JR九州

私的に最後の「JR路線」に乗車する~線路のない場所にたたずむピカピカの駅舎

※訪問は2025年5月27日

駅名はかつての大鶴村から

あらためて大鶴駅の駅舎。ご覧の通りピカピカ。開業は1937年(昭和12)で、日田彦山線(当時は彦山線)が夜明~宝珠山で開通したのと同時に設置された。駅名は当時の大鶴村(1955年から日田市)に基づく。もちろん駅舎は当時のものでないことは明白だが、そのあたりはBRTの停留所から離れているにもかかわらず駅舎が残っていることにも関連する

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大肥川との関連

前記事でBRTのコースをたどったら遠回りしてしまった話を書いたが

それは国道に沿って真っ直ぐ進むのではなく、バス乗車の記憶から「名本」という停留所を通るコースを歩いてしまったため。なぜわざわざバスも迂回コースを行くのかというと、おそらく名本の停留所と、そこからほど近い大肥川を渡ったあたりが旧大鶴村の中心地だからだろう。大鶴村は明治の町村制施行の際、それまでの大肥村と鶴河内村が合併して頭文字ひとつずつをとって付けられた村名。それぞれ大肥川、鶴河内川に由来する。鶴河内川は、この名本あたりで大肥川に合流する。大肥川は日田彦山線の途中となる東峰村に源流を発し、日田彦山線が夜明駅で久大本線と合流するように、大肥川も夜明駅付近で筑後川に合流する。鉄路についてはBRTの専用軌道となっていて一時的に大肥川と離れるが、国道211号については河川によってできたスペースを利用するようにピッタリ寄り添って東峰村から夜明駅近くまでやって来る

古くから氾濫を繰り返してきた川で日田彦山線がBRT転換となった要因となった2017年の九州北部豪雨では甚大な被害をもたらしたが、豊かな水量で地域に長年恵みをもたらしてきた川でもある

新駅舎から間もない被災を伝える

大鶴駅の現在の駅舎は2010年(平成22)に開業時からの木造駅舎に替わって新たに建て直されたもの。大鶴は木材の町でもあっただけに新駅舎も木造で建てられた。九州北部豪雨は新駅舎になって、わずか7年後のことだった

駅舎を抜けると点字ブロックとともにホームへの導線があり、その先にホームがある。ホームがあるというより、わずかに残されたという表現が正しい。ただホーム跡には自由に入れる

ホームは線路とともに途切れていて、そこには製材所がある。かつて大鶴は炭鉱輸送や木材輸送で栄えた。もともと駅舎の横には製材所があったようで、鉄道駅としての役割を終えた後に製材所が拡張されたのか

駅舎内には豪雨被害の写真が並んでいた

訪問時はちょうど豪雨被害の写真展示を行っていた

こうして見ると被害のすさまじさが分かる

当駅についてはBRTの停留所が徒歩3分ほどの国道に設置されたため、駅舎がポツンと離れた場所にそのまま残る形となっている

こちらがその停留所

こちらは製材所と逆側を見たもの。こちらの路盤もすぐ先で終わっているようだ。きっと前記事で私が見た鉄路の路盤の場所へとつながっているのだろう。大鶴駅の駅舎については、現在利用方法を考えている最中だというが、これだけの立派な施設。ぜひ残ってもらいたい

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~思いつきで隣駅へ行ってみた手段はもちろん

※訪問は2025年5月27日

県境付近で立ち止まる

宝珠山駅前の橋を渡り国道を右に行くと福井神社があり、すぐ県境となる

そこには石碑があり丁寧な解説がある

とても分かりやすい解説で筑前の国境が川でなかったため、トラブルを避けるべく江戸時代に黒田氏がそれを示す石碑を建てたというもの。現在もそのまま県境となっている

もちろん現代の道路上にも「ここから大分県」の標識がある

振り返ると当然ながら「ここから福岡県」の標識。先に見える橋を渡った所に宝珠山駅の駅舎がある

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予定ではこれで終了だが

私が予定していた日田彦山線BRTの旅はこれで終わりである。完乗もした、彦山駅と宝珠山駅も行った。本日は日田に宿をとっていて、せっかくの旅名人きっぷである。翌日は久留米まで出て西鉄を堪能しつつ博多へと向かうつもりだ

ただ県境までやってきて、ふと思いついたことがある

「大鶴駅まではすぐじゃないの?」

ここまで宝珠山~夜明をBRTで1往復している。車窓の風景も眺めたが、宝珠山駅とお隣の大鶴駅はそれほど離れていない。しかも山中にありながら比較的平坦なコースのようだ。しかもやや下り。念のために調べてみると

