JR西日本

青春18きっぷで芸備線の未乗降駅を目指す~その1  (大混雑の1日1本)

市岡駅の駅名標

※訪問は2024年4月2日

姫路駅の立ち食いそばからスタート

岡山から新見経由で芸備線を目指す。お決まりのコースといえばお決まりである。というか、午前中の芸備線列車は新見に前泊しない限り物理的に乗れない。となると備後落合で3つの列車がそろう1日1本の新見発12時58分しかない(平日のみ運行の新見発7時3分は岡山から伯備線の始発に乗れば間に合うが)

姫路駅ホームの駅そばを朝食として

相生から岡山まで1区間は新幹線ワープ。かつてのスター列車は今、こだま専用車両として余生を過ごしている。相生~姫路は山陽新幹線で最も1駅間距離が長く新幹線の1区間特例(自由席だと安く乗車できる。2区間の場合もあり)の恩恵を最も受けられる区間である

なんてエラそうなことを書いているが、何のことない、またもやと言うべきか時刻表を微妙に読み間違え、相生ダッシュを経て在来線で岡山まで行ったのでは新見発の芸備線に間に合わないことに途中で気付いたからだ。まぁ新幹線課金さえすれば、すぐに解決することなので問題ない

伯備線ホームに行くと特急「やくも」が出発の時を迎えていた

国鉄特急はカウントダウン。大変な人気だが、昨年パノラマグリーンも堪能した。後発の伯備線普通に乗車する

旅の理由

今回の旅の理由は「芸備線の未乗降駅で乗降すること」。ちょっとややこしいが「訪問済みだが列車利用したことのない駅で乗降する」のが目的だ。対象は1日3往復で知られる新見~備後落合の2駅

2年前の3月にもこの区間の全駅訪問は行っているが、その時の行程は

岡山→(やくも)→生山→(伯備線普通)→備中神代→コミュニティバス→坂根→(コミュニティバス)→市岡→(路線バス)→矢神→(芸備線)→内名→(芸備線)→布原→(芸備線)→野馳→(芸備線)→新見

で初日を終え、新見で宿泊。翌朝から主に東城以降の広島県の駅訪問となった

なお、わざわざ生山まで行って折り返したのは備中神代からのコミュニティバスの乗継ぎが新見からの伯備線普通と同時刻となっているため、(当時はあった)駅舎の写真すら撮る時間がないと判断してバス発車1時間前に備中神代に着くようにしたためである。また布原と備中神代は伯備線の駅だが、布原は芸備線列車しか停車しないため、芸備線扱いとした

つまり初日の行程では

坂根駅 バスで訪問して徒歩で去る

市岡駅 徒歩で訪問してバスで去る

となっていて乗降はない。駅に列車が停車する場面を見たのは車窓からのみ。今回はその2駅の「空白」を埋めるのが目的である

アナウンスとともに立ち上がる乗客

岡山からやくもではなく普通に乗車したのは、お金を節約するのも目的だが、接続を考えると、あまり意味がないから。見送ったやくもは11時13分発で新見着は12時15分。普通は11時24分発で新見着は12時55分。新見駅で3分という芸術的な接続で芸備線の事実上の1日1本に乗せてくれる18きっぱーのための列車なのだ。悪天候による遅延の場合は私も確実に芸備線に乗るため特急利用したかもしれないが、この日は快晴で天気予報でも新見は最高気温20度超えが予想されていて何の問題もない。伯備線の普通は順調に進んでいく。車内には明らかに同業者(鉄道ファン)と思える人の姿もチラホラいたが、平日だったため、それほど混んではなくて余裕である

ところが新見のひとつ手前の石蟹で、なかなか出発しない。間もなく車内アナウンスで「伯備線遅延で行き違い列車を待つためしばらく停車します」

いやいや、ちょっと待ってくれ。この1日1本に接続しないと私は何のために来たんだ、と焦る。3分の乗り換えなんて、もう無理だろうと思っていめと、しばらく経って再びアナウンス。「芸備線の備後落合行きはこの列車の到着を待って出発します」

確実に車内に広がる安堵の空気。もちろん私もその一人なのだが、新見に近づき「芸備線は地下道を通って1番線からの発車です。ご利用の方はお急ぎください」のアナウンスがあると、何人かが立ち上がりドア付近に立つ。私も含め同業者の正体がバレた瞬間である(笑)。3両編成だったので、私の想像以上にいるようだ。もっとも鉄道に興味もない人は何も思わないだろうが

