JR西日本

青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~ジャンボ駅名標で知られる分岐駅

東岡山駅の駅名板

※訪問は4月6日、状況が変化している可能性があります

失われつつある吊り下げ駅名標

今年になって中国地区の各駅でホームの吊り下げ式の駅名標がどんどん撤去されているそうです。駅舎がなくなるのではないため公式なアナウンスがなく理由は分かりませんが、吊り下げ式は維持費がかかるからなのでしょうか? わざわざ撤去する理由は、それ以外に考えられない

吊り下げ式とは、このような形のもの。写真は新幹線の岡山駅ホームで、さすがに岡山駅の新幹線ホームからなくなることはないでしょうが、凄い勢いで撤去が進んでいるようです

私の認識では、かつて駅名標はホームに立っている形のものが多く、駅の利用者が増えるにつれ「ホームに駅名標が立っているとラッシュ時にじゃま」ということで、上へ上がっていった。同じJR西日本管内でも近畿圏の駅名標はまだ天井からぶら下がっています。駅によっては強風時にブランコのように揺れて「大丈夫か?」と思わないこともないですが、強風で駅名標がぶっ飛んだという話は聞かないので、かなり頑丈に取り付けられているのでしょう

吊り下げ式は中に電灯が入っているものが多く、節電の意味もあるのでしょうが、これは点灯させなければ済むこと。駅名標をひとつ撤去することで、どれぐらいの節約になるのか私には分かるすべがないのですが、児島駅のような、ご当地的駅名標までも容赦なく撤去されているようです

東岡山駅では生存確認

駅名標の撤去という意味では、最も影響を受けるのは東岡山です。こちらには鉄道ファンにもかなり有名なジャンボ駅名標があります

南口改札を入った所にドーンと設置されています。普通サイズはおそらく文字のある部分でしょうから、空白部分を見るだけでも普通の駅名標よりはるかに大きいことがよく分かります

これがなくなっては「駅名標界の損失」です。心配になって7月23日に青春18きっぷで高松から戻ってきた際、当然のように当駅を通るので、おそるおそる確認したところ、しっかりと生存を確認できました

東岡山ではもうひとつ、普通の吊り下げ式駅名標があったのですが、今回は駅で降りることがなかったので、こちらについては分かりません

分岐駅にして管理駅

東岡山は山陽本線と赤穂線の分岐駅です。分岐駅とはいっても両線とも運行は岡山までの直通で東岡山止まりというのは原則ないので、当駅~岡山はとても本数の多い区間となります

東岡山はとても大きな駅舎を持っています。実はこの角度だけでは写真に入りきらない

斜めにして左側の部分もフレームに何とか収まる

新大阪方面から岡山へ向かうと、このあたりは間もなく到着のアナウンスが流れ、すっかり減速するので大きな駅が車窓からよく分かる駅でもあります

瓦葺きの駅舎は1935年からのもの

すっかり岡山の市街地に入っています。2つの高校もあって朝夕は生徒でもにぎわう

そして当駅は今回紹介してきた山陽本線の岡山県区間である三石以西の西川原(岡山のひとつ手前)までを司る管理駅でもあります

ジャンボ駅名標とは対照的に駅舎に掲げられた駅名板は国鉄文字のもの。電車の本数や利用者数のイメージとは、やや異なるのんびりした空気も流れていました

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~国鉄末期に誕生した難読駅

上道駅の駅名標

※訪問は4月6日、状況が変化している可能性があります

同名駅があるだけに

答え合わせからスタートしますが、なかなかこうは読めない駅です。「じょうどう」なら急激に普通の読みになってしまいますが、1文字濁音が外れただけで難読駅の仲間入りです

難しさを増しているのは同じ「上道駅」が同じJR西日本管内にあるため。鳥取県の境線にも「上道駅」が存在しますが、こちらは「あがりみち」と読む。同じ文字でありながら、カナにすると似ても似つかないというあたりが、おもしろい。開業は鳥取県が1952年に対し、岡山県は1986年。山陽本線の駅の方がかなり後輩になりますが、元々あった自治体名「上道町」に基づくものなので、別名とはいかなかったのでしょう

駅を降りたところに解説がありました

難読駅については由来を知りたくなる。こういうかゆい所に手が届くのは、とてもうれしい。解説によると元々は「かみつみち」と呼ばれ、後に「じょうとう」に変化。「上東」の文字が充てられることもあったという。「上東」が定着していれば、境線との区別も必要なかったし、難読駅になることもなかったのかと思うと、なかなか興味深い

