JR西日本

出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内の駅付近にあるもうひとつの日本一

安登駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

駅員さんもいたキュービック駅舎

安浦駅からお隣の安登駅まではバス移動。名前もそのまま安浦バス。地元の高校生とともに乗り込む。広より東側は駅間が長い区間が多く、ここは4・5キロ。季節的に歩けない距離ではないが、バスの時刻表に合えば、乗車にこしたことはない

かわいいバスに乗り

駅前で下車。バスだと4キロはあっという間だ

ちょっとしたロータリーのある安登駅は

典型的なキュービック駅舎。現在の形となったのは、かなり以前のようで

現在はICタッチと自動券売機のみが設置されている無人駅だが、窓口跡が残る。ちょっと凝った「安登駅」の駅名板は、どう見ても国鉄のもので、1970年代にはキュービック駅舎となりながらも駅員さんはいたようだ

「跡」が「安登」に変化か

駅名は1958年(昭和33)まで存在した安登村に基づく。前記事で安浦駅は設置当時、内海町にあったことで三津内海駅になったと記したが、安登村は1929年まで「内海跡村」という自治体名だった。安登駅は1935年に呉線が全線開通した際、途中駅として設置されたが、内海跡村が安登村へと名称変更された時期がもう少し異なれば、旧村名が駅名になったかもしれない。「跡」の言葉の響きが好きではなかったのかどうかは分からないが、この跡という文字も元々は同読みの村があったともされ「あと」が、いろいろ変化しているようである。安登村は安浦町と川尻町に分割される形で自治体としては姿を消したが、現在は両町ともに呉市となっている

呉線は国道185号と並行していて駅の部分だけ駅前ロータリーを気遣うように、やや山側に曲線を描いているが、この部分が非常に重要で当駅最大の見どころが、そこにある

駅前ロータリーから国道に出る部分にある、よく見かける横断歩道だが、このような看板がある

「日本一短い県道」

駅前ロータリーと国道を結ぶ10・5メートルが「県道204号安登停車場線」。ロータリーの一部にも見えてしまうが、約20年前に拡幅工事が行われ道路幅が道路距離を上回ってしまったが、それ以前はもっとくびれていたという

ただこの「日本一」については、これを上回る(下回る?)県道があり、新幹線駅でもある長野県の上田駅前ロータリーの出口部分の県道が7メートルしかない。ただしこれには注釈が必要で、長野県の県道は、その先が別の県道との重複区間となっていて、重複部を含めると126メートルとなる。つまり微妙な構造なのだが、国道をはじめとする重複区間は、呼称については総延長の長い道路を優先するとのルールに従うと7メートルになってしまうとのことで、これまた微妙である

もっとも最短を巡って両者がもめているわけではなく、むしろ逆で「安浦町まちづくり協議会」のHPでは「総延長が日本一短い県道」という表現を行った上で経緯を説明している。HPによると看板が設置されたのは2007年で、その後に上田駅前の県道の方が短いことが判明。重複区間の存在も解説した上で「実延長では日本一ではないが、総延長では日本一だといえる」と、長野県に丁寧に敬意を表している

駅のホームに戻ると年季の入った名所案内が

最後まで読んで「ここからは行けないんかい」と突っ込みを入れてしまいそうになったが、とにかく話題が多い駅だということにしておこう

ちなみに名所案内にも出てくる先に紹介した「日本一短いトンネル」のある安芸川尻駅は、さらに呉方面へ1駅お隣の駅である

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~戦前からの駅舎が残る貴重な存在は始終着列車もあり

安浦駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

元の駅名は三津内海

安浦駅に到着。駅舎側のホームには駅舎が見えている

戦前からの立派な駅舎が健在。出入口のひさしの部分は手が加えられているようだが、柱は当時のままに見える。和式でありながらの三角屋根を持っている

開業は1935年(昭和10)。竹原から延伸されてきた線路が当駅までやって来て三原側からの終着駅となったのが2月。そして11月には当駅から広が開通。1年にも満たない終着駅としての存在だったが、これで呉線は全通となった。それまで呉~三原は「三呉線(さんごせん)」という名称だったが、全通したことで全線があらためて呉線となった

