2023年 7月 の投稿一覧

残された留萌本線を全駅乗降~増毛まで完乗の思い出

増毛駅の駅名標(2013年6月28日)

2023年5月26日13時10分

前回訪問は11年前

石狩沼田から北一已まで戻って下車しました

留萌本線に乗車するのは11年ぶりのことです。前回の訪問は2012年の6月28日。そのころは東京に住んでいました。その時は羽田から旭川まで飛行機に乗り、空港から美瑛駅へ。そこから一度富良野まで行き、富田ファームを目指しました

富田ファームから徒歩で行ける夏だけの臨時駅「ラベンダー畑駅」を利用したかったから。ノロッコ号しか停車しないので意外と利用が難しい駅です。その日は旭川に宿泊して留萌本線目指して出発しました

この旅はフリーきっぷとは無縁で、その都度きっぷ購入していました。全く記憶にないのですが美瑛の窓口で富良野から旭川を経由した増毛までの乗車券を買っています。これで道中は2日間、途中下車をしたい放題にはなったのですが、なぜ富良野ではなく美瑛で購入したのか、さっぱり分からない。おそらく美瑛の窓口を利用したくなったのではないかと思われます

留萌で途中下車

深川からキハ54に乗車。2両編成で、うち1両は客扱いをしないJR四国のような運用。2両のうち1両は、そのまま増毛に向かい、もう1両は留萌で切り離されて深川へと折り返していました

留萌で途中下車

お昼でも、と降りたのですが、デジカメのSDカード容量がまずいものになったことに気付き、留萌でなんとか、と祈るように思っていたところ、徒歩圏内に家電量販店があって助けられたことが強く思い出として残っています

蕎麦は売り切れ

深川~増毛間は66・8キロ。当時から本線としては短い方でした。札幌までの延伸計画があったが、かなわず増毛止まりのままだったとされます

留萌であらためて乗車して増毛へ。最初に乗った留萌行きは、それなりにお客さんがいたのですが、留萌からは私ともう一人、たった2人の利用客での出発でした

増毛といえば、当時は駅舎内で夏季のみ行っているそばが有名でしたが、すでに売り切れだったのか、この日の営業は行っていなかったのか、残念ながら食べることはできませんでした

その分、駅については満喫しました

当時、増毛から出発する列車は1日7本(うち1本は休日運休)。ほとんどの列車は留萌方面からやって来ると、10分ほどで折り返していくのですが、1日に1本、14時47分の到着列車は出発が15時38分と50分も駅にいてくれました

もちろんそれを狙っていったのですが

周辺散策の時間もありましたが、当時の北海道としては、かなり季節外れとなる猛烈に暑い日でした

戻りは整理券で乗車。旅に出るとフリーきっぷを使用することが多いので意外と整理券のお世話にはならないので、たまに利用すると新鮮

この日は滝川泊まりだったので、15分ほど乗車した特急の車内で車掌さんからきっぷを購入

なぜ滝川に泊まったかというと

翌朝、新十津川から札幌に向けて出発するため。新十津川の風景として有名だった、お子さんに見送られての出発でした

この時からわずか11年。もちろん当時は廃線の前提で訪れたわけではありません。ただ今回紹介した駅はラベンダー畑をのぞいて、いずれも今はありません

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残された留萌本線を全駅乗降~期間限定の終着駅

石狩沼田駅に到着

2023年5月26日12時50分

かつての乗り換え駅

深川から、わずか15分で留萌本線を「完乗」となりました

駅名標は終着駅のものになっています

「1日1本だけ」が有名で2020年4月に廃線となった札沼線の新十津川~北海道医療大学。その「沼」が、ここ石狩沼田。当駅から札幌まで直接線路がつながっていました。ただ石狩沼田~新十津川間が名松線の項でも触れた「赤字83線」の指定を受け1972年に廃線、札幌近郊が電化され通学通勤路線となる中、路線名に名を残す存在となっていました

その乗り換え駅が現在は期間限定の終着駅となっています

それでも乗り換え駅らしい2面3線構造を保ち、列車交換も可能でしたが、約20年前に現在の1面1線構造に。ただ当時のホームだけは残っています

人名→駅名→町名

石狩沼田の駅舎です。札沼線が廃線となった1972年に改築されたもので国鉄色の濃い建物

沼田町のHPによれば、1894年(明治27)に富山出身の沼田喜三郎という方が移住したのが町の始まり。当時の村名は「上北竜(かみほくりゅう)村」。鉄道の歴史も古く、1910年(明治43)に深川~留萌が開通した際に駅も開業。設置場所が沼田氏所有の敷地内にあったため、沼田駅となり、その12年後に村名も沼田村となりました。駅名が町名になった例ですが、その町名が人名に基づくものというのは。なかなか興味深い。「石狩」が付くようになったのは、さらにその2年後の1924年で上越線に沼田駅が開業したため。普通、後からできた駅に国名などを冠するものですが、こちらは逆となっています