周辺は新興住宅街と重要国道

駅の開業は1986年11月ですから、国鉄末期というか翌年3月の民営化へのカウントダウンの時期。駅の南側に新たな住宅街が誕生したため、新規開業となりました。「国鉄のうちにやっておくことはやっておこう」と新設された駅が各地で見られますが、おそらくそうした案件だと思われます

こちらも駅前の地図で詳しい

駅があるのは地図の左端。兵庫県側からやって来た山陽本線と山陽新幹線が合流した地点にあり、駅に近い新興住宅街は「城東台」と、難読を避けたかのように命名されています。そしてこの地図でも分かるのは、元々の上島町(1971年に岡山市に編入)の中心からは若干離れているということ

この上道地域センターがかつての町役場の場所。車で10分とは、かなりの距離ですが、こちらにはそもそも新幹線以外の線路が通っておらず、城東台を造成した会社が駅の設置費用を負担したこともあって、駅は現在の場所となりました

ただ駅の南側を通る国道250号は山陽本線、山陽新幹線とともにそのまま岡山市内に入るルートで、交通量も多く、ロードサイド店が並ぶ道路です

橋上の無人駅

上道駅は橋上駅舎。1日2000人以上が利用しますが4年前に無人化されています

現在は簡易式のICOCA改札機がポツンと置かれているだけですが、4年前まではみどりの窓口設置駅でした

比較的新しい駅ですが、なぜ並べて案内をしているのか微妙な感じがする手洗所の文字は独特

ホームは2面2線。1986年開業ですので、もとより貨物の扱いはありません。新幹線の高架直下が北口となりますが、南口に比べると北口は静かです。ここから新幹線と寄り添いながら岡山を目指します

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~山中の「瀬戸町」から列車は増える

瀬戸駅の駅名標

※訪問は4月6日、状況が変化している可能性があります

旧瀬戸町の代表駅

瀬戸駅です。当駅折り返しの電車が頻発しており、ここから岡山に向けては昼間も30分に1本と本数が多くなります。2面3線で駅の規模も大きく、少し前までは管理駅でした

現在の住所は岡山市東区瀬戸町ですが、16年前までは単独の自治体「瀬戸町」でした。瀬戸駅は同町の代表駅

駅の周辺に役場などの公的施設や学校などが集まり、町の中心部を形成しています。また熊山駅の記事でも説明した通り、岡山市内にありながら赤磐市の市役所最寄り駅でもあります

その瀬戸町ですが、町名のイメージとは異なり、瀬戸内海には面していない内陸の町。地名のできた古代には瀬戸内海に面していたそうです

駅舎は昭和13年生まれ

駅の開業は1891年(明治24)と、こちらも沿線の他駅と同様、歴史がある。現在の駅舎は1938年からのもの。少しずつ手を加えられているようですが

ホームの柱と上屋には年輪を感じさせます

こちらも駅舎と同年齢のよう

駅入口の駅名板。こちらも年季を感じる。駅舎の屋根に設置されたものと2つ縦に並べるように掲げられています

南口も設置

瀬戸から岡山までは25キロ。電車でも20分ほどの距離

ホームに立つと駅舎とは逆側に住宅街ができています。これだけ岡山市内の中心部まで近いのですから当然といえば当然

ということで2011年に南口が設置されました。岡山県内に入って簡易式のICOCA改札機ばかり見てきましたが当駅は開閉式。ただ過去何度か書いている通り、青春18きっぷの使用時、JR西日本の無人開閉式改札はなかなか難敵なのですが

駅舎側の改札は本来、改札機に入らないきっぷのために駅員さんがチェックするスペースが空けられています。地区によって異なるのでしょうが、岡山地区では青春18きっぷのシーズンは「自由にお通りください」と案内されている場合があります

こちらは当駅訪問の前日に金光駅で見たもの

なお瀬戸駅は窓口は閉鎖されていてみどりの券売機が設置されていますが無人駅ではありません

「窓口に誰もいない有人駅」こちらも最近多く目にするようになってきました

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~縁起駅はビール工場で栄える

万富駅の駅名標

※訪問は2021年12月12日、状況が変化している可能性があります

縁起の良い駅として知られる

万富駅。ここから山陽本線は岡山市内に入ります。所在地は東区瀬戸町万富。駅名は旧万富町に基づきます。万富町は戦後10年で瀬戸町と合併。その瀬戸町は2007年に岡山市に編入となりました

