青春18きっぷ

青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その4 (衝撃から2年を経ての再訪)

坂根駅の駅名標

※訪問は2024年4月2日

アクリル板の乗降「2人」駅

市岡から坂根まで1区間の乗車。これまでの記事で書いた通り、国道に沿った緩やかな下り坂で歩くには絶好。徒歩で30分ぐらいで行ける距離だが「乗り降りを目指す」のが目的である以上、これは乗るしかないのである。乗車列車は三次から新見まで乗り継げる、これもまた1日1本の列車で、車両は私が市岡で下車したものの折り返し。事実上の1日1本なので、最初に新見から乗車した備後落合行きと同様に満員。もちろん座れないが、すぐ降りるので最前方に進む

駅間距離は2・6キロなのですぐ到着なのだが、この間にも比較的平地にもかかわらず、JR西日本名物の25キロ制限区間があって、ちょっと時間はかかる

とにかく無事到着だ。降りたのは私一人。乗車はなかったと思う。ないのも当然で2021年の統計では、当駅の乗降客は1日2人。これは芸備線内では道後山、高と並ぶ数字。乗降客データで1人という数字は基本的にないので「同率最下位」かというと、さらに下というか番外編があり内名、備後八幡の2駅は「データなし」となっている。ちなみに前記事まで紹介していた市岡は14人

この数字は1日平均なので、1週間続けて利用した人が1人いても年間の数字にならすとあまり影響しない。また青春18きっぷなどフリーきっぷの利用者はカウントされない。だから今回の私はノーカウントである。このフリーきっぷの概念は列車の乗客数も同様で、今回のように超満員の列車となっても18きっぷでの利用者は乗客がいないのと同じ扱いとなる。もっとも18きっぷのこの区間の利用者は、ほとんどが乗り通しだろうけれど

アクリルの壁がある簡易駅舎となっている。見て分かるが右手にトイレがあり、左手には自転車置き場。2年前は自転車が1台停まっていたが、今回はなかった。それでも銀のバス停の簡易駅舎と比べると雨風はある程度防げる形式だ

単式ホームだが、かつては2面構造だったことが分かる。開業は1930年(昭和5)。備中神代~矢神が開業した際、途中駅として設置された。開業時からの因美線にあるような木造駅舎だったが、20年前に現在の形となった

2年前の驚き

前回は備中神代からバスで当駅までやって来た。もし列車での到着だったら、かなり印象は異なっていたと思うが、ワゴン車の新見市営バスであらかじめ坂根駅での下車を告げていたため、運転手さんに「この奥に駅があるから」と停留所で降りた時の衝撃は忘れられない

今回も停留所がある国道182号まで3分ほど歩いて再現してみよう

「なんだぁ、これは」

声が出そうになった。目の前にあるのは中国自動車道。自動車専用道があるのはいいが、築堤の上を走っているので駅はのぞきこまないと見えない

中国自動車道がこの付近を通るようになったのは1978年のこと。駅が全く分からないという状況での建設によくどこからも文句が出なかったと思うが、まだまだ芸備線はこの付近でも1日に十数往復が運行されていたころである。当時は大きな心だったのか

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青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その3 (お弁当に救われたが消えた風景も)

市岡駅の駅舎

※訪問は2024年4月2日(動画あり。音声注意)

周辺を歩いてこそ分かること

150分も待ち時間があるので「何か」を求めて歩き始める。「何か」とは、まずは清涼飲料の自販機そして、できれば食料。ローカル線の各駅訪問をしていると前者については何とかなるものだが、後者については、ほぼあきらめである。岡山駅のコンビニで菓子パンを2つ買っておいた。ペットボトルの水は半分ほど残っているが、150分もあると何かと不安である

もっとも何のあてもなく歩いたわけではなく、とても便利なグーグル先生のストリートビューで予習はしておいた

駅からすぐのところにあったのは市岡簡易郵便局。規模や形態は違えど、駅付近に郵便局はかなりの確率である。都会で暮らしていると気付かないが、郵便局というのは全国各地を支える存在だと、こういう時に感じる

さらに歩くと

踏切にある案内。駅も郵便局も市岡だが、現在の住居表示に市岡という地名はないようだ。駅の所在地は新見市哲西町上神代となっているが、阿弥陀堂の名前も市岡。この向こうが元々の市岡の地域なのか。もうひとつの「ヱ」は「え」と読むのだろうが、ちょっと全体の読みは分からない。せっかく郵便局があったのだから、もろもろ聞いておけば良かったと後悔している

