永遠の未成線・名松線を全駅訪問~ゴールは不屈の路線のかつての終着駅

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井関駅の駅名標

2023年3月15日

伊勢鎌倉15時27分→井関16時10分

伊勢鎌倉から松阪行きに乗ります。井関で降りれば、名松線の14駅(松阪のぞく)の全駅訪問となります。家城はどうやっても長時間停車で訪問となるのですが、先に伊勢奥津、一志、伊勢八太の3駅を終えておいて良かったです。特に伊勢八太に関しては居眠りによる乗り過ごしという副産物。当日は「あちゃー」でしたが、その1駅分が効いています

年明けの訪問では乗客全員が…

話を少しだけ戻します

今年1月8日に伊勢奥津を訪ねた時のこと

この時は前日に廃駅の池の浦シーサイドなどを訪問して松阪泊。翌日は始発で出発。伊勢奥津で折り返して一志で下車。近鉄に乗り換えて津に行き、再びJRに乗車。紀勢本線で亀山→柘植を経て信楽鉄道に乗車しました

年明け早々の日曜日でしたが松阪からの乗車は数人。一志でさらに数人が乗り込んできて、これは雰囲気で分かったのですが、おそらくは同業者(鉄道ファン)ばかり。学校もお休みの始発には地元の方の利用が少ないことは理解しているつもりでしたが、誰も途中駅で降りない。となると、ますます同業者色が濃くなり、降りる時に分かったのですが、11人の乗客全員が青春18きっぷの利用者でした。フリーきっぷの利用は路線の実績になりませんので、数字的には、この日、この時間帯の乗客は0人、運賃収入も0円ということになります

この例で分かるように、名松線の利用者はそう多くない、というかかなり少ない。特に家城から山中に入っていく伊勢奥津までの区間は、そもそも住民が少なく、モータリゼーションの浸透とは異なる側面で利用者が大幅に減っています

名松線が何度も廃線危機に面したことは

この時にも触れましたが、最大の危機は2009年10月の台風被害で家城~伊勢奥津の数十カ所で崩落などの被害が出て、JR東海が打ち出したのは「JR運行によるバス代行」。この山中は過去にもたびたび台風被害を受けており、1982年には全線が10カ月にもわたって運休したこともあります

JR側は「今後も同様の被害に遭う可能性がある」としてJR路線そのままの運賃でのバス転換を提案。公式見解にはありませんでしたが赤字路線だったことが大きな要因であることは明らかです。この時点で、赤字地方交通線の対象から外れた、平行する代替道路未整備の問題は、ほぼ解決していました

これに対し、路線維持を望む津市や三重県の対応は迅速でJR側が出した山間部や河川部の修復や将来にわたる維持責任についても受け入れ、治水、治山工事は自治体が行うことで問題は解決。2016年3月に6年半という長期間の運休を経て全面復旧しました。いわば盲腸線ともいえる路線でのこのような復旧は奇跡的。不屈の路線です

以前の終着駅は利用者最小

井関に到着しました。これで全駅訪問完了。付け加えると、すべての駅で乗車もしくは下車を行うことができました

ちなみに「いせぎ」と読みます。微妙に難読です

名松線は1929年8月に松阪~権現前が開通した後、1930年3月に当駅までが開通しました。1931年9月に家城までが開通したので1年半の間、終着駅だったことになります

ただし現状はこのような感じで、基礎部分が残っているため、ここに駅舎があったと考えられますが、正式な記録が出てきませんでした。構内も広く、かつてはすれ違い可能だったような構造ですが、現在は1面

待合所は古いもののようで財産票があったので見ると

1929年(昭4)とありました。駅の開業は1930年3月なので3カ月もさかのぼって待合所ができたことになりますが、古いものであることは間違いないようです

この井関駅ですが、松阪~一志と伊勢大井~家城の平野部のちょうど中間にあり、この部分だけが山中となっていて周囲に民家は少ない。利用者は名松線で最小となっています

ある意味、ゴールにふさわしい場所だったかもしれません

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