夏の青春18きっぷのシメを今年も高山本線で~閑散区間の豪華駅舎で涼タイム

坂上駅の駅名標

※訪問は2023年9月9日

沿線の訪問難所区間

高山に到着。時間はまだ9時だが、昨年と同時期に来た記憶をたどると明らかに異なるのは気候である。朝に吐息が白くなって、さすが山中は違うなぁ、と実感したが、多少時間が異なるとはいえ、朝から皆さん、半袖シャツ1枚。このぐらいの時間になると、もう暑い

乗継ぎまで40分の時間がある。高山駅の裏手に朝から営業している食堂があって昨年は時間の関係で立ち寄れなかったが、今年は食べることができた。味噌汁と素朴な朝食が身にしみわたる

ホームに戻ると、ちょうど特急「ひだ」の結合作業中。朝から多くの人でにぎわっているが、私が向かうのは逆方向

週末の9時半。私の予想よりも人は乗っていたが、それでもガラガラである。当然ながら明らかに同業者(鉄道ファン)と思える人の姿もチラホラ

ここから先は閑散区間に入っていく。高山~飛騨古川の3区間は区間運転が運行されているが、その先へ向かう普通列車は、これから乗車する9時40分の後は12時1分、その次はもっと空いて16時2分。その間にも、わずか15キロだけの区間運転があるのだから、データ的にも本数を増やす意味がないことになっているのだろう

この飛騨古川から猪谷を挟んでの越中八尾までは、なかなかシビアな運行で駅訪問の難所。飛騨古川から先の杉崎、飛騨細江は神岡へと向かう路線バスの本数がそこそこあるが、角川~杉原の4駅は路線バスもない。コミュニティバスがあるようだが、調べると地元の方オンリーのデマンドバスと路線バス扱いの両者があって調べきれなかった。というか週末はコミュニティバスそのものがないので、今日明日に限っては全く意味をなさないのだ(猪谷以北のJR西日本区間については後日あらためて説明)

気候で訪問駅を決める

難関区間の4駅のうち、訪問済みは杉原のみ。本日のメインイベントの角川は何が何でも行くとして(次回の記事で紹介します)、本日の日程では坂上、打保の2駅のどちらかしか行けないのだが、駅の写真を見て行く先を決めた

下車したのは坂上である。私も全くの誤読をしていたが、「さかかみ」である。高山本線には濁音が予想とは異なる駅がいくつか存在するが、そのひとつ。ちなみに閑散区間の「角川」「坂上」「打保」は3駅連続でそれに該当する

さて、なぜ当駅を下車駅と決めたかというと

理由は簡単で、この立派な駅舎

乗ってきたのは10時17分の富山行き。そして11時53分の高山行きで引き返すのだが、待機時間が1時間半もある。打保駅は簡易駅舎で、お手洗いもないようだ。これは困る。というか猛烈に暑い。さすがに90分をその状況で過ごすのは老体には堪えるのである

旧宮川村の中心駅

駅は2004年まで存在した宮川村の中心駅。古川町、神岡町、河合村と合併して飛騨市が誕生した。高山本線では坂上、打保、杉原の3駅が村内にあったが、坂上駅はない。駅の開業は1933年(昭和8)。富山から延伸されてきた線路がここまで伸びて終着駅となり、翌年に岐阜からの線路が当駅までやって来て高山本線は全線開通となった。いわば歴史的な駅である。1956年に坂上村と坂下村が合併して宮川村となったが、駅名はそこからのものだ。村名は村内を流れる川にちなむ

駅前には旧宮川村役場である振興事務所のほか、JA、郵便局、小学校がある。村内にはいくつかの小学校があったが、ここが唯一残っている

駅舎の隣には「坂上駅詰所」という建物があった。線路がつながって全通した歴史的経緯なのか、当駅が雪深い飛騨古川以北の保線基地の役割を担ってきたようだ

駅は2面3線構造で側線もあり、保線車両の倉庫がある

時間があるので周辺を散策

駅を降りてすぐの旧村役場の隣が神社への参拝道となっている

先に紹介した駅舎は「遊ingギャラリー」との合築となっていて山小屋風の駅舎の2階が絵本のギャラリーとなっている。旧宮川村が1996年に建てた

待合室もエアコン完備。もちろん立派なお手洗いもある。快適に時間を過ごすことができました

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夏の青春18きっぷのシメを今年も高山本線で~ちょっぴり複雑な気持ちの特急停車駅は沿線最高峰の駅