さらに進むと酒蔵があった。私は無知だったが「三光正宗」(さんこうまさむね)という有名なお酒。同社のホームページによると、明治時代に哲西から米国に移民した創業者の宮田重五郎という方がイチゴ農園で成功。10年後に帰国して日本酒造りを始めたという。名前は三光山に由来し、酒造メーカーにもかかわらず社標にイチゴが入っているのはイチゴ農園の体験に基づく。車なら地酒の1本も買っていくのだが残念

そして駅からブラブラ歩くこと15分

到着したのは「郷趣膳 水上」さん。周辺では貴重な店舗でコンビニというか、古風な言い方をするとよろずやというか。ここでは弁当も売っていて尋ねると残りが1つだけあるとか。時間は14時になろうとしていた。超ラッキー。惣菜が入っている容器に暖かいご飯を入れてくれるスタイルで600円。ついでにビールとペットボトルのお茶も購入(内容については許可済み)

買い物ついでに周辺の話も聞く。随分人が減ったという話から、出没しては何かをかすめとっていくサルの知恵が働き過ぎて困るという話まで。食料も手に入って有意義な時間だった

駅の待合室でお昼とした。食べ終わったころには駅に到着してから1時間以上が経過していた。天候にも恵まれ、歩いてこそ分かることが多くて良かった

消えた「国鉄」の文字

お腹も満たされ駅を細部まで見ることにする

まず大きな変化があった。これは到着時にすぐ分かったことだが

駅に隣接する元商店と思われる民家から「国鉄旅行連絡所」の看板が消えていた

こちらが2年前の写真。社会人1年目まで国鉄を利用していた私も国鉄旅行の連絡所がどのような役割を果たしていたのか分からないが、これでこの看板が残るのは私が知る限り同じ芸備線の道後山駅のみ(ていっても2年以上訪れていないので現状は不明)となった。また福塩線の道上駅には今年1月の時点で残っていることを確認している

市岡駅が開設された際の記念碑が残されている

裏には駅の設置に功績があった人の名前が記されているが

宮田重五郎さんとは前述した三光正宗を起こした方だ。駅に戻って会社概要を調べていただけに、すぐ分かった。名前に反応できる分、あらためて訪問した甲斐があったと感じた

新見行きがやって来た。1区間だけの旅で坂根駅に向かおう

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青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その2 (150分どう過ごす?)

市岡駅の駅舎

※訪問は2024年4月2日

戦後生まれの棒状駅

超満員の乗客を乗せた列車は備後落合に向けて去っていった。市岡駅は国道182号に沿った住宅街に設置された駅でレールの上まで宅地が並んでいる。単式ホームなのは、ある意味当然だが、この駅については最初から棒状ホームだったようだ

芸備線の全歴史を振り返り始めると文字数が足りないので当駅にだけついて説明すると、広島~備後庄原は芸備鉄道という私鉄が敷設し、備後庄原~備中神代は国鉄として建設された。全通は1936年(昭和11)で翌年、芸備鉄道も買収されて全線が国鉄となった。まだ戦時買収ではないが、措置としてはそれに近い。備中神代側からは1930年に矢神まで敷設されたが当時の途中駅は坂根のみ。市岡駅の誕生は1953年で備後落合~備中神代では内名と並ぶ戦後生まれの駅である。だから両隣の駅へは比較的近い

立派な駅舎を持つ。それまでも開業時からの木造駅舎があったが、2000年(平成12)に「市岡ふれあいセンター」という建物となった。森林事業によるもので美しい木をふんだんに使用している。左半分は駐輪場。右側には立派なお手洗いもある

思い出す昨年5月の北海道

と駅の紹介をしたところで、この後どうするかである。まず時刻表を見よう

1日3往復の備後落合~東城とは、やや異なり岡山県側の備中神代(事実上は新見)~東城はもう少し本数がある。平日は1日5・5往復(早朝の新見発備後落合行きは当駅を通過する)。その「もう少し」を利用しようとやって来たわけだが、私は13時19分で到着。この後、お隣の坂根で乗下車すべく折り返しの新見行きに乗るのだが、それは15時49分発で、ちょうど2時間半待ち。まぁまぁ、というか、かなり長い。2時間半といえば、新大阪から新幹線に乗ると東京まで着いてしまう

150分の待機といえば、昨年5月の北海道での秩父別駅を思い出す。あの時は160分の待機だったが

秩父別駅から徒歩10分もかからないとところに道の駅があり、もちろん食事もでき、入らなかったが入浴施設があった。駅の近くにはセイコーマートもあって、意外と時間は早く過ぎたが、市岡駅近くには何もない。清涼飲料の自販機もない。ここ旧哲西町(平成の大合併で現在は新見市)にも道の駅はあるが、それは矢神駅より、さらに東城寄りにあって歩くと1時間以上はありそうで、次の乗車は矢神になってしまう

