私鉄

わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その2(同名を避け異なる文字で歴史を紡ぐ)

相老駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

駅名標の中で漢字が異なる

桐生から単行のわたらせ渓谷鐵道に乗車。車両は2015年製造の500形502。わたらせ渓谷鐵道では2010年以降、新車を順次導入

新車の雰囲気がまだ漂う超ロングシート。同社の車両にはトイレの設置があるものとないものがあり、乗車時には注意が必要

わずか5分、2区間の乗車で相老駅に到着

旧式の駅名標が残るが、これだけきれいに並ぶと違和感というより違いがはっきりする。駅名は「相老」だが地名は「相生」。何かの間違いではないかと思ってしまうが、どちらも正解

相老駅は1911年と明治44年の開業。110歳を超える歴史を持つが、さらにその前の1890年に兵庫県の相生駅が開業している。青春18きっぷ期間の「ダッシュ」で知られ、山陽新幹線の駅でもある。桐生市の相生村にあった駅も当初は「相生駅」としてスタートしたが、重複を避けるため、わずか1年で現在の駅名に変更されている

駅名が重複した場合は旧国名を入れることが多いが、漢字を変えることもある。余部(あまるべ)橋梁で有名な駅は「餘部駅」。地名はもちろん鉄橋も「余部」なのだが、同じ兵庫県内の姫新線(姫路市)に先に「余部駅」があった。こちらは「よべ」と読みが違って文字が同じだったが、漢字にすると同じになるとの理由で、わざわざ難しい文字を駅名に入れた

ちなみに相生駅は岐阜県にもあって、郡上市の長良川鉄道に存在する。長良川鉄道もわたらせ渓谷鐵道と同じ旧国鉄の第三セクター。こちらは昭和になってからの駅で開業時は「美濃相生駅」だったが、三セクとなってJRとは別会社になったことで美濃の2文字を外した。実はわたらせ渓谷鐵道内には「同じ漢字で読みが異なる」駅があり、この後に訪問することになるが、こちらは三セク転換後に地名と同じ漢字に戻している(相老駅も含め開業時は足尾鉄道という会社で国鉄ではないのだが)

ではなぜ、そのまま相老が使用されているのかになるが、それはおそらく乗り換え駅として定着しているからだろう

ICリーダーのあるわたらせ渓谷鐵道の駅

相老駅は有人駅で改札口にはICリーダーがある。前記事で「わたらせ渓谷鐵道はIC乗車はできない」と記したばかりだが、これは東武桐生線のものだ。ICリーダーの上に「わたらせ渓谷鐵道利用の方はタッチしないでください」と張り紙がある

跨線橋から見た相老駅。右側の2面2線ホームが、わたらせ渓谷鐵道で左側の島式ホームが東武桐生線。改札口の写真に両路線の時刻表があるが、運行本数では東武が多い上に都内まで直接行ける特急停車駅でもあるため、利用者数も東武が圧倒している。わたらせ渓谷鐵道側は貨物列車が使用していた中間線の跡があり、長いホームに停車している単行列車がどことなく寂しげではある

ただし駅舎の管理はわたらせ渓谷鐵道で東武の特急券も販売している

木造駅舎を有するが、歩道に屋根が設けられていて駅舎の全景を伺うことはできない

ただひっそりではあるが、レンガ倉庫も残されている

すべて母音のAIOI-STATION。アルファベット順に並べると全国にある3駅が並んで先頭に来る

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その1(両毛線の桐生駅から歴史の旅に向かう)

桐生駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

小山駅からスタート

朝の小山駅。見た通り、工事中だった。前日は結構な量のアルコールが体内に入って、まだ後遺症が残る(専門用語で二日酔いという)が、本日はここからスタート。関西の人間にとってあまりなじみのない小山だが、知人が当地にいることもあって10年以上前から結構来ている