ダッシュの列。もちろん私もその一人。とにかく多くの青春18きっぱーは奈落の底に落ちずに済んだのである

単行のキハ120は凄い人だった。この列車には昨年9月の週末にも乗車したが、18きっぷのシーズンでもないのに座席はすべて埋まっていた。都会の朝のラッシュ時のような混雑ぶり。今週末は今春の18きっぷ最後の週末となる。新見から備後落合までの約1時間半を座りたい方は、特急利用するか岡山発9時56分のもう一本早い普通の利用をおすすめする。いずれにせよ車窓を楽しむのはかなり早い時間から待機しないと無理だと思われる

ただ当の私はといえば、市岡までは20分なので、それほど苦にはならない

満員の列車から降りたのは私と高校生1人。当駅に停車する列車を外から初めて見た。ちょっと感慨はあるが、実は大変なのはこれからなのである

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~たった5年で休止→復活→拡張→移転の歴史

川原石駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

輸送力強化の駅

川原石に到着。ご覧の通りホームは極めて狭い

列車が去った後の構内を見ると

狭いホームが向き合っている。前記事、前々記事と輸送力強化のための「新駅」を紹介してきたが、当駅もそのひとつ。ただ異なるのは新駅ではなく移転した駅だということ

川原石駅は1935年(昭和10)の開業。海田市~呉は1903年(明治36)に開業していたが、三原まで全通した際に呉~吉浦間に設置された。ただし、それはまさに設置というもので地元の要望に応えた駅のホームは1両分しかなく、当時導入が開始されたガソリンカーという単行列車のためのものだった

その後、戦時色が強まっていくにつれ燃料の節約でガソリンカーは廃止。川原石駅も列車が止まることができなくなったので1940年に休止される。戦後もしばらく放置状態だったが、戦後13年も経過した1958年に復活。ただし1両分のホームというわけにはいかないので、初代駅のすぐ近くに6両分のホームを設けて新たな川原石駅とした

しかし現在の感覚だと信じられないかもしれないが客車中心の当時の鉄道事情では、6両以下という編成は少数派で、それ以上の編成列車は当駅を通過していた。1968年10月の時刻表(復刻版)を見ると、広島行きの列車は5時39分が始発で次が8時35分。もう通勤通学の時間は終わろうとしている。昼間はほぼすべての列車が停車しているが、夕方になるとまた通過だらけで広島から呉への列車は15時51分の次が5時間以上も空けて21時31分。かなりの残業か一杯やってからでないとホームに降りることはできない時間である

つまり旅客が多い朝夕ラッシュ時は必然的に長い車両となるので停車することができない困った駅だったのだ。それでも呉までは、わずか1・2キロの距離だったので地元住民は呉駅を利用していたと思われる

しかし、そんな川原石もJR移管の際にようやくホームが拡張され、すべての普通列車が停車するようになった

複線化対応のため移転

次に転機が訪れたのは呉線の輸送力強化。新設の水尻駅、復活のかるが浜駅とともに単式ホームの川原石駅でも列車交換(すれ違い)ができるようにしようということになったが、住宅密集地に設置された単式ホームは交換設備を設ける余裕がないということで500メートル広島側へと移設することになった。それが現在の川原石駅

私が降りたのは呉方面ホーム。ホームはそれぞれ独立していて駅舎はない

向かいのホームへは公道を通るよう案内されている。呉線内では須波駅と同じ構造だが、こちらは当初から駅舎はない

広島方面の入口も狭い場所に器用に造られている

ホームからは工場が一望

現在のホームからは工場群がよく見える。この付近では軍事機密を守るということで1937年に車窓からの景色を見えなくする目隠し板が設置され、広島から呉方面へと向かうと吉浦あたりから車掌や憲兵が窓を閉めるよう指示を与えたという。右手前の建物は、おそらく「敵から目立ちやすい」との理由で黒く塗装され直されたものが、そのまま残っていると思われる

さて今回の心残りは旧駅跡を訪問できなかったこと。たった500メートルの距離だが、30分ほどの滞在時間で住宅密集地の小路を迷うことなく行って、今はホームもない駅の跡地を確認して戻ってこられるかどうか不安だったので断念したのだが

