2024年 3月 の投稿一覧

「十日天下」も新幹線の全駅利用を駆け込みで目指す~後編・駆け込み訪問にこそ意味がある

※訪問は2024年3月5日

美しい雪景色の車窓

一夜明けて十日町駅から飯山線で飯山駅を目指す

朝から雪が降り続いている。ただ十日町の中心部は歩道が屋根付きで、駅は徒歩だと5分以上離れたところにあるものの駅へも屋根はつながっている

交差点部分はさすがに屋根はないが、ちょっとした小走りを交えることで、ほぼ雪からは逃れる形で駅へと到着できた

列車が停車しない部分はすっかりホームも雪。上に見えるのが北越急行のホーム。十日町は接続駅で、北陸新幹線の金沢延伸前まで北陸から東京へのメインルートでもあった北越急行からの越後湯沢乗り換えで使用されていた特急「はくたか」の一部も停車していた

8時半に十日町発。飯山線のダイヤは決して本数の多いものではなく、2~3時間に1本の運行。以前の訪問時は、暑さの残る9月で、いくつかの駅で降りたりもしたが、今日は飯山駅が目的だし、列車本数や天候も考えると、線内は乗り鉄である。だが平素は同じ乗り物に1時間も乗ると飽きてしまう私が見とれてしまうほど車窓は素晴らしかった

雪の中のレール

雪化粧の信濃川。飯山線は信濃川・千曲川に沿って走る。戸狩野沢温泉までの1時間20分、ずっと見とれていた

この日の車両もおいこっとだったが、戸狩野沢温泉で乗り換えとなる。乗り換えといっても対面ホームの2分乗継ぎで、実際は車両の交換。すでに長野県に入っている。3駅目が飯山。このまま乗車していれば1時間で長野まで連れて行ってくれるが、さすがにそうはいかない

予想以上の人出

飯山駅に到着。戸狩野沢温泉から2両編成となったが、多くの人が下車した。こちらは一段落した後の写真。はっきり分かる通り、雪が舞っている。十日町より激しい

在来線の改札口を出てすぐ、きっぷ売り場を挟んで新幹線の改札口で長い列ができている。ほぼスキー客の様子で海外からのお客さんの姿も目につく。当駅は無人駅ではないが、2021年11月いっぱいでみどりの窓口を終了。2台の指定席券売機がその代わりを果たしている。旅慣れた人なら券売機の方が楽かもしれないが、ふだん使い慣れていない人は時間がかかるだろう。横で立つ駅員さんが案内しながらの発券。国際色豊かで駅員さんも大変そうだった

私はというと自由席特急券だけ買えばいいので、駅員さんに尋ねると、誰も並んでいない券売機を案内され

あっさり購入。その気になれば、特急券さえ買えば軽井沢まで乗車券は有効だが、新幹線自由席の1区間特例分のみを購入。飯山駅に特化しているので、これで十分

30分ほど時間ができたので駅舎の写真をと外に出てみたが

激しい雪に、撮り逃げするようにして駅舎に戻る

飯山駅は1921年(大正10)に飯山鉄道という地元設立の私鉄によって開業した。戦時買収で1944年(昭和19)に国有化。現在に至る。路線名にもなっている飯山駅は、もちろん主要駅で2015年の北陸新幹線金沢延伸の際に新幹線駅が併設された。その際、在来線のホームも300メートルほど移動。その跡地は留置線として現在も使用され、車窓からも見える。グーグル地図にも側線跡が描かれている。どこまで近づけるか分からないが、事前の計画では行ってみることにしていたが、天候により中止である

ただし飯山鉄道の開業に尽力した五島慶太をたたえる石碑は旧駅から新駅に引っ越しているので、そちらは撮った

三日天下だからこそ意義がある

10時39分のはくたかで1駅乗車である

通過線のない2面構造のホーム。ちょっと遅れたが、これで新幹線駅の全駅訪問を達成。といっても11日後に北陸新幹線の敦賀延伸があるので、10日間だけの至福感。新幹線の駅が廃業になるなんてことは基本的にないので、延伸後にあらためて新駅とともに訪れればいいだろう、という考え方はあるし、その方が合理的でもある(ただし新幹線駅をひとつずつ訪問するのは、お金がかかり、なおかつ飯山駅と新駅では会社が違うので、すべての駅を訪問できるフリーきっぷの発売は難しいと思われる)

ただ、まずは北海道から九州までの全駅訪問を新線開業までに終えたとという事実が私にとっては大切で、直前の滑り込みによる三日天下と分かっている達成にこそ意義があるのだと思っています

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「十日天下」も新幹線の全駅利用を駆け込みで目指す~前編・痛恨の通過列車乗車

