大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その1

大糸線の増便バスで糸魚川に到着

※訪問は2024年9月10日

乗車は南小谷から

南小谷駅までやって来た。時刻は13時20分。目的はこちら

来年3月まで運行されている「大糸線増便バス」に乗車するため。写真は白馬駅で撮ったもの。糸魚川~南小谷の大糸線非電化区間は1日7往復と少なく(県境となる平岩止まりが他に2往復ある)、糸魚川での新幹線乗り継ぎや、南小谷での大糸南線乗り継ぎが不便であることから、さらにバスで4往復を加え乗り継ぎをよくしようというもの。特に北陸新幹線については昼間も1時間に1本の停車があるにもかかわらず、大糸線との接続があまり考慮されていない。かつて大糸北線の全駅訪問を行った時も最初の壁がこれで、最初の駅である姫川まで約30分歩くことになった

増便バスのひとつのミソが白馬発着となっていること。これは観光地として集客力のある白馬へ南小谷での乗り換えを介さずに直接運ぼうというものだ。大糸線は南小谷で電化、非電化が分かれるだけでなくJR東日本とJR西日本で会社が変わるが(在来線では現在唯一の両社接続駅)、増便バスならJR東日本管内の白馬まで直接行くことができるが、今回はあえて南小谷から乗車することにした。やはり大糸線で北線と南線の乗り継ぎは南小谷からにしたいし、どのぐらいの利用者がいるのか見たかった

増発でなく増便の理由

南小谷の時刻表。大糸南線も松本から出ると信濃大町で運行がガクンと減り、ローカル線ではおなじみの「お昼休み」の時間には2~3時間運行がない時間帯もあるが、大糸北線はもっと少ないことが分かる。北線と南線の接続は良い時間も悪い時間もあってバラバラで、これもまた大糸北線の利用者増を妨げる要因のひとつとなっているのだが、4往復のバスはそれを埋める役割も果たす。JRのきっぷを持っていれば乗車可能で、もちろん青春18きっぷでも乗ることができる

例えば私が到着したのは13時20分だが、現在の時刻表だと80分の待機を強いられるが、実際に乗車したバスは13時57分と約40分の待機で済むので1本早い新幹線に乗車することが可能となる

ただ、ここで素朴な疑問となるのは「わざわざバスで増便しなくても列車を増発すれば良いのでは?」ということ。1日4往復を増やすだけなら、列車で対応できそうなものだが、大糸北線では複数の駅で交換設備を撤去した結果、途中駅で列車のすれ違いができるのは、途中の7駅で根知駅のみという現状があって増発ができない。よってバスによる増便となったわけだが、ここでもうひとつの疑問が生じる。今後、列車の増発ができないことが分かっていてバス増便をするのはなぜ?ということだ

ここで最初の写真に戻ると「実証運行」という文字が見える。つまりはニーズを把握してみようというのが狙いとなっている。バス増便は2019年に次いで2回目となるが、その間にJR西日本は利用者が少ない大糸北線の存廃論議をしたいと表明していて2019年は10~12月の3カ月だけの実施だったのに対し、今回は10カ月もの長丁場。この間の数字を根拠に何らかの意思表明をするのではないかとも言われている。ちなみに費用総額は約1億2500万円で、国の補助金約5900万円を活用。JR西日本が3300万円を負担。沿線自治体も負担した

要はバス転換に向けた動きのひとつで、もっと言うと、この区間に公共交通機関が必要なのかどうか、バス転換した場合にJRがどのぐらい関わるのかを見定める場ともなっているとも感じることができる

増便バスの停留所は駅舎を出た所にある。JR西日本の文字とロゴが分かりやすい。コタツもあって冬場も過ごしやすく、夏場はエアコンが快適な待合室でしばらく休憩した後、バスを待つ

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その9(最後を締めるのは素のままの木造駅舎)

上神梅駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

最後の訪問はもちろんこちら

トロッコ列車を大間々で降りて1駅折り返し。わ鐵訪問最後の駅となりました。ラストを締めるのはここしかないでしょう。上神梅駅。時間は17時15分だが、1年で最も日の長いこの時期はまだまだ夕刻の気配すらない

単式ホームを降りると駅舎の内側がお出迎え。これだけでもう十分すぎる

ラッチもおそらく一度も手が入っていないもの

こちらは正面からの様子

1912年(大正元年)の開業時からの駅舎がそのままの形で残る。「そのまま」と記したのは、窓枠や入口などのガラス部分にアルミ補強が一切施されていないからだ。古い木造駅舎は全国各地に残るが、アルミ補強が一切ない駅舎は、さらに絞り込まれ少数派となる。これはやむを得ないことで木造の建築物を維持するためには、ガラス部分は強度を保つためアルミで補強するしかない