その付近までは1日2往復の路線バスがあり、2年前はこれを利用して矢神駅まで行き、今回乗車した芸備線に先回りしたが、今回はもちろん12時38分の「最終」は出発した後。こうなると付近の散策しかなく

私にある知識は2年前に坂根から歩いた記憶

①坂根から市岡までは緩やかな上り坂で徒歩30分ほど。国道沿いなので道には迷わない

②道中、商店はなく自販機もない

③車の交通量は多いが、人とは全く出会わず、会ったのは民家のワンちゃんだけで随分怒られた

である。③はともかくとして(笑)、坂根方面に向かっても何もないことは分かっている上

地図を見ると矢神の方に歩いていけば、施設や店舗もあるようだ。幸いなことにこの時間帯で気温20度で晴れという、歩くと汗をかきそうな絶好の気候。時間だけはいっぱいあるので歩を進めることとした

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青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その1  (大混雑の1日1本)

市岡駅の駅名標

※訪問は2024年4月2日

姫路駅の立ち食いそばからスタート

岡山から新見経由で芸備線を目指す。お決まりのコースといえばお決まりである。というか、午前中の芸備線列車は新見に前泊しない限り物理的に乗れない。となると備後落合で3つの列車がそろう1日1本の新見発12時58分しかない(平日のみ運行の新見発7時3分は岡山から伯備線の始発に乗れば間に合うが)

姫路駅ホームの駅そばを朝食として

相生から岡山まで1区間は新幹線ワープ。かつてのスター列車は今、こだま専用車両として余生を過ごしている。相生~姫路は山陽新幹線で最も1駅間距離が長く新幹線の1区間特例(自由席だと安く乗車できる。2区間の場合もあり)の恩恵を最も受けられる区間である

なんてエラそうなことを書いているが、何のことない、またもやと言うべきか時刻表を微妙に読み間違え、相生ダッシュを経て在来線で岡山まで行ったのでは新見発の芸備線に間に合わないことに途中で気付いたからだ。まぁ新幹線課金さえすれば、すぐに解決することなので問題ない

伯備線ホームに行くと特急「やくも」が出発の時を迎えていた

国鉄特急はカウントダウン。大変な人気だが、昨年パノラマグリーンも堪能した。後発の伯備線普通に乗車する

旅の理由

今回の旅の理由は「芸備線の未乗降駅で乗降すること」。ちょっとややこしいが「訪問済みだが列車利用したことのない駅で乗降する」のが目的だ。対象は1日3往復で知られる新見~備後落合の2駅

2年前の3月にもこの区間の全駅訪問は行っているが、その時の行程は

岡山→(やくも)→生山→(伯備線普通)→備中神代→コミュニティバス→坂根→(コミュニティバス)→市岡→(路線バス)→矢神→(芸備線)→内名→(芸備線)→布原→(芸備線)→野馳→(芸備線)→新見

で初日を終え、新見で宿泊。翌朝から主に東城以降の広島県の駅訪問となった

なお、わざわざ生山まで行って折り返したのは備中神代からのコミュニティバスの乗継ぎが新見からの伯備線普通と同時刻となっているため、(当時はあった)駅舎の写真すら撮る時間がないと判断してバス発車1時間前に備中神代に着くようにしたためである。また布原と備中神代は伯備線の駅だが、布原は芸備線列車しか停車しないため、芸備線扱いとした

つまり初日の行程では

坂根駅 バスで訪問して徒歩で去る

市岡駅 徒歩で訪問してバスで去る

となっていて乗降はない。駅に列車が停車する場面を見たのは車窓からのみ。今回はその2駅の「空白」を埋めるのが目的である

アナウンスとともに立ち上がる乗客

岡山からやくもではなく普通に乗車したのは、お金を節約するのも目的だが、接続を考えると、あまり意味がないから。見送ったやくもは11時13分発で新見着は12時15分。普通は11時24分発で新見着は12時55分。新見駅で3分という芸術的な接続で芸備線の事実上の1日1本に乗せてくれる18きっぱーのための列車なのだ。悪天候による遅延の場合は私も確実に芸備線に乗るため特急利用したかもしれないが、この日は快晴で天気予報でも新見は最高気温20度超えが予想されていて何の問題もない。伯備線の普通は順調に進んでいく。車内には明らかに同業者(鉄道ファン)と思える人の姿もチラホラいたが、平日だったため、それほど混んではなくて余裕である