駅名が町名になったぐらいですので、駅周辺が町の中心部

滞在時間短く

こちらは時刻表。到着時間付きという珍しいものとなっていますが、おそらく留萌方面行きの部分が、そのまま転用されたと思われます

この時刻表を見ると深川からの列車は当駅で15分ほどとどまって折り返すことがよく分かります。ただ例外があって13時43分到着の列車については折り返しの設定がありません。今回の各駅乗降において困ったひとつで、1面しかないホームでこの車両はどうするのか、と不思議だったのですが、後に沿線で見かけたところでは、客扱いをせず、そのまま回送で折り返していました。たった14キロ、15分で終わるのだから、客扱いしてください、と泣きそうになる。この短い区間ですら回送扱いをするということは、よほどお客さんがいないのでしょう。それでも現在も1日100人以上が利用する駅。利用者の主力が高校生だということがよく分かります

そのため私が乗ってきた列車は9分しか滞在時間がなく、慌ただしい時間しかありません

入場券を購入

駅舎内を見ていきます

一見無人のようですが、簡易委託となっていて平日の7時20分から17時まではきっぷ販売を行っています

終着駅となったことを告げる「ようこそ」の看板

その一方でラストランの紙はまだ窓口にありました

ストーブもあったりします。その上にある電話番号はタクシー会社のもののようですが「明日萌」の藻場が入つています。沼田町といえば、朝ドラの舞台となった「明日萌駅」ですよね。石狩沼田から2つお隣の恵比島駅が1999年の「すずらん」の舞台となる「明日萌」という駅になり、セットの駅舎はずっと観光名所となっています。その人気で、数年間は「SLすずらん号」も運行されていたほど

石狩沼田~留萌が廃線となることについて、地元では恵比島駅までの2区間を存続してくれるよう依頼もしています

駅舎内では「すずらん」のずっと前となる昭和の旧駅舎が存在していたころの写真が展示されていました

こちらの部屋はちょっと分かりません。札沼線の廃線後に運行されていた代替バスの乗務員用のものでしょうか

窓口で北の大地の入場券を購入しました

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残された留萌本線を全駅乗降~全長14キロとなった最短の「本線」

石狩沼田駅に到着

2023年5月26日11時

痛恨の時刻表の勘違いで行程練り直し

この日は11時5分に特急「ライラック」で札幌から深川に到着。駅名標で2つの行き先がありますが、向かおうとしているのは「きたいちやん」方面。ただこの時間に到着してしまったことが痛恨で、本来は2時間前に着いているはずでした。前夜は室蘭に宿泊したのですが、5時25分だった始発を6時25分と勘違い。4時過ぎには起きていた(この季節の北海道の夜明けは早くて慣れていないと起きてしまう)にもかかわらず、間に合わなかったのは実に痛恨

事前の計画では深川発9時13分に乗れば、バスや徒歩を利用して14時には全行程を終えるはずでしたが、9時13分の次は12時36分。そうなるとバスの時間帯も悪く、もうどうしようもありません

ということで深川でラーメンと天津飯のセットを食べながら作戦の練り直しです

留萌本線の現状

今年3月いっぱいで石狩沼田~留萌間の約36キロが廃線となった留萌本線

現在は深川~石狩沼田の14・4キロが残るのみ。この距離は全国にあるJRの本線では最短。深川を除くと4駅しかありません。現行区間も3年後の廃線が決まっていて、2016年12月に留萌~増毛の約17キロが廃線となったことから段階的に短縮されてきた路線は、あと3年で姿を消します

留萌本線に乗車するのは2012年の6月以来、11年ぶり。留萌駅の廃止までには来たかったのですが、なかなか簡単に行ける場所ではないので、石狩沼田まで短縮されてからになってしまいました

そんな中、ようやくやって来られたのに時刻表の勘違いは痛い。その代わりと言っては何ですが「全駅を乗車または下車」から「全駅乗降」に変更。ダイヤ的に長い長い待ち時間が生じますが、夕方までかけて全駅乗降を行うこととします

1日1本の列車で石狩沼田へ

深川駅のホーム。向こうに見えているのは、留萌本線の専用ホーム。単行中心なので屋根の部分が短い

写真を撮っている側のホームは4番線で留萌本線用は6番線。5番線はホームのない中線に割り当てられています。4番線は旭川方面への普通が主に使用しますが、列車の進行方向が逆の留萌本線も使用

跨線橋から次の留萌本線の発車番線が分かるようになっています

もっとも私が乗車する列車は旭川始発の石狩沼田行き。留萌本線は1日7往復ですが、うち1本は函館本線に乗り入れる旭川始終発の運行で、その1本が深川発12時36分のものでした