※訪問は2024年3月5日

旅のスタートは新潟空港

この記事を書いている傍らのテレビのニュースでは北陸新幹線敦賀延伸で持ちきりとなっている。私のX(旧ツイッター)のフォロワーさんも訪れているようだ。という事実を百も承知で2週間ほど前のことについて触れてみたい

8時20分、新潟空港にいた。今日は新潟駅から信越本線、上越本線、飯山線と乗り継いで十日町へと至る。大阪から新潟へはJALタイムセールで。最大目的地は明日の飯山駅で、大阪からだと名古屋経由で長野まで行くのが、おそらくノーマルルートだろうが、それだと往復同じコースになってしまう上、新潟空港はこれまで利用したことがなかったので、新潟から十日町経由で向かうことにした

バスで30分揺られ新潟駅に到着。すっかり変わったな、という感慨に浸る間もなく

春の青春18きっぷを購入。信越本線を南下。道中、いろいろな駅を回りつつ、十日町を目指すが、新潟近辺の駅では少しの雪が道ばたに残っている程度で雪のことなど、この時点では考えてもいなかった。しかし長岡あたりまで来ると、風景は一変。車窓は雪一色となってきた

3月16日より前の訪問が絶対

話は昨年秋にさかのぼる。10月に九州新幹線の全駅訪問を目指していた。この旅で全国の新幹線駅訪問を達成することになっていたが、時刻表の路線図を眺めていた時、あることに気付いた

飯山駅が未訪問だ

それよりさらに1年前の2022年10月、JR東日本パスで東京から北陸新幹線→上越新幹線→北陸新幹線とグルリ回って新幹線各駅を回収。これで本州と北海道の新幹線全駅を利用したことになったと、すっかり満足していたのだが、私が上越妙高から乗車したのは飯山通過のはくたかだった

はくたかは基本的に昼間は金沢から長野までが各駅停車で、長野以降が速達運転となる。だが、その中の一部に「飯山のみ通過」という、全駅訪問の死角を狙った(?)列車があり、私はまんまと、それに乗車していたのだ

これはマズいと思ったが、飯山駅のみの訪問というのは、金銭的にも時間的にもなかなか辛いものがある。そのうち北陸新幹線の敦賀延伸の時が迫ってきた。その時期は3月の青春18きっぷの季節以外ないだろうと今回の旅となったのである

上越線に入り、小千谷駅では2台の除雪車が待機中。飯山線の乗り換えとなる越後川口でも雪一色

乗り換え時間2分という優秀すぎる接続で、単行のため駅名標の位置が車両から、かなり離れたところにあるため、写真を撮るだけでも必死だった。ちなみにこの足跡はすべて私のものである(笑)。地元の皆さんは雪に対応した靴だったが、当然私は違う

幸運だったのは、週末中心の観光列車「おいこっと」の定期運用車両に乗れたこと。JR東日本は観光列車を定期運用に使用することはほとんどないが、飯山線では使用されているようだ

ちなみに「OYKOT」とは東京(TOKYO)を逆さ読みしたもので、大都会とは対照的なふるさとを意識して名付けられた

フリーきっぷ購入が問題

さて今回の移動で課題となったのが、きっぷの購入である。新潟エリアには「えちごワンデーパス」「えちごツーデーパス」、信州エリアには「信州ワンデーパス」という、なかなか優秀なフリーきっぷがある。ただし「えちごー」についてはワンデーとツーデーでエリアが異なり、ワンデーは小千谷までしか行けず1570円。ツーデーはエリア拡大で2740円で十日町まで行けるので自分の行動エリアを考えるとツーデーを購入して1日だけ利用しても十分に元がとれるが、こちらは基本的に週末のみの販売。ということで18きっぷの登板となった。ただし飯山駅利用には信州ワンデーパスが必須である

というのも新潟エリアのパスにしてもそうだが、特急料金さえ払えば乗車券は有効なのだ。青春18きっぷだと飯山から新幹線に乗車した場合、乗車券も含めて当該区間は一から買わなければならないが、フリーパスだと特急券だけ買えば大丈夫。また明日は松本に宿泊することになっているので、長野から特急移動することになっても同じく特急券追加だけで済む。2680円で通年発売。こちらの方がお得となる

ただ、このフリーパスは購入が問題で、発売はエリア内のみどりの窓口または指定席券売機となっている。名古屋または東京から行く場合はそれほど苦労はしないだろうが、新潟から入る時はエリア内最初の駅は越後川口そして十日町となるが、両駅はみどりの窓口はあるものの、指定席券売機はない。みどりの窓口の営業時間はJR東日本のHPに記されているが、休憩時間などについて私的には現地に着いてみないと分からないと思っている。新幹線に乗るだけなら飯山まで行けば何とでもなるが、きっぷの購入については何ともならない時は何ともならない

