高山本線

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~安曇野観光の拠点を譲った駅

※訪問は2024年3月7日

全ドア開閉は当駅まで

有明駅に到着。当駅も大糸線の中で知名度の高い駅である。松本から当駅までの列車は車掌乗務の有無にかかわらず、すべてのドアが開く。当駅を過ぎるとワンマン運転の列車は1両目の後部ドアから乗車、降車時は運転士のいる先頭ドアのみとなり、きっぷの回収と運賃支払いが行われる。列車によっては当駅まで車掌が乗車し、以北はワンマン運転となる場合もある。大糸線の列車は原則2両編成(JR東日本の電車に単行運転はない)。つまり松本~有明でドアをひとつにすると旅客が多く時間がかかりすぎると判断されていることになる。有明折り返しの列車の設定もある

有明駅は島式の1面2線。構内踏切で跨線橋はない。開業は1915年(大正4)。信濃鉄道が穂高から1区間延伸させて暫定的な終着駅とした柏矢町、穂高それぞれの項で説明したが、この年の1月に松本市(現北松本)~豊科が開業すると、6月に柏矢町、7月に穂高と1カ月に1区間のペースで延伸が行われ、有明への到達は8月。現在の信濃松川駅(当時は池田松川)まで延伸されたのは9月のことなので、終着駅としての働きは2カ月未満である

観光拠点としての役割

有明駅に与えられた役割は安曇野観光そして登山の拠点だった。開業当時、有明村があったが、駅の所在地は北穂高村。有明村とは、やや離れていた。戦後に両村は穂高町などと合併して新たな穂高町となり、同じ自治体となっているが(現在は安曇野市)、今も駅の住所は安曇野市穂高北穂高である。このような事情がありながらも有明駅となったのには、穂高の次の駅を北穂高とするよりも、著名な有明山にちなんだ駅名とした方が分かりやすいとの判断だろう

駅舎は木造で戦前からのもの。リニューアルはされているが、山小屋風の駅舎は変わらない。登山の拠点駅を意識したものだろう。駅舎の柱を支える石は重厚である

現在、定期的に大糸線に入る優等列車は1日1往復の「あずさ」だが、以前は多くの優等列車が東京からの直通列車として入っていた。さかのぼり始めるとキリがないが、最も著名なものは急行「アルプス」だろう。こちらはJR移管後も夜行便として残っていたが、新宿方面から中央本線をやってきて一部は松本止まり、一部は大糸線に乗り入れていたが、70年代初期までは穂高に停車する優等列車はなく有明停車だった。それが国鉄末期の80年代に入ると穂高への停車が始まり特急も停車するようになった。一方で有明に停車する急行はどんどん減っていった。バスも含めた観光拠点は穂高となり、大糸線の定期優等列車が1日1往復の特急となった現在、有明に停車する優等列車はなくなった

現在の有明駅は簡易委託駅。1日の利用者は有明駅が約400人、穂高駅が約2000人と大きく差がついている

それでも立派な駅名板が掲げられているのは、重責を担った当駅への敬意だろう

駅舎内にはリニューアル前の駅名板が残る

もう一度ホームへ。優等列車が数多く停車していた時代からの留置線が、かつての名残だが架線は残され、まだ現役。緊急時用に備えられているという

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~最後の駅は唯一の岐阜市内「所属」

長森駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

43番目の駅に到着

長森に到着。これが高山本線44番目、最後の駅となった。225キロにも及ぶ路線とはいえ、のべ8日とお世辞にも効率の良い周り方とはいえないが、全駅で乗下車のどちらかは行えた。そして岐阜から富山へと長い路線ながら、意外にも岐阜市内にあるのは長森だけだ(岐阜駅は帳簿上の所属としては東海道本線となる)

2面2線のホームの向こうには岐阜市中心部の高層な建物が見えるが、駅周辺は農地が広がる。ちなみに岐阜までの線路の距離は4・2キロと、それなりの距離がある。ただ岐阜駅から東海道本線が直進して高山本線が北上するようなイメージがあるかもしれないが、実際は弧を描くのは東海道本線で高山本線が弧を描くのは鵜沼からだ