旭川方面からのお客さんの多くは深川で降りていきましたが、それでも十数人のお客さんが乗車。途中駅でポツポツと降りていき

数人のお客さんとともに終着駅の石狩沼田で降ります。到着は12時51分。わずか15分で「完乗」となりました

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小幌駅に行ってきました(後編)

小幌駅を通過する貨物列車

2023年5月24日

※音声注意

こんなところでご近所さん

JR北海道の保線作業の方々とともに降り立った小幌駅ですが、では仮に職員の皆さんがいなかったら小幌駅独占となっていたのかというと実はそうではありませんでした。私ともう一人、男性がいらっしゃいました。単行の車内で数人しかいないお客さんで同業者(鉄道ファン)はいないと思い込んでいただけに、ちょっとビックリ。なかなかこういう駅での独り占めというのは難しい

そして、さらにビックリしたのは、少しお話していると関西弁だったので、どこから来られたのか尋ねると、お互いの自宅から電車で5分ほどの距離だったということ。ここで会いますかね、ご近所さんと。少し前には宮崎の都城駅をウロウロしていたら以前勤めていた会社の同僚と会ったり、宗太郎駅の帰りにツイッターのフォロワーさんと会ったり(もちろん初対面でしたがツイート内容などで互いを特定できてしまった)と、世の中狭い

各所に注意書き

JRの職員の皆さんは保線というより保全の仕事だったようで、ホームや駅名標、駅ノート入れなどを順番に見て変わったところはないかをチェックしています

小幌駅を独占とはいきませんでしたが、このように多くの人がいると、安心できることもあります。当駅にはいたるところに

マムシや

スズメバチに対する注意書きがありました。クマが出没した情報はなく、あれば駅そのものの存続危機となってしまいますが、マムシでも相当におっかない

先日まで紹介していた名松線の項でもシカやサルに出会った経験に触れましたが、大自然あふれる夏の北海道は、やはり野生の皆さんへの注意が必要

時間内にどこまで行けるのかは分かりませんが、一応、駅から海岸への道はあります。この岩屋観音と洞窟は、ある意味有名ポイントで、関心はありますが、保全の方々が行った先で引き返しました。それでもこのようなガイド標識や小径は放置していると、あっという間に草木の中に埋もれてしまうはずで、定期的に整備されていることがよく分かりました

多少の変化も

9年前の訪問時は、わずか8分だったので記憶を掘り起こすべきこともないのですが

完全に朽ちていてドアも外れていたトイレはきれいになっていました

保線のための建物は新調されているようです

洞爺方面ホームの上にあるのは待合所ですが、今は入れなくなっています。かつて、ここで生活している人がいて話題になったこともあります

魚のキャッチ&リリースについては前回もありました

こちらは駅ノート入れ

廃駅危機を乗り越え

小幌駅には廃駅の危機がありました。2015年7月、JR北海道は豊浦町へ廃駅の方針を通達。理由は「鉄道ファンだけのために費用や手間を使って駅を存続させる意味があるのか」というもので、確かにその通り。元々はすれ違いのための信号場として設けられたものですが、現在は複線化されていて、その意味はほとんどない。また夏場は多くの鉄道ファンが訪れますが、かなりの人が青春18きっぷ使用のはずで、JR北海道に入るお金も少ない

これに対し豊浦町は「重要な観光資源」として駅を維持するための経費や人的協力も含めた申し出と交渉を9カ月もかけて行い、1年ごとの更新で駅は存続しています。先に挙げた標識や小径の整備、今回たまたま遭遇した駅の保全など、駅ひとつ維持するのにも、これだけの手間がかかるのだと感じていただけに、感謝の念でいっぱいです

ただ、その一方で小幌から洞爺へと向かう礼文、大岸の2駅が廃駅の危機にあります

※音声あり

滞在中は特急「北斗」の通過と貨物列車の通過を見ることができました。北斗については分かっていましたが、貨物については知らなかったので、とても良いものを見られた。もっともここで見られる貨物列車も将来は不透明なのですが…

JR職員の皆さん、ご近所の方とともに7人で折り返しの列車で洞爺へと向かいました

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小幌駅に行ってきました(前編)

小幌駅の駅名標

2023年5月24日

※音声注意

貸切なるか

時刻は15時。ワンマン運転の次の駅に「小幌」が表示

実は少し前まで「貸切達成か」とドキドキしていました。東室蘭を13時56分に出た普通列車は小幌まで70分。途中までは帰宅の高校生もいて単行(1両編成)の車内は座れない人もいるほどで混雑していましたが、洞爺、豊浦を過ぎると乗客は5人。「これは貸切なったか」と確信めいたものを持っていました。わざわざ平日のお客さんの少なそうな日を選んだのも、小幌駅を1人で訪れてみたい、それが理由。道中、明らかに同業者(鉄道ファン)と思われる人がいて、これはダメかな、とあきらめたものの、なぜかその方は洞爺で降りていきました。「うーん、私の見立てが間違っていたのか」と思いもしましたが、これは「朗報」(もっとも、この方とは3日後に廃線が決まっている根室本線の車内で再会してビックリ)