という理由もあって本日の宿は十日町とした

十日町到着は15時前。そして

無事みどりの窓口は開いていた。結論としては私が乗車する翌日の朝から営業していたが、とにかくひと安心

これで明日に何の憂いもなくなった。十日町で宿をとったのは、へぎそばを食べる目的もあった。過去に2度ほど新潟駅近くのへぎそばのお店に行ったが、いずれも長蛇の列で断念。かねてより本場の十日町で食べたいと思っていただけに

大変満足。二人前でも食べられたかもしれない

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2年がかりの呉線全駅訪問~テーマパーク閉園も駅も駅名も残る

呉ポートピア駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

至近の駅には徒歩移動

国道を海沿いに歩いていくと呉ポートピア駅の入口に到着した

天応駅で、やや急いでいたのは、お隣の呉ポートピア駅まで徒歩移動するため。といっても駅間距離はレールでも1・3キロ。線路と並行して国道があるため、歩いても、ほぼ同距離である。ちなみに呉ポートピアと隣の小屋浦も1・5キロと駅間は短い

呉線の呉以西は昼間は1時間に3本の運行があり、うち2本が快速で1本が普通の運行となっていることは何度か触れたが、つまるところ普通のみの停車駅は1時間に1本しかない。駅で1時間待つという選択肢もなくはないが、歩けるところは歩いて次の列車を待つ方が合理的だ(乗降の両者を行うことはできないが)。日中はまだまだ暑いころで、かなり汗だくとなった

元々は私鉄だったという路線や都心には歩いてすぐという駅間も多いが、ずっと国鉄だった地方路線(といっても呉線は地方交通線ではなく幹線)としては珍しい。特に広から西側は戦後になって新駅や復帰駅がいくつかあって駅間距離は短くなっている。その都度紹介していくつもりだが、その理由もさまざまで、周辺人口が増えたとは必ずしも限らない

その意味では呉ポートピア駅は新たにテーマパークができたので設置された駅である

テーマパークが全額出資

橋上駅舎を出ると跨線橋があり、そこは「呉ポートピアパーク」という公園となっているが、元々は「呉ポートピアランド」というテーマパークで、さまざまなアトラクションが並んでいた。ポートピアランドといえば、連想するのは神戸ポートアイランドにあった神戸ポートピアランド。こちらは阪急電鉄によるもので、1981年の博覧会であるポートピア81とともに開業し、博覧会終了後も大いににぎわっていた。ならば他にもポートピアランドをと、同じく阪急が呉市と第三セクターを作って1992年に開園した。駅については三セクの全額出資という力の入りようで開園前日の3月19日に開業となった

住宅地と国道の間の狭いスペースに単式ホームが器用に設けられている

すれ違いのできない棒状ホームながら橋上駅舎となっているのは、駅から国道をまたいで直接公園に入れるようにするためだ。これもなかなか気合が入っている。JRも新たな新名所誕生に応える形で、快速停車駅としてみどりの窓口も設置した

テーマパークは終焉も

このころは日本中でテーマパークが流行ったころで、1996~98ごろ高松にいた私は出張でよく呉二河球場を訪れていた私は車窓から見える大観覧車に驚嘆していた。ちょうどその頃、倉敷の駅を出たところにチボリ公園も開業している

だが華々しく開園した呉ポートピアランドはわずか6年で経営悪化により閉園。ちなみに倉敷チボリ公園も2008年いっぱいで閉園した。日本中でテーマパークが流行する一方、アトラクションについてはディズニーランドやUSJのように更新が求められる時代にも突入していて、戦前からの歴史を持っていた阪急の宝塚ファミリーランドや阪神の阪神パークも2000年代に入って閉園し、阪急撤退後も営業が続いていた神戸ポートピアランドも2006年に閉園となった

ということで駅そのものも、もはや無意味…とはならなかった。地図で分かる通り、旧天応町の中心部は天応駅と呉ポートピア駅の真ん中あたりにある。住民にとっては呉ポートピア駅の方が便利なのだ。また当駅は逆側の小屋浦駅とも1・5キロしか離れていない。こちら側からの需要もあった

ということで駅は残り、ポートピアランドの跡地も呉ポートピアパークという公園となったために駅名もそのまま、ということになり、2021年の利用実績では天応駅が1日900人の利用なのに対し、呉ポートピア駅は1326人と大きく上回っている(開園直後の数字よりは少ないが)

