JR西日本

JR西9800ポイントで北陸新幹線の新駅訪問を行う~2年半前とは全く異なる気候に参った

小松駅の駅名標

※訪問は2025年3月3日

前回は在来線の駅として

小松駅に到着。訪問は2022年の8月以来となるから2年半ぶり

その時は北陸新幹線の延伸により三セク化される前に、当時はまだ北陸本線だった各駅を訪ねた。そして小松で宿泊。ただ前回と今回とでは、あまりにも気候が異なっていた

スポンサーリンク

傘もあっという間に

元々、今回の旅は2週間前に行う予定だった。猛烈な寒波の予報を受け、出発の数日前に1週間の延期を決めた。1週間後は比較的温暖な予報で安堵していたら、家庭の事情で急きょ取りやめ。再延期となった。天気予報は決して良くはなかったが、2週間前よりはマシそうだし、何よりこれ以上の延期は自分の日程と照らし合わせても無理そうだ。WESTERポイント全線フリーきっぷは使用前だと払い戻しができるが、2000ポイント以上のキャンセル料が必要となる。2000ポイントを貯めるのに一体いくらのお金を使わなければならないのかと考えると、それも避けたい。ということで決行である。救いは早々に発券しなかったこと。発券前であれば、きっぷの期限内なら何度でも変更できる

ということで小松駅前。小松といえば小松製作所。新幹線側となる東口には、こまつの杜という施設となっていて、自由に入れる。展示されている重機は名所のひとつでもあり、私もそこで記念撮影をしようとしたが、ちょうどこの時間帯は猛烈な上に冷たい風雨で駅舎の外で傘をさそうとしたら、あっという間におちょこになってしまい、慌てて駅舎内に避難。傘はもう使えないので、駅舎の外までダッシュ。1枚パチリとやって戻ってくる、撮り逃げのような写真がこの1枚。もっと重機の近くまで行きたかったが、これ以上進むとずぶ濡れになりそうなので、ここが限界だった

こちら新幹線側となる東口の写真も同様の撮影。白山をイメージしているという。それだけにもっと全景が写る位置まで下がりたかったが、風邪にでもかかると大変なので、このあたりが限界だった。そういえば昨年の今ごろも同じような目に遭っていた

3月5日のことだった。北陸新幹線の延伸開業は前に、その時点で唯一の新幹線未訪問駅だった飯山駅を訪ねたのだが、その時は雨ではなく視界も不良となるような雪に見舞われた。北国なので、ありがちな話だが、3月という季節を考えるともう少し幸運な一面があっても良いのではないかと思ってしまう。もっともこの雪がきっかけで大糸線の全駅訪問につながるので、分からないものではあるのだけど

暖かい待合室で休憩

せっかく来たのだからと西口にも出向く。小松の町は主にこちら側つまり海側に広がっていて空港も海側。今回も最初の予定では西口のホテルに宿泊するつもりだった。小松製作所もあり、空港の玄関口ということもあってホテルは多い

こうも寒いと前回も訪れた小松うどんのお店に行ってみたが定休日。ということでしょうがない

待合室で出発を待つ。当然ながら快適そのもの。新幹線の駅ならではの設備に助けられた

新幹線の小松駅は通過線のない2面2線構造。通過線のない新幹線駅は整備班幹線では、よく見かける構造だ

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク



      </section data-src=

JR西9800ポイントで北陸新幹線の新駅訪問を行う~湖西線ストップの遅延を体験

敦賀駅の駅名標

※訪問は2025年3月3日

雪が見えると湖西線名物の停車

サンダーバード5号は定時の7時40分に大阪駅を発車。大阪を出た時はガラガラだったが、京都で大量の乗車があり、インバウンドパワーを知ることになった。京都の手前で高槻に停車するタイプの運行だが、京都からはノンストップ。サンダーバードは大阪を出ると新大阪、京都はすべての列車が停車。それ以外は高槻のほか、湖西線内の堅田と近江今津に停車するパターンが何本かあるが、基本的には全列車が停車する3駅から敦賀まで、敦賀から3駅まで旅客を運ぶ140キロに満たない短距離の特急となっている

