※訪問は2024年10月10日
白馬村の最南端へと戻る

白馬大池から松本方面へと折り返して約20分。南神城駅に到着した。すでに紹介した簗場駅のひとつ北側。簗場までが大町市で当駅から白馬村、そして駅名から間違われやすいが、白馬大池からが小谷村である。これも簗場駅の記事で紹介したが、当駅と簗場駅の間には2019年まで冬季限定のヤナバスキー場前駅があった(正式に廃駅となったのは2019年だが、その数年前にスキー場が営業をやめて列車は停まらなくなっていた)。だから南神城駅の駅名標にも隣駅を訂正して張り直した跡がある
目に付く最西端の記載
写真で分かる通り、単式ホームの構造で大糸線の多くの駅がそうであるようにホームに待合所があるだけで駅舎はない。シャッターが降りている場所は除雪作業の機具を入れる場所だろうが、否応なく目に入るものがある

こちらの案内板

「JR東日本最西端の駅」と記されている。何も調べずに降り立った私は驚いてしまった。「JR」とあるのだから、民営化後に掲げられたものに違いないが、これは意表を突かれた形だ。調べてみると1995年(平成7)にはホーム上に大きな碑が建てられたという。いつの間にか撤去されたようで、撤去の理由は分からなかったが、JR各社に絞っての東西南北はあまり考えたことがなかったので、ちょっと驚いた次第
東西南北を入れた最○端は誰しもに響く言葉で、駅においても最○端は鉄オタでなくても惹かれるものがある。頭に「日本」とつくと、これは立派な観光地になり得るもので先日、東根室駅が廃止されてニュースになったのは記憶に新しいところ
そこから突き詰めて、都道府県単位になると、こちらは雑学ネタになるため、私も当ブログやX(旧ツイッター)の駅紹介では必ず入れるようにしている。誰でも分かるものや、意外なものもあっておもしろい。私の住む兵庫県では2023年に能勢電鉄妙見の森ケーブルが廃線となり、最東端交代となった。通年営業しない駅、しかもケーブルの駅を最東端とするのかどうかの議論の対象にもなった駅だった
ただJR各社ごととなると基準の作り方が大変難しい。各社の境界駅がその対象となった場合はどうするのか、という問題があるからだ。JR東日本の場合はそれほどややこしくないが、他社は事情が異なる。例えばJR西日本の場合は、同じく大糸線の中土駅が最東端となるが、JR西日本路線の終着駅となる南小谷は駅の管轄がJR東日本なので、JR西日本の駅としては扱わないことになる。JR西日本では北陸新幹線の線路は上越妙高までがJR西日本の管轄だが、上越妙高駅そのものはJR東日本の管轄である
また新幹線の駅も対象とすると山陽新幹線の博多駅がJR西日本の最西端。JR東海は東京駅が最東端で新大阪駅が最西端と、何か会社の地域イメージと照らし合わせるとピンと来ない。では在来線に絞ろうとなると、今度はJR西日本の最西端は新幹線のレール上にある博多南となってややこしい(小倉方面から来ると博多駅の先が博多南なので西にあると思いがちだが、博多の方が西にある)
と、長々と書いてきたが、逆に言うと、それだけ貴重な案内板ということでもある
戦時中の開業
当駅では滞在時間が40分ほどあったのだが、上記で紹介したJRの東西南北問題を考え、調べているうちにあっという間に時間が過ぎ去ってしまい、恥ずかしながら駅周辺をあまり歩くことはできなかった

ホームからの出口は2通りあって右側が屋根付き、左側が屋根のない階段。全体を見ると

このような形。積雪の多い場所だけに屋根付きの階段ができたのだろうが、こちらがスロープではなく階段となっていることろがユニークである
開業は1942年の12月と、まさに戦時中の開業。かねてより簗場~神城に駅設置をという地元の要望に応えたもので戦時中の開業といえば、貨物列車が対象となるものだが、スタート時から旅客営業のみしか行っていない
当駅は白馬さのさかスキー場の最寄りでもある

そのための宿の案内図もあった。ただスキー客がどのぐらい電車利用で当地を訪れるかは不明で、地図にある大きな駐車場について、スキー場のHPには「無料駐車場300台」と記されていた
ちょっと後悔したのは

駅からすぐの場所にある踏切。いきなり獣道のようになっていて遮断機どころか警報器もない。それなりにある列車の本数を考えると目を引く。もちろん勝手踏切ではないので渡ることは可能だ。この奥は山しかなく、山中で作業をする人のためのもののようで少しだけでも入ってみたかったが「最○端問題」を考える時間が長すぎてここまでとなってしまった