ところが新見のひとつ手前の石蟹で、なかなか出発しない。間もなく車内アナウンスで「伯備線遅延で行き違い列車を待つためしばらく停車します」

いやいや、ちょっと待ってくれ。この1日1本に接続しないと私は何のために来たんだ、と焦る。3分の乗り換えなんて、もう無理だろうと思っていめと、しばらく経って再びアナウンス。「芸備線の備後落合行きはこの列車の到着を待って出発します」

確実に車内に広がる安堵の空気。もちろん私もその一人なのだが、新見に近づき「芸備線は地下道を通って1番線からの発車です。ご利用の方はお急ぎください」のアナウンスがあると、何人かが立ち上がりドア付近に立つ。私も含め同業者の正体がバレた瞬間である(笑)。3両編成だったので、私の想像以上にいるようだ。もっとも鉄道に興味もない人は何も思わないだろうが

ダッシュの列。もちろん私もその一人。とにかく多くの青春18きっぱーは奈落の底に落ちずに済んだのである

単行のキハ120は凄い人だった。この列車には昨年9月の週末にも乗車したが、18きっぷのシーズンでもないのに座席はすべて埋まっていた。都会の朝のラッシュ時のような混雑ぶり。今週末は今春の18きっぷ最後の週末となる。新見から備後落合までの約1時間半を座りたい方は、特急利用するか岡山発9時56分のもう一本早い普通の利用をおすすめする。いずれにせよ車窓を楽しむのはかなり早い時間から待機しないと無理だと思われる

ただ当の私はといえば、市岡までは20分なので、それほど苦にはならない

満員の列車から降りたのは私と高校生1人。当駅に停車する列車を外から初めて見た。ちょっと感慨はあるが、実は大変なのはこれからなのである

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~たった5年で休止→復活→拡張→移転の歴史

川原石駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

輸送力強化の駅

川原石に到着。ご覧の通りホームは極めて狭い

列車が去った後の構内を見ると

狭いホームが向き合っている。前記事、前々記事と輸送力強化のための「新駅」を紹介してきたが、当駅もそのひとつ。ただ異なるのは新駅ではなく移転した駅だということ

川原石駅は1935年(昭和10)の開業。海田市~呉は1903年(明治36)に開業していたが、三原まで全通した際に呉~吉浦間に設置された。ただし、それはまさに設置というもので地元の要望に応えた駅のホームは1両分しかなく、当時導入が開始されたガソリンカーという単行列車のためのものだった

その後、戦時色が強まっていくにつれ燃料の節約でガソリンカーは廃止。川原石駅も列車が止まることができなくなったので1940年に休止される。戦後もしばらく放置状態だったが、戦後13年も経過した1958年に復活。ただし1両分のホームというわけにはいかないので、初代駅のすぐ近くに6両分のホームを設けて新たな川原石駅とした

しかし現在の感覚だと信じられないかもしれないが客車中心の当時の鉄道事情では、6両以下という編成は少数派で、それ以上の編成列車は当駅を通過していた。1968年10月の時刻表(復刻版)を見ると、広島行きの列車は5時39分が始発で次が8時35分。もう通勤通学の時間は終わろうとしている。昼間はほぼすべての列車が停車しているが、夕方になるとまた通過だらけで広島から呉への列車は15時51分の次が5時間以上も空けて21時31分。かなりの残業か一杯やってからでないとホームに降りることはできない時間である

つまり旅客が多い朝夕ラッシュ時は必然的に長い車両となるので停車することができない困った駅だったのだ。それでも呉までは、わずか1・2キロの距離だったので地元住民は呉駅を利用していたと思われる

しかし、そんな川原石もJR移管の際にようやくホームが拡張され、すべての普通列車が停車するようになった

複線化対応のため移転

次に転機が訪れたのは呉線の輸送力強化。新設の水尻駅、復活のかるが浜駅とともに単式ホームの川原石駅でも列車交換(すれ違い)ができるようにしようということになったが、住宅密集地に設置された単式ホームは交換設備を設ける余裕がないということで500メートル広島側へと移設することになった。それが現在の川原石駅

私が降りたのは呉方面ホーム。ホームはそれぞれ独立していて駅舎はない

向かいのホームへは公道を通るよう案内されている。呉線内では須波駅と同じ構造だが、こちらは当初から駅舎はない

広島方面の入口も狭い場所に器用に造られている

ホームからは工場が一望

現在のホームからは工場群がよく見える。この付近では軍事機密を守るということで1937年に車窓からの景色を見えなくする目隠し板が設置され、広島から呉方面へと向かうと吉浦あたりから車掌や憲兵が窓を閉めるよう指示を与えたという。右手前の建物は、おそらく「敵から目立ちやすい」との理由で黒く塗装され直されたものが、そのまま残っていると思われる

