青春18きっぷ

城端線の全駅訪問を思いつく~見渡す限りの農地は最も新しかった駅

林駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

所在地は東藤平蔵

林駅に到着。これまで巡ってきた城端線の駅は、棒状ホームと待合所のみであっても周囲は住宅街というものがほとんどだったが、こちらはホームに立つと見渡す限りの田畑となっている

開業は1956年(昭和31)。城端線に戦後誕生した駅と同じく、当初から待合所と単式ホームのみという簡素な構造で、旅客扱いのみ。貨物を扱ったことはない

2015年に北陸新幹線の金沢延伸で新高岡駅が開業するまで、林駅が路線内で最も新しい駅だった。現在も1日の利用者は50人にも満たない駅が、なぜわざわざ設置されたかというと、二塚~戸出の駅間が長いという理由があったとされるが、その間はわずか4キロ。それでも確かに城端線内では長い方で、戸出~油田の3・4キロが最長で他はすべて3キロ未満である

だから一見、田畑の中にポツンとある駅だが、高岡の市街地まではすぐでホームからも見える

わざわざ歩く人はいないだろうが、高岡駅までは1時間で到達できてしまう。私が山中のローカル線駅訪問でたまに繰り出す徒歩移動の距離だが、その間に二塚、新高岡と2つの駅がある

駅の所在地は「高岡市東藤平蔵」。どう読むのか困ってしまうが「ひがしとうへいぞう」。元々の村の名前で、一体を開墾した「藤平蔵」という人に由来する。江戸時代までは東藤平蔵村と西藤平蔵村があった

全国初の例として移管が認定

この記事を書いているのは2月9日だが、さる8日に国土交通相が、富山県などから申請されたJR城端線・氷見線のt鉄道事業再構築実施計画を認定した。昨年10月の改正地域交通法施行後、全国で初の例になったという

改正法は自治体と事業者が路線のあり方を議論し、利便性を高めて交通網の持続性を高めるもの。報道によると、今回の認定により、2029年をめどに氷見線と城端線があいの風とやま鉄道に移管され、新型車両の導入やIC乗車対応が行われる予定。毎時同じ時間に発着するパターンダイヤが実施して運行本数を増やすことも目指す。国とJR西日本からも、それぞれ100億円以上が負担されるという

かなり順調に推移していきそうで、新型車の導入やパターンダイヤの実施は旅客サービスの向上にもなる。もっとも、この改正法には、自治体や鉄道事業者からの要請によって、地方鉄道の存続やバスへの転換などを議論する協議会を国交相が設置できる項目もあり、対象となっているのは、こちらも何かとニュースとなっている芸備線。多くの援助がある一方、国の決断によって廃線が行われるという地元にとっては正負両面の法律でもあることも知っておかなければならないだろう

林駅など、待合所とホームのみの駅にも変化が訪れることになる。ちなみに「林」は高岡で多い姓だという

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城端線の全駅訪問を思いつく~ホームから目につく「列車」は?

福光駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

城端線の最初の終着駅

福光駅に到着。南砺市は平成の大合併の2004年に福光町などが合併して成立した。旧福光町役場を利用した南砺市役所の最寄り駅

市役所までは徒歩ですぐ。市役所の先に小矢部川が流れ、川をはさむように町が広がっているが、旧来の町の中心部は、その川の向こう側である

旧福光町の中心駅にして現在は南砺市の中心駅なので立派な駅舎を有する。私の道程が偶然そうなったのだが、城端線の駅紹介で。ようやく本格的な駅舎の登場となった

開業は1897年(明治30)と歴史は古い。城端線の元となった中越鉄道の開業も同年だが、福野までだった鉄路が当駅まで延伸され、一時的に終着駅となった。現在のロッジ風コンクリート駅舎は1983年(昭和58)からのもの

駅前にはD51の動輪が保存されていた

ユニークなみどりの窓口

高岡方面から到着するとホームの待合所で立派なホーローのお出迎えがある

この字体はなんと言うのだろう。同様のホーロー板は改札付近にもある

見たところ、同じもので同時期の製造と思われる。こんな立派なものが2つも設置されているとは、なかなか貴重

待合所には、もうひとつホーローが健在で目の保養になる

改札には、これもまた古典的なラッチが現役で、ご覧の通り、みどりの窓口もある。こちらは、なかなかユニークで、JR西日本のおでかけネットによると、みどりの窓口はあるものの、EXサービス、e5489のきっぷ受け取りは不可。当駅の窓口業務は駅を使用するタクシー会社に委託されていて、簡易委託駅ながらみどりの窓口があるという、今ではなかなかお目にかかれない形式だ

もっとも、このユニークな形式もそう時間が経たないうちに終了して、無人化されることとなっている(少なくともこの記事を書いている時はみどりの窓口が存在している)。福光駅では3年前に駅舎と逆側にも新たに無人の東口が設置され、跨線橋が自由通路化されている

これは何でしょう?