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~特急停車駅でもあったなごりと現在
※訪問は2024年10月10日
目につく写真入り駅名標

あらためて白馬大池駅。目につくのは駅舎の右側にある外向きの写真入り駅名標だ。一時はJR東日本の駅で数多く見られたが、最近になって急速に姿を消している。長期間使用して色あせると更新に手間がかかるのだろうか
例によって、ほとんど下調べはせずにやって来た。分かっているのは立派な駅舎に相反して無人駅だということだが、それは全国でよくある姿だ
栄華の跡が残る
当駅の位置はというと姫川に面している。駅を出ると国道があつて、すぐ姫川。信濃森上の北あたりで大糸線に急接近する姫川は、この後、大糸線に寄り添うように糸魚川まで到達して日本海に注がれる。ここから北の車窓はずっと姫川にお付き合いだ。正確には太古の昔からあった姫川に千国街道である国道148号と大糸線が寄り添っているわけだが、暴れ川でもある川沿いにしか道路や線路を通す場所がなかったとも言えるわけで、それだけ人の住む所は少なかったことになる。当駅付近にも民家は数少ない。ちなみに糸魚川の地名は、氾濫を繰り返す「厭い川」から来ているという説もあるほどだ
そのような場所に駅があるため、周囲に人家はほとんどない。にもかかわらず、よくこのような立派な駅舎ができたと思ってしまうが、前記事で書いたように当駅をスキーも含めた栂池高原の最寄りとしてレジャー拠点にしようという目論見からだ
信濃森上駅の記事でも参照した1978年10月号と1988年3月号の時刻表を開いてみると、国鉄時代の78年に比べてJRとなった88年の方が多くの優等列車が停車していることが分かる。週末を中心にした運行の新宿行き「あずさ」や名古屋行き「しなの」は南小谷始発で当駅から信濃森上、白馬と3駅連続の停車。スキーシーズンの終わったGWも停車があるので、栂池(つがいけ)高原リゾートの最寄りとして重要視されていたのだろう

駅舎内の待合室にあたる部分は広い。椅子が並べられている場所にきっぷうりばの文字がある。右側のやや低くなっている窓口は手荷物受付だ

きっぷ販売の窓口は2つあったようで規模も推察される
逆側に目を転じると

おそらく売店の跡だ。いつまで営業していたのか分からないが、売店があるほどにぎやかな駅だったと推察される

ホームは単式。駅舎と逆側には山が迫っていて、もちろん民家はない。長いホームが優等列車が停車したころをしのばせる
当駅訪問の注意点

駅舎の外から見えない側にも写真入り駅名標がある
そして時刻表

荷物扱所の文字(貴重なものだと思う)の下に掲げられているが、私は8時40分着の増便バスでやって来た。次の電車は10時13分で1時間半の待ち時間があった。そして何度も書いているように10月上旬とは思えない寒い朝だった。寒さは駅舎の中でしのぐことができるが、問題は冷えからの生理現象である。増便バスを利用しての移動候補には当駅とさらにひとつ北の千国駅があり、どちらに行っても道程はほとんど変わらない。ただ千国駅の停留所が駅からやや離れていること、そして駅の写真を見た時にお手洗いがあるとしたら白馬大池だろうと思ったこともあって、こちらでの下車となったのだが、結果からすると、それは大間違い。お手洗いはなかったというか閉鎖されていて使用できないのだ(厳密に言うと、その手前にも行けない)。もちろん悶絶である

訪問当日は道路の補修工事を行っていた。手前が駅で道路の向こう側は姫川である。栂池高原への公共交通機関によるルートは白馬からのバスがメインになっていて当駅をレジャー利用する人は、ほとんどいないと思われる。最近の利用者数は不明だが、周辺にほとんど民家は数少なく10年以上前の時点で1日20人を切っていたので、それから増えてはいないはず。10時を過ぎてやって来た信濃大町行きに乗車したのは私だけだった。要はずっと貸切だったのだ
信濃森上駅ではすっかり簡易化された駅舎に寂しさを感じたが、こちらでは立派な駅舎にかつての栄華を感じさせるだけ、別の意味で寂しさを覚えたのである


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~電化で生まれた重厚なコンクリ駅舎へは増便バスで
※訪問は2024年10月10日
定時のダイヤだと行けないが
例によって時刻表である

今は信濃森上駅にいる。8時5分でやって来た。上りも下りも2時間以上ない。私が行こうとしているのは南小谷方面だが、それは3時間以上も後。本来なら完全に行き詰まってしまうところだが、この時は強い味方があった