現在は無人駅。これはホーム案内ではなく(といっても単式ホームだが)、進行方向を示すもの

ひらがな表記だと当然こうなる

トイレにあった張り紙。やや古めの新幹線が並び、広島駅では見られないものも含まれていて年代不明だが、職員さんの手作りだろうか

列車がやって来た。この日の呉線訪問はここまでである。華々しいテーマパークの開業から数奇な運命をたどったともいえる駅をあとにした

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2年がかりの呉線全駅訪問~沿線唯一の明治生まれ駅舎が現役の駅は夕陽で知られる

天応駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

わずか5年だった天応町

天応駅に到着。ご覧の通り、1面2線の島式ホームとなっている

開業は1903年(明治36)年12月。呉線が海田市~呉で開業した際に生まれたので駅としては、前記事の吉浦と同じく、120歳の誕生日を迎えている。呉線はその後、延伸に時間がかかり、呉から東の区間が三原、呉の両側から少しずつ延伸され始めたのは昭和になってから。海田市~呉の先行開業区間の新駅も大正になってから、小屋浦が開業したのが最初で、つまり明治生まれの駅は山陽本線でもある海田市を除く(当時は山陽鉄道という私鉄だったが)と最初に開業した矢野、坂、天応、吉浦そして呉の5駅のみ

天応以外は戦後すべて駅舎の形を変えているので、戦前からというより明治生まれの駅舎が残る唯一の駅ということになる

手は加えられているようだが、屋根や上屋を支える柱などにも歴史を感じる

付近は呉市に編入された1956年(昭和31)まで天応町だった。では駅名も町名にちなんだのかというと、駅の開業時は大屋村だった。大屋村が町制を施行して天応町となったのは1951年なので、自治体としての天応町は、わずか5年間だった。駅名は村名ではなく駅周辺を取り囲むようにしている天応山、天応烏帽子岩山、天狗城山の3つの山にちなんだ

2021年の1日の乗降者数は900人で13位。明治開業の他の4駅がいずれも2000人以上であることを考えると少ない。もっともこれは近い所に新駅が誕生したことにも要因があり、地形的に海に沿った線路に近い場所に住宅地が広がっているため、新駅に利用数が分散したとも考えられ、単純に少ないと言い切るものではないが、明治生まれの他の4駅が快速停車駅なのに対し、当駅は普通のみの停車。別の見方をすると、普通しか停車しない駅だからこそ、明治の駅舎が現役でいられるともいえる

海に近い駅

駅舎にはホームから跨線橋を渡る。山が迫りスペースのない山側にわざわざ駅舎があるのも呉線らしいところ。地図で分かるように当駅は海に近く、跨線橋からの夕陽の美しさでも知られているようだ。「ようだ」というのは、駅の紹介をしたところX(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったから。到着時は15時半を過ぎたあたりで、まだ夕陽の時間には早く気付かなかったこともあるが、ちょっと先を急いでいて駅について調べる余裕がなかったことが大きな原因。今調べると当駅や当駅近くからの夕陽がネット上にいくつもある。ふだんは遅くとも駅に着いてから、いろいろ調べてみるものだが、これは大きな反省点である。だから跨線橋からの写真はない

2018年から無人駅となった。窓口や、かつての手荷物受付と思われる場所は板で塞がれている。無人化された駅でよく見かける「きっぷは正しく目的地まで」の文字はいつからのものかは分からないが、券売機だけでは、もちろんすべての目的地までは購入できない

駅舎内には地元の子供たちの手による展示物があった。花瓶の花も定期的に入れ替えられているようである

先述した通り、ちょっと先を急ぐことになっているため、駅からすぐに離れることになった

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2年がかりの呉線全駅訪問~吹き抜けの天井と階段の構造に往時を思う

吉浦駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

変則2面2線ホームの快速停車駅

広から快速に乗って吉浦に到着。ご覧の通り、貨物ヤードの側線が残る。駅名は旧吉浦町に基づく。1928年(昭和3)に呉市に編入された。駅の歴史はもっと古く、1903年(明治36)に海田市~呉の開業と同時に設置。当時の途中駅は他に矢野、坂、天応のみ。120歳を越えている

ホームは変則2面2線構造。こういう形は島式ホームが手狭なので、新たに外にホームを設けたものが多いが、元よりこの形式。島式部分はどちら側にも降りられるが、2012年に柵が設けられた。その年に快速停車(安芸路ライナー)駅となっている(朝の通勤ライナーは通過)

