西脇駅

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その10 廃線の影響を聞く 鍛冶屋線跡も少し紹介

※訪問は2024年12月10日

喫茶店で休憩

西脇駅跡を散策して少し休憩することにする。といっても朝が早かったため、時間はまだ10時にもなっていない。いくら西脇の中心部とはいっても、まだ飲食店は開いていない時間だが、喫茶店はあった

モーニングをいただく。店内は地元の方々でにぎわっていた。いずれも私よりも年配ではないかと思われる皆さんと、お話をしながら西脇の現状などを教えてもらった

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鉄道駅がなくなったことで

古くからの駅には2つのパターンがあって、すでに土地がない、鉄道が嫌われたなどの理由によって町はずれに設置されるパターンと町の中心部に設置され、その後も駅を中心に町が発展してきたパターンに分類される。県庁所在地の駅などは、前者のパターンが多く駅を降りたら何もなくて、あ然としてしまうが、西脇については後者だったようだ。「本町」という地名が駅周辺に残るのもそういうことだろう

ただ駅がなくなって30年以上が経過し、町の中心部は空洞化が目立つようになったという。前記事で年に1回、仕事で必ず西脇を訪れていたことを記したが、いつも車だったと話すと「車なしの生活は無理」と教えられた。廃線時期は全国各地に、いわゆるロードサイド店が広がっていったころで、そういえば西脇周辺での食事も駐車場付きの道路沿いにある店ばかりだった

旧西脇駅周辺は新しい大型ビルやマンションが目立つ。おそらく昭和以前からのものであろう古くからの街並みを抜けると急に目の前にビルが現れるという印象だ。いずれも廃線後に建てられたものであることは容易に察しがつくが、その一角にホテルがあり、1階部分はバスターミナルとなっている

神戸、大阪までのバスも出ているが本数は決して多くはなく、特に神戸行きのバスは少ない。以前は満員のお客さんを乗せていたそうだが、神戸の中心部へ行く際はもっぱら車を利用。三宮の駐車場は料金が高く渋滞が多いので明石や西明石に車を停め、新快速で三宮に出るという。西脇から神戸の西側へは国道175号線があるが整備が進み、途中のバイパス部分も完成して有料自動車道を使用せずともアクセスは容易になっている

途中、神戸市営地下鉄の西神中央駅付近も通るので、地下鉄乗り換えでのアクセスもある。どうして、そんなに詳しいのかというと、道中の三木も含めた西脇へのアクセスをいろいろな方法で試したことがあるからだ

鍛冶屋線の廃線跡

さて文中で鍛冶屋線について何度か触れたが、鍛冶屋線は西脇から北へ伸びていた野村(現西脇市)から鍛冶屋を結ぶ13キロの路線である

もう少し先まで延伸する計画だったが、鍛冶屋駅までで建設は終わった。もともとが播州鉄道という私鉄の手によるもので、他の国鉄線とつなげる予定はなかった。旅客輸送の他にも地場産業の中心だった播州織の生糸を運搬する重要な役割を担っていた

13キロなので車だとすぐに到達してしまう。今から10年前の5月に廃線跡、廃駅跡を回った

10年も経過しているので改めてまた訪問しなければならないと思っているが、当時の写真を少しだけ紹介する

車両が保存され鉄道記念館もある市原駅跡

中村町跡は公園となっていた

そして鍛冶屋駅跡

こちらも車両が保存され公園化している

さて楽しかった喫茶店トークも終わり、そろそろ西脇市駅へと向かうことにしよう。徒歩だと20分ぐらいだとのこと。「一番分かりやすいのはロイヤルホテルの南側の突き当たりを真っ直ぐ進むこと」と教えられた

そこに行くと

「やすらぎの道」とあるが、なんて分かりやすいんだ。これはどう見ても廃線跡である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その9 歴史に翻弄された都市の中心駅は今

※訪問は2024年12月10日

新西脇駅から旧西脇駅跡を目指す

新西脇駅からすぐの場所に加古川を渡る橋がある。ここを渡れば西脇市の中心街へと入る。前記事でも触れたように新西脇駅は中心部まですぐの場所に位置しながら利用は極めて少ない。不思議なことだが新西脇駅が設置された際、目の前に橋はなく、かなりの大回りを強いられていたらしい

ここから徒歩で旧西脇駅跡へと向かう

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徒歩約20分の道程

加古川の景色を見ながら橋を渡るとコンビニがあり、古くからの街並みが広がる

途中から急に一方通行になったりY字路が出てきたりと、古くからの町がアップデートされながら道路ができていったことが分かる

旧西脇駅跡までは徒歩約20分。実際は町の中の狭い道路を進んだが、とにかく県道54号まで北上すれば、そこはかつて西脇駅からのメインストリートだった道路で、真っ直ぐ進めば旧西脇駅跡である

西脇駅跡に到着

いかにも中心部の周辺

周辺には複数の銀行や商工会議所などが並び、ここが駅跡と知らなければ、一体何だと思ってしまう。街路樹のふもとの歩道がいかにも廃線跡

こう見ると、なお分かりやすい

会社員時代の数年間、50歳を超えてから年に一度必ず西脇に来ていた。だからここ10年ぐらいの話で比較的最近のことだが、訪問先が車でしか行けないところだったため、ここに来るのは初めて

西脇駅の歴史が記されている

運命の分岐点

加古川線の基礎となった播州鉄道は、まず加古川から当駅までの敷設を行った。加古川線は加古川の水運の代替交通として計画されたため、沿線の小野や社といった町は中心部から離れたところに駅が設置され、後に苦戦の原因となるが、ここ西脇に限っては町の中心部に駅が設けられた。1913年(大正2)のこと。1921年には北へ向けて延伸が始まり、約12キロ先の鍛冶屋まで到達したのが1923年のこと。この年のうちに経営は播丹鉄道へと変わり、翌1924年に野村(現西脇市)~谷川が開業。西脇を含む野村~鍛冶屋は支線となり、1943年(昭和18)の戦時買収で国鉄の加古川線と鍛冶屋線に分かれるが、後から思えば、これが運命の分岐点だった

ただ加古川線と鍛冶屋線という2つの路線に分かれながらも、流動は鍛冶屋線の西脇までが圧倒的に多く、加古川から西脇までの直通運転が行われていた。JR移管から1年が経過した1988年3月の時刻表(復刻版)を見ると、加古川~西脇は1日に21往復もの運行があり、半数近くが西脇止まり。また西脇から野村を経て谷川に至るという変則運転もあったため、野村~西脇に限れば25往復もの運行があった。そもそも時刻表は加古川~鍛冶屋と野村~谷川が別となっていて事実上、加古川~鍛冶屋が本線扱いだったことが分かる

車止めを模したモニュメントが置かれていて写真入りの解説文もある

歴史も含めとても詳しい。昭和30年代の国鉄全盛期には西脇駅を1日1万5000人もの人が利用していたという

鍛冶屋線は国鉄末期に特定地方交通線に指定され、廃線へと進み始めるが、野村~西脇については利用者数は廃線の基準となるものではなかったため、この区間のみを存続させるという意見も多く出たが、結果的にはすべてが廃線。利用が多いとは言えなかった野村~谷川は残り、廃線対象は盲腸線というパターンがここでも踏襲された。廃線は1990年。野村駅は西脇市駅へと改められた。阪神淡路大震災の5年前のことだった

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