JR

天候に左右された2023年を振り返る(後編)

7月初日から足止め

7月は佐伯のホテルで迎え

早朝から名前シリーズを無事に全駅訪問。たった4駅ですが2日かかります。10月も同様の行動となるのですが、佐伯~延岡の超難関区間を訪ねる際は、必ず朝の6時台に活動を開始して7時台には強制終了となるので、ホテルに戻って改めて朝食というパターンが定着してしまいました。この日は蒸し風呂に入っているような気候だったので朝からあらためてシャワーを浴びたりする(笑)

ただ雨の方はというと最も活発な前線は九州を去ったようなので、すっかり安心

結果的に佐伯から延々と普通のみを乗り継いで日豊本線小倉に到着後、まだまだ明るいため、せっかくの旅名人きっぷなので小倉モノレールを堪能しているうちに前線が東に移動して山口県内のJRが全線ストップ。帰れなくなりました

もっとも足止め先が小倉という大都市だったので宿をとり、一度は残る1回の権利を持ち帰ろうとしていた旅名人きっぷは翌日に消化することにして事なきを得たのですが、山口県の鉄道網は、この時の雨で大きな爪痕を残しています

翌日は旅名人きっぷはフル活用して平成筑豊鉄道と

筑豊電気鉄道の両社に乗車。よく混同される両社ですが、全くの別会社。平成筑豊鉄道は元国鉄の第三セクター、筑豊電気鉄道は西鉄の子会社です

この月は四国バースデイきっぷを利用して

営業中の田井ノ浜駅で降車。コロナ禍が明けて久しぶりの営業となった海水浴用の臨時の当駅。訪問は青春18きっぷ利用初日の平日で、さすがにまだ人の姿は少なかった。自分の誕生日が7月で良かったと思える瞬間。この旅では香川県内の駅はほとんどいかなかったにもかかわらず、高松で2泊もしてしまい、どちらかというと「高松での飲み」が中心でした

雨のおかげでライトレール

この後は酷暑のおかげで行動は停止。急な葬儀で横浜に出かけることはありましたが、この後の1カ月間、猛暑の中で何をしていたのか、ほとんど思い出せません。活動再開は8月後半からで、残る4回の青春18きっぷをそろそろ使い切らないとマズいとなり、広島へ。当初は呉線方面へと出かける予定でしたが、三原で新幹線を降りると激しい雨のため呉線は遅延。山陽本線も遅延していましたが、しばらく経つとダイヤも復活しそうだったので、思いつきで瀬野で下車

久しぶりのライトレールは。おそらく私にとっては最後の乗車になりそうです

そして31日からは月またぎで北海道へ。これは私にとっては一生忘れられない体験になることは、ほぼ間違いありません

トラブル続出の北海道

到着の当日は天候にも恵まれ、旭川空港から順調に稚内へ到達

折り返しで抜海で降り立ち、地元の宿で楽しいひとときを過ごしたまでは良かったのですが、翌日に宗谷本線が全線でストップ。旅人宿「ばっかす」のご主人の機転で稚内→(バス)→札幌→(JR)→旭川というルートを教えてくださり、無事に旭川にたどり着くことができましたが、大回りをしての500キロもの移動はかなり大変でした

そして、これはあまり書いてこなかったのですが、北海道上陸とともにカードのトラブルが発生していました。カード会社も電話をくださるのですが、旅先の移動中ばかりで、うまく通話がつながらない。稚内でバスのチケットを確保してから出発まで2時間近い時間があったため、これは良い時間だと、こちらから電話。ただカード会社でよくあることで、オペレーターとの電話が全くつながらず

稚内に行ったことのある方なら、距離感が分かると思いますが、駅で電話をかけ、つなぎ放しにしたまま防波堤ドームまで歩き、探索して駅へ戻ったころに、ようやくつながった。感覚的には稚内から札幌までのバス6時間より、長かったです

カード会社との話はまだ終わらず、今度は向こうから電話をくれることになったのですが、当日は移動だけで電話に出る時間がなさそうなので

翌日に廃線予定の根室本線各駅を回って一度富良野に戻ってくるタイミングの、おそらく富良野カレー店の前で並んでいるであろう時間帯を指定したところ、ピッタリその時間に電話をいただき、電話を切った直後に入店の順番が来てトラブルは解決しました

北海道から帰ると今度は青春18きっぷの残る2回を消化すべく高山本線へ。あまり世の中で話題にならないのですが、廃ホーム上に神社がある角川駅が路線すべてで最も印象に残る駅となりました