昨年3月も来た。その時は「JR東日本3日間全線乗り放題」という鉄道150周年の夢のようなきっぷ(もう二度と登板はないらしい)で仙台から東北新幹線の各駅を巡った後に新青森から秋田、山形をぐるりと回って東京着。翌日は「休日おでかけパス」で東北本線をウロウロしながら小山泊。翌日は「青春18きっぷ」(青森県の川部駅の旧社屋で窓口がギリギリ残っていた時代に購入した)を登板させて両毛線の各駅巡りを行った。まだ記事化していないのは、いくつかの駅を回りきれなかったため。いつの日にか「全駅めぐり」が始まるはずだ

東北本線のホームから少し距離がある両毛線ホームからクラシックな車両に乗り込み

桐生で下車。本日の目的はここからわたらせ渓谷鐵道に乗車すること

JR桐生駅の券売機で1日乗車券を買う

沿線のいくつかの駅で1日フリーきっぷを販売しているが、自動改札機を通れるのは桐生駅販売のものだけらしい。おそらく理由は当駅の自動改札機を通るため。先に述べると沿線内は自動改札機もなければ、IC乗車もできない

1989年(平成元年)発足の第三セクターわたらせ渓谷鐵道はJRホームの一角を間借りしている。元々は同じ国鉄でJR移管後もしばらくはJR足尾線だった。駅の高架化が先に行われたため、別の駅舎ができることなく、ホームはそのまま。そもそも桐生を出ると、しばらくは同じ線路を走る

注目は「鐵」の文字。階段の注意書きには「鉄道」が使用されているが、フリーきっぷの券面でも分かる通り「鐵道」と旧字体が使用されている。これは戦前からのならわしのひとつで「鉄」という文字は「金を失う」と書くので縁起が悪いとして企業では旧字体を使用することが多かった。有名なのは「新日本製鐵」で長らく旧字体が使われてきた。ただ旧字体が難しく、子どもはもちろん大人も書けないということで企業チームの野球やラグビー、バレーボールなどを扱う際、メディアでは「鉄」の文字が使用されていた。新日本製鐵も企業合併後の新会社は「日本製鉄」となっている。鉄道各社も大手から順に「鉄」となった。その一方で大井川鐵道のように近年になって旧字体を使用するようになった会社もある。わたらせ渓谷鐵道はスタート時から旧字体だ

ホームではすでに単行のわたらせ渓谷鐵道の列車が待っていた

桐生駅で改札の外に出ることなく両毛線とわたらせ渓谷鐵道をIC利用する際は簡易式のリーダーに読ませることが必要。沿線には足尾線時代の駅舎や施設が数多く残る。今回はそれらに触れる旅で当社ならではのトロッコ列車にも乗車する予定。半日旅のスタートである

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その20(長閑な1時間待ち)

小鳥谷駅の駅名標

※訪問は2024年7月5日

迷った末に

奥中山高原駅から少し八戸方面へと戻る。まだ時計は11時と午前中だ。といっても6時過ぎに青森駅を出ているのですでに6時間が経過しているが

乗車したのは一昨日に乗車した金田一温泉駅行き。つまりは青森県には入らない。今回の旅でひとつ目標にしていたのは、青い森鉄道とIGRいわて銀河鉄道の境界駅である目時駅だった。ギリギリ青森県にある駅で、そのため境界駅となっているが、山中の県境で利用者は少ない無人駅。ただし八戸から南下する列車は以前も記した通り、半数が目時のひとつ手前の三戸止まりで、盛岡から北上する列車にもこのようにひとつ手前の金田一温泉駅止まりがあったりして、私の訪れた時間帯は運行が少ない時間帯となっている。つまりは会社のルール上、境界駅となっているだけで「目時行き」という列車は存在しない。JRの東北本線として存続していれば脚光を浴びることはなかったのかもしれないが、料金表などで必ず登場する駅となった

ただ本数の事情などで今回は断念。ということで

小鳥谷(こずや)駅で降りてみることにした。難読に興味を持ったフラリ下車である

旧村名に基づく

駅舎は木造。財産票を探してみたが見当たらず、築年数は分からなかった。分かっているのは1891年(明治24)開業で奥中山高原駅と同年齢だということ。トタン屋根は手が入っているが、柱の形状などは、かなり歴史を感じるものとなっている