ただし「貸切」「独り占め」の夢は、その後、あっさり破れることになる。保線、保全担当と思われるJR北海道の職員の方が5人乗り込んできたからです。本数の少ない路線だと、こういう方々は車で回るのが普通。わざわざ列車で行くのは車で行けない小幌駅に行くからに間違いありません

まぁ、路線の安全確認の方々なので、こればかりは「おつかれさまです」と言うしかありません

9年ぶりの訪問

※動画音声あり

15時6分、小幌駅に到着。最後に「フォー」と鳴らしてくれたのは職員さんへの「おつかれさまです」の意味なんでしょうか

当駅には9年ぶりの訪問です。前回は2014年8月25日でしたが、当時のダイヤは同じように洞爺方面から乗車して小幌駅での折り返しが来たのは8分後、滞在時間はほんのわずかでしたが、今回は40分以上滞在することができます

小幌駅とは

この記事を読んでくださっている方で当駅を知らないという方は、あまりいないでしょうが、簡単に説明すると、とにかく列車でしか行けない駅として有名です

わざわざ地図を載せる意味があるのかどうか分かりませんが、三方を山、もう一方を海に囲まれ、特に山は険しい崖となっている上、まともな道路はなく、車では当然行けず、徒歩でも到達困難。要は外に通じる手段は列車のみ(船という手段も可能ではある)という駅

トンネルとトンネルの間にはさまれていて2面2線構造。戦時中の1943年に信号所として設置。道内の石炭など鉄道の軍事需要に応じるため、当時は単線だった路線に信号所(すれ違い施設)を増やす必要があり、前後がトンネルのこの場所で蒸気機関車の煤煙を避けられるのが設置理由でした

正式に駅に昇格したのはJR移管時。それまでは北海道でよく見られた仮乗降場として客扱いをしていたそうですが、戦前はいくつかあったとされる民家もやがてなくなり「誰も住んでいない、車でも徒歩でも行けない駅」として注目を浴びることになりました

アクセス方法

こちらは長万部方面の時刻表。そして

東室蘭(洞爺)方面への時刻表。写真で分かるように、東室蘭方面が1日2本、長万部方面が1日4本と変則的なダイヤとなっています。これは東室蘭方面の午前の列車が当駅を通過するから

豊浦~長万部間の普通列車はどんどん減らされていて、現在は1日4往復しかありません。前回の訪問時は8分の滞在時間だったと記しましたが、当時は本数がもっと多く、他の訪問パターンもありました

今は当駅に行こうとすると方法は限られていて、現実的な滞在時間や日没などを考慮すると、午前中は長万部方面1本しか停車列車がないため、利用はできず、私の行動パターンとなった15時6分に洞爺方面からやって来て、15時50分に長万部からの洞爺方面行きに乗るか(滞在44分)、長万部方面から15時50分に到着して、17時34分の長万部行きで折り返すか(滞在104分)、もう少し粘るつもりがあるなら、15時6分の長万部行きで下車し、17時34分の17時34分の長万部行きに乗るか(滞在148分)のせいぜい3パターン。19時台や20時台の列車は日没を考慮して除外します(正直、この時間の停車の意味が私には分かりかねます)。ただ季節によっては、17時台でも暗いでしょうから、滞在時間を含めても私と同じ行動がおすすめです

それでも先日訪れた宗太郎と比べると、アクセスははるかにしやすいと思います。延岡での宿泊が絶対条件となる宗太郎に比べると、特急を利用すれば大阪や東京からの日帰りも可能(そんな人はいないでしょうが)です

約40分の滞在を楽しむことにしましょう

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~エピローグは坂道

伊勢石橋駅の駅名標

2023年3月15日

全駅訪問完了はいいものの

井関駅で名松線全14駅(松阪駅のぞく)訪問を終えたのはいいものの、大きな問題があります

当然ですが帰宅しなければならないのです。別の言い方をすれば、ここ井関駅からの脱出。とにかく近鉄の駅へと向かわなければ大阪方面へは帰れない。逆に言うと近鉄のどこかの駅へ行ければ、後は何とでもなります

名松線は路線そのものが行き止まり構造で、家城~伊勢奥津の山中の駅から近鉄の駅へはつながりようがない。家城~松阪間の平野部の駅と近鉄の駅とは、車だとすぐの場所にあるのですが、両者を結ぶバスというのがほとんどないのです

そもそもゴール方法に問題があって、伊勢奥津から松阪行きに乗車して井関で降りた以上、次の松阪行きは2時間後でさすがにそれは待っていられません。ということで乗り継ぎが便利な一志そして松阪での乗り換えは不可能。もっとも逆方向の伊勢奥津行きですら1時間半後ですから、現在の時刻が16時過ぎということもあって、それも待っていられないし、乗ったところで先のアテがありません