長森は平安時代からの地名

開業は1920年(大正9)で、お隣の那加と同じく岐阜~各務ヶ原が開業した際に設置された。一番列車の種別は分からないが、高山本線で最初に歴史を刻んだ駅である

駅の場所はもともとは南長森村。北長森村と同じく1940年(昭和15)に岐阜市と合併、編入となった。長森とは平安時代からの古い地名で、同名の荘園があったという。後に長森城が築かれ、地域の中心となったが、その後に稲葉山城つまり岐阜城へと主役は変わっていった

ただ幕末のころには長森城跡に切通陣屋が造られ、政治の舞台へと返り咲いた時もあったという

切通陣屋は今も切通の住所、駅名(名鉄)が残る。一方、長森については駅を中心に施設名、学校名、店舗名などに広く名を残すが住所としての長森は駅からかなり離れた場所となっている

早々の無人化と簡易的駅舎

駅舎は簡易的なもの。以前の形は分からなかったが

財産票を見ると50年近く前に現在の姿となったようだ。「JR」の2文字が見られない。1960年代に無人化されているので、かなり早い。利用者もお隣の那加、さらに蘇原よりも少ない。岐阜からわずか1駅。宅地化が進んだ現在もそうなのだから、50年前は周辺の住宅ももっと少なかったと思われる

おもしろいのは駅名板で丁寧にカバーされている

それでも貨物ヤード跡は岐阜側に残る。岐阜からわずか1駅。どのような貨物が運ばれていたのだろうか

ちょっとした思い出

長森で30分の待機の後、岐阜行きに乗車するわけだが、書き漏らしたお話をひとつ

前日、飛騨小坂に向かう際に乗車したのがキハ25の1だった。武豊線が電化されたことで高山本線のJR東海区間は当該車両が回ってきたこともあって、車両が大きく変わった。「初代」ではあるが、生まれは2011年

本線とはいえ、多くの部分がローカル線となっている高山本線だが、車両はピカピカである。もちろん乗り心地もいい

そして1区間のみ乗車して無事に岐阜到着。takayama-main-line1で始めた記事のURLは最後46までになったしまったが、高山本線については、こちらで〆としよう

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~駅前広場はすぐ名鉄の線路&踏切

那加駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

簡易的な駅舎も三角屋根

蘇原から那加に到着。隣駅が長森、そしてその次が岐阜。つまり当駅を含め、あと2駅で全駅訪問は終了だ。まだ11時前。焦る時間ではないし、カウントダウンに入ったのだから、進んだり戻ったりするのは、もうヤメである。30分間隔の運行なので、蘇原からは1駅進んで30分待機を繰り返すことにした

駅舎は簡易的なもの。かつては木造の三角屋根の駅舎があったが、1998年から現在のものとなった。簡易的なものながら、三角屋根になっているのは、旧駅舎に敬意を表してのものだろうか。このころは簡易的な形になっても、現在各地で見られるバス停型と比べると、それなりの気遣いがあったことが感じられる

ただし駅舎内は小さな待合所があるだけ

開業は1920年(大正9)。高山本線が岐阜~各務ヶ原で最初に開業した際に設置されている。1963年から各務原市だが、当時は那加町

かつてはつながっていた両駅

駅舎を出るとスペースの小ささにちょっと驚かされる

目の前にあるのは名鉄の線路と踏切。その前が道路。駅前の広場は狭く、名鉄の線路を越えないと道路に出られない形になっている

踏切を通過する名鉄の電車。位置関係がよく分かる

名鉄の駅は新那加駅。微妙にずれた場所に位置する

JRと名鉄の線路間が微妙な空間だが、ここは以前、線路が敷き詰められていた場所だった

前記事で蘇原駅について、陸軍飛行場に隣接する工場で働く人のために1942年に設置されたと記したが、1920年の開業時は飛行場の「最寄り駅」は、この那加駅。現在の名鉄各務原線は各務原鉄道という私鉄が敷設したもので、開業は1926年1月。こちらは当初から1917年に開設された陸軍飛行場をターゲットにしていて、駅名も「一聯隊(いちれんたい)前」(現各務原市役所前)、「飛行団前」(現六軒)、「各務補給部前」(現三柿野駅)、「二聯隊前」(現名電各務原)という駅名が並んでいた