帰宅後に調べると開業記念碑がある。これはちょっと後悔

駅のすぐ近くにある建物は呉市立港町小学校。昭和30年代に全国でこぞって建てられ、私が子供のころは神戸市内でもいくつか円筒型校舎が見られたものだが、いつの間に姿を消した。こちらの校舎も建て替えの話が出ているそうだ

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~32年ぶりに復活した海水浴場最寄り駅

かるが浜駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

ひらがな駅に到着

かるが浜駅に到着。ご覧の通り、すべてではないが、ひらがな駅

開業は1999年(平成11)の2月7日で、前記事の水尻駅と同日。天応~吉浦の間に設置された。写真で分かる通り、島式ホームで交換(すれ違い)可能。ということは、設置の理由は水尻と全く同じで海田市~呉の輸送力強化、列車本数を増やすため

ただし水尻が全くの新規開業駅だったのに対し、かるが浜は復活駅というのが多少事情が異なる点だ。復活といっても、かつては仮停車場で正式な駅ではなかった。また夏季のみの臨時停車場でもあった

元々は漢字の駅名

「元祖かるが浜駅」ともいえる狩留賀停車場は1928年(昭和3)に設置された。海水浴客対象で夏のみの臨時営業

狩留賀一帯は呉線によって発展した。それまでは、ほとんど住む人がいなかったが、呉線開業によって注目が集まり、大正期に海水浴場が開業。その頃はマイカーというものはほとんどなく、多くの人は吉浦駅を利用していたと思われるが(かるが浜~吉浦は現在も1・2キロしかない)、せめて海水浴のシーズンだけは、との要望で開業

当時の全国の流行りは海水浴+別荘のセット販売モデル。昭和初期で、まだまだ平和を楽しむ余裕があったころで、狩留賀一帯も別荘地として発展していくが、そのような時期は長く続かず、軍事工場の工員用の寄宿舎ができ、戦時中は海水浴場も軍関係の施設に利用されるようになって海水浴場用の臨時駅は本来の目的を失う

戦後は一帯が進駐軍(英連邦軍)の接収対象となり、臨時駅が復活したのは接収解除の1952年。以降、1967年まで続いたが利用者減により終了した。つまり、2度の復活を遂げた駅ということになる

駅名はひらがなが採用された。当時ひらがなの駅が流行ったのもあるが、広島県内では芸備線に狩留家駅(芸備線のIC乗車北限として知られる)があり、読みは同じで1文字違いなので、そちらへの配慮もあったと思われる

ホームからは海を望むことができる。臨時駅の廃止後にあった新線付け替えによって線路は高台を走ることになった

駅舎というものはなく、入口に券売機が置かれ

盛土下の入口からホームに入る。簡易型の自動改札機が置かれている

海水浴場は今も現役

駅から間もなくのところに海水浴場は今も現役である

正月明けの訪問で砂浜を訪れる人はもちろんほぼいないが、新駅(復活駅)誕生直前に海水浴以外でも楽しめる「ロマンチックビーチかるが」に改造されている。前記事で紹介した水尻とともに平成の新駅はいずれも海水浴場最寄りの駅である

こちらは公園内の地図。駅からは徒歩2、3分と至近

ただし地図そして交差点、さらには駅前のバス停も使用されているのは漢字の「狩留賀」である

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~大正期に開業 現在はメジロの駅に

小屋浦駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

姫路ワープで広島へ

年明けの1月9日

朝7時の三ノ宮駅。本格的なラッシュアワー直前という感じで、まだホームに余裕はある。ここから新快速に乗車。時間が時間だけに着席はあきらめていたが、下りが幸いしたのか神戸で座れた。しかし

8時過ぎの姫路駅はピークタイムとなっていて階段は降車専用のような状態

今日は広島まで

以前も紹介したが、広島に行くなら青春18きっぷの季節は姫路ワープが圧倒的にお得である

呉線完結へ

今日で呉線が完結となる。広から東側はすべて訪問したので、出発は三原からではなく広島からである。最後の訪問が2022年12月だったので、1年以上空いてしまったが、本当は夏の18きっぷシーズンに訪問予定で、その通り自宅を出たが、三原まで行ったところで雨のため呉線が遅延していることが判明。急きょ山陽本線から瀬野で下車してのスカイレール訪問となった。いつかはもう一度乗ってみたいと思っていたので、これはこれで有意義なことではあった