道中からどうしようと迷っていたのですが、ひとつ薄いながらアテがあったのは、井関駅だからこそあるバスです。山中から、ここ井関を経て近鉄の川合高岡駅を経由、最後は久居駅に行くバスが1時間に1本ある。これは貴重な存在なのですが、下調べでは、なぜかこの時間だけ2時間空いている。ただバスについては下調べと現実が微妙に異なっていることも過去にかなりあって、それに期待したのですが駅前のバス停でチェックすると、当然のように下調べの通りでした

ということで

またもや徒歩

結局は最後も徒歩ということになりました。最も簡単なのは川合高岡まで行くことでバス道に沿って歩けば30分ちょっとで歩けるはず。しかし調べると、もうひとつ伊勢石橋という駅の方が距離的には近いようです。川合高岡は何度か行ったので、ここは一度も行ったことのない伊勢石橋まで歩いてみることにしましょう

こんな感じの行程となります

井関駅から西へ歩き踏切を渡ると、あとはほぽ一本道のようですが、なかなかの茂みが待ち構えていますね。当然のように難問を突きつけられました

凄い坂が待っていました…泣

地図ではそこまでは分かりません。ただここまで歩いてきた以上、引き返すことはもう無理。今日はかなり歩きましたが上り坂は初めて。携帯アプリがない時代だったら、絶対にあり得ないコース

小さい峠のようになっていて、そこを下って雲出川が見えると川に沿って大きめの集落がありました。ただここから近鉄の駅へはまだかなりの距離があって、珍しい光景だな、と思いつつ

夕陽を眺めながら、今日のお友達である雲出川を渡りましたが、後で調べると伊勢川口の項で触れた中勢鉄道は川沿いにこの集落付近を抜けていて途中には駅跡に駅名標のレプリカも建てられているとか。もっとも、この時の私は疲労困憊、先を目指すことばかりを考えていて、そんな余裕はありませんでした

近鉄大阪線の駅とは思えず

その後、再び農村地帯に入り、進んでいくと架線が見えてきました。これで終わりだと思うとドッと疲れが出てきます。電化区間の駅というのは、写真撮影で架線がじゃまになることも多いですが、遠方から見つける時は便利ですね

その伊勢石橋駅。着いて驚いたのですが

全くのホームだけの駅でした。どうもかつてあった駅舎は撤去されたらしい。中勢鉄道との乗り換え駅の役割も果たしていたようですが、そんな雰囲気はありません

もちろん近鉄大阪線の駅なので複線。両側にホームと待合所があるのみ

こちらが時刻表。少し前まではもっと本数があったのですが、コロナ禍で昼間の運行が1時間に1本となりました。私の到着は17時前でしたので30分間隔の時間帯。名松線と比べると夢のような本数です

ちなみに私が滞在する間、17時という帰宅時間帯だつたにもかかわらず、ホームは私の貸切でした

電車がやって来たので、これで全駅訪問の旅は終了です

ホームはずっと貸切でしたが降りる人も誰もいませんでした。なお、この付近の近鉄の駅では当駅のみ極端に利用者が少なくなっています。他の駅では名松線の1日の乗客より多いのではないか、というほど利用者がいるのですが、事前知識なしで訪れた近鉄の駅がピンポイントで「駅舎なし」「貸切」と名松線の駅と同じワードだったことが、何かこの日を物語っているようでした

なお、気になる名松線の将来についてですが、JR東海の社長は昨年の記者会見でJR各社が軒並み路線ごとの収支を発表する中、東海のみが発表していないことについて「収支という形で発表する予定はない」「(JR東海管内でバス転換や廃線についての)予定は当面ない」と話しています

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~ゴールは不屈の路線のかつての終着駅

井関駅の駅名標

2023年3月15日

伊勢鎌倉15時27分→井関16時10分

伊勢鎌倉から松阪行きに乗ります。井関で降りれば、名松線の14駅(松阪のぞく)の全駅訪問となります。家城はどうやっても長時間停車で訪問となるのですが、先に伊勢奥津、一志、伊勢八太の3駅を終えておいて良かったです。特に伊勢八太に関しては居眠りによる乗り過ごしという副産物。当日は「あちゃー」でしたが、その1駅分が効いています

年明けの訪問では乗客全員が…

話を少しだけ戻します

今年1月8日に伊勢奥津を訪ねた時のこと

この時は前日に廃駅の池の浦シーサイドなどを訪問して松阪泊。翌日は始発で出発。伊勢奥津で折り返して一志で下車。近鉄に乗り換えて津に行き、再びJRに乗車。紀勢本線で亀山→柘植を経て信楽鉄道に乗車しました