ちょっと変わったところでは、2年前に訪れた松浦鉄道の蔵宿駅

こちらは駅舎内に店舗を開店させるため、扉や窓枠をアルミ補強したが、その後撤退する際に元の「木」だけの姿に戻したという、さらに珍しい例だった(その後、再び店舗が入居しているようで現状は不明)

住所は「大間々町上神梅」。町村制施行前は上神梅村と下神梅村があった。「神梅(かんばい)」の地名については諸説あるが、崖地が多い渡良瀬川沿いの地を「かんば」と言い、当て字として「神梅」が採用されたという説もある

日々の清掃のたまもの

わ鐵は大間々以北は本数が大きく減ることは以前も伝えた通りだが、ここ上神梅も大間々から1駅進んだだけで駅周辺は静寂となる

当駅は水の神様として知られ、県内一の初詣客でにぎわう貴船神社と直線距離では目と鼻の先となっているが、渡良瀬川にさえぎられ徒歩だと遠回りを余儀なくされる。駅の利用者数は1日20人ほどで神社へはみどり市の中心部からの車利用が多いようである

駅舎前から線路に沿って歩くとアスファルトの広場があり駐車場になっているが、ここはかつての貨物線跡らしい。なぜ知っているのかというと近所の方が教えてくれたからだ。駅前で写真を撮っていると「いい写真撮れましたか?」と話しかけてくれた。当駅にはいつも同業者(鐵道ファン)が来るようだ

駅舎内はきれいに清掃されていて駅前の花壇もきれいに手入れされている。近所の方々が毎朝、きれいに清掃するという。これも過去何度も書いていることだが、地方の無人駅を日々きれいに清掃する地元の方には、その度に頭が下がる思いだ

廃校となった駅近くの小学校の話など、いろいろな話を聞かせていただいた

だからこそ駅名板、入口、改札とゴミひとつ落ちていないこんな写真も撮ることができる。少し傾いたラッチが趣を高めている

駅舎そしてプラットホームはもちろん登録有形文化財となっている

足尾銅山との歴史や駅名の由来や変遷、そしてホームのレストラン、トロッコ列車。サルとの思わぬ対面もあった。短い時間ではあったが、濃度の高いわ鐵の旅だった。次回は日光を経由する行程で訪れてみたい

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その8(登録有形文化財の駅舎からトロッコ列車乗車)

足尾駅のホーロー駅名板

※訪問は2024年6月15日

開業以来の駅舎

足尾駅の駅舎は開業した1912年(大正元年)以来のもの。わ鐵の駅舎の多くは三セク転換後に新たに建て直されたが、当駅はそのまま残されている。木造駅舎の駅でよく見かけるが、丸いポストが残されているのも景観を損なわないようにするためだう

駅舎は登録有形文化財となっていて、当駅ではその他にも

レンガ倉庫やプラットホームが登録有形文化財となっている

駅舎は基本的には無人。「基本的」と記したのは

営業時間が短いから。旧足尾線時代からの中心駅のはずなのになぜ、と思われるかもしれないが、それは旧足尾町の中心地はお隣の通洞駅となっているからで、足尾銅山の観光などは通洞駅が拠点となっている。もっとも厳密に言うと、この両駅間に足尾の街並みが広がっていて

両駅間はほぼ線路に道路が並行していて歩いても10分ほどの距離である

古典的な多くの駅と同じく改札と手荷物受付が並んでいる。もちろん手荷物受付は現役ではないが、木製の凝った形が往時を物語る

当駅はいろいろな賞を総なめにした映画「海街diary」のロケ地でもある。私も見たこの作品は鎌倉が舞台となっているが、足尾駅も山形県にある温泉地の駅という設定で登場するので、あらためて見る機会があれば、ぜひ見逃さないでいただきたい

トロッコ列車で大間々へ戻る

構内には貨物車の入れ替え作業に使用されていた機関車であるスイッチャーも、役割を終えて保存されている

足尾駅訪問を終えたら、ここからはトロッコ列車に乗車する

わ鐵の人気観光列車であるトロッコ列車には「わたらせ渓谷号」「わっしー号」の2種類があり、前者は機関車によるけん引式で冬季は休業、後者は自走式のディーゼル車で通年の運行。機関車の機回しが必要な渓谷号は大間々~足尾のみの運行だが、わっしー号はその必要がないので桐生~間藤の全区間で運行が可能となっている