ちなみに当時の駅名は三津内海(みつうちのうみ)。「うつみ」と読みがちだが「うちのうみ」である。なぜなら内海町にある駅だったからだ。では「三津」とは何か、となるが、これは当時あった三津口町にちなむ。駅の所在地は内海町だが、三津口も近いので両者を合わせた駅名となった。両方の自治体から駅名を付けるのは、新幹線の駅が誕生する時に生まれる戦後だけのものではなかったのである。だが、この両町は戦時中の1944年に野路村と3自治体の合併により、安浦町となった。安浦は特に地名ではなかったが「浦安かれ」という意味を込めて名付けられたとか。安浦町は平成の大合併で呉市に編入となったが、安浦という新しい地名はその後も残り、駅の住所も呉市安浦町となっている

町名の変更に伴い、駅名も戦後間もなく町名と同じものへと変更となった。必然的な流れではあるが、駅名がそのままだったら、由来も残ったと思われるだけに若干残念でもある(住居表示としては内海も三津口も残っている)

2面3線ホームも現役

安浦駅は旧安浦町の中心部にある。2021年の1日の利用者は994人。これは広から東の区間では安芸川尻、竹原に次ぐ3番手(以下三原駅のぞく)で、朝と夜には広方面からの当駅止まり、広方面への当駅始発も設定されている。構造は2面3線で、路線内で3線構造の駅は広、呉、坂の3駅しかなく、広から東では当駅のみ。重要な駅ともなっていて

観光用のイラスト駅名標もある

こちらは駅前の観光案内を兼ねたウォーキングマップ

駅舎は海側にあり、反対側にも街は広がっている。両側の往来にはエレベーターも備わった跨線橋を利用するようになっている

ただ残念ながら2年前にみどりの窓口が営業を終了。と同時に無人化された。ふさがれた板の大きさから立派な窓口だったと思われる。定期券の購入、継続に対応する券売機は設置されているが、この立派ないでたちに無人というのは、ちょっと惜しい気がした

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~真冬のキュービック駅舎で悶絶

大乗駅の駅名標

※訪問は2022年12月2日日

ソロレソロリの絶景区間

大乗駅に到着

呉線の絶景区間については前記事でも触れたが、初めて呉線に乗車すると、この絶景区間を中心にところどころでスピードが緩むことに驚かされる。最初は「景色を見せてくれるためのサービスか?」と思ってしまうほど

だが、これはいわば「JR西日本名物」の制限速度25キロ。呉線は山と海の両方に近い地形もあって、特に平成になってから、豪雨による被害を何度も受けている。集中豪雨による被害は平成になってから各地で頻繁に起きていて、戦前からの脆弱な路盤の被害が相次いでいるが、呉線も例外ではない。特に2010年以降は4度も大規模な災害が発生して、全線復旧へ半年を要したこともある。現在、呉線で使用されている車両は227系という最新の電車に統一されていて、車両性能を考えると25キロ制限というのは、力を大いに持て余しているのだが、盛土上のやや高台に敷かれた線路の上はソロリソロリと走るか、新たにトンネルを掘るなどして線路の付け替えを行うしかないのだが、広~三原の利用者の数を考えると前者しかないのが現状である。もっとも、そのおかげで旅行者は素晴らしい車窓に出会えるのでもあるが

キュービック駅舎になって長く

大乗駅は1932年(昭和7)の開業。安芸幸崎から竹原までが延伸された際に途中駅として設置された。当時は大乗村。竹原のお隣の駅で、当駅から竹原に向けては海沿いではなく、山中をショートカットして竹原に向かうルートが採られている。沖合に阿波島という無人島があり、東に大久野島があることから、戦時中には化学兵器つまり毒ガス兵器の貯蔵庫が設置されていた。大乗村は1954年に竹原町に編入されて自治体としては消滅。現在は竹原市