年明け早々の日曜日でしたが松阪からの乗車は数人。一志でさらに数人が乗り込んできて、これは雰囲気で分かったのですが、おそらくは同業者(鉄道ファン)ばかり。学校もお休みの始発には地元の方の利用が少ないことは理解しているつもりでしたが、誰も途中駅で降りない。となると、ますます同業者色が濃くなり、降りる時に分かったのですが、11人の乗客全員が青春18きっぷの利用者でした。フリーきっぷの利用は路線の実績になりませんので、数字的には、この日、この時間帯の乗客は0人、運賃収入も0円ということになります

この例で分かるように、名松線の利用者はそう多くない、というかかなり少ない。特に家城から山中に入っていく伊勢奥津までの区間は、そもそも住民が少なく、モータリゼーションの浸透とは異なる側面で利用者が大幅に減っています

名松線が何度も廃線危機に面したことは

この時にも触れましたが、最大の危機は2009年10月の台風被害で家城~伊勢奥津の数十カ所で崩落などの被害が出て、JR東海が打ち出したのは「JR運行によるバス代行」。この山中は過去にもたびたび台風被害を受けており、1982年には全線が10カ月にもわたって運休したこともあります

JR側は「今後も同様の被害に遭う可能性がある」としてJR路線そのままの運賃でのバス転換を提案。公式見解にはありませんでしたが赤字路線だったことが大きな要因であることは明らかです。この時点で、赤字地方交通線の対象から外れた、平行する代替道路未整備の問題は、ほぼ解決していました

これに対し、路線維持を望む津市や三重県の対応は迅速でJR側が出した山間部や河川部の修復や将来にわたる維持責任についても受け入れ、治水、治山工事は自治体が行うことで問題は解決。2016年3月に6年半という長期間の運休を経て全面復旧しました。いわば盲腸線ともいえる路線でのこのような復旧は奇跡的。不屈の路線です

以前の終着駅は利用者最小

井関に到着しました。これで全駅訪問完了。付け加えると、すべての駅で乗車もしくは下車を行うことができました

ちなみに「いせぎ」と読みます。微妙に難読です

名松線は1929年8月に松阪~権現前が開通した後、1930年3月に当駅までが開通しました。1931年9月に家城までが開通したので1年半の間、終着駅だったことになります

ただし現状はこのような感じで、基礎部分が残っているため、ここに駅舎があったと考えられますが、正式な記録が出てきませんでした。構内も広く、かつてはすれ違い可能だったような構造ですが、現在は1面

待合所は古いもののようで財産票があったので見ると

1929年(昭4)とありました。駅の開業は1930年3月なので3カ月もさかのぼって待合所ができたことになりますが、古いものであることは間違いないようです

この井関駅ですが、松阪~一志と伊勢大井~家城の平野部のちょうど中間にあり、この部分だけが山中となっていて周囲に民家は少ない。利用者は名松線で最小となっています

ある意味、ゴールにふさわしい場所だったかもしれません

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~山中にポツンと一駅

伊勢鎌倉駅の駅名標

2023年3月15日

寸前で勘違いに気付く危機一髪

駅前のバス停で待ちます。この日わずか1回のバス利用ですが、訪問日を水曜日に設定したことの意義は、この一本のためにあります。コミュニティバスに乗車するのですが、ご覧の通り、月水金と週に3回のみの運行しかありません。このバスは伊勢奥津、比津、伊勢八知、伊勢鎌倉、伊勢竹原そして家城と名松線の家城~伊勢奥津の各駅に立ち寄ります。駅訪問者としては、大変有意義なものなのですが、比津駅の項でも記したように列車との接続があまりにも良すぎて、なかなか利用しにくい。ただ写真の時刻表にある14時49分発のバスについては伊勢鎌倉駅で20分ほど過ごすことができます

そんなことを考えながら手元のメモを見ると、時間が微妙に違うことに気付きます。バスや徒歩を絡める駅訪問の場合、間違いのないよう必ず用紙にメモ書きするようにしているのですが、発車時刻は14時50分と自分で書いています。10分違いや1時間の間違いはメモ書きする際、よくあることですが、49分と50分を書き間違うのは、ちょっと考えられない

疑問に思い、時刻表の下にある路線図を見ると、伊勢竹原駅前の停留所は美杉東ルートにあり、伊勢鎌倉駅へ向かう美杉西ルートのバスはここからは出ない。ひとつ手前の「竹原」という停留所で東西ルートが分岐しているようで、メモにも「竹原」と書かれていました

時刻は14時45分。大変マズい。大いに焦りましたが乗り場は徒歩3分ほどの所でホッと一安心

停留所があったのは防災センターという建物。広い駐車場があって特産品売り場も併設。現地のバスターミナルとしての役割も果たしているようです。伊勢竹原駅前には自販機がなくて困ったのですが、こちらにありました。駅にはないお手洗いもあります

