カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その12 変化を待つ駅の光景

在良駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

高架?の下へ到着

在良駅に到着。「ありよし」と読む。ホームは高架下にあるが、他の鉄道路線とは西桑名駅を出て間もなく交差してお別れしたはず。一体何だろうと興味がわく構造となっている

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東名阪道の直下を走る

高架の正体は東名阪自動車道

当駅そのものが東名阪道の桑名インターの間近にあり、ここで北勢線の頭上を通る

在良駅の開業は1914年(大正3)で、こちらも北勢鉄道が開業した際に設けられた1期生。1951年(昭和26)まで存在した在良村に基づく。桑名市HPによると、明治の町村制施行の際、西別所村、蓮花寺村などがひとつの村になる際、この付近を在善(ありよし)郷と呼んでいたことにちなんだという

1面2線の細いホームを持つ。これまで紹介してきた北勢線の島式ホームは新駅らしく広いものばかりだったが、この狭いホームは近鉄時代からのものだということを認識させてくれる。ただ当然のことながら、線路が敷かれたころ、そして在良村が存在した戦後間もないころに東名阪道はない

最初の写真で分かる通り、ホームから駅舎へは構内踏切を経て向かう。北勢線の駅はバリアフリー対応のものが多いが、当駅については構造が古く、構内踏切からホームについては階段となる。駅舎については、近鉄時代の古いものから三岐鉄道に移管して自動改札機が設置された際、現在のものに建て替えられている

工事の真っ最中

駅舎で最初に目にとまったのが

カバーをかけられた自動改札機。実はこの3月1日から北勢線ではJR西日本のICOCAシステムを導入。ICカードでの乗車が可能になる。タッチシステムにより定期券も、いくつかの限られた駅にしかない窓口ではなくネット上で購入することが可能となる。今回私が利用した1日乗車券もネット上で買うことができ、スマホで自動改札機を通過できる

つまりは、このように気を遣わなくて済むようになる

そして自動改札機を使えないゆえの臨時的な措置だろうが、きっぷの回収箱が設置されていた

ある意味、このような暫定的な時期だけの貴重な出会いとなった。訪問は1カ月以上前のことなので、現在は順調に自動改札機の更新が行われていると思われる

こちらはホーム上の時刻表。それほど長い歳月を経たものではないはずだが、横雨や横風、気温の上下に影響されてか、かなり年季の入ったものになりかけている。ちなみに当駅にも駐車場はあることはあるが台数は少ない。隣駅の蓮花寺が大きな駐車場を伴って、当駅からわずか600メートルの場所に移転したこともあってか、2023年の在良駅の1日あたりの利用者数は213人。217人の西別所駅(こちらには駐車場がない)とはわずかな差ながら13駅中最下位となっている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その11 統廃合の新駅には農産物販売所

大泉駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

いかにも新駅らしいホーム

大泉駅に到着。こちらで列車交換を行うダイヤとなっていた。東員駅でも見た広めの島式ホームや上屋の感じがいかにも新駅という雰囲気を出している

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2つの駅を統廃合

当駅は2004年(平成16)に誕生した20歳を迎えたばかりの新駅。「大泉東」「長宮」という2つの駅の間に設けられ、この2駅は廃止された。開業時は単式ホームだったが、1年後に現在の島式ホームとなった

ホームからは構内踏切を介して駅舎に向かうが、この方式も東員駅と同じ。北勢線は古くからの駅をのぞくと、バリアフリー対応が強く意識されている

当駅の住所は「いなべ市員弁町大泉」。もちろん当駅ができるずっと前の話だが、周辺はかつて「大泉村」だった。大谷神社から湧き出る泉の水が万病への薬とされたことで大泉という地名になったという。大泉村は1941年(昭和16)に員弁町となり、現在はいなべ市

農産物販売所を併設

地図で大泉駅を確認すると、周辺には何かがあるというわけではなく、その分、線路沿いを南北に見ると、それぞれ大きめの集落があるが、これが大泉東駅と長宮駅がそれぞれあった場所。両駅とも1914年(大正3)の北勢鉄道1期生(大泉東駅はもともと大泉駅を名乗っていて後に大泉東駅となった)だけに、駅を中心として集落が形成されていた。2つの駅が廃止されたといっても、駅間はわずか800メートルで、それまで両駅を利用していた住民向けの道路も建設された