国鉄より飛行場に近い場所に敷設したが、軍事関係の貨物を私鉄だけで運ぶわけにはいかない。そこで国鉄との接続駅として選ばれたのが那加駅。各務原鉄道の車庫が設けられ、両社を結ぶ連絡線が設置された。この線路は戦後も飛行場を接収した米軍いわゆる進駐軍が利用したという

名鉄駅はもともと各務原駅

こちらは名鉄のホームから見た新那加駅の入口。新那加駅は地下に改札口がある有人駅で北側つまり那加駅側からも南側からも両方から入れる。かつて連絡線や車庫線があった場所は公園と駐車場となっていて、JRの駅を出て踏切を渡らず駐車場の方に歩いていくと名鉄の入口に達する

ちなみに新那加駅は最初、「各務原駅」としてスタートしている。名鉄(当時は各務原鉄道)の各務原駅は、その後、現在の三柿野駅が名乗り、現役の各務原駅は3代目である

高山本線と名鉄の乗り換えは鵜沼と新鵜沼がメインとなっていて、那加と新那加の乗り換えというのは、あまりない。新那加駅の乗り換え案内も、イオンモールへのバス案内と比べても、かなり控えめ。それでもJRと名鉄の間の空間は、歴史を残している

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~戦時中に開業し、戦時中に村から町へ

蘇原駅の駅名標

訪問は2023年10月20日

ピーク時は有人駅に

上麻生を9時11分に発ち、美濃太田での接続(20分)乗り換えを挟んで蘇原に到着。残るは3駅で時間は10時半前。何度も繰り返しているが、ここまで来ると昼間のこの時間帯でも30分に1本の運行がある

駅舎は簡易的なもので、もちろん無人駅。かつては大きめの木造駅舎があったが、1997年に現在の形となった。無人化はもっと早く、国鉄末期。国鉄からJRへのカウントダウン時に全国で無人化が多数行われた。ただし、派遣という形で駅員さんが滞在する日もある

名鉄の三柿野駅の方が近いが、航空自衛隊岐阜基地でイベントがある日は多くの利用者があるため、臨時駅員が派遣される。元々の蘇原駅はそんな性格の駅でもあった

開業は1942年

高山本線の最初の開業区間は岐阜~各務ヶ原の約13キロで1920年(大正9)で設置された途中駅は長森、那加の2駅だった。その後、1934年(昭和9)に全通開業となったが、蘇原駅の開業は1942年(昭和17)で、当時は戦争のまっただ中

蘇原駅と三柿野駅の間には川崎重工業の岐阜工場があり、航空機が製造されているが、ここは隣接する陸軍飛行場(現在の航空自衛隊岐阜基地)の軍用機、戦闘機を製造していた。戦争が始まると軍需が高まって多くの労働者が必要となったため、駅が設置された

ちなみに名鉄の三柿野駅は「航空廟前」、お隣の六軒駅は「飛行団前」という駅名だったが、戦時体制となった際「情報漏れを防ぐ」という理由で現在の駅名へと変更されている

各務原市は1963年に蘇原町など4町が合併して成立した。元々は蘇原村だったが、各務原飛行場が1917年(大正6)に設置されると軍需で町として発展。蘇原駅が開業したころは、工場で働く人がさらに増え、人口も増加したため、1943年に蘇原町となった

現在の駅舎内はガランとしているが、多くの人が利用したため、戦時中の建設にもかかわらず駅舎は大きかった。飛行場があるため、周辺は空襲の対象となり、名鉄の三柿野駅は駅舎が焼失したが、蘇原駅は戦災を免れて残ったという

ホームは2面3線構造ですれ違いだけでなく待避も可能。側線跡も残る

戦後は岐阜市内はもちろん、名古屋方面へのベッドタウンにもなっている。本数が多い名鉄の三柿野駅には劣るものの、2000人ほどの利用がある。その前の訪問が200人にも満たない上麻生だったこともあって、駅前の自転車の数に圧倒された

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~抜けるような秋空と蒸気機関車の展示館

上麻生駅の駅名標

※2023年10月20日

格好いい町の中心駅

上麻生に到着。これで残るは各務ヶ原より南の3駅のみ。30分に1本と運行の多い区間なので時刻表とにらめっこする必要はない。高山本線の私的な各駅訪問では事実上、こちらが終着駅のようなものである