簡易的なキュービック駅舎だが、かなり以前に現状のものとなったらしく

駅の事務室と窓口も残されている。記録だと現在の形になったのは1979年と、国鉄民営化のかなり前。当時は無人駅ではなかったようだが、現在はICリーダーと自動券売機だけが設置されている

ホームは築堤上にある2面2線。前記事の吉名駅と同じく

こちらは駅舎と逆側のホームからの眺めだが、かなり急峻な階段を降りて駅舎へと向かう。ホームの行き来も同じく築堤下のトンネル経由で行う

呉方面へのホームにはスロープも設けられている

竹原のお隣の駅ということもあって周辺は住宅街

駅舎の向こう側にも住宅が並んでいる。駅前の商店は営業を行っているのかどうか不明だったが、駅の南側の国道に出ると海はすぐそこである

年末の訪問はやはり冷える。ここまで安芸長浜、須波、吉名と駅訪問を行ってきた。駅舎すらもない須波は別として他の2駅はお手洗いが設置してあり、ちょっと油断した私は吉名そして電車内でもお手洗いは利用していなかった。そろそろこちらでもと駅の横にあるトイレらしきものの前まで行った。すると

ドアノブまで外されている厳重施錠で当然、中には入れない。時刻はお昼前で、時間的には暖かくなるころだったが、当駅で過ごした50分は、かなりの悶絶タイムだった。やはりローカル線の駅訪問は油断禁物である

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~キュービック駅舎が続々と

吉名駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

美しい車窓に癒やされる季節は冬場がベスト

瀬戸内海に沿って走る呉線は車窓も美しい。特に三原に近い安芸長浜あたりから東側は国道とともに海沿いを走る区間が多いので、乗り鉄の方も目を凝らして見ていただきたい。私的にオススメは夕陽の沈む時間帯か。こちらは朝のおそらく須波~安芸幸崎間の車窓

さらに言うと、季節的なオススメは冬場である。夏場だと「ブラインドを閉めてください」の圧が半端ない。そして、それは十分に理解できるもの。前回の訪問は、まだまだ暑さの残る10月1日だったが、圧の前に自主的にプラインドを閉めてしまうほどまぶしかった。ずっと南側に向いているので当然のことだが、青春18きっぷの季節に特化するとギラギラ太陽の照りつける夏場はおすすめできない。冬かせいぜい春だと思う。この写真は訪問の年末のものだが、冬の柔らかい日差しが暖かかった

いわゆる簡易的な駅舎

その意味では当日は三原から安芸長浜へと向かってから、須波に戻り、再び呉方面へと乗車したので3回も同じ景色を見られて楽しかった

そして到着したのは

吉名駅。こうして見ると単式の棒状駅に見えてしまうかもしれないが、車両に塞がれているものの、すれ違いの列車交換ができる2面2線構造。広から東側はローカル線のムードが漂う呉線だが、単式ホームの駅は安芸長浜、新広、呉ポートピアの3駅のみ。いずれも平成になって設置された新駅で、他はレールがはがされて単式ホームになったりすることなく2線以上の構造を保っている

ホームは盛土の上にあり、結構急峻な階段で駅舎を抜け外に出る

駅舎は簡易的な立方体の、いわゆるキュービック駅舎である

吉名駅は1935年(昭和10)の開業。同年の2月に竹原から三津内海(現在の安浦)までが延伸された際に設置された。当時は吉名村。同村は1956年に竹原町に編入となり、現在は竹原市である。かつては開業以来の木造駅舎があったが、30年近く前に現在の姿となった