乗車のサンダーバードは9時3分に敦賀に到着。8分の乗継ぎ時間で北陸新幹線へと連絡することになっていたが、近江舞子付近にさしかかり車窓にも雪が見えてきたと思うと、急に減速し、高架の線路上でピッタリと停まってしまった。湖西線名物ともいえる強風による運行停止である。北陸新幹線の大阪への延伸で真っ先にネックになったのが、この強風。雪も多い地域だが、オール高架で踏切なしという昭和40年代としては画期的な規格だった湖西線は冬場の風に悩ませ続けられることになる。北陸新幹線も早々にこのルートはあきらめることとなった

ようやく動き始めると敦賀に近づくにつれ車窓は一面の雪

敦賀へは約20分遅れての到着となった

スポンサーリンク

一部を捨て、一部は残す

敦賀到着前から、車内は接続について何度もアナウンスが流れた。サンダーバード5号は8分の待ち合わせで9時11分発の富山行き「つるぎ」に接続するほか、9時21分発の東京行き「かがやき」にも接続するのだが、つるぎについてはサンダーバードの到着を待って出発も遅らせるが、かがやきについては先に発車してしまうという。かがやきは敦賀から東京への最速達タイプで、つるぎは敦賀と金沢もしくは富山を結ぶ区間運行列車。このほかに長野までは各駅に停車(一部飯山を通過)し、長野以遠が速達タイプになる「はくたか」もあるが、今後の遅延もはくたかはサンダーバードの到着を待たずに出発するという。つまり東京まで行くタイプは湖西線の遅延は関係なく定時運行だが、金沢もしくは富山までしか運行されないタイプは敦賀で接続待ちをするということ。影響の大きい東京行きについては定時を守り、富山までで完結する列車については到着を待つという方法が、いつも採り入れられているものかどうかは分からないが、妙に感心してしまった

ただし、おそらくかがやきのきっぷを持っている人々だろう。変更手続きをしなければならないので長蛇の列ができていた。私はといえば、北陸新幹線の新駅訪問が目的で、ここからは自由席専門だし、少々の遅れも、列車はバンバン来るし、ちょっと待つことになっても、どの駅にも暖かい待合室があるので、たいして気にはならないので遅延の影響を受けた方々には申し訳ないが、いろいろなやりくりを興味深く眺めていた。こういう時、新幹線というのは、いろいろ楽である。これが2、3時間に1本のローカル線では全くシャレにならない。その意味では幸運だったのかもしれない

なおサンダーバードもしくはしらさぎの特急列車は新幹線の真下に設けられた専用ホームから出発する上、新幹線ホームのエスカレーターの数も多く自動改札機の数も多いため、実際は5分もかからず乗り換えが可能だが、北陸本線の在来線(つまりはほぼ新快速)に乗り換えようとすると、結構な徒歩となるので注意が必要である

とにかく私はつるぎへの連絡は無事に行えた。写真に9時11分発とあるが、すでに時計は9時半に近い。ちょっと自由席の場所が遠かったが、ここから新幹線新駅の訪問開始である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その10 廃線の影響を聞く 鍛冶屋線跡も少し紹介

※訪問は2024年12月10日

喫茶店で休憩

西脇駅跡を散策して少し休憩することにする。といっても朝が早かったため、時間はまだ10時にもなっていない。いくら西脇の中心部とはいっても、まだ飲食店は開いていない時間だが、喫茶店はあった

モーニングをいただく。店内は地元の方々でにぎわっていた。いずれも私よりも年配ではないかと思われる皆さんと、お話をしながら西脇の現状などを教えてもらった

スポンサーリンク

鉄道駅がなくなったことで

古くからの駅には2つのパターンがあって、すでに土地がない、鉄道が嫌われたなどの理由によって町はずれに設置されるパターンと町の中心部に設置され、その後も駅を中心に町が発展してきたパターンに分類される。県庁所在地の駅などは、前者のパターンが多く駅を降りたら何もなくて、あ然としてしまうが、西脇については後者だったようだ。「本町」という地名が駅周辺に残るのもそういうことだろう

ただ駅がなくなって30年以上が経過し、町の中心部は空洞化が目立つようになったという。前記事で年に1回、仕事で必ず西脇を訪れていたことを記したが、いつも車だったと話すと「車なしの生活は無理」と教えられた。廃線時期は全国各地に、いわゆるロードサイド店が広がっていったころで、そういえば西脇周辺での食事も駐車場付きの道路沿いにある店ばかりだった