1・6キロで徒歩22分というグーグル先生の指南。この区間は鉄道時代から国道と線路が近い場所を走っているので線路での距離も1・6キロとあまり変わらない

実はこの大鶴駅については駅があった場所に停留所はなく、少し離れた国道上に停留所が設けられ、バスの車窓で目を凝らすと、まだ健在な駅舎が道路の奥にチラ見えする。もちろんバスが進むと一瞬で視界から消えてしまうのだが、このチラ見えというのが何ともそそるというか、じっくり眺めたくなる欲求が出てくるものだ

前記事で紹介した通り、14時36分に添田行きで宝珠山に降り立った私は15時28分発の折り返しとなる日田行きに乗車するつもり。時間は14時50分になっているが、駅からは5分ほど歩いたので指南通りだと現在地からは残り20分を切っているだろう。これだと十分間に合いそうだ。ここは徒歩の一手だと歩き始める

歩いたおかげで見られたもの

何やら不安にさせる標識があるが、私のコースには関係ないようだ。のどかではあるが、しっかりした歩道がある道路を歩く。ただ弘南鉄道大鰐線の項でも同じような書いたが、車はビュンビュン走るが人は全く歩いていないのは青森県でも遠く離れた大分県でも共通である

途中、近道のようなコースを行くと、そこで予期せぬものに出会った

日田彦山線の線路跡。「JR九州」と書いてあるので分かりやすい。先に鉄路があって後から道路ができたので道路が鉄道をオーバーパスする形にしたのだろう

その向かいに目をやると

路盤が続いている。ここは踏切だったのか、それとも線路が撤去された後にできた道なのかは不明だが、これは歩いたおかげで見られた廃線跡だ。写真で分かる通り、雑草が生い茂っているのではなく定期的に草刈りが行われているようだ。これほどきれいな草むらなら、ここを歩けば最短で大鶴駅までたどり着けそうだが、さすがにそういうわけにはいかない

BRTのバスは国道から1度離れて再び国道に戻るというコースをとっているため、それに引っ張られた私はちょっと遠回りしてしまったが、それでも余裕で到着

今も現役の駅のようにきれいな大鶴駅が出迎えてくれた

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~山中のホームに県境のある駅

※訪問は2025年5月27日

必ず行くと決めていた駅

今回の日田彦山線BRT乗車の際、必ず行くと決めていた駅が宝珠山(ほうしゅやま)

夜明から再びBRTで彦山方面へと向かい下車した。ここからBRTは鉄道線の路盤を利用した専用軌道に入る。先の記事でも紹介した東峰村の区間である

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化粧直しの後だった駅舎は健在

宝珠山の駅舎。開業は1937年(昭和12)で夜明駅側から日田彦山線(当時は彦山線)が難工事区間つまりBRTでも専用軌道となった区間に入る一時的な終着駅として開業した。だが戦争によって工事は中断。先までつながったのは戦後になってからのことだった

現在の駅舎は1998年(平成10)にそれまでの駅舎を踏襲する形で新たに建て直したもの。今回現地を訪れて分かったのだが、BRT区間の駅舎は2017年(平成29)の豪雨被害の少し前に新たに建て直されたものが多い

当駅も駅舎はそのまま利用されているが、BRT移行のタイミングでキッズスペースが設けられたりと、中身は手を加えられている

かつてのホーム跡は駅舎の隣にある

ホームが残り、その上にはミュージアムが建てられている

ホーム上の県境は今も残る

宝珠山の駅名は平成の大合併まで存在した宝珠山村に基づく。これは話題となった合併で、宝珠山村と小石原村の2つの村が合併して誕生したのが東峰村。つまり村と村が合併して新たな村が誕生したという「ミニ合併」だったのだ

ただし宝珠山村の中心部はこの付近ではなく、後に出てくるが、お隣の大行司駅付近。というのも宝珠山駅の近くはなかなか村の中心部になりようがないのだ

ホーム跡に建つミュージアムの前にある「県境の駅」の碑。当駅のホームは県境をまたいでいて、3分の2が福岡県で3分の1が大分県にあった。ホーム上に県境のある駅としては東海道本線の山崎駅が大阪府と京都府をまたいでいることで有名だが、山間部の村にある駅が県境をまたぐのは珍しいケースだ(大分県側は日田市だが、駅の開業時は大鶴村だった)