9月は

珍しく観光で長野県の戸隠神社で戸隠そばを食べたりして

広島県の庄原で芸備線・木次線のイベントに参加

岡山での乗継ぎ割引もなくなっているので、岡山まではおとなび割引で新幹線を利用。岡山からは普通を乗り継いで備後庄原まで行ったのですが。3080円という運賃にビックリ。考えてみると、このあたりの区間って青春18きっぷのようなフリーきっぷか、神戸市内からの通し運賃でしか乗車したことがないので、こんなに距離があるとは実感できていませんでした

平日にもかかわらず、備後落合駅は件の1日1本の集合便に乗車する人でいっぱい。18きっぷの季節はもっと凄いのでしょうね

イベントを夕刻に終えると、バスで広島駅まで行き新幹線で帰宅。考えてみると、この日は一切、芸備線には乗車していない。この時間帯なら、このコースが最速なのでやむを得ませんが、芸備線のイベントに来て芸備線に乗らずに帰るというのは、ちょっと複雑な気持ちでした

完全制覇…とはならず

10月はハロー自由時間きっぷで九州新幹線の全駅訪問を達成。これで全国各地の新幹線駅すべてを訪問したと喜んでいたら、北陸新幹線の飯山駅という乗り残しがあったことに後で気付く。昨秋、JR東日本パスで上越新幹線と北陸新幹線の各駅を訪問した際に乗車した新幹線が飯山駅通過だったのです。わずか1駅だけ残して、これは痛恨。来春の敦賀延伸以降の課題となりそうです

この旅では再び宗太郎ルートにチャレンジして市棚駅訪問。またもや訪問後、延岡駅のホテルで朝食となりました

この後、鉄道の日記念パスでようやく高山本線の全駅訪問を達成

その足で名鉄訪問となりましたが

名鉄275駅で最も利用者の少ないこどもの国駅に寄ったり

信号の赤↔青だけで飽きない西枇杷島のデルタ線が楽しかったです

急な「主役」に驚き

11月は降り鉄にとっては、徒歩も苦にならない最も良いシーズンなんですが、歯科医の自費治療で会社員時代の1カ月分の手取りに近いお金が消えていったので、どこにもでかけず。12月の声を聞いて青春18きっぷによる外房線の全駅訪問を行いましたが、その後、大きなニュースになって驚きました

こちらが浪花駅時刻表。6時36分発の青文字となっているのが、話題となっている勝浦6時25発の1日1本の東京行き通勤快速です。この時は貴重な1日1本だなぁ、としか思っていなかったのですが、まさか県知事や市長、町長が正式抗議する事態になるとは考えてもいませんでした

前編より長くなってしまいましたが、おそらくそれは後半の方がアクシデントが多かったからだと思われます。年明けは青春18きっぷの残り2回分を使用すべくスタートするつもりです

皆さま、よいお年をお迎えください

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~9つの村が集まってできた

九重駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

再び館山市内へと戻る

安房鴨川から再び木更津方面行きの電車に乗り込み

九重駅で下車。格好いいキロポストは帳簿上の内房線の起点となる蘇我からの距離。江見からは20キロ戻ったことになる

内房線は房総半島に沿ってグルリと線路が走っている印象を持たれがちだが、館山からは、ちょっとショートカットするように安房鴨川を目指す。「ちょっと」としたのは、地図を見れば分かるようにそれでもやや南側に進路をとっている。本当にショートカットする国道と比べると、かなりの回り道となっているが、千倉町(現在は南房総市)を素通りすることはできなかったのだと思われる

当然だが、マイカーなど無縁で道路整備も行き届かない大正期には、どうやっても列車より早い乗り物などあるわけがなく、各市町村を丁寧に回りながらの敷設となり、現在全国のローカル線が苦戦する要因ともなっているが、これだけはどうしようもない

簡易型駅舎がお出迎え

九重駅は竹岡駅と同じ簡易的な駅舎となっている。2007年に現在の姿となった。全国各地で駅舎の簡易型が進んでいるが、この九重駅のように、かろうじて「駅」の形をとどめているものから、バス停と同様の超質素なものまでさまざま。こうして駅の紹介をしていると、どちらも同じ扱いをしていいのかと思ってしまうので、表現は前者については「簡易的」「簡易型」と「的」「型」という文字を入れるようにしている

開業は1921年(大正10)。現在の館山である安房北条~南三原が延伸された時に開設となった。駅名は当時の九重村に基づく。村の名前は明治期に9つの村が合併したことによる。現在、駅の住所となっている館山市二子(ふたご)は9つの村のうちのひとつである二子村に依る。九重村そのものは1954年に館山市に編入され、自治体としては消滅した