旧西脇駅周辺は新しい大型ビルやマンションが目立つ。おそらく昭和以前からのものであろう古くからの街並みを抜けると急に目の前にビルが現れるという印象だ。いずれも廃線後に建てられたものであることは容易に察しがつくが、その一角にホテルがあり、1階部分はバスターミナルとなっている

神戸、大阪までのバスも出ているが本数は決して多くはなく、特に神戸行きのバスは少ない。以前は満員のお客さんを乗せていたそうだが、神戸の中心部へ行く際はもっぱら車を利用。三宮の駐車場は料金が高く渋滞が多いので明石や西明石に車を停め、新快速で三宮に出るという。西脇から神戸の西側へは国道175号線があるが整備が進み、途中のバイパス部分も完成して有料自動車道を使用せずともアクセスは容易になっている

途中、神戸市営地下鉄の西神中央駅付近も通るので、地下鉄乗り換えでのアクセスもある。どうして、そんなに詳しいのかというと、道中の三木も含めた西脇へのアクセスをいろいろな方法で試したことがあるからだ

鍛冶屋線の廃線跡

さて文中で鍛冶屋線について何度か触れたが、鍛冶屋線は西脇から北へ伸びていた野村(現西脇市)から鍛冶屋を結ぶ13キロの路線である

もう少し先まで延伸する計画だったが、鍛冶屋駅までで建設は終わった。もともとが播州鉄道という私鉄の手によるもので、他の国鉄線とつなげる予定はなかった。旅客輸送の他にも地場産業の中心だった播州織の生糸を運搬する重要な役割を担っていた

13キロなので車だとすぐに到達してしまう。今から10年前の5月に廃線跡、廃駅跡を回った

10年も経過しているので改めてまた訪問しなければならないと思っているが、当時の写真を少しだけ紹介する

車両が保存され鉄道記念館もある市原駅跡

中村町跡は公園となっていた

そして鍛冶屋駅跡

こちらも車両が保存され公園化している

さて楽しかった喫茶店トークも終わり、そろそろ西脇市駅へと向かうことにしよう。徒歩だと20分ぐらいだとのこと。「一番分かりやすいのはロイヤルホテルの南側の突き当たりを真っ直ぐ進むこと」と教えられた

そこに行くと

「やすらぎの道」とあるが、なんて分かりやすいんだ。これはどう見ても廃線跡である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その9 歴史に翻弄された都市の中心駅は今

旧西脇駅の跡

※訪問は2024年12月10日

新西脇駅から旧西脇駅跡を目指す

新西脇駅からすぐの場所に加古川を渡る橋がある。ここを渡れば西脇市の中心街へと入る。前記事でも触れたように新西脇駅は中心部まですぐの場所に位置しながら利用は極めて少ない。不思議なことだが新西脇駅が設置された際、目の前に橋はなく、かなりの大回りを強いられていたらしい

ここから徒歩で旧西脇駅跡へと向かう

スポンサーリンク

徒歩約20分の道程

加古川の景色を見ながら橋を渡るとコンビニがあり、古くからの街並みが広がる

途中から急に一方通行になったりY字路が出てきたりと、古くからの町がアップデートされながら道路ができていったことが分かる

旧西脇駅跡までは徒歩約20分。実際は町の中の狭い道路を進んだが、とにかく県道54号まで北上すれば、そこはかつて西脇駅からのメインストリートだった道路で、真っ直ぐ進めば旧西脇駅跡である

西脇駅跡に到着

いかにも中心部の周辺

周辺には複数の銀行や商工会議所などが並び、ここが駅跡と知らなければ、一体何だと思ってしまう。街路樹のふもとの歩道がいかにも廃線跡

こう見ると、なお分かりやすい

会社員時代の数年間、50歳を超えてから年に一度必ず西脇に来ていた。だからここ10年ぐらいの話で比較的最近のことだが、訪問先が車でしか行けないところだったため、ここに来るのは初めて

西脇駅の歴史が記されている

運命の分岐点

加古川線の基礎となった播州鉄道は、まず加古川から当駅までの敷設を行った。加古川線は加古川の水運の代替交通として計画されたため、沿線の小野や社といった町は中心部から離れたところに駅が設置され、後に苦戦の原因となるが、ここ西脇に限っては町の中心部に駅が設けられた。1913年(大正2)のこと。1921年には北へ向けて延伸が始まり、約12キロ先の鍛冶屋まで到達したのが1923年のこと。この年のうちに経営は播丹鉄道へと変わり、翌1924年に野村(現西脇市)~谷川が開業。西脇を含む野村~鍛冶屋は支線となり、1943年(昭和18)の戦時買収で国鉄の加古川線と鍛冶屋線に分かれるが、後から思えば、これが運命の分岐点だった

