JR東日本

大糸線全40駅を訪問するお話~旧18きっぷ最後の訪問駅はかつての特急停車駅

神城駅の駅名標

※訪問は2024年9月10日

思ってもみなかったルール変更

神城駅に到着。大糸線のJR東日本の閑散区間である信濃大町~南小谷は10月に発売される鉄道の日記念のフリーきっぷで本格的に回収することを決めていて、今回は南小谷から糸魚川までの増便バスに乗車することが大きなテーマだったが、10月を楽にするため時間があるなら、その中でいくつかの駅を回ってみようということになって降りたのが海ノ口と当駅である

さらに言うと旧制度の青春18きっぷで最後の訪問は当駅となった。もちろんこの後、南小谷、糸魚川を経て敦賀から新快速に乗るので下車駅はいくつもあるが、初訪問の駅は含まれていない。「訪問」というくくりでは神城駅が最後となってしまったが、まさか18きっぷのルールが変更になるとは、この時は夢にも思っていなかった

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一時的な大糸南線の終着駅

写真入り駅名標も残る当駅は1930年(昭和5)の開業。当時は国鉄の大糸南線として敷設が進められていた信濃大町から北側の線路が簗場から当駅まで開通して約2年間の間、終着駅だった。当時は神城村に所在し、戦後に北城村と合併して白馬村が誕生したのは前記事で紹介した通りだが、開業当時に神城駅と、2年後に開業する信濃四ツ谷(現白馬)駅に駅の格付けとして大きな差はなかった。ともに農村地帯の駅という扱いだったことは、特に信濃四ツ谷まで建設を急いでいたわけではなく、次の開業が信濃四ツ谷をまたいで信濃森上までだったことでも理解できる

神城駅は

大きなロッジのような駅舎となっている。もうひとつの特徴としては写真の右下を見れば分かるが

なぜかここに旧式の駅名標が設置されている

現在の駅舎は1997年(平成9)に開業時からの木造駅舎を新たに建て替えたもの。地元企業や住民が建設費を出資した。写真入り駅名標で分かる通り、当駅もスキーそして登山の拠点駅となっていて

白馬五竜スキー場の最寄り駅。1980年代からのスキーブームで当駅にも東京、名古屋から乗り入れる特急が停車または臨時停車していた

こちらも最後となるとは

地元の観光協会が入居していて協会による簡易委託駅

私は山のことは全く分からないが、登山補導所という言葉は初めて知った。木製の看板はかなり以前から使用していたものに思える

駅舎内には旧駅名板が保存されているが、板の上は毎年訪れる訪問者の子育て場所となっているようだ

旧式の駅名標はホームにも残る

ホームは2面3線構造だが、うち1面は使用を止められ柵が張られていた。錆びた線路はホームの端で途切れている。特急あずさは2010年から停車がなくなった。スキー場へはマイカーのほか、東京などの大都市のみならず長野県内からもバスで訪れる客が多く、現在の1日あたりの駅利用者数は70人程度となっている

この後は南小谷駅へと向かい大糸線増便バスに乗車することになる

その時に何気なく撮った写真がこちら

南小谷駅での特急あずさ。この記事を書いている今日3月14日で当駅までの乗り入れを終える。南小谷まで乗り入れた40年以上の歴史が終了する。こちらについても、これが最後の姿になるとは思ってもいなかった

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大糸線全40駅を訪問するお話~誰もが知る駅は戦後に急発展した大糸線の救世主

白馬駅の駅名標

※訪問は2024年9月10日

信濃大町から40分

白馬駅に到着。信濃大町から40分の道程。松本から信濃大町にかけては松本や沿線の通勤通学と安曇野観光という2つの性格を持ち合わせる大糸線で、途中の駅も知名度の高い駅が並ぶが、信濃大町から北は知名度という点では、ほぼ白馬の一点集約だろう。逆の見方をすると、当駅以外、一般的にはあまり用のない駅が並ぶ。もっとも鉄オタ的視点では、そういう駅の方が、より関心をそそられる

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元の駅名は「四ツ谷」

白馬村にあるから白馬駅である。誰でも分かりそうな理屈で

写真入り駅名標も健在である。ただ1932年(昭和7)に大糸南線の駅として開業した際の駅名は「信濃四ツ谷」だった。現在の視点からすると意外な事実だが、白馬駅の待合室には