駅名は1957年(昭和32)まで存在した小鳥谷村から。一戸町との合併当時、小鳥谷村は奥中山高原駅(当時は中山駅)、小繋駅の3駅を含む自治体だった。そもそもの話をすると明治の町村制施行の際までは、小鳥谷村、中山村、小繋村と、それぞれ別々の村だった。町村制施行は1889年と鉄道がやって来る直前だったので、駅ができた時はすでに小鳥谷村だったことになる

ここで折り返しの盛岡行き列車を1時間待つことになった。ただいわて沼宮内から北は、昼間は2時間に1本の運行なので、真っ直ぐ進むと、どの駅でも2時間待ちになってしまうので1時間待ちは覚悟の上だ

小鳥谷という地名は室町時代の武将で、その後に当地を支配した小鳥谷氏に基づくとされる。地名として定着したのは江戸時代から

有人駅である。周囲に飲食店はなさそうな感じなので、駅舎と周辺で朝のコンビニおにぎりの残りを食べながら過ごす。涼しい風が通り抜けて快適だ

駅から徒歩10分ほどに国の天然記念物である樹齢数百年とされる藤島のフジがある

こちらは解説文

時間つぶしに最適(?)

なクイズもある。当然そんなつもりはなく設置されたのだろうが、JR東日本の文字が残る。目を凝らすと解答が分かるようになっているのが結果的にミソとなっている

この日は休みだったが、駅舎は物販や休憩所として使用されることもあるようだ

2面3線構造。早朝に当駅始発の県境をまたぐ八戸行きが設定されている。1時間はあっという間に過ぎ、盛岡へと戻ることにする

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その19(誤記?で生まれた駅名)

奥中山高原駅の駅名標

※訪問は2024年7月5日

伝説の駅名物語

奥中山高原駅に到着

当駅は1891年(明治24)の開業と130歳を超える長い歴史を持つ。当時の駅名は中山。日本鉄道という東北本線などを敷いた民間会社だったが、しばらくして国有化され、大正に入り、国鉄内にある同名の駅名を変更する動きが全国で行われた際に、当駅も横浜線の中山駅と区別しようということになった。駅の歴史は岩手県の駅が古いが、国名を入れる対象は古い方となり「陸奥中山」に変更することが決定。ただ書類提出の際に「陸」の文字を入れ忘れてしまったところ、書類そのままが受理されたため「奥中山」という駅名になった伝説が残る

その過程で誰も気付かなかったのか、後から指摘はなかったのか、とツッコミを入れたくなるところだが、とにかく1915年(大正4)以来、ずっと変わらず「奥中山駅」として存在し続けている。「高原」が付いたのは三セク転換から

ただ駅名というのは強さを発揮するもので

奥中山はすっかり地名となっている

学校名や郵便局、店舗も含め奥中山である

東北本線の最高標高

駅舎は昭和に入ってからものとされる。木造駅舎にトタン屋根という北国らしい構えで丘の上に建つ形となっている

当駅にはもうひとつの顔があり、標高427メートルと旧東北本線では最も高い場所にあった駅だった。駅の北側で十三本木峠という最も高い地点に到達。旧東北本線と並行する国道4号の最高標高でもあり、古くから交通の難所だった。後に建設された東北自動車道はこの峠を避けて建設されたほどだ

そのためSL時代は峠を越えるため、最大で3両もの機関車が連結されていた

SLの運行があった1960年代までは鉄道写真のメッカとして知られていて駅舎内には当時の写真が飾られている。ちなみに国鉄ではこの峠を奥中山峠と呼んでいた

ワンちゃん駅長

その写真と並び、かつての名誉駅長の写真も飾られている。近年、当駅を有名にしたのはこちらである

当駅の駅員さんが飼っていたことで幼いころからともに「出勤」。利用客のアイドルになり、やがて名誉駅長となりニュースでも取り上げられた。ついこの間のことだと思っていたが、天国に旅立ったのは2009年。もうそんなになるのか、と思う