福光駅で車窓からも否が応でも目立つのは

車両仕立ての構造物。造られてから、それなりの歳月は経っているようだが、これは気になる。早速見に行くと

なんのことない駐輪場だったが、それぞれの置き場には列車名が張られている。白鳥と日本海は大阪~青森の長距離特急。特に白鳥は1000キロ以上もの距離を12時間以上かけて走る最長の在来線昼行特急として名をはせた

そのほかにも「雷鳥」「白山」があったので、北陸に縁のある列車に絞られているのかと思ったら、そうとも限らない。ただ、この列車名駐輪場は「のぞみ」登場以前のものだったことだけは確実で、そのころは白鳥も日本海ももちろん現役。30年以上の歴史があるようだ

これを見られただけで何だか楽しい気分になった

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城端線の全駅訪問を思いつく~何よりも最優先事項で訪問となった駅

高儀駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

ひらがなだと一層気分が

やって来たのは高儀駅。お察しの通り「たかぎ」駅で、今回の訪問ではまず時刻表チェックから始めた

私が知る限り、「高木駅」は日本でひとつしかない

福塩線の高木駅(広島県)で、これは年明けの1月10日に3年ぶりに訪れたもの

もうひとつ、身近なところ、神戸のお隣の三木市にも、ついこの間まで高木駅はあった

三木鉄道の高木駅。国鉄三木線が三セク三木鉄道に転換されたものの、2008年に廃線となった。こうして見ると普通の道路にしか見えないが、駅の跡地であることを教えてくれる案内板があるので往時をしのぶことができる(訪問は2019年11月)

三セク転換後に設置され、約20年の存在だった

そして今回の「高儀駅」である。城端線の訪問は急きょ決めたが当駅だけは、そこそこの滞在時間がとれるよう日程を考えた

縦駅名標は平仮名とローマ字のみの表記なので、より気分が高揚する

19世紀から120年以上の歴史を有する

高儀駅は砺波市との境界線近くにある南砺市の駅。平成の大合併前は福野町

市境の線引きがやや複雑だが、駅から1~2分歩くと砺波市に入ってしまう。開業は1899年(明治32)だから、19世紀生まれで120年以上の歴史がある。少し前の1897年に城端線の元となった中越鉄道が開業していて、砺波(当時の駅名は出町)~福野の間に設置された。高儀の住居表示は今も残っていて、駅から10分ほど南に歩いた場所となる。現在は当駅と砺波の間にもうひとつ東野尻駅ができているが、設置当時は東野尻村からのアクセスも考慮されたという

そんな歴史ある高儀駅だが

現在は簡易的なコンクリート駅舎。駅としては1970(昭和45)に早々に無人化された。現在の形になったのはJRとなった1987年(昭和61)なので、この駅舎になってからも40年近くが経過している

その時に構内は棒状化された。かつてのホーム跡は40年の歳月を物語る

現在の姿となる前は開業直後からの木造駅舎が残っていたようで

駅前広場と花壇に面影を残す

駅舎内の待合室はきれいに清掃されている

私は「高木さん」には出会ったことがあるが「高儀さん」には出会ったことがない。富山県を中心に北陸方面にはいらっしゃるようだ。町村制度が始まった明治以降では高儀という自治体は誕生しなかったが、高儀村は江戸時代にはすでにあった地名らしい

せっかくなので駅名板もあるだけ撮っておこう

こちらが駅舎の外側にあるもの。凸型になっているあたり、40年前は簡易的な駅舎にするにしても工夫が凝らされていたことが分かる

こちらは内側のもの。年月を経てかすれた感じがいい

今回の駅訪問で最重要とした駅に立ち寄れてとても満足して当地を後にした

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城端線の全駅訪問を思いつく~終点のひとつ手前も新設の棒状駅は踏切に名を残す