駅前には小さなロータリーがある。少し歩くと国道に出てコンビニにも容易に行ける

駅構造は単式。向かいのホームは一見すると現役のようだが、よく見ると生々しく線路がはがされた跡が残る。棒状化されたのは2021年3月で訪問時はまだ2年も経っていなかったので、レール跡がくっきり残っていた

旧駅からの駅名板

駅で目につくものがある

地元の九重小学校の生徒さんによる、心癒やされる手作りの駅名板。こちらは旧駅舎時代からのもののようで、現在の駅になっても残された

簡易的な駅舎ではあるが、お手洗いも設置されている。地域の中心である館山駅へは1駅。国道も近く、1日に3ケタの利用者がある駅である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~駅舎は郵便局として生まれ変わる

江見駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

70キロもトコトコ移動

青堀駅で館山~木更津の全駅訪問を終え、いよいよ房総半島の南に向かう。降りたのは

南国ムードのような木も見えるが、季節は真冬。草木にはあまり元気がない。すでに鴨川市に入っているが、青堀からは結構な旅だった

青堀から70キロ。東海道本線だと大阪から草津よりもまだ長く終着駅として有名な野洲まで行ってしまう距離。もちろん新快速のようなスピード違反の列車はなく、トコトコと普通で約1時間半。線路としては房総半島の南端をグルリと回って東京湾から太平洋に面するようになっている。決して乗り鉄ではなく、同じ乗り物に1時間も乗れば飽きてしまう私には、なかなかしんどい時間だった

自動ドアで駅舎へ出入り

江見駅は1922年(大正11)の開業。安房鴨川はもう目前だったが、南三原から当駅までが延伸された際に、とりあえずの終着駅として設置された。安房鴨川までつながるのは3年後のこととなる。長らく大正期からの駅舎が残っていたが、今は趣を異にする

ホームから駅舎を経て道路に出ようとすると自動ドアのお迎えがある。内房線の駅ではなかなかお目にかかれない。少なくとも大正期からのものでないことだけは間違いない

外に出ると

駅舎であり、郵便局でもあることが分かる

当駅は過去にも登場した

由利高原鉄道の子吉駅を訪問した時のものだが、駅舎の郵便局として江見駅も少し紹介した。子吉駅ではかなり前から簡易郵便局が入居しているので、このあたりは微妙な表現となるが、江見駅は「初めて駅と郵便局が一体運営化した駅」ということになる。郵便局業務と駅業務をともにこなしているからだ。それまであった開業時からの駅舎を解体して2020年に現駅舎&郵便局の登場となった

残念ながら土曜日ということで郵便局は休み。平日の営業時間内なら郵便局の窓口が並び、JRのきっぷうりばもある

「通向け」のこだわり

ポストにこだわりがある。もちろん駅舎と郵便局が併設されているので電車をあしらったものだな、ということは分かる。しかしよく見ると「形式」の後に「クモユニ74」と記されている。クモユニ74とは、かつての郵便車である(正式には郵便・荷物車)。房総半島には1974年にやってきた。ポストの塗装が青色とクリーム色の横須賀線カラー、いわゆる「スカ色」となっているのは、房総半島にやってきた際、スカ色に塗装され直されたからである。JRの声を聞くころには郵便輸送も終わりを迎え、1987年に車両の役割を終えたが、ポストとして蘇ったのである。窓口で郵便物を出すと209系の風景印を押してくれるそうだ

駅紹介の時は、江見駅の時に合わせて記そうと、あえて書かなかったのだが

同じ内房線の安房勝山駅も同じく駅業務と郵便局業務の両方をこなす駅として生まれ変わる予定となっている。来年の夏にも開業する予定で、そこからの情報は持ち合わせていないが、大正期からの駅舎をそのまま郵便局にはなかなかできないため、駅舎の建て直しが予想される。もしかするとすでに形が変わっているかもしれない

跨線橋からの構内風景。大正期からの駅舎が消えるのは寂しいことだが、立派な形で生まれ変わり、無人駅が有人駅となって人が集まるようになるのは良いことだと思います

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~単線区間最初の駅

青堀駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

話題の通勤快速1本のみが東京直通

佐貫町から再び木更津方面へと戻り、青堀で下車。こちらは君津からひとつ南側の駅。内房線は君津から単線区間となる上、東京から、東京への直通列車は君津始終着となるため、利用する側としては急激に本数が減る最初の区間となる