周辺は吉名の町の中心部にあたり、タクシーもいる。吉名村は「所得倍増計画」や、最初の東京五輪時の首相として知られる池田勇人元首相の出身地である

駅前の地図。駅前の道路を道なりで歩いていくと港に出る

こちらは駅舎内の様子。椅子が並んでいてすぐに階段があり、ホームへと向かう。ICリーダーと自動券売機という呉線ではおなじみの光景。もちろん無人駅だ

ちょっと古典的なホーム案内。駅舎と階段を結ぶあたりは柱も木造なので、駅舎の改築以前のものかもしれない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~三原のお隣のモニュメント駅はヤード跡横断も可能

須波駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

ホーム間移動は公道経由で

須波に到着。三原駅を出てからの呉線は、すぐに山陽本線に別れを告げて左に折れると三原の市街地を見渡しながら南下。河口付近で川幅も広くなっている沼田川を渡ると、すぐ山となるため、再び左に弧を描き、今度は海と山の間の狭いスペースに沿うように右へとカーブして須波へと向かう。車窓的にも海が一望できて見どころのある場所だが、地形的には自然の影響を受けやすい場所となっている

ただしこの日は安芸長浜に一度行ってから戻る形になったため、到着は三原方面のホーム。つまり山側

ここから階段を降りて敷地外に出る

見上げた先にはICタッチのみがあって

やや狭い公道がある。上りホームへの移動はこの公道を介して行う

須波は漁港として栄えた町。駅の開業は1930年(昭和5)。三原から1区間分が敷設されて、ほんのひとときの終着駅だった。1年後に安芸幸崎まで延伸されている。当時は須波村。1936年に三原市に編入されて現在に至る

ヤード跡を横切って駅へ

呉線をくぐって駅の玄関である上りホームへと向かうが

そこに広がるのはかつての構内であるヤード跡

写真で分かるように、いくらでも横切ることができる。全国に残るヤード跡とその中は入れないように柵が設けられていたり、立ち入り禁止の看板があること多いが、こちらは広大なスペースに柵などは設けられておらず、言い方を変えると「入りたい放題」である

ととても貴重な機会ともいえる

なぜこのように開放されているかというと、山側から来ると呉方面へはここを通るのが最短距離だからだと思われる。正面から回り込むと、やや遠回りになる。現実に私以外にも、ここを通って呉方面への列車に乗ろうとする方々がいた

現在の姿はモニュメント駅

呉線ホームへと向かう。ずっと「ホーム」という表現をしてきたが、それは現状がこうなっているから

階段があって「須波駅」の駅名板が立てられているだけ。かつては駅舎があったが、解体されて簡易駅舎すらない。私はこのような構造を「モニュメント駅」と呼んでいる。ポストだけが残されているのも定番のような気がする

呉線は2018年の平成30年7月豪雨で全面運休となった。徐々に復旧して最後に残ったのが安浦~三原。12月に全線再開となったが、この間に開業以来の木造駅舎は解体となった。構内やヤード跡の広さを見ると、かなり大きな規模の駅だったことが理解できる

盛土の上にあるホームで列車を待つ。駅舎があった時代からホーム移動は公道を介して行われていたようだ。年末の朝9時すぎという時間に、ここで過ごすのはちょっと寒かった

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内では異例づくしのUFO駅

安芸長浜駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

帰省ラッシュ前夜の新幹線で再開

年の瀬の早朝6時すぎの新神戸駅

6時38分のさくらで西へと向かう。今日は呉線の再訪。前回から3カ月近くが経っていて当時はまだまだ暑かったが、当然そんなことはなく、この時間でもまだ真っ暗だ。もう数日で新幹線は帰省ラッシュで大いに混雑するのだろうが、世間的には正月前の追い込みモードで新幹線もビジネス客中心のようだ

福山で在来線に乗り換え、青春18きっぷに3回目のスタンプをもらう。購入したのが和泉砂川で、これまでの2回が五反田と木更津。12月に入っての阪和線各駅訪問の際に買って、ここまでの2回は内房線全駅訪問の際に使用。前回の利用時は鉄道の日の秋の乗り放題パスで自動改札機を通ることができるのが最大のストロングポイントだったが、今日の行程については、あまり世話になることがなさそうなので、ほとんど関係がない(笑)