以前の駅名板が保存されている

そこには分かりやすい解説もある。現在の駅名となったのは戦後20年以上が経過してから。当時の所在地は北城村。駅名は解説にある通り周辺の呼び名である四ツ谷が採用された。国名が付いたのは説明するまでもなく四ツ谷駅が先にあったからだ

北城村が現在も駅名がある神城村と合併して白馬村が誕生したのは1956年のこと。有名な自治体名だが意外と新しい。駅名変更の機運が高まったのは、そのころから。1957年の大糸線全通の際にも地元が要望したが、国鉄に受け入れられたのは1968年のことだった。大糸線が全通するにあたって新潟県に所在することになる現在の平岩駅の駅名候補に白馬があり、地元では大変気をもんだという。要望から10年以上が経過していた

現在の白馬駅の存在感を思うと随分のんびりした話だが、国鉄としては、あまり気にする話ではなかったようだ。というのも当時の一帯は単なる農村で地域外から多くの人が訪れる場所ではなかった。戦前からスキー場があるにはあったが、大規模開発が行われるようになったのは駅名変更のころからである

長野五輪で確固たる地位に

駅舎は大きなロッジ風。何度か改修工事を施されているが、現在の姿になったのは1996年(平成8)。長野冬季五輪の2年前で、ロッジ風も何も2階部分はホテルとしての改築だった

昭和後半から訪れたスキーブームのおかげで白馬駅を中心に大糸線沿線は多くのスキー客でにぎわった。今は最盛期ほどのにぎわいはないが、冬場のスキーだけでなく登山、温泉の利用者も年間を通じて訪れ、白馬駅はその中心となっている。長野五輪の会場となったことで地位はさらに高まった。スキーブームがなければ、元々は国防のために人が少なそうな場所にあえて敷設した大糸線だけに、利用者はさらに少なかったと思われる。その拠点駅は、いわば大糸線の救世主となった

跨線橋にはスキー用のスロープが設置されていて

その旨の注意書きがある

管理駅だが、みどりの窓口は営業を終えていて指定席券売機が設けられている。この記事を書いている時点で、特急あずさの南小谷乗り入れはあと2日で終了となるが、当駅までは今後も乗り入れを行う

駅の周辺案内図。鉄道利用の場合、信濃大町から北は食事を摂るのも大変だが、当駅近辺では問題なく食べることができる

ただ少し意外かもしれないが、観光需要の多い駅だけに1日の利用者数は約500人ほどとなっている

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大糸線全40駅を訪問するお話~開業はこちら先だけどの快速停車駅

信濃常盤駅の駅名標

※訪問は2024年9月10日

18きっぷ「最終日」とは夢にも思わず

前夜は豊科に宿泊。松本でもそう大差はないが、せっかくなのでこれまで宿泊したことのない町に泊まることに。本日は9月10日で青春18きっぷの最終日。そして私が持つ18きっぷも本日が5回目の最終日である。毎度のことながら18きっぷについては、最後にギリギリ頑張って使い切るパターンばかりで、今回については3~5回目を期限ギリギリに3日連続で使う完全な駆け込み利用となり、3回目こそは原価割れ(1日に2410円以下の使用)となってしまったが、前日9日は篠ノ井から松本経由で大糸線内をかなりウロウロしたし、本日は糸魚川まで抜け、そこからは北陸新幹線を利用するものの敦賀からは新快速で再び18きっぷを利用するので、大幅に元をとった。そもそも中央西線の駅巡りでか前夜は豊科に宿泊。松本でもそう大差はないが、せっかくなのでこれまで宿泊したことのない町に泊まることにした

本日は9月10日で青春18きっぷの最終日。そして私が持つ18きっぷも本日が5回目の最終日である。毎度のことながら18きっぷについては、最後にギリギリ頑張って使い切るパターンばかりで、今回については3~5回目を期限ギリギリに3日連続で使う完全な駆け込み利用となり、3回目こそは原価割れ(1日に2410円以下の使用)となってしまったが、前日9日は篠ノ井から松本経由で大糸線内をかなりウロウロしたし、本日は糸魚川まで抜け、そこからは北陸新幹線を利用するものの敦賀からは新快速で再び18きっぷを利用するので、大幅に元をとることになる。そもそも中央西線の駅巡りで、かなり乗降を繰り返したので、なかなかの回収ぶりだったはず。まさか、この時は18きっぷのルールが変わるなど夢にも思っていなかった