乗車には整理券が必要で1回の乗車ごとに一律520円(子どもは半額)

整理券はわ鐵の有人主要駅や旅行会社で販売しているが、ローソン、ミニストップでも購入が可能。予約状況はわ鐵HPで公開されているが、人気列車なのでかなり埋まっている。旅の予定が決まったら、事前にコンビニで購入するかHPで購入するのがオススメ

また整理券があれば車内は自由席のわっしー号と整理券を提示して乗車時に座席指定を受けるわたらせ渓谷号の違い、季節ごとの運行本数やダイヤなど詳細は、わ鐵HPを参照していただきたい

もうひとつ重要なことは乗車券+整理券で乗車できるトロッコ列車は、群馬県内の私鉄、JRで広く利用できる「ぐんまワンデーローカルパス」では乗車できない。別途乗車券もしくはわ鐵の1日フリーパスが必要になるので留意していただきたい

美しい車窓を見ながら大間々に到着。時刻はすでに17時になろうとしているが、1年で最も日が長いこの季節はもう少し時間がある。最後にもう1駅訪問する場所が残っている

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その7(静態と動態、思わぬすぎる出会い)

足尾駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

10年超の遭遇

間藤からひとつ戻っていよいよ足尾駅に到着

いきなり古典的なホーローそして、いつ設置されたのか考えるだけで興味をそそる「海抜六四〇米」の木板のお出迎え。開業は1912年(大正元年)。沢入駅から当駅までが延伸した際に終着駅として設置された。前記事でも紹介したが、足尾本山まで延伸されたのは2年後。これは貨物専用線だったが、途中に間藤駅が設置され、当駅までが旅客輸送の対象となった。つまりは栃木県に鉄路が入ってきた。旧足尾線のわ鐵は群馬県と栃木県にまたがるが、全線の4分の3が群馬県となっていて敷設の目標だった足尾銅山を含む栃木県側の部分は少ない

そんな歴史ある駅で出迎えてくれたのが

キハ35ではないか。静態保存の状態はお世辞にも良いとは言えないが、貨物ヤードに停まっている。東京時代の2011年の久留里線以来の再会だ

駅訪問の際は基本的に予習はせずに行くことにしている。初対面の気持ちを大切にしたいから。こうやって記事を書いている時のデータや歴史は駅に着いてからの待ち時間や、下手すると帰宅してからの調べたものがほとんど。だからその分、見落としも多いが、それも一期一会だと思っている

だからその分、このような「出会い」の感動も大きい。もっともこんな大きなものを見落とすはずもないが

SLが役割を終え、ディーゼル車の需要が高まったころ、非電化の通勤通学路線に多く投入された列車。ご覧のように戸袋がないのが特徴で、ドアは吊り下げられたような形になっている

現在は旧車両が使用されているローカル線の駅も、扉の高さに合わせて列車が停車する部分だけホームがかさ上げされているが、以前はそうではなく「よっこらしょ」とホームから昇るように車両に入る必要があった。写真は貨物ヤードのホームなので旅客用ホームとの高さの違いは分からないが、かなり高低差がある。バリアフリーの発想がない時代、お年寄りは大変だったと思う。それを少しでも緩和するため、ドア入口に段差を設けたため、強度や重量の問題があって戸袋を作れなかった。それでこのような特徴ある姿になったのだ

私にとってのキハ35はなんと言っても和田岬線。和田岬線に乗車したことがある方は分かると思うが、兵庫と和田岬の2駅しかない同線はドアが開く方向も片側しかない。そのため開かずの扉側は完全に閉鎖された上、一部の座席が取っ払われて立席専用のようなスペースとなっていた。わずか5分で到着するので問題なかったのだろう。この車両は2001年の電化まで使用された

解説文があった。「現在でも久留里線で活躍」と記されている。久留里線でも10年以上前に運用が終わっているので少なくとも十数年前から、このままの状態だったことが分かる

「動態」との出会い

足尾駅は2面2線構造だが、キハ35が保存されている貨物ヤードは駅舎側で、逆側の森となっている部分にもかつての貨物列車の栄華を物語るように多くの側線が残る

駅名標とともにキハ35を撮ろうとしたら、その間に何かが登場。よーく見ると

おサルさん。カメラを構えていると森の方から線路を横切りホームにひょいと乗ったと思うと一心不乱に花を食べている。花に実があったのかもしれないが、さすがに近づく気はしない。この写真はズームで撮ったもの