「万富」という名前がとても縁起の良い名前だとして古くから知られていました。訪問時に不思議に思ったのですが、自分の中では有名駅だったのですが、2019年に無人化されて以来、入場券を買うすべがないのではないか、ということ。もっと大々的に、記念入場券を岡山駅などで発売しても良いのではないか、と思いました。いろいろ調べたのですが、見当たりませんでした。以前から、そのような企画入場券は発売されていなかったのでしょうか

現在の駅舎は1937年からのものです。駅としての開業は1897年(明治30)と、こちらも沿線の他の駅と同様に古い。戦前に改築された駅舎が使用されています

戦前からの駅でよく見かける小さな階段を上がって駅舎に入る構造。全国各地で見られるので、こんな階段がおしゃれだったのでしょう。もちろん現在はバリアフリーのスロープが設けられています

ビールの積み出しで繁栄

万富駅に降り立って、まず目に付くのは

ズラリと並ぶビールののぼり

駅舎と逆側の一帯は広大なキリンビール岡山工場となっています。訪問時は12月の真冬だった上にコロナ禍で工場見学は中断していましたが現在は復活しているようです。ただ

駅に隣接しているにもかかわらず駅舎とは逆側にあるため、徒歩だと10分もかかるようです

戦後早々に貨物の取り扱いをやめていた万富駅ですが、1972年にビール工場ができると貨物が復活。以降、もちろんビール運搬そして原料(麦芽)運搬で栄えました

しかしビール関連の貨物は国鉄末期の1986年に終了。わずか15年だけの貨物復活でした。現在はのぼりが並ぶスペースにその名残を感じることができます

写真だと右側の部分ですね

現在は始終着設定なし

以前は漢字のみだった駅名板にローマ字入りで上書きした形跡があります。それでもおそらく国鉄時代から現在の形になっているようです

構内は2面3線。以前は当駅始終着の運用もありましたが、現在はありません。2番線はそのためのホームでしたが貨物列車の待避として利用されているようで、私の訪問時はディーゼル機関車が単機で待避していました。到着時の写真の奥に見えます

万富駅とは直接関係のない話ですが、この日私がたまたま乗車したのが和気が始発で山陽本線を福山まで行った後、福塩線に乗り入れて府中まで到達する電車。山陽本線→福塩線と直接乗り入れる貴重な1本でした

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~日本初の庶民のための学校

吉永駅の駅名標

※状況が変化している可能性があります

旧吉永町の中心地

吉永駅。直近の訪問は今年の4月

構造は2面3線。かつては国鉄駅の代名詞だった2面3線構造も最近は1線分のレールがはがされたり、有名無実になっていることが多いですが、ここはそのまま残されています。1日に2本、当駅での折り返し電車が設定されていて、そのためのホームとなっています

山陽本線のこの区間は前回の三石と当駅以外にも和気、瀬戸と複数の駅で折り返し電車が設定されています。当駅では7時台と18時台。通勤通学に対応しているのは明らかですが、三石、吉永、和気と1駅ずつ設定されている点がユニーク。ただ三石までは7キロ、和気までは5キロと駅間はかなりあります

2005年まで存在した旧吉永町にあった唯一の駅で同時に町の中心部は駅近辺に集まっています

吉永町は岡山藩主の池田宗家の墓地があることで有名。同時に吉永駅は日本初の庶民のための公立学校である「閑谷(しずたに)学校」の最寄りでもあります

同所には10年以上前に訪れたのですが、どうしても写真が出てこなかったので

閑谷学校を記した駅の案内と

閑谷学校へ行くバス停の時刻表でお許しください

大正からの駅舎が健在

駅は1891年(明治24)の開業

財産票によると現在の駅舎は大正15年(1926年)からのもの。大正のラストイヤーにできたものなので、間もなく駅舎は100歳となります

閑谷学校を訪れた時と駅のイメージが違うな、と感じたのですが、その後調べると駅を覆うように植えられていた何本かの木がなくなっていました

ただし駅舎そのものは手を加えながらも建築時の雰囲気を伝え続けています

三石駅と同じ2016年に無人化されています。簡易式のICOCA改札機がポツンと置かれています

窓口の上部に緑色のものが残っていますね

こちらはホーム側からの写真。駅舎内は広い

当然ながら山陽本線は今も多くの貨物列車が走っていますが、当駅での貨物取り扱いは国鉄時代の末期に終了しています。三石駅の記事でも触れたレンガを当駅でも扱っていたそうです