朝7時台の豊科駅は無人だった。信濃大町行きに乗車すると車掌さんが乗っている列車だったので、一番後ろに乗ってサインをもらう。無人駅から乗車するとワンマンの運転士さんや車掌さんからハンコやサインをもらうことになるのだが、結果的にその「最終日」となってしまった

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国有化までは常盤駅

約30分で信濃常盤駅に到着。駅だけ見ると全く普通だが、何か違和感を感じたのは松本以来の交換可能駅はすべて島式ホームだったからかもしれない

当駅は1915年(大正4)の開業。信濃鉄道が池田松川(現信濃松川)から信濃大町(初代)まで到達した際、常盤沓掛(現安曇沓掛)とともに設置された。当時の駅名は常盤。命名の理由はシンプルで、この2駅が当時の常盤村に所在したからだ

そのあたりは安曇沓掛駅の記事でも触れたが、1937年(昭和12)に国有化されると両駅とも名称変更となってしまった。現在、JRで単に「常盤」だけの駅は宇部線(山口県)にあるのみ。宇部線の駅は1925年(大正14)の開業。大糸線の駅が10年先に開業しているが、まだ国鉄ではなかった。国鉄になった時にはすでに宇部線の常盤駅があったという解釈なのだろうか

植木は立派に手入れ

駅舎は令和になったから建て替えられたもの。以前は開業時からとされる駅舎だったが、簡易的なものへと変化した。ただしちょっとした高台にある駅舎への階段脇の植木は立派に手入れされている

大糸線は朝に1本、快速が運行されている。上りのみの運行(夜には南小谷~信濃大町の上り快速が1本ある)で、信濃大町を出ると安曇追分までが快速運転を行い、後は松本から篠ノ井線、中央本線に乗り入れ延々と各駅に停車するものだが、最初の停車駅が当駅となっている

北アルプスの2647メートルの餓鬼岳は当駅が鉄道における最寄りとなっているが、登山口までの公共交通機関は乏しく、マイカー利用かタクシーに乗りやすい信濃大町駅や信濃松川駅からのアクセスが多いようだ

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大糸線全40駅を訪問するお話~重税と戦った義民の伝説とともに

中萱駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

読める?読めない?

再び松本駅方面まで戻ってきた。とにかく松本~信濃大町の本数が比較的多い区間の駅から先に回収しておかないと、急激に本数が減る信濃大町以北の駅をじっくり回るわけにいかなくなる

ということでやって来たのは中萱駅。難漢字を使用する難読駅で読めない方も多数いそうだが、関西の人間はかなり読める。特に京阪を日常的に利用していると読めるはずだ。大阪府寝屋川市に「萱島」(かやしま)という駅があり、難読駅クイズにしばしば登場するが、大阪市内からの折り返し電車が多数設定されているため、萱島駅に用事がない人でも自然に覚える。またホームを萱島神社の御神木が貫いていることでも有名。「かや」と「がや」で濁音の有無はあるが「なかがや」と何となく読めるはいずだ

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社務所風の駅舎

1面のみの棒状ホーム駅だが、駅舎は一目見ると忘れられないものとなっている

社務所風のつくり。当駅は1915年(大正4)の開業。同年1月に現在の北松本~豊科が開業。やや遅れて5月に当駅が路線内に設置された。遅れて設置された駅ではあるが、旅客のみならず貨物の取り扱いも行われていたようだ

現在の駅舎は国鉄末期の1986年に改築されたもの。近くの貞享義民社を模したもの

駅前に石碑があり

解説文を読めば、事情はすぐに分かる

多田(なかがや)加助は当地で庄屋も務めていた。貞享3年(1686)、不作が続くにもかかわらず重い年貢を課され続けた農民のため、減免を当時の松本藩に願い出たところ、何千人もの農民が松本城へと押し寄せる一揆へと発展。藩はこの願いを聞き入れたものの、1カ月後に約束を反故にするばかりか、加助を含む28人が捕えられ処刑された。刑死の際に「恨みを晴らす」と加助が絶叫した際、松本城が傾いたという伝説も残る