一昨年夏に青春18きっぷで高山本線をトコトコ走った際、上麻生と下麻生の2駅は同じ自治体に存在する駅だと思い込んでいたが、実際は異なっていた。上麻生は加茂郡七宗町、下麻生は加茂郡川辺町と、そもそも「麻生」という自治体が現在はない。元々は上麻生村、下麻生町(村)という自治体が存在したが、戦後10年が経過した「昭和の大合併」で自治体としてはなくなっている。自治体が異なるのだから、コミュニティバスもつながっていない。歩けないものかと考えもしたが

国道沿いの一本道ながら山中を1時間以上歩くのは、できるだけ回避したいと今回の道程となった。もっとも前記事で記した下麻生での長時間停車を発見できなければ、それぞれの駅で1時間以上待つのなら徒歩という手段も脳裏にはあった。グーグル先生は徒歩ルートを検索すると「ほぽ平坦なルート」「高低差27メートル」と実に親切に教えてくれる

上麻生駅のある七宗町は1955年(昭和30)に上麻生村と神渕(かぶち)村が合併。七宗村として誕生。1971年に七宗町となった。読みは「ひちそう」。町の9割を山林が占め、山々を「七宗山」と呼んでいたことから、格好いい町名となった

簡易的な駅舎がポツリ

駅の開業は1924年(大正13)。下麻生から1区間延伸された際に設置。もちろん当時は上麻生村である。その後、2年間にわたって終着駅だったが、それもそのはずでお隣の白川口までは途中に信号場も挟む10キロという長い区間。いかに山中にあるかを物語る。実際、七宗町の町役場最寄りの当駅は七宗町全体で見ると東の端っこ部分にある

そんな上麻生駅の駅舎は簡易的なものである。下麻生駅と同じ時期となる2003年に開業時の木造駅舎が現在の姿となった。駅前の木は現駅舎になった時に植えられたもののようだが、今は駅舎が隠れるようになるほど成長している

裏側から見ると駅はこのような構造

駅名板は美しいステンレスのプレートとなっている

蒸気機関車を丁寧に展示

駅を降りてすぐ目につくのは

SLの展示館。高山本線に乗車していると車窓からとても目立つ。入口には腕木式の信号がある。管理は七宗町が行っているようで、柵に開館は平日の9時から16時で、見学を希望される方は町役場まで連絡してください、と記されていた。私の到着は8時46分で、9時11分の美濃太田行きに乗車する予定でさすがに断念

展示館の前には機関車の解説があった。読むとなかなかの歴史を有していて製造は戦時色の強まった1937年。戦時中の1942年に美濃太田の機関区に来たことは確認できているが、戦災で帳簿が焼失してそれ以前の歴史は不明となっている。終戦間際の1945年5月に小松島機関区に行った後は、平磯、高崎、小郡と「転勤」を繰り返していて、まさに昭和史の証人である。これだけ丁寧に保存されれば、いつまでもきれいなままでいられそうだ

駅に戻る。2面2線構造で跨線橋からの山々が美しい

カーブ状のホームからは抜けるような秋の青空が広がっていた

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~残った2駅の回収方法はアプリさまさま

下麻生駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

残った2駅の難易度が意外と高

各務ヶ原から美濃太田に戻り、当駅始発の下呂行きに乗車。だが、実は大いに焦らされた。順を追って説明していこう

まず美濃太田以北の本数が多い区間で最後に残ったのが上麻生と下麻生の麻生2駅。下呂までの区間は年間通じて発売される週末の1日が乗降自由となる「青空フリーパス」(当ブログでは出場頻度が高い)の区域内で、今回の乗り放題パスや青春18きっぷの季節外でも利用できる。だったら楽勝だろうと昨年4月のGW中にその区間内の回収に出かけたのだが、この麻生2駅を残してしまったことが致命傷になった。隣り合う両駅を効率良く回収するのは意外と難しい。どうやっても両駅で1~2時間の待ち時間ができてしまう上、両駅を結ぶバスもない。歩くのもやや通そうだ