天井からの照明に見とれる

堂々とした駅舎。戦後間もない1946年から現在の形となった

吉浦も貨物で栄えた駅である。元々は芦が生い茂っていて「あし浦」と呼ばれたが、「あし」が「悪し」に通じるとして「吉」が使用されるようになったという説があるという。芦が茂るぐらいなので、のどかな地域だったのだろう。海上保安大学校のHPによると、吉浦全域で874戸の住居があり、推定人口は約4000人だったという

その後、呉が軍港として発展していく過程で火薬庫の場所となり、1888年(明治21)に整地が終了。1894年には一帯の買収で30戸の住民が立ち退いた。火薬の試験場ともなり、レンズ工場や信管の工場も造られ、規模は大きくなったが、戦後は英連邦軍が占領。1950年の返還後にその場所に設置されたのが海上保安大学校である

吉浦駅は駅のすぐ裏に港があり、戦後も貨物輸送でも栄えた。貨物ヤード跡が残り、1本は保線車用に利用されているが、かつてはもっと規模が大きかったのだろう。また火薬庫と逆側の軍事施設とは線路でつながり、その後、海上自衛隊の呉造修補給所貯油所となった専用線として戦後も利用されていた

駅を挟んで東西の関係となっている

駅はひさしも立派。そして外から見ると二階建てのように見えるが

中は吹き抜け。将来的に規模が大きくなることを想定していないと、なかなかこれだけの建物は作れない。長くつり下がった照明にしびれてしまった

こちらは駅舎を逆側から撮ったもの。階段は多くの人を一気にさばけるようになっている構造だ

古風な文字を見上げながら、跨線橋を渡った。2年前にみどりの窓口が営業を終了して現在は無人駅だが、2021年の1日の利用者は2082人。これは呉線内では8位の数字(三原と海田市をのぞく)である

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2年がかりの呉線全駅訪問~広島シティネットワークはこちらから

広駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数が急増

広駅に到着。お隣の仁方も当駅も呉市内の駅だが、運行本数が大きく変わる。在来線は広島駅を中心に広島シティネットワークと名付けられた愛称が用いられていて、山陽本線は東は白市、西は(山口県に入っているが)岩国、可部線全線、芸備線の狩留家そして呉線の広駅。エリアの移動に複数のルートがあるわけではないので、いわゆる大都市近郊区間には入っておらず、途中下車や選択乗車など特にきっぷのルールに特例が適用されるわけではない(ただし特定都区市内制度による広島市内区間は別に存在する)。言い方を変えると「ここから先は列車の本数が少なくなります」ということでもある。また非電化の芸備線以外は「シティネットワーク広島」のロゴが入った最新の227系で運用されているが、呉線は全線が227系である

三原方面からやって来ると、ほとんどの列車が当駅で乗り換えとなる。昼間は1時間に1本の運行が広から30分に1本で、すべてが快速。この快速「安芸路ライナー」は呉までの新広、安芸阿賀と各駅に停まり、呉から快速運転。呉からは普通が出ていて快速通過駅を補うが、こちらは1時間に1本。つまり快速の方が運転本数が多いという、ちょっと変わった運行形態となっている(夕方以降は)

ただ朝のラッシュ時は事情が変わり、広から多くの広島方面行きが出ていて7時台、8時台は1時間に5本の広島行きがある(それぞれ1本は広以東からの直通)。また朝の通勤通学帯は快速も「通勤ライナー」と名前を変え、呉以遠は矢野の1駅のみ停車という特別仕様。仁方駅の項で「ヨンサントー」のいわゆる1968年10月号の時刻表について説明したが、当時から最も大きく変わったのは、広から西の運行本数で、このころはまだ非電化時代ではあるが、広を境に朝の本数は増えてはいるものの、朝の6時台に3本、7時台に2本、8時台に至ってはわずか1本(ただし広停車の急行と呉始発の急行が別にある)しかない。広~三原については今とあまり変わらない

かつては広村

広駅は1935年(昭和10)3月の開業。呉から線路が延伸されてきた。11月には広から三津内海(現在の安浦)が延伸され呉線は全通している。開業時は広村。戦時色が強くなった1941年4月に仁方町とともに呉市に編入されている

広駅は貨物列車の拠点でもあった。呉海軍工廠は東洋一の軍需工場だったが、後に広海軍工廠が独立する形となり、貨物需要も必要となった。戦後も呉線の貨物輸送は広駅が拠点となっていた。今も夜間停泊などに使用される側線が残るが、かつては大規模な貨物ヤードがあった。広の地名には埋め立て前の海岸が広々としていたとの説もあるようだが、もちろん現在の広駅周辺に村の雰囲気はない

広以西の主要駅には開閉型の自動改札機が設置されている。みどりの窓口は3年前に営業を終えたが、みどりの券売機が導入された。もちろん無人駅ではない。駅舎は戦前からの木造駅舎が使用されていたが、JR移管直前に現在のものへと姿を変えている