後に藩主が変わって加助を義民として復権。加助らを祀った加助神社が後に貞享義民社となった。周辺には義民ゆかりの地が今も残り、地元で伝説が大切にされ続けたことが分かる。現在の駅舎は一揆から300年の節目に行われた300年祭を記念して改築されたものだ

午前中は簡易委託駅

あらためて中萱駅

訪問時は夕刻で窓口は閉まっていたが、有人駅となっている

午前中のみ駅員さんがいる簡易委託駅。単式ホーム構造ながら、松本まではわずか8・4キロ。当駅周辺から松本市への通勤通学も多く、1日に約700人が利用する駅となっている

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大糸線全40駅を訪問するお話~松川村の中心駅は、かつて池田町との合成駅名

信濃松川駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

みどりの窓口も備える

信濃松川駅に到着。島式ホームとなっているが、構内踏切があるため、踏切ができるだけ降りないように、上り下りとも多くの列車が踏切と逆側のホームを使用するように配慮されている

松川村の代表駅で村役場もえきからすぐの場所にあり、営業時間は限られているものの、みどりの窓口も備えられている

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元の名前は池田松川

真新しい駅舎を持つ。開業は1915年(大正4)で110歳になる。長らく開業時からの駅舎が使用されていたが、平成を迎えて2度にわたってリニューアル工事が施された

駅前には立派な観光協会の建物があり、観光案内所も入居している

松本側から延伸させてきた線路が当駅までたどり着いた時の駅名は「池田松川」。池田町と松川村の地名を合成したものだった。池田町は高瀬川を挟んだ対岸の町(厳密には対岸の一部も松川村に所属する)。大糸線の原型ともいえる千国街道の宿場町として栄え、信濃鉄道の敷設直前に「町」になっていることで分かる通り、当時の町の規模は池田町の方が大きく、本来大糸線も池田町側を通る予定だったが、高瀬川を渡る工事の都合や地盤の問題があったことで松川村を通ることになり、元々の通行予定だった池田町の名前も入れて自治体名を二つ並べる駅名となった。新幹線の駅名などで複数の自治体名を入れ込むことは今も珍しくはない

ただ1937年(昭和12)に国有化されると駅名は現在のものにされ、池田の名前は外れてしまった

これには安曇追分駅の記事でも触れた池田鉄道の影響があるとされる

大糸線が国有化された当時、安曇追分駅から池田鉄道という池田町の中心部へと至る私鉄路線があった

これは池田の町に鉄道がなく不自由をしている住民のために敷設された路線で、池田松川駅の開業から11年後の1926年(昭和11)の開業。北池田、信濃池田、南池田という3駅があり、町の中心に近い駅が信濃池田。「池田駅がすでにあるからややこしい」と、池田松川は信濃松川へと駅名変更。ただ開業時から利用者の少なかった池田鉄道は国有化されることもなく、駅名変更の翌年に廃業されてしまった。わずか12年のみ存在した鉄路だった

池田町からは大糸線や篠ノ井線の駅へのバスなどを利用して鉄道を利用できるようになっているが、地図でも分かる通り、池田町役場の最寄り駅は信濃松川である

特急停車のなごり

2つの自治体の役場の最寄りとなっている当駅は1日の利用者は約1000人と大糸線の周辺駅では規模の大きな駅となっていて、みどりの窓口があるのもうなずける

駅のホームは長い。これはかつて特急「あずさ」が停車していたなごりである。

2005年に当駅は開業以来、初めて特急が停車するようになった。ただ当該列車の利用者が伸びず、2010年に始終着駅を信濃大町から松本に変更したことで停車そのものもなくなってしまった

ホームの向こうには側線も見えるが、周辺では製糸業が盛んで、貨物駅としても栄えたなごりで

駅名板は池田工業高校の皆さんの手によるもの。2つの自治体を支え続けてきた駅である

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大糸線全40駅を訪問するお話~残ってほしかったユニーク駅名

北細野駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

隣駅とわずか1キロにわざわざ設置

信濃大町から松本方面へと戻って5駅。約20分揺られて北細野駅に到着

お隣の細野駅の紹介の際に隣駅の北細野駅までわずか1キロと紹介したが、その理由を調べるとユニークかつ重要な歴史があった

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開業時の駅名はひらがな

当駅も「おなじみ」の単式ホーム+待合所のみの構造

ホームへの出入りはホーム端にある小さな階段で行い、すぐ踏切がある。左に見える建物はお手洗い。繰り返しになるが、大町市内の駅にはこのような真新しいお手洗いが多くて助けられる