鉄道駅時代はホーム上にこの碑が置かれ、県境を示す線が引かれていたが、BRT転換によってこの位置に移動となった

線路のあった場所にはモニュメントが設置されている

日田彦山線沿線地域振興記念碑の解説がある

線路はかつてのホーム、大分県に入った後にフェードアウトするように途切れている。鉄路が消えたことの証でもあり、心が痛む

さて14時36分に当駅に到着した私は15時28分のBRTに乗車して再び日田方面へと向かう予定だ。まだ少々時間はある。橋を渡って右に行くと、すぐ県境があるので見に行ってみようと歩をすすめる。ただ歩き始めるうちに別の考えが浮かんできた

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~久大本線との結点は絶対名前を忘れない

※訪問は2025年5月27日

大いに役に立ったBRT

歓遊舎ひこさんからバスに乗り込み、あらためてBRTを大分県方面へと向かう

今度は大きいバスがやって来た。実を言うと最初に添田から彦山まで乗車したバスを「小さい」と表現したが、彦山で下車すると後ろからもう1台。2台セットでの運行だったのだ。もちろん私は1台目に乗車していて、2台目を見るとお客さんはいないように見えたが、満員で乗れないという危険を避けるため時間帯によってバスの大小や台数を決めているようだ

そしてもうひとつ、BRTに乗車して気付いたのが

USBポートの存在。最初に乗車したバスでは気付かなかったが、その後は携帯の充電に大いに役立った。私的ポイントは極めて高い。特にこの後は1時間の乗車となったので満タン充電である

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まずはJRの「鉄道路線」完乗

1時間かけて到着したのは

夜明駅。こちらはれっきとした鉄道駅で日田彦山線と久大本線の結点で日田彦山線の終着駅。ただし日田彦山線は鉄道時代から、すべての列車が2駅お隣の日田まで乗り入れていた。いわゆる帳簿上の終点だったわけで、そのなごりで今もBRTは日田まで運行される。夜明~日田は鉄道とBRTの両者が並行して走る区間となっている

とにかくこれで日田彦山線は完乗、JRの運営している「鉄道路線」は、これですべて乗車したことになる。もっともこの後、どうしても行きたいBRTの駅があるので再び添田方面のバスに乗り込むのだが、本数がそう多くはないため1度夜明まで来たのだ

高台に立つ駅舎

夜明駅の駅舎は階段を昇った高台にある。鉄道はこちらから、BRTのバスは階段の下からの発着となる

かつては日田彦山線が合流する2面3線の構造だったが、現在は2面2線となっている。周辺は特に何があるわけではないが、印象的なのは何といっても駅名だろう

開業は1932年(昭和7)で久留米側から少しずつ伸びてきた久大本線(当時は久大線)が福岡県との県境を越えた最初の駅だった。大分県最西端の駅である。2年後に日田まで延伸されるまでは終着駅だった。現在の日田彦山線の前身にあたる彦山線の乗り入れは1937年から

駅名は当時の夜明村に基づく(1955年から日田市)。もともとは焼き畑によって開墾され「夜焼」という地名だったものが現在の地名に変わったという説があるが、夜明という言葉の響きは何とも素晴らしいものがある。1度聞くと絶対に忘れない地名、駅名だ

夜明けの鐘や寅さん

現在の駅舎は2010年(平成22)に新築されたもの。すでに無人駅だったが、開業以来の駅舎の雰囲気を引き継ぐ形で建設された

駅舎の隣には

夜明けの鐘

駅舎内に解説があるが、地元の小学校で大正時代からチャイムとして使用されてきたもの

その隣には平成24年九州北部豪雨(BRT転換となったのは平成29年九州北部豪雨)の際に押し出されてきた岩を加工した石碑が設置されている

また映画の中で重要なシーンとして登場する「男はつらいよ」のロケ地にもなっていて駅舎内には当時の写真が飾られている。利用者は決して多くはないが、見どころもあり、駅名標の写真を撮るだけでも尋ねる価値のある駅である

なお私は10代のころに当駅の存在を知り、私が子どものころの青春スター石橋正次さんのヒット曲「夜明けの停車場」(興味のある方は検索してください)に関係があるものと長らく思い込んでいたが、そちらは違うようである