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2年がかりの呉線全駅訪問~番外編・仁方駅と来れば堀江駅も紹介

堀江駅の駅前に残るかつてのきっぷ委託販売を行っていた商店

※訪問は2020年9月20日

松山から3駅目の貨車駅

前記事で呉線の仁方駅の訪問を振り返ったが、仁堀連絡船という意味で、番外編として連絡船の片側の駅である堀江も紹介することにする

堀江は松山から3駅目の予讃線の駅。見ての通り、北海道以外ではなかなかお目にかかれない貨車改造駅

2面2線。松山に近いため、昼間は1時間に1本の列車があり、朝夕は本数も増える

松山から順番に三津浜、伊予和気そして当駅だが、海には最も近い。松山の港といえば伊予鉄道の三津駅だが、三津浜は三津駅からは、やや離れている内陸部にある上、「連絡線」の意味では三津の港は鉄道駅としては、すでに満員御礼だった。国鉄としては堀江駅をドラフト指名したのだろう

開業は仁方駅より少し早い1927年(昭和2)。高松から徐々に延伸されてきた線路の伊予北条~松山が開業した際、堀江駅も誕生した。つまり松山駅と同じ誕生日である。当時は堀江村(1940年に松山市に編入)

なかなか見とれてしまう貨車駅だが、元々この姿だったわけではない。連絡船があったころは、もっと立派な駅舎があった。1982年(昭和57)に連絡線が廃止された2年後に現在の姿となった。貴重な貨物駅は思わぬおまけだったのだ

駅前の商店が簡易委託としてきっぷの販売をしていたが、今は行っていない。「JRキップ」の文字があり、連絡船は国鉄時代に廃止されている。10年ほど前までは委託販売が行われていたようだ

駅からはほぼ一本道

駅から連絡船乗り場までは、ほぼ一本道だった。駅前の広い通りを行くとすぐ分かる。周辺は住宅街

振り返るとこんな感じ。駅前の規模も大きい

真っ直ぐ行って突き当たりを左に折れるとすぐにかつての連絡船乗り場に到着する。徒歩5分。仁方駅から港までよりは、かなり近い

道中、黒ニャンコと目が合ったので、写真を撮っておいた

連絡船だけでなかった堀江港

かつての堀江港は「海の駅うみてらす」となっている。ただ堀江港については、呉へと向かう船は国鉄の仁堀連絡船だけではなく、同じ呉線でも安芸阿賀駅近くの阿賀港とを結んだ「呉・松山フェリー」が仁堀連絡船の後を追うように1964年に就航を開始。便数も多く(最盛期は1日18往復もあった)所要時間も短い航路にすっかり客を奪われてしまい、国鉄の連絡船は航路としての役割を譲ることとなった

ただし、しまなみ海道の開通と、その後のETC割引の影響もあって同航路も2009年に姿を消す。訪問時は朝の8時台で、海の駅近くでは多くの人が釣り糸を垂らしていた

駅に戻る。貨車駅となった駅舎はもちろん無人駅。ちなみにコロナ禍ではあるが、2021年の1日の乗降者数は仁方駅が856人、堀江駅が300人となっている

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2年がかりの呉線全駅訪問~最長片道切符でマニアに知られた駅の年表が渋すぎる

仁方駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数減少の最初の駅へは大きなミスの末に

仁方駅に到着。ご覧の通り、バスでやってきた。仁方は安芸川尻駅の隣の駅で、1時間に1本の列車は待ってられないと、ちょうど良いバスを見つけたので乗車したところ、逆向きに乗車してしまう大ミス。10分ほど揺られたところで逆走に気付いたものの後の祭り。しかも戻るバスは30分以上ない。参ったな、と思ったが、たまたま喫茶店が目に入った。前記事で「カープの来季についての番組を見た」と記したのは、この喫茶店でテレビを見ていたのだ

話を戻して仁方駅である

渋すぎる駅舎がお出迎え

仁方駅は1935年(昭和10)の開業。呉線で最後の開通部分となった三津内海(現安浦)から広が開業した際に設置された。当時は仁方町。仁方町は戦時色が強くなった1941年の4月に呉市に編入されている

仁方の名を残すのは1982年(昭和57)まで存在した仁堀連絡船である。当駅から10分ほど歩いた仁方港と松山市の堀江港を結んでいた航路。運営は国鉄が担っていた。国鉄の航路だったというのが、当時のマニアに注目されていたポイントだったわけだが、それについては後述する