朝の1本のみ上総湊始発で京葉線経由の通勤快速東京行きがあり、青堀を7時10分に出て東京駅の京葉線ホームに8時39分に到着する。こちらは上総湊から内房線区間を各駅に停車し、1時間かけて蘇我までたどり着いた後は、千葉県内は一切停車せず、新木場まで30分間ノンストップという、なかなかユニークな停車パターンの列車だが、昨今のニュースで報道されているようにJR東日本が「やめます」と言っている運行で、将来については不透明である。というか、一度ダイヤ改正として発表したものを撤回するのは聞いたことがないので、おそらく廃止になるのだろう。そもそも私は、今回のニュースが出るまで朝の1本、東京行きがあることは各駅の時刻表で知っていたが、蘇我から新木場までノンストップという停車パターンは知らなかった。しかし快速の有無について県知事や市長が抗議するというのは、あまり聞いたことがなく、さすが大人口を抱える首都圏ならではの話でと感じた。JR東日本もちょっと驚いたのではないだろうか

駅名の由来、町名の由来

話が少しそれたが、君津までのわずか3・7キロで大きく利便性が変わる駅だが、利用者は多い。もちろん人口の多さもあるがイオンモールの存在も頑張りを助けている

マイカー以外の利用者は君津駅からの路線バス利用が多いようだが、20分ぐらいであれば中高生はもちろん徒歩である。私の到着時間はまだ9時20分だったが、土曜日とあって早くもイオンを目指す10代のグループが見られた

そして地図や住居表示を見ると「青堀」の由来もなんとなく想像がつくのである。駅の住所は富津市大堀。1955年に富津町と合併するまで存在した青堀町は旧青木村、旧大堀村を合わせた地名だった。駅の開業は1915年(大正4)。木更津から上総湊まで延伸された際に設置された。後に青堀町となる青堀村の誕生は明治時代。青堀村の駅だから青堀駅となった

現在は富津公園となっている旧陸軍の富津試験場へは戦前、当駅から富津岬に向け専用線が伸びていた

開業時からの駅舎

駅舎は開業当時からのもの。駅を降りるとすぐ国道16号。交通的にも便利な場所にある。駅前ロータリーにはタクシーも停まっていた

訪問時は駅員さんが出迎えてくれた。利用の多い駅ではあるが、みどりの窓口は早々になくなり、その後「もしもし券売機Kaeruくん」が設置された。ちなみに当駅は「もしもし-」が最後まで残った駅(2012年3月撤去)だったという。もう忘れている人も多いかもしれないが、今にして思うとあれは何だったのだろう

年季の入った手入れへの案内文字が残る

この日は週末とあって「新宿さざなみ」との列車交換が行われていた。ちなみに奥に見える跨線橋は駅舎と逆側とを結ぶもので階段以外は何もないが、駅舎のある西口に対し東口と呼ばれている

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~わざわざ「町」が付けられた

佐貫町駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

旧佐貫町の代表駅

再び上総湊の内側つまり木更津寄りの朝は本数の多い区間に戻り佐貫町で下車。もう架線も張られていない線路が見えるが、ほかにも多くの側線跡が残り、かつてはかなりの規模だったことが分かる

ホームの待合室に記された番線の数字はなかなかクラシックなものである

内房線の古風な駅舎で必ず見かける精算所。こちらも現役ではないが、窓口が2つもあることで、かつての利用者数を感じさせる

旧佐貫町の代表駅。大貫駅の項で触れたものと同じになるが、1955年に佐貫町と大貫町が合併して大佐和町が誕生。自治体としての佐貫町は消滅した。ちなみに「大佐和」というのは元々の地名ではなく、合併の際に町名をどうするかで大いにもめ「大貫」「佐貫」の一文字ずつをとった上で「仲良く和をなそう」と「和」が付けられたものである。もっとも、この新たな地名は16年後の1971年に新たな合併で富津町が誕生(間もなく富津市となった)したことでわずかな「使用期間」を終えることになる

開業は1915年(大正4)。木更津から上総湊まで線路が延伸された際に設置された。駅舎は当時からの木造駅舎。かつては特急「さざなみ」の停車駅だったが、現在は週末を中心に臨時特急として走る「新宿さざなみ」も通過する。みどりの窓口は2017年に営業を終了したが、無人駅ではない。私の訪問時は駅員さんのいない時間帯で

券売機もシャッターを降ろしていた

先にあった「佐貫駅」

内房線で、わざわざ「町」が付くのは当駅のみ。理由は常磐線沿線に詳しい人なら分かるだろう。先に茨城県に「佐貫駅」があったからである。千葉県の「佐貫駅」も大正の開業と長い歴史を持つが、茨城県の佐貫駅は明治期の開業。こういう場合は頭に旧国名を付けて「上総佐貫」となるのが一般的だが、そうはならず「佐貫町」となっている