側線には保線用車両が停まっていました。左奥の建物は大きな病院です

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~高台にたたずむ県境の駅

三石駅訪問時は桜が満開だった

※駅の状況が変化している可能性があります

岡山県と兵庫県

上郡を出て岡山に向かう電車は距離にして12・8キロ(山陽本線最長の駅間)、電車で10分もかけ、岡山最初の駅である三石に到着します

いかにも県境という車窓には民家はほとんどなく、国道2号線のバイパスが見えるのみ。こういう県境感の車窓が私は好きです

新幹線に乗れば、新大阪から45分、新神戸からは30分で岡山に着いてしまうので、とても近い隣県と思われる方も多いかもしれませんが、私の認識は全く異なります。まず駅を降りるとイントネーションが違います。いわゆる関西式とは逆になります

過去の歴史を見ても、播磨の国と備前の国は攻めて攻められてと、領地争いが繰り広げられ、豊臣秀吉が主役なので描かれ機会が多いのでしょうが、有名な上月城の戦いなど争いの印象が強い

三石は古代より宿場として栄え、南北朝時代から戦国時代までも内紛を含め数々の攻防が行われた地。近代は耐火性のある蝋石を産出する鉱山の町からレンガの町となりました

多くの側線を有する高台の駅舎

今もレンガ関連の会社や倉庫が残る国道2号の旧道沿いにある町の高台に駅はあります

手前でカーブを描いているのが国道2号で駅舎は道路を見下ろすように建てられています

多くの側線が残ります。無人化されていますが、山陽本線では岡山県の東端にあるため、早朝と夜間には当駅始発、夜間と深夜近くには当駅止まりの列車が設定されています

訪問は今年の4月6日。沿線の他の駅では終わりかけていましたが、山中の駅では桜があまりにも美しすぎた

当駅訪問は2017年9月以来。前回と異なるのは駅舎の左側が縮小されて新しい建物が建っていること

財産票を見ると目的は明らか。電車の夜間停泊時の乗務員の宿泊施設となっています

大正時代からの駅舎

これは6年前の様子で無人化されて間もないころの写真ですが、今と大きな変化はありません

窓口の上には列車のヘッドマークが展示されていてユニークなものばかりですが、どの時代のどんな列車のものか私には確認することができませんでした

駅は1891年の明治23年に現在地に設けられました(開業は別の地で1890年)。財産票には大正10年と記されています。大正10年といえば1921年。すでに100歳を超えたことになります

駅舎を入るとホームにはトンネル形式の通路を上がっていくのですが、振り返るとこのような感じ。途中の通路は庭園となっていて、きれいに整えられています

ホームは側線に囲まれた1面2線。電車に乗ると旧三石町の中心部だった街が車窓から一望できます

ぜひ訪れてほしい県境感たっぷりの駅です

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~知名度抜群の県境駅

上郡駅の駅名標

※状況が変化している可能性があります

何かと見聞きする駅は

相生から西へ向かう山陽本線は有年そして、ここ上郡のわずか2駅で兵庫県と岡山県の県境に到達します

降りたことはないけど駅名だけは知っているという駅というのがあるのではないでしょうか。都市圏で運行される電車の終着駅となる駅によくあるケースで近畿圏では「野洲」「網干」などが挙げられます。上郡もそのひとつ。今は運行がなくなりましたが、赤穂線の備前片上駅は大阪・神戸方面への直通列車が走っていて「一体だんなとこやろ?」と子供心に思っていました

上郡もそんな駅のひとつで鳥取方面へと向かう「スーパーはくと」の停車駅としての案内が必ずある上

近畿圏のフリーきっぷが発売されると一番左に印字されていることが多い。市町村合併の影響もありますが、このきっぷで言うと利用区間の限界で自治体で言うところの「町」にあるのは上郡だけ(関西空港駅は田尻町と泉佐野市にまたがっている)