構内踏切を渡ると駅舎に到着

こちらが駅舎。隣に見える似たような色合いの建物が気になるところだが

全景はこのようになっている。隣にある建物は地元の農産物販売所である「ふれあいの駅 うりぼう」。到着したのは、まだ朝の8時半にもなっていない時間で、間もなくの開店前にお店の方が掃除をしている時間だった。もともとは員弁町役場近くにあったものを当駅が開業する際に移設した。そのため、駅舎とは隣接というよりも、一体化した建物のようになっている

2つの駅を統廃合した新駅は140台以上が利用できる路線内で最大の駐車場を備えていて、パーク&ライドのみならず販売所にも安心して車でつけられるようになったことになる

新駅が誕生してからしばらくは駅員さんのいた時代もあったようだが、現在は無人駅で窓口は閉ざされている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その10 駅を移転したその理由は?

蓮花寺駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

1カ月を経ての再訪

朝7時すぎの桑名駅前。冬至の季節でこの時間でも暗がりが残る。1カ月ぶりに桑名にやって来た

本日は残る北勢線、三岐線の回収である。三岐線は積み残しが出そうだが、北勢線はできれば午前中に全13駅コンプリートとしたい

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駅名の割には無骨な駅舎

前回の訪問が11月19日で今回が12月17日なので、ちょうど1カ月が経った。最初の乗車電は1カ月ぶりに出会うだけで懐かしさを感じてしまうサッカークラブ「ヴィアテイン三重」車だった

その蓮花寺の駅舎。「蓮花寺」という駅名から優雅な駅舎を想像していたが、随分と無骨というか、率直な感想を述べると、あまり「お愛想」のない姿形である

当駅は1914年(大正3)の開業。敷設した北勢鉄道の1期生で路線内では最も長い歴史を持つ駅のひとつ。当時は在良村に所属した。戦後間もなく桑名市に編入された。駅名はもちろん最寄りのお寺に由来する

全国でよく見かける蓮花寺は当地でも健在。周辺は神社も多く古来からの神聖な場所のようだ。旧来からの駅舎が建て直されてこのようになったのかとも思ったが、どうも理由は駅前にあるようだ

駐車場のために駅を移転

歴史を見ると当駅は三岐鉄道移管後の2008年(平成20)に移転している。理由はこちらで

駅前に駐車場のスペースを確保するため。北勢線の駅紹介で何度か紹介してきたが、三岐鉄道移管後、パーク&ライドに沿った駅の統廃合や新駅設置が行われている。駐車場を作るスペースがない駅が廃駅となった例も多い。蓮花寺については、北勢鉄道そして近鉄時代からの小さな駅舎があるだけだったが、阿下喜寄りにある在良地区市民センターの前へと100メートル以上駅を移転させ、市民センターの駐車場をパーク&ライドの拠点としたのだ。駅舎ももちろん新設となった

この移動によって、もともと駅間距離の短い北勢線ではあるが、蓮花寺と在良の駅間はわずか600メートルという距離になった

線路に沿って道路もあるため、徒歩で10分かからないような位置関係となった

単式ホーム構造の駅だが、蓮花寺は周辺の地名にもなっていて、家々が並ぶ新興住宅街でもある。2023年の蓮花寺駅の1日の利用者数は538人。13駅中、7位の数字となっている

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その11 改名で市の玄関口に 朝とは異なる満員電車

西脇市駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

徒歩で向かう玄関口

どこをどう見ても廃線跡の道をてくてく歩く

遊歩道になっているようだ。廃線跡なのだから、歩いていけば現在は西脇市の玄関口となっている西脇市駅に到達するはず、というか必ずたどり着く。地図アプリも必要ない。これほど安心できる道はないのだが、ある種の寂しさを感じるのも、また事実だ