開業は1930年(昭和5)。細野駅が当地に鉄路がやって来た1915年(大正4)に開業したことを思うと15年以上後のこと。南大町駅の紹介で、当地にできた工場への通勤のために信濃大町駅駅から1・1キロにもかかわらず開業したと記したが、北細野駅を降りると駅周辺は住宅街。わざわざ1キロしか離れていない場所に新駅を設ける理由は見当たらないが、開業時の駅名が「おかめ前」だったことを知ると、いろいろナゾが解けるのである

ひらがなのほっこりするような名前だが、このおかめとは最寄りの「鈿女(うずめ)神社」に由来する。地元では「おかめさん」と親しまれ、多くの参拝客が訪れていた。その様子を見聞きした当時の信濃鉄道が「ここに駅があるとと儲かりそうだ」と設置したという。そして駅名は神社名ではなく「おかめさん」の愛称が採用された

「鈿女」という文字は、なかなか難読である。昭和初期に「難読なんで駅名はやめよう」という感覚があったのかどうかは分からないが、駅名はひらがなに落ち着いた

決して「前」ではない

その鈿女神社は駅から徒歩で10分弱の場所にある

駅を出て真っ直ぐ歩くと間もなく国道に出て、そこにコンビニがあり

神社の入口を示す看板がある。ただ北細野駅到着から次の乗車予定の電車までは25分。突然目の前に現れたコンビニに驚いてちょっとした買い物をしているうちに微妙な時間となってしまい

黄金の稲穂の向こう側に見える神社を望んだところで引き返すことになったのは、やや残念。どうもローカル線の駅で思わぬ形でコンビニに遭遇してしまうと「今のうちに」と買い物をしてしまう癖が出てしまう

「鈿」は「かんざし」と読むのだが、当神社に祀られているのは「天鈿(あまのうずめ)」という女神である

とても親しみやすい「おかめ前」駅だが、長くはなかった。1937年に国有化された際に現駅名へと変更となった。わずか7年の駅名だった。駅名変更の理由は分からないが、せめて「鈿女神社前」だったら、神話にも出てくる神でもあるし、そのまま残ったかもしれない。それ以上に、おかめ前のままだったら、かなりの有名駅になっていたことは間違いなかっただろう

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大糸線全40駅を訪問するお話~路線内最大の駅にして最重要駅は駅名標でいっぱい

※訪問は2024年9月9日

大糸線はここから

信濃大町駅に到着。久しぶりに自動改札機を見た、というか駅員さんを見た気がする。大糸線で最も規模の大きな駅で、なおかつ最重要駅。列車の運行本数も当駅を境に大きく変化するのは何度も触れてきた通り。1日に2000人以上の利用がある。そして、こちらも触れたきたが、大糸線の「大」は、当駅から付けられているのである意味、大糸線はここからである

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駅名標を見つけよう

当駅には数多くの駅名標がある。こちらはJR東日本の管内で今もよく残る形のもので、駅によっては、この形式しか残っていない所もある

当ブログでは駅名標についてはあまり一般的ではないので第一種、第二種などの表記はせず、このように両隣の駅が記された、ホームに設置してあるものを駅名標、駅舎の入口に張られている駅名を記したものを駅名板と表記していて、ホームの柱で見かける縦のものを縦式駅名標などとしたり、あえて平仮名の読み、という表現で使用するようにしているが、基本的には駅名が記されているものは、すべて駅名標である

こちらは跨線橋に掲げられたもの。跨線橋に印字されたような形になっているものをスタンプ式駅名標と勝手に名付けて過去の駅で紹介してきたが、それも姿を消しつつある。こちらは立派な木板で作られている

写真入り駅名標。自分の中ではJR東日本名物なのだが、最近取り外しが進んでいるようで、どちらかというと生き残りの印象が強い。駅からの風景が変わると更新が面倒なのか、維持にお金がかかるのかは分からないが、JR東日本の駅で降りると楽しい気持ちになれたので残念なことではある