山陽本線の姫路以西は相生ダッシュの項で触れたように、多くが赤穂線直通へとシフトしましたが夜には大阪方面から上郡が終着となる電車が今も運行されています

古来からの重要地域

と延々説明してきましたが、私がちゃんと同駅に降りたのは2018年6月のことで全くの最近。上郡という駅の存在を知ってから40年以上が経っている

時間は22時前。鳥取から帰る際、それまで乗ったことがなかった「スーパーいなば」にどうしても乗りたくなった私はスーパーはくとではなくスーパーいなばに乗車。ここ上郡で乗り換えました

この時はすっかり夜で、ちゃんと明るい時間帯に訪れたのはもっと遅く2020年の3月で、つい最近のこと。こういう「いつでも行けるようで意外と遠い駅」というのは後回しになってしまうものです(三ノ宮~上郡は約90キロもある)

開業は1895年の明治28年。その5年前に有年から岡山県に入った三石まで線路が延びていて後から設置された形となっていますが、上郡は古来より播磨の国と備前の国の国境として重要な地域でした。駅舎はおそらく大正期からのものがずっと使用されています

有年の駅前を通る国道2号線は岡山方面へは山中を突っ切るバイパスとなっていますが山陽本線は川沿いを一度北へ向かう形で敷設され、大きく弧を描く形になった線路の北側に位置するのが上郡。奈良時代よりさらに前に山陽道の通り道となり、鎌倉時代から戦国時代にかけては国境を巡る陣取り合戦も繰り広げられました

駅前にはこのような観光案内も

ちなみにこの白旗城への最寄りは智頭急行で2つ先に行った「河野原円心駅」となります

山陽本線最長の駅間

鉄道的には山陽本線の兵庫県西端として重要地域となり、今も上郡発着の電車が設定されています。そのため構内も広い

また県境越えとなる三石までは12・8キロもあり、これは山陽本線最長の駅間となっています。ぜひ車窓を楽しんでほしい区間です

1994年には智頭急行が開業。起点駅となりました。スーパーいなばはJRのホームから発着しますが、他は別ホームで

線路はつながっているものの別駅扱いです

上郡は運行の拠点駅で朝と夜に大阪方面への直通電車も運行されていて新快速の出発、終着駅ともなっています。もちろん直営駅で駅員さんもいますがきっぷ販売については一昨年にみどりの窓口が廃止され、みどりの券売機が設置されています

ちなみに最終電車の到着は深夜0時40分でかなり遅い。こちらは20時43分に米原を出て高槻~明石間は快速として運行される電車ですが4時間もの長時間運行。存在はかなり以前から知っていて、ぜひ乗車してみたいと思ってはいるのですが、では着いてどうするんだと言われると、なかなか厳しいものがあり、長らく保留状態となっています

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青春18きっぷで相生-岡山を途中下車~いきなりメインディッシュの有年駅

有年駅の駅名標

※状況が変化している可能性があります

兵庫県最古の駅舎が存在していた

相生のひとつお隣で、すぐに私にとってのメインディッシュとなってしまいます。これを最後にしたいため、岡山側からたどる方がいいのか真剣に悩んでしまったほど

有年駅です。「うね」と読みます。さりげなく難読駅。これは2016年10月22日の写真です

このような木製の解説が建てられていました。ここにも記されている通り、開業は1890年というから明治23年。当時の山陽鉄道によって一度神戸からの終着駅となりました(間もなく線路は岡山県まで延びる)。こり山陽鉄道は現在の山陽電鉄とは異なっていて十数年後に国有化され、山陽本線となりました

駅舎はその当時からのもので、兵庫県最古の駅舎として長らく知られていました

駅舎内の様子。みどりの窓口こそありませんが駅員さんのいる駅

と同時に工事が行われていて新しいホームの付け替え作業は完成に近づき

新たな橋上駅舎もほぼ完成

使用も一部が開始されたばかりという状況でした

塩で大いに栄えた駅

駅の所在地は赤穂市。赤穂といえば赤穂浪士の時代から今に至るまで「塩」が大きな産業です。ただ鉄道黎明時に赤穂の町中や沿岸部には路線がなく、塩の運搬は課題でもあり、儲け話でもありました

そこで既存の山陽本線まで何とか線路で結ぼうと、いろいろな案が練られました。当時の大きな町で岡山側にも便利な場所は上郡ですが、地図を見れば分かるように山陽本線は大きく北側に迂回するように敷設されていて、ここまで線路を伸ばすのは無理となって指名されたのが有年。赤穂市の中心部から真っ直ぐ北にある。ということで1921年の大正10年に敷設されたのが播州赤穂~有年の赤穂鉄道