こちらは先に2度にわたって記事にした大糸線増便バス。先に記事化したのは2025年3月までの運行とされていたためだ。そして1カ月の間に2度も大糸線へと出かけたのは、このバスがあるうちに各駅訪問を済ませないと白馬以北の駅で苦戦することが分かっていたからだ。なお4月からも週末を中心とした運行でバスは維持されているが、コースは大幅に変わっており、現在は白馬~南小谷の駅には停車しないので、今は使用できない。

8時34分に乗車する
昭和40年代のコンクリ駅舎

バスがやって来た。1カ月ぶりの乗車だが、私はわずか6分で到着する白馬大池駅で下車する。前回で勝手が分かったので、乗車時にきっぷを見せて「白馬大池まで」と告げる。JR西日本が運行するバスでありながらもJR東日本の区間のみの乗車である。ここ信濃森上からの乗車も白馬大池での下車も私一人である
そして下車した所で待っていたのは

いかにもかつての国鉄コンクリ駅舎のたたずまいを持つ白馬大池駅。重厚な駅舎だ。大糸線のJR東日本で昭和30~40年代のコンクリ駅舎を持つ駅は当駅のみしかない。JR西日本区間も平岩駅のみだ
駅名の由来は標高2300メートルの湖
国鉄によって建設された信濃大町~中土の大糸南線は1935年(昭和10)に開通したが、その際に信濃森上~南小谷には8・5キロにもわたって駅はなかった。戦後間もない1947年に当駅が仮乗降場として開業。翌年に正式駅となった(もうひとつの千国駅はさらに後)。当初は地元の地名である川内に基づいて「川内下」という駅名だったが、正式駅になる際、もっと知名度のある駅名にということで現駅名になった。ただ北アルプスの標高2300メートルにもある火山活動による湖は駅からは遠すぎる
ちょっと最寄りとは言えない場所にあり、湖まで車では行けない。軽装ではホイホイ行ける場所ではない。ただし地図で分かるように栂池(つがいけ)高原そしてスキー場はまさに最寄りで

駅前の案内図でもそれは一目で分かる。駅名も栂池もしくは栂池高原という駅名にすれば、難読も相まって知名度はさらに上がったと思われるが、戦後わずか3年の1948年の時点ではスキーやレジャーという発想はない(ロープウェイの駅名は「栂池高原」となっている)
転機が訪れたのは1967年の信濃森上~南小谷の電化だった。前記事で1960年に信濃大町から信濃森上までが電化された際には、栂池高原スキー場は現在の規模のものとなっていた。ならばスキーそして夏の高原レジャーも含め、当駅を拠点駅にしようということで現在の駅舎が建てられた。だから国鉄コンクリ駅舎なのだ。ここでも1時間半以上の待ち時間があるので駅と周辺をゆっくり見ることにしよう


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~優先的に電化された急行の終着駅
※訪問は2024年10月10日
降りるころには
信濃木崎から白馬も越えて1駅。約40分で到着したのは

信濃森上駅。8時5分の到着でダイヤ的には通勤通学用なのだろうが、白馬まででほとんど降りてしまい下車したのは私一人。要は閑散としているのだが、南小谷まであと3区間というこの駅が主役だった時代が確かにあったのだ
突貫工事の電化
当駅は1932年(昭和7)に大糸南線(当時)が神城から延伸された際に開業した。線路がさらに伸び、中土まで到達したのは1935年だったので、3年間、終着駅の役割を果たしていた。そのまま戦争に入り、大糸南線と大糸北線がつながって大糸線となったのは1957年(昭和32)。これは何度も書いているが、国防のために敷設が始まった大糸線が全通したのは戦争が終わって10年以上も経ってから。では沿線人口の少ないこの路線を今後どうしようとなった時に出た発想が観光レジャーとしての活用だった
沿線にはスキーや登山もある、温泉もある、湖もあるということで利便性を図るため信濃大町以北も電化することになり、突貫工事で進められた作業は全線開通からはや2年後の1959年には信濃四ツ谷(現白馬)までが電化。1年後の1960年には信濃森上までが電化された。さらに…といきたいところだが、ここでいったん電化の作業は急停車。南小谷までが電化され、現在の形となったのは1967年で7年も要した。つまりは信濃森上までの電化が急がれたのだ。理由は周辺のスキー場などを抱える白馬岩岳の存在である
地図では点と線しか分からないが、信濃森上駅の駅舎と逆側、国道148号線の北側はリゾート地域となっていて宿や飲食店が並ぶ。スキー場までも車だとあっという間の距離である。そのため東京、大阪からの夜行の急行は白馬ではなく当駅を終着駅として、夜の遅い時間に新宿や大阪を出た列車は早朝に当駅まで多くの人を運んでいた
手元にすでにJRとなった1988年3月号の時刻表(復刻版)があるが、GWまで臨時の急行が多数運行され、信濃森上止まり以外にも南小谷行き、南小谷行きだが白馬から普通として運用されるものもあり、朝の5時台から6時台にかけて信濃森上駅は大にぎわいだったことが想像できる。もちろんすべてが電車車両。さかのぼること10年の1978年10月号においては主要駅を表す太字表記は白馬ではなく信濃森上である
主要駅の現在