本数の多い通勤通学時間は既に終わろうとしていたが、おそらく最後の1本あたりには間に合ったようだ。乗車電は9時40分の広行き

約30分で小屋浦に到着

小屋浦駅は1914年(大正3)の開業。海田市~呉の開業は1903年(明治36)だったので、呉線に誕生した最初の「新駅」となった(仮乗降場は他にもあったが、正式な駅は小屋浦が最初となる)

天災を乗り越え

こちらが駅舎。ユニークな形をしているが、こちらは所在地である坂町の鳥メジロを模したもの。現駅舎となったのは1999年(平成11)。それまでは開業からの規模の大きな木造駅舎だった

現在の駅舎となっても、しばらくは有人駅で完全に無人化されたのは7年前。窓口はふさがれて簡易型の自動改札機が設置されている。ただ券売機は食券販売機型ではなく、大都市近郊と同じものが置かれている

駅舎からホームへは階段とスロープで出入りする。駅舎は山側にあり、広島方面への電車ホームへは跨線橋で移動

跨線橋からは海と国道が望むことができ

昼間は1時間に1本の運行だが、朝夕の特に広島方面への本数は多い

こちらは駅前の地図。小屋浦地区は山と山の間に挟まれていて、交通事情の悪い時代は海沿いを歩くのも困難で、山越えを強いられていたため呉線開通と同時に駅の設置が地元から求められていた

そして地図で分かるように街の中を通る一本の天地川を中心に発展してきた街だが、平素は穏やかな川は、山との落差が激しく大雨が降ると大量の土石流が押し寄せる暴れ川としても知られており、有史以来、何度か天災に遭っている。明治時代には死者44人という被害が発生。2018年の7月豪雨では上流の砂防ダムが決壊して死者と行方不明者が合わせて16人という大きな被害が起きた

訪問日は冬の小春日和という穏やかな陽気に包まれていたが、歴史は忘れてはならない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~聞き耳が過ぎて最後の駅で痛恨のやらかし

風早駅のホーム

※訪問は2022年12月27日

駅訪問で必ず行うこと

風早駅に到着。これで広~三原の駅はすべて訪問したことになる。残る広以西は列車本数が多く、昼間き普通が1時間に1本の停車という駅もあるが、朝の通勤通学時間帯は本数が多い上、呉ポートピア駅のように至近な駅間もあって、なんとでもなるはずだ。とにかくひとつの区切りである

話はややそれるが、駅訪問を趣味にしている人なら必ず行うであろうことがある。駅舎と駅名標の撮影。これをしないと駅を訪ねたことにならない。駅舎がない駅はホームと待合所を撮る。当然すぎることだが、まずこれを念頭に置いて以下を読み進めていただきたい

万葉集にも残る地名

風早駅は1935年(昭和10)の開業。竹原~三津内海(現安浦)が延伸された際に設置された。当時の所在地は「早田原(はやたわら)村」。この村名は「風早」「大田」「小松原」という3つの村の名前から1文字ずつとって付けたもの。戦時中の1943年に他の自治体と合併して安芸津町となり、平成の大合併で東広島市となった

「風の郷」という風早自治協議会のHPによると、伊予の国で勢力を持っていた風早氏が海を渡って瀬戸内海の島々にも支配を広げ、当地に定住したため地名となったという説があるという。これが6世紀の話。また万葉集にも船の寄港地として風早の地が詠まれていて、少なくとも奈良時代には風早という地名は定着していたようだ

駅は海に近い

駅舎を出ると、すぐ海である

2面2線構造のホームはカーブ状に設置されている。弧を描きながら入線または去っていく電車を見ることができる

駅から海の方へと向かうと右手に商店があった。早朝に三宮の牛丼店で朝食を摂ったが、時刻はすでに14時前。さすがに腹が減ってきたので

おにぎりとお茶で少しばかり空腹を満たす。ちなみに風早駅には、ちゃんとお手洗いがある(男性視線だが)のでお茶もコーヒーも安心だ

会話に引き込まれ

駅舎で食べようと、駅に戻った。風早駅もキュービック駅舎だが、前記事の安登駅と同じく、1970年代に早々に現在の姿となったため、窓口跡がある

だが駅のベンチには先客が

正確に言うと、安登から風早へと向かう車内から、ご一緒だった。ご婦人の二人連れ。私よりは確実に一回りは上と思えるので70代以上だろう。その時は熱のこもった会話に何とも思わず、風早で「あー、一緒に降りるんだ」と感じた程度だったが、商店でおにぎりを買って駅に戻ると、駅舎内のベンチで延長戦を行っている