必死で時刻表とにらめっこしても良い案が浮かばない。すると前々日の富山で携帯アプリを見た結果、妙案を発見できた。私は古い人間なんで、基本的には冊子の時刻表派だ。以前にも書いたが、60歳を超えても裸眼で普通に時刻表の文字を読めるのが密かな自慢で、ある意味、うまく読めなくなった時が「潮時」かな、とも思っている

ただ紙の時刻表ではよく見ないと分からない情報がネットの時刻表にはある。駅での停車時間だ。紙の時刻表でも駅間距離の割には所要時間が長すぎることで停車時間の長さを推測することができるが、ネットでは列車別の時刻が表記されていて○分着、○分発が容易に分かる

その結果、8時8分美濃太田発の下呂行きに乗れば、下麻生で15分もの長時間停車があることが分かった。ちょっとしたすれ違いのための停車で駅訪問とするのは私的には基本的に行わないが、15分もあるのなら許してもらおう

ということで前日は16時には駅訪問を止めて早々に夜の街に繰り出すことができた

まさかの同一ホーム前後出発

そして冒頭の美濃太田駅である。駅の電光案内で確認したところ、下呂行きは1番線からの発車。基本的には岐阜行きが使用するホームで、乗車予定の下呂行きの5分前に8時3分の岐阜行きを見送った後、5分後の乗車列車を待っていた。すると駅員さんが近づいてきて「どちらへ?」と尋ねられたので「下呂方面へ」と言うと

「あちらです」

と指差した先にいたのが冒頭の写真の列車。もう発車までわずかな時間しかない。ダッシュ気味で写真を1枚だけ撮って何とか乗り込めた

こう書いていくと「同じホームなのに気付かないはずがないだろう」と思われるかもしれないが、両方の列車は橋上駅舎の階段の前後に停まっていて私の位置からは完全な死角となっていて見えないのだ。おそらく駅員さんも、そのあたりは折り込み済みで、私のような、うっかり人間がいないかどうか毎日チェックしていると思われる。とにかくこちらに乗れないと次の列車は約2時間後の9時55分。実に危ないところで、声をかけてくれたことには感謝しかない

で、車内はこんな感じ(汗)

朝8時の美濃太田駅は岐阜を目指したり、当駅で下車する通勤通学の人であふれているが、逆方向は私を含め3人。しぱらくドアの開かない後ろの車両までチェックしなかったが、同様の光景だと思われる。次の列車が2時間後なのも納得である

広い空間に簡易型駅舎

下麻生に到着。ご覧のように2面3線構造だが、乗車列車は基本的に美濃太田方面が利用する3番線に停車。また雑草の生え方を見ると、登板頻度はそれほど多くはないようだ。後で調べると下り列車が停車するのは、この1本のみのようだ

おかげで跨線橋の昇り降りが生じてしまったが、貴重な体験をしたと言っておこう

駅舎は簡易的なコンクリート駅舎。これだけなら分からないが

広い駅前広場にポツンと簡易的な駅舎。過去の写真を見ると、かなり大きな木造駅舎があって2003年に現在の姿となった

開業は1922年(大正11)。美濃太田から当駅まで延伸された際に設置され、しばらく終着駅だった。1956年まで存在した下麻生町に基づく

下麻生には港があって江戸時代は大いに栄えた

地図で見ると駅から国道41号に出て上麻生方面へと向かうと10分ほどで下麻生の交差点に出て(元々の中心部はこのあたりのようである)、右に折れると公民館と橋があるが、橋の南側の川幅が広くなっている。ここがかつての下麻生湊。飛騨川は急流で岩も多いため船の運航には向いていない。ただ下麻生湊のすぐ上流で弧を描き、川の流れが緩くなった場所が広く、この先は穏やかな流れとなる。その地形を利用して1本ずつ丸太を流し、ここ下麻生湊で回収。木をまとめた上で船やいかだで下流に運ぶ重要な中継地だった。年間25万本もの木材が名古屋方面へと運ばれていたという。この光景は昭和初期まで見られたが、高山本線の開通で役割を終えた