広から東では唯一の戦後生まれ

8時52分、安芸長浜駅に到着。見て分かる通り、単式ホーム

安芸長浜駅は1994年(平成6)の開業。国道そしてホームという構造。他路線でもそうだが、こういう形式は後から強引に設置した駅であることが多い。呉線内で棒状ホームの駅は他に新広、呉ポートピアの計3駅しかなく、いずれも平成になって生まれた。呉線では広島のベッドタウンとして戦後にいくつかの駅が誕生しているが、広~三原では戦後生まれの駅は当駅のみ。この区間はいずれも戦前からの駅ばかりで、駅間もそれなりに離れているが、新駅だけに両隣へは忠海までが2・8キロ、大乗までが1・8キロといずれも近い。そもそもホームからすっきり海が見渡せる駅がほとんどないのだ

駅は火力発電所の中?

駅の場所はというと周囲をグルリと火力発電所に囲まれている

駅舎は盛土の小高い場所にあるが、背後に電源開発竹原火力発電所が見える

というか、駅はその敷地内にある。つまり火力発電所の最寄りとして設置された。駅を出たところの跨線橋を渡れば火力発電所の入口がある。おそらく徒歩で3分は絶対にかからないだろう。ただし車で当駅に行くには山側からグルリと回り込む必要があるので、かなり時間がかかりそうだ

なんといっても駅舎のフォルムが独特だ。何をイメージしたものだろうか。私にはUFOにしか見えなかった。いずれにせよ、戦前というか昭和時代から、このような駅はなかなか想像できない。いろいろな意味で路線内では異質の駅ということになる

無人駅でICカードリーダーと券売機がある。これは呉線ではおなじみの光景。当駅では朝からちょっとした思い出がある。立派な駅舎でトイレももちろん設置されていて冷え込む朝には大変ありがたのだが、その前で私は立ち尽くしてしまった。左右どちらが男性用、女性用なのか分からなかったのだ。これは困ったとトイレを見つめていると、ホームに居合わせたご婦人が「男性はこちらです」と教えてくれて窮地を脱することができた。正確に再現すると「男性は右です」または「男性は左です」と左右を言ってくれたのだが、どうも右か左かが思い出せない。あくまでも1年以上前の情報だが、当駅を訪れる方は、ぜひ留意しておいていただきたい

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2年がかりの呉線全駅訪問~テーマパーク閉園も駅も駅名も残る

呉ポートピア駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

至近の駅には徒歩移動

国道を海沿いに歩いていくと呉ポートピア駅の入口に到着した

天応駅で、やや急いでいたのは、お隣の呉ポートピア駅まで徒歩移動するため。といっても駅間距離はレールでも1・3キロ。線路と並行して国道があるため、歩いても、ほぼ同距離である。ちなみに呉ポートピアと隣の小屋浦も1・5キロと駅間は短い

呉線の呉以西は昼間は1時間に3本の運行があり、うち2本が快速で1本が普通の運行となっていることは何度か触れたが、つまるところ普通のみの停車駅は1時間に1本しかない。駅で1時間待つという選択肢もなくはないが、歩けるところは歩いて次の列車を待つ方が合理的だ(乗降の両者を行うことはできないが)。日中はまだまだ暑いころで、かなり汗だくとなった

元々は私鉄だったという路線や都心には歩いてすぐという駅間も多いが、ずっと国鉄だった地方路線(といっても呉線は地方交通線ではなく幹線)としては珍しい。特に広から西側は戦後になって新駅や復帰駅がいくつかあって駅間距離は短くなっている。その都度紹介していくつもりだが、その理由もさまざまで、周辺人口が増えたとは必ずしも限らない