有人駅で1日の利用者は287人。十三本木峠の最高地点の手前ということで大きめの集落があり、前後の駅に比べると利用者はかなり多い

構造は2面3線。現在は柵に遮られているが、長大列車の待避もあった名残でホーム有効長は長い。中間線も設けられていたようだ。山中の駅だけあって「奥中山」と言われても違和感は感じない。間違いが「陸中山」だったら、さすがに気付いたか。滞在中に少し雨が降ったこともあってか、東北本線最高地点の駅は涼しく、寒いとまではいかなかったが汗もかかない良い季候だった

もう少し沿線の駅を巡ってみることにする

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その18(意地の列車乗り継ぎ)

八戸駅の駅名標

※訪問は2024年7月5日

ここまで来れば…

昨日以来の八戸駅に到着。青いラインが青い森鉄道、緑のラインがJR東日本の八戸線。私の好きなタイプのJR東日本で見られる分かりやすい駅名標

小湊から八戸までは約1時間。ここで大きな決断を迫られる。この電車は9時26分に八戸へ到着し、9時30分発の盛岡行きに接続する。お手洗いの時間も危ない(列車内にお手洗いはある)絶妙すぎる乗り継ぎ時間だが、その次の盛岡行きは、なんと4時間後の13時35分。八戸以南の列車の半数は青森県内で完結する三戸行きで県境そして会社を越える運行は少ない。朝の通勤通学帯を過ぎると、お昼休みに入ってしまうのはローカル線の特徴だが4時間空きは辛い。八戸~青森の青い森鉄道は1時間に1本あるので、この時間帯を利用して青い森鉄道の各駅を巡りつつ、4時間を待つあるいは八戸で宿泊する作戦もあるが、今日も明日も好天とはいえ、今日は最終宿泊日。明日は花巻空港からの飛行機を確保しているので、鉄道と天候だけは何があるか分からないというのが、鉄オタ生活で得た、ある意味唯一の教訓である。日本の鉄道会社というのは、まず新幹線だけは何とか頑張って走らせようとして(その分、施設の備えは万全だ)、次が特急がバンバン走る在来線、その次が利用者の多い在来線ときて、すぐに止まってしまうのがローカル線である。特に戦前からの路盤をそのまま利用しているローカル路線はもろい。その意味では旧東北本線の三セクは、路盤的には力強いものを持っているはずだが、とにかく今夜は盛岡までは到達しておくことが無難だろう

ということで車内の1時間で相当悩む。ひとつ簡単な解決策があって、それは八戸から二戸まで1区間、新幹線に乗車することだ。ここは1時間に1本の運行がある。何なら青い森鉄道を満喫して夜の新幹線で盛岡までダイレクトに向かうという最終手段もある。旅の初日や2日目なら2000円~3000円を課金して、1区間の新幹線乗車を選択をしただろう(結局乗らなかったので詳しい料金は分かりません)。北海道&東日本パスでしかできない三セク内乗り放題の特権を使えば、料金的にかなり元はとれる。ただもう旅の最終盤。品川からグリーン課金もせず、トコトコ多くの列車に乗ってきたのだ。ここは意地でも別料金の課金はなく終わりたい

目指すは岩手県内の駅

ということで9時30分の盛岡行きに乗車

ということで盛岡行きのホームへと急ぐ。右側のラッピング列車が乗車するIGRいわて銀河鉄道。左側が八戸線の久慈行き。ここで初めて知ったのだが、久慈行きは9時29分発で乗車列車は八戸線にも接続していた。ちなみに右側で見切れてしまっているが、これは9時33分発の大湊線直通の快速「しもきた」である。来た方向を戻る列車にはなるが、どれも魅力的ではある

しかし、ここは真っ直ぐ南下である。岩手県内にもうひとつ、どうしても行きたい駅があるので、そこを目指す。ちょうど1時間かけて

お目当ての駅である奥中山高原駅に到着した

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その17(夏泊半島って?)