茨城県の佐貫駅は3年前に「龍ケ崎市駅」と改名され、同居する関東鉄道の駅は佐貫のままになったことでニュースになったことが記憶に新しい。なぜなら関東鉄道は龍ケ崎市の中心部に「竜ヶ崎駅」があるからだ

もっともJRにおいては佐貫駅がなくなり、佐貫町という自治体も70年近く前に消滅しているが、駅名はわざわざ変更されることはないと思われる

こちらにも舞子海岸

ホームの名所案内に

新舞子海水浴場の文字。有名なのは東京湾観音だが、神戸の人間としては「舞子」の文字に目が行ってしまった。まさかと思ったが

駅前の案内地図を見ると新舞子海岸について「瀬戸内の舞子の浜に似ているので名付けられたという」とある。北陸本線の各駅訪問でも紹介した

小舞子駅。海ではない琵琶湖に面している近江舞子をはじめ、各地には「舞子浜」が多く存在する

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~絶景の駅は簡易駅舎

竹岡駅前からの景観

※訪問は2022年12月17日

折り返しの多い上総湊から1駅先

竹岡駅に到着。ニャンコの出迎えを受けた上総湊から1駅館山方面へと向かった場所にある。ということは本数もかなり減る。当駅から先の駅すべてに言えることだが、利用者の多い朝の上り(木更津方面)も6時台が3本、7時台が2本あって、後はずっと1時間に1本の運行。下り(館山方面)については朝からずっと1時間に1本で、夜の20時台以降、2本となる時間帯が21時台、23時台にある

その竹岡駅はかなり高台にあり、跨線橋からの眺めが美しい。東京湾を挟んで三浦半島が望める。冬の今にも雨が降りそうな曇りの日だったが、天候に恵まれれば、素晴らしい眺望が見られたのだろう

旧竹岡村に基づく

駅名は明治から1955年(昭和30)年まであった竹岡村に由来する。上総湊駅の項と同じ話になるが、上総湊の湊町、浜金谷の金谷村が合併した天羽町が誕生した際、村としては消滅。1971年に富津町そして富津市の誕生となって今に至る

駅の開設は1926年(大正15)。内房線が上総湊から浜金谷まで延伸されたのが1916年なので、10年が経ってからの設置となった。微妙に遅いが、これは駅の位置に関係がある

旧竹岡村役場は現在、富津市の竹岡地区コミュニティセンターとなっていて、そのあたりが竹岡村の中心部で、江戸時代末期に外国船の監視、攻撃を目的に設けられた竹ケ岡陣屋もその付近にある。駅から中心部までは徒歩30分とかなり遠い。駅が設置されなかった理由もおそらくそれで、当初は手を挙げて列車を止めてもらう仮乗降場扱い。正式な駅に昇格したのは4年後だった

旧竹岡村の中心部は線路も通っているが、上総湊との距離が近すぎることが考慮されたものと思われる。駅の位置は上総湊まで5・1キロ、浜金谷まで3・8キロと中間点を意識した場所にある。また上総湊より南側の当駅付近は高い場所を走っていることもあって強風の影響を受けやすい。今でも運行に影響するのだから、SLが走っていた当時はもっと影響が大きかったはずで、列車を止める場所として選ばれた側面もあった。つまり言い方は悪いが、竹岡村の中に設置したから竹岡駅と名付けられたのだろう

多くのロケが行われる

そんな竹岡駅は簡易的な駅舎となっている。旧駅舎が解体されて現在の姿になったのは2007年なので、かなりの歳月が経過したが、利用者は多くはないものの、高台にあって眺望が良いことから、簡易的な駅舎となった後も多くのロケ地となっている

アクアラインのもたらしたもののひとつとして、出演者やスタッフが大量に移動できるようになったため、ドラマや映画、ミュージックビデオなど房総半島で多くのロケが行われるようになったことだ。駅前の広場から海を目指して下っていく坂道は確かにいろいろな場面に使用されそうである