そんな「主要駅」の現在はというとホームを出ると階段があり駅前ロータリーへ出られるのだが、外から見ると

これを駅舎と言って良いのかどうかという状態だ。2007年(平成19)に開業時からの駅舎は解体され、現在の姿になった。もちろん無人駅で優等列車の停車はとうに終わっている(今春のダイヤ改正で白馬以北の定期優等列車は姿を消した)
時代とともに白馬岩岳スキー場(夏季はリゾートとして営業)へはマイカー利用が主流となり、公共交通機関利用の場合も白馬駅からが主なアクセスとなっている
往時を思わせるホームも

ホームには待合所があり

前記事の信濃木崎駅と同じ内容になってしまうが、そこにあった駅名板だけが旧駅舎から引き継がれたものだと思われる

ホームはもともと2面3線で柵の向こう側にあったホームは使用されなくなっているようだ
主要駅以外は構内踏切の多い大糸線だが、こちらは跨線橋で結ばれていて、かつての規模の大きさがをしのばせる。時間はあるので向かい側のホームも見てみようと歩を進めると、そこで待っていたのは

通行止めのネット。現在の運用は棒状ホーム扱いである

あらためて見ると、なるほどレールは錆びている。車掌さん用のモニターがあるので、最近まで利用されていたようではあるが…
背後の美しい山の稜線とのコントラストがちょっと寂しかった


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~かつての観光拠点駅は駅名板に面影を残す
※訪問は2024年10月9日
※写真には10月8日のものも含まれています
絶対に寝坊厳禁
木崎湖畔の宿から朝の7時過ぎの国道を再び駅へと向かう

まだもやがかかっている。そして寒い。昨夜の部屋はエアコンなしではいられなかった。10月上旬とは思えない。6時の気温が3度だったので、まだいくらも上がっていないだろう

駅は国道から少し奥に入った場所にあるが、大きな立て看板があるので道路沿いからもすぐ分かる
そして毎度おなじみの時刻表

ここからは当駅以北の駅を巡っていくが、7時29分の南小谷行きを逃すと3時間半運行がなく、なかなか悲惨なことになるというか、何をしに来たのか分からなくなる。そんな保険も含め、3日間有効の秋の乗り放題パスに準拠して2日で十分終わる予定にプラスして1日予備日を設けたのだが、ここまで来られたということで本日の仕事は終わったようなもものだ。後は時刻表通りに運行してくれれば列車に揺られるだけ。ウトウトしての寝過ごしはまずいが、だからといって危険なことはない。車旅に対する最大のストロングポイントだ
かつては木崎湖の観光拠点

信濃木崎駅。1929年(昭和4)の開業。国鉄によって建設された信濃大町から北は信濃大町~簗場が最初に開業。海ノ口、簗場とともに最初の駅となった。当時は平村。戦後の1954年に大町などと合併して大町市となった。平村には海ノ口と当駅の2つの駅があったが平村の中心駅は当駅で、生活駅だけでなく木崎湖観光の拠点駅としての役割も担い、優等列車が停車した時代もあったが、車時代の到来とともに木崎湖へはマイカーでのアクセスが中心となり、観光駅としての地位は低下。前記事でも触れたが、木崎湖のすぐそばを線路が走っているにもかかわらず、駅から徒歩で15分という距離が車へのシフトを早めたのかもしれない
朝が早すぎるということもあったのかもしれないが、宿に宿泊していたお客さんで、ライダーの方々はともかく私と同じ時間帯での乗車は私だけだった
現在の駅舎は1999年(平成11)からと新しいもの。写真で分かる通り、簡易的な構造。それ以前には開業以来の駅舎があった
誕生日が同じで、おそらく同一の施工者なのだろう。海ノ口とそっくりさんの駅舎だったようだ
小さな待合所に助けられる