小湊駅の駅名標

※訪問は2024年7月5日

浅虫温泉駅で絶句

6時13分の青森発電車で再び八戸を目指す。きっぷは青森から先のJR区間もいくらでも行ける(もちろん普通のみ)ことになっていて、先へ先へと向かうことが、旅らしいが、今回は三セクも乗り放題というきっぷの特性を生かす旅となっているので、このまま岩手県へと折り返す

貨物駅でもある雄大な東青森駅や

筒井駅で降りたりしながら

浅虫温泉で下車。ただ工事をしているようで、何やらイヤな予感

国鉄時代から優等列車も多く停車していた温泉最寄りの駅。国鉄末期に浅虫駅から現駅名に改称された。三セク移管後も有人駅。こう見ると駅舎内に変化はないようだが、外に出ると

「お~い!」

これは参った。西岩国駅に2度行ったら、2度とも工事中だったことを思い出す(この記事を書いている時点では工事は終わっているもよう)。これは正直参った

ただ降りてしまったものはしょうがない。ここではある程度時間を設けていた

駅前の足湯に腰掛け(このころの青森は朝はそれほど暑くはなかった)

青森駅近くのコンビニで買ったおにぎりで朝食である。この後、昼食にありつけない可能性もあったので、ひとつは残すことにした

「小湊駅」はこちらが元祖

さらに先に進んで小湊駅で下車。駅舎は昭和30~40年代の国鉄型コンクリートだが、開業は1891年(明治24)と古い。小湊といえば、千葉県の房総半島を走る小湊鉄道を思い浮かべる方が多いだろう。その小湊鉄道が目指したのが外房線の安房小湊駅で結局は未成線に終わって会社名だけが残ったのは有名な話である

ただし安房小湊駅の開業は1928年(昭和3)と青森県の小湊駅よりずっと後。「安房」と国名が入ることになった

平内町(ひらないまち)の中心駅で、かつては優等列車の停車もあった。現在も有人駅。ストーブが「常設」状態となっている

相当悩んだ

そして平内町といえば

夏泊(なつどまり)半島である。青森県で半島といえば津軽半島と下北半島だが、もうひとつの半島といえば陸奥湾を東西に分ける夏泊半島

地図を見ると、陸奥湾の中に飛び出た格好となっていて気になる存在だが、巨大な津軽半島や下北半島と比べると知らない人も多いかもしれず、私も訪れたことはない。ただ今回の旅を決めた時から何とか行けないものかと下調べはそれなりにした

夏泊半島の最大のウリは北端のさらにその先にある大島で、半島とは橋でつながっていて徒歩で渡ることができる。小湊駅からはバスが1日に5・5往復あるが、それだと半島を楽しむというより、大島まで行って帰るだけになってしまう。レンタカーが必要なようで、残念ながら断念となった

かつての規模を物語るように構内は広い

雪国らしい案内板を眺めて離れることにするが、この後、分岐点が訪れることになる

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その16(普通のみで青森到着)

青森駅の駅舎

※訪問は2024年7月4、5日

それなりに感慨が

三沢から青い森鉄道に再び乗車

1時間15分ほどで青森に到着。時間は16時20分。途中から下校の高校生が乗車してきて車内は満員となった。7月4日の時点でテレビのニュースでは首都圏の猛暑を連日伝えていたが、写真で分かる通り、このころの東北は、朝と夜はまだ涼しく長袖姿も見られた

ウロウロしながらではあるが、とにもかくにも2日の朝に品川駅を発って以来、普通のみでここまでやって来た感慨はある。旧東北本線は三セク転換以前も完乗したことがない。もちろん新幹線は何度も利用しているが、東北本線の在来線となると、虫食いのようにどこかが残った状態だった。すでに国鉄でもJRでもなくなっているが、トコトコと走ってきたなぁ、という思いはある

宿は青森駅から徒歩で10分弱のホテルを確保。ちょっと古めのホテルだったが、コンビニも近いし何より近くに480円で利用できる温泉があったのが良かった

風呂の後はビールで癒やされ

無料の夜食カレーをいただく

菓子パン1個サービスというのも良かった。これで6800円

少し前にもこのような記事を投稿したが、チェーンでもない古めのホテルは、付加的なサービスが充実しているところが多い。カレーの無料夜食は何度か出会ったことがある。お酒を飲まない人にとっては特にうれしいサービスだし、私のようにかなり飲む人間でも外での食事代を減らすことができる

あらためて変貌した駅ビルを感じる

そして翌朝は

例によって朝の5時台にはチェックアウト。古めのホテルのメリットについてここまで触れたが、デメリットしては、鉄オタの必需行動でもある早朝チェックアウトへの対応が難しい宿も存在することがある