久々野駅の駅名標

※訪問は2023年9月9日

旧久々野町の中心駅

渚から1駅(といっても7キロもある)高山方面に進んで久々野に到着

2005年に高山市編入となった旧久々野町の中心駅。久々野とは山の守り神「クグノチ(久々能智)」に基づくという。町内には前記事の渚と2つの駅があったが、駅前に何もないに等しい渚と比べると、地図で分かるように駅を中心に大きな町が広がる

駅は2面3線構造で

開業は1934年(昭和9)。高山本線が飛騨小坂から飛騨高山を越えて坂上まで一気に開通。富山方面からの線路とつながり全通した際に設置された

朝夕に1日2往復の特急も停車する。主要駅の扱いでもある

しかし

駅舎は簡易的なもの。もちろん無人駅。かつては開業以来の駅舎があり、もちろん駅員さんもいたが、2010年に簡易委託化され、旧駅舎は解体。やがて完全無人駅となった

少し前なら特急停車駅といえば、駅員がいるのは当然で、もちろんそれなりの駅舎もあるという姿が普通だったが、無人の特急停車駅も珍しくはなくなり、そこが簡易化された駅舎でも、なんとなく受け入れられるようになっている。おそらくこの10年ぐらいの出来事

駅舎内は小さな椅子があるのみ。2022年の実績では1日の利用者数は79人。数字だけを見ると、無人化や簡易化もやむを得ないところだが(駅舎が解体されたころは200人程度の利用があった)、寂しい感じは否めない

最高地点の木標は残る

そんな駅舎の横には、ややくすんだ木製の案内が残る

高山本線で最も標高が高いことを示す木標。当駅の標高は676メートルである。古くから建てられたものが、残されたようだ

高山本線の車窓といえば川だが、美濃太田付近から、ずっと線路に寄り添ってきた飛騨川(美濃太田付近で木曽川と合流して太平洋側へ注ぐ)とは、ここでお別れとなる。駅が最高地点なので、分水嶺も近い。飛騨川は線路から外れて山中の水源方面へと向かう

間もなく車窓に現れるのは日本海へと注がれる宮川(神通川)である。車窓には常に川がある高山本線だが、飛騨川と別れると、すぐに宮川と合流するため、ちょっとぼんやりすると、富山県までずっと同じ川と付き合っている感覚に陥ってしまうが、そんな川はないわけで、よくできた敷設である

立派な施設も

駅前には立派な建物があって、こちらはお手洗いである。高山市によって管理されているもので、男女別のきれいな市営トイレとなっている

昼間は3時間ほど列車が停車しない時間もある当地では昼間も1時間に1本運行される高山~下呂のバスが重要な交通機関となっている。現在の国道41号は久々野駅からやや離れた所を通るが、路線バスは国道から外れて駅前にやって来る。高山までは約30分。2区間のみの鉄道の方が速いが、現状ではバスが有効な手段である

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夏の青春18きっぷのシメを今年も高山本線で~山中に存在する「渚」の意味は

渚駅の駅名標

※訪問は2023年9月9日

ポツンとたたずむ簡易駅舎

渚駅に到着しました。山中にポツンとたたずんでいて周囲はわずかな民家があるのみ

すぐ向こうは飛騨川。国道41号は駅舎と逆側を走っているので駅前を通る車も少ない。飛騨川の向かい側には小さな集落があるが、降りるだけでは一体何のための駅なのか分からなくなってしまうほどだ