で、その会話内容が全く分からない。地方に行くと、お年寄りに限らず方言が全く理解できない、というのはよく体験するが、広島県で会話が分からない、というのは初体験に近い。正確には明治生まれだった尾道(といっても船で尾道から1時間もかかる小さな島)の祖母以来だが、当時は私も子供で理解力に乏しかった。しかも、さすがに目の前の方々は明治生まれではないだろう

ただ会話のディテールは理解できなくても、テーマぐらいは分かる。というか12月27日という年の瀬で、吹きさらしの駅舎内は結構寒い。おしゃべりなら家に帰ってやればよろしい。なぜ、わざわざ寒中行うのかというとテーマが「嫁姑問題」だからだ。それは家ではできんなぁ(笑)。私は明らかにヨソ者なので、いくら聞かれても大丈夫である

数年前、鹿児島の枕崎に行った時も「嫁がネコを拾ってきて…」というあたりまでは分かったものの、その後はちんぷんかんぷんだったことがあったが、ここは広島県である。ちょっと私も何とか理解してやろうとムキになってきて、お茶を飲むふりをしながら耳をダンボにしていると、少しずつ中身が分かるようになってきて「お母さん、そのぐらい大目に見てあげなさいよ」と思えるようになった。大変満足

お二人が去った駅舎内の様子(笑笑)。正しくは次の列車に乗るお客さんがやって来て、どうも顔見知りのようで強制終了となった(笑笑笑)

ということで方言も何とか理解でき、とても満足して次の訪問地である岩国に向かったわけだが、帰宅後しばらくしてから駅舎の写真も駅名標の写真もないことに気付いた。お茶とおにぎりを買って食べたぐらいなので時間はいくらでもあったはず。駅に着いた時、随分と傷みの激しい駅名標を後でゆっくりチェックしようと思ったことは覚えているのだが、いつの間にかすっかり失念していたようだ

ただこの日の旅先で最も印象に残る場面だったことだけは間違いない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内の駅付近にあるもうひとつの日本一

安登駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

駅員さんもいたキュービック駅舎

安浦駅からお隣の安登駅まではバス移動。名前もそのまま安浦バス。地元の高校生とともに乗り込む。広より東側は駅間が長い区間が多く、ここは4・5キロ。季節的に歩けない距離ではないが、バスの時刻表に合えば、乗車にこしたことはない

かわいいバスに乗り

駅前で下車。バスだと4キロはあっという間だ

ちょっとしたロータリーのある安登駅は

典型的なキュービック駅舎。現在の形となったのは、かなり以前のようで

現在はICタッチと自動券売機のみが設置されている無人駅だが、窓口跡が残る。ちょっと凝った「安登駅」の駅名板は、どう見ても国鉄のもので、1970年代にはキュービック駅舎となりながらも駅員さんはいたようだ

「跡」が「安登」に変化か

駅名は1958年(昭和33)まで存在した安登村に基づく。前記事で安浦駅は設置当時、内海町にあったことで三津内海駅になったと記したが、安登村は1929年まで「内海跡村」という自治体名だった。安登駅は1935年に呉線が全線開通した際、途中駅として設置されたが、内海跡村が安登村へと名称変更された時期がもう少し異なれば、旧村名が駅名になったかもしれない。「跡」の言葉の響きが好きではなかったのかどうかは分からないが、この跡という文字も元々は同読みの村があったともされ「あと」が、いろいろ変化しているようである。安登村は安浦町と川尻町に分割される形で自治体としては姿を消したが、現在は両町ともに呉市となっている

呉線は国道185号と並行していて駅の部分だけ駅前ロータリーを気遣うように、やや山側に曲線を描いているが、この部分が非常に重要で当駅最大の見どころが、そこにある

駅前ロータリーから国道に出る部分にある、よく見かける横断歩道だが、このような看板がある

「日本一短い県道」

駅前ロータリーと国道を結ぶ10・5メートルが「県道204号安登停車場線」。ロータリーの一部にも見えてしまうが、約20年前に拡幅工事が行われ道路幅が道路距離を上回ってしまったが、それ以前はもっとくびれていたという