駅舎内には小さな待合所。駅の標高は760メートルで寒さがこたえるはずの高さでこの空間には助かった。利用者の居住スペースとしてはここだけで時刻表と料金表がある。近年のデータはないが、1日の利用者数は50人ほどとみられる

こちらはホーム側から見た駅舎だが、お手洗いらしい入口のドアは施錠されていて入れない。要は当駅にはお手洗いがないので要注意。大町市内の駅はホームと待合所のみの駅でもお手洗いが設置されていることがほとんどだったが、駅舎のあるこちらはない。私は前日に到着した際、そのことが分かっていたので事なきを得たが、知らなければ危ないところだった
かつての駅舎の面影を残すものは

駅舎に掲げられた駅名板。これだけが旧駅舎から引き継がれたものだ

ホームは2面2線構造で、構内踏切での移動となる。私が乗車した時間はすれ違いが行われる時間帯。信濃大町行きにダッシュする高校生の姿も見られた。ここから今日の1日を始めよう


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~湖畔の温泉宿で早々からのんびり
※訪問は2024年10月9日
午後3時過ぎに投了

2時間待ちの北大町駅から乗車してわずか1駅。信濃木崎駅で下車。北大町~信濃木崎の駅間距離は北大町が後からできた駅だけあって近く2・2キロ
徒歩でも30分ちょっとの道程だ。歩くにはちょうど良い季節(10月にしては寒すぎたが)。線路沿いに道路があって、いろいろな要素から歩いてくださいと言わんばかりの条件がそろっていて通常の駅巡りなら普通に歩いていただろうが、今日は2時間待機しても電車で1駅。と言いつつ前記事のカフェにたどり着くまでウロウロしたので、その間に信濃木崎まで着いているという話もあるが、それは後から「そういえばそうだな」と分かるもの。妙な効率の悪さは旅では必要悪のようなものでもある
そして歩かなかったもうひとつの理由は、駅からさらに10分以上歩く必要があったこと。それは宿までの道程で、まだ15時半にもなっていないが、今日の駅訪問はここで終了。時間的、ダイヤ的にはもう1駅行けそうだが、朝6時の名古屋からはかなり時間が経っているしギブアップ。投了である
木崎湖畔の温泉へ
基本的には旅に出かけるとピジネスホテルに宿泊する。いろいろな考えはあるだろうが、気を遣わずに楽だしプライベートが確保されて安価。私にはちょうど良い。ただたまにはちょっと異なる空間をと、今回は今日そして明日と方向性を変えてみることにした。今回は木崎湖畔の木崎温泉にある「民宿やまや館」に宿泊する。その木崎湖温泉は信濃木崎駅から徒歩で10分ちょっと
信濃木崎の駅については次の記事で紹介する予定だが、もともとは木崎湖畔観光のアクセス駅としての役割も持っていた。だったらもう少し湖に近い場所に駅を設置しても良かったのではないか、とも思うが、それだと観光に特化していて周辺住民が利用するのに不便だったのだろう

線路に沿った道路を歩いていくとローソンが登場する。存在は宿の位置を地図で確認した時から分かっていて、随分と駅から離れて場所にあるもんだと思っていたが、国道が県道と交差して大糸線の線路をまたぐ場所に位置していて納得。個人的にも大歓迎で買い物をしてからローソンの左側の道路を進んでいくとすぐ

旅館街に到着

やまく館さんも、すぐの場所だった
のんびり過ごして早朝出発
宿に着いた時はまだ他のお客さんがいなくてお風呂は独占。のんびりしよう

早々にビールを飲んで部屋でウトウト。再度風呂に入って

夕食。10月というシーズンオフだったが、お客さんはかなりいて、木崎湖畔の宿も国際色は豊かだった。ライダーの方々もいた
翌朝も朝風呂からと思っていたが、朝6時の気温が3度という真冬のような寒さだったので、7時過ぎには宿を出る予定ということもあって断念

絶対に7時半の列車に乗る必要があったので6時半からの朝食の提供は大いに助かった。この日は炊き込みご飯のサービスもあった。最近は民宿でもwifiサービスが標準装備になりつつあるようで、それにも助けられた。季節や曜日によって料金は変動するのだろが、この日私が支払ったのは酒代も含め1万円もしなかった。大変満足して7時過ぎに宿を出発。これで今日は朝から元気に各駅を回れそうである


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~黒部ダム建設の拠点を担った駅で2時間待ち
※訪問は2024年10月9日
稲尾駅と誕生日は同じ