これは昔からの渚の集落が1キロ離れたところにあるため。地図だけ見ていると、なぜここに駅が設置されたのかは、ちょっと分からなかった

駅舎はこぶりな簡易型のもの。1998年に現在のものとなっているので、旧駅舎がなくなって25年が経つ

渚=海ではない

駅の所在地は高山市久々野町渚。かつては久々野町に属していたが、2005年に久々野町が高山市になった

渚といえば、海と砂浜をイメージする人が多いだろう。私もその一人。ただ「渚」の意味は「海、川、湖など波の打ち寄せるところ」。つまりは「水際」ということ

おそらく流行歌やテレビ、映画の影響でいつの間にか渚=海という刷り込みがされていたのだと思う

この付近はには、かつて水際を利用した船着き場がいくつかあって、それが地名となったようだ

実は「渚駅」はもうひとつあって長野県松本市のアルピコ交通にも全く同じ駅名がある。松本だから全く海には縁がない

こちらは松本市の中心部に近い。付近が湖だったことが地名となったという。国内に「渚駅」はこの2つしかなく、いずれも海とは無縁な場所にあるのがおもしろいところだ

高山本線の渚駅は駅舎を兼ねた待合室から直接ホームに入る

すれ違い可能な2面2線。両隣の飛騨小坂、久々野とはともに7キロも離れている。もちろん現役の駅だが、どちらかというと遠い両隣の間に設置された山中の信号場の役割を果たしている。行先もホーム別でしっかり分かれているようだ

時刻は8時すぎだが、山中はガスも多い

渚駅の開業は1934年(昭和9)と古いが、全国各地の国鉄駅の多くが有人だった昭和40年代の1969年に早々に無人化されている。駅の立地や両隣が一部の特急停車駅だということもあり、当駅の2022年度の1日の利用者は乗降合わせて6人。高山本線の駅で利用者が1ケタというのはは3駅しかなく(他は杉崎と禅昌寺)、この6人というのは1人の杉崎(これも凄い数字だが、全国を回っていると驚かなくなっている)に次いで下から2番目である

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夏の青春18きっぷのシメを今年も高山本線で~南飛騨中心地の木造駅舎

飛騨萩原駅周辺は飛騨街道の宿場町として栄えた

※訪問は2023年9月9日

出発は早朝の美濃太田から

朝6時の美濃太田駅から今回の旅はスタートする。当駅は今年のGW以来なので約4カ月ぶり。改札外に出る出ないは別として、高山本線を行こうとすると乗り換えなどでホームに降り立つ回数がぶっちぎりで多い駅となる

前日は名古屋で用事があり、夜のうちにここまで移動して宿泊。高山本線の駅巡りを開始する。昨夏の青春18きっぷでは「とにかく高山本線に突っ込んでみる」と最終日の2日間で残り2回の18きっぷを使用したが、今回も今夏の18きっぷは今日を含め残り2回で権利も2回。同じような条件だが、やみくもに突入した昨年とは違い、今年は高山本線全駅訪問という目的がある。多少は計画的に行こう

ただ2日では積み残しの可能性も大。下呂以南は青空フリーパスのエリアなので、とにかく下呂~富山を重点的に回ることにした。それなら下呂に泊まった方が便利なのだが、予算の問題や前夜の到着がさらに遅くなること、駅と宿の距離などを考慮して美濃太田泊となった。もっとも18きっぷを少しでも長めに使用して経費削減を図ろうというセコい考えがあったことも否定はできない(笑)

ある意味、貴重な存在になりつつある単色の発車案内。6時16分に乗車する

美濃太田から70キロ

約1時間半かけて

飛騨萩原に到着。美濃太田からは70キロも離れていることを列車に揺られながら実感。やはり少々お金がかかってもいいので下呂に泊まれば良かったか。実は美濃太田からは5時という始発があり、そちらにも乗ろうと思ったら乗れたのだが、宿の事情でかなわなかった