ただこの「日本一」については、これを上回る(下回る?)県道があり、新幹線駅でもある長野県の上田駅前ロータリーの出口部分の県道が7メートルしかない。ただしこれには注釈が必要で、長野県の県道は、その先が別の県道との重複区間となっていて、重複部を含めると126メートルとなる。つまり微妙な構造なのだが、国道をはじめとする重複区間は、呼称については総延長の長い道路を優先するとのルールに従うと7メートルになってしまうとのことで、これまた微妙である

もっとも最短を巡って両者がもめているわけではなく、むしろ逆で「安浦町まちづくり協議会」のHPでは「総延長が日本一短い県道」という表現を行った上で経緯を説明している。HPによると看板が設置されたのは2007年で、その後に上田駅前の県道の方が短いことが判明。重複区間の存在も解説した上で「実延長では日本一ではないが、総延長では日本一だといえる」と、長野県に丁寧に敬意を表している

駅のホームに戻ると年季の入った名所案内が

最後まで読んで「ここからは行けないんかい」と突っ込みを入れてしまいそうになったが、とにかく話題が多い駅だということにしておこう

ちなみに名所案内にも出てくる先に紹介した「日本一短いトンネル」のある安芸川尻駅は、さらに呉方面へ1駅お隣の駅である

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~戦前からの駅舎が残る貴重な存在は始終着列車もあり

安浦駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

元の駅名は三津内海

安浦駅に到着。駅舎側のホームには駅舎が見えている

戦前からの立派な駅舎が健在。出入口のひさしの部分は手が加えられているようだが、柱は当時のままに見える。和式でありながらの三角屋根を持っている

開業は1935年(昭和10)。竹原から延伸されてきた線路が当駅までやって来て三原側からの終着駅となったのが2月。そして11月には当駅から広が開通。1年にも満たない終着駅としての存在だったが、これで呉線は全通となった。それまで呉~三原は「三呉線(さんごせん)」という名称だったが、全通したことで全線があらためて呉線となった

ちなみに当時の駅名は三津内海(みつうちのうみ)。「うつみ」と読みがちだが「うちのうみ」である。なぜなら内海町にある駅だったからだ。では「三津」とは何か、となるが、これは当時あった三津口町にちなむ。駅の所在地は内海町だが、三津口も近いので両者を合わせた駅名となった。両方の自治体から駅名を付けるのは、新幹線の駅が誕生する時に生まれる戦後だけのものではなかったのである。だが、この両町は戦時中の1944年に野路村と3自治体の合併により、安浦町となった。安浦は特に地名ではなかったが「浦安かれ」という意味を込めて名付けられたとか。安浦町は平成の大合併で呉市に編入となったが、安浦という新しい地名はその後も残り、駅の住所も呉市安浦町となっている

町名の変更に伴い、駅名も戦後間もなく町名と同じものへと変更となった。必然的な流れではあるが、駅名がそのままだったら、由来も残ったと思われるだけに若干残念でもある(住居表示としては内海も三津口も残っている)

2面3線ホームも現役

安浦駅は旧安浦町の中心部にある。2021年の1日の利用者は994人。これは広から東の区間では安芸川尻、竹原に次ぐ3番手(以下三原駅のぞく)で、朝と夜には広方面からの当駅止まり、広方面への当駅始発も設定されている。構造は2面3線で、路線内で3線構造の駅は広、呉、坂の3駅しかなく、広から東では当駅のみ。重要な駅ともなっていて

観光用のイラスト駅名標もある

こちらは駅前の観光案内を兼ねたウォーキングマップ

駅舎は海側にあり、反対側にも街は広がっている。両側の往来にはエレベーターも備わった跨線橋を利用するようになっている

ただ残念ながら2年前にみどりの窓口が営業を終了。と同時に無人化された。ふさがれた板の大きさから立派な窓口だったと思われる。定期券の購入、継続に対応する券売機は設置されているが、この立派ないでたちに無人というのは、ちょっと惜しい気がした