北大町駅に到着。駅名標で分かる通り、信濃大町駅のひとつ北隣の駅。信濃大町駅以北は国鉄によって敷設された区間となる。そのため路線内では、国鉄建設による1つ目の駅となるが、開業は全通後の1960年(昭和35)の7月20日で先に紹介した稲尾駅と同じ誕生日。構造も同じく単式ホームと待合所のみの簡素な構造となっている
2時間電車が来ない
駅の紹介より、先に時刻表を紹介しよう

簗場から12時56分でやって来た。同方向つまり信濃大町、松本方面は16時24分で、なんと3時間半後、南小谷方面も15時12分で2時間以上後と、まぁまぁ困る運行状況となっている。ただ駅の周辺は大町市の市街地域でもあり、住宅や商店もある。時間的にはランチタイムなので、あまりアテはないが、食事をして時間を潰せそうなら、ここに居座り無理そうなら30分ほど歩いて信濃大町駅を目指すつもりだ

ということで時間はいくらでもあるので駅をじっくり見ていこう。じっくりといってもすぐに終わってしまいそうだが、基本的には2両編成の列車しかやって来ないためホーム有効長は短い

住宅街の中に戦後10年以上も経って設けられたことから駅前広場といったものはなく、この階段のみが駅の内外を結ぶ導線だ
貨物の重要拠点

駅の南側には踏切があり、ホームと逆側に街が広がる。音楽ホールでもある大町文化会館は駅に隣接した形となっているが、この場所が北大町駅にとって大きな意味を持つ
この場所は関西電力の資材置き場だった。大町そして関西電力といえば、ピンと来る方も多いだろうが、資材は黒部ダム建設用のものだった。やがてここから県道が造られる
長野県道扇沢大町線。立山黒部アルペンルートと言った方が分かりやすい。関電トンネルの扇沢駅までのバスが信濃大町駅から出ているが、県道そのものの起点はここ文化会館。現在は観光ルートだが、もともとは黒部ダム建設用の資材を運ぶ道路として建設された。貨物列車で当駅付近まで運ばれた資材はトラックで現場まで運ばれた。駅としては旅客専用の駅だったが、大プロジェクトを担う駅だったのだ
ふらり入ってカフェで
さて肝心の時間つぶしだが、町をウロウロしているとカフェを発見

ホットサンドのセットで昼食としたのだが、地元のおなじみさんばかりの店内で会話は大いに盛り上がり、あっという間に時間が過ぎ去った。12月にも加古川線に乗車した際、西脇のカフェでこちらも地元トークに花が咲いた。地方の喫茶店にはこんな楽しみがある。西脇の場合は神戸からすぐの場所なので土地柄的な部分は共通点も多いが。さすがに大町には土地勘は全くない。初めて知ることばかりだったが、ひとつ分かったのは今日のように地元の方もビックリの急に寒くなる日があるということ。それがたまたまこの日だったようだが「立派なセーター用意して来るなんて偉いじゃない」と褒められた。お漬物やフルーツのお裾分けもあって楽しいひとときを過ごせた。ごちそうさまでした
信濃大町駅近くにあるのかなぁ、とちょっと困っていたドラッグストアも付近にあって助かった。あっという間の2時間で町の散策はほとんどできなかったが満足して駅に戻る

近年のデータはないが、おそらく100人は切っているであろう1日の利用者数の駅だが立派なお手洗いが設置されている。よく見ると「電源立地地域対策交付金」の文字。その前に立ち寄った簗場駅にも

年代は異なるが同じものがあった。観光地としての黒部ダムは認識していても建設については、ついつい忘れがちになってしまう。北大町の駅に来ても面影はほとんどないが、このようなプレートを見ると、当時のことをいろいろ思い巡らせてくれるのだ


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~湖畔観光、スキーの駅としてにぎわう
※訪問は2024年10月9日
ロッジ風駅舎は平成になってから

バスを降りて簗場駅へ。駅舎はロッジ風でおしゃれな感じだが

中に入ってみると簡易的なもの。もちろん無人駅

財産票によると2004年からのもの。「待合所」とされているので駅舎という感覚ではないようだ
大糸線での最高標高
最近の数字は分からないが、おそらく現在の1日あたりの利用者は20~30人ほど。しかし以前の当駅はもっとにぎわいを見せていた