少なくとも私が駅でサルと出会ったのは、これが2回目

昨年3月の名松線・伊勢竹原駅以来だ。この時は駅前の民家にある農作物を失敬するために現れた1匹のみだったが側線が残る森の方を眺めると

いることいること。森の中にサルの集団が生息しているのか。ひょっとして最初に目撃したサルにならって花を食べるためゾロゾロと線路を渡ってくるのではないかと身構えたが、皆さんルールがあるのか「勝手踏切」の利用者は1名のみだった

ということで、ソロソロとおサルさんたちから離れて駅舎へと向かう

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その6(鉄道紀行バイブルの終着駅)

間藤駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

一気に終点へと向かう

一気に終点の間藤駅に到着した。これでわ鐵は全線完乗となった。終着駅らしく奥に車止めが見える

三セク化されるまでは、ここからもう1区間線路が続いていた。足尾本山駅という貨物駅だった。足尾鉄道によって敷設された路線は1912年(大正元年)に足尾まで延伸された後、2年後の1914年に足尾本山まで延伸。これをもって足尾線の全通とされるが延伸が8月で3カ月後の11月に間藤駅が開業。足尾~足尾本山はあくまでも貨物支線の扱いだったが、中間に設置された間藤で旅客営業を始めたことで間藤から足尾本山の約2キロは長らく貨物専用線として利用されることとなった

足尾銅山は1973年(昭和48)に閉山したが精錬事業用の貨物運行は続けられ、終了したのは国鉄がJR民営化された1987年のこと。以降は休止扱いの駅となり、そのままわ鐵に引き継がれたが、三セク転換と同時にJR東日本のみならずJR貨物の駅としても廃止。そのまま放置され1998年(平成10)に鉄道免許が失効して自動消滅となった。線路が途切れたのはその後のこと

終着駅としては珍しく勾配標が残るが、間藤駅は写真で分かるように20パーミルを越える坂の途中に設置され、昭和半ばのSL時代までは当駅でスイッチバックして足尾本山へと向かう必要があったという。勾配標はその名残ともいえる

駅舎内に張られる時刻表2万キロ

駅舎内には「時刻表2万キロの終着駅」の展示コーナーがある。作家の宮脇俊三さんの記した全国乗りつくし(完乗)の「時刻表2万キロ」は当駅が最後に降りた駅ということで、全国からファンが訪れるようになった。宮脇さんは続く「最長片道切符の旅」と合わせ「完乗」「最長片道切符」の存在を広く世間に認知させた。時刻表2万キロが1978年(間藤駅で降りたのは1977年)、最長片道切符の旅が1979年の発刊。現在のようにスマホ片手に情報を集められる時代ではない。いわばこの2冊の本は鉄オタのバイブルでもあった

展示コーナーには間藤駅を描いた時刻表2万キロの部分や宮脇さんの年表、自筆原稿などが飾られている

日光までバスでつながる

現在の駅舎は三セク転換後のもの。無人駅だが立派な駅舎を有する。当駅までもかなりのお客さんが乗っていたが、かなりの方が当駅でそのまま折り返す観光客のようだった

駅舎内の時刻表は終着駅らしく到着時刻と出発時刻を併記したもの。朝は数分滞在しただけで、すぐ折り返してしまうものが多いが。昼間は駅を堪能する時間が十分あるダイヤとなっている。私は14時45分着の15時9分発で折り返した。駅訪問なら昼間を推奨する

この間藤駅のもうひとつのポイントは駅から日光までバスでつながっていること

これも知名度の高いコースで所要時間は30~40分。わ鐵と日光を同時に楽しめるようになっている。間藤駅の所在地は日光市なので当たり前のことのように思えるが平成の大合併までは足尾町だった。途中は山ばかりなので、ある意味貴重なルートである

その分、本数は決して多くはなく1日6本(訪問時のダイヤ)。これからの紅葉の時期は渡良瀬川沿線の車窓も含め、利用者が多い路線になるという。訪問の際は時刻を調べてから出かけてほしい

駅名標にはニホンカモシカが描かれているが「ニホンカモシカに出会える(かもしれない)」が駅のウリのひとつ。ただあくまでも「かもしれない」を忘れずに

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その5(神戸と書いて「GODO」の列車レストラン)