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ゆっくりと西脇市駅へ

昼間の加古川線の西脇市~加古川は1時間に1本の運行で、ほぼ毎時45分発のパターンダイヤに近いものとなっている。徒歩約20分と分かっているので、それに合わせて向かうことも考えたが、せっかく来たのだから、余裕を持って散策しながら行こうと喫茶店を出た。楽しい会話に席を立つタイミングを微妙に外してしまった側面もあるが、1時間に1本の運行があるのだから駅まで行けば後は何とでもなる。同じ加古川線でも西脇市~谷川が遅刻厳禁なのとは大違いだ

廃線跡ばかりを歩くのももったいない気がしたので一般道路も歩いてみる。時間は11時で、もう寒くはない。歩いていると汗ばんでしまうほど。3時間前に霧の比延駅でブルブル震えていたのがウソのようだ

街並みが古くて道路の拡張にも限界があるようで歩道部分が少ない

グーグル地図で表示されるコースは私が歩いたものと、ほぼ同コース。表示されている通り旧西脇駅跡近くのホテルから真っ直ぐ廃線跡の道を歩き、実際はそのまま駅までたどり着くはずだがグーグル先生もうまく道路を見つけられなかったのか、一度一般道に出る案内となっている

駅近くの踏切までやって来た。踏切の名前は「野村第三踏切」で旧駅名の「野村」のまま。野村は地名で

道中、地元の掲示板もあった

駅舎は開業時から?

駅前ロータリーには遊歩道「やすらぎの道」の案内がある。つまり廃線跡。アピカ西脇とはホテルのある旧西脇駅跡のこと

先ほどの踏切の向こうには遊歩道入口がある。右の線路が加古川線の谷川方面だ

西脇市駅は1913年(大正2)の開業。これまで書いている通り、当初の駅名は野村。播州鉄道が西脇まで敷設した際の途中駅だったが、1924年に谷川まで線路がつながった際に分岐駅となり、1990年の鍛冶屋線廃止で西脇駅がなくなったことで「西脇」を引き継いで改名された。ただそうした経緯から当駅は西脇市の代表駅というより、玄関口としての色彩が強い

駅舎は開業時からのものを基礎にしているようだが、入口の三角屋根は西脇市駅になってからのもの

有人駅だが、みどりの窓口は廃止され、みどりの券売機が設置されている。ご覧の通りICリーダーが設置されている。加古川線は加古川から当駅までがICエリアとなっている

構内は分岐駅時代からの名残で2面3線構造と大きい

電車に乗ろうとしたら

駅前には加古川線の利用を促す看板もあった。全くの結果論だが、ここに来て電化して20年の西脇市~谷川の廃線を持ち出すなら、鍛冶屋線の方を残しておいた方が収支としては良かっただろう。もっともその場合は阪神淡路大震災の際にバイパス線として見直されることもなかったし、未だに非電化だった可能性すらあった

西脇市では市の中心部から西脇市駅へと加古川線との接続を考慮したコミュニティバスを走らせているが、万能とは言えず、西脇駅があった30年以上前と単純に比べるわけにはいかないものの鉄路の利用者は減少している。私は一見さんで鉄オタでもあるので廃線跡を楽しく歩いたが、真夏に真冬、雨の日も含め20分も歩くのは現実問題としては大変だ

ただ加古川に至る加東市、小野市の沿線では加古川駅での接続の利便性もあって駅の位置は悪いながらも一定の利用者数はある。神戸市内から小野市の中心部を経由して加古川線の粟生駅でJR、北条鉄道と交わる神戸電鉄は、加古川から新快速に接続するJRにすっかり客を奪われ、廃線の危機を迎えているほどだ

そんなことを考えながら電車の発車時刻が近づいてきたので駅舎に入ると、この日は周辺の高校は一斉に試験日だったらしく、高校生が続々と集まってきた。西脇市駅は市の外れ部分にはあるが、駅伝で有名な西脇工業や西脇高校の最寄りで高校生の利用も多い

加古川線といえば国鉄の103系が原型も分からないほど改造されて走っていることで有名で、103系が走る西脇市~加古川での再会を楽しみにしていたのだが、昼間は125系の単行が主力らしく、この時にやって来たのも125系。途中駅でも高校生を中心に出入りがあり、車内は朝の新快速かと思うぐらいのギューギュー詰め(新快速は12両でこちらは単行だが)