その意味では呉ポートピア駅は新たにテーマパークができたので設置された駅である

テーマパークが全額出資

橋上駅舎を出ると跨線橋があり、そこは「呉ポートピアパーク」という公園となっているが、元々は「呉ポートピアランド」というテーマパークで、さまざまなアトラクションが並んでいた。ポートピアランドといえば、連想するのは神戸ポートアイランドにあった神戸ポートピアランド。こちらは阪急電鉄によるもので、1981年の博覧会であるポートピア81とともに開業し、博覧会終了後も大いににぎわっていた。ならば他にもポートピアランドをと、同じく阪急が呉市と第三セクターを作って1992年に開園した。駅については三セクの全額出資という力の入りようで開園前日の3月19日に開業となった

住宅地と国道の間の狭いスペースに単式ホームが器用に設けられている

すれ違いのできない棒状ホームながら橋上駅舎となっているのは、駅から国道をまたいで直接公園に入れるようにするためだ。これもなかなか気合が入っている。JRも新たな新名所誕生に応える形で、快速停車駅としてみどりの窓口も設置した

テーマパークは終焉も

このころは日本中でテーマパークが流行ったころで、1996~98ごろ高松にいた私は出張でよく呉二河球場を訪れていた私は車窓から見える大観覧車に驚嘆していた。ちょうどその頃、倉敷の駅を出たところにチボリ公園も開業している

だが華々しく開園した呉ポートピアランドはわずか6年で経営悪化により閉園。ちなみに倉敷チボリ公園も2008年いっぱいで閉園した。日本中でテーマパークが流行する一方、アトラクションについてはディズニーランドやUSJのように更新が求められる時代にも突入していて、戦前からの歴史を持っていた阪急の宝塚ファミリーランドや阪神の阪神パークも2000年代に入って閉園し、阪急撤退後も営業が続いていた神戸ポートピアランドも2006年に閉園となった

ということで駅そのものも、もはや無意味…とはならなかった。地図で分かる通り、旧天応町の中心部は天応駅と呉ポートピア駅の真ん中あたりにある。住民にとっては呉ポートピア駅の方が便利なのだ。また当駅は逆側の小屋浦駅とも1・5キロしか離れていない。こちら側からの需要もあった

ということで駅は残り、ポートピアランドの跡地も呉ポートピアパークという公園となったために駅名もそのまま、ということになり、2021年の利用実績では天応駅が1日900人の利用なのに対し、呉ポートピア駅は1326人と大きく上回っている(開園直後の数字よりは少ないが)

現在は無人駅。これはホーム案内ではなく(といっても単式ホームだが)、進行方向を示すもの

ひらがな表記だと当然こうなる

トイレにあった張り紙。やや古めの新幹線が並び、広島駅では見られないものも含まれていて年代不明だが、職員さんの手作りだろうか

列車がやって来た。この日の呉線訪問はここまでである。華々しいテーマパークの開業から数奇な運命をたどったともいえる駅をあとにした

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2年がかりの呉線全駅訪問~沿線唯一の明治生まれ駅舎が現役の駅は夕陽で知られる

天応駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

わずか5年だった天応町

天応駅に到着。ご覧の通り、1面2線の島式ホームとなっている

開業は1903年(明治36)年12月。呉線が海田市~呉で開業した際に生まれたので駅としては、前記事の吉浦と同じく、120歳の誕生日を迎えている。呉線はその後、延伸に時間がかかり、呉から東の区間が三原、呉の両側から少しずつ延伸され始めたのは昭和になってから。海田市~呉の先行開業区間の新駅も大正になってから、小屋浦が開業したのが最初で、つまり明治生まれの駅は山陽本線でもある海田市を除く(当時は山陽鉄道という私鉄だったが)と最初に開業した矢野、坂、天応、吉浦そして呉の5駅のみ

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天応以外は戦後すべて駅舎の形を変えているので、戦前からというより明治生まれの駅舎が残る唯一の駅ということになる