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~折り返し駅でのお出迎え……

上総湊駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

折り返し列車が多数設定

内房線の2日目。安房鴨川までの道程は長いが、メドはついたので木更津のホテルで悠然と朝食を摂って朝の7時過ぎに出発である

最近のホテルでは珍しくバイキング方式ではなかったが、並ぶ手間もなく、優雅感を味わえる。それでも6時台から朝食のあるホテルを選択した

上総湊到着は7時40分。写真で分かる通りホームはにぎやか。この日は土曜だったが、平日はきっと多数の人であふれているのだろう

当駅は木更津方面からの折り返しが朝夕に多数設定されている。君津を出ると「終着」が設けられている内房線の途中駅は当駅と館山のみ(22時台に1本だけ千倉行きがある)。つまり当駅以降は運行本数が減る。ただし昼間は当駅止まりはなく、すべて1時間に1本の木更津↔上総一ノ宮運行となる。ちなみに内房線と外房線の主に単線区間をグルリと回るこの電車の所要時間は約3時間半。全部乗り通すには「なかなか根性の必要な乗り物」となっている

無人の時間帯も「お出迎え」あり

そのような上総湊駅だが、改札を出ると週末の7時台ということもあってか無人の時間帯。券売機もある駅だがシャッターが閉まっている。JR各社によって対応は異なるのだろうが、無人の時間帯は券売機も停止というのは他社ではあまり見ない気がする。最初に見た時に、どちらかというとビックリしたぐらいだ

折り返しが多数あるということで利便性は格段に違う。きっと終日駅員さんがいるのだろう、と思い込んでいたら、全く逆でちょっと驚いた

ただ駅員さんはいないが、ちゃんとお出迎えはあった

「おはようございます」と声をかけようとしたら、プイとされてしまったが、18きっぷを提示せずとも通してくれるお出迎えに感謝です。こうも寒いと暖を求めるのも当然かもしれない。駅から乗る人は多くても、降りる人はほとんどいない時間帯。ホームで待つのは寒いため、ギリギリの時間まで駅舎内で過ごす人が多いが、結構なアイドルとなっていた。ご本人は、ちょっと迷惑そうだったけど(ちなみに私はノネコには絶対触れないようにしている)

旧湊町→旧天羽町の代表駅

上総湊駅は1915年(大正4)の開業。木更津から当駅まで線路が伸びた時に設置された。次に浜金谷までの1区間(当時)が延伸されるまで1年9カ月の間、終着駅だった。駅舎は開業時からのものと思われる。瓦と微妙に傾いたタクシー乗り場の案内がいい味を出している

内房線の各駅でよく見かける精算所。跨線橋を昇るギリギリまで濡れないように屋根が付けられている

そして各駅で見られた待合室ももちろん現役である

駅名は1955年まであった湊町に基づく。「湊町」駅といえば、現在のJR難波駅の旧名として長く親しまれてきた駅名だが、大阪の湊町駅は1889年と上総湊より、はるか前に開業しているので「上総」がつけられたのか

自治体としての湊町は1955年に金谷村などと合併して天羽町(あまはまち)となったが、港を擁する浜金谷よりも町の代表駅はこちらだった。天羽町は1971年に現在の富津町そして富津市となり、それでも市役所は天羽町役場が使用されたため、富津市の代表駅にもなっていた。ただ市役所は1992年に大貫駅を最寄りとする場所に移転したため、駅から至近だった旧市役所は天羽行政センターとなっている

ちなみに駅前の地図で表示されているように海水浴場も近い

ホームの案内によると500メートル

野生のサルはちと怖いかも

さて野生といえば

まだいらっしゃった。どうも皆さんのアイドル役が疲れたようで、その後スタスタと駅舎を後にしていた。私も次の電車で上総湊を後にすることにしよう

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~今さらながら逆の選択だった

君津駅の駅名標

※訪問は2022年12月16日

社会人野球で有名

君津まで戻る。時刻はご覧の通り15時40分。朝の8時半にこの駅で乗り換えて内房線ツアーを開始したから、7時間ぶりの帰還となる。帰還といっても君津駅で下車するのは初めてだけど

君津駅は1915年(大正4)に木更津から上総湊まで線路が延伸された際に開業した。当時の駅名は周西(すさい)で戦後、現駅名となった。ただし同時開業した他駅との現状は大きく異なる。ここから千葉方面へは複線で完全に東京へ向けた首都圏運行となり、本数も急に多くなる

現在、内房線を走る唯一の定期特急「さざなみ」は元々、東京から館山まで運行されていたが、利用者の減少により、2015年からすべて君津止まりとなった。朝は上りのみ、夕方は下りのみ。昼間は走っておらず、停車駅は君津、木更津の後は姉ヶ崎、五井、蘇我と停車して京葉線経由で東京に至る。しかも週末は運行されておらず、完全に通勤に特化したものとなっている(その分、週末は臨時特急扱いで「新宿さざなみ」が館山まで運行される)