こちらは間違いないよう。駅からだと線路沿いに100メートルほど歩いた場所にあります。ここから雲出川をはさんで2つのルートに分かれて伊勢奥津駅を目指すようです

バスがやってきました。ギリギリで気付いて良かった

竹原14時50分→バス→伊勢鎌倉駅前15時02分

バスはさらに山中を進み、山深い道路に設置された停留所に到着

県道から中に少し入り込んだ所に駅はありました。もう半月もすれば、桜がきれいにホームを彩るのでしょう

駅から道路側を見ると、こんな感じ。奥は突き当たり。駅前通りの左右に1軒ずつ民家がありますが、人の気配はありません。一部は朽ちたりしている

何もないところにあえて設置

駅周辺の地図を改めて見ると

地図に書き込むことがないぐらい何もない。そして伊勢竹原駅の項でも説明した県道15号は駅の手前でトンネルをくぐっている。おそらく道路改良によってトンネルができたのでしょうが、県道にもパスされる駅となっています

それでも当駅は1935年の家城~伊勢奥津開業時に八知村の熱心な働きかけによってできた駅。なぜ、このような不便な所にあるかというと地形を見ればなんとなく分かる

駅は雲出川が蛇行する場所に設置され、名松線はこの前後で2度川を渡ります。駅に近い徒歩10分ほどの集落は、線路から見ると川を渡った向こう側にあり、同じ側に設置するには、この場所しかなかったのだと思われます

単式ホームと待合所のみ。かつては駅舎があった記録は残りますが、その痕跡らしきものはありません

ホームの向こう側は農地そして川。高台にあるため景色はいいですが、住宅らしきものは何もありません。桜の季節でも新緑の季節でも、紅葉、降雪の季節でもない時期に来てしまいましたが、四季の移り変わりはよく分かりそう

「いつまでも愛し育てよう名松線」

松阪行きがやってきました

ホームには私一人。最後の訪問駅となる井関へと向かいます

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~原風景の駅とオサルさん

伊勢竹原駅の駅名標

2023年3月15日

伊勢川口13時39分→伊勢竹原14時06分

再び家城をまたいで山中に入ってきました。何度も繰り返していますが、名松線は家城を境に雰囲気が一変します。家城からたった1駅で周辺は山に囲まれます。そして

素晴らしい木造駅舎が残る伊勢竹原駅

財産票によると1935年12月。開業時の駅舎がそのまま

駅名も右から左に書かれている。これだけでグッときてしまいます。駅舎そのものが少ない名松線ですが開業時からの駅舎は家城とこちらだけです(一志は駅の場所が変わって駅名変更された際に建てられたもの)

周辺も懐かしい景色が連なる

かつては貨物の取り扱いもあり、ヤードが残ります。おそらく材木輸送でしょう

到着時の写真で側線が写っていますが、こちらはすれ違い用のレール跡ではなく、単式ホーム+貨物側線で開業時から列車交換の設備はなかったようです

駅前は、そのまま映画の一場面になりそうな風景

地図にある県道15号と雲出川(くもずがわ)は名松線の「お友達」。県道は久居美杉線と言って、名松線の存続理由となった「道路状況困難」から徐々に改良され、まだ細い部分は残りますが伊勢奥津までつながっています。雲出川は奈良県の県境付近の源流から伊勢湾へと向かい、それぞれ県道は伊勢奥津から一志あたりまで、雲出川は伊勢大井あたりまでずっと寄り添います。特に雲出川については渓谷を生かした川沿いにレールが敷かれたことがよく分かる

ちなみに、県道と川はこの日の私にもお友達(笑)。駅間徒歩の間は多くの時間を共有しました

駅前広場の突き当たりでバスの時刻を確認。結局、この日1回だけの利用となるバスです

駅の方向を振り返ってみると、駅に最も近い民家は、かつて駅前旅館だったような雰囲気でした

予期せぬ来客

バスの待ち時間が40分ほどあるため、貴重な駅舎でランチタイムとすることに

国鉄末期の1986年まで有人駅として頑張っていた伊勢竹原。木造で統一された駅舎の中で窓口のみシャッターとなっていることが、それを証明しています

現在の利用者は1日に十数人のようで、私の訪問時は「貸切」。ランチといっても上ノ庄駅近くのコンビニで購入したおにぎりです。ムシャムシャ食べ始めると何か目の前を横切った。というか、一度立ち止まってこちらがのぞかれたような感覚がある

オサルさん!