こちらは駅舎内の様子

跨線橋からの俯瞰。当駅は朝に1本、当駅始発列車が、夜に1本、当駅止まりの列車が設定されている。いずれも、この3番線を使用するようだ

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~「正解はどれ?」が有名になりすぎて知名度大幅アップ

各務ヶ原駅に到着

※訪問は2023年10月20日

のべ8日で最終日

朝6時台の美濃太田駅。高山本線全駅訪問も最終日を迎えた。他路線のついでに訪れたような日もあったが、のべ8日目でようやく終了する。順調なら午前中に終わりそうだ

当駅を挟んで岐阜方面と下呂方面では運行本数が大きく異なる。岐阜側は昼間も30分に1本の運行があるが、下呂側は昼間に普通の運行が2時間以上ない時間帯もあり、訪問難易度は大きく変わる。この区間には、まだ未回収の駅もあるが時刻表の関係で、まずは岐阜側の駅を訪問することに

下車したのは3駅目の各務ヶ原

正解はどちら?

当駅は駅名標がクイズ形式(?)である

駅名標にきちんと自治体名を入れてくれるJR東海ならではだが(国鉄時代はすべての駅名標に入っていたが、自治体同士の合併が多く更新が手間になったのかJR東日本とJR西日本には入っていない)、駅名と自治体名で表記が異なることに気付く。「ケ」の存在だ

地名の由来は鏡を作る人々がいた、の「鏡」に基づくという説や、飛鳥時代に見られる「各牟」(かかむ)という地名、人名に基づくなどの説があるようだが、戦国時代から江戸時代には「各務(かかみ)村」ができている

明治以降は今も航空自衛隊で知られる日本で最も古い飛行場である岐阜飛行場が開設されるなどしてきたが、駅の開業は1920年(大正9)。岐阜から当駅までが開業して高山本線の歴史が始まった。飛行場の開設から3年後にあたる

駅名は当時からのもの。ちなみに近くには名鉄の駅もあるが

こちらは「各務原」の表記。こちらも戦前からの駅だが、読みは「かがみはら」だった

他にも市内では「かかみはら」「かがみはら」の呼称がある。同じ漢字でも読みが異なる(米原が有名)のは各地でよく見られるが、文字表記も読みも微妙に異なって複数あるというのは、なかなか珍しい。市の発足は戦後20年近くが経過した1963年で、複数ある呼称を統一しようと「各務原=かかみがはら」を正式なものとし、名鉄はそれに従って漢字はそのままで駅名を「かかみがはら」に変更したが、国鉄そしてJRはそのまま。ちなみに市内にある高校も「各務原高校」(かかみはら)、「各務原西高校」(かかみがはら)、と県立高校の読みが微妙に異なる

このような状況はメディアとしては格好の題材で、しばしば特集として取り上げられ、航空自衛隊の存在や東海北陸自動車道のインターチェンジの存在もあって都市の知名度は大幅アップ。本来は難読駅であるはずの当駅も難読駅ではなくなっている

簡易的な駅舎だが古い待合室は現役

駅の利用者は本数が多く、岐阜経由だけではなく犬山経由でも名古屋につながる名鉄が勝っていて現在の各務ヶ原駅はコンパクトな無人駅となっている。古い駅舎は国鉄時代の1978年に大がかりな改修工事が行われ、レストランが入居。駅の目の前は交通量の多い国道21号で大いに期待されたが撤退。その後に入ったコンビニも撤退したため、その後にテナント部分が撤去され現在の姿になった

駅舎内はガランとしている

かつては貨物輸送もあったが、現在の側線は保全車の車庫となっているようだ

周辺は住宅街で無人駅の特性で駅舎と逆側からもホームに入れるようになっていてICリーダーが設置されている

いろいろ姿を変えた駅だが、駅舎と逆側のホームには待合室だけは古いものがしっかり残っていて

クモの巣と「同居」しているようだが、こちらは開業時からの建物のようだ

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~地元の愛情が詰まった駅舎もない駅は読み方注意

飛騨宮田駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

紅葉の美しさに触れつつバス停を目指す

飛騨小坂駅前の商店街から駅を見る。次はお隣の飛騨宮田駅訪問だが、レールとしての距離は3・4キロながら飛騨川を渡ってから進まないとたどり着かないので、歩くと1時間はかかりそう。次の列車までの時間はたっぷりあるが、ちょうど良い時間のバスがありそうなので、ここはバス利用。ただし高山~下呂を1時間に1本の頻度で走る便利なバスは駅の近くまでは来ず、停留所は川を渡った旧町役場方面にある