さて今回の心残りは旧駅跡を訪問できなかったこと。たった500メートルの距離だが、30分ほどの滞在時間で住宅密集地の小路を迷うことなく行って、今はホームもない駅の跡地を確認して戻ってこられるかどうか不安だったので断念したのだが

帰宅後に調べると開業記念碑がある。これはちょっと後悔

駅のすぐ近くにある建物は呉市立港町小学校。昭和30年代に全国でこぞって建てられ、私が子供のころは神戸市内でもいくつか円筒型校舎が見られたものだが、いつの間に姿を消した。こちらの校舎も建て替えの話が出ているそうだ

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~32年ぶりに復活した海水浴場最寄り駅

かるが浜駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

ひらがな駅に到着

かるが浜駅に到着。ご覧の通り、すべてではないが、ひらがな駅

開業は1999年(平成11)の2月7日で、前記事の水尻駅と同日。天応~吉浦の間に設置された。写真で分かる通り、島式ホームで交換(すれ違い)可能。ということは、設置の理由は水尻と全く同じで海田市~呉の輸送力強化、列車本数を増やすため

ただし水尻が全くの新規開業駅だったのに対し、かるが浜は復活駅というのが多少事情が異なる点だ。復活といっても、かつては仮停車場で正式な駅ではなかった。また夏季のみの臨時停車場でもあった

元々は漢字の駅名

「元祖かるが浜駅」ともいえる狩留賀停車場は1928年(昭和3)に設置された。海水浴客対象で夏のみの臨時営業

狩留賀一帯は呉線によって発展した。それまでは、ほとんど住む人がいなかったが、呉線開業によって注目が集まり、大正期に海水浴場が開業。その頃はマイカーというものはほとんどなく、多くの人は吉浦駅を利用していたと思われるが(かるが浜~吉浦は現在も1・2キロしかない)、せめて海水浴のシーズンだけは、との要望で開業

当時の全国の流行りは海水浴+別荘のセット販売モデル。昭和初期で、まだまだ平和を楽しむ余裕があったころで、狩留賀一帯も別荘地として発展していくが、そのような時期は長く続かず、軍事工場の工員用の寄宿舎ができ、戦時中は海水浴場も軍関係の施設に利用されるようになって海水浴場用の臨時駅は本来の目的を失う

戦後は一帯が進駐軍(英連邦軍)の接収対象となり、臨時駅が復活したのは接収解除の1952年。以降、1967年まで続いたが利用者減により終了した。つまり、2度の復活を遂げた駅ということになる

駅名はひらがなが採用された。当時ひらがなの駅が流行ったのもあるが、広島県内では芸備線に狩留家駅(芸備線のIC乗車北限として知られる)があり、読みは同じで1文字違いなので、そちらへの配慮もあったと思われる

ホームからは海を望むことができる。臨時駅の廃止後にあった新線付け替えによって線路は高台を走ることになった

駅舎というものはなく、入口に券売機が置かれ

盛土下の入口からホームに入る。簡易型の自動改札機が置かれている

海水浴場は今も現役

駅から間もなくのところに海水浴場は今も現役である

正月明けの訪問で砂浜を訪れる人はもちろんほぼいないが、新駅(復活駅)誕生直前に海水浴以外でも楽しめる「ロマンチックビーチかるが」に改造されている。前記事で紹介した水尻とともに平成の新駅はいずれも海水浴場最寄りの駅である

こちらは公園内の地図。駅からは徒歩2、3分と至近

ただし地図そして交差点、さらには駅前のバス停も使用されているのは漢字の「狩留賀」である

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~2番目に新しい駅ながら利用者数はブービーの異色駅

水尻駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

開業は1999年(平成11)

平成以降において、わざわざ駅を新設置する理由のほとんどは沿線人口の増加だろう。他には通勤通学の利便性を向上させる、スタジアムやテーマパークなどのハコ物ができた、というのもあるが、基本的には利用者が多そうなので設置した、というベクトルは同じ。平成以降というのは、JR化後とほぼ同じ意味合いなので、民営化された後は、お金にならなさそうなことはあまりしないのがノーマルな考えだ(民営化直前に駆け込み開業した駅も存在するが)

呉線でも平成以降にいくつかの駅が開業した。すでに紹介した中では、テーマパークのためにできた呉ポートピア駅(1992年開業)が代表格だろう。こちらは駅の設置費用もテーマパーク持ち。また安芸長浜駅(1994年開業)は発電所への利便性を図るもの