越中山田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

駅訪問の鉄則

油田から7駅進んで

越中山田で下車。7駅といっても17キロしかない。高山本線なら40キロほど進みかねないが、とにかく駅が多い。待合所が前々記事で紹介した東石黒と同じ形状で理解できると思うが、こちらも戦後の新設駅。棒状ホームと待合所のみの構造で貨物の扱いをしたことは一度もない

開業は1951年(昭和26)の8月10日。同日に東石黒駅そして東野尻駅とともに設置された。ちょっと意外だが、路線内で「越中」が付くのはここだけ

次は終点の城端。過去に訪問済みということや滞在時間が短くなることで今回は城端はスルーとしたが、ローカル線において終点駅の手前というのは駅を巡る上で重要。比較的早い時間に折り返してくることが多いので、ここで待つという手段もあるし、折り返しまでの時間を利用して次の駅まで徒歩で先回りすれば、2駅を回収できる

昨年は名松線の比津駅と伊勢八知駅を訪問した際、この手段を利用した

駅への手段が鉄道以外になく、徒歩もままならない時は、じっと待機。越美北線の越前下山という駅は、とても歩くような道路ではないので、そちらの方法を利用した

小学校の名前を残す踏切

もっとも越中山田駅については、1時間に1本の運行があり、両隣の駅までもそう大した距離ではないので、のんびり折り返しを待つことにする

隣駅は終点の城端ということで線路の先には山々が迫っている

駅名は1952年まで存在した山田村に由来する。駅周辺には集落がある。駅の開業翌年に福光町となり、現在は南砺市(富山県には、もうひとつの山田村があり、こちらは2005年まで存続。現在は富山市となっている)

こちらは駅の遠景。ホームへは踏切横の小さな階段から入ることになるが、その踏切をぼんやり見つめていると、気になる文字があった

「山田小学校」とある

踏切名も「山田小学校踏切」となっている。だが周囲に学校らしきものは見当たらない。調べると、かつて駅付近には、山田村立から福光町立となった山田小学校があった。明治初期から100年以上の歴史を持つ学校だったようだが、1981年に閉校となっている

「山田小学校のあゆみ」というサイトを参考にこの記事を書いているが、生徒さんたちは越中山田駅の清掃活動に取り組んでいたようでたびたび表彰も受けている。金沢鉄道管理局長からの表彰もあり、最後は国鉄総裁賞も受賞。ただし小学校のあゆみの次の行が閉校式だった…

閉校から40年が経過しても、新しい看板に更新されながら小学校は残っている

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城端線の全駅訪問を思いつく~ハッと思ってしまう意外な難読駅名の由来

油田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

隣駅とセットで理解

東野尻に次いで油田にやって来た。ご覧の通りの単式ホーム。ただ向かいに廃ホームが残る。かつては、交換設備があったようだ

ただ注目は駅名である。「油田」は「あぶらでん」と読む。多くの人が思うのは「ゆでん」だろうが、いわゆる湯桶読みという訓音読みは、それだけで難読になってしまう

一瞬、富山にかつて油田(ゆでん)があったのか、と思ってしまうが、そうではない。これはお隣の戸出駅とセットにすると分かりやすい

城端線の駅は1駅だけ紹介したことがある。昨年2月にグリーンきっぷで旅をした際、当駅に立ち寄った

「戸出」(といで)だけだと、油田との関係は分からないが、時代ははるか昔の平安時代までさかのぼる。このころから当地は油の産地だったようだが、そのころに石油なんてものが使用されるはずはない。油というのはごま油のこと。付近ではエゴマが多く栽培されていた

それにちなんで「灯油田」(とうゆでん)が地名の由来で、歳月を重ねるうちに「とうゆでん」→「とゆで」→「といで」と変化したとか。隣町となる油田は、文字もそのまま残った

明治の町村制では、それぞれ戸出町、油田村となり油田村は、戦後の1952年(昭和27)の砺波町誕生まで存続。現在は砺波市である

現在は簡易的な駅舎

油田駅の誕生は1900年(明治33)で、1897年生まれの戸出駅より若干若い

現在の城端線が最初に開業したのが戸出駅設置の1897年で、同じくその時に開業した砺波駅(当時の駅名は出町)との間に開業した。少し遅れたとはいえ、もう120歳を超える歴史を持つ