立派な彫刻付きの橋を渡る

川と紅葉のコントラストが美しかった

昼食はコープのおにぎり

道中コンビニはなかったが、コープはあった(事前に調べていたが)

地元産のおにぎりセットとお茶を買ってお昼としたが、後の報道でJAひだが経営するコープ11店のうち10店が閉店することを知った。地元の方にとっては辛い発表だったと思う。地方におけるスーパーは車で郊外店を目指すという形態にどんどんシフトしつつある

小坂町の停留所からバスに乗り

わずか5分で宮田停留所に到着。短い乗車だったが途中の道路は坂もあって、これはバスが正解だった。こう見ると最近はバス停も駅舎も区別がつかなくなっている(笑)

住民の思いに触れる

徒歩5分ほどで飛騨宮田駅に到着

駅舎はない。単式ホームと待合所があるのみ

高山本線のJR東海区間では唯一、駅舎のない駅だが

駅の解説板には当駅に対する地元の方々の思いが詰められている

開業は戦後の1955年(昭和30)で現在で言うところの請願駅だ

駅のあちらこちらに住民の思いがちりばめられている

高山本線のJR東海区間では唯一、開業時からの単式構造が変わっていない駅でもあるが、駅及び駅周辺はきちんと手入れが行われている

現在は下呂市だが少し前までは萩原町。明治半ばまでは宮田村も存在していた。お手洗いも設置されているが、これは地元自治体によるものだろう

見逃せないポイントがもうひとつ

今も残るホーローの駅名標。残された経緯については分からないが、ホームの電柱にしっかりと貼り付けられていた

さて、ホーローそのものがかなり傷んでいて。文字が読みにくくなっているが、駅名は「ひだみやだ」である。駅の住所も下呂市萩原町宮田だが、もちろん「みやだ」。ちなみに先に立ち寄った飛騨小坂駅は「ひだおさか」。高山本線は濁音の生むが難しい駅が多いが、こちらもそのひとつである

これで下呂以北の駅はJR西日本区間の富山まですべて訪問を終えた。ようやくカウントダウンとなったが、美濃太田~下呂には未回収の駅が2つあり、ここが意外と難所である。そちらを訪問するため、といっては変だが、本日はここまで。宿のある美濃太田へと向かう(と言っても1時間半かかる)ことにする

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~開業時からの重厚な木造駅舎は伝えるものが多すぎる

飛騨小坂駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

ふんだんに材木を使用

禅昌寺から高山方面へと戻る形で飛騨小坂に到着。今回はあまりにも素晴らしすぎる駅舎から紹介しないわけにはいかない

開業は1933年(昭和8)。飛騨萩原~当駅が開通した際に終着駅として開業した。岐阜方面からの鉄路が当駅まで来たのが同年8月。富山からの鉄路はその3カ月後、前々記事で紹介した打保を含む坂上までが開業。翌1934年10月に高山を含む飛騨小坂~坂上が一気に開業。高山本線は全通した。富山側からも岐阜側からも少しずつの延伸だったが、最後の区間は一気に約60キロも延伸されたことになる

飛騨小坂の駅舎は開業当時からのものというから恐れ入る。平成の大合併まで存在した小坂町の顔として(町内には駅はひとつだけ)として気合が入っていたのだろう。小坂町は林業で大いに栄えただけに町だけにふんだんな木材が凝った形で使用されている

入口の車寄せ部分。木を組み合わせた柱部分は何造りというのか私は分からないが、玄関部分も含め、手の込んだものであることは分かる

屋根の部分は社務所風になっているが、当駅が御嶽山の登山口だったことに基づく

駅前に石碑があるが、御嶽山は霊山でもあることから社務所風の入口となった。開業当時にそういう言葉があったかどうか分からないが、ロッジ風であり、神殿風でもある駅舎だ

紹介が多すぎる

話の順序は逆になるが駅舎内部も紹介しよう。とにかく記することが多すぎる

駅は島式1面2線ホームで地下通路から駅舎に入る形。石積みの土台と木材の組み合わせに細かい作業を感じさせる

こちらは低い位置にあるJRになってからの駅名板だが

古い駅名板もしっかり残されている

駅舎内は駅と町の歴史を紹介するコーナーとなっている

古い写真も飾られているが、よく見れば分かる通り、ここはかつて窓口のあった場所。左の時刻表の場所は手荷物扱いの窓口跡である。一部の特急「ひだ」が停車する駅だが10年以上前に無人化された