まだ紹介していない駅は他に新広駅、かるが浜駅そして今回の水尻駅となるが、呉線で最も新しい駅は新広で2002年の開業、次が水尻とかるが浜で1999年の開業(2月の同日開業)。厳密に言うと、かるが浜は復活駅なので、水尻は2番目に新しい駅となるが、1日の利用者数(2021年)は26駅中25番目(三原と海田市をのぞく)の142人。最も少ないのが三原からひとつ目の須波の124人、下から3番目が大乗の184人なので、あわや最少利用者になりかねないところ。平成生まれとしては、なかなか異例ともいえるが、その異例さが駅そして呉線の特色をよく表しているのだ

狭い島式ホームに到着

小屋浦から、ひとつ広島方面へ戻る形で水尻に到着。狭い島式ホームでのお出迎えである

呉ポートピア、安芸長浜、新広と新駅は単式ホームとなっているのが特徴で、新駅らしく器用に駅を設けている。水尻も国道が迫る位置に器用に設けられているが、列車交換可能な複線構造となっているのが、特徴である

駅舎が当初からないのも特徴。つまり

・新駅ながら利用者は少ない

・駅舎はないが列車交換はできる構造

なのである

高まる需要に応える

呉線は1970年(昭和45)に電化されたが、今も単線だ。複線化の話は戦前からあり、特に戦時色が強まった1939年には軍都・呉への輸送力を強化しようと海田市~呉の複線化が決定。工事が開始され、新たな路盤やトンネルがいくつも造られたが、開戦後の資材不足もあって工事は中断して終戦。せっかくの新線は「未成線」のまま放置されていたが、電化の際に利用されることとなり、いくつかの区間で線路の付け替えが行われた。ただし旧来の路線は「廃線」となった

複線化が再び持ち上がったのはJR移管前夜あたりから。呉が広島のベッドタウンともなったことで輸送量が限界に達しつつあり、複線化が強く求められるようになったが、今度問題となったのは、お金。複線化に際しては数百億円が必要とされたが、交換設備を備えた新駅を設置すれば、数十億円で済むということになり、それで開業したのが水尻駅と復活のかるが浜。つまり新規開業でありながらも信号場の役割が強い駅だった

それでも駅は山と山の間にある小屋浦~坂の水尻地区に設置された。小さな集落ではあるが、利便性は大いに増した

食券型の自動券売機とICリーダーが設置されている

跨線橋からは山側にしか出られないが、すぐ踏切があるので国道つまり海側にはすぐに出られる

国道を渡ると人工砂浜の「ベイサイドビーチ坂」。夏場は海水浴でにぎわう。訪問時は1月で盛夏の様子は分からず、広大な駐車場を見ると多くの客は車利用と思われるが「海に近い駅」であることは間違いない

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~大正期に開業 現在はメジロの駅に

小屋浦駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

姫路ワープで広島へ

年明けの1月9日

朝7時の三ノ宮駅。本格的なラッシュアワー直前という感じで、まだホームに余裕はある。ここから新快速に乗車。時間が時間だけに着席はあきらめていたが、下りが幸いしたのか神戸で座れた。しかし

8時過ぎの姫路駅はピークタイムとなっていて階段は降車専用のような状態

今日は広島まで

以前も紹介したが、広島に行くなら青春18きっぷの季節は姫路ワープが圧倒的にお得である

呉線完結へ

今日で呉線が完結となる。広から東側はすべて訪問したので、出発は三原からではなく広島からである。最後の訪問が2022年12月だったので、1年以上空いてしまったが、本当は夏の18きっぷシーズンに訪問予定で、その通り自宅を出たが、三原まで行ったところで雨のため呉線が遅延していることが判明。急きょ山陽本線から瀬野で下車してのスカイレール訪問となった。いつかはもう一度乗ってみたいと思っていたので、これはこれで有意義なことではあった

本数の多い通勤通学時間は既に終わろうとしていたが、おそらく最後の1本あたりには間に合ったようだ。乗車電は9時40分の広行き

約30分で小屋浦に到着

小屋浦駅は1914年(大正3)の開業。海田市~呉の開業は1903年(明治36)だったので、呉線に誕生した最初の「新駅」となった(仮乗降場は他にもあったが、正式な駅は小屋浦が最初となる)

天災を乗り越え

こちらが駅舎。ユニークな形をしているが、こちらは所在地である坂町の鳥メジロを模したもの。現駅舎となったのは1999年(平成11)。それまでは開業からの規模の大きな木造駅舎だった