ただし駅舎は簡易的なもの。かつては木造駅舎があったようだが、国鉄末期に無人化され、JRになって間もなくの1989年(平成元年)に現在の姿となった

簡易的とはいっても駅舎には事務室があり(どのぐらい使用されたのかは不明である)、待合室も扉が開閉できるものとなっている。駅舎そのもののデザインも欧州風なおしゃれなものだ

駅からすぐのところには江戸時代から続く若鶴酒造があり、ここには北陸唯一のウイスキー蒸留所がある

そんな油田駅だが、駅舎はあるものの少し気をつけなければならないことがある

最近の流れではあるがお手洗いにはカギがかけられ閉鎖されている。長時間滞在する場合には事前に備えが必要である

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城端線の全駅訪問を思いつく~戦後生まれの棒状駅からスタート

東石黒駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

1時間に1本の運行

高岡から約40分。東石黒駅が本日最初の訪問駅

こちらが当駅の時刻表

城端線は基本的に1時間に1本の運行で高岡~城端を走る。臨時扱いの観光快速を除くと、すべてが普通列車で、平日の朝のみ高岡からあいの風とやま鉄道に乗り入れて富山まで直通する列車が2本運行されている。話はそれるが、この2本は高岡~富山で見られる貴重な気動車ということになる。運用にあたるのは、いわゆる「タラコ」のキハ40、47

1時間に1本というのはローカル線では本数の多い方だ。元々はひとつの路線だった高岡からの氷見線は、城端線より少ない。前記事で記した通り、全体で14駅しかも30キロの中に詰め込まれているので全駅訪問はそれほど難易度は高くない。2キロにも満たない駅間もあるため、徒歩も駆使すれば次の列車に間に合ってしまう。もっとも訪問当日は9月10日と、まだまだ酷暑の日だったので、できるだけその手段は避けよう

駅の開業までは戦争をはさむ

東石黒駅は棒状ホームと待合所のみの簡素な構造

立派なキロポストがホームに建っているが、開業当初から現在の姿

設置は戦後の1951年(昭和26)。駅が造られることは戦前から決まっていたが、戦争をはさんで開業となった。駅の構造が旅客営業のみの対応なので貨物の運用は最初からない

駅名は1954年まで存在した東石黒村に基づく。東石黒村は福野町を経て現在は南砺市。ちなみに東石黒村があったのだから石黒村もあったが、こちらは戦後、福光町に入る形となった。ただし今はともに福光町

福野、福光の両駅は19世紀からの歴史があり、その中間に設置されたため、距離も近い

線路に沿って真っ直ぐ歩くと福野の街に入り、福野駅に着くことができる。線路とともに歩けるという駅巡りでは絶好のルート。ただ繰り返すが、この暑さでは歩かないのである

駅の全景はこんな感じ

自転車置き場があり

踏切横の小さな階段を昇ってホームに入る

ただし駅全体を見ると

その気になれば、小さな土手を上がると柵もなく容易にホームに入れてしまう、よく北海道で見られる構造。もちろん、それが合法的なものかどうかは不明。1日に50人ほどが利用する駅で、滞在中はどのような入り方、降り方を地元の皆さんがされるかどうか注目していたが、ちょうど朝の通勤通学の時間帯が終わったばかりで駅にやって来る人はいなかった。ずっとホームにいたのは明らかに同業者(鉄道ファン)で、なおかつ駅訪問を趣味としているであろう方と私の2人きりだった

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城端線の全駅訪問を思いつく~急きょ行先を変更して富山から高岡へ

城端駅のホーム

※訪問は2023年9月10日

直前のニュースに触発されて

昨年の夏の青春18きっぷ最終日の朝。私は富山の駅前にいた

本来ならここから高山本線の残った駅の回収に向かうはずだったが、前日のうちに急きょ予定を変更した

11月の記事でも記したが、理由は①あと1日では高山本線の全駅回収は不可能だと判断したこと②直前に城端線と氷見線の三セク編入検討のニュースが流れたこと-の2つ

報道では今後、協議に入るとなっていたが、こういうのは話がトントン拍子に進むものである。表現は乱暴だが、JR西日本としては新幹線以外と接続しないローカル線とは、一刻も早く縁を切りたいだろう

ということで富山からあいの風とやま鉄道に乗車して高岡を目指すことにする

わずか30キロに14駅

城端線は高岡駅と城端駅を結ぶ29・9キロのローカル線。この距離は東京~横浜より、ほんの少し長く大阪~三ノ宮より、ほんの少し短い。そして約30キロの間に14もの駅があるという(高岡駅は城端線所属となっている)、まるで私鉄のように路線だが、実際に元々私鉄だった路線である