ただ加古川線と鍛冶屋線という2つの路線に分かれながらも、流動は鍛冶屋線の西脇までが圧倒的に多く、加古川から西脇までの直通運転が行われていた。JR移管から1年が経過した1988年3月の時刻表(復刻版)を見ると、加古川~西脇は1日に21往復もの運行があり、半数近くが西脇止まり。また西脇から野村を経て谷川に至るという変則運転もあったため、野村~西脇に限れば25往復もの運行があった。そもそも時刻表は加古川~鍛冶屋と野村~谷川が別となっていて事実上、加古川~鍛冶屋が本線扱いだったことが分かる

車止めを模したモニュメントが置かれていて写真入りの解説文もある

歴史も含めとても詳しい。昭和30年代の国鉄全盛期には西脇駅を1日1万5000人もの人が利用していたという

鍛冶屋線は国鉄末期に特定地方交通線に指定され、廃線へと進み始めるが、野村~西脇については利用者数は廃線の基準となるものではなかったため、この区間のみを存続させるという意見も多く出たが、結果的にはすべてが廃線。利用が多いとは言えなかった野村~谷川は残り、廃線対象は盲腸線というパターンがここでも踏襲された。廃線は1990年。野村駅は西脇市駅へと改められた。阪神淡路大震災の5年前のことだった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その8 西脇市中心部近くにひっそりたたずむ古駅舎

新西脇駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

路線内では貴重な存在

新西脇駅に到着。当駅は路線内において戦前からの駅舎が残る貴重な存在となっている

スポンサーリンク

財産票には「大正」の文字

ホームは単式構造で過去においても交換施設があった雰囲気はない。そして入口の屋根の部分がさびかかった駅舎が印象的だ

こちらが駅舎。決して大きなものではないが、たたずまいが古風である。外壁は近年になって張り替えられたようだが

財産票もしっかり残されていて「大正」の文字が見える。隣には改修が平成になって施された印もある。「大正14年10月」の後に日付が空欄となっているが、これは最初からのもののようだ。開業日は1925年(大正14)の10月1日となっている

西脇市~谷川の各駅は日本へそ公園を除いて、同区間が開業した1924年12月のものばかりで、どの駅も昨年12月に100周年を迎えたわけだが、新西脇については1年近く後になっての設置となった。駅名については周辺の地名とは関係なく、周辺に新たな市街地が広がっているわけではないにもかかわらず、当初から新西脇。開業当時、現在の西脇市駅は野村という名前で当時存在した西脇駅は市の中心部にあってJR移管後に廃駅となった。西脇から新西脇へ鉄道で行くには野村経由でしか行けなかった。現在の「新○○駅」とは、やや感覚が異なる

加古川線では電化後、多くの駅で大幅な改築が行われていて古くからの駅舎は姿を消した。さらに言うと、加古川~西脇市の各駅は立派な新駅舎になったものが多いのに対し、西脇市~谷川についてはこれまでの記事でも触れた通り、バス停のような簡易駅舎となっている。その意味でも貴重な駅舎なのだが、駅のにぎわいという点はまた別だ

市役所も近いが、1駅の格差

新西脇駅を降りてすぐの加古川を渡ると、そこは西脇市の中心部となっている

西脇市役所も当駅が最寄りだが、2023年の1日の利用者数はわずか16人。お隣の西脇市が1408人ということを考えると差がありすぎる。市役所については移転、新築の新庁舎が2021年にできたばかりなので最寄りとなったのは最近のことだが、新庁舎の前後で利用者数はほとんど変わっていない。新西脇駅周辺もそれなりの住宅街で、川を渡ると西脇の中心部であるにもかかわらず寂しい数字なのは、列車本数が少なく住民に鉄道を利用するという習慣がないからだと思わざるを得ない

私は9時26分の西脇市行きで到着したが、その後3時間も列車がない。西脇市から神戸、大阪方面へと向かうには西脇市駅から加古川行きに乗車し(所要約50分)、加古川から新快速というのがポピュラーな手段で、西脇市からは昼間も1時間に1本の電車があるのとは差がありすぎる。しかもほとんどの電車で西脇市での乗り換えが必要となる。まさに「1駅の格差」である