ただ週末の8時前にもかかわらず、すでに窓口は空いている

当駅は現在、駅の業務が萩原町の観光協会に委託されている

大きな看板で出迎えてくれた

宿場町として栄える

落ち着いた感じの駅舎が健在。ちょうどワンちゃんの朝の散歩の時間帯だったようで、風情に一役買ってくれた

こちらは駅名板

開業は1931年(昭和6)5月。前回の記事で焼石までの延伸(1929年4月)に触れたが、翌年の11月に下呂まで延伸。さらに翌年、飛騨萩原まで延伸された。駅間距離は別として焼石~下呂が1区間、下呂~飛騨萩原が2区間なので、しゃくとり虫のようにジワジワ延伸されていた

しかし当駅は2年以上にわたって終着駅の座にあった。それは立地にも理由があった

駅の周辺は旧萩原町の中心部。萩原町は2004年に平成の大合併で、同じく益田郡にあった下呂町などと合併。益田郡がなくなり下呂市が誕生したが、知名度では下呂に軍配が上がるものの、古くから飛騨街道の宿場町として栄えた萩原町が益田郡の中心地だった。今も県の期間や警察署は当地にある。合併の際も自治体名をめぐって対立があった

南飛騨の中心地なので、しばらくの間、終着駅でもそれは意味があったのだ

駅舎内には萩原町の名勝の写真が多く展示されていた。1日に4・5往復の特急が停車する

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青空フリーパスで高山本線に挑む~山中の簡易的駅舎の読み方でシメ

焼石駅の駅名標

※訪問は2023年4月29日

駅名に目をひかれる

焼石駅に到着。まず駅名を見て最初は「なんて読むのだろう?」「まさか『やけいし』とは読まないだろう」と思っていたら、そのまさか、でちょっと驚いてしまう駅である。そう、誰もが知ることわざ「焼石に水」の焼石。付近は少ない平地部分を生かすため、古来より焼き畑農法が取り入れられており、それが地名につながったともされる

現在の下呂市は2004年まで下呂町だったが、1955年に下呂町と合併した中原村の駅が焼石である。村内唯一の駅でもあった

飛騨川沿いのわずかなスペースに集落があり、そこが中原村の中心部。駅の場所は集落の南の端あたりに位置し、国道は川の向こう側を走る

古来より交通の難所

駅の開業は1929年(昭和4)4月。飛騨金山から1区間延伸された。たった1区間だが9キロもある。1年半、終着駅として存在し、翌年11月に下呂まで開通したことで途中駅となった。ほんの少しずつの延伸だが、下呂まではさらに遠く12キロ。10分以上の所要時間がある。両隣の特急も停車する駅に挟まれ、途中にポツンとある駅だ。20キロもの間にひとつしか駅がないため、当駅~飛騨金山、当駅~下呂には信号場が設けられている

当駅付近は「中山七里」と呼ばれる渓谷。現在は美しい車窓を味わうことができるが、古来は飛騨地方を行く飛騨街道は急峻な峠越えが多く、交通の難所とされていた。安土桃山時代に七里にわたって街道が改良されたことから名付けられた。当駅の中原村はその真ん中あたりに位置する

そんな山中には真新しい簡易的な駅舎が建てられている。2015年まで開業以来の木造駅舎があったが、解体されて建て替えられた

待合所の丸い窓がおしゃれなデザインとなっている

こちらは内部の様子。もちろん現在の駅舎は無人駅を前提に建てられている。JR移管の少し前に無人化された

駅前の様子。古い民家が並ぶ中、新しい駅舎が溶け込めずににいる感じだ。ちなみにお手洗いはしっかり設けられているが、写真とは反対方向に数十メートル歩いた場所にあるので、初めて来た人はお手洗いのない駅だと勘違いしてしまうかもしれない

側線も残る一時の終着駅

跨線橋から見た構内の様子。向こう側が下呂方面だが、山が待ち構えている

一時は終着駅だった焼石は開業時から貨物の取り扱いがあり、戦後も続けられた。道路事情が悪かった山中の駅では重要だったのだ

使用されなくなって久しい側線が残る

今回の旅はここまで。名古屋を朝の5時過ぎに出発したが、きっぷが有効な米原まで行き、そこから乗り継ぐという長い旅路が待っているため、そろそろ帰路につかなければならないようだ。青空フリーパス2620円の元は取り過ぎるほど取った。次回、夏の青春18きっぷの季節にまた来よう

