※訪問は2026年4月18日
古いアルバムから
2017年9月15日の写真が出てきました

こちらは鳳駅。このころは支線(羽衣線)のみ103系の運用。この半年後に置き換えがあったので貴重な写真に

東羽衣駅。今や羽衣駅のランドマーク的存在になっているホテルが工事中だったことを写真で知った
本文には関係ないが、この時は遅い夏休みをとっていて(まだサラリーマン時代)、このまま南海に乗って和歌山市駅へ行き、和歌山駅へと移動し御坊から紀州鉄道に乗車。御坊に戻り特急で新宮で下車して現地泊。翌朝は熊野市駅まで移動してJR東海の16私鉄きっぷを購入(新宮では買えない)して多気駅で乗り換え鳥羽へ。鳥羽で折り返し名古屋経由で静岡泊。身延線で甲府から小淵沢経由で小海線に乗車。小諸からしなの鉄道に乗って長野で泊まり、翌日は軽井沢まで出て、あえてバスで横川へと向かい高崎線で延々と東京を目指して新幹線で帰るという、今の体力気力ではとてもできない濃い旅を行っていて写真を見返し自分でもビックリした
後発の阪和電気鉄道の仕掛け
阪和電気鉄道と東羽衣駅についてはこの時も少し触れているが、南海の国有化拒否にあって困ったのは国側で、肝心の和歌山から大阪までがつながらないのでは紀勢本線の意味が全くなくなってしまう。「では」と立ち上げられたのが阪和電気鉄道。国鉄との相互乗り入れを果たす前提で天王寺から東和歌山(現和歌山)が突貫工事で建設され、1930年(昭和5)に全通した。大阪側の起点も国鉄の天王寺駅に隣接する形でもうけられた。海沿いの主要都市を南海に押さえられているため山中を進むしかない分、スピードを重視して最初から複線電化という画期的な開業だった。それでも私鉄のたたずまいはターミナル駅の雰囲気を残す天王寺駅のほかにも残っていて、待避駅は国鉄ならではの2面3線ではなく2面4線構造となっているのは、名残である
立地的に不利な阪和電気鉄道は南海に対抗すべく、遊園地の開業、新規住宅地開発、競馬場開設と人を集められそうなことは何でもやった。そこで目を付けたのが南海の羽衣駅の西側に広がる、当時東洋一と言われた浜寺の海水浴場だ。「あの客を奪ってしまえ」と敷設されたのが羽衣線。阪和電気鉄道は1929年に天王寺から和泉府中までが開業したが、同時に支線も開業した
当時は地上駅で、最初に挙げた2017年当時はまだ南海の踏切は残っていたが、踏切の真ん前に堂々と新駅を設けたのだ。駅名はズバリ「阪和浜寺」。明治来の南海の浜寺公園駅(開業時は浜寺駅)は羽衣から北へ800メートルほどの隣駅だが、駅名そのものもちゃっかり「失敬」。ちなみに開業日は7月18日。まさに海水浴シーズンにぶつけたのだ。南海の踏切の向こう側には東洋一の海水浴場でにぎわっている。釣りでいうところの入れ食い状態だ。鉄道駅や路線ができる理由としては寺社仏閣への参拝や温泉が知られるが、娯楽の少ない当時は海水浴も柱のひとつ。マイカーもない時代である。今も全国には海水浴場最寄りの駅がいくつもある
もちろん南海も黙って看過していたわけではない。海水浴客が少しでも不便に感じるよう踏切で電車を徐行運転させて「開かずの踏切」をあえて作り出した。利用者にとってはいい迷惑だが、共存共栄の精神などはこれっぽっちもない抗争だったのだ。実際に両社の社員が踏切近辺で「武力衝突」したという伝説も残る

もちろん今は共存共栄で、互いに車内アナウンスで乗り換え案内が行われる。JRと南海の両駅は、つい最近のことだがペデストリアンデッキで結ばれた

おかげで駅名板はすっぽり隠れて遠くからは見えなくなってしまったが利便性優先である
戦時色が強くなった1940年に阪和電気鉄道は南海に吸収合併される。レジャー施設も次々に休止。戦時中の1944年には国有化され国鉄阪和線に。わずか10年ほどしか存在しなかった阪和電気鉄道という会社だが、大いなる遺産を残していることは、この支線ひとつをとってもよく分かる
関西空港へは南海とJRが線路を共有している。QRコード乗車の登場によって両社ともに使えるフリーきっぷも発売された。たった10年の2つの鉄道会社の密度の濃い抗争史を紐解くと、隔世の感という表現がピッタリ来る
↑2つクリックしていただけると励みになります
JR東海が運営する沿線地域の逸品・名産品などのご当地いいものオンラインショップ