駅名板も歴史を感じるもの

国鉄末期に無人化され、以来そのままの駅舎内。窓口のカーテンは40年近く閉ざされたまま。駅舎の未来もやや不安に感じるが、大正以来の歴史に別れを告げて西脇の中心部へ徒歩で向かうことにする

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その7 「唯一」の立派な駅舎で寒を凌ぐ

黒田庄駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

寒さで予定変更

比延駅から2駅谷川方面へと戻り黒田庄駅で下車。ここで降りたのには理由がある。寒さに耐えられないと思ったからだ

スポンサーリンク

元々は本黒田の予定

もともとはもうひとつ向こうの本黒田に行く予定だった。というのは西脇市~谷川の間にある7駅で本黒田が最も利用の多い駅だからだ。といっても1日の利用者数は本黒田が72人、黒田庄が32人と2ケタ止まりだが、他の駅が20人を下回っていることを考えると多い数字だ

しかし本黒田に向かうに際して問題は、はっきり書くと生理現象である。7駅とも訪問したことはあるが、黒田庄以外の駅でお手洗いの存在に全く自信がない。冷えてきたので熱い缶コーヒーを、とも思うが、それもお手洗いあってのものである

その点、黒田庄駅は立派な駅舎を持つので、その点は安心して降りることができる

8時33分に到着して9時16分で西脇市方面へ向けて出発するので40分以上の滞在時間があるが問題ない

西脇市~谷川で多くの駅が簡易化される中、当駅は2005年(平成17)に開業以来の駅舎に代わって新たな駅舎へと生まれ変わった

電化、新駅舎そして合併

黒田庄駅は1924年(大正13)の開業。播丹鉄道が設置した。周辺の駅とともに昨年100歳の誕生日を迎えた

電車を降りると100周年の看板がお出迎えしてくれる

駅舎内には今も黒田庄町時代の地図が残されている。開業時の所在は黒田庄村。戦後に黒田庄町となり、2005年に西脇市と合併した。加古川線の電化は2004年なので、電化の後に新駅舎が誕生。間もなく西脇市となったという移り変わりの激しい1年半を過ごしたことになる

黒田官兵衛とも深いつながり

地名で想像できるように当地は黒田官兵衛で知られる黒田氏とのつながりが深い町でもある。当の官兵衛の生まれについては姫路説、黒田庄説とあるようだが、黒田庄にある荘厳寺(しょうごんじ)は、黒田家そして官兵衛ゆかりの寺として知られる

駅の周辺はかつて町役場が置かれていた。一方、黒田の地名が残るのは本黒田駅周辺となっている

駅前にはロータリーがあるだけで自販機はないが、歩いてすぐの県道まで行けば古くからの街並みが広がり商店もある。かつて訪問した時もこのあたりまで歩いて自販機のお世話になったので、知識はある。熱い缶コーヒーを買って駅へと戻る。霧も晴れてきた

駅舎は正確に言うと駅の機能を果たしているのは片側の部分で主な部分は交流施設「あつまっ亭」となっているが、吹きさらしよりとは格段に違う

すっかり自然に還りつつあるが、かつての貨物ヤードも姿をとどめる

「加古川線を残そう」のポスターも

西脇市~谷川は、かつて交換施設のあった駅もすべて棒状化され、列車のすれ違いはできない。当駅もそのひとつだが、こちらはかろうじて線路だけは残されていて使用されなくなったホームもそれなりに整備されている。「いざ」に備えて復活の余地を残しているのだろうか。そう感じてしまった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その6 由緒ある地名

比延駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

※動画あり音声注意

あらためて比延駅

比延駅の紹介をあらためてしよう

なかなかの難読だが、由緒ある地名となっている

スポンサーリンク

シカの鳴き声から

時は4世紀から5世紀のころ。西脇市HPによると、当地に狩りに訪れた応神天皇がシカが「ヒヒ(比比)」と鳴いたことを哀れに思い、狩りそのものを中止したことで、狩り場となった山を「比延山」と名付けられたことに由来する

駅の開業は1924年(大正3)。播丹鉄道が野村(現西脇市)~谷川を開業させた際に設置された。当時は比延庄村。戦後の1952年(昭和27)に西脇町などと合併して西脇市が成立。自治体としての「比延」は終了した

現在は簡易駅舎というより、ベンチと屋根があるだけの停留所のような風貌で風はもちろん、横殴りの雨でも防ぐことはできないが、数年前までは由緒ある名前にふさわしい立派な駅舎があった