神戸駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

「KOBE」の方が難読

「ごうど」駅に到着。有名すぎる存在になっているが、「神戸」と書いて「ごうど」と読む

古い駅舎が残る。わ鐵の駅舎は三セク転換後に建て直されたものが多いが、こちらは木造駅舎がそのまま使用されている

駅名板もかなり古いものが使用されているが

よく見ると漢字の「戸」の部分に修正された跡がある

開業は1912年(大正元年)。名前は「神土駅」だった。開業時は東村(現在はみどり市)に所在。その東村は明治の町村制施行時に神戸村などが合併して誕生したもの。つまり地名は昔から神戸だった。現在も駅の所在地は「みどり市東町神戸」である。ただ駅を設置するにあたり、兵庫県の神戸駅と同じになってしまうということになり「神土」の文字を充てた。以来80年近く「神土駅」を名乗ってきたが、JRから切り離され、三セクとなった際に本来の地名である「神戸」となった。このあたりは「そおり」だった読みが地名の本来の読みぶある「そうり」となった前記事で紹介した沢入駅と似ている。駅名はもちろん、読みだけの場合でも全国とつながるJRの駅名変更はとても手間のかかるものだ。そのあたりの対応はわ鐵内でも相老駅とは対応が異なる

こちらは接続駅ゆえの対応だろう

ただ俯瞰的に見ると神戸育ちの私からでも「こうべ」と読むのは難読の部類に入る。人名も含め、最も多いのは「かんべ」だろう。「ごうど」さんも私の周囲にいたが「こうべ」さんは、私は会ったことがない。「博多」「札幌」なども大都市ゆえに誰でも読めるが、ローカル線の普通のみの停車駅だったら難読駅となっていただろう

途中下車のできる駅

神戸駅のもうひとつの特徴として私鉄や第三セクターでは例が多くない「途中下車可能駅」だということが挙げられる。整理券では当駅までの料金を徴収されて無理だが、乗車券を持っていれば途中下車が可能。それは、こちらも有名な

構内に「列車のレストラン 清流」が設けられているから

かつて東武を走っていた特急車両をそのまま利用している。週末のお昼時ということで多くの利用がありレストラン内の写真は撮れなかったが

舞茸ごはん定食をいただくことに

こちらは駅舎に張られていた清流の案内。当駅は無人駅なので列車利用がなくてもレストラン利用は可能

こちらは清流入口だが、入店した際にいた団体さんらしき人々が一斉に出たと思ったら、また入ってくる。列車の利用者と合わないな、と思っていたら駅の外には貸切バスの姿。大間々駅でもトロッコ列車に乗車するための団体バスが広場に待機していた。列車の本数が限られているため、施設利用もしくは観光列車の最寄りへは団体バスの運行。これは1日3往復しかない只見線でも旅行会社が採用している方法。鉄道とバスをミックスしての観光は今後のローカル線やローカル私鉄の在り方のひとつだと思う

ホームの構造は元々は2面3線。わ鐵となってレストランができた時に1線をレストラン用の車両を置くようになった

またレストランは使用せずとも当駅に列車が到着した際は売り子さんが飲み物や弁当などを販売する

お腹も満たされ、この後は栃木県に入っていこう

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その4(意外な難読駅は郵便局との合築 路線概要も)

沢入駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

読みは「そうり」

大間々を過ぎると急に山深くなるわたらせ渓谷鐵道。大間々からググッと栃木県との県境まで乗車。沢入駅で下車する。「沢入」と書いて「そうり」と読む意表を突かれる難読駅。かつては東村にあったが平成の大合併で現在はみどり市

渡良瀬川を渡ったところに駅があり、川を挟んで集落が広がる

開業は1912年(大正元年)。現在の駅舎は三セク転換後に改築されたもの。三セク転換後、もうひとつ改められたことがある。開業から80年近く、当駅は「そおり」駅だった。地名は「そうり」だが最初に付けられた駅名が足尾鉄道→国鉄→JRとずっと維持されていた。地名と駅名の読みが微妙に異なる例は各地にあるが、JRだと日本中にある駅の、たった1駅の名前を変更するだけで、いろいろ面倒なことが起きるので、そのままというケースが多い。当駅も同様の扱いだったが、JRから切り離されたことで地名と同じ読みとなった

群馬県と栃木県の3自治体を通る

わたらせ渓谷鐵道は全長が44・1キロ。群馬県の桐生駅から栃木県の間藤駅までを結ぶ。平成の大合併があったおかげで通過自治体は群馬県の桐生市、みどり市、栃木県の日光市の3つしかない(ただし地形の関係で桐生市から出た列車はみどり市に入った後に再び桐生市に入り、またみどり市に戻るという形となっている)