手は加えられているようだが、屋根や上屋を支える柱などにも歴史を感じる

付近は呉市に編入された1956年(昭和31)まで天応町だった。では駅名も町名にちなんだのかというと、駅の開業時は大屋村だった。大屋村が町制を施行して天応町となったのは1951年なので、自治体としての天応町は、わずか5年間だった。駅名は村名ではなく駅周辺を取り囲むようにしている天応山、天応烏帽子岩山、天狗城山の3つの山にちなんだ

2021年の1日の乗降者数は900人で13位。明治開業の他の4駅がいずれも2000人以上であることを考えると少ない。もっともこれは近い所に新駅が誕生したことにも要因があり、地形的に海に沿った線路に近い場所に住宅地が広がっているため、新駅に利用数が分散したとも考えられ、単純に少ないと言い切るものではないが、明治生まれの他の4駅が快速停車駅なのに対し、当駅は普通のみの停車。別の見方をすると、普通しか停車しない駅だからこそ、明治の駅舎が現役でいられるともいえる

海に近い駅

駅舎にはホームから跨線橋を渡る。山が迫りスペースのない山側にわざわざ駅舎があるのも呉線らしいところ。地図で分かるように当駅は海に近く、跨線橋からの夕陽の美しさでも知られているようだ。「ようだ」というのは、駅の紹介をしたところX(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったから。到着時は15時半を過ぎたあたりで、まだ夕陽の時間には早く気付かなかったこともあるが、ちょっと先を急いでいて駅について調べる余裕がなかったことが大きな原因。今調べると当駅や当駅近くからの夕陽がネット上にいくつもある。ふだんは遅くとも駅に着いてから、いろいろ調べてみるものだが、これは大きな反省点である。だから跨線橋からの写真はない

2018年から無人駅となった。窓口や、かつての手荷物受付と思われる場所は板で塞がれている。無人化された駅でよく見かける「きっぷは正しく目的地まで」の文字はいつからのものかは分からないが、券売機だけでは、もちろんすべての目的地までは購入できない

駅舎内には地元の子供たちの手による展示物があった。花瓶の花も定期的に入れ替えられているようである

先述した通り、ちょっと先を急ぐことになっているため、駅からすぐに離れることになった

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2年がかりの呉線全駅訪問~吹き抜けの天井と階段の構造に往時を思う

吉浦駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

変則2面2線ホームの快速停車駅

広から快速に乗って吉浦に到着。ご覧の通り、貨物ヤードの側線が残る。駅名は旧吉浦町に基づく。1928年(昭和3)に呉市に編入された。駅の歴史はもっと古く、1903年(明治36)に海田市~呉の開業と同時に設置。当時の途中駅は他に矢野、坂、天応のみ。120歳を越えている

ホームは変則2面2線構造。こういう形は島式ホームが手狭なので、新たに外にホームを設けたものが多いが、元よりこの形式。島式部分はどちら側にも降りられるが、2012年に柵が設けられた。その年に快速停車(安芸路ライナー)駅となっている(朝の通勤ライナーは通過)

天井からの照明に見とれる

堂々とした駅舎。戦後間もない1946年から現在の形となった

吉浦も貨物で栄えた駅である。元々は芦が生い茂っていて「あし浦」と呼ばれたが、「あし」が「悪し」に通じるとして「吉」が使用されるようになったという説があるという。芦が茂るぐらいなので、のどかな地域だったのだろう。海上保安大学校のHPによると、吉浦全域で874戸の住居があり、推定人口は約4000人だったという

その後、呉が軍港として発展していく過程で火薬庫の場所となり、1888年(明治21)に整地が終了。1894年には一帯の買収で30戸の住民が立ち退いた。火薬の試験場ともなり、レンズ工場や信管の工場も造られ、規模は大きくなったが、戦後は英連邦軍が占領。1950年の返還後にその場所に設置されたのが海上保安大学校である

吉浦駅は駅のすぐ裏に港があり、戦後も貨物輸送でも栄えた。貨物ヤード跡が残り、1本は保線車用に利用されているが、かつてはもっと規模が大きかったのだろう。また火薬庫と逆側の軍事施設とは線路でつながり、その後、海上自衛隊の呉造修補給所貯油所となった専用線として戦後も利用されていた