自動車8台の連絡船

手元に1968年10月の時刻表がある(復刻版)。いわゆる「ヨンサントー」のダイヤ改正があった時のものだが、こちらを開くまで仁方という駅は広のひとつ隣で、国鉄運営の連絡航路があったぐらいなので、今のように広で運行は分断されず、仮に航路がもう少し続いていたら、仁方まではもう少し便利になっていたかもしれないと思い込んでいたところがあったが、時刻表を開いてビックリ。当時すでに広が運行の境界だったのだ。正確に言うと、今のように広でほぼ乗り換えというわけではなく、広島と三原を直通する呉線で朝夕のラッシュ時に広折り返しの列車が挟まるという形だった。まだ非電化時代だったが、広~三原の本数は今とほとんど変わらず、広~広島が増えている

ちなみに仁堀連絡線の時刻も掲載されていて、本数はわずか1日3往復。丁寧に船との連絡に便利な列車も記載されているが、たったの3往復では列車本数を増やすことにはならない。船の規模は「定員196人、中型自動車8台」と書かれている。自動車8台とは、今ほど車社会が浸透していない時代とはいえ、規模が小さい。逆に言うと、その程度で十分だったということになる

仁方駅が寂しく感じるのは駅舎の規模よりも、窓の多さからだろう。こちらは荷物の受付か。それなりの規模を誇っていた駅だったことが分かる

仁堀連絡線の開業は1946年。終戦直後の復興期で宇高連絡線が手一杯となり、もうひとつの航路をということで設定された。国鉄の運営はそのためである。今も広島と松山を結ぶ航路は需要があるが、仁方港を含む呉港からも四国へと渡る船の需要はあった。だが仁方、堀江とも町の中心部から離れている上、駅からの距離が遠かったこともあって、間もなく乗客は激減。国鉄でなく民間の経営だったら、もっと早く運休していただろう

仁方駅から港までは徒歩で10分を強いられていた。現在、瀬戸内海の島行きも含め港からの定期航路はなくなっている

最長片道切符では貴重な出入口

ただし国鉄の路線ということで、鉄道ファンには貴重な航路だった。いわゆる「乗りつぶし」もそうだが、さらなるマニアにとっては最長片道切符の出入口として必需品だった。つまり宇高連絡線と仁堀連絡線のどちらかで四国に入り、どちらかで四国から出れば、一筆書きができる。最長片道切符に貢献する航路だったが、1982年に廃止され、最長片道切符から四国の路線は消えた

それでも1968年の時刻表によると、呉線を通る急行6本(厳密には7本だが、1本は呉折り返しの長崎行きで当駅付近は通らない)のうち、4本は仁方に停車していた。駅は連絡線がなくなったころに無人化されている

さて仁方駅について、なぜこのように流ちょうに説明できるかというと、駅舎に仁方駅の歴史が張られていたからだ

手書きの上にガムテープで、しかも駅舎の外側に張られている。「ありがとう」「駅舎さよなら」と記されていることから、南側の駅舎がなくなった2018年の作品らしい。せめて駅舎内に張ってあげれば、と思ったのだが、いろいろ事情があるのだろう

その南側には簡易的な出入口がある。ちなみにホームを結ぶ跨線橋もこの時に撤去され、ホームを含めた南北の往来は駅舎外の歩道橋を渡る

国鉄が運営していたことで、今も時折思い出される航路である

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2年がかりの呉線全駅訪問~日本一短いトンネルへ親切な案内

安芸川尻駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

駅を出るとすぐに分かる

安芸川尻に到着。すでに呉市に入っていて(2004年に川尻町が呉市に編入する)、本数が多くなる広まは2駅目である

JR(国鉄)の駅ではおなじみの名所案内だが、こちらはかなり以前に作られたもののようだ。名所は駅を出るとすぐ分かる

「日本一短いトンネル」への案内板が目に入る。その名もズバリ、川尻トンネル。全長8・7メートルという情報も記されていて分かりやすい。どうやら歩行者用道路で「日本一」へ案内してくれるらしい

さっそく歩いていこう

と考える間もなく、トンネルが見えてきた

もう少し近づくとこんな感じ。トンネルという山の中を貫いているようなイメージがあるが、こちらは上は道路。山を通したというよりも、堀削の中を列車が走り、その上が跨線橋のようになっている

これはトンネルの上の道路。ここを歩いたり、車で走っていると、予備知識がなければ日本一短いトンネルとは気付かないかもしれない

来た道を振り返ってみた。駅のホームはすぐそこ。単線に戻った瞬間にトンネルに突入。そしてすぐ抜ける

さすがのグーグル地図も、線路沿いの歩行者用の道路というか通路は表示されていないようだが、その意味でも駅前の案内板の効果は大きいし、何よりも目立っていて、とても親切である

