外側にあるもの。凸型になっているあたり、40年前は簡易的な駅舎にするにしても工夫が凝らされていたことが分かる

こちらは内側のもの。年月を経てかすれた感じがいい

今回の駅訪問で最重要とした駅に立ち寄れてとても満足して当地を後にした

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