そのことを物語るかのように敷地は広い。足下はきれいにされていて、駅というより公園のようなたたずまいとなっているのが逆に寂しさを募らせる。背後に桜の木が見えるが、駅の開業時に植えられたものらしく、木の成長とともに100年間、当駅を見守ってきたことになる

駅周辺は住宅街そして旧比延庄村の中心地が広がる。駅の裏手には播州織工業協同組合があり、加古川を渡った場所にはコンビニもあり、周辺人口は比較的多いように見えるが、2023年の1日の利用者数は16人と、やや寂しい。私がここまでやって来た電車でも乗ってきたのはわずかに1人で高校生はいなかった

寒い寒い

現在は単式ホームだが、かつては列車交換が可能だったことを示すように対抗ホームが残っている。深い霧に包まれた8時過ぎはさすがに身体の芯から冷える

こちらは時刻表。谷川から西脇市行きに乗車して8時5分に到着。8時26分の谷川行きに乗車して、せっかくだからもう1駅降りてみよう。再びここへ9時22分に来る西脇市行きで西脇市の中心部を目指す。で、その後はというと、時刻表で分かる通り、本日はもう無理である。とにかく寒い。風がないのは幸いだが、それでもこれだけ寒いのは、かなりの低気温でスマホで確認すると2度だという。駅舎(というのか)は寒さを凌ぐ空間が全くないので20分の待機時間が1時間ぐらいに感じる

深い霧に超簡易駅舎、失われた対抗ホームと体感をさらに下げる要素が多い

遠くでかすかに列車の音が聞こえてきた。静寂すぎると小さな音でもよく耳に入る。出発の数分前に1人の乗客がやってきた。私よりは若そうだが、それなりの年の男性で今から通勤のようだ。実は「もう1駅」は別の駅を考えていたが、こうも冷えるのでは予定変更である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

比延駅に入線する125系

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

スポンサーリンク

大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その4 阪神間の迂回路として集まった注目

黒田庄駅に張られていた加古川線のポスター

※2024年12月10日

一度比延駅へ

利用客数を調べつつ、比延駅で下車。時刻は8時過ぎ。霧の中の到着だ

これまで加古川線の現状について語ってきたが、歴史についても触れてみたい

スポンサーリンク

水運の代替路線としてスタート

車窓からの眺めだが、加古川線の特徴は加古川に沿って走っていることだ

ピッタリ寄り添うように敷設されている。それもそのはずで、元々の目的は水運の代替手段だった。最初は播州鉄道という会社が加古川から西脇までの線路を敷設した。1913年(大正2)のことだった。この西脇とは現在の西脇市駅とは異なる。西脇市駅から北へ2キロ弱いの場所に存在し、今はない。後になってみると加古川線にとって重要な駅だったが、後に路線の運命を変えることが起きる。現在と同じ谷川への直通で、開業が1924年(大正13)12月27日のことだった。つまり100周年は、ここからスタートしている

ただ敷設にあたっての問題は谷川へは野村駅と名乗っていた現在の西脇市駅で分岐していたことだった。分岐が西脇でなかった要因は線路の設置予定地まで川を2回渡る必要があり、またすでに市街地を形成していた西脇の街の中に線路を通すことは難しかった。この部分の工事を請け負ったのはシリーズの最初で触れた播丹鉄道という会社で、播州鉄道はすでに播丹鉄道に吸収された形となっていた

このため野村駅で分岐する形となった西脇からは、さらに線路が延伸され途中駅となった

現在の路線名となったのは1943年(昭和18)に行われた戦時買収。加古川~谷川が国鉄の加古川線となり、西脇を含む路線は鍛冶屋線という加古川線の支線となった

分岐点は国鉄民営化

大きな転換期となったのは鍛冶屋線の特定地方交通線指定(1986年)と国鉄民営化(1987年)。鍛冶屋線の廃線は避けがたいものとなったが、野村(現西脇市)~西脇の1区間については業績堅調で、加古川からの列車は多くが西脇まで直通されていて、どちらかというと加古川~西脇が加古川線の主力の扱いとなっていて、この区間のみの存続も検討されたものの結局は廃線。西脇市を境に運行本数が大きく変わるほぼ同じ形となった。「ほぼ」としたのは、当時は非電化だったからだ