ホームの名所案内に「日本一」が表示されていないことは最初に述べたが、それもそのはずで2014年まで日本一短いトンネルは吾妻線(群馬県)の樽沢トンネルの7・2キロだった。八ッ場ダム建設によって吾妻線の線路が付け替えられることとなり、川尻トンネルが日本一に「昇格」した。つまり新たに建設されたトンネルではないのだが、このように案内板を掲げてくれると十分に名所アピールとなるし、何も知らずに来た人にも分かりやすい

開業以来の駅舎

さて順番は逆になってしまったが、ようやく駅の紹介

安芸川尻駅は1935年(昭和10)の開業で当時からの駅舎が現役。私が訪問した半年前の2022年3月までは、みどりの窓口の設置駅だったが、みどりの窓口の営業が終了すると同時に無人化された

ちょうど巡回の方が点検を行うタイミングだったが、少し前まで駅員さんもいただけに駅舎内の待合スペースは大きい。そして目に入るのは鯉のぼり。わざわざ「C」と描かれている上、10月の訪問だったので、これは広島カープに依るものと思われるが、現時点で一度きりの訪問なので、「常駐」しているものかどうかは分からなかった。実は訪問の前日、カープはクライマックスシリーズへの道が絶たれていた。県内のテレビで早くも来季の課題特集を行っていたので、鯉のぼりが強く印象に残っている

島式ホームで貨物ヤード跡の側線が残るが保安車両の置き場となっているようだ

こちらは観光列車用の駅名標

名残惜しいがホームから、もう一度日本一短いトンネルを見てお別れとなった

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2年がかりの呉線全駅訪問~港、マッサン、街並みと呉から東側の中心駅

竹原駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

広島~呉開業後に時間を要して竹原開業

竹原駅に到着。1970年に改築された国鉄らしい駅舎。広島から三原に進むと広で多くの運行が分断され、列車本数も減るのはすでに記した通りだが、呉から東側では最も規模の大きい駅となっている。呉線は計画時は「呉鎮守府両翼鉄道」という名称だった。名前から想像できるように軍港の呉への鉄路。呉の海軍鎮守府は1890年(明治23)に設置されたが、陸路が不便なことが指摘されていて、1903年に呉線の原型となる海田市~呉が開業。広島と線路でつながった。だが、呉以東については、海沿いや峠越えなどの難工事が予想されるため、そのまま放置された形となり、ようやく工事が着手されたのは1923年(大正12)と20年が経ってから。もう昭和に入ろうとしていた。工事は呉と三原から進められ、呉~須波が1930年(昭和5)に開業したのを皮切りに、1932年に三原~竹原が開通した。まずは竹原まで鉄路を通すことが重要だった。しばらく竹原は終着駅だったが、1935年に全通。ただし線内の一部では海側が見えないよう柵が設けられたり、ホームや車内は憲兵が目を光らせるようになったのは、その後間もなくのことだった

瀬戸内の中心港としても繁栄

観光列車用の駅名標。竹原市は「かぐや姫サミット」に参加している。平安時代にはすでに竹原という地名があった。京都の下鴨神社の荘園の中に、その名が見られる。地名の由来は荘園の管理者の名前から、竹が生い茂った原があった、と両方の説がある。下鴨神社の荘園だったことで、町を流れる賀茂川のほか、賀茂の名前が多く残る

戦国時代は良港を求めての奪い合いとなり、江戸時代になってからは製塩で繁栄。港は北前船の寄港地となり、当地の塩は全国に運ばれ、港に米が集まるようになったことで盛んとなった酒造りも開始。塩と酒は広島藩に大きな富をもたらしたという。安芸の小京都と呼ばれる歴史は下鴨神社からだが、街並みは江戸時代に形成されている。朝ドラ「マッサン」のモデルとなった竹鶴酒造は、呉線の工事のため持っていた塩田の一部を提供したという

幻の寝台特急停車駅

駅を出ると竹原市の中心部が広がる

現在、竹原駅を始発とする列車は朝の1本のみだが列車によっては長時間の停車も行われる。かつては呉線経由で東京から下関を結び、わずか3年半(1975~78)で廃止となった幻の寝台特急「安芸」の停車駅(上りのみ)でもあった

みどりの窓口は3年前に廃止されたが、みどりの券売機は設置されている。これは広から東側では唯一の設置

さて竹原の到着は11時すぎ。最初からランチに困らないのは竹原だろうと予想して訪問順を決めていた

予想通り、複数の選択肢があったが、目に入ったのはトンカツ屋さん。ボリュームたっぷりで美味だった。これで夜まで十分体力も持ちそうである

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