最近のホテルチェーンは朝のチェックアウトの手続きが事実上不要となっている所も多いが、古いホテルでは早朝に宿を発つ可能性がある場合は、前日のうちに何時からフロントに人がいるかを確認しておくことが必須事項。大概の場合は無人のフロントにカギを置いておくことで解決するが、一言声をかけておくのがマナーというものだろう

早朝の青森駅。2021年に新しい駅舎となってから青森駅で降りたのは初めて。昨日は駅ビルを見上げただけで宿への歩を進めたが、変わったなぁ、と思わざるを得ない

「あおもり駅」のひらがなが印象的だった旧駅に私が最後に来たのは2013年8月のこと。この写真は自分のフォルダからすぐに出てきた。なぜかというと高校野球の決勝の日だったから。前橋育英が優勝したが、駅の向かいにあったビルに入っていた渋めの喫茶店で飛行機の時間が来る途中まで試合を見ていた

この時は函館から特急に乗り、今はなき津軽今別駅で下車して津軽二股駅で乗り換えるという旅程をわざわざ行って青森入りした

その前は江差駅、渡島大野駅(現函館北斗駅)も訪問。いずれも近いうちに消滅することが分かっている駅ばかりだったが、11年という歳月を感じる

昨日は気付かなかったが、改札は「えっ、これだけ?」と思ってしまった。新幹線の駅はお隣の新青森に譲っていて、これだの規模で十分なのだろう。青函連絡船時代の面影はすでにない

6時過ぎの電車で再び八戸方面へ向けて折り返しである

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その15(初めての三沢駅)

三沢駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

三沢といえば

八戸を出た後は

以前から気になっていた乙供駅で1度下車

「おっとも」と読む。諸説あるそうだが、アイヌ語で「激しい戦闘のあった場所」を意味する「オトム」が語源という説もあるそうだ

初の三沢駅

そして三沢駅まで戻って下車。JR時代も含め何度も通りがかったが、降りるのは初めてだ

ちょうど今は高校野球の季節だが、私が物心ついて初めて見たというか、最も古い記憶にある野球の試合といえば、1969年(昭和44)の松山商×三沢高校の決勝戦。今では2度とない延長18回のスコアレスドローの再試合である(翌日の決勝は4-2で松山商が勝利)。もちろん三沢という地名も初めて知った。それから25年以上も経って、担当として甲子園で松山商の優勝を見届けることになるなど想像できるはずもない

三沢を初めて訪れたのは随分と時が経って2012年4月のこと。東京に住んでいるころで、その時は下北駅でレンタカーを借り、海沿いにまだ一部雪が残る下北半島をグルリと回った

大間崎に行き、下風呂温泉で宿泊

未成線となった大間線の遺構などを見ながら

尻屋崎へ。GWの直前でとにかく誰もいなかったことを覚えている。そのまま南下して三沢市内まで行ったが、帰りはこういうタイミングでしか利用する機会がないだろうと三沢空港から飛行機で帰ったので駅を降りるのは初めてとなった

開業時は古間木駅

三沢駅は1894年(明治27)の開業。19世紀の誕生で今年130歳を迎えたが、開業時の駅名は地名の古間木。三沢の町は少し離れている上、駅の所在地は当時の三沢村ではなかった。三沢市の成立は戦後の1958年(昭和33)。それより先の1948年に六戸村(現六戸町)にあった駅の所在地が三沢市の前身である大三沢町に移管されていた。駅も三沢市に所在することになったことを受け、1961年に三沢駅へと改名された。駅の歴史の長さもあって、まだ古間木駅としての歴史の方が長い

かつては在日米軍への貨物専用線が当駅から出ていて、今も地図を見ると途中まで線路は残っているようだ

現在の駅舎は2020年からのもの「駅前交流プラザみ~くる」となっていて(正確には駅舎に隣接)観光案内所のほか、隣接していた十和田観光電鉄(2012年に廃線)の駅舎内に入ったいた駅そばが入店している