終点の加古川では専用ホームで折り返しとなる加古川線電車を待っていた高校生が入れ違いにドッと乗り込んできた。車内で乗客の数を数えていたのは5時間ほど前。全線で50キロに満たない路線の別々の姿を短時間で見ることになった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その10 廃線の影響を聞く 鍛冶屋線跡も少し紹介

※訪問は2024年12月10日

喫茶店で休憩

西脇駅跡を散策して少し休憩することにする。といっても朝が早かったため、時間はまだ10時にもなっていない。いくら西脇の中心部とはいっても、まだ飲食店は開いていない時間だが、喫茶店はあった

モーニングをいただく。店内は地元の方々でにぎわっていた。いずれも私よりも年配ではないかと思われる皆さんと、お話をしながら西脇の現状などを教えてもらった

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鉄道駅がなくなったことで

古くからの駅には2つのパターンがあって、すでに土地がない、鉄道が嫌われたなどの理由によって町はずれに設置されるパターンと町の中心部に設置され、その後も駅を中心に町が発展してきたパターンに分類される。県庁所在地の駅などは、前者のパターンが多く駅を降りたら何もなくて、あ然としてしまうが、西脇については後者だったようだ。「本町」という地名が駅周辺に残るのもそういうことだろう

ただ駅がなくなって30年以上が経過し、町の中心部は空洞化が目立つようになったという。前記事で年に1回、仕事で必ず西脇を訪れていたことを記したが、いつも車だったと話すと「車なしの生活は無理」と教えられた。廃線時期は全国各地に、いわゆるロードサイド店が広がっていったころで、そういえば西脇周辺での食事も駐車場付きの道路沿いにある店ばかりだった

旧西脇駅周辺は新しい大型ビルやマンションが目立つ。おそらく昭和以前からのものであろう古くからの街並みを抜けると急に目の前にビルが現れるという印象だ。いずれも廃線後に建てられたものであることは容易に察しがつくが、その一角にホテルがあり、1階部分はバスターミナルとなっている

神戸、大阪までのバスも出ているが本数は決して多くはなく、特に神戸行きのバスは少ない。以前は満員のお客さんを乗せていたそうだが、神戸の中心部へ行く際はもっぱら車を利用。三宮の駐車場は料金が高く渋滞が多いので明石や西明石に車を停め、新快速で三宮に出るという。西脇から神戸の西側へは国道175号線があるが整備が進み、途中のバイパス部分も完成して有料自動車道を使用せずともアクセスは容易になっている

途中、神戸市営地下鉄の西神中央駅付近も通るので、地下鉄乗り換えでのアクセスもある。どうして、そんなに詳しいのかというと、道中の三木も含めた西脇へのアクセスをいろいろな方法で試したことがあるからだ

鍛冶屋線の廃線跡

さて文中で鍛冶屋線について何度か触れたが、鍛冶屋線は西脇から北へ伸びていた野村(現西脇市)から鍛冶屋を結ぶ13キロの路線である

もう少し先まで延伸する計画だったが、鍛冶屋駅までで建設は終わった。もともとが播州鉄道という私鉄の手によるもので、他の国鉄線とつなげる予定はなかった。旅客輸送の他にも地場産業の中心だった播州織の生糸を運搬する重要な役割を担っていた

13キロなので車だとすぐに到達してしまう。今から10年前の5月に廃線跡、廃駅跡を回った

10年も経過しているので改めてまた訪問しなければならないと思っているが、当時の写真を少しだけ紹介する

車両が保存され鉄道記念館もある市原駅跡

中村町跡は公園となっていた

そして鍛冶屋駅跡

こちらも車両が保存され公園化している

さて楽しかった喫茶店トークも終わり、そろそろ西脇市駅へと向かうことにしよう。徒歩だと20分ぐらいだとのこと。「一番分かりやすいのはロイヤルホテルの南側の突き当たりを真っ直ぐ進むこと」と教えられた

そこに行くと

「やすらぎの道」とあるが、なんて分かりやすいんだ。これはどう見ても廃線跡である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その9 歴史に翻弄された都市の中心駅は今