多くの説明は必要ないだろうが、元は国鉄そしてJRの足尾線。足尾銅山の鉱山を運ぶために足尾鉄道という私鉄が1911年(明治44)から徐々に線路を延ばし1914年に全通させた。ただ鉱山は国策として重要ということで、わずか4年後に国有化された

足尾銅山については全盛期は国内の3~4割を占める全国一の銅産出地だった一方、日本で初めてとされる公害の地としても有名。足尾線も多くの鉱山物資を運搬する路線として活躍したが、やがて銅は掘り尽くされ銅山は1973年(昭和48)に閉山。その後も精錬事業は続けられたが、徐々に事業は縮小。足尾線も1984年に廃線対象となる第2次特定地方交通線の指定を受け、1987年に一度JRとなったものの1989年(平成元年)に第三セクターわたらせ渓谷鉄道となった。と同時に貨物輸送は完全に廃止。現在は地元の旅客輸送だけでなく観光輸送にも力を入れる路線となった。愛称、通称は「わ鐵」で沿線の各駅でもこの表記はよく目にする

郵便局と一体

話を沢入駅に戻そう

当駅には郵便局が入居している

訪問が週末だったこともあり、郵便局はお休み。過去何度か郵便局が入居している駅を紹介したが、こちらもあくまで入居しているだけで駅業務は行わない

駅舎は後らしいものだがプラットホームと待合室は登録有形文化財となっている。なぜか列車とかぶり、待合室単独の写真を見つけられなかった

ここからもう一度桐生方面へと戻る。時刻は12時半を回った。お昼の時間となっている。となると向かうは「あの駅」だろう

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今年も抜海で待っていた悲劇と稀有な体験~その2(こんな奇跡ってありますか)

※訪問は2024年8月27日

抜海駅百周年

「この先、豪雨のためしばらく停車します」の運転士さんのアナウンス(単行でお客さんは私を含め10人ぐらいだったので、アナウンスというより、ほぼ肉声である)

ということで、これからしばらくはお客さんたちによる朝5時台の「雨中抜海駅撮影会」となった。見た感じではかなりのお客さんが同業者(鉄道ファン)と思われる。皆さん、過去に抜海で降りたことがあるかどうかは分からないが、初めての方は、思わぬ貴重な体験となったかもしれない

私は昨年も来ているし、列車到着の20分前には駅に着いているので、もう撮影することはないが駅舎内にこのようなものがあった

「開業100周年おめでとうございます」

去年これがあったかどうか記憶にない。抜海駅の開業は1924年(大正13)6月。つまり今年の6月で100歳の誕生日を迎えた。もしかすると今年になってからのものかもしれない

確実に今年になってのものは駅前の通りを数十メートル進んだところにある

記念の石碑。地元有志によって建てられた。駅前ではなく、やや離れたところにあることが駅そして駅舎の置かれた現状を物語る。抜海駅はここ3年、稚内市の負担によって駅の維持管理が行われてきたが、市はすでに今年度で限りでの費用負担終了を表明。少なくとも現時点では9月24日から構内が棒状化されることだけは正式決定しているが「最北の木造駅舎」の将来は不透明である

代行タクシーで160キロの大移動

ということで抜海駅で1時間の待機を経ての結果は代行タクシーによる輸送。名寄以北はしばらく運行が難しいとのことでJR北海道さんが用意してくれたタクシーに分乗して名寄と稚内を目指すことに

北海道の地図は他の地域に比べると縮小サイズが異なる。抜海から名寄はすぐのように感じるかもしれないが

なんと160キロ以上もある。これは東京から東海道本線に乗車すると富士を軽々と越え、清水あたりまで行ってしまう距離。しかも高速道路はない。ただ途中はバイパスもあって国道40号もほとんど信号はないので2時間半で到達してしまう

つまり何のことはない、今年も稚内市からの南下(脱出とも言う)は鉄道ではなく自動車だった。「抜海駅から乗車」の目標はかなったが、乗車までだった。当然、雄信内も南幌延はバスである

突然声をかけられ

ということで名寄駅に到着。2時間半もタクシーに乗車するという、なかなか稀有な体験となった。とにもかくにも朝の9時半にここまで運んでくれたJR北海道さんに感謝である

駅には運休情報が並ぶが旭川に向けては特急以外は通常運行を行っているようで無事に南下できそうだ(結果的に午後からは全線で運行を再開した)

と、普通はここで話は終わりとなるのだが、最大の驚きはこの後。名寄から旭川行き列車に乗っていると、突然「高木さん」と声をかけられる。見ると2013年まで東京で勤務していた時の同僚