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~真冬のキュービック駅舎で悶絶

大乗駅の駅名標

※訪問は2022年12月2日日

ソロレソロリの絶景区間

大乗駅に到着

呉線の絶景区間については前記事でも触れたが、初めて呉線に乗車すると、この絶景区間を中心にところどころでスピードが緩むことに驚かされる。最初は「景色を見せてくれるためのサービスか?」と思ってしまうほど

だが、これはいわば「JR西日本名物」の制限速度25キロ。呉線は山と海の両方に近い地形もあって、特に平成になってから、豪雨による被害を何度も受けている。集中豪雨による被害は平成になってから各地で頻繁に起きていて、戦前からの脆弱な路盤の被害が相次いでいるが、呉線も例外ではない。特に2010年以降は4度も大規模な災害が発生して、全線復旧へ半年を要したこともある。現在、呉線で使用されている車両は227系という最新の電車に統一されていて、車両性能を考えると25キロ制限というのは、力を大いに持て余しているのだが、盛土上のやや高台に敷かれた線路の上はソロリソロリと走るか、新たにトンネルを掘るなどして線路の付け替えを行うしかないのだが、広~三原の利用者の数を考えると前者しかないのが現状である。もっとも、そのおかげで旅行者は素晴らしい車窓に出会えるのでもあるが

キュービック駅舎になって長く

大乗駅は1932年(昭和7)の開業。安芸幸崎から竹原までが延伸された際に途中駅として設置された。当時は大乗村。竹原のお隣の駅で、当駅から竹原に向けては海沿いではなく、山中をショートカットして竹原に向かうルートが採られている。沖合に阿波島という無人島があり、東に大久野島があることから、戦時中には化学兵器つまり毒ガス兵器の貯蔵庫が設置されていた。大乗村は1954年に竹原町に編入されて自治体としては消滅。現在は竹原市

簡易的なキュービック駅舎だが、かなり以前に現状のものとなったらしく

駅の事務室と窓口も残されている。記録だと現在の形になったのは1979年と、国鉄民営化のかなり前。当時は無人駅ではなかったようだが、現在はICリーダーと自動券売機だけが設置されている

ホームは築堤上にある2面2線。前記事の吉名駅と同じく

こちらは駅舎と逆側のホームからの眺めだが、かなり急峻な階段を降りて駅舎へと向かう。ホームの行き来も同じく築堤下のトンネル経由で行う

呉方面へのホームにはスロープも設けられている

竹原のお隣の駅ということもあって周辺は住宅街

駅舎の向こう側にも住宅が並んでいる。駅前の商店は営業を行っているのかどうか不明だったが、駅の南側の国道に出ると海はすぐそこである

年末の訪問はやはり冷える。ここまで安芸長浜、須波、吉名と駅訪問を行ってきた。駅舎すらもない須波は別として他の2駅はお手洗いが設置してあり、ちょっと油断した私は吉名そして電車内でもお手洗いは利用していなかった。そろそろこちらでもと駅の横にあるトイレらしきものの前まで行った。すると

ドアノブまで外されている厳重施錠で当然、中には入れない。時刻はお昼前で、時間的には暖かくなるころだったが、当駅で過ごした50分は、かなりの悶絶タイムだった。やはりローカル線の駅訪問は油断禁物である

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~キュービック駅舎が続々と

吉名駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

美しい車窓に癒やされる季節は冬場がベスト

瀬戸内海に沿って走る呉線は車窓も美しい。特に三原に近い安芸長浜あたりから東側は国道とともに海沿いを走る区間が多いので、乗り鉄の方も目を凝らして見ていただきたい。私的にオススメは夕陽の沈む時間帯か。こちらは朝のおそらく須波~安芸幸崎間の車窓

さらに言うと、季節的なオススメは冬場である。夏場だと「ブラインドを閉めてください」の圧が半端ない。そして、それは十分に理解できるもの。前回の訪問は、まだまだ暑さの残る10月1日だったが、圧の前に自主的にプラインドを閉めてしまうほどまぶしかった。ずっと南側に向いているので当然のことだが、青春18きっぷの季節に特化するとギラギラ太陽の照りつける夏場はおすすめできない。冬かせいぜい春だと思う。この写真は訪問の年末のものだが、冬の柔らかい日差しが暖かかった