旧西脇駅の跡

※訪問は2024年12月10日

新西脇駅から旧西脇駅跡を目指す

新西脇駅からすぐの場所に加古川を渡る橋がある。ここを渡れば西脇市の中心街へと入る。前記事でも触れたように新西脇駅は中心部まですぐの場所に位置しながら利用は極めて少ない。不思議なことだが新西脇駅が設置された際、目の前に橋はなく、かなりの大回りを強いられていたらしい

ここから徒歩で旧西脇駅跡へと向かう

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徒歩約20分の道程

加古川の景色を見ながら橋を渡るとコンビニがあり、古くからの街並みが広がる

途中から急に一方通行になったりY字路が出てきたりと、古くからの町がアップデートされながら道路ができていったことが分かる

旧西脇駅跡までは徒歩約20分。実際は町の中の狭い道路を進んだが、とにかく県道54号まで北上すれば、そこはかつて西脇駅からのメインストリートだった道路で、真っ直ぐ進めば旧西脇駅跡である

西脇駅跡に到着

いかにも中心部の周辺

周辺には複数の銀行や商工会議所などが並び、ここが駅跡と知らなければ、一体何だと思ってしまう。街路樹のふもとの歩道がいかにも廃線跡

こう見ると、なお分かりやすい

会社員時代の数年間、50歳を超えてから年に一度必ず西脇に来ていた。だからここ10年ぐらいの話で比較的最近のことだが、訪問先が車でしか行けないところだったため、ここに来るのは初めて

西脇駅の歴史が記されている

運命の分岐点

加古川線の基礎となった播州鉄道は、まず加古川から当駅までの敷設を行った。加古川線は加古川の水運の代替交通として計画されたため、沿線の小野や社といった町は中心部から離れたところに駅が設置され、後に苦戦の原因となるが、ここ西脇に限っては町の中心部に駅が設けられた。1913年(大正2)のこと。1921年には北へ向けて延伸が始まり、約12キロ先の鍛冶屋まで到達したのが1923年のこと。この年のうちに経営は播丹鉄道へと変わり、翌1924年に野村(現西脇市)~谷川が開業。西脇を含む野村~鍛冶屋は支線となり、1943年(昭和18)の戦時買収で国鉄の加古川線と鍛冶屋線に分かれるが、後から思えば、これが運命の分岐点だった

ただ加古川線と鍛冶屋線という2つの路線に分かれながらも、流動は鍛冶屋線の西脇までが圧倒的に多く、加古川から西脇までの直通運転が行われていた。JR移管から1年が経過した1988年3月の時刻表(復刻版)を見ると、加古川~西脇は1日に21往復もの運行があり、半数近くが西脇止まり。また西脇から野村を経て谷川に至るという変則運転もあったため、野村~西脇に限れば25往復もの運行があった。そもそも時刻表は加古川~鍛冶屋と野村~谷川が別となっていて事実上、加古川~鍛冶屋が本線扱いだったことが分かる

車止めを模したモニュメントが置かれていて写真入りの解説文もある

歴史も含めとても詳しい。昭和30年代の国鉄全盛期には西脇駅を1日1万5000人もの人が利用していたという

鍛冶屋線は国鉄末期に特定地方交通線に指定され、廃線へと進み始めるが、野村~西脇については利用者数は廃線の基準となるものではなかったため、この区間のみを存続させるという意見も多く出たが、結果的にはすべてが廃線。利用が多いとは言えなかった野村~谷川は残り、廃線対象は盲腸線というパターンがここでも踏襲された。廃線は1990年。野村駅は西脇市駅へと改められた。阪神淡路大震災の5年前のことだった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その8 西脇市中心部近くにひっそりたたずむ古駅舎

新西脇駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

路線内では貴重な存在

新西脇駅に到着。当駅は路線内において戦前からの駅舎が残る貴重な存在となっている

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財産票には「大正」の文字

ホームは単式構造で過去においても交換施設があった雰囲気はない。そして入口の屋根の部分がさびかかった駅舎が印象的だ

こちらが駅舎。決して大きなものではないが、たたずまいが古風である。外壁は近年になって張り替えられたようだが

財産票もしっかり残されていて「大正」の文字が見える。隣には改修が平成になって施された印もある。「大正14年10月」の後に日付が空欄となっているが、これは最初からのもののようだ。開業日は1925年(大正14)の10月1日となっている