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~路線内の最新駅で安心の昼食のはずが

※訪問は2025年5月27日

本日は不安なし

ローカル線の駅訪問を行う際、最も不安なのはランチタイムをどうするか、になる。近年はかつて優等列車が停車していた地域の代表駅ですら、駅前はシャッターや雨戸で閉ざされた店舗の跡があるだけで、その昔は駅で時間待ちをする旅人の胃袋を満たしてくれた駅前食堂は、いにしえのものとなりつつあり、不安というよりはなから諦めていることが多い。あらかじめ出発駅のコンビニでおにぎりやパンを一つ二つ購入して空腹を凌ぐのがほとんど。その分、駅の近くでたまたまコンビニがあったりすると、それを「神駅」と称している

だが今回については閑散ローカル線でありながらも、その心配はなかった。とにかく「食堂」がある場所で横付けしてくれるのだから

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日田彦山線で最も新しい駅

添田方面からBRTに乗車すると、最初にある旧鉄道駅が今回訪れた歓遊舎ひこさん駅(バスの停留所は途中に3カ所ある)。何やらバス停のような名前だが、豪雨被害までは、れっきとしたホームのある駅だった。バス停のように思ってしまうのは

駅の場所がそのまま「道の駅 歓遊舎ひこさん」になっているからだ

こちらが道の駅の駐車場に設置された停留所

道の駅は1999年(平成11)のオープンで、その裏手をたまたまレールが走っていたことで2008年に新駅を設置。鉄道と一体化した道の駅となった。日田彦山線では最も若い駅である。の鉄道に揺られて車窓をぼんやり眺めていると目の前の道の駅を通過していく体験は皆さんお持ちだろう。だが、そのほとんどは駅からはかなり離れた場所にあった、道の駅に立ち寄ろうにも不可能なことがほとんどだ。そもそも道の駅そのものが、もともと何もない場所に造られることが多いので鉄道駅とは無縁だ。それでも近年は北海道の木古内駅や福井県の美浜駅、越前たけふ駅のように鉄道駅と道の駅がセットとなった例も見られ始めた。ライバル同士だった鉄道が飛行場に直接乗り入れる方式が全国で広まったように、鉄道と車がセットになる可能性を感じることだと思う

わずか9年だった鉄道駅

ここが鉄道駅だった痕跡は入口にもまだ残っている

今も残るホームにはレジャー施設利用者のみが入れるようになっているが、入口前の裏側には

このようにJR九州のマークとともに駅名が書かれている。そしてこれは鉄道駅としては廃止ではなく、あくまで休止扱いなので間違ってはいない

また隣に回り込むとホームの一部が残されている。豪雨で被災したのが2017年のことなので、ホームに列車が停車したのは、わずか9年のことだった

一瞬絶句も

さて駅については一通り見たので、ここでランチタイムである。道の駅なので、すっかり安心してうどん店に入ると

無情の本日休業の立て札。事前に調べなかったが火曜日が定休日らしい。お隣の韓国料理店は開いているが、12時24分に当地に到着した私は12時58分発で再び夜明方面へと向かうつもりで、到着後にお手洗いを借りたほか、前述した写真を撮ったりしていたため、残り時間はとうに30分を切っている。サッと食べられるうどん店が休みとなると、何か道の駅の中で、この際お菓子でも酒のつまみでも何でもいいのでお腹に入れられるものはないかと店内に入る

地元の名産品を幅広く取り扱っているなぁ、と店内を歩いていくと、なんと

お弁当を発見。しかもこれで480円と超良心的な値段である。残り少なくなっていたものを素早くゲット。外のベンチで食べようとしたら、他にも複数の「お弁当グループ」が。皆さん車で来られていたようだが、有名なのだろうか

とにかくすっかり満たされた私は

子育てに精を出すツバメさんに別れを告げて無事予定のBRTに乗り込めることになった

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~戦時中に建設された立派な駅舎を有した駅

※訪問は2025年5月27日

バスのサイズに驚く

こちらは彦山駅で撮影したものだが、添田駅で最初にバスを見た時の印象は「小さ!」だった。定員は25人となっているようだが、座席の数は20人に満たない。添田駅では私より年配の方が一緒にBRTを待っていたが、この方も初乗車だったようで「小さいんだね」と漏らしていた。ただ考えてみると、このサイズで間に合うからこそのBRT転換だったのだろう

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BRT転換で駅舎解体

BRT転換の要因となったのは2017年(平成29)の九州北部豪雨。特に添田~夜明間では駅舎の倒壊や橋脚の被害、トンネルへの土砂流入など甚大な被害が発生。長期運休は必至で、そもそもそれ以前に再開が可能なのかどうかというレベルの深刻な状況だった。福岡県と大分県の山間部の県境を走るこの区間は、当時すでに閑散区間となっていて復旧までの経費とその後の利用者数を考慮すると、採算がとれない試算だった。地元は鉄道による復旧を求めたが、2年間の話し合いの末にBRT転換で合意。2023年から、それまでの代行バス運転に代わっての日田彦山線BRTの運行が開始された。その際、バス転換で不自由になると予想された東峰(とうほう)村に所在する彦山~宝珠山については既存の鉄道路盤を利用した専用軌道とすることも盛り込まれた