いわゆる簡易的な駅舎

その意味では当日は三原から安芸長浜へと向かってから、須波に戻り、再び呉方面へと乗車したので3回も同じ景色を見られて楽しかった

そして到着したのは

吉名駅。こうして見ると単式の棒状駅に見えてしまうかもしれないが、車両に塞がれているものの、すれ違いの列車交換ができる2面2線構造。広から東側はローカル線のムードが漂う呉線だが、単式ホームの駅は安芸長浜、新広、呉ポートピアの3駅のみ。いずれも平成になって設置された新駅で、他はレールがはがされて単式ホームになったりすることなく2線以上の構造を保っている

ホームは盛土の上にあり、結構急峻な階段で駅舎を抜け外に出る

駅舎は簡易的な立方体の、いわゆるキュービック駅舎である

吉名駅は1935年(昭和10)の開業。同年の2月に竹原から三津内海(現在の安浦)までが延伸された際に設置された。当時は吉名村。同村は1956年に竹原町に編入となり、現在は竹原市である。かつては開業以来の木造駅舎があったが、30年近く前に現在の姿となった

周辺は吉名の町の中心部にあたり、タクシーもいる。吉名村は「所得倍増計画」や、最初の東京五輪時の首相として知られる池田勇人元首相の出身地である

駅前の地図。駅前の道路を道なりで歩いていくと港に出る

こちらは駅舎内の様子。椅子が並んでいてすぐに階段があり、ホームへと向かう。ICリーダーと自動券売機という呉線ではおなじみの光景。もちろん無人駅だ

ちょっと古典的なホーム案内。駅舎と階段を結ぶあたりは柱も木造なので、駅舎の改築以前のものかもしれない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~三原のお隣のモニュメント駅はヤード跡横断も可能

須波駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

ホーム間移動は公道経由で

須波に到着。三原駅を出てからの呉線は、すぐに山陽本線に別れを告げて左に折れると三原の市街地を見渡しながら南下。河口付近で川幅も広くなっている沼田川を渡ると、すぐ山となるため、再び左に弧を描き、今度は海と山の間の狭いスペースに沿うように右へとカーブして須波へと向かう。車窓的にも海が一望できて見どころのある場所だが、地形的には自然の影響を受けやすい場所となっている

ただしこの日は安芸長浜に一度行ってから戻る形になったため、到着は三原方面のホーム。つまり山側

ここから階段を降りて敷地外に出る

見上げた先にはICタッチのみがあって

やや狭い公道がある。上りホームへの移動はこの公道を介して行う

須波は漁港として栄えた町。駅の開業は1930年(昭和5)。三原から1区間分が敷設されて、ほんのひとときの終着駅だった。1年後に安芸幸崎まで延伸されている。当時は須波村。1936年に三原市に編入されて現在に至る

ヤード跡を横切って駅へ

呉線をくぐって駅の玄関である上りホームへと向かうが

そこに広がるのはかつての構内であるヤード跡

写真で分かるように、いくらでも横切ることができる。全国に残るヤード跡とその中は入れないように柵が設けられていたり、立ち入り禁止の看板があること多いが、こちらは広大なスペースに柵などは設けられておらず、言い方を変えると「入りたい放題」である

ととても貴重な機会ともいえる

なぜこのように開放されているかというと、山側から来ると呉方面へはここを通るのが最短距離だからだと思われる。正面から回り込むと、やや遠回りになる。現実に私以外にも、ここを通って呉方面への列車に乗ろうとする方々がいた

現在の姿はモニュメント駅

呉線ホームへと向かう。ずっと「ホーム」という表現をしてきたが、それは現状がこうなっているから

階段があって「須波駅」の駅名板が立てられているだけ。かつては駅舎があったが、解体されて簡易駅舎すらない。私はこのような構造を「モニュメント駅」と呼んでいる。ポストだけが残されているのも定番のような気がする

呉線は2018年の平成30年7月豪雨で全面運休となった。徐々に復旧して最後に残ったのが安浦~三原。12月に全線再開となったが、この間に開業以来の木造駅舎は解体となった。構内やヤード跡の広さを見ると、かなり大きな規模の駅だったことが理解できる

盛土の上にあるホームで列車を待つ。駅舎があった時代からホーム移動は公道を介して行われていたようだ。年末の朝9時すぎという時間に、ここで過ごすのはちょっと寒かった

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