駅を挟んで東西の関係となっている

駅はひさしも立派。そして外から見ると二階建てのように見えるが

中は吹き抜け。将来的に規模が大きくなることを想定していないと、なかなかこれだけの建物は作れない。長くつり下がった照明にしびれてしまった

こちらは駅舎を逆側から撮ったもの。階段は多くの人を一気にさばけるようになっている構造だ

古風な文字を見上げながら、跨線橋を渡った。2年前にみどりの窓口が営業を終了して現在は無人駅だが、2021年の1日の利用者は2082人。これは呉線内では8位の数字(三原と海田市をのぞく)である

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2年がかりの呉線全駅訪問~広島シティネットワークはこちらから

広駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数が急増

広駅に到着。お隣の仁方も当駅も呉市内の駅だが、運行本数が大きく変わる。在来線は広島駅を中心に広島シティネットワークと名付けられた愛称が用いられていて、山陽本線は東は白市、西は(山口県に入っているが)岩国、可部線全線、芸備線の狩留家そして呉線の広駅。エリアの移動に複数のルートがあるわけではないので、いわゆる大都市近郊区間には入っておらず、途中下車や選択乗車など特にきっぷのルールに特例が適用されるわけではない(ただし特定都区市内制度による広島市内区間は別に存在する)。言い方を変えると「ここから先は列車の本数が少なくなります」ということでもある。また非電化の芸備線以外は「シティネットワーク広島」のロゴが入った最新の227系で運用されているが、呉線は全線が227系である

三原方面からやって来ると、ほとんどの列車が当駅で乗り換えとなる。昼間は1時間に1本の運行が広から30分に1本で、すべてが快速。この快速「安芸路ライナー」は呉までの新広、安芸阿賀と各駅に停まり、呉から快速運転。呉からは普通が出ていて快速通過駅を補うが、こちらは1時間に1本。つまり快速の方が運転本数が多いという、ちょっと変わった運行形態となっている(夕方以降は)

ただ朝のラッシュ時は事情が変わり、広から多くの広島方面行きが出ていて7時台、8時台は1時間に5本の広島行きがある(それぞれ1本は広以東からの直通)。また朝の通勤通学帯は快速も「通勤ライナー」と名前を変え、呉以遠は矢野の1駅のみ停車という特別仕様。仁方駅の項で「ヨンサントー」のいわゆる1968年10月号の時刻表について説明したが、当時から最も大きく変わったのは、広から西の運行本数で、このころはまだ非電化時代ではあるが、広を境に朝の本数は増えてはいるものの、朝の6時台に3本、7時台に2本、8時台に至ってはわずか1本(ただし広停車の急行と呉始発の急行が別にある)しかない。広~三原については今とあまり変わらない

かつては広村

広駅は1935年(昭和10)3月の開業。呉から線路が延伸されてきた。11月には広から三津内海(現在の安浦)が延伸され呉線は全通している。開業時は広村。戦時色が強くなった1941年4月に仁方町とともに呉市に編入されている

広駅は貨物列車の拠点でもあった。呉海軍工廠は東洋一の軍需工場だったが、後に広海軍工廠が独立する形となり、貨物需要も必要となった。戦後も呉線の貨物輸送は広駅が拠点となっていた。今も夜間停泊などに使用される側線が残るが、かつては大規模な貨物ヤードがあった。広の地名には埋め立て前の海岸が広々としていたとの説もあるようだが、もちろん現在の広駅周辺に村の雰囲気はない

広以西の主要駅には開閉型の自動改札機が設置されている。みどりの窓口は3年前に営業を終えたが、みどりの券売機が導入された。もちろん無人駅ではない。駅舎は戦前からの木造駅舎が使用されていたが、JR移管直前に現在のものへと姿を変えている

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