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青空フリーパスで高山本線に挑む~国境の街として栄えた町の繊細な駅名

飛騨金山駅の駅舎

※訪問は2023年4月29日

列車を降りると国境のお出迎え

特急「ひだ」で飛騨金山駅に到着。ホームから改札に向かうと飛騨と美濃、旧国の境界を示してくれる。高山に向かうと当駅までが美濃国、当駅からは飛騨国。現在の都道府県境の駅にも惹かれるものがあるが、昔の国の境も駅を車窓からの眺めや駅を降りると、それを実感させてくれる

それはおそらく駅名からも感じられることが大きく、国鉄では同名駅を避けるため、同じ地名があった場合は頭に旧国名をつけるのが慣例となっていて、平素はそれを何も考えず受け入れているが、例えば当駅が「岐阜金山」だったり、特急に乗車した駅が「岐阜太田」だったら、それはそれで受け入れたのだろうが、旧国名とは旅情感が異なっていたと思う。興味を持つ持たないは個人差があるが、私の場合は子供ながらも同じ県でも国が複数あることを知ったのは駅名からである。中にはあえて県名をつけた愛知御津駅もあるが、これはこれで逆に興味を持つきっかけになったりする

ちなみに当駅は美濃と飛騨の国境にあるが、地名と駅の位置については微妙な場所に位置する

国境らしく飛騨川、馬瀬川の合流地点に街が形成されているが、元々の金山は駅から見ると川を渡った向こうで、そこは美濃国。駅の場所は飛騨国にあるため、駅が開設された1928年(昭和3)の時点では、金山でもない場所に「金山駅」が設置され、美濃の一部である金山が「飛騨」を名乗っていた。宿場町として有名な金山を駅名にしたようだが、この矛盾は戦後になって地域全体が「金山町」となったことで解消する。金山町が飛騨に組み込まれたからだ。戦後に旧国の国替えがあったことを初めて知った

木造駅舎内には観光案内所も併設

駅舎は開業当時からのものが、そのまま使用されている

こちらは財産票。高山本線は1928年に白川口から下油井、そして飛騨金山と2区間が延伸され当駅は1年間、終着駅となっていた

駅舎内には観光案内所が入り、駅の業務は観光案内所が行う簡易委託

窓口も小銭用の大理石も現役。特急「ひだ」は1日4往復の停車

明治時代に金山町(当時は祖師野村)で新種が発見されたことで名付けられたギフチョウ

駅舎内には多くの写真が展示されていた

交通でも国境の駅

金山町は平成の大合併で下呂市となった。駅名標も上書きのようにシールが貼られている。きっちり書き直すJR東海の特急停車駅としては珍しい景色である

高山本線は当駅の前後で飛騨川に沿うようにクネクネと線路が敷かれた

ホームもカーブ状に設置されている。2面3線構造で、現在は当駅始終着の列車は設定されていないが、かつては当駅で機関車の付け替えが行われるなど国境の駅として重要だった。今も広い構内が残る。側線があり、保線拠点としては今も現役である

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青空フリーパスで高山本線に挑む~新型車両の特急「ひだ」に初乗車

美濃太田駅に入線するHC85ひだ

※訪問は2023年4月29日

特急利用で先回り

白川口から坂祝を目指す際、美濃太田で10分ちょっとの乗継ぎ時間を利用して美濃太田の券売機で

美濃太田~飛騨金山の自由席特急券を買っておいた。青空フリーパスはエリア内の在来線特急は特急券さえ買えば乗車券を追加購入することなく乗車できるのが利点。エリア内は在来線特急の宝庫で高山本線のほか、中央本線、関西本線→紀勢本線、飯田線とかなりの本数が走っている。米原までなら東海道本線の特急利用も可能。普通列車の本数が少ない飯田や下呂へも行けるので、なかなか便利である(ただ有効日数は1日なので単純往復では元割れしてしまう)