目があってしまった。比津駅付近で見た鹿については、まぁいるだろうな、という感覚でしたが、サルがいるとの情報は知らなかったのでビックリしてしまいました。しかもちょうどおにぎりを手に立ち上がった状態。「強盗」に遭ったらどうしよう。正直ビビッた。入口の木戸は閉まるのか、などと身構えると

どうやら目的は別にあったようで、ひとつを手にして素早く去っていきました。ホッと一安心

とはいえUターンされるとマズいので、猛烈なスピードでおにぎりを食べ、ゴミごとバッグにしまい込みました。思わぬ珍客でしたが、ずっとここに住んでいる向こうにとっては私の方が予期せぬ来客だったのかもしれません

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~かつてのターミナル駅には述語なしの札

伊勢川口駅の駅名標

2023年3月15日

伊勢大井12時35分→徒歩→伊勢川口13時10分

伊勢大井駅を県道側から見ると、このような感じ。車の窓からはよく見えるに違いない。「違いない」と書いたのは、ここから再び徒歩が待っているからです。お隣の伊勢川口までは線路で2・8キロ。ただし若干の回り道が生じるので、上ノ庄~権現前の2・8キロとは事情が異なります

一度、名松線とクロスして歩かなければなりません。そして今回の各駅訪問で知ったのですが、グーグル地図というのは徒歩コースを選択すると歩道がない幹線道路はできるだけ避けて案内するようになっているようです。こちらの地図もそうなっていますが、当然県道をひたすら進みます

妙な妄想にも取り憑かれ

伊勢川口発13時39分の伊勢奥津行きに乗車予定なので時間には余裕があります。しかし時間に余裕があるというのと、また歩くのか、という疲労感は別問題。計画では駅間徒歩は、これで最後の予定です。そう思うと、最後のひと踏ん張り、と力が60歳の人間にわいて来る…はずがありません

地方あるあるで幹線道路にはビュンビュン車が走っているのに、歩道を歩く人は誰もいない、というおなじみすぎる光景。この孤独感もまた力を失わせる原因かもしれません。すると、いつの間にか背後からやって来たパトカーが徐行で傍らを通り過ぎていく。確かにふだん誰も歩いていないはずの道路をトボトボ歩く見慣れないオッサンはどう見ても不審者。チェックしたのでしょう

「いっそのこと不審者として尋問してくれんかな」と思ったりする。そこで時間をとられると列車には間に合わなくなるわけで「尋問のおかげで全駅訪問が不可能になるので伊勢川口駅まで乗せていってください」なんて流れになると歩かなくていいんだけどなぁ…なんてことを考えているうちにパトカーは遙か遠くに消えていきました。朝の7時前から行動しているのです。そんな妄想まで出てくるほど疲れているようです

アプリによって県道から線路沿いの細い道に誘導されると、そこには運転士向け「伊勢川口」の案内。過去の駅間徒歩でも何度も励まされた「もう少し」の合図です

やがて

ホームが見えてきました

戦時中までは乗り換え駅

伊勢川口は今や各地で見かける「バス停駅」となっています。ただ名松線で、この形式が見られるのは全14駅(松阪をのぞく)で、ここだけ。というのは多くの駅が元々、ホームと待合所のみの構造で駅舎が壊された唯一の駅だからです

数年前までは開業時からの立派な木造駅舎がありました。なぜかというと津の町の中にあった岩田橋という駅から久居駅を通り、当地が終着だった中勢鉄道という路線があって、その乗り換え駅だったから。津市のHPによると、1908年(明治41)に部分開業して1925年(大正15)に伊勢川口まで到達したそうなので、名松線や近鉄より先に敷設されています

その後、会社が近鉄(当時は参宮急行電鉄)の傘下に入ると、近鉄が線路を伸ばし始め、後に開業した名松線とは伊勢川口で、近鉄とは久居で接続されていましたが、軽便鉄道だった中勢鉄道は速度が遅いため、名松線や近鉄に客足がシフトしていき、戦時中の1943年に廃線となりました。立派な伊勢川口の駅舎はそのためのもの

そのため駅の規模も大きく、今も現役の側線が残ります。保線用のもので名松線では唯一の側線となっています

レールが積まれるとともにヤード跡も広さを感じさせるもの

今も残っていた中勢鉄道の駅跡

最初の当駅の写真にあった駅に隣接する新しい建物は保線用のもののようで施錠されています。つまり残るものは駅舎跡の広い土地と保線の線路のみ。かつてはすれ違い可能駅だったことも分かりますが、今は単式ホームとバス停形の待合所のみ

ヤード跡付近には述語のない立ち入り禁止の立て札がありました

現在の駅の利用者は1日20人ほど。私がいる間は「貸切」でした。伊勢奥津行きに乗ることにします

と、ここからは帰宅してからの話ですが

「中勢鉄道伊勢川口駅跡」がしっかり登録されていました。津市の広報誌にも「わずかにプラットホームの痕跡が残る」とある。80年も前の廃線なので、ほとんど気にも、とめていませんでした。写真を見ると、これがホーム跡だと言われて初めて分かるレベルですが、まさか今も残っているとは思ってもいませんでした。ただホームの北側には、かなり遠回りを強いられます。時間の制約もあり、何よりここまでの徒歩による疲労もあって、分かっていても、さらに歩く気力があったかどうかは、今となっては定かではありません

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