駅名標については良い機会なので私的な意見を言うと、かつてホームの両隣要りの駅名標には、当記事の最初のもののように必ず所在の自治体名が記されていたが、JR東日本とJR東日本、JR北海道については自治体名を記していない。平成の大合併で見られたように自治体名は合併などで変化していくもので、その度に更新するのは手間も経費もかかる、ということなのだろうが、駅に降りることはなくても車窓に見える駅名標の自治体名を見て「こんな名前の自治体があるのか」「このあたりは村なんだな」「どう読むのだろうか」などと考えるのは鉄道旅の楽しみのひとつだと思っているのだが、どうだろう

観光拠点としても有名

時間は13時半になっている

待合室の駅そばでお昼とする

長野らしく山菜そばをいただく。当日は猛烈に暑い日だったが、待合室はエアコンが効いて熱いそばでも美味しく食べられる

開業は1916年(大正5)。実はこれより先に別の場所に初代の信濃大町駅があった

初代の駅はさらに南の松本側から見ると高瀬川を渡る手前あたりに1915年に設置。川を渡る前の最も大町の町に近い場所で暫定的に開業したようだが、翌年に現在の位置であらためて信濃大町駅が開業すると、仏崎と駅名変更された上に1917年に廃止となった

信濃大町駅が脚光を浴びるようになったのは1971年(昭和46)のこと。当駅からの立山黒部アルペンルートができて多くの観光客が訪れるようになった。観光客だけでなく多くのスキー客も運ぶ大糸線優等列車の全盛期もこのころからやって来る

現在は長野からのダイレクトコースも

ホームにあるこちらも駅名標のひとつ

ホームは国鉄らしい2面3線構造。駅舎側の1番線と島式ホームの間にはホームのない線路があるため、2番線のホームはなく島式ホームは3、4番線となっている。特急は上下とも1番線からの発着だが、上り下りともすべてのホームが使用されるため乗車の際は注意が必要

また島式ホームからの発車は跨線橋の片側からしか出ないため、こちらも注意を要する

駅舎には当駅を拠点に登山を行う人のための登山届入れがある

こちらは島式ホームの写真入り駅名標

大糸線の路線名は信濃大町と糸魚川から1文字ずつとられている。中間駅が路線名に入るのは珍しい例で、信濃鉄道が松本~信濃大町を敷設したところで延伸をあきらめ、国鉄がそれ以降を引き継いだために「大」の文字が入ったもの。敷設については福塩線(広島県)の成立と似ている

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大糸線全40駅を訪問するお話~各地で見られる地名の意味は?

※訪問は2024年9月9日

再び信濃大町以南へ

海ノ口駅から松本方面へと折り返し、7駅目の安曇沓掛駅で下車。大糸線は信濃大町駅を境に本数が大きく減ることについては何度か触れているが、松本から南小谷まで乗り換えなしで行ける列車と信濃大町での乗り換えが必要な列車に分かれている。この直通列車については上下で変則的な運行が行われていて、ともに昼間のみの運行だが、訪問時のダイヤでは松本→南小谷が3本だったのに対し、逆は1本しかなかった。といっても信濃大町での長時間停車があったり、スムーズな乗り換えがあったりで、それまで座っていた座席に座れないこと以外は乗車にそれほど問題はない。沿線の高校の行事次第だが、平日の昼間に信濃大町で座れないことは少ないだろう

そしておなじみの棒状ホーム+待合所のみの駅の登場である

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いろいろ工夫を凝らされた駅名

真っ直ぐの線路と棒状ホームそして待合所。1915年(大正4)の開業。信濃鉄道によって信濃大町(現在の信濃大町とは場所が異なり、松本寄りにあった)まで延伸された際に設置され、当時の駅名は「常盤(ときわ)沓掛」。これは駅の場所が常盤村にあったため(常盤村は1954年の大町市発足で自治体としてはなくなった)

駅の位置としては大町市の最も南側にある

沓掛の「沓」とは、馬に履かせるわらじのこと。かつて旅人や兵士は馬に休息を与える際、古い沓を木の枝にかけ、旅の安寧を祈ったという。各地の街道ではこの地名が残り、駅名では日豊本線の日向沓掛がある(こちらは戦後生まれ)。有名な地名では軽井沢の沓掛宿があり、中軽井沢駅(しなの鉄道)はかつての駅名は「沓掛」だった(1966年に現駅名に改称)。現在のしなの鉄道と大糸線を敷設した信濃鉄道は全く別の会社だが、軽井沢の沓掛駅は明治生まれで当時から国鉄の駅。こちらは信濃鉄道という私鉄駅で、気にせず沓掛駅にしても良さそうなものだが、同じ長野県内で同名駅はまぎらわしいということで村名の常盤が付けられた