今回は駅回りを効率化するための利用。私が乗車するのは13時28分美濃太田発の高山行き「ひだ9号」。このすぐ後の12時39分に美濃太田から高山行きの普通が発車するため、飛騨金山へはそちらに乗車すれば良いのだが、それだとお隣の焼石へ向かう飛騨金山発の普通は2時間半後になってしまう。さすがにそれは待てないし、飛騨金山~焼石は9キロもあって、とても歩こうという距離ではない。ただ特急に乗車すれば飛騨金山では30分待つだけで高山行き普通に乗車できるのだ。ちなみに飛騨金山に停車する特急は全体の半分ほどの5往復しかなく、特に下りは停車列車が朝夕に集中しているため、これは貴重な一本

これは利用の一択だろう。青春18きっぷなら、乗車券770円も購入しなければならないので、かなり渋々だったかもしれないが、660円ならばバスに乗車する感覚でホイホイ払ってしまう

HC85に初乗車

ということでJR東海の気動車新型特急「HC85」に乗車

私のブログでは、「降り鉄」ということもあって、ほとんど在来線の特急列車は登場しない。ただ本当は結構好きな方である。以前も書いたが特急に特化されている新幹線と違って、在来線では普通や快速を待つホームの人々を見ながら走るエグゼクティブ感が味わえるのがいい

HC85は、これまでのJR東海の気動車特急「キハ85」の後継車。HCとはハイブリッドカーの意味。JR東海では初のハイブリッド気動車となった。通例では85以外の別の数字が使用されるところだが、同じ「85」を使って後継アピールをするところに細かいこだわりを感じる(ただし車両ごとにはクモハ、モハ、クモロと従来の用語が使用されている)

非電化路線はローカル線であることが多く、特に本州内では優等列車が走るエリアが少ない上、本数そのものも限られた路線が多く、新型車両がなかなか登場しづらい状況にあるが、その中でリリースされた貴重な車両である

混雑ぶりは週末あるある

この記事を書いている今となっては紀勢本線の特急もHC85に置き換えられ、そう貴重な体験ではなくなっている(夏にも高山本線で乗車した)が、当時は初めての乗車とあってワクワク感はかなりのものだった。JR東海の在来線特急車両は古いこともあってコンセントがないのが欠点だったが、窓際だけでなく通路側も含め全席にコンセントが設置された。車内wifiもある

このようにシステムの解説もある。また高山本線は岐阜高校の生徒さんの協力によるアナウンスも導入されている

ということで飛騨金山に到着。ひだには自由席が1両しかなく、GWのまっただ中のこの時期、座れなかったら、30分はデッキで過ごすか、と覚悟していたが、拍子抜けするかのように指定席がそれなりに混雑していたのに対して自由席はガラガラだった。観光目的の方は事前に座席を確保したくて指定席が人気する分、自由席が逆にガラガラになるという「週末あるある」。よく見かける光景のおかげで30分を快適に過ごすことができた

参考までにこの区間の自由席特急料金は660円だが指定席だと1290円と倍近くになってしまう。ここのところ、JR各社は利益を上げるため、自由席車両を減らしたり、さらには自由席そのものをなくしたりしているが、何でもかんでも値上げの昨今、「自由席文化」はしっかり残ってほしいものだ

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青空フリーパスで高山本線に挑む~アクセス楽々の素晴らしき難読駅舎は名車に名を残す

坂祝駅の駅名標

※訪問は2023年4月29日

難読駅の片側へ

白川口から再び美濃太田方面へと乗車。美濃太田で乗り継いで1駅お隣の坂祝で下車

これも難読度が高い。ただし自治体名である。同町のHPによると、すでに平安時代の文献に見られる「坂祝神社」にちなみ明治になった坂祝村が誕生した。おまけとなるが、駅を降りるとこのような案内がある