「何してるのですか?」

それはこちらのセリフだ。彼はロードのサイクリングが趣味で夏季休暇をとり北海道までやって来て、早朝に西興部を発ってここまで輪行で来たという

「オ、オコッペ?」

「いやぁ、朝からずぶ濡れで50キロ。大変でした」

と笑う。彼の趣味は知っていたが、思わぬ再会よりも、その元気さに驚いた。それにしてもピンポイントで名寄からの列車で会うかね。実は彼と私は結構ご近所さんで街でバッタリ会って食事をする機会もちょこちょこあったのだが、高円寺や阿佐ヶ谷の駅で出くわすのとは訳が違う。ここは名寄である。そもそも宗谷本線が通常通り運行していたら、この出会いもなかったのだ。私は旭川まで至る途中で下車。彼は苫小牧まで出てフェリーで帰京するという。10年以上前は世間に浸透していなかったLINE交換をオッサン同士でして別れた

それにしても宗谷本線は私に稀有な体験させてくれる路線である

その日は旭川で宿泊。当日の夜、実は少し悩んだ。翌朝の始発から行動すれば少なくとも雄信内へは行くことができる。天気予報も大丈夫そうだ。ただ問題は私と宗谷本線の相性である。昨年は旭川までたどり着いた翌日からは好天で根室本線の廃駅となる駅や、同じく根室本線の今となっては貴重な東滝川駅訪問、特急ニセコ乗車などを暑いぐらいの太陽の下で行うことができた。今年についてもこの日以降は雨とは全く無縁。要は宗谷本線乗車の際だけピンポイントで悪天候に見舞われた。しかも両日とも天気予報は良くはなかったが、決して運行ストップとなるものではなかったのだ

私が行くと、またストップするような気がしてヤメ。結果的には通常通りの運行となっていたようだが、これはこれで正解だったと思い、思い出だけを胸に秘めるとしよう

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今年も抜海で待っていた悲劇と稀有な体験~その1(予定だけは完璧のつもり)

抜海駅の駅名標

※訪問は2024年8月26、27日

※音声あり動画注意

稚内で昨年を思い出す

夕刻の稚内駅。昨年8月31日の同時刻もここにいた。そして全く予定外だったが、なぜか翌日も稚内駅へ行くことになった

昨年9月1日はここに並んでいた

プライベート、仕事と全国各地でいろいろな体験をしているが、一生忘れがたいものとなった

宗谷本線がストップして稚内から旭川へと移動するのに札幌経由とか、ちょっとあり得ない

結果的に残り2枚だったバスのチケットを買った窓口。すべてが懐かしく思い出されるが、なぜこのような写真を掲載したかというと「二度と同じ目に遭いたくないから」である(笑)。そりゃそうでしょう

ということで

昨年と同じ18時10分発の普通に乗車し抜海を目指す

稚内から2駅目(といっても20分近くかかる)の抜海で到着。1日に3・5往復の列車しかやって来ない当駅。私を含め数人が降りた。私は本日、昨年と同じばっかすの世話になるが、他のお客さんはどう見ても地元の方ではない。ここで降りてどうするのだろう?と思ったが、ばっかすのご主人によると1時間後の19時33分(最終である)で稚内へ折り返す人だろうということ。ちなみに抜海から稚内へと向かう列車は7時50分、11時48分、19時33分の1日3本しかない

こちらが時刻表。そして写真の通り、朝の旭川空港に着いた時の雨はすっかりあがっている

それなりに考えた今回の作戦

1年ぶりに抜海までやって来た目的はまず「抜海から列車に乗車すること」

昨年は到着はしたものの、宗谷本線のストップで抜海駅のホームに入線する列車を見ることはかなわなかった。去りゆく列車を見送っただけだ。今年はなんとしても「乗車」したい

そして「雄信内」「南幌延」の両駅も訪問する。この記事を読んでらっしゃる方は駅名だけで分かると思うが、いずれも近い将来の廃駅が報じられている駅である

そのためには抜海から始発の5時39分に乗車しなければならない。その次の抜海発名寄行きは10時46分。3駅はいずれも普通しか停車しないので10時台からアクションを起こしていては間に合わないのだ