また1日に1万人以上が利用する規模の大きい管理駅だが、みどりの窓口は今春、営業を終了した

社会人野球が好きな方にとっては有名な君津。多くのプロ野球選手も輩出しているが、かなり歴史がありそうな出口案内は「新日本製鉄」となっていた(昨年12月の写真)

宿泊は木更津で

さらにもう1駅戻って木更津へ。内房線では君津、木更津と管理駅が並んでいて、それぞれ君津以南、木更津以北を受け持つ形となっている。意外な豆知識としては、かなり都市部となる両駅だが、両駅間は7キロもあり、これは内房線で最長。また君津市内の内房線の駅は君津1駅しかない。君津市の構造が海に面する部分は小さく、山中に広くなっているためで久留里駅をはじめ、以前紹介した久留里線の閑散区間も君津市となる。ただし君津駅から直接行くことはできず、一度木更津まで出ないと同市内の駅に行けない形となっている

冷静に考えると汗をダラダラ流しながら延々と歩くのが8月で、東京湾沿いに海水浴場の紹介をしながら訪ねるのが12月とは完全に真逆の選択である。なんでこんなことをしたのだろう、と今さら頭をひねってみてもどうしようもないが、通年発売のJR東日本「休日おでかけパス」は君津までながら、久留里線はエリア内となっている。東京に行った際、急に思いつくとこうなったのだろう(もっとも8月は青春18きっぷの期間内でもあった)

木更津は君津の倍の利用者がある、さらに規模の大きな駅。自動改札機の数がそれを物語る。もっとも青春18きっぷでは無縁なものではある

16時過ぎというのに、早くも夕闇が迫ってきた。本日は木更津泊。明日は朝から残り駅の回収を目指す

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~南房総市の市役所最寄り駅

富浦駅の改札付近

※訪問は2022年12月16日

7つの町村が合併

浜金谷から4駅館山方面へと向かい、富浦駅に到着。再び南房総市に入ります。南房総市は7つもの自治体が合併して誕生した(2006年)しただけに広大で、房総半島の南端を含んで東京湾にも太平洋にも面している。館山市を取り囲むようになっているのは、当初の合併協議から館山市が離脱したため。市内には館山市内の3駅を挟んで駅が6つもある

中でも富浦駅は市役所最寄り駅で、地図上では「代表駅」となる。ただし、それぞれの地区(旧町村)には、それぞれの歴史があり、突出して大きい都市が中核をなす形にはなっていないため、それぞれの駅が、それぞれ中心駅である

凝った造りの駅舎

とても立派な駅舎でJR移管後の1995年に新駅舎となった。合併の話が出るより、かなり前の竣工。駅としての歴史は1918年(大正7)に内房線が安房勝山から那古船形まで延伸された際に途中駅として開業しているので、100歳を越えている

中は木造。駅舎内の待合室で分かる通り、なかなか凝った構造となっている

このころの各地では、1988年に当時の竹下内閣が行った「ふるさと創生1億円事業」という、全国の各自治体に配った1億円ずつのお金を原資にした駅舎が建てられていて、こちらもその一環かと思い調べたが、富浦駅については分からなかった

ただしホームには旧来の待合所が残っている。1面2線の島式ホーム。こちらは内房線でよく見られるスタイル。跨線橋で出入りする

東京、千葉への移動手段

訪問時は無人状態だったが、必ずしも無人駅ではないようである

こちらは時刻表。主に週末に臨時特急として走る「新宿さざなみ」の停車駅となっている

ホームには乗車位置案内がある

富浦は古くからビワの産地として有名で当地の「房州びわ」は、皇室に献上される歴史を持つ。そのびわにちなんだ名前を持つのが「道の駅とみうら」で1993年に県内初の道の駅として登録され、その後「道の駅とみうら枇杷倶楽部」となった

国道127号に面する道の駅は富浦における交通拠点ともなっていて、館山から千葉、東京、羽田空港~横浜に向かうバスが頻繁に通る。富津館山道路の富浦インターが至近にあるからで、富浦から千葉へはバスが1680円、電車が1520円、富浦から東京へはバスが2550円、電車が2310円と電車がやや有利だが、所要時間だと、千葉までのバスが90分なのに対し電車が110分、東京へは同じく110分と150分で、バスの圧勝となっている。週末は特急があって時間は短縮されるが、その分、特急料金がかかる。運行はともに昼間は1時間に1本。羽田空港や横浜へは、そもそも電車利用の概念がないだろう。停留所にはバス利用者を対象とした駐車場があるのは全国の高速バス停留所で見られる形である

