2年がかりの呉線全駅訪問~年季の入った駅舎とホーム待合室

安芸幸崎駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

1時間に1本の運行

忠海から1駅三原方面へと戻って安芸幸崎で下車。忠海は竹原市だったが、こちらは三原市。というか三原から2駅目と言った方が分かりやすい

呉線のダイヤパターンを説明すると、昼間は三原~広間は1時間に1本。広から広島方面に向けては1時間に2本の運行となる。この2本はすべて快速で広~呉までが各駅停車で呉から広島に向けては普通が1時間に1本。三原から広島へと向かうと、多くの列車は広で乗り換えとなり、広を境に運行本数が大きく異なる。広島~呉の普通しか停車しない駅は昼間は1時間に1本の停車しかないが、朝のラッシュ時は1時間に3本の運行があるのに対し、広~三原は本数にあまり変化はない。全線が単線電化区間ではあるが、電車での乗降をしていると広から西は広島の通勤通学圏で、東はローカル線感が漂う、そんな印象だ

もっともコロナ禍を期に山陽本線も都心部を少し離れると運行が1時間に1本と半減されているので、本数そのものは変わらなくなっている。逆に言うと、この1時間に1本という数字がさらに減らされると、路線としては危険水域である

また世の中の印象としては呉が呉線の中心にあるようなイメージがあるかもしれないが、三原~海田市の全長87キロで海田市~呉は20キロしかなく、かなり広島側に寄っている。つまり駅訪問は1時間に1本のダイヤをいかにうまく乗りこなすかになっていて、このように後戻りしてまた進むという、これまで記してきた城端線や内房線と同じ作業となっている

全国各地の駅とは異なる

安芸幸崎駅はご覧の通りの木造駅舎が残る。開業は1931年(昭和6)。三原~須波のみ開業していた路線が1区間延伸された。1区間といっても6・7キロもあり、これは現在も呉線の最長駅間。その時に述べるが、広から西と東では駅間の距離が大きく異なるのも呉線の特徴。新駅の開業がほとんどなかったからだ

呉線の各駅を降りると全国各地の海沿いを走る路線と大きく事情が異なっていることに気付く。町ができる課程というのがあって、海沿いの町はほとんどが漁港を含む港を中心に形成されるため、多少の例外はあるものの、駅舎も海側に設けられることが多い。それが自然な形だ

それに対して呉線の開業時からの駅の多くは海や港とは逆側に駅舎がある。忠海駅も港との位置関係を見ると随分不自然だ。瀬戸内海を望む車窓は美しいが、駅舎を出ると見えるのは山だけで、どうやって海側に行けば良いのか困ってしまう

安芸幸崎駅は1956年まで存在した幸崎町に基づく。国名が付いているのは大正期に開業した日豊本線の幸崎駅(大分県)があるからだと思われる(読みは「こうざき」)。幸崎は古代から漁港として知られた町だったが、駅舎を出ると

こちらは駅前の通りをちょっと進んで振り返ったものだが、駅前は住宅街という感じで静かだ。漁港として栄えたイメージが全くわかないが、幸崎の町は駅から徒歩で10分ほど離れた場所にある

線路から遠いのなら、いざ知らず、線路は町の中を通っているのに、なぜ?と思うかもしれないが、駅のすぐ南側には造船所。駅は当時の工場への通勤の便宜を図るため現在地に設けられた。ただし駅舎は山側に。沿線の多くは海を向いてぼんやりできるような場所ではなかったのだろう

早めの訪問を強く推奨

駅は無人化されて久しい

駅舎入口には快速停車駅になった記念碑がある。現在、広から東の区間には定期の快速は走っていない。1980年に廃止されている。当駅が快速停車駅となったのは1978年のことなので、わずか2年しか快速が停まっていなかったことになるが、石碑は40年以上残っていることになる

駅構造は2面2線で駅舎と逆側のホームにある待合所も年季が入っている。プラスチックの番線表示が私の好みである。だが待合所を支える柱の補強具合が、やや痛々しい

駅舎側の縦駅名標

柱を支える金属もさびが目立つ

屋根を支える柱もこのような様子で特に補強工事は行われていないようだ。これは経験に基づく私の個人的な感想だが、この素敵な木造駅舎を早めに訪れることを強く推奨したい

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2年がかりの呉線全駅訪問~「単なる海」というわけではない「ただのうみ」

忠海駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

貴重な「ひかり」で出発

その日の朝は新神戸6時19分発の「ひかり591号」に乗車

そもそも岡山以西を走る「ひかり」は朝と夜にほんのわずかしか見られないが、中でもこの591号は新大阪~博多を走行して新尾道と厚狭の2駅のみ通過し他の15駅に停車。だったら全駅停車のこだまでもいいのではないか、と思えてしまうほど貴重な停車パターンを有する列車である

福山で山陽本線に乗り換え

独特の駅名板が鉄道ファンの心をつかむ糸崎で下車というか乗り換え

これもまた鉄道ファンには周知のことだが、糸崎駅はかつて機関区で栄え、今も留置線と乗務員の休憩所があるため、当駅始終着の列車が数多く設定されている。駅舎や駅近くにいると駅前に唯一の食料調達所とされるコンビニへと向かうJRの職員を多く見ることができる。もちろん私そして同業者もお世話になる鉄分の濃いコンビニである。だが今回は、悠長にしている時間はないので呉線直通の広行きに乗り換え。ちなみに最初に乗ったひかりは三原まで行くが、結局は同じ列車に乗ることになるので福山で乗り換え。なぜなら使用するきっぷは青春18きっぷと同じ機能の秋の乗り放題パスなので、少しでも経費を節約しなければならないのだ

かわいい駅名標がお出迎え

約30分、電車に揺られ

忠海駅で下車

実にかわいい駅名標がお出迎えしてくれる。「忠海」を「ただのうみ」と読む。「ただのうみ」を「忠海」と書くという表現が的確だろうか。

1958年(昭和33)に竹原町と合併して竹原市が誕生したが、それまでは忠海町の代表駅だった。地名については由来がはっきりしていて、平忠盛がこの地の海賊を平定した際、自分の名前から1文字をとって「忠海」と名付けた。平忠盛し平清盛の父であるが、自分の名前を地名にしてしまうとは、もしかすると「おごる平家の-」の萌芽はこのころからあったのか

立派な駅舎がある

こちらは駅名板。駅の開業は1932年(昭和7)。戦前からの駅舎も立派だったようだが、2004年に「ふれあいステーション」と合築の現駅舎となった。「福祉ステーションただのうみ」による簡易委託となっている。駅に隣接してコンビニがあり、実は沿線の各駅では貴重な存在

「ただのうみ」ではない歴史

冒頭のかわいい駅名標はうさぎの島、大久野島への最寄りに基づくもの。島内には千匹のウサギがいて観光客のお目当てとなっている。大久野島へは基本的に忠海の港からの船で向かうため、人の姿は多い。ただし広島市内からのバス便もあるため、必ずしも呉線の利用者とは限らない

駅の裏手から大久野島への船や大三島行きのフェリーが出ている。ちなみにフェリーの行先である盛港は平忠盛の「盛」をとって名付けた地名である

大久野島については、多くを説明する必要がないだろう。戦前は軍による毒ガスの製造工場があり、秘密裏にするため、地図にも記載がなかった島だった。戦後は進駐軍が10年にわたり占拠。除染が行われて観光地化されたが、休暇村はあるが島全体が国有地で定住者はいない。1990年代にヒ素による汚染が確認され、水質や海洋生物などへの影響はないことが調査で分かったが、念のために島内の水は現在、使用禁止となっていて船で運ばれている

1駅目から随分重たい話になってしまったが、ここからのべ2年をかけて呉線の全駅を巡ることになる

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氷見線の各駅訪問~古代より栄えた路線の最重要駅は「ふしぎなふしき」

伏木駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

※動画あり(音声注意)

越中国分までは徒歩移動

氷見線訪問の最後に選んだのは伏木駅。ただ1時間に1本というダイヤが日中も確保されている城端線に比べ、氷見線は昼間に2時間ほど運行のない時間帯がある。私が越中国分に着いたのは15時39分で、その時間帯は避けたつもりだったが、ここで40分待つと次は伏木で1時間待たないと高岡へ戻れない。ということで、その40分を有効に利用すべく伏木までは徒歩移動

といっても、それほど困難なことではない

ほぼ線路に沿った平坦な道路を20分ちょっと歩くといいだけ。最近は携帯アプリのおかげで迷うことなく目的地に行けるようになったが、そのようなものがない時代は道路と線路が近いかどうかで安心感が大いに異なっていた。そもそも何分かかるかは自分で判断するしかない。そんな経験が多すぎたためか、今も徒歩で駅間移動する際は、道路と線路が近いかどうかを判断材料にしてしまう。なお、朝から城端線をウロウロしていた私には、立山連峰が見えるかどうかの結論は出ていたので雨晴駅方面には歩かなかった

ということで、当然ながらほぼアプリ通りの時間で伏木に到着。重厚感漂う駅舎である

古代より越中の中心地

駅舎には「ふしぎなふしき」と書かれているが、とにかく手前の郵便ポストがとても気になる

屋根に乗っかっているのは大伴家持さん。伏木は古代においては越中国の中心地とされ、国府が置かれた。歌人として有名な大伴家持が国司として赴任したのは746年。そのため万葉集には伏木をはじめとする歌が多く詠まれている。そのため付近の施設には「万葉」の文字が多く付けられている。周辺の住所には「国府」「一宮」といった文字が並ぶ。かつては伏木町という自治体だったが、戦時中に高岡市に編入となっている

駅前に義経と弁慶の像もある

詳細な解説があるが、渡し船を待っていた「おたずねもの」の源義経が身分を見破られそうになったところ、弁慶がとっさの判断で主人である義経をボコボコにして難を逃れたという通話に基づく。雨晴海岸と同様に有名な伝説である

伏木をさらに繁栄させたのは江戸時代になってから。日本海の物資運搬として知られる北前船の寄港地となり、重要拠点となった。氷見線の敷設はこの流れからのもの。中越鉄道が砺波平野の農作物を運搬するために現在の城端線そして氷見線を建設した。まずは伏木へつなげることが重要だとして、まずは1898年(明治31)に高岡~城端を全通させると、2年後には高岡~伏木が鉄路でつながった。伏木駅の開業も同時期の1900年(明治33)である。伏木から氷見までの延伸に12年も要したことは、これまでの記事でも書いてきたが、とにかく伏木の港への貨物輸送を行うことが最優先だったのだ

延伸計画もあった

このように栄えてきた現在の駅舎は昭和初期からのもの

駅舎には伏木観光推進センターが入居していて窓口業務を担当。みどりの窓口業務も行う(ただしe5489サービスの受け取りはできない)

島式ホームで側線を持つ

かつては貨物輸送でにぎわった当駅は現在、定期の貨物列車はやって来ないが、今もまだJR貨物の駅である

番線案内は字体や大きなローマ字併記の表記を見ると、かなり古くからのものが残されているようだ

氷見線を建設したのは中越鉄道だが、国鉄となってからは延伸計画があった。能登半島を横断して七尾線の羽咋駅までを結ぶもの。そうなれば、わずか14キロの盲腸線ではなくなっていたはずだが、こちらは計画だけで未成線にもならずに現在に至っている

氷見線とお別れする時が来たようだ。電光の案内標識は越中中川駅と同じものだが、音は随分と異なる。氷見方面がカーブとなっているので徐行するのか、けたたましく音が鳴ってから、列車の姿が見えるまで随分と時間がかかり、姿が見えた瞬間に音が鳴り止むというのも、また越中中川とは違うようだ

どちらかというと、こちらがオリジナルなのだろう。無骨な雰囲気も、また良しである

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氷見線の各駅訪問~路線内で最も若い駅は立山連峰へのワクワクポイント

越中国分駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

唯一の戦後生まれ

越中中川から越中国分にやって来た

ご覧の通り、棒状ホームと待合所のみの駅。城端線で何度も見てきた光景だが、駅舎のない駅は氷見線で当駅のみ。さらに言うと戦後に生まれ駅は越中国分の一駅しかない。他の6駅はいずれも中越鉄道によって設置されているので、国鉄によって設けられた唯一の駅ということになる

1953年(昭和28)の開業。最も若いといっても70歳を超えている。城端線の戦後生まれの駅と同じく、当初から旅客営業のみで貨物の実績はない。もっとも住宅地に囲まれた、このスペースでは貨物の取り扱いは無理というもの。国分は地名だが、近くにあった越中国分寺に基づくとされる

カーブ手前の「溜め」

越中国分駅の位置はちょっと独特である

高岡から内陸部を通ってきた氷見線は伏木を出たあたりで左へと急旋回。海岸と一定の距離を保ちながら、ここ越中国分まで来ると海岸に接近。列車が駅を出発すると、すぐ海岸に突き当たるような形になって、この後、海に沿って雨晴へと向かう。ここは氷見線の絶景ポイントだが、その意味で越中国分は「果たして立山連峰の美しい景色を見られるのかどうか」のワクワク感を停車中の列車で味わえる、いわば「溜め」の地点

ホームの先には海が見える。先端まで行くと、そこは海。線路に沿って道路もあるが、より海に近いのが線路となっている

高校生でにぎわう

こちらは逆向きの景色。立派なキロポストに「9」の文字だけが随分余白を残して書かれているが、高岡からちょうど9キロなのだ

当駅は県立伏木高校の最寄りでもあり、訪問の時間は15時40分。帰宅の生徒さんが集まり始めた

待合所に張られている縦の駅名標。最初はどのような形だったか分からないが、にじんだ文字が何ともいえない味を出している

掲げられている絵画については、ちょっと分からなかった

ホームから出ると、すぐ踏切。「旧」とあるが、おそらく奥の車が通れる踏切が新しいものなのだろう。こちらは車の通行ができないようになっていた

雨晴を手前に、ついつい素通りしがちな駅だが、ホームに降り立つかどうかは別として乗車中の列車から「溜め」と「ワクワク感」「ドキドキ感」を体感してほしい駅である

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氷見線の各駅訪問~路線ぶっちぎりの最多利用者を誇る駅は高校生の手によるもの

越中中川駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

※動画あり音声注意

城端線から氷見線へ

ちょっと古い話ばかりになってしまったが、ようやく近い話となる。時系列が飛び飛びとなってしまっているが、この日は早朝に家を出て

城端線の残る2駅を回収後、高岡経由で氷見線に乗車することにした。とはいえ7駅しかない氷見線なので、残る駅は3つ。目指すのは高岡のお隣の駅で、わずか1・7キロしか離れていない。しかも線路はグルリと回り込むようになっているので、ショートカットするように歩いても大した距離ではない

そして「乗車」と書いたが、駅到達の手段は列車でも徒歩でもなくバスである。徒歩以外では万葉線で近くまで行くという手段もあるが、ちょうど高岡の駅前から近くまで行くバスがあったので、そちらに乗車

待っていたのは随分とカラフルな駅だった

文教地区に設置の駅

カラフルではあるが、立派な木造駅舎である。開業は1916年(大正5)。1900年(明治33)に高岡~伏木が中越鉄道によって敷設されているので、15年以上が経って新たに設置された。当時の駅名は単に「中川」。現駅名になったのは国鉄になった開業の3年後。「中川駅」は私鉄も含めると全国に数あるが、奥羽本線の中川駅が明治生まれ。他のJR(国鉄)の駅は国名が冠せられている

駅の位置については駅前の案内図が分かりやすい

お城(跡)があって市役所、法務局、美術館、文化ホール。複数の高校がある。高岡の文教地区。駅があって当然の場所。中越鉄道の開業時は高岡の次は能町だったが、最初は近すぎると判断されたのか

そんな場所にあるため、利用者は氷見線で断トツ(高岡駅を除く)。2021年の1日あたり乗降者数は2542人。2位の氷見が1258人なのでダブルスコア。駅付近の3つの高校が大きく寄与していると思われる。訪問時は15時ごろだったが、朝のホームは大いににぎわっているのだろう

駅舎は地元高校生によるデザイン

駅舎は開業時からのもののようだが、駅舎のデザインは駅最寄りの高岡工芸高校の生徒さんによるもの

2009年からのものらしい

こちらはホームのイラスト

有人駅で「きっぷを持たずにホームへ出ることはできません。入場券代150円いただきます」と張り紙があるが、近い将来無人化されることが決まっている

デザインに同化するようにクラシックな「出口」案内があった

駅舎に掲げられた駅名板。こちらはJRでなくなっても、そのまま使えそう

利用は多い駅だが、設置時は「停留所」で今も単式ホーム。貨物扱いをしたことはない

15時ということで、そろそろ下校の時間になったようで駅にも高校生が集まり始めた。氷見行きの列車が実に軽快な音とともに入線してきた

入線の音楽とキハ47のきしむ音のアンバランスさがかえっていい。三セク転換後は入線音がどうなるかは分からないが、いつまでも聴いていたい音である

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氷見線の各駅訪問~日本唯一の単独貨物路線を支える分岐駅

能町駅の構内は広い

※訪問は2020年10月17日

ワンイシューの1駅訪問

前回の氷見線乗車から7カ月後

再び高岡駅から氷見線に乗車

たった2駅(といっても氷見線は7駅しかないのだが)。能町駅で下車

小さな島式ホームと広い構内を持つ

最初に断っておくと、今回の氷見線の駅訪問は、この1駅だけ。つまりワンイシューである。理由は後述する

大きな駅舎を持つ。ホームから駅舎へは構内踏切で移動する

「踏切降下はよいか」。なかなか丁寧な案内表示に、ウケてしまった

新湊線は氷見線の支線ではない

駅舎の外に出る。ご覧の通り、立派な駅舎だ

開業は1900年(明治33)。120年以上の歴史を有する。氷見線となる中越鉄道が伏木まで敷設した際に誕生した。当時の所在地は能町村。戦時中の1942年に高岡市に編入となった。伏木までの鉄路ができてから、氷見に至る伏木以遠の鉄路ができるのに12年も要したのは、まずは伏木への敷設が急がれたからである。伏木港は江戸時代からの重要港で城端線沿線の農作物を伏木港へと運ぶ目的があったからだ

ただ、そのうち伏木港が手狭になり、もうひとつ港をということで、小矢部川を挟んだ対岸にできた港への鉄路ができた。それが現在の新湊線。分岐駅となったのが能町で1918年(大正7)のことだった。当初は旅客輸送も行っていたが、戦後になって旅客については現在の万葉線に譲ることになり、貨物専用線に

当初の新湊駅はかなり能町側に寄り、現在の駅名は高岡貨物駅。能町から2キロにも満たない。だがスタート時に新湊線だったので、現在の路線名も新湊線。氷見線の支線ではない。日本で唯一の単独路線名を持つ貨物線となっている

万葉線と徒歩連絡してみよう

さて今回の目的は新湊で寿司を食べ、万葉線の終点である越の潟まで行き、渡船に乗ること。週末は渡船からバスで富山地鉄の岩瀬浜駅まで行くことができる。その道中については、以前いた会社で詳細に記したので、今回は触れないが、氷見線と万葉線を徒歩連絡して乗り継いでみようというのが能町で降りた目的

氷見線と万葉線は、この能町あたりまで競合関係にある。能町から先の伏木まで行ってしまうと、小矢部川に阻まれて距離は近いが行きにくくなってしまう。新湊線はさらに競合関係にあったが、旅客輸送については国鉄側が譲ったのは先述した通り。では、どの駅が近いかで考えた場合、能町となった

能町の駅舎が万葉線と逆側にあるため、ちょっと遠回りにはなるが、それでも万葉線の新能町停留所まで5分ほどで行けてしまう

途中、氷見線の踏切を渡ると間もなく新能町停留所

やって来たのは幸運にもドラえもん列車だった

見直される新湊線の存在

国鉄が旅客輸送を万葉線に譲ったのは貨物輸送で大いににぎわっていたため。周辺には工場も多く、一時は貨物単独路線ながら黒字路線でもあった。能町駅の側線にも多くの車両が並んでいた。ただ、その後はトラック輸送におされ、近年は臨時扱いの列車が1日1本、紙輸送にあたるだけという寂しいというか存続が危惧される状況にもなっていた

能町駅も国鉄末期に無人駅となった。高岡市の中心に近い場所にありながら、駅の利用者数は1日266人(2021年)と氷見線の全7駅(高岡駅除く)中6位。これは昼間も15分に1本の運行と利便性の高い万葉線との競合があるからだと思われる

ただ今年になって新湊線が見直された。1月1日発生した能登半島地震において、救援物資の輸送で臨時列車が走り、大量輸送という鉄道の利点と重要性がクローズアップされた。能町駅も旅客輸送以外で存在を示した形となった

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氷見線の各駅訪問~有名駅に挟まれひっそりも、かつてはレジャーランド

島尾駅の駅名標

※訪問は2020年3月1日

周辺は住宅街

雨晴からひとつ戻って島尾に到着。1面1線という、いわゆる棒状駅だが、かつては2線だった痕跡がある

次の駅は終点の氷見、ひとつ手前は雨晴と有名駅に挟まれた格好で、もちろんべるもんたも停車しない。多くの人が通過してしまうであろう駅だが、こんな駅こそこの目で見たい、訪れたいというのが降り鉄ならではの思考である

周辺は住宅街。駅舎は新しいもので、長らく1912年(明治45)の開業以来の駅舎が使用されてきたが、JR移管後の1990年(平2)に現在のコンクリート駅舎となった。すでに国鉄末期に無人駅となっていた…と書いていくと、有名駅に挟まれた普通の駅、と思ってしまうが、いろいろ調べると、実はちゃんと目的があった駅だったということが分かる

海水浴場を望む

島尾駅の駅舎は海とは逆側にある(それは雨晴も同じ)が、海側に向かうと間もなく海浜公園そして海岸へと出る

この島尾海水浴場が駅が設置された目的のひとつ

氷見線は城端線を敷設した中越鉄道によって建設された。伏木までは1900年(明治33)までに開業したが、そこから先は海岸沿いの工事だったこともあって12年の歳月をかけ、島尾まで到着。その半年後に氷見までの1区間が開業して全線開業となった(1912年の7月30日までが明治45年、以降が大正元年なので、島尾駅の開業は明治、氷見駅の開業は大正となる)。つまり半年間は終着駅だった

中越鉄道は風光明媚な島尾の海岸を海水浴場として開発、集客を図ろうと考えた。雨晴海岸と同じく立山連峰の眺望は素晴らしい。海水浴の季節はもちろん、そうでない時期もこの景色だけで集客が図れると結論付け、駅を設置し、海水浴場や遊園地の経営に乗り出した。レジャー施設と一体化した鉄道経営は、この時期のトレンドだったといえる

その「作戦」は見事に当たり、多くの旅客が島尾駅に降り立つことになった。海浜公園は遊園地の跡で、島尾海水浴場は現在も夏になれば多くの人でにぎわう県内屈指の海水浴場そしてキャンプ場となっている。千葉県の内房線各駅でも触れたが、道路事情も悪く、マイカーなどない時代は海水浴には鉄道で向かうというのが当たり前で、その旅客は収入の柱ともなっていたのだ

今はひっそりと

現在の島尾駅はひっそりしている。訪問時が海水浴やキャンプの季節とは、ほど遠かったこともあるかもしれない。現駅舎の完成時はすでに無人駅だったことは先述したが、事務室は設けられている

かつての栄華を物語るように駅の敷地は広くイベントで当地を訪れた中学生による記念植樹もされていた

駅舎は新しくなったが、屋根の上屋は以前のものが使用されているようだ。こんな歴史に触れながら、駅訪問を行うと「来て良かった」と思うのである。ちなみに現在の駅舎は海にちなんで船を模したものだという

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氷見線の各駅訪問~鉄道ファンならずとも憧れの景色は入場券の売れる貴重なローカル駅

雨晴駅の観光駅名標

※訪問は2020年3月1日

氷見線の代名詞

こちらは昨年9月に城端線のタラコ車内に掲げられていたもの。氷見線の雨晴海岸から立山連峰を望んだ写真であることは説明不要だろう

というとこで、今回の目的はもちろん雨晴駅からの、この景色である。鉄道ファンでなくても有名すぎるこの場面をお目当てに全国から(もはや各国といえるかもしれない)多くの人が集まってくる。そしてベストシーズンといえば、もちろん冬から春そして初夏にかけて。絶景はいわば氷見線の代名詞

ということで、氷見駅に着くと、折り返しの「べるもんた」を雨晴駅でキャッチすべくタクシーで先回りすることにする

自分の予想では2000円ぐらいだろうと思っていたが、3000円以上かかって、ちょっとビックリ。ただ、こういう時はお金ではないのである

とはいえ、往路のべるもんたの車窓からは

なんとなく結果が出ている気がするが、じゃあまた明日というわけにいかない

知名度は最高でも利用者数は最低

そして到着した雨晴駅。美しい光景で知られる割には無骨な感じを受ける駅舎だ。本来は古い木造駅舎だが、老朽化した外壁に手が加えられてこのような形となった。全景ではなく、この角度の写真しかないのは車が停まりすぎていたためである。ご覧のように駅前は手狭なので、400メートル離れた道の駅に車を置くことが勧められている

それにしても「雨晴」という駅名は実に素晴らしい。開業は1912年(明治45年)4月。すでに1900年に伏木まで中越鉄道が開通していたが、12年経って伏木~島尾が開業。途中駅となった。終点の氷見まで最後の1区間が開通したのは同じ1912年の9月である(7月30日から大正元年)

当初からの駅名だが、雨晴という地名はない。これは訪れた初めて知ったことだが、駅周辺の地域名は「太田」で駅の住所は氷見市でもなく「高岡市渋谷」。当然だが人が多数行き交うスクランブル交差点があるはずはなく、それどころか駅の乗降者は氷見線全7駅(高岡駅除く)で最小。2021年のデータでは1日の乗降者数は128人。6位能町が266人なので、この時点でダブルスコアである

それでも地元に委託された簡易委託駅でホームへの立ち入りは乗車券または入場券が必要となる(私は当時発売されていた、おとなびパスというフリーきっぷを持っていた)。事実、駅舎内には多くの人がいて入場券というのが当駅らしいポイントだ

ホームは2面2線。構内踏切で行き来する

駅の裏手はすぐ雨晴海岸。雨晴の由来は義経と弁慶に基づくもので、海岸で大雨に見舞われた義経を守るべく、弁慶が大きな石を持ち上げ、雨がやむまで、その石を傘代わりにして持ち続けたという伝説に基づくという。駅名を地名ではなく海岸名にしたあたり、当時駅名を考えた人のセンスを感じる

べるもんた到着

べるもんたがやってきた

列車が目指す先には立山連峰の美しい姿…といきたかったが、ホームに出た時、すでに答えは出ていた

こればかりはしょうがない。2015年にもチャレンジしたが見事に失敗していて、これで2打数ノーヒットだが、雨晴海岸からくっきり立山連峰が見られるのは年間で50~60日しかなく、青い空と白い山々となると、さらに確率は下がるという

この後、島尾駅にも立ち寄るつもりなので氷見行きのタラコに乗る。この写真だけでも背後の景色が異なれば、赤と白のコントラストで全く違ったものになっていたのだろう

さて、そんな雨晴駅だが、近い将来、簡易委託が解消されて無人駅になる。三セク移管後の展望は不明ではあるが、ローカル線の小駅ながら入場券が売れるという貴重な存在である。駅舎内の観光案内所が残るのであれば、せめて入場料ぐらいは徴収してもいいのではないかと感じてならない

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氷見線の各駅訪問~「べるもんた」で到着の終点駅には2つの地名表記

氷見駅の駅名標

※訪問は2020年3月1日

微妙な時期に乗車

話は4年前にさかのぼる

高岡駅から観光列車「べるもんた」に乗車。氷見へと向かった

美しい調度品と美味しい食事がべるもんたのアピールポイント。車窓には美しい海。正式名称は「ベル・モンターニュ・エ・メール」でフランス語で「美しい山と海」の意味だそうだが、これでは外国のお客さんにはアピールできても、日本人客にはアピールしづらい。ということで「べるもんた」の愛称の知名度が高い。週末を中心に高岡~氷見間を1日2往復する(始終着駅については新高岡、砺波、城端があって列車ごとに異なる)

キハ40を改良。扇風機にも列車名がしっかり刻まれているなど、なかなか凝っている

だが乗車時は大変微妙な時期だった。2020年の3月1日といえば、コロナ禍に覆われ始めたころ。ただきっぷを購入したのは、それよりかなり前で、なおかつ、その後社会生活において、あれほど制限を受けるようになるとは想像すらできなかった

飲食類の提供はまだ普通に行われていて、手指消毒というものもなかった

街の中心部までが遠い終着駅

高岡~氷見は16キロと城端線の半分程度。線内には区間運転はなく、普通でも30分で着いてしまう。べるもんたは停車駅は少ないが、景色の良い場所で徐行するので、やはり30分

氷見駅はもちろん氷見市の代表駅で氷見の観光拠点でもある。駅にはみどりの窓口もあり(やがて無人化されることは決まっている)、観光案内所も入居しているが、初めて駅に降り立った人は、街の中心部までの距離にちょっと面食らうはず

観光ポイントの目印ともなる忍者ハットリくんのからくり時計まで、徒歩で10分以上かかる。からくり時計のある湊川を渡ると商店街がある町の中心部で、さらに駅から遠のく

JR(国鉄)の駅と街の中心部が離れているのは、よくあることとはいえ、ローカル線の終着駅となれば、もう少し駅から近いものだが、駅ができた時期と町の歴史の古さにも理由がある

氷見駅の開業は1912年(大正元年)。氷見線の敷設は城端線と同じく中越鉄道が担ったが、1900年(明治33)に高岡~伏木が開業して以来、徐々に延伸。さて、いよいよ氷見まで到達しようとなった際、当初は港の予定地でもある湊川の河口付近に駅を設けることとなったが、町の真ん中を線路が走ることに難色を示す住民が多く、土地の買収に難渋。結果として現在の駅に落ち着いたという

実は2015年の10月、富山から氷見を目指していた私は、もちろん高岡経由の氷見線に乗車する予定だったが、富山の駅前で全く偶然見かけたのが

氷見の番屋街まで直通で行けるバス。道の駅でもある、ひみ番野街は、氷見駅からだと中心部を抜けてさらに北上しなければならないので駅から20分はかかる。これはラッキーと飛び乗り、そこから先は七尾行きの直通バスがあることを知り、氷見の町を散策することなく離れてしまったのだ

氷見と比美、2つの表記

氷見の地名の由来は、氷見市のホームページによると「海の向こうに立山連峰の万年雪が見えるので氷見」「海の漁り火が見えるので火見」「海が干しあがった場所なので干海」と、地名の由来には諸説あるという

そしてもうひとつ、市内には「比美」がある。あるというか町の中心で、先述した商店街は「比美町商店街」。奈良時代の万葉集に「比美乃江」という言葉が出ていて、現在も公園や橋の名前にもなっている。これは混在しているというより、使い分けができているようで、コンビニにも「氷見比美町店」が見られる

というような氷見駅周辺の散策もしたいところだったが、折り返しのべるもんたを途中で捕まえる、という作戦があったため、駅からタクシーに乗り込むこととなった

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城端線の全駅訪問を思いつく~最後の駅も昭和26年組で全駅乗降完了

東野尻駅の駅名標

※訪問は2023年10月18日

「おなじみ」のスタイル

東野尻駅に到着。これで城端線のすべての駅を訪問したことになる。「すべて」といっても、高岡を含めわずか14駅しかないし、確実に1時間に1本の列車がやって来る路線なので、難易度は高くはない。駅間も短いところが多く、一部に徒歩を加えれば、あっという間に終わってしまうだろう。もっとも今回は初手が、猛暑の残る9月上旬だったので、とてもじゃないが歩く気はしなかったけど

さて、こちら東野尻駅は単式ホームに待合室のみ、という、ある意味城端線では、おなじみのスタイル。9月に最初に降り立ったの東石黒も同様だった。ちなみに同じ形式の両駅そして越中山田駅は、いずれも1951年(昭和26)の8月10日に開業した同じ誕生日の駅。路線そのものの開業や延伸ではなく、すでにあったわずか30キロの路線の途中駅が3駅も同時に開業するのは、戦後では、なかなかレアである

かつての東野尻村に基づく

待合室は昭和26年組や1956年に開業した林駅で一斉に更新されたもの。周辺には小さな集落と農地が広がる

ただし少し歩くとコンビニや大きなスーパーが国道沿いに並ぶ地域でもある。駅名は1954年まであった東野尻村から。東野尻村があったのだから、野尻村や西野尻村もあったが、今はすべてなくなっている。東野尻村は砺波町に編入されて現在は砺波市

野尻という地名は当時の庄川は今の流れとは異なり、小矢部川と合流していたことによるとされる(2つの川によって造られたのが砺波平野)。重要地域で野尻氏が野尻城を築き、支配していた。もっとも、それは「野尻村」の話で、現在の地域的には福野町に入る。最寄り駅で言うと高儀駅や福野駅。東野尻村は、その名の通り、やや東側に位置した

存続危機を乗り越え三セク移管

ホームと待合所のみの構造だが、1日の利用者は約300人と一定の数がある。砺波工業高校は、砺波駅より当駅の方がやや近く、その利用もあるようだ。ホームには地元の方々の手による花壇があり、彩りを添えている

そんな城端線だが、北陸新幹線の延伸時にはピンチがあった。前記事で新幹線がやって来た代わりに貨物輸送がなくなった記事を書いたが、路線そのものの危機がそれ以前にあった

北陸本線が三セク移管することで氷見線と城端線は高岡で接続する両路線以外は他の在来線と接続しない路線となってしまうことで、一時はJR西日本が城端線のバス転換もしくは運行本数の削減を表明。見方によっては「脅し」のような案だったが、これは地元の猛烈な反対により撤回。路線も運行本数もそのままで運行は維持されているが、このころから鉄路維持の動きが始まり、地元では氷見線との直通運転や電化が検討されてきた。地図を見れば2つの路線はつながっているが、旧北陸本線である、あいの風とやま鉄道のホームを挟んで城端線と氷見線のホームがあるという高岡駅の構造もあって、すぐには直通運転は難しい状況にある。観光列車の「べるもんた」は直通運転を行うが、高岡駅ではロング停車となっている

城端線の各駅で、1日の利用者数が1ケタという駅はない。コロナ禍の2021年のデータでも最小は東石黒駅の48人。2ケタは3駅のみと、非電化ローカル線としては優秀な方である。5年をメドとしている三セク移管までに新型車両の導入も順次行われる

高岡から15・5キロ。次回の訪問はいつになるか分からないが、変わりゆく景色をあれこれ想像しながら、素敵なキロポストを目に焼き付けて城端線を後にした

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