駅の前はすぐ中綱湖で湖畔の旅館街までは徒歩で10分もかからない。私の訪問時はシーズンオフだったが、旅館街のすぐ向こうにスキー場が見える。鹿島槍スキー場で、駅から歩いていけるスキー場である
簗場駅は1929年(昭和4)の開業。信濃大町以北の建設を行った国鉄が信濃大町から北へと線路を伸ばす際の一時的な終着駅だった(翌年、神城まで延伸されている)
転機を迎えたのは戦後となった1957年の大糸線全通以降。元々は国防用に敷設が始まり、全通時には終戦から10年以上が経過していた大糸線をレジャーに活用することになって、最初に着手したのが輸送力を充実させるための電化だった。松本から信濃大町までは信濃鉄道の手によって大正期に電化されていたが、信濃大町以北も一気に電化させようというもの。信濃大町~信濃四ツ谷(現白馬)までが1959年には電化される
以前の記事で白馬駅について紹介したが、最も脚光を浴びたのはスキーだった。沿線では、それまであったスキー場の拡充や新規オープンが相次いだ。その意味では夏場のレジャーにもなる仁科三湖を有する簗場駅は格好の対象だった。当駅の標高は827メートル。大糸線内で最も高い場所にあり、道理で肌寒いはずだが、電化後間もなく鹿島槍スキー場がオープン。当時は何本も乗り入れていた大糸線の優等列車も停車する駅となった
はがれた地図にあった駅
駅前にあったトレッキングコースの地図に目が行ってしまった

赤丸で囲った部分。紙で塞いだ部分がはがれていた。駅の部分を覆っていたようだが「ヤナバスキー場前」と書かれている。簗場駅の駅名標も

かつてあった隣駅を変更した跡が明白だが、簗場と南神城の間にはかつてヤナバスキー場前という駅があった。スキーの季節だけ営業する臨時駅だった
こちらは青木湖畔にあった。グーグル地図を拡大すると、もちろん駅はないが、今も「出入口」という表記だけが残る。1985年という昭和終わりごろのスキーブームのころに開業したヤナバスキー場だったが、2016年度に営業を中止しており、臨時停車もなくなり、やがて廃駅となった。存在していれば簗場駅よりも標高の高い位置にあったようだ。また現在は大糸線を北上すると簗場駅が大町市最後の駅となっているが、この駅も大町市にあった
簗場駅が簡易化されたのは、ちょうどそのころ

優等列車の停車があったことを物語るように、かつては長いホームがあったようだ

側線が保線用に残されている。かつての貨物ヤードだったのだろうか

ホームの待合室は古いものが残る

この時間帯は当駅で列車交換が行われる。再び信濃大町方面へと向かう


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~アテのないかもしれないコミュニティバスに乗車
※訪問は2024年10月9日
稲尾駅前のバス停
稲尾駅を出た国道にある停留所

かわいい停留所があった。大町市のコミュニティバスである
今回もお世話になります
駅巡りで困った時の強い味方、コミュニティバス。9月に中央西線の最北部分で塩尻市のコミュニティバスにお世話になって以来のことだ。列車がなければコミュニティバスである

これが時刻表。1日3・5往復で平日のみ運行というのはコミュニティバスの鉄則のひとつ。私が乗るのは青木・木崎方面。最初の写真で分かるかもしれないが、停留所があるのは稲尾駅を出た国道の向かい側。稲尾駅側にバス停はないが、注意書きに「道路の反対側で手をあげて運転手にお知らせください」と書いてあり、なかなか親切。過去の体験ではこのような案内はなく、ただバス停の向かいで「お~い」と手を振って停まってもらった
稲尾駅に到着したのが10時56分でバスの発車が11時32分。1日わずか3本ながら、まるで私のためにあるような運行だ。稲尾駅で降りたのは私一人、そしてバス停で待つのも私一人。電車がなければバスである

間もなくバスがやって来た。ただ「私のためにある」と言っておきながら、実は不安だらけなのだ。この路線は途中からデマンド化されるようで、簗場駅近くの停留所はデマンド路線の中にある。大町市の中心部から出るこのバス(もちろん信濃大町駅も通る)は付近の集落をクネクネと入念に回るようで、路線バス扱いの最も近い停留所で降りたとすると
線路沿いに30分ほど歩く必要があるらしい。しかしバス用の携帯アプリ(地方に行くと使用頻度が高いのでインストールしている)によると、簗場駅近くの停留所は乗ることはできないが、到着時間は書いてある。ひょっとして降車だけなら可能なのか? 時間はたっぷりあるので30分歩いても電車には楽勝で間に合うが、わざわざバスに乗って、その後30分も歩きたくはない
乗客は私のほかにはご老人の女性。明らかに地元の方で、コミュニティバスによくある運転手さんも顔を知っているお客さんのパターン。乗車時におそるおそる尋ねてみた
「湖端で降りたいのですけど」
事前に「こばた」と読むことを調べておいた。すると
「分かりました」
平静を装っていたが、この時の気分といったらなかった。心の中で何度もバンザイを繰り返していた
中綱湖畔の旅館街を通る
これで安心してバスの車窓に専念できる。どうやら千国街道の旧道を通っているようで、国道148号=千国街道と思い込んでいた私は認識が微妙に異なることを教えられた。また簗場駅は仁科三湖のひとつである中綱湖にほど近く、湖畔の旅館街をバスは抜けていった。実は今回の旅において、この付近の旅館への宿泊も考慮したこともあり「予約しかけた旅館は、ここなんだ」と思いながら車窓を眺める
先客のご婦人は、そのあたりで降りて残ったのは私一人。そして間もなく