東北本線時代は特急停車駅だった。現在も有人で管理駅

改札口を出た場所の案内は三沢ならではのもの。私が到着した14時半には大きなバッグを手にした乗客が多く降車したが、おそらく星野リゾートを目指す人々だったと思われる

ホームの地図には今も十和田観光電鉄が掲載されたままだが、これはあえて残されているのだろう

さて肝心の宿の方だが、価格はすでに調べてあって十分満足のいくものだったが、駅前にはほぼ何もないと言ってよく、ホテルは2~3キロ離れた町の中心部に行くしかない。事前に駅と街が離れていることは分かっていたが、駅に張られていたバスの時刻表を見ると、私のように早朝の電車に乗って去るタイプには、なかなか使いこなすのが難しいようだ

ということで青森まで向かうことに

こんなきっぷがあるんだ、としげしげ眺める。本州から北海道への船旅というものを私はしたことがない。次はこんなきっぷを利用して旅をしたいと思った

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その14(青森で宿確保に苦戦)

八戸駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

主役の座を譲った駅

県境を越える列車の空白があるため、金田一温泉から一戸へいったん戻る。規模の大きな駅は東北本線時代は交通の要衝の座にあった

特急の停車駅で機関区も設けられた。SL時代は給水のため、列車が必ず一休みする場所でもあった。東北新幹線の八戸延伸の際に東北本線は三セクかされたが、新幹線駅がお隣の二戸となったことで鉄道駅としての地域の顔は二戸に譲ることになった

大きな構内と今は使われない長大ホームが往時を伝える

そして岩手県とはいったんお別れ、次の列車でいよいよ青森県へと入る

大湊線には18きっぷの特例あり

八戸へと到着。すでに青い森鉄道に入っている。青い森鉄道は青森県最初の駅となる目時から青森までの旧東北本線を引き継いだ路線だが、運行は必ず八戸で分断される。これはJR時代からの運行の形式で三セク転換されても、パターンは踏襲されている。そして八戸駅の乗り継ぎがあまりにも絶妙で、わずか5分。しかも次の列車は1時間後。ちょっと悩みながらも先へと向かう列車へと乗り換えた

悩みというのは、この時間になっても宿のメドも立っていないこと。最終的には青森までは必ず行くことにしているのだが、できれば途中のどこかで宿を確保したい。青森で宿泊すると夕方以降に到着して飲んで、翌朝早い時間に宿を出て終わりという行動になってしまうので、できればお昼の時間帯に到着して駅周辺を味わってからUターンというのが旅程的には好ましい。しかも、おそらくだが、県庁所在地の宿は高いのである

となると、都市は限られていて、最初の候補はここ八戸。以前も紹介したが、八戸の中心地は八戸駅ではなく本八戸でホテルの数も圧倒的

こちらは八戸から2駅。予約サイトを見ると、本八戸まで行けば安価に泊まれる。ただ本八戸駅の場所は繁華街から徒歩10分ほどの場所にあり、ちょっと遠い。八戸駅行きのバスは繁華街の真ん中を通るが、せっかく乗り放題のパスを持っているのにバス代を払うのはしゃくだ。そもそも朝が早いことは確定しているのだから、2駅分で行動を制限されるのはあまり好ましくない

ということで夜はチェーン店居酒屋が中心とはなるが、別に八戸駅近くにも問題ないだろう。複数のホテルチェーンが進出しているし、久しぶりに八食センターにでも行ってみようか、などと考えていたが、ちょっと今回の旅の基準からはかけ離れた高さだ(初日の東京は別として7000円を上限に考えていた)

ということで沿線の次の候補地として考えていた三沢に向かうことにする

ここで少し話はそれるが、八戸からは青い森鉄道の線路を使用するJRの大湊線が出ている。野辺地で分岐して大湊へ向かう路線は東北新幹線が新青森まで延伸された際、自社路線と一切接続しない飛び地路線となったことで有名になったが(現在は七尾線も加わっている)、前記事でも触れたIGRいわて銀河鉄道の線路を使用する花輪線とは異なり、青春18きっぷでも通行できる特例が設けられている(青い森鉄道内では途中下車不可)ので今の季節は安心して下北半島を目指してほしい