冬至を前にした冬の日は短く、14時半という時刻にもかかわらず、太陽は早くも隠れる態勢をとっている。鉄路は高校生を中心とした内房線内の地域輸送に特化されているようだ

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~東京湾フェリーへつながる最西端駅の飛び出るみどりの窓口

浜金谷駅の駅名標

※訪問は2022年12月16日

絶滅危惧種になりつつあるセールス案内

浜金谷駅に到着。島式ホームに加え側線も残っているが、使用されていないもの。それでも両隣の保田、竹岡に比べると利用者は多い駅である

それを物語るように駅舎内には

みどりの窓口。飛び出す「みどりの窓口」。全国の駅で過去何度か紹介したが、当駅にもある

その傍らには

券売機の上に「定期券は浜金谷駅でお買い求め下さい」の文字。「○○への往復きっぷは当駅で」「新幹線のチケット買えます」などとともに、こちらも全国各地で見られたが、窓口そのものが激減した今は大幅に姿を消している

「帰りのきっぷはいかがですか?」

ちょっと前まで窓口できっぷを買うと、予定調和のようにこのように言われた。私は北東北の駅で大阪までのきっぷを買った際、このように言われたことがある

10年近く前、仕事で出かけた時だ。往路は飛行機で行った。とてもじゃないが、大阪から新幹線を乗り継いで行ける場所ではない。そもそも東北新幹線の駅まで2時間近くかかるので、新大阪を始発で出ても到着は15時ぐらいになりそうな駅だが、その時は帰りに東京で用事があったため陸路移動。途中下車扱いで大阪までの乗車券を買ったのだが、はたして1年に何枚の大阪行き乗車券が売れるのだろう、という地方都市の駅で言われたので、ちょっと驚いたと同時に、妙な安堵感があった

窓口が多かったころは駅同士の営業成績を競っていて、往復きっぷのセールスが普通だった。きっぷの発売日にいち早くチケットを確保する、いわゆる「10時打ち」も駅によってはやる気満々の駅員さんがいて「○月○日に行きますから」と事前に伝えて訪れたこともある

最西端ならではの港

これはちょっと意外に思う方も多いかもしれないが、浜金谷は千葉県最西端の駅である。都内から江戸川を渡って、すぐの市川から内房線をかなり走っていて市川の方が西にありそうな印象だが

房総半島の構造上、浜金谷の方が西にある。そんな地形上の有利さもあって、金谷は東京湾の航路の重要地だった

駅を降りると久里浜港へ向かうフェリー乗り場の案内があった。内房線が浜金谷まで到達したのは1916年(大正5)だが、久里浜への航路は1889年(明治22)と、かなり前。港の重要性もあって、まず金谷までの鉄路が急がれた。当駅は1年近く終着駅だった。当時は金谷村。今も駅の所在地は富津市金谷だが、港の名前が浜金谷だったので分かりやすく駅名も同じにしたのだろう(金谷港との呼び方もある)

人が集まる場所なので、観光地である鋸山(のこぎりやま)へのロープウェーもできた。交通の拠点でもあった

フェリーとロープウェーについては駅を降りると両乗り場へは分かりやすい案内がされている

鉄道が変え、アクアラインが変えた

東京湾の航路は輸送の花形だったが、内房線が開通して鉄路が充実したことにより徐々に衰退。浜金谷~久里浜が残るのみとなった。それでもわずか40分で両者を結ぶ航路としてピストン運航が栄えていた。ただ大きく影響を与えたのがアクアラインの開通そして料金の大幅値下げで、かつてのピストン運航は現在、閑散期の平日は約2時間に1本、週末や繁忙期で約1時間に1本となっている

写真の順番が最後になってしまったが、こらちは駅舎。開業時からのものだ。安房勝山駅でも触れた話になるが、こちらも保田駅とほぼ同じ構造。浜金谷から保田を経て安房勝山まで鉄路が到達したのは、浜金谷到達の翌年のことだが、こちらも同じ施工者によるものだろう

そんな交通拠点の浜金谷だが、みどりの窓口は今年の7月で営業を終了している。内房線の木更津以南は君津が昨年3月に、安房鴨川が今年1月に、館山が今年3月にそれぞれみどりの窓口が営業を終了。浜金谷が「最後の砦」だったが、これですべての駅でみどりの窓口がなくなったことになる

みどりの窓口が残っていた時期は、ある意味、貴重な訪問だったわけだが、船から鉄道そして車と、交通の役割の変化を象徴しているようにも感じさせられる

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