中越鉄道という会社が1897年(明治30)に福野までを敷設したのが最初だから、130年近い歴史を持つ。ちなみに当時の起点は高岡ではなく黒田仮乗降場で、これは現在の新高岡駅近く。なぜこのような場所が起点となったのかというと、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったから。国鉄が金沢からやって来ることは決まっていて、もちろん接続駅とすることは決まっていたが、駅の場所が未確定だったため、仮乗降場を設けた。高岡までの線路がつながったのは、翌1898年のこと(仮乗降場は廃止)。つまり国鉄より先に開業した路線で、富山県では初の鉄道である

そしてもうひとつのポイントとしては、最初から城端が終点だったことが挙げられる。山中に伸びて行き止まりとなっている路線は、先の延伸計画がありながら、工事が行われず、結果として未成線、盲腸線となっているものも多いが、中越鉄道が目指したものは、どちらかというと海で、豊かな農業地帯の農作物を伏木港へと運ぶことを目的とした。後に現在の氷見線も同社が敷設している

国有化されたのは1920年(大正9)。当初は城端から伏木までが中越線で、伏木から氷見までが氷見線だったが、戦時中の1942年(昭和17)に城端~高岡が城端線、高岡~氷見が氷見線と現在の形となった

駅が多いのは元が私鉄だったことはもちろん、戦後に5つもの駅が新設されたため。30キロしかない区間に5つの新駅なので明らかに多いが、駅舎の有無やホームの形式で戦後生まれかどうかが分かりやすい

高岡から出発

そんな城端線だが、私が過去に訪れたのは高岡、新高岡、戸出、城端の4駅のみ。全線の乗車は果たしているが、駅の経験値が乏しい。それだけに各駅が楽しみである

高岡駅はあいの風とやま鉄道の管轄となっている

構内ももちろんあいの風とやま鉄道の管轄だが、城端線と氷見線は専用のホームが与えられている。ちなみに両線のホームは主に1番線と7番線で間にあいの風とやま鉄道のホームを挟み、中間線も存在すめため遠い

ホームに行ったのは7時半過ぎ。通学の高校生がドッと降りてきた。降りきって間もなく出発である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~「上り列車」しかない途中駅が終着

安房鴨川駅の駅名標

※2022年12月17日

ゴールはちょっとあっけなく

太海からひとつ進んで安房鴨川に到着。内房線の終着駅で前日から始めた内房線の木更津以南の全駅訪問のゴールである。階段でも「お出迎え」があった

ただ個人的には「ようやく着いた」という達成感はあっても、駅構内の風景に感慨は生まれにくい。というのも乗車してきた電車は外房線の上総一ノ宮行き。現在、内房線を走る列車は木更津~上総一ノ宮の直通運転がほとんどで安房鴨川で多少の待ち時間はあるものの、内房線と外房線を乗り越す際、なにごともなかったように去ることになるからだ。「終着駅」ではあるが途中駅。東海道本線と山陽本線の境界駅となっているが、始終着がほとんどない神戸駅のようなものである。2021年3月、コロナ禍のまっただ中、新型車両の投入と同時に直通運転、ワンマン運転がメインとなった

ただ房総半島をグルリと回る内房線と外房線の特殊な事情から、安房鴨川は「当駅を出発する列車はすべて上り列車」というユニークな特徴を持つ。これは房総半島の東側と西側でそれぞれ少しずつ延伸されてきた「房総線」が安房鴨川でつながった後、あらためて「房総東線」「房総西線」(戦後に現在の名称に変更)という2つの路線に分けられたからだ。前者が千葉が起点で終着は安房鴨川、後者は蘇我が起点で終着は安房鴨川と、安房鴨川が2つの終着駅となったため、安房鴨川から出る列車はすべて上り列車となっている

安房鴨川駅の開業は1925年(大正14)。線路が太海から1区間延伸されてたどり着いた。現在の外房線がやって来たのは、その4年後である。もちろん拠点駅。周辺は鴨川市の中心部で、経済だけでなく観光の拠点駅となっている

全国ニュースで取り上げられることも鴨川シーワールドまでは無料の送迎バスで10分。天候に恵まれれば、歩いても行ける距離にある。またかつては駅裏の印象が強かった西口にはイオンができている