西脇市~谷川の各駅は日本へそ公園を除いて、同区間が開業した1924年12月のものばかりで、どの駅も昨年12月に100周年を迎えたわけだが、新西脇については1年近く後になっての設置となった。駅名については周辺の地名とは関係なく、周辺に新たな市街地が広がっているわけではないにもかかわらず、当初から新西脇。開業当時、現在の西脇市駅は野村という名前で当時存在した西脇駅は市の中心部にあってJR移管後に廃駅となった。西脇から新西脇へ鉄道で行くには野村経由でしか行けなかった。現在の「新○○駅」とは、やや感覚が異なる

加古川線では電化後、多くの駅で大幅な改築が行われていて古くからの駅舎は姿を消した。さらに言うと、加古川~西脇市の各駅は立派な新駅舎になったものが多いのに対し、西脇市~谷川についてはこれまでの記事でも触れた通り、バス停のような簡易駅舎となっている。その意味でも貴重な駅舎なのだが、駅のにぎわいという点はまた別だ

市役所も近いが、1駅の格差

新西脇駅を降りてすぐの加古川を渡ると、そこは西脇市の中心部となっている

西脇市役所も当駅が最寄りだが、2023年の1日の利用者数はわずか16人。お隣の西脇市が1408人ということを考えると差がありすぎる。市役所については移転、新築の新庁舎が2021年にできたばかりなので最寄りとなったのは最近のことだが、新庁舎の前後で利用者数はほとんど変わっていない。新西脇駅周辺もそれなりの住宅街で、川を渡ると西脇の中心部であるにもかかわらず寂しい数字なのは、列車本数が少なく住民に鉄道を利用するという習慣がないからだと思わざるを得ない

私は9時26分の西脇市行きで到着したが、その後3時間も列車がない。西脇市から神戸、大阪方面へと向かうには西脇市駅から加古川行きに乗車し(所要約50分)、加古川から新快速というのがポピュラーな手段で、西脇市からは昼間も1時間に1本の電車があるのとは差がありすぎる。しかもほとんどの電車で西脇市での乗り換えが必要となる。まさに「1駅の格差」である

駅名板も歴史を感じるもの

国鉄末期に無人化され、以来そのままの駅舎内。窓口のカーテンは40年近く閉ざされたまま。駅舎の未来もやや不安に感じるが、大正以来の歴史に別れを告げて西脇の中心部へ徒歩で向かうことにする

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その7 「唯一」の立派な駅舎で寒を凌ぐ

黒田庄駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

寒さで予定変更

比延駅から2駅谷川方面へと戻り黒田庄駅で下車。ここで降りたのには理由がある。寒さに耐えられないと思ったからだ

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元々は本黒田の予定

もともとはもうひとつ向こうの本黒田に行く予定だった。というのは西脇市~谷川の間にある7駅で本黒田が最も利用の多い駅だからだ。といっても1日の利用者数は本黒田が72人、黒田庄が32人と2ケタ止まりだが、他の駅が20人を下回っていることを考えると多い数字だ

しかし本黒田に向かうに際して問題は、はっきり書くと生理現象である。7駅とも訪問したことはあるが、黒田庄以外の駅でお手洗いの存在に全く自信がない。冷えてきたので熱い缶コーヒーを、とも思うが、それもお手洗いあってのものである

その点、黒田庄駅は立派な駅舎を持つので、その点は安心して降りることができる

8時33分に到着して9時16分で西脇市方面へ向けて出発するので40分以上の滞在時間があるが問題ない

西脇市~谷川で多くの駅が簡易化される中、当駅は2005年(平成17)に開業以来の駅舎に代わって新たな駅舎へと生まれ変わった

電化、新駅舎そして合併

黒田庄駅は1924年(大正13)の開業。播丹鉄道が設置した。周辺の駅とともに昨年100歳の誕生日を迎えた

電車を降りると100周年の看板がお出迎えしてくれる

駅舎内には今も黒田庄町時代の地図が残されている。開業時の所在は黒田庄村。戦後に黒田庄町となり、2005年に西脇市と合併した。加古川線の電化は2004年なので、電化の後に新駅舎が誕生。間もなく西脇市となったという移り変わりの激しい1年半を過ごしたことになる