駅はかつての山城のふもとにある。「坂祝町の猿啄城跡」となるわけだが、全く何も読めないという状態になってしまう可能性が高い

さて前々回の記事で

美濃太田駅は難読駅に挟まれているとしたが、当駅は美濃太田のひとつ岐阜寄りにある

今回は美濃太田~下呂の攻略だったにもかかわらず、なぜ足を伸ばしたかというと「列車の運行がなかったから」である(笑)。ローカル線というのは通勤通学の時間帯が終わると「お昼休み」に入ることが多い。ということで坂祝まで足を伸ばした

大正期からほぼ原型を保つ

と書くと、ついでに来たような印象を持たれるかもしれないが、駅そのものはついでに訪れるようなものではない

実に素晴らしい木造駅舎が残る

当駅は1921年(大正10)の開業。高山本線が美濃太田まで到達した際に設置された

駅名標も当時からのものであることを伝えている。アルミで窓が補強されていて、おそらくその際に塗装のやり直しがあったのだろうが、駅舎の向かって右側はあまり手がつけられていない

こちらは駅名板

さて当駅の良さは何といってもアクセスの容易さ。美濃太田のひとつ岐阜寄りにあるため、昼間も30分に1本の運行がある。IC乗車も可能

高山本線の岐阜~美濃太田間の各駅はすべて簡易的に駅舎に建て直されているため、開業時からの風情を残すのは当駅のみである

最近までJR貨物の駅

駅の跨線橋からの風景

町は駅舎側に広がっているが、駅舎の裏手はセメント関連の工場が並ぶ。JR移管後も工場への貨物駅として機能していた。今は草むらになっているが、貨物側線の跡がある

駅舎側にもヤード跡が残る。貨物輸送は2007年まで続き、そのためきっぷの販売など、駅業務はJR貨物が担っていた

必ずしも難読ではない

さて難読駅と随分繰り返してきたが、ちょっと車に興味のある人にとっては難読でも何でもない駅(自治体名)だった

かつて坂祝町には「パジェロ製造」工場があった。かつてといっても生産終了は2021年8月のことだから、ついこの間のこと。パリ・ダカールラリーなどで名をはせた三菱「パジェロ」は1982年の製造開始以来、ここで誕生していた。つまり世界のパジェロ=坂祝として町の名前も知れ渡っていたのだ。40年にわたって320万台以上ものパジェロを世界に送り出していた

現在はICリーダーのみの無人駅だが

ホームに面した駅舎にも歴史を感じる。駅舎の将来についての情報は持ち合わせていないが、岐阜からは30分。本数も多い(名古屋からなら名鉄の新鵜沼経由でも容易)だけに、ぜひ訪問してほしい駅だ

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青空フリーパスで高山本線に挑む~白川町の中心駅も木のぬくもりであふれる

白川口駅の駅名標

※訪問は2023年4月29日

川の向こうが町の中心

美濃太田のお隣の古井から再び山中に入り、下油井のひとつ手前、白川口で下車。かなりの行ったり来たりとなっているが、ダイヤが薄いのでやむを得ない

当駅は駅名からも想像できるように白川町の中心駅、代表駅。なぜ「口」が付いているのかというと、町の中心地は川を挟んだ向こう側だからだ

徒歩でも十分に行ける距離だが、その中心部も別の川で二分される形となっている。古来からの集落は「水」を求めて形成される。鉄道も基本的には集落や町を追って敷設されるが、川沿いの残り少ない平地部分にレールが敷かれるため、スペースがないと町から見て川の向こうになってしまう。山中を行く高山本線は川とは切っても切れない路線である

1日4往復の特急も停車

白川口には上り4本、下り4本の特急も停車する。2面3線構造。普通は5時台の始発が当駅発で、夕方に当駅折り返しの列車が1本設定されている

ホーム上の待合所には1934年の財産票が記されていた

駅の開業は1926年3月なので大正15年。大正期の最後の年に誕生したことになる。岐阜方面からの線路が、お隣の上麻生からジワリ1駅だけ当駅まで延伸された。1駅だけといっても距離は10キロもあり、その後も駅は設置されていないので、山中ぶりが分かるだろう。終着駅のまま昭和を迎え、さらに先の飛騨金山まで延伸されたのは2年後のことだった