私が立てた予定は以下の通り

5時39分(名寄行き) 抜海発

6時32分(同)南幌延着

6時50分(稚内行き) 南幌延発

6時58分(同) 幌延着

7時32分(旭川行き特急サロベツ2号) 幌延発

8時37分(同) 音威子府着

9時8分(稚内行き) 音威子府発

10時14分(同) 雄信内着

12時4分(名寄行き) 雄信内発

言ったり来たりしながら南幌延と雄信内を巡ろうというもの。北海道フリーパスを持っているので特急も乗り放題である。特急に乗車しない場合は南幌延と雄信内は実は隣駅で

徒歩2時間で到達できる。南幌延に着いてから雄信内を発着する列車まで4時間近くあるので楽勝(?)といえば楽勝で、この場合はたとえ雨はなくても、どこかもう1駅訪ねることも可能となるが、おそらく人が歩いていることはほとんどなく、どんな生き物に遭遇するかもしれない徒歩2時間は、さすがに私には無理な相談である

ということで

翌朝はご主人の好意で5時15分には抜海駅まで送ってもらい

今年も抜海駅を堪能。雨がかなり降っていたが列車の運行情報に関するアナウンスはなく無事に稚内からこちらに向かっているようだ

そして定刻から、やや遅れはしたが名寄行きは入線。念願の抜海駅からの乗車

ちなみに当駅は棒状化が決まっていて9月24日からこちらのホームは廃止となる。その意味でも貴重な乗車。さぁ、後は南幌延に向かうだけ、となったが、このタイミングで運転士さんに無線連絡が入り「抑止」という声が聞こえてきた。この先、雨が激しくしばらく当駅でストップするという

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その3(本社と車庫の温故知新駅はみどり市の中心部)

大間々駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

別の場所にもあった大間々駅

大間々駅に到着。桐生を発ってから2駅目の相老駅、さらにそこから2駅の大間々と順に来ているが、途中にある下新田、運動公園の両駅は、いずれも三セク転換後に設置された駅で、元々のJR(国鉄)足尾線だと2駅順番に降りたことになる

写真に車庫が見えるが、大間々は車庫そしてわたらせ渓谷鐵道の本社がある中枢にあたる駅。そして桐生からの列車の半分ほどは当駅止まりとなる。わたらせ渓谷鐵道は路線全体が44キロだが、桐生~大間々はわずか7キロ。車窓を眺めていると桐生から大間々までは桐生市の郊外(大間々駅はみどり市)という雰囲気だが、大間々から先は急に山深くなる。広大な関東平野の一端に来た感がある。旅客輸送でも当駅までが中心を担っているのだろう

大間々町は平成の大合併でみどり市となった。足尾銅山からの銅山街道の宿場町または生糸の集散地として栄えた。つまり足尾線のコース

ただ1911年(明治44)の開業時は「大間々町」を名乗っている。なぜかというと別に大間々駅があったからだ。現在のJR両毛線「岩宿駅」である

大間々駅と岩宿駅はかなり離れていて、現在の道路と車でも15分もかかる。徒歩だと1時間以上。しかも所在地は笠懸村(後に笠懸町)で自治体も異なっていた。両毛線を敷設した両毛鉄道は、大間々の街を走らせる予定で先に駅名を決めたが、工事の都合で大間々を通らなくなった。それでもすでに決まっていたからと大間々駅とした。足尾線が走る20年以上前のことだ。ということで20年以上続いた(初代?)大間々駅だが、実際に大間々に駅ができ「大間々町」と名乗ると、実態に合わないとなり、わずか1カ月で駅名を返上して岩宿に。その翌年、大間々町駅もめでたく大間々を名乗るようになった。ただし平成の大合併のため、現在は両駅とも同じみどり市に所在する

ただ地図でも分かる通り、赤城駅は徒歩でも十分可能な距離(乗り換えなら相老駅を利用するだろうが)。1928年の開業時から戦後まで「新大間々」を名乗っていたほどで、両駅の間はかつての大間々町の中心部でみどり市となった今もそれは変わらない(ただしみどり市役所は岩宿が最寄り)

所々に残るたたずまいと現代ならではのもの

駅舎は木造で昭和になってから改築されたと伝わる。正面下部のものは、この写真では見えにくいが

歴史を感じさせるもの。字体から国鉄時代のものと推察される

荷物受付は駅舎の外側で対応していたようだ

こちらはちょっと現代寄り。わたらせ渓谷鐵道開業時に走っていた車両が駅舎の隣に設置されていて

こちらはもう現代。大間々はコンビニが隣接している路線では貴重な駅だが、こういうものを見せられると、こちらで買わなければしょうがないだろう

改札にはホーローのようでホーローでない駅名標が並ぶが、あえてそれっぽく作ったのだろう

もちろんちゃんと本物もある

もうひとつ

本社の駅らしく当然の有人駅。グッズ販売も行われている

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