駅名変更は1937年(昭和12)に信濃鉄道が国有化された際のこと。頭には村名から地域名の安曇が付けられた。ちなみに同じタイミングで両側の隣駅は単なる「常盤」から「信濃常盤」へと、「池田松川」は「信濃松川」へと変更された。こうして「信濃○○」駅の間に「安曇○○」が誕生することとなった。常盤というのは沓掛以上に日本中にある地名。パッと見た目で間違いやすい常磐と合わせると数え切れないぐらいある。どうも国鉄としては、あまり常盤という文字を目立つようにしてがらなかったようだ。信濃2駅の間に安曇駅ができたのは、当時はまだ軽井沢の沓掛駅が現役で、同じ長野県内に「信濃沓掛駅」とするわけにはいかなかったからと思われる

ちょっと事情は異なる

安曇沓掛駅にも駅の外にお手洗いが設置されているが、その前は駐車場となっている

駅周辺は農地と住宅街となっていて、駐車場があるのはどうも不自然な感じで、他の待合所のみの駅とは異なり、かつては駅舎を有していたと思われる

植え込みや花壇はきれいに整えられていた

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大糸線全40駅を訪問するお話~信濃大町を越えて広がる景色と見どころ十分の駅

※訪問は2024年9月9日

大糸線の見どころのひとつ

海ノ口駅で下車。信濃大町をずっと越えた。何度も記しているが、大糸線は旧信濃鉄道が敷設した松本~信濃大町は観光と同時に松本へと通う生活路線にもなっているため、昼間も1時間に1本の運行があるが、信濃大町から北への白馬を経ての南小谷にかけてはグンと本数が減ってしまう。南小谷から糸魚川へのJR西日本による非電化区間はさらに本数が減り、山岳路線のようの車窓が広がる。大糸南線の松本~信濃大町、信濃大町~南小谷そして大糸北線の南小谷~糸魚川と3つの性格があると考えていい

ただ全駅訪問をしようというのだから、本数が少なかろうと多かろうと、そこは行くしかない。すでに信濃大町駅から北にかけてき10月に鉄道の日記念きっぷで巡ることを決めていたが、最終的には南小谷から大糸線増便バスで糸魚川まで行くのだから、時刻表が合えば、いくつかの駅は回収しておきたい。ということで選んだのが、ここ海ノ口だが、当駅は車窓やホームからの景色、駅内の展示だけで原稿がかけてしまう駅である

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車窓に広がる木崎湖

ホームの前には木崎湖が広がる。松本側から木崎湖、中綱湖、青木湖の3湖が並び、大糸線の車窓のハイライトにもなっている。大糸線が糸魚川静岡構造線に沿っているのは、大糸北線の根知駅付近で学習できるが、この3つの湖は活断層の動きでできた溝が湖となったそうだ。もちろんレジャーのメッカにもなっていて、湖畔にはレジャー宿や温泉宿も多い。結果的に10月になって、そこに宿泊するのだが、それについてはその時に報告させていただこう

海ノ口駅は1929年(昭和4)の開業。国鉄大糸南線の駅として設置された。信濃鉄道が信濃大町まで敷設し、信濃大町~糸魚川にかけては国が開業させた大糸線だが、大糸南線は現在の感覚とはやや異なっていて、信濃大町~中土のことだ。戦後に糸魚川~小滝の大糸北線がつながって大糸線となった

長野県に海はないのに駅名に海が付くことについては、ここまでの説明で十分だろう。海とは木崎湖のこと。駅の住所も海ノ口

電車から降りて立ち止まってしまう

電車を降りて駅舎に向かう時点でまず立ち止まってしまう

国鉄時代からの駅名標に加え、目を引く駅名板そして解説

詳しすぎる解説がある

無人駅ながらきれいな駅舎には、ホーム側とはやや異なる駅名板があり、白鳥の写真がある。その下には付近を描いた手書きのイラスト

いつもはグーグル地図を掲載するところだが、今回はこれで十分だろう。ただ白鳥の写真の解説には、ちょっと複雑な気持ちになった

駅名板ができたころには毎年飛来して越冬していた白鳥が、ある年から来なくなってしまったという。私は給餌を行っていれば、毎年白鳥はやって来るものだと思っていただけに、柄にもなくセンチメンタルな気分になってしまった

