高山本線全駅訪問のシメ行脚~最後の駅は唯一の岐阜市内「所属」

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長森駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

43番目の駅に到着

長森に到着。これが高山本線44番目、最後の駅となった。225キロにも及ぶ路線とはいえ、のべ8日とお世辞にも効率の良い周り方とはいえないが、全駅で乗下車のどちらかは行えた。そして岐阜から富山へと長い路線ながら、意外にも岐阜市内にあるのは長森だけだ(岐阜駅は帳簿上の所属としては東海道本線となる)

2面2線のホームの向こうには岐阜市中心部の高層な建物が見えるが、駅周辺は農地が広がる。ちなみに岐阜までの線路の距離は4・2キロと、それなりの距離がある。ただ岐阜駅から東海道本線が直進して高山本線が北上するようなイメージがあるかもしれないが、実際は弧を描くのは東海道本線で高山本線が弧を描くのは鵜沼からだ

長森は平安時代からの地名

開業は1920年(大正9)で、お隣の那加と同じく岐阜~各務ヶ原が開業した際に設置された。一番列車の種別は分からないが、高山本線で最初に歴史を刻んだ駅である

駅の場所はもともとは南長森村。北長森村と同じく1940年(昭和15)に岐阜市と合併、編入となった。長森とは平安時代からの古い地名で、同名の荘園があったという。後に長森城が築かれ、地域の中心となったが、その後に稲葉山城つまり岐阜城へと主役は変わっていった

ただ幕末のころには長森城跡に切通陣屋が造られ、政治の舞台へと返り咲いた時もあったという

切通陣屋は今も切通の住所、駅名(名鉄)が残る。一方、長森については駅を中心に施設名、学校名、店舗名などに広く名を残すが住所としての長森は駅からかなり離れた場所となっている

早々の無人化と簡易的駅舎

駅舎は簡易的なもの。以前の形は分からなかったが

財産票を見ると50年近く前に現在の姿となったようだ。「JR」の2文字が見られない。1960年代に無人化されているので、かなり早い。利用者もお隣の那加、さらに蘇原よりも少ない。岐阜からわずか1駅。宅地化が進んだ現在もそうなのだから、50年前は周辺の住宅ももっと少なかったと思われる

おもしろいのは駅名板で丁寧にカバーされている

それでも貨物ヤード跡は岐阜側に残る。岐阜からわずか1駅。どのような貨物が運ばれていたのだろうか

ちょっとした思い出

長森で30分の待機の後、岐阜行きに乗車するわけだが、書き漏らしたお話をひとつ

前日、飛騨小坂に向かう際に乗車したのがキハ25の1だった。武豊線が電化されたことで高山本線のJR東海区間は当該車両が回ってきたこともあって、車両が大きく変わった。「初代」ではあるが、生まれは2011年

本線とはいえ、多くの部分がローカル線となっている高山本線だが、車両はピカピカである。もちろん乗り心地もいい

そして1区間のみ乗車して無事に岐阜到着。takayama-main-line1で始めた記事のURLは最後46までになったしまったが、高山本線については、こちらで〆としよう

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