変化の30年

そのイオンがある西口が長距離バスの発着場になったことで発展した場所でもある。安房鴨川から千葉、東京までは外房線の特急「わかしお」を利用するのがメインルートだったが、90年代に入ってわかしおが京葉線経由となり、千葉に立ち寄らなくなったあたりから潮目が変わり始める。アクアラインもできて車との競合も増える。鴨川から県都の千葉へは長距離バスのカピーナ号、東京へは八重洲口、渋谷への便もあり、私も、訪問の数ヶ月前の夏にお世話になったことがある

久留里線の末端にあたる、閑散区間の3駅を通って千葉もしくは東京に行くことができる。このバスがなかったら、その3駅訪問を試みようとはしなかったかもしれない。内房線や外房線だけでなく、久留里線にとってもライバルとなっている

安房鴨川はもちろん管理駅だが、昨年の1月をもってみどりの窓口の営業は終了した。その後、館山、浜金谷と、みどりの窓口が閉鎖されたため、内房線の君津~安房鴨川でみどりの窓口がすべてを消した。というか、所属が外房線となっている蘇我駅を除くと現状、120キロにも及ぶ内房線の全29駅でみどりの窓口があるのは木更津ただ1駅である

AKB48の「会いたかった」という曲があり、このMVは今も容易に見ることができ、那古船形駅がロケ地となっている。チラリとしか出てこないが、駅舎は現在の塗装ではない1918年(大正7)開業時のそのままの姿。メンバーが追いかける列車もいわゆる「スカ車」である。AKB48というと、ついこの間のことのように思えるが、リリースは2006年10月で17年前。たった17年というか、わずか17年というか、走る電車を見るだけで隔世の感がある

帰路につく。わかしおを利用。安房鴨川~東京と完乗するのは、これが初めて。もちろん自由席だが、こちらも今春に全車指定席という変革がある。また内房線、外房線から京葉線経由でダイレクトに東京を目指す朝の快速廃止問題は、もはや全国ニュースである

ここからは青春18きっぷの出番はない(新大阪に到着してから再登板するが)ので乗車券は大阪市内まで。この乗車券は年間にどのぐらい売れるのだろうか

東京着。18時ちょうど発の新幹線に乗車したが、この時間にホームに降りても駅弁を買ったりしていると、すぐ新幹線の発車時間となった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~豪華な簡易的駅舎のお披露目直後

太海駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

安房鴨川まであと1駅

太海に到着。郵便局と一体となった江見までたどり着いた後、少し戻ってまた進んでを繰り返しながら、太海へ。駅名標で分かる通り、隣駅は内房線の終点である安房鴨川。こうした各駅訪問にふさわしい表現かどうか分からないが「リーチがかかった」状態である

その太海駅は独特な駅舎となっている

なかなか立派ではあるが、簡易型の駅舎である

手前の青いものは波を表していると思われる。JR東日本のプレスリリースによると

「駅から海を眺められる環境を活かし、自然を感じ取ることができる駅としています。電車をお待ちいただきながら、駅前広場側からは海を、待合室側からは山を眺めることができます」とある

また「構造体に木材を採用することで、潮風による塩害に強い駅としています」「壁材にも木材を使用し、炭素固定の量を増やし、環境負荷を削減しています」「周辺の風を取り込み、風が抜けやすい駅形状とすることで、待合室等の温熱環境を改善しています」とも

要は最近流行りの簡易駅舎とは、ひと味違う細かい気配りが随所にちりばめられているということだろう

駅舎内のベンチに驚き

そして、もうひとつ「新駅舎のベンチは、(公社)土木学会・東京大学・會澤高圧コンクリート(株)と連携し、最新の技術を用い、コンクリート3D プリンタで製作しています」とあるが、そのベンチがこちら

最初に見た時「わー!駅舎内にソファーがある」と思ってしまった。もちろんプレスリリースにある通り、コンクリート製である。同じくプレスリリースにある通り、木がふんだんに使われている。これは簡易的な駅舎では珍しい。とくに最近のバス停のような簡易駅舎とは大きく異なる構造だ

そして全くの偶然だったが、駅舎の使用開始は12月14日。私の訪問は、まだお披露目から4日目のことだったのだ。写真で分かる通り、到着直後から雨が激しくなり、外にはいられなくなって駅舎内で過ごすことになったのだが、どこで聞いて、どんな関心を持ったか分からないが、わざわざ駅舎を見にきたグループが私の滞在中に2組もあった。ともに車でお越しになっていて、どう見ても同業者(鉄道ファン)ではなかったので、車でわざわざ立ち寄ったのだろう

雨のため一堂が駅舎内に居座ることになり、人を避けて写真を撮るのが大変だった。できれば、駅を見にきたついでに列車にも乗ってみよう、となれば鉄オタの私にとってはうれしいのだが、さすがにそれはかなわなかった

観光資源に恵まれた場所

太海駅は1924年(大正13)の開業。江見からの1区間、4・6キロが開通して一時的に終着駅となった。ただ安房鴨川までのたった3・4キロの開通は、さらに1年後だった。以前の記事でも触れたが、シャクトリムシ的なジワジワした前進である

太海駅は1955年まで存在した太海村に基づく(江見町を経て現在は鴨川市)。いくつかの村が合併した際に「太平洋」と「海産物」が複合された村名が付けられたという。ただ、村ではあるが、観光資源にも恵まれていて、海水浴場はもちろん、漁港や変化に満ちた海岸線、千葉県で最も大きな島である仁右衛門島があり、宿泊施設も多い。新駅見学に来た方々も、観光や宿泊のついでだったと思われる。それだけに開業時からの駅舎を解体しての簡易型駅舎への移行は意外といえば意外だが、観光地に敬意を表した精一杯の簡易型移行だったのかもしれない

もっとも駅舎は新しくなったが、ホームはそのまま。枕木の柵などは鉄道風景の古典に属するものだ。さて、お次の安房鴨川でゴールである

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~よく見てください その読み違いますよ

南三原駅の駅名板

※訪問は2022年12月17日

パッと見ではなく凝視しよう

南三原に到着。このあたりまで来ると、ゴールが見えてくる。奥に見えるのが駅舎

駅舎紹介の前にまずは駅名標

パッと見ると、何でもないようで素通りしそうである。「ハイハイ、『みなみみはら』ね」

だが、もう一度よく見る必要がある

縦のひらがなだけの駅名標を見ると、よく分かる。駅名は「みなみはら」

実は「ハイハイ、『みなみみはら』ね」と思い込んだのは私自身。駅でしばらく滞在したが気付かず、次の列車に乗り込む寸前に気付いたので、よく覚えている

開業は1921年(大正10)。先に紹介した千倉を含む安房北条(現在の館山駅)~当駅が開業した時に設置され、1年半にわたって終着駅だった。内房線の歴史を見ると、長い区間が一気に開業という例は少なく、シャクトリムシのようにジワジワ延伸されたことが分かる。1日でも早く鉄道を、という願いが強かったのだろう

駅名は当時の南三原村から。南三原村は戦後10年が経過した1956年に丸山町と和田町に分割されるような形でそれぞれ合併して自治体としては消滅したが(結果としては両町とも南房総市となったので同じ自治体に戻ったことになる)、村名は「みなみみはら」だった。では、なぜ駅名が「み抜き」になったのかというと、とてもいい加減な回答になってしまうが、現地ではどちらの読みも存在した、ということになる

このような例で有名なのは岐阜県の各務原市で、自治体は都市名と同じものを利用してもらうよう各所に要請しているが

JRの高山本線の駅名はご覧の通り、異なる。JR東海は今もきっちり駅名標に自治体名を入れるようにしているので、縦に並ぶと違和感を感じてしまう。読みも異なる。高山本線の全駅紹介がまだ終わっていないので、その時に詳しく扱うつもりだが、そのおかげで各務原市はテレビなどでよく特集される場所となっている

南三原も同じように歴史を深掘りして特集すれば、おもしろいものになると思う

太陽光発電を備えた駅舎

南三原駅は千倉駅へと「寄り道」した鉄路が再び館山からの主要国道128号と合流した地点にある。駅舎は海側つまり国道側に面しているため、各商店やコンビニも近い

駅舎は開業時からの駅舎が2003年に新築されたもの。当時の和田町が出資した。屋根には太陽光発電があり、小規模ながらも駅舎内にある多目的ホールなど、駅内の電力をまかなっている

駅舎内は木のぬくもりを感じさせるもの。業務委託駅で無人駅ではない

跨線橋から俯瞰すると、かつては2面3線構造だったようだ。レールは残るが架線もない雑草に覆われたレールの上を列車が走る予定はなさそうである。ただ保線車用の車庫は現役で、こちらは日常的に使用されている

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