こちらが駅舎。木造で内外とも、かなり手が加えられているが開業以来のものだと思われる

駅舎に掲げられている駅名板は、それこそ開業以来のものかもしれない

冒頭に書いた通り、降り立つだけで、ほとんど調べもなく記事が1本書けてしまう駅である。ということは魅力が高い証明でもある

時系列は前後するが、海ノ口駅へ向かう電車の外を走りながら手を振ってくれた方がいたので、そう多くはない車内の人々も皆で手を振った。季節は稲の収穫前の晩夏。田んぼだけでなく湖そして山並みも四季に応じて、それぞれの景色を見せてくれるのだろう。ぜひ訪問をおすすめしたい駅である

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大糸線全40駅を訪問するお話~名称変更の小さな駅は思わぬ神駅だった

※訪問は2024年9月9日

松本から1時間

南大町駅で下車。時刻は11時を過ぎている

キロポストで34キロと表示されているから、それなりの距離をトコトコやって来たことになる。松本からちょうど1時間の電車旅となった

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短距離区間にわざわざ駅を設置

安曇追分駅までで一度大糸線の旅を打ち切ってからちょうど半年。雪景色はすでにない。ここから残った駅の回収となるが、いつものことながら、いくつかの駅で降りているうち急に全駅訪問のスイッチが入るので、残った駅はホームと待合室のみという駅が多い。そして元々は信濃鉄道という私鉄によって開業した路線だけに、その構造の駅がこれから次々と登場する

当駅はログハウス風の待合室と棒状ホームを持つだけの構造で、しかもホームはカーブ状に半ば強引に設置された形になっていて、さらに言うとお隣にある地域の中心駅でもある信濃大町駅からは線路距離は1・1キロしかない

線路に沿って道路があるわけではないので、歩くと1・6キロのコースになってしまうようだが、それでも徒歩20分と近いところにわざわざ駅が設けられた

開業は1934年(昭和9)。現在の松本~信濃大町が信濃鉄道として全通したのは1916年(大正5)のことで、18年も経ってから頑張って駅が設置されたのは今も駅前にある「レゾナック・グラファイト・ジャパン」の存在だ。2023年に現在の社名となったが、それまでは昭和電工の大町事業所。社名(工場名)は、最初の昭和アルミニウム工業所から昭和電工大町工場を経て大町事業所と変遷している。日本で初めて国産アルミニウムの工業的生産に成功した工場でもある(レゾナック・グラファイト・ジャパンHPから)。この工場ができたのが1933年。当駅は工場への通勤目的で設置され、当時の駅名は「昭和」。1937年の国有化の際に現在の駅名となった。この後も出てくるが、路線内には他にも名称変更された駅があり、特定の固有名詞は避けられたようだ

背中しか見えないが

こちらは待合所内にあった時刻表。11時8分に到着して32分の松本行きで折り返す。信濃大町までは昼間も1時間に1本が確保されているので、駅訪問もそれほど頭を悩ますことはない。もっともその分、信濃大町から北はかなりの予習と準備が必要となる

立派なお手洗いがある。自治体による設置だろうが、大町市内の駅はホームと待合所のみの駅でもお手洗いの設置が多く助けられた。早速お借りして出たところに建物が見えた

コンビニだった。ローカル線沿線でバッタリ出くわす貴重なコンビニ。その最寄り駅を個人的に「神駅」と呼んでいるが、その神駅だった。コンビニのさらに向こうには国道147号があり、国道を挟んでレゾナック・グラファイト・ジャパンの大町工場がある。工場で勤務する人の利便性もあってのコンビニかもしれないが、後でこの存在がとても貴重だということに気付く。なぜなら松本を除くと路線内で最も大きい駅である信濃大町の駅近くにはコンビニはない。構内に売店はあるが、コンビニを求めようとすると10分近く歩くことになる。そのような事情は全く知らない私だったが、たまたまサンドイッチなど、ちょっとした食料を買いそろえたため、この後、大いに助けられたのだった

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