と、いろいろ書いてきたが、私の拙文よりも駅舎内にある駅の歴史と特徴で簡潔かつ分かりやすく書かれている。海抜525メートルは駅の位置としてはかなり高い。2駅お隣の久々野駅が高山本線で最も高い676メートルなので、当駅からさらに150メートルも昇っていくことになる

飛騨小坂駅を中心とした小坂森林鉄道は全盛期で60キロ以上もの線路が敷設されていた。旅客も多く、この解説にある通り、SLに携わる必要性もあったのだろうが、18人もの駅員さんがいたというのも凄い森林鉄道は1960年代前半に使命を終えたが、1970年代後半までトラックによる木材輸送が当駅で続けられた

財産票は開業の1年後となっているが、1日3往復の特急も停車するので、うまく時間を合わせれば比較的訪問しやすい。訪問の価値はかなり高い駅である

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~名刹への最寄り駅はちょっと変わった2線駅

禅昌寺駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

80キロもの移動

打保から南下。高山本線の車窓は美しい。太平洋側へは飛騨川、日本海側へは宮川と、ずっと川に寄り添う。個人の好みにもよるが、私的なおすすめは飛騨古川~猪谷の宮川沿い。乗客も最も少ないエリアになるため、ロングシート仕様のキハ25形でも問題はない。ちょっと身体を横向けにすれば絶景を味わうことができる。秋本番の沿線は訪れたことがないが、色づき始めている紅葉もこれからさらに美しい季節になるのだろう

ということで禅昌寺に到着。下呂のひとつ手前までやってきた

打保発の列車に乗ったのは9時26分。高山で10分の接続があり、禅昌寺着は11時22分

距離にして約80キロ。2時間もの大移動である。何度も言うようだが、当初は全駅訪問などやる気はなく気になった駅だけで降りているうち、急に全駅を訪れてみたくなったので、全く無計画な虫食い状態となったため、このようなことになった。ただ前述した通り、高山本線の車窓は飽きないために救われる

ギリギリの威厳を保つ簡易型駅舎

ホームから駅舎の外へと向かう。ホームからの眺めだけで簡易型駅舎だと分かる

こちらが駅舎。小さな階段を昇って駅舎内の待合室に入る形となっている

財産票が示す通り1997年(平成9)に現在の形となった。ただ名刹・禅昌寺に基づく駅名で最寄りでもあるため、簡易型とはいえ、風格と威厳は保たれている。駅舎正面の写真で分かる通り、駅舎への入口は参拝道のように造られていて、入口の前には禅昌寺の解説と道案内が設置されている

こちらは駅前風景。大きめの広場がある。こうして見ると簡易型駅舎としてはなかなか立派だ

駅の解説文や下呂市HPによると創設は平安時代とされ、多くの寺宝のほか、国の天然記念物である樹齢1200年の大杉を有する

ユニークな2線構造

開業は1931年(昭和6)。下呂~飛騨萩原が延伸された際、その途中駅として設置された。高山本線では戦前からの設置駅でずっと単式ホームの唯一の駅だが、一般的な単式ホームとは微妙に事情が異なっていて棒状ホームながら交換可能な駅となっている

ただしその形式は実にユニーク

最初の到着時の写真でも分かるが単式ホームの向かいに1本のレールがある。こういう場合、えてして昔の交換設備のなごりだったり側線跡だったりすることが多いのだが、ホームのないこの線路は現役である。当駅に停車する列車は上下ともホームのある線路に入り、通過列車(基本的には特急)は上下ともホームのない線路を通る。まるで新幹線駅を見ているようだが、1966年からこの形になっているので、半世紀以上となる

要は特急とのすれ違いや待避はできるが、普通同士のすれ違いはできないというユニークな構造。私の短い滞在時はそのシーンは見られなかったが、ホームのない線路を駆け抜けていく特急「ひだ」は絵になる姿だと思う

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