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その13(青森との県境まで来た)

金田一温泉駅の駅名標

※訪問は2024年7月4日

青春18きっぷでは通れません

優先順位1位の渋民駅訪問を終えた後は盛岡方面へと少し戻る。前記事でも触れたが、渋民のひとつ盛岡寄りとなる滝沢までは、昼間も1時間に2本の運行があるからだ

盛岡から二つ目の厨川駅は開業時の1918年(大正7)からの駅舎が残る

この駅に来たのは、駅舎が魅力的なことがもちろん第一義だが時刻表を見て

気動車に乗れると思ったから。IGRいわて銀河鉄道にはJRの列車も走っている。好摩駅で分岐する花輪線が乗り入れているためで、花輪線の列車は盛岡駅でも基本的にはIGRいわて銀河鉄道のホームから出発する

ということで、お隣の滝沢までJR東日本の非電化区間の王者であるキハ110に乗車。この時点では今回の旅では最初で最後となる気動車乗車のつもりだったので「記念」の感覚が強かった

さてIGRいわて銀河鉄道を介しての花輪線だが、ここに特例は存在しない。北陸新幹線の開業によって三セク転換された旧北陸本線沿線では途中駅から分岐するJR線に乗車の際、途中下車しない限りは青春18きっぷで乗車できる特例がいくつか設けられているが、花輪線にはない。盛岡から好摩を経て花輪線の各駅に向かう場合、途中下車せず乗り通してもこの区間の料金660円が必要となるので注意が必要。もっとも私が持っている北海道&東日本パスでは、どこをどう乗ろうと乗りたい放題、降りたい放題だ

そのキハ110には多くの学生さんが乗っていて滝沢駅でドッと降りる。車内は一気に人がいなくなった。盛岡~滝沢の1時間に2本の運行には花輪線の列車も器用に組み込まれている

滝沢駅のある滝沢市は10年前までは「5万人を抱える日本で最も人口の多い村」として知られていた。盛岡のベッドタウンとして住宅が増え、岩手県立大学か開校したことによって人口が急増。今は当駅折り返しも設定されている。サブ駅名は「学園の杜」。一番目立つところにある広告が、それを物語っている

青森県はすぐそこ

滝沢からは一気に北上。というか、この先のいわて沼宮内を過ぎると本数が大きく減るので選択肢も限られてくる

いわて沼宮内の通過時は昨年3月を思い出した

東北新幹線の全駅巡りの途中で当駅で降り立ち、盛岡までは新幹線のダイヤが薄いためIGRいわて銀河鉄道に乗車したのだが、目の前で雪が積もっていく吹雪に遭遇。ホームで震え上がった。今日の景色は車内のお客さんの服装も含め、全く別の世界である

1時間揺られて到着したのは金田一温泉駅

文字通り、金田一温泉の最寄りでバスで約5分と近い。読みは「きんたいち」なのが留意点。金田一駅として1909年(明治42)に開業したので歴史は古い。JR移管のタイミングで現在の駅名に変更された。江戸時代にはすでに温泉地として名をはせていた

座敷わらしの里にもなっていて

その解説がこちら。IGRいわて銀河鉄道の各駅にはミニ解説が設置されていて読むと楽しい

当駅まで来たのは、IGRいわて銀河鉄道で北上すると岩手県最後の駅となるからだ。次の目時は青い森鉄道との境界駅で共同使用駅となっているが、所在地は青森県。岩手県は47都道府県で北海道に次ぐ広さを誇る。つまり県の面積は日本一。昨日、宮城県から岩手県に入り、東北本線と旧東北本線を北上してきたが岩手県は広いと実感した

そして当駅訪問のもうひとつの理由。それは乗車電車が当駅止まりだったため。行こうにも行けないのである

こちらが時刻表。上り下りとも11往復。昼間は2時間に1本の運行となっていて私は11時31分に当駅着。青森県に入るためには1時間20分後まで待たなければならない。乗車電車は12時発の盛岡行きとなって折り返す。さすがに12時50分までは待っていられないので、折り返し電車でもう少しだけ岩手県にとどまることにした

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