現在の駅舎となっても、しばらくは有人駅で完全に無人化されたのは7年前。窓口はふさがれて簡易型の自動改札機が設置されている。ただ券売機は食券販売機型ではなく、大都市近郊と同じものが置かれている

駅舎からホームへは階段とスロープで出入りする。駅舎は山側にあり、広島方面への電車ホームへは跨線橋で移動

跨線橋からは海と国道が望むことができ

昼間は1時間に1本の運行だが、朝夕の特に広島方面への本数は多い

こちらは駅前の地図。小屋浦地区は山と山の間に挟まれていて、交通事情の悪い時代は海沿いを歩くのも困難で、山越えを強いられていたため呉線開通と同時に駅の設置が地元から求められていた

そして地図で分かるように街の中を通る一本の天地川を中心に発展してきた街だが、平素は穏やかな川は、山との落差が激しく大雨が降ると大量の土石流が押し寄せる暴れ川としても知られており、有史以来、何度か天災に遭っている。明治時代には死者44人という被害が発生。2018年の7月豪雨では上流の砂防ダムが決壊して死者と行方不明者が合わせて16人という大きな被害が起きた

訪問日は冬の小春日和という穏やかな陽気に包まれていたが、歴史は忘れてはならない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~聞き耳が過ぎて最後の駅で痛恨のやらかし

風早駅のホーム

※訪問は2022年12月27日

駅訪問で必ず行うこと

風早駅に到着。これで広~三原の駅はすべて訪問したことになる。残る広以西は列車本数が多く、昼間き普通が1時間に1本の停車という駅もあるが、朝の通勤通学時間帯は本数が多い上、呉ポートピア駅のように至近な駅間もあって、なんとでもなるはずだ。とにかくひとつの区切りである

話はややそれるが、駅訪問を趣味にしている人なら必ず行うであろうことがある。駅舎と駅名標の撮影。これをしないと駅を訪ねたことにならない。駅舎がない駅はホームと待合所を撮る。当然すぎることだが、まずこれを念頭に置いて以下を読み進めていただきたい

万葉集にも残る地名

風早駅は1935年(昭和10)の開業。竹原~三津内海(現安浦)が延伸された際に設置された。当時の所在地は「早田原(はやたわら)村」。この村名は「風早」「大田」「小松原」という3つの村の名前から1文字ずつとって付けたもの。戦時中の1943年に他の自治体と合併して安芸津町となり、平成の大合併で東広島市となった

「風の郷」という風早自治協議会のHPによると、伊予の国で勢力を持っていた風早氏が海を渡って瀬戸内海の島々にも支配を広げ、当地に定住したため地名となったという説があるという。これが6世紀の話。また万葉集にも船の寄港地として風早の地が詠まれていて、少なくとも奈良時代には風早という地名は定着していたようだ

駅は海に近い

駅舎を出ると、すぐ海である

2面2線構造のホームはカーブ状に設置されている。弧を描きながら入線または去っていく電車を見ることができる

駅から海の方へと向かうと右手に商店があった。早朝に三宮の牛丼店で朝食を摂ったが、時刻はすでに14時前。さすがに腹が減ってきたので

おにぎりとお茶で少しばかり空腹を満たす。ちなみに風早駅には、ちゃんとお手洗いがある(男性視線だが)のでお茶もコーヒーも安心だ

会話に引き込まれ

駅舎で食べようと、駅に戻った。風早駅もキュービック駅舎だが、前記事の安登駅と同じく、1970年代に早々に現在の姿となったため、窓口跡がある

だが駅のベンチには先客が

正確に言うと、安登から風早へと向かう車内から、ご一緒だった。ご婦人の二人連れ。私よりは確実に一回りは上と思えるので70代以上だろう。その時は熱のこもった会話に何とも思わず、風早で「あー、一緒に降りるんだ」と感じた程度だったが、商店でおにぎりを買って駅に戻ると、駅舎内のベンチで延長戦を行っている

で、その会話内容が全く分からない。地方に行くと、お年寄りに限らず方言が全く理解できない、というのはよく体験するが、広島県で会話が分からない、というのは初体験に近い。正確には明治生まれだった尾道(といっても船で尾道から1時間もかかる小さな島)の祖母以来だが、当時は私も子供で理解力に乏しかった。しかも、さすがに目の前の方々は明治生まれではないだろう

ただ会話のディテールは理解できなくても、テーマぐらいは分かる。というか12月27日という年の瀬で、吹きさらしの駅舎内は結構寒い。おしゃべりなら家に帰ってやればよろしい。なぜ、わざわざ寒中行うのかというとテーマが「嫁姑問題」だからだ。それは家ではできんなぁ(笑)。私は明らかにヨソ者なので、いくら聞かれても大丈夫である