開業時からの駅舎

駅舎は塗装がされ直されたりしているものの当時からの木造駅舎が残る

財産票は1929年。開業から3年間は別の駅舎だったのか。だから駅舎の歴史も「当時から」になる

白川町の簡易委託という形で窓口がある有人駅。朝の6時台に岐阜駅を発ってから4時間を要して初めて駅員さんのいる駅で降りた(鵜沼は早朝で無人状態だった)

駅舎内は観光案内所を兼ねた地元物産品の販売所がある。朝食は5時台だったので、かなり空腹感が増してきたので

地元産のせんべいをいただく。当地はお茶の名産地でもある

一体いつから?の文字も残る駅で

ホーム側の駅名板は歴史を感じる上、微妙に突き出ている「出口」の文字もかわいい

これは跨線橋のもの。それほど特殊な跨線橋ではなく標準的な高さだと思うが、一体いつからのものなんだろう。旅人への気遣いである

駅舎入口は、なかなか見かけなくなった両開きである。さすがに戦前からのものとは思えないが、いつからのものだろう。国鉄時代の写真を見ると木製の扉だったようだが、簡易委託化された11年前からのものかもしれない

再び岐阜方面へと戻る。岐阜方面へは駅舎に面した1番線が使用されるが、特急待避の関係で跨線橋を渡った3番線からの発車でちょっと焦った。そういえば、昨夏に青春18きっぷで高山本線を巡った時に、全く列車のない時間帯に猪谷~高山を特急利用したが、すっかり新型車両に置き換えられている。わずか8カ月前のことだが、時間が流れていることを実感した

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青空フリーパスで高山本線に挑む~難読駅のサンドイッチ

古井駅は難読駅

※訪問は2023年4月29日

美濃太田のひとつお隣

中川辺から1駅、美濃太田へと向かい古井駅で下車。もう美濃加茂市に入っていて美濃太田の1駅北の駅となる

当駅はなんと言っても難読駅だということだろう

私的には高山本線の最難読駅は「上枝」だと思っている

ただ、こちらもなかなか負けていない。「こび」とは初見では、まず読めない

古井とはかつてあった自治体、古井町に由来する。ただし平成の大合併に伴うものではなく、1954年に同町や太田町などが合併して美濃加茂市が誕生した際に町としては廃止されている

地名については、いろいろな説があるようだが、飛騨川と木曽川の合流地点に位置して狭い場所にあることから、狭い場所を意味したり、川がつながった場所を意味するとされるが、詳しくは分かっていないという。詳しく分からないということは、古い町だということ。戦国時代より前には町名ができていた

鉄道的にも重要地

美濃太田は太多線との分岐駅で、列車に乗っていると高山本線と太多線が分岐していくのがよく見えるが、そこにあるのは美濃太田の車両基地である

元々は美濃太田機関区。戦前の1932年に開設された。太多線の美濃川合駅が圧倒的に近いが、美濃川合駅も古井町にあった。つまり、美濃太田と名が付くものの、重要な機関区が存在した町だったのだ

美濃太田駅の駅名標を見ると、おもしろいことに気付く

太多線との分岐なので、北側は2つの駅名が表示されているが、高山本線だと、ひとつ北側が「こび」、ひとつ南側が「さかほぎ」。どんな漢字なのか、想像もつかない。後に出てくるが「さかほぎ」は「坂祝」と書く。こちらもかなりの難読で運行の重要拠点である美濃太田は難読駅のサンドイッチとなっているのだ

もっとも美濃太田を挟んだ南北の駅は岐阜寄りか高山寄りかというだけで、列車の運行本数が全く異なるのだが…

その古井駅は簡易型の駅舎となっている。駅の開業は1922年(大正11)。当時からの木造駅舎がずっと使われていたが、2017年に解体されて現在のものとなった。簡易型とはいってもガラスまで使用されているので、ひとくくりに簡易駅舎としてしまうのもどうかという感じではある

ただ駅前の広い敷地にポツンとたたずむ小さなコンクリート駅舎は寂しさが漂うのも事実である

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