接続駅として有年が大いに栄えたことは駅前の解説にもあります

大変分かりやすい

地図の部分だけを拡大するとこのような形。駅の周辺はいろいろな店舗だけでなく、映画館やダンスホールまであり、大いににぎわっていたことが分かります。もちろん今はその光景は一変していますが、国道2号線の有年駅近辺は今も住宅が多く片側1車線の細い道路となっていることに、名残があります

全国各地には石炭などの鉱山や林業で栄えた駅は数多くありますが、塩で繁栄した駅というのは珍しい。赤穂ならではの話です

ただ戦後間もなく現在の赤穂線が相生から分岐して播州赤穂まで開通すると同時に存在意義がないとして赤穂鉄道は廃線。この赤穂線の影響は非常に大きく、元々岡山までの延伸を目的にしていた現在の山陽電鉄は計画を止めてしまいました。今は支線となって山陽網干が終点となっている網干線は現在の赤穂線のルートでの岡山到達を狙っていました。兵庫県内で完了しているにもかかわらず「山陽」という社名だったり、姫路駅に向かう際、本線と網干線の分岐駅である飾磨駅で網干線の線路が直線的で、本線が大きく弧を描いているのが、そのなごりです

長らくの静かな駅が

1951年の赤穂鉄道廃線後はひっそりと暮らしていた有年駅に変化が訪れたのは2010年代に入ってから。駅を訪れると分かるのですが、駅舎とは反対側に新たに宅地が造成され、駅へのアクセスの利便性を図るため橋上駅舎の構想が持ち上がります

それに伴い、明治以来の駅舎は解体となるのですが、由緒ある駅舎を残そうという運動が持ち上がり2016年は、まさにそのまっただ中

ただ翌2017年9月の時点でも、そのままでした

しかし同年12月24日に訪れると

このような案内とともにすっかり駅舎は姿を消していました。しばしぼう然

右にある旧ホームの上に駅舎は建っていました。もう土台が残っているだけ

山陽本線なんて未来永劫、廃線になることはない路線ですが、地方都市にある古い駅舎を残す難しさを痛感した瞬間でした

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阪和線の日根野以北を足早に回る~最終項…頭端駅が美しい天王寺

天王寺駅の駅名標

2022年12月8日12時30分

面影を残す

今回の旅の終着駅である阪和線の天王寺(公式には阪和線の起点)に到着です

梅田付近から和歌山や関西国際空港に直接向かう人は環状線を通って、そのまま阪和線に直通するため、意外と降りることが少ないかもしれませんが

天王寺を起終点とする電車は、こちらから出ます。ご覧の通り頭端構造。阪和電気鉄道のなごりというか、同社の駅だったので頭端式となっています。私鉄の大型ターミナルだったわけです

南海との合併を経て戦時買収

阪和電鉄は戦時体制そして戦争によって大きく運命が変わります。まず私鉄の再編によって南海と合併したのが1940年。元々が南海のライバルとしてできた会社ですが、国策ということで同じ会社となり「南海山手線」と改称。しのぎを削ることはなくなりました

さらに戦時中の1944年に今度は南海山手線の部分が「戦時買収」で国鉄となり、現在に至ります

鉄道国有法がすぐ有名無実化したことは以前に触れましたが、この戦時買収は有無を言わせず国有化するもので「買収」とは名ばかりの強制的な国有化でした。仙台から松島へ向け、JRの路線が2つある不自然さも仙石線が戦時買収によるものだから(東北で唯一の直流方式なのもそのため)です

日本中で多くの私鉄が国有化されました。ただターゲットが物資運搬色の強い路線だったため、阪和線や南武線のようにその後、ドル箱路線になったのは大都市圏周辺のごくわずかで、後に廃線になったものや国鉄を経て引き継いだJRが「もうやめたい」と言っている加古川線や小野田線のような路線が多いのも事実

特筆すべきは飯田線で山中を細々と走るローカル線が、なぜ立派に電化されているかというと複数の会社を戦時買収したからで、戦時買収というものがなかったら、今ごろは廃線となっているかもしれません

話は少しそれますが、この1944年には「国からの要望」と、これもまた半ば強制で南海は大阪から三重県まで幅広いエリアを持つ「関西急行鉄道」という会社と合併して新会社「近畿日本鉄道」が発足しました。戦後、南海は同社から離脱して元の形となりますが、会社名は残りました。言うまでもなく現在の近鉄です