無事、湖端に到着。このあたりはフリー乗降区間らしく簗場駅と言えば降ろしてくれたかもしれないが、駅とは目と鼻の先なので全く問題はない

大町市街行きは、やはりデマンドバスになっているが、大町市内から来る時は乗れたので良かった

中綱湖が美しい。私はバスに揺られて湖の向こうの集落のある場所からやって来た
ちなみにバスはこの先、簗場という停留所を通るが、駅名と同じながら、ここは駅からはやや遠い。もしバスで簗場駅を訪ねる人がいれば留意してほしい。まぁ、この記事を読んで訪ねる人はほとんどいないと思いますが


↑2つクリックしていただけると励みになります

大糸線全40駅訪問最終章~木崎湖ほとり2駅のひとつに残る駅名板
※訪問は2024年10月9日
「恒例」のホーム+待合所の駅

稲尾駅に到着。本日最初の訪問駅だが、名古屋を7時に出て最短距離で来たものの、すでに11時前となっている。ただダイヤ的に、どんなに早く行動しても名古屋からスタートする限りこの時間になってしまう
そして駅は大糸線ではおなじみのホーム+待合所のみの構造だ
木崎湖ほとりの2駅
大糸線の車窓のハイライトのひとつである木崎湖畔の2駅のうちのひとつである海ノ口駅についてはすでに紹介済みだが、もうひとつの駅が、ここ稲尾駅。そして私の駅訪問については、ちょっと失敗している
両駅間は極めて近いのだ。しかも平坦コースで線路に沿った道路を歩くことができるので駅間距離の1・3キロとほぼ同じと、駅間徒歩のための大切な要素がそろっているのに前回思いつかなかった。しかも木崎湖が最も接近する景観の良い場所を歩くことができた。限られたダイヤで、これは見逃しのひとつだろう

地図で分かる通り、駅ホームからの眺望は農地を挟んでの木崎湖という形になる。10月上旬ということでまだ夏の香りも多少は残るが、山にかかった霞などもう少し早い時間帯なら、もっと美しかったと思う
全通後にあらためて新設
当駅は1960年(昭和35)の開業。大糸線の全通が1957年なので、その3年後に新規開業した。このタイミングで北大町、飯盛と同時に3駅が開業している。いずれも信濃大町より北の駅だが、このころは大糸線にとってエポックな時代で、戦前から国鉄によって敷設された信濃大町以北の電化が急ピッチで進んでいた時だった。全通からわずか2年後には信濃四ツ谷(現白馬)までが電化され、稲尾駅設置の1960年には信濃森上までが一気に電化。そのタイミングでの新駅誕生だった。地元からの請願があっての開業で、海ノ口駅までの距離が短いのもそのためだ。逆側の隣駅である信濃木崎駅までも2・2キロしかない

急ピッチで建設されたこともあり、ほぼ並行する国道に面していて簡素な入口があるだけで国道側からも分かるように駅名標は外向けの駅名板も兼ねるリバーシブルな形式だ。ホーム有効長も3両分しかなく4両編成の場合はドアカットが行われるという
そんなシンプルな構造の稲尾駅だが、ひとつ目を引くものがこちら

待合所に掲げられている駅名標。形式はクラシックなものに見えるが、随分真新しいと思ったら解説があった

うれしい気遣いというか心配りだ。わざわざモニュメントとして掲示しているという。電車から下車したのは私一人だけだった。最近のデータが調べても出てこなかったのだが、10年以上前で1日の利用者が10人ほどだったそうなので、おそらく今はそれ以上の数字ではないだろう。そんな小さな駅で出迎えてくれた駅名標に敬意を表したい
さて待合所の中にある時刻表を見ると

10時56分の電車でやって来たので上りも下りも1時間半運行がない

ちょうどあずさがやって来たが、もちろん当駅に停車するはずもない。さすがにここで時間をつぶすわけにはいかないので、ここからは別の交通手段で別の駅へと移動することにする


↑2つクリックしていただけると励みになります