数年前、鹿児島の枕崎に行った時も「嫁がネコを拾ってきて…」というあたりまでは分かったものの、その後はちんぷんかんぷんだったことがあったが、ここは広島県である。ちょっと私も何とか理解してやろうとムキになってきて、お茶を飲むふりをしながら耳をダンボにしていると、少しずつ中身が分かるようになってきて「お母さん、そのぐらい大目に見てあげなさいよ」と思えるようになった。大変満足

お二人が去った駅舎内の様子(笑笑)。正しくは次の列車に乗るお客さんがやって来て、どうも顔見知りのようで強制終了となった(笑笑笑)

ということで方言も何とか理解でき、とても満足して次の訪問地である岩国に向かったわけだが、帰宅後しばらくしてから駅舎の写真も駅名標の写真もないことに気付いた。お茶とおにぎりを買って食べたぐらいなので時間はいくらでもあったはず。駅に着いた時、随分と傷みの激しい駅名標を後でゆっくりチェックしようと思ったことは覚えているのだが、いつの間にかすっかり失念していたようだ

ただこの日の旅先で最も印象に残る場面だったことだけは間違いない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内の駅付近にあるもうひとつの日本一

安登駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

駅員さんもいたキュービック駅舎

安浦駅からお隣の安登駅まではバス移動。名前もそのまま安浦バス。地元の高校生とともに乗り込む。広より東側は駅間が長い区間が多く、ここは4・5キロ。季節的に歩けない距離ではないが、バスの時刻表に合えば、乗車にこしたことはない

かわいいバスに乗り

駅前で下車。バスだと4キロはあっという間だ

ちょっとしたロータリーのある安登駅は

典型的なキュービック駅舎。現在の形となったのは、かなり以前のようで

現在はICタッチと自動券売機のみが設置されている無人駅だが、窓口跡が残る。ちょっと凝った「安登駅」の駅名板は、どう見ても国鉄のもので、1970年代にはキュービック駅舎となりながらも駅員さんはいたようだ

「跡」が「安登」に変化か

駅名は1958年(昭和33)まで存在した安登村に基づく。前記事で安浦駅は設置当時、内海町にあったことで三津内海駅になったと記したが、安登村は1929年まで「内海跡村」という自治体名だった。安登駅は1935年に呉線が全線開通した際、途中駅として設置されたが、内海跡村が安登村へと名称変更された時期がもう少し異なれば、旧村名が駅名になったかもしれない。「跡」の言葉の響きが好きではなかったのかどうかは分からないが、この跡という文字も元々は同読みの村があったともされ「あと」が、いろいろ変化しているようである。安登村は安浦町と川尻町に分割される形で自治体としては姿を消したが、現在は両町ともに呉市となっている

呉線は国道185号と並行していて駅の部分だけ駅前ロータリーを気遣うように、やや山側に曲線を描いているが、この部分が非常に重要で当駅最大の見どころが、そこにある

駅前ロータリーから国道に出る部分にある、よく見かける横断歩道だが、このような看板がある

「日本一短い県道」

駅前ロータリーと国道を結ぶ10・5メートルが「県道204号安登停車場線」。ロータリーの一部にも見えてしまうが、約20年前に拡幅工事が行われ道路幅が道路距離を上回ってしまったが、それ以前はもっとくびれていたという

ただこの「日本一」については、これを上回る(下回る?)県道があり、新幹線駅でもある長野県の上田駅前ロータリーの出口部分の県道が7メートルしかない。ただしこれには注釈が必要で、長野県の県道は、その先が別の県道との重複区間となっていて、重複部を含めると126メートルとなる。つまり微妙な構造なのだが、国道をはじめとする重複区間は、呼称については総延長の長い道路を優先するとのルールに従うと7メートルになってしまうとのことで、これまた微妙である

もっとも最短を巡って両者がもめているわけではなく、むしろ逆で「安浦町まちづくり協議会」のHPでは「総延長が日本一短い県道」という表現を行った上で経緯を説明している。HPによると看板が設置されたのは2007年で、その後に上田駅前の県道の方が短いことが判明。重複区間の存在も解説した上で「実延長では日本一ではないが、総延長では日本一だといえる」と、長野県に丁寧に敬意を表している

駅のホームに戻ると年季の入った名所案内が

最後まで読んで「ここからは行けないんかい」と突っ込みを入れてしまいそうになったが、とにかく話題が多い駅だということにしておこう

ちなみに名所案内にも出てくる先に紹介した「日本一短いトンネル」のある安芸川尻駅は、さらに呉方面へ1駅お隣の駅である

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