黒田官兵衛とも深いつながり

地名で想像できるように当地は黒田官兵衛で知られる黒田氏とのつながりが深い町でもある。当の官兵衛の生まれについては姫路説、黒田庄説とあるようだが、黒田庄にある荘厳寺(しょうごんじ)は、黒田家そして官兵衛ゆかりの寺として知られる

駅の周辺はかつて町役場が置かれていた。一方、黒田の地名が残るのは本黒田駅周辺となっている

駅前にはロータリーがあるだけで自販機はないが、歩いてすぐの県道まで行けば古くからの街並みが広がり商店もある。かつて訪問した時もこのあたりまで歩いて自販機のお世話になったので、知識はある。熱い缶コーヒーを買って駅へと戻る。霧も晴れてきた

駅舎は正確に言うと駅の機能を果たしているのは片側の部分で主な部分は交流施設「あつまっ亭」となっているが、吹きさらしよりとは格段に違う

すっかり自然に還りつつあるが、かつての貨物ヤードも姿をとどめる

「加古川線を残そう」のポスターも

西脇市~谷川は、かつて交換施設のあった駅もすべて棒状化され、列車のすれ違いはできない。当駅もそのひとつだが、こちらはかろうじて線路だけは残されていて使用されなくなったホームもそれなりに整備されている。「いざ」に備えて復活の余地を残しているのだろうか。そう感じてしまった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その6 由緒ある地名

比延駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

※動画あり音声注意

あらためて比延駅

比延駅の紹介をあらためてしよう

なかなかの難読だが、由緒ある地名となっている

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シカの鳴き声から

時は4世紀から5世紀のころ。西脇市HPによると、当地に狩りに訪れた応神天皇がシカが「ヒヒ(比比)」と鳴いたことを哀れに思い、狩りそのものを中止したことで、狩り場となった山を「比延山」と名付けられたことに由来する

駅の開業は1924年(大正3)。播丹鉄道が野村(現西脇市)~谷川を開業させた際に設置された。当時は比延庄村。戦後の1952年(昭和27)に西脇町などと合併して西脇市が成立。自治体としての「比延」は終了した

現在は簡易駅舎というより、ベンチと屋根があるだけの停留所のような風貌で風はもちろん、横殴りの雨でも防ぐことはできないが、数年前までは由緒ある名前にふさわしい立派な駅舎があった

そのことを物語るかのように敷地は広い。足下はきれいにされていて、駅というより公園のようなたたずまいとなっているのが逆に寂しさを募らせる。背後に桜の木が見えるが、駅の開業時に植えられたものらしく、木の成長とともに100年間、当駅を見守ってきたことになる

駅周辺は住宅街そして旧比延庄村の中心地が広がる。駅の裏手には播州織工業協同組合があり、加古川を渡った場所にはコンビニもあり、周辺人口は比較的多いように見えるが、2023年の1日の利用者数は16人と、やや寂しい。私がここまでやって来た電車でも乗ってきたのはわずかに1人で高校生はいなかった

寒い寒い

現在は単式ホームだが、かつては列車交換が可能だったことを示すように対抗ホームが残っている。深い霧に包まれた8時過ぎはさすがに身体の芯から冷える

こちらは時刻表。谷川から西脇市行きに乗車して8時5分に到着。8時26分の谷川行きに乗車して、せっかくだからもう1駅降りてみよう。再びここへ9時22分に来る西脇市行きで西脇市の中心部を目指す。で、その後はというと、時刻表で分かる通り、本日はもう無理である。とにかく寒い。風がないのは幸いだが、それでもこれだけ寒いのは、かなりの低気温でスマホで確認すると2度だという。駅舎(というのか)は寒さを凌ぐ空間が全くないので20分の待機時間が1時間ぐらいに感じる

深い霧に超簡易駅舎、失われた対抗ホームと体感をさらに下げる要素が多い

遠くでかすかに列車の音が聞こえてきた。静寂すぎると小さな音でもよく耳に入る。出発の数分前に1人の乗客がやってきた。私よりは若そうだが、それなりの年の男性で今から通勤のようだ。実は「もう1駅」は別の駅を考えていたが、こうも冷えるのでは予定変更である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

比延駅に入線する125系

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

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大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

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