伏木駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

※動画あり(音声注意)

越中国分からは徒歩移動

氷見線訪問の最後に選んだのは伏木駅。ただ1時間に1本というダイヤが日中も確保されている城端線に比べ、氷見線は昼間に2時間ほど運行のない時間帯がある。私が越中国分に着いたのは15時39分で、その時間帯は避けたつもりだったが、ここで40分待つと次は伏木で1時間待たないと高岡へ戻れない。ということで、その40分を有効に利用すべく伏木までは徒歩移動

といっても、それほど困難なことではない

ほぼ線路に沿った平坦な道路を20分ちょっと歩くといいだけ。最近は携帯アプリのおかげで迷うことなく目的地に行けるようになったが、そのようなものがない時代は道路と線路が近いかどうかで安心感が大いに異なっていた。そもそも何分かかるかは自分で判断するしかない。そんな経験が多すぎたためか、今も徒歩で駅間移動する際は、道路と線路が近いかどうかを判断材料にしてしまう。なお、朝から城端線をウロウロしていた私には、立山連峰が見えるかどうかの結論は出ていたので雨晴駅方面には歩かなかった

ということで、当然ながらほぼアプリ通りの時間で伏木に到着。重厚感漂う駅舎である

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古代より越中の中心地

駅舎には「ふしぎなふしき」と書かれているが、とにかく手前の郵便ポストがとても気になる

屋根に乗っかっているのは大伴家持さん。伏木は古代においては越中国の中心地とされ、国府が置かれた。歌人として有名な大伴家持が国司として赴任したのは746年。そのため万葉集には伏木をはじめとする歌が多く詠まれている。そのため付近の施設には「万葉」の文字が多く付けられている。周辺の住所には「国府」「一宮」といった文字が並ぶ。かつては伏木町という自治体だったが、戦時中に高岡市に編入となっている

駅前に義経と弁慶の像もある

詳細な解説があるが、渡し船を待っていた「おたずねもの」の源義経が身分を見破られそうになったところ、弁慶がとっさの判断で主人である義経をボコボコにして難を逃れたという通話に基づく。雨晴海岸と同様に有名な伝説である

伏木をさらに繁栄させたのは江戸時代になってから。日本海の物資運搬として知られる北前船の寄港地となり、重要拠点となった。氷見線の敷設はこの流れからのもの。中越鉄道が砺波平野の農作物を運搬するために現在の城端線そして氷見線を建設した。まずは伏木へつなげることが重要だとして、まずは1898年(明治31)に高岡~城端を全通させると、2年後には高岡~伏木が鉄路でつながった。伏木駅の開業も同時期の1900年(明治33)である。伏木から氷見までの延伸に12年も要したことは、これまでの記事でも書いてきたが、とにかく伏木の港への貨物輸送を行うことが最優先だったのだ

延伸計画もあった

このように栄えてきた現在の駅舎は昭和初期からのもの

駅舎には伏木観光推進センターが入居していて窓口業務を担当。みどりの窓口業務も行う(ただしe5489サービスの受け取りはできない)

島式ホームで側線を持つ

かつては貨物輸送でにぎわった当駅は現在、定期の貨物列車はやって来ないが、今もまだJR貨物の駅である

番線案内は字体や大きなローマ字併記の表記を見ると、かなり古くからのものが残されているようだ

氷見線を建設したのは中越鉄道だが、国鉄となってからは延伸計画があった。能登半島を横断して七尾線の羽咋駅までを結ぶもの。そうなれば、わずか14キロの盲腸線ではなくなっていたはずだが、こちらは計画だけで未成線にもならずに現在に至っている

氷見線とお別れする時が来たようだ。電光の案内標識は越中中川駅と同じものだが、音は随分と異なる。氷見方面がカーブとなっているので徐行するのか、けたたましく音が鳴ってから、列車の姿が見えるまで随分と時間がかかり、姿が見えた瞬間に音が鳴り止むというのも、また越中中川とは違うようだ

どちらかというと、こちらがオリジナルなのだろう。無骨な雰囲気も、また良しである

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