加古川線そのものの利用者は西脇駅を失ったことで、さらに減少していた状況で迎えたのが1995年1月17日の阪神淡路大震災。阪神間の線路は寸断され、西明石以西は間もなく運転したものの、姫路方面から大阪へ行くことはままならない。そこで迂回路として注目されたのが加古川線だった。単線非電化路線の上、谷川駅で福知山線への直接乗り入れができないという欠点はあったものの、多くの人が加古川で乗り換え谷川を目指した。JRも臨時便を増発。4月1日に全線復旧(当初の見込みより、かなり急ピッチだった)するまで多数を運び続けた

この一連の経過、つまり加古川線が非電化で、緊急時に山陽本線、東海道本線のバイパスとして不便だということが電化の機運を高めた。費用を地元が負担するという形で2004年に電化が行われた。つまり昨年は電化20周年の年でもあったのだ

だが利用者数の低迷で近年、西脇市~谷川の閑散区間は再び危機が報じられるようになっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その3 早朝から単行電車に乗車したわけ

黒田庄駅の加古川線100周年を祝う張り紙

※訪問は2024年12月10日

薄いダイヤ

福知山線の分岐駅である谷川駅の時刻表

パッと見ただけで本数の違いは一目瞭然。福知山線も昼間は1時間に1本の運行となっているが、さらに少ない

拡大するとこのようになるが、時刻表の空白部分に告知などを掲載するのは全国共通である

スポンサーリンク

9時発では次がない

このダイヤを見ると利用状況の調査うんぬんよりも、これに乗らざるを得ないことがよく分かると思う。平日のみ運行の6時9分は物理的に乗車できないし、次の9時ちょうどでは単純に西脇市まで乗って終わりになってしまう。「次」がないのである。西脇市以降は1時間に1本の運行が確保されているが、過去に全駅訪問済みとはいえ、せっかく来たのだから、特に本数の少ない谷川~西脇市はいくつかは降りてみたい

9時ちょうどに乗ってしまうと次は3時間以上空いて12時10分、さらにその次は再び3時間以上の空白で15時13分。朝が終わると夕方までほとんど運行がない、これまでも当ブログでたびたび出てきた典型的なローカル線の運行パターンだ。西脇はそう遠い場所ではなく、神戸の中心部からだと車なら1時間ちょっとで行けてしまう場所なのだが、もちろんそれは高速道路の使用があるからで、鉄路でも神戸の中心部である三ノ宮からだと15分に1本の新快速に乗り加古川まで30分、加古川からの乗り換えも1時間に1本の運行があって西脇市まで50分と、乗り換えを入れても90分もあれば行ける場所のイメージがあるが、少し離れただけで、このような現状が待っている

JRでは貴重な単行可能な新車の電車

今回主に乗車したのはJR西日本の125系である。ご覧のように単行での運転が可能で加古川線内では主に単行の運用となっている

電車というのは車内にいろいろな装備を詰め込む必要があるため、長らく最低の運行単位は2両とされてきたが、近年は技術の進歩で単行でも可能な車両が生まれたり改造されたりしている。ただJRでの新車となると四国の7000系と、この125系しかない

JRの単行電車といえば

今も現役で宇部線、小野田線を走るJR西日本の123系が有名だが、これは余剰戦力となった郵便荷物用の電車を改造したもので新車ではない。JRで単行可能な電車の新車が生まれない理由は、基本的な考えとして電化区間=利用客の多い路線だからだ。古くから電化されていて現在は乗客の少ない区間や路線はできるだけ最低単位の2両で運行するか、古い車両の改造で対処するというのが基本的なスタンスである。電車の新車を投入するなら利用の多い路線となる。近年は蓄電方式の車両も登場しているが架線は不要である

だが、この125系は2003年デビューと近年になってからのものだ。投入は小浜線と加古川線。JR四国7000系は四国内で電化が進む中で製造されたもので、同じ路線には特急列車も走る。特急車両が電化なら、普通用も電化となる道理だが、小浜線と加古川線に優等列車は走らない。ではなぜ21世紀になって新車が投入されたかというと、両線がほぼ同時期に電化され(小浜線が2003年、加古川線が2004年)、しかもそれは地元負担によるものだった。加古川線に話を絞ると、当時すでに西脇市~谷川は利用者の少ない区間だったが、それでも電化された。それには30年前の阪神淡路大震災が大きくかかわってくる

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク