JR東日本

師走の外房線各駅訪問~内房線を通じて初めて同業者と出会った

行川アイランド駅は通過列車も60キロ制限

※訪問は2023年12月14日

今も残る「特急」停車

今の状況からは信じられないことだが、行川アイランドはかつて全列車停車駅だった

周辺に民家はほぼなく、あるのは行川アイランドという施設のみの単式ホーム構造。すべての列車が停まっていたという事実が凄い。ダイヤから急行が消え、特急のみとなった後も一部の特急が停車していた。特急の停車位置番号も残っている…と思ってしまうが、事情はやや異なる

ホームの端まで来るとカーブ状のホームを見渡すための乗務員用モニターがある。このようなものは無用の上物かと思ってしまうが時刻表を見ると現役だということが分かる

安房鴨川方面の夜の部分だが、20時50分と22時44分発の列車には「特急車両で運転」の文字がある。これはいわゆる間合い運行というもので、東京からの「わかしお」のこの時間の2列車は勝浦まで特急として走った後、車両はそのままで普通列車へと姿を変える。特急車両ではあるが、もちろん「タダ」である。時刻表には車両編成も記されていて22時44分発については10両編成。かつてはすべての列車が停車していたため、カーブ状の単式ホームにもかかわらず11両に対応する長いホームを有する当駅が存在意義を示す機会が残っていた

ただし今春のダイヤ改正で、この時刻表には大きく手が加えられた。20時50分のわかしお17号はダイヤこそ20時47分と、ほぼそのままだが15号に変更。22時44分のわかしお21号は19号に変更された上、勝浦止まりとなり、行川アイランドまでは来なくなった。代わりに千葉からの勝浦止まりの普通が安房鴨川行きとなって勝浦で乗り継げば、ほぼ同じ時間に行川アイランドまで来られるようになった(といっても、その時間に下車する客がどれぐらいいるかは不明だが)

春から全車指定となったわかしおは、すべて5両編成で運行されることが発表されている。では長い編成の特急車両は、もう来ないのかとなると、話はちょっとややこしく、時刻表を見ると唯一、間合い運転となる15号については「6月28日まではグリーン車併結」となっている。これは9両編成車両。どうやらダイヤ改正後も自由席があると思い込む人が多く乗ってきて座席があふれてはいけないので周知期間を設けているものらしい。つまりあと3週間ほどは10両ではないものの、9両の運用が見られる。しかも期間限定ながら、グリーン車も「タダ」である

現在の利用者は?

そろそろ列車が来るころである。待合所は吹きさらしだが、この日は穏やかな晴れで師走でも問題のない気候だった

JR東日本では駅別の利用者数を乗車人員という形で発表していて、単純計算だと乗降者はその2倍ということになるのだが、実はこの表に行川アイランドという駅名は登場しない。最小が飯山線の平滝駅で4人。つまりそれ以下の測定不能レベルの利用者ということになる。駅から1キロの所に浜行川の街があり徒歩で10分ちょっと。それほど遠い場所ではないが、鉄道利用とはなっていないようだ

ちなみに「行川」(なめがわ)は、私にはなかなかの難読だが、千葉県や茨城県には「行」を「なめ」と読む地名がいくつかあって、それぞれの町に近い人にはなじみのある読みらしい。元々の地名は「滑川」で地形に基づいたものとされる

こうして料金表を見ると100キロ圏が西船橋のようだ。千葉まで80キロなので東京まではかなり遠い。ディズニーランドの浦安で客足を止められると、園としてはなかなか辛いものがある。園の跡地の今後については前日出会ったご婦人が「温泉ができるって聞いたけど、話が前々進まないね」と話していたが、一応レジャーホテルができる予定にはなっているようだ。ただし予定は未定の世界である

ふと気付くとホームで盛んに写真を撮っている方の姿が。明らかに同業者(鉄道ファン)である。下車したのは私一人と認識していたが、もう1本前の列車で来たのか、どこかから徒歩で到達したのだろうか。外房線の2日間で初めて出会った同業者。こういう「有名駅」では、なかなか貸切というのは難しいのだが、ちょっとうれしい気分にもなって、やって来た電車に乗り込んだ

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師走の外房線各駅訪問~交差点に名前だけでなくイラストも残す

行川アイランド駅の縦駅名標

※訪問は2023年12月14日

周辺は痕跡がごっそり

行川アイランド駅周辺の散策に入る。入るとは言っても周辺に民家は全くなく園の痕跡が残るのみ。ちょうどこのあたりは上総の国と安房の国の境界にある山中で、元々集落のない場所だった。集落がないので巨大な園を造ることが可能だったと言える

駅を降りると園に向かう道路。現役感のあるようなないような。南国らしい木はちょっと元気がないように見えるが、ちゃんと生きている。道路も雑草で埋め尽くされるところをギリギリ整備している印象だ

トンガリ屋根の、いかにも観光地ですのムードを醸し出している電話BOX。年間でどのぐらいの利用者がいるか不明だが、公衆電話というのはほとんど利用者がなくても天災などの緊急用に駅前など一定の設置が定められている。きれいに刈り取られた正面と乱雑に枯れ草が積み上げられた右側が対照的。そういえば利用者が限りなくゼロに近いような駅でも公衆電話は設置されているが、対自然の管理はどこが主体なのだろう

ちょっと陰の関係で見にくいが勝浦の地図もある。ただし行川アイランドは、現役の園のまま表示されている。左のフラミンゴのイラストとセットのまま

園とは道路をまたいで跨線橋でもつながっているが、下まで降りてみる。外房線の高架のふもとに大きな交差点があるが、ここは国道128号の分岐となっていて左に行くとバイパス、右は従来の国道。従来の国道を1キロほど行くと行川の集落と港に出る

分岐の交差点名が「行川アイランド前」だったので近づいてみると名前だけでなく、しっかりとフラメンゴのイラスト入り。細やかさがうかがえるが、閉園からすでに20年以上が経過。信号は新しいものに更新されているようだが、この案内板も20年も経っていないようにも見える。詳細は分からないが、交差点では園もフラメンゴも現役だ。考えてみると、ここはバイパスと旧道の分岐という重要な交差点で名称を変更するとカーナビに重大な影響を及ぼす。簡単に変えるわけにはいかないのかもしれない

子どもの時に見ていた特撮の舞台

さて、この交差点の右側にあるのが行川アイランドの痕跡だ

駅から最短で行ける跨線橋から見るとこのようになっている。手前は駐車場で建物は、その管理棟だったのだろうか。自然との共生をテーマにした行川アイランドはフラミンゴのほかに多くの鳥や動物を飼育、展示していたが、同時にテレビドラマのロケ地にもなっていた。最も多いのが子ども向けの、いわゆる特撮もので、特に「行川アイランド」「仮面ライダー」で検索すると多くのヒットがある。私がリアルタイムで見ていたものが、こちらで撮られていたのかと思うと感慨深いがある

跨線橋で駅へと戻る

おせんころがしとは

駅に残る名所案内を眺める

園は閉園になっているので残っているのが不思議だが、もうひとつの「おせんころがし」が理由かもしれない

上総と安房の国境は古代より断崖絶壁で船以外で通過するには危険な道を行かなければならない交通の難所だった。道の名前がおせんころがし

勝浦市のHPによると、古代に当地を治めていた非道な豪族が住民を苦しめ、娘のおせんが父親に改心を懇願するも受け入れられず、断崖から身を投げた伝説が道の名前になったという

何とも悲しい話だが、今も供養塔が残っている

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師走の外房線各駅訪問~「勝浦ネットワーク」でつながる外房観光の中心駅

勝浦駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

朝は茂原駅から

朝の茂原駅。外房線沿線で各駅訪問の拠点としてビジネスホテルも飲食店もそろっている駅となると必然的に茂原となる

朝食はロッテリア。実は昨日もレンタルのモバイルバッテリーをコンビニで借りた際、列車待ちをここで行ったので2日連続での登板である。旅に出ると、よくロッテリアのお世話になる。旭川、呉もそうだった。能勢電鉄で「妙見の森ケーブル」と「山下発山下行き」の体験を行った際は日生中央駅のロッテリアに短期間で2度も朝から訪れた。現在の平素の生活圏にロッテリアがないので、ちょっと不思議である

今日は外房線の主に南側を見てから北上し、千葉近辺の都会の駅にも行くつもり

最初に降り立ったのは

勝浦である

長年運行の拠点として栄える

外房線の各駅ではかなり知名度上位の駅だろう。外房観光の拠点でもあり管理駅。外房線の単独駅で管理駅は茂原と勝浦の2駅しかない。2022年の1日あたりの乗車人員は765人。うち定期利用は364人と定期外利用の方が多い。乗降1500人ということを考えると、新幹線駅でもない限り定期利用が圧倒的に多くなるはずだが、定期外の方が多いというのは、当駅の事情をよく現わしている

これまでも触れてきたように外房線の基礎は房総鉄道という私鉄による。千葉からの線路が大原まで延伸されたのは1899年(明治32)のこと。1907年に国鉄となり、しばらく経ってから工事に着手。1913年(大正2)に勝浦までが開業した。大原延伸から14年が経過していた。安房鴨川まで到達して全通となるのは1929年(昭和3)と実に16年後。地域の中心地としてまずは勝浦への延伸が優先された

そのような経緯から、かつては車両基地が置かれていた。今でこそ東京からの直通快速は上総一ノ宮までだが、25年前までは当駅まで乗り入れていた

駅前には長らく鉄道基地だった当駅を懐かしむようにSLの動輪が置かれている

その隣には

複線記念の石碑も

外房線の上総一ノ宮以南の複線については

この時記した通りである。当駅付近だと勝浦~御宿の1区間のみのわずか5・5キロが複線化されているが、1995年に同区間の複線化が行われて以降、具体的な動きはない

ひな人形がお出迎え

話は少し前後するが、改札を出て迎えてくれたのが

豪華なひな人形。これは「勝浦」という地名に基づくもの

千葉の勝浦も有名だが、和歌山の那智勝浦も知名度が高い。そして徳島県にも勝浦町がある。地名の一致は決して偶然ではなく、朝廷の儀式を司っていた斎部(忌部)氏が阿波の国に移住した後、黒潮に乗って千葉県まで進出したという説がある。和歌山の勝浦も斎部氏と関係が深いという。現在の千葉県に読みが同じ安房の国があったのも必然だった。現在、この3つの自治体は「全国勝浦ネットワーク」を結んでいて、3つの市町ではそれぞれ、ひなまつりイベントが行われている

ちなみに単なる「勝浦」は当駅。和歌山の駅は「紀伊勝浦」で徳島県の勝浦町には駅はない

だが、そんな華やかなひな人形を横目に改札付近を見ると

このような張り紙があった。訪問は12月14日だったので、この日を入れてわずか3日で、みどりの窓口は役割を終える。まさにギリギリだった

全く予想していなかった事態で、みどりの窓口と最後の対面になってしまった。今はもうないはずだ。管理駅としての機能は残るので無人駅になるわけではないが、定期利用の方が少ない観光客の多い駅でみどりの窓口なしはどうなんだろうと、ちょっと思ってしまった

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる2~まるで乗り換え分岐駅のような広い構内

立石駅のホーム

※訪問は2024年4月24日

開業は明治期

あらためて立石駅の紹介を。日豊本線は1895年(明治28)に小倉から大分方面を目指し徐々に開業が始まり、1910年(明治43)に宇佐から立石峠を越えて中山香まで到達。その際に立石駅も誕生した。立石駅が誕生したのは、峠越えの拠点としての駅が必要だったからでもある。立石から中山香まで約5キロ。一方の宇佐までは10キロ以上も離れていた(西屋敷駅はまだない)ため、当時の立石町に当然のように駅ができた

全国の峠越えの駅で見られたように、立石は開業以来、SLの補機を付けたり外したりする重要駅だった。立石峠の逆側にある宇佐駅も広い構内を持つが、同じ理由である。ただ複線電化の時代が訪れると事情は変わってくる。戦後に入って日豊本線に訪れたのは、まず複線化で次が電化。複線化の工事も各地で少しずつ行われ、1966年(昭和41)の7月に宇佐~西屋敷が、9月に西屋敷~立石がそれぞれ複線化。翌年には電化された。現在のいかにも国鉄といったコンクリート駅舎は1965年にできたものだが、真新しい駅舎の完成直後から峠越えの拠点としての機能は失われつつあった

線形の異なる複線

跨線橋からの眺め。2方向に向かって伸びる線路はまるで分岐駅のようだが、目指す場所は同じである。右側が宇佐方面からやって来て大分を目指す下り線で左側は小倉を目指す上り線

立石から西屋敷つまり宇佐へ向かうルート。あえて国道10号での車利用としたのは、国道がぴったり上り線に寄り添っているため。その上に真っ直ぐ敷かれているのが下り線の線路だ。真っ直ぐというか、この区間はほとんどがトンネルである。上り線は開業時のルートでトンネルも約300メートルのものがあるだけ。しかし明治の技術なので何とかトンネル作りを避けるべく川沿いにクネクネと敷設したのに対し、新たに設けられた下り線は3キロ以上ものトンネルを主に走るため、車窓も全く異なる

いずれにせよ複線電化によって峠の拠点としての立石駅は役割を減らしていく。上の写真だと2面4線の構造だが、現在は対面ホームの2面2線

かつては駅舎側から上りホームへ行く際も跨線橋を必要としたが、現在は線路があった部分が埋められバリアフリー化している

駅舎から上りホームへの跨線橋は奥の電柱とともに骨組みだけが残されている

こちらは跨線橋から大分方面を見たもの。左端の線路はすでに現役ではない。線路はこの先、隣駅の中山香まで単線となっている。小倉~大分は原則的に複線だが、当駅~中山香と、その先の杵築~日出の計3区間のみが単線である

駅舎内には地元の手による絵画

駅の周辺は旧立石町の中心地で小さな商店街となっている。まだ朝の8時半で人通りは少ない。駅の1日の利用者は100人を切っている

駅前のロータリー部分も広い。所々遺構が残る

駅舎内には地元の皆さんによる絵画が飾られている。これはかつてのきっぷ売り場と荷物受付の窓口

待合室も同様。とにかく駅前も含め充実した施設だったことは分かる

改札部分には食券式の券売機とICリーダー

ホーム上の木はいずれも伐採されて切り株のみが残る

長大ホームは使用されることのない部分が多くなっている

猛スピードで駆け抜けていった特急を見送り、その後の普通で今度はひとつ隣の西屋敷へと向かう

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師走の外房線各駅訪問~ドデカホーロー駅名標を見に行きましょう

新茂原駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

冬至前の日の入りは早く

八積から茂原をやり過ごし新茂原に到着。お隣は本納で外房線の各駅訪問を始めた駅。本納で降りたのが8時20分で現時刻が16時20分なので、途中モバイルバッテリーの不調によりロスタイムはあったものの、8時間をかけて元の場所に戻ってきたことになる。冬至寸前なので、この時間帯で暗がりが始まっている。冬の東北や北海道にはあまり縁がない日常を送っているが、東京は住んでいたこともあるし、出張で来る機会も多かった。この季節になると関西と関東の日の入り時刻の違いをいつも感じていた

そんなこともあって本日最後の訪問駅。後は宿泊地の茂原へ行くだけ。外房線の各駅紹介をしていく中で上総一ノ宮を運行の重要拠点駅として何度も紹介してきたが、人口や産業を見ると重要駅は茂原である。昼間に上総一ノ宮以南から北上していくと上総一ノ宮を境に1時間に1本の列車が1時間に2本となり、そこに茂原折り返しの電車が加わって1時間に3本となる。基本形は普通が2本と京葉線直通の快速が1本(蘇我まで各駅停車)。もうひとつ総武本線から東京駅へと向かう快速があり、こちらは上総一ノ宮を出ると大網までは茂原のみの停車となるが、昼下がりは運行されていない

とにかく新茂原には1時間に3本の電車が停車するので訪問は容易である

工場線の歴史も

島式ホームの1面2線駅。茂原市は天然ガスの採取地、生産地としては世界屈指であり、戦前は軍事的にも重要な都市となっていた。ただ当駅は戦後の開業。1955年(昭和30)のことだった。戦後といっても当駅付近はまだSLが走っていて単線非電化の時代。駅は高まりつつある需要に応えたものだったが、やがては茂原に集約されていた天然ガス関連の貨物輸送が手一杯となり、茂原は旅客専用となり当駅が分岐となった

分岐というより線路の付け替えで、茂原駅から三井化学の工場へと向かっていた線路を新茂原駅の北側から分岐する形とした。地図では廃線跡は分からないが、工場の西側を流れる阿久川沿いに線路が走り、新茂原駅の北側で外房線と合流していた。だから新茂原駅そのものには工場線の名残はない。ちなみに三井化学の工場は戦時中は茂原海軍飛行場があった場所で、元々の茂原駅からの貨物線は飛行場へ向けた線路だった

首都圏防衛のための飛行場は突貫工事で建設され、戦時中の1942年からわずか3年間利用されただけだった。工場への新茂原からの専用線も1981年から利用が開始され、JR移管後も貨物輸送が行われたが、1996年(平成8)に廃止。こちらも15年だけの利用だった

駅舎に残る旧駅名標

駅舎は開業時からのもの

1日に2000人以上が利用する駅で有人の営業時間は16時30分まで。閉店ギリギリの訪問だった

そして当駅で価値あるものは

現在も駅舎に掲げられているホーローの駅名標。古い駅名標の保存はどのような基準があるのか私には分からないが、ホーローの駅名板はたまに見かけるものの、これだけ大きいホーロー駅名標は、なかなか出会えない。これを見るだけで十分に価値があると思う。なお以前のローマ字表記は「shin」で現在は「shim」である

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師走の外房線各駅訪問~千葉県唯一の村は複線電化区間の道中

八積駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

東京まで乗り換え、追加料金なしで80分

日が傾いてきたので今日の宿泊地である茂原へと向かうが、ここで茂原近辺の駅訪問も行うべく八積駅で下車。車両を見て分かる通り、京葉線の電車。このまま乗ると東京駅まで乗り換えなしで連れていってくれる。時間帯にもよるが80~90分ほど。運行の要となる上総一ノ宮の一つ千葉寄りなので本数も多い。総武本線の快速は通過だが、京葉線の快速は停車するため昼間も1時間に2本の電車が発着する

なぜ東京までの直通や本数にこだわるかというと、当駅は長生(ちょうせい)村という村にある駅だからだ。長生村は千葉県唯一の村。駅の開業は1898年(明治31)年と古い。その1年前に上総一ノ宮(当時は一ノ宮)まで開通しているので、茂原と上総一ノ宮の間に新設されたことになる。ここまでいくつかの駅で紹介しているように、当時は外房線の沿線は村がいくつもあったが、現在は長生村だけとなった

開業時の駅名は岩沼。これは現在も住居表示として残る駅付近のいわゆる大字で、1915年(大正4)に現駅名となった。八積は当時存在した村の名前で8つの村が合併した成立したことに基づく(8つの村といっても町村制施行の時なので1つの村は小さい)。戦後に他の2つの村と合併して長生郡長生村となり現在に至る

立派な合築駅舎

長生村コミュニティセンターとの合築駅舎を持つが、駅の業務は同センターに委託しているわけではなくJR東日本の系列会社への業務委託で、つまりJR東日本独自である

改札口は小さいが、夕方までは有人

私の訪問時はちょうどその境目で駅に到着して外の写真などを撮っていると

先ほどまで営業していた券売機にはシャッターが降りていた。券売機も営業時間があるのはJR西日本では、あまり見ることのない光景だが、破損されると、いろいろな意味で高くつきそうなJR東日本の券売機に対し、簡易型の食券タイプの券売機を置くことで有人駅の業務を軽減しようという考えの違いだろう

コミュニティセンターのロビーが待合室を兼ねる形となっているようだ。当然ながらエアコン完備で心地よい空間である

長生郡では最大の人口

コミュニティセンターには2023年で、村が70周年を迎えた記念のイラストが張られていた

ただ県内唯一の村とはいっても人口は1万3000人を超えていて、これはお隣の一宮町より多い。それどころか長生郡にある5町1村の中で最も多い。一宮町以外の町には鉄道が通っておらず、千葉方面への通勤通学という意味では鉄道の役割は大きい。2022年の1日の利用者は乗車604人。つまり1200人の利用があるということになる

複線電化上にあることで高速での通過が可能なようである。ホームにいると猛烈なスピードでわかしおが過ぎ去っていった

福島県の西郷村には新白河駅という東北新幹線と東北本線の駅がある(ただしホームの一部は白河市にある)が、村に複線電化の駅があって30分に1本電車がやって来る例は、そう多くない。東京から手軽に行ける貴重な存在である

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師走の外房線各駅訪問~開業時からの木造駅舎と不動のフラミンゴ

上総興津駅の駅名標

※訪問は2013年12月13日

元々は「上総国」南端の駅

太東駅から一気に8駅も南下して上総興津に到着。房総半島で目立つイメージがある「上総シリーズ」だが、外房線では上総一ノ宮と当駅の2駅しかない。そして外房線における上総の国と安房の国の「国境」という位置付けで、この後は「安房シリーズ」となるというか、なっていたのだが行川アイランド駅の誕生で微妙に事情が異なるようになったが、それについては行川アイランド紹介の際に記したい

駅舎は屋根のひさしの部分など、房総半島でよく見かける木造駅舎だが、水色塗装は内房線では駅に着く度に出会っていたが、外房線では初めて。結果的には、これが最初で最後となったが、なにゆえ当駅のみ水色になったのかは不明

旅から戻って気付いたのだが、閉鎖されていたような改札内の精算所の上に財産票があった。大正15年4月と記されている

ただし駅の開業は1927年(昭和2年)4月。昭和元年は1週間ほどしかなかったので、駅舎が竣工してから1年間、レールの到着を待ち続けていたことになる

何度も書いてきたが、外房線は房総鉄道という私鉄によって敷設が始まり、同社によって大原までが開業したのが1899年(明治32)。以降、国鉄への移管が行われ、さらに南下する工事が開始されたが、勝浦到達が10年以上が経った1913年。勝浦~上総興津が1927年で、こちらも10年以上の歳月が流れている

こちらは駅前にあった勝浦町の地図だが、これまで伝えてきた九十九里浜に近い地形とは異なり、細かい湾が連なる地形となっている。狭い場所に線路を通すのは、かなりの難工事だったのだろう

かつては興津町の駅

駅名は1955年まであった興津町に基づく。その後の合併で勝浦町となり現在は勝浦市。興津については「興」は「沖」を意味し、「津」は「港」の意味になるという。鉄路の建設は大変だったが、その分、天然の良港そして上総の国の南端として戦略的にも重要視され、戦後時代には攻防戦があった。また江戸時代には東北の各国からの船が江戸湾に入る際の寄港地として栄えた。また明治以降は遠浅で透明度が高い上、年に何回か干潮時に島とつながる景色が見られる守谷海水浴場に人が押し寄せるようになった

守谷海水浴場は現在も人気の海水浴場だが、駅からの距離がもっと近い興津海水浴場もあり、先の写真で精算所の窓口が2つもあるのは十分うなずける。ふだん通勤通学で使用している定期券を提示して精算を行う姿が目に浮かぶ

有人駅で営業時間は、これまでの外房線の駅で紹介したのと同じ9時20分から16時30分で、途中に休憩がある。朝夕に一部の特急わかしおが停車する

ホームは2面3線構造だが、端のホームは長期間使用されていないようで、そもそもホームらしい舗装も見えない

朝のモバイルバッテリーのトラブルのおかげで昼食は強制カットとなった。徒歩数分の町の中心部と思われる場所まで歩くと、地方都市でおなじみのヤマザキショップがあったため、パンとボトルコーヒーで飢えを凌ぐ

駅前の池を改めて眺めた

冬場で生い茂るものはなく、夏場の手入れについては分からない。石碑はそれなりに古いもののように感じたが、傍らにはフラミンゴの姿。姿といっても置物。実を言うと、どうしてここにフラミンゴの置物がわざわざあるのか全く理解できなかった。「フラミンゴの謎」が解明するのは、この後、電車に乗ってからである

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師走の外房線各駅訪問~岬町のもうひとつの駅は「いかにも」の木造駅舎

太東駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

町名は有名すぎる岬から

冬の柔らかな日差しとともに長者町のお隣の太東に到着。各地を訪れる度に酷い雨に遭って、列車が止まったり、時には帰宅できずにもう1泊を強いられてしまうようなことも多い私だが、なぜか千葉県では好天に恵まれる。四季を通じて数え切れないほど千葉県の各地を訪れているが、仕事も含め、千葉の雨で記憶にあるのは、この1年前の2022年12月に行った内房線訪問の2日目ぐらいだ

その太東駅は旧太東町の駅で駅名もそれに基づくが、駅が開業した1899年(明治32)は太東村だった(長者町駅と同時開業)。自治体の変遷をたどると日本中に自治体が誕生した町村制施行時が太東村で、その後の合併を繰り返していく中で戦後に太東町となり、次いで長者町と合併して岬町に。そして平成の大合併でいすみ市となった

太東村の自治体名は昔からあったものではなく、九十九里浜の南端として知られる太東岬から付けられた

灯台と岬まで歩いて行く人はあまりいないだろうが、車だと10分もあれば十分に到達できる。ただし公共交通機関でのアクセスは悪いようだ。初日の出の人気スポットでもある

国鉄らしい木造駅舎

木造駅舎が健在。豪華すぎず質素すぎず、駅員さんの寝泊まりも可能-という地方の国鉄駅でよく見かけるスタイル。駅の設置は房総鉄道の手によるものだが、少なくとも駅舎は明治からのものではないと思われる。内房線、外房線ともに財産票を見つけられずに苦労した

駅名板は三角屋根の下、入口部分に掲げられている。こちらも年季もの

駅の所在地は「いすみ市岬町椎木」。駅舎は海とは逆側にある。「しいぎ」と読むそうで商店街がある。公共物の所在を見ても線路を挟んだ海と逆側が太東町の中心地だったようだ

駅舎内にも注目

外観とは対照的にホーム側の駅舎の風景は年代を感じさせる。ニャンコが爪とぎでもしたのではないかとも思ってしまう木製の柱も全国で見られる。なお番線案内に「3」とあるが

かつての2面3線構造は形こそ残るものの、中間にある2番線は写真で分かるように錆びたレールがあるだけで、事実上の廃ホームとなっていて1番線と3番線のみの運用となっている

有人の時間帯は長者町駅とほぼ同じの9時20分から16時30分までで、昼休みがある

何気なく貴重なのは精算窓口が有効なこと

駅舎内は有効スペースとして利用されていて

最寄り(といっても歩くのはちょっと遠い)の飯縄寺の解説のほか

や写真。さらには

地元の中学生による「今月の一冊」コーナーまで。いろいろな意味で飽きない駅となっている

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師走の外房線各駅訪問~木造駅舎のたたずまいと屋根の上の駅名板は特Aランク

長者町駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

素晴らしい駅舎紹介していきます

長者町駅に到着

さて駅の紹介は、どの路線も基本的に旅程通りに報告しているのだが、ここまで上総一ノ宮以南の駅を浪花、三門、東浪見と訪問。いずれも簡易的な駅舎ばかりだった。続けて読んでくださっている方は「なんだ、外房線は簡易駅舎ばかりか」と思われかねない。しかし、これはあくまで偶然。外房線の25駅(千葉と安房鴨川をのぞく)のうち、駅舎のない駅は圧倒的に少数で、たまたま電車のダイヤの都合でこうなってしまっただけ。ここからは素敵な駅舎を紹介していきます

そんな駅舎の中で私の中で特Aランクに入るのが、ここ長者町駅

趣のある木造駅舎。開業は1899年(明治32)と19世紀。上総一ノ宮(当時は一ノ宮)~大原が房総鉄道によって延伸された際に設置された。駅舎がいつからのものかは調べられなかったが、かなり古いものであることは間違いない

現役感あふれる

入口に乗っかっている

駅名板がいい感じ

当駅の良さは、時間制限があるとはいえ、基本的には有人駅であることだ。現在はいすみ市だが、平成の大合併まで存在した岬町の町役場最寄り駅で、今も「現役感」にあふれている。地元の観光協会や商工会の看板にもそれを感じる

順序が前後するが

電車を降りたホームからの景色も良い

改札口にもかわいい駅名標。こちらは「おかえりなさい」である

元々は東京の地名

全国で見かける長者町。地域によって由来はさまざまなようだが、こちらの長者町は江戸の地名に由来する。1回目の東京五輪直前まで住居表示として存在した下谷長者町(御徒町駅の南側にあった)は江戸幕府ができる前、「長者」という名前の方の豪邸があったらしく、できすぎの名前ではあるが、そのまま地名となり、江戸時代に入ってからは幕臣の邸宅が並ぶ町となった。幕臣の一人の領地が、ここ千葉県にあったため、江戸の邸宅の地名をいただき長者町となった。ちょっとややこしいが、当時から明治にかけての当地と付近一帯は漁村と農村が続いていたが、それぞれが「○○村」を名乗る中、当地はずっと長者町だった

線路がやってきたころは、いくつかの村と合併し、長者町として統合されていた。1961年(昭和36)に太東町と合併して岬町が誕生している

現在はいすみ市の岬庁舎となっている旧岬町役場までは徒歩10分ほど。駅前は町が広がる

JR東日本のHPによると有人時間帯は9時20分~11時30分と12時30分~16時30分。訪問時は有人時間帯だった

東京の長者町は住居表示から消えてしまったが、当駅の住所は今も「いすみ市岬町長者」である

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師走の外房線各駅訪問~印象が強すぎる棒状駅は有名人海岸への最寄り

三門駅に到着

※訪問は2023年12月13日

スマホトラブルで道程変更

浪花駅の次に訪れたのは

茂原。本日の宿泊地だが、時間はまだ10時半。実は全く予定になかった行動で、要因はスマホのモバイルバッテリーのトラブル。旅では2台のバッテリーを持ち歩くようにしていて、よほどのことがない限り、それで事足りるのだが、今日は早朝からの車内でいろいろ調べものをしていたためバッテリーの消費が早く、基本的に予備機となっているもう1台のバッテリーが久々の登板となるので念のために接続してみようとなったのだが、ウンともスンともしない。これはマズい。こういう時に役立つのがレンタルのバッテリーで、かつて紹介したこともある。大手コンビニには大概設置があるし、なかなか容量が大きく、これで1日400円ほどで凌げるのなら言うことはないのだが、ひとつ問題があって地方に行くと貸し出し場所が激減するのだ。コンビニはあっても設置がないというケースが多い

昨年も北海道と長野でピンチに陥って大苦戦した。冷静に考えると、それもそのはずで充電場所が少ない地方ほど必要性が高い、と考えるのは都会からの旅人の発想で、完全に車社会となっている地方では車内で充電できるのでレンタルバッテリーの需要は低いのである。浪花駅への道中でピンチに気づき検索してみたが、設置のあるコンビニはあっても台数が不安だったり、駅からコンビニへの距離が遠かったりで不安が大きい。確実な場所を探したところ上総一ノ宮も飛び越え茂原まで来てしまったという次第。とにかく無事にレンタルできて再び南下。もちろん

上総一ノ宮も強制的に再訪である。このタイムロスは大きかった。茂原駅のロッテリアで道程を組み直した

正確な駅名は?

そして到着したのが

三門駅。ご覧の通りカーブ状に設けられた単式ホームの駅。ただ年季の入った駅名標を眺めアレ?と思ってしまった

駅名は「みかと」だったのか。これは意外な難読駅だと一瞬思ったがローマ字表記は「みかど」である。サムネに使用した縦駅名標も「みかど」になっている。あまりにも濁点が鮮やかに消えすぎて誤読となってしまった。というか駅名標をよく見ると「両隣駅の漢字表記は?」クイズとなっている

だが、その一方で

キロポストはきれいに張り直されていた。大きなお世話かもしれないが、キロポストをチェックするのは鉄オタぐらい。そもそも数字の意味を知っている人の方が少ないのでは? 駅名標の復旧を希望したい

簡易駅舎も周辺の知名度は高い

駅舎は内房線でもよく見かけた簡易スタイル。かなり以前に無人化され、国鉄時代には貨車利用の駅舎となっていたようだが、火災に遭って現在の姿となった

ただし駅の歴史は古く1903年(明治36)の開業。1899年に大原まで敷設していた房総鉄道が長者町~大原に設置した。当初は貨物駅だったが、間もなく旅客駅となった。そのためか長者町までは、わずか1・6キロしかない。ちなみにホームの棒状化が進む内房線とは対照的に外房線の駅で単式ホームなのは当駅と行川アイランドだけである。ホームへは駅舎から、そのまま入る

それでもお手洗いはしっかり設置されている。冬場のローカル線旅では大変重要である

貨物駅としてスタートした面影は駅にはほとんどないが、このあたりで国道128号は駅へと接近している。平日正午の時間帯でも、かなりの交通量だった

棒状ホームにボロボロの駅名標と、ローカル感が強すぎる駅ではあるが、当駅周辺は知名度が高い。駅名は明治初期までの三門村に基づくが(駅舎と逆側は今も岬町三門)、海の方へ向けて歩くと日在(ひあり)海岸へとたどり着く

日在海岸は森鴎外らの文化人が別荘を建てた場所で、映画日活の保養所である「三門日活荘」があった。また房総鉄道生みの親である大野丈助の豪邸もあった。なお現在の日在海岸はウミガメ保護の観点で海水浴などのレジャーは禁止されている

駅へと戻る。特急「わかしお」があっという間にホームを過ぎ去っていった

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