ライバル心が発展に寄与

こちらは鳳駅(2021年3月撮影)。阪和線唯一の支線である羽衣支線が発着します

こちらは東羽衣駅(2021年3月)。「東」とつきますが南海の羽衣駅と同じ場所にあります。詳細は以前、別媒体でも記したので簡単に触れておくと、2キロにも満たない鳳~東羽衣の1区間は今や、JRと南海を結ぶ貴重なアクセスとなっていて乗り換えの案内放送もされていますが、もともとはそんな立派なものではなく、当時東洋一と呼ばれた浜寺の海水浴場の集客に目をつけた阪和電鉄が「客を奪ってしまえ」と南海の線路手前まで強引に1区間のみを敷設したもの

なかなか無茶苦茶な話ですが、和歌山まで高速列車を走らせて沿線では遊園地造営に宅地開発、温泉、さらには南海沿線にある競馬場や海水浴場での利用客争奪と、阪和電鉄は、存在したわずか10年の間に「ありとあらゆる手段」で企業努力をしていたことが、よく分かります

その功績は和歌山駅の現在などにも象徴されています

阪和線へのアクセスは容易すぎるほど容易で和歌山まで15分に1本の電車が走っています(昼間の和歌山への直通はこちらのホームからは出ていませんが)。天王寺の頭端式ホームからスタートして三角屋根の駅舎をはじめ、いろいろな歴史を見ながら鉄路をたどってみるのはいかがでしょうか

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阪和線の日根野以北を足早に回る~阪和電鉄最後の駅

富木駅の縦駅名標

2022年12月8日11時30分

意外な難読駅

富木駅に到着しました。「とのき」とは、なかなか読めません

こちらの駅の特徴は東西で大きく表情が変化することです

こちらは東口。阪和電気鉄道独特の三角屋根が、かわいい形で残っています

1940年の開設。阪和電鉄では最後にできた駅です。というのも、阪和電鉄は戦時体制で一度、南海に組み込まれ、戦時中に国営化されたからです

駅は1940年3月に開業し、阪和電鉄は同年12月に南海に吸収合併されたので、阪和電鉄の駅だったのは、わずか9カ月間でした。もちろん阪和電鉄が望んでライバルの南海に吸収合併されたわけではありません

駅ができたのは宅地開発のため。わずか10年しか存在しなかった阪和電鉄ですが、最後の最後まで企業努力をしていたかと思うと、なかなか複雑なものがありますね

他の主要駅もすぐそば

後から設置された駅のため、お隣の快速停車駅である鳳までは1・2キロしかありません。鳳は堺市で富木は高石市ですが、鳳側からの車両区の線路が富木のすぐそばまで来ています

高石市内では南海の主要駅である羽衣駅にも近い。また地図で分かるように周辺はビッシリ住宅街。阪和線沿線の他駅の多くの例と同様、当駅の開設時は取石村でした。阪和線が人工増加に大きく寄与しています

東西で異なる表情

当駅の特徴は東西で駅舎の表情が大きく異なることです

東口は前掲の写真の通りですが西口は

随分と近代的。それもそのはずで、こちらの駅舎は2011年の完成と、まだ10年ちょっとしか経っていません

これも阪和線の特徴ですが、ほとんどの駅は降りるとすぐ踏切があります。それこそ「村」だったころは、それで何の問題もなかったのですが、沿線人口が増え利用者が増加すると「開かずの踏切問題」が各駅で発生します。大阪中心部に近づけば近づくほど電車の種別も本数も多くなるため、これは深刻な問題で、まだこの案件を抱えている駅は多い

そこで当駅では高石市が全額負担して新たに西口を設けました。阪和線の高石市内にある駅は当駅だけ(支線の東羽衣駅はかなり以前に高架化)なので、いろいろスムーズに行ったのかもしれません

西口ができたことで、それまで上下ホームを結んでいた地下通路は改札外の自由通路となって鉄道利用しない人も利用できるようになりました

踏切付近から駅を見ると、こんな感じ。近いのに渡れないというのは、やはりイライラしますね。まだ西口完成から10年ちょっとということで駅には多くの注意書きが目立ちます

板で覆われた部分が自由通路化されたところ。上下ホームが別となったことによる注意喚起

自動改札手前の、あらゆる目につくところに文字が見られます

ただ開かずの踏切のイライラは解消され、こんな文字もしっかり掲げられています

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