彦山駅は添田町に所在するが、ここから大分県との県境に向けてが東峰村となる

彦山駅とお隣の筑前岩屋駅を車で行こうとすると、このようなとんでもない悪路になる。普通に考えると国道経由の遠回りルートで実際、代行バスもこの迂回ルートを通っていたが、鉄道は地図を拡大していいだけると分かるが、4000メートル以上もある釈迦岳トンネル経由で真っ直ぐ結ばれていた。そしてこの区間は戦前では工事が終了せず、戦争によって中断。戦後10年以上も経た1956年(昭和31)にようやく全通した難工事の箇所でもある

英彦山神宮への最寄りとして

あらためて彦山駅。添田方面から当駅までは1942年(昭和17)に開通した。1942年といえば、まさに戦時中だったが、英彦山(ひこさん)神宮への最寄り、入口として神社を模した立派な駅舎が建てられ、戦後の全通、そして路線名が日田彦山線となっても路線を象徴する豪華なものだった

ただ、その駅舎はBRT移行の際に解体され、現在の形へと姿を変えた。2面3線という駅の大きすぎるスペックはBRTに向かないものだった。駅舎の隣には休憩所も設けられ、駅としての規模は大きい。新駅舎も英彦山神宮の要素を採り入れたもので

生まれ変わった駅舎内はきれいで居心地がいい

こちらは停留所で、ここから先は専用軌道

こちらはバスが去っていくところで、専用軌道となる代わりに非電化単線の路盤を使用しているため、すれ違いはできなくなる

高台にある駅は被害時の防災拠点として添田町が整備していて駅舎横にあるベンチは、緊急時は炊き出しスペースとなるそうだ

こちらは駅前の様子。英彦山神宮への参拝拠点として栄えたなごりがある。正面の飲食店は、おそらくまだ現役のはずだが、訪問当日は営業していなかった

ということで次の夜明方面へのバスはしばらく来ないため「食」を求めて専用軌道を戻る形で添田行きのバスに乗り込むことにする

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私的に最後の「JR路線」に乗車する~不思議な路線名誕生までは複雑な経緯

※訪問は2025年5月27日

路線名ゆかりの駅が第一歩

添田から約20分。BRTのバスは彦山駅に到着した。予定の時刻より5分ほど遅延しているが、ここまでは道路を走るバスだったので、遅延もやむを得ない。写真で見ていただければ分かるが、ここからバスは専用軌道に入っていく。つまり線路跡を利用したコース。ここから約14キロはバスのみが走るコースなのでBRTならではの強みが発揮されるコースとも言えるが、非電化単線の線路跡を走るためバス同士のすれ違いは、かつて駅だった場所でしかできないことが、かえって弱みであるが、これが後に各駅訪問の悩みのタネとなる

そして駅名からも分かるように路線名「日田彦山線」のゆかりになった駅でもある

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変遷の末に現在の路線名に

日田彦山線は小倉から3駅目の日豊本線城野駅から分岐。久大本線の夜明を結ぶ路線で68・7キロ。この両駅が帳簿上の起終点だが、現実的には列車は小倉から久大本線の日田まで運行されていた。そのなごりでBRTも夜明を経て日田まで運行されている。つまり日田~夜明は列車とBRTが並行して運行されている区間となる

路線名は日田駅と彦山駅からとられているのは一目瞭然だが、彦山駅は城野から47キロも離れた場所にある途中駅。普通なら起点と終点の1文字ずつをとったり、路線内の代表駅を路線名とするところだが、ちょっと違う。これには路線の成り立ちが変化した歴史が関係している

もともとは小倉の東側にあった東小倉という駅(今も形の上での駅として残るが旅客扱いはしていない)から日豊本線を経由することなく添田までを結んでいた私鉄路線だった。話はややこしいが、この線路は現在のコースとは異なり、田川地域の中心地である田川伊田も田川後藤寺も通っていなかったため別の会社が当地を通って添田に向かう路線を敷いた。その後、両線とも国鉄となり前者が添田線となり、後者が行橋から伸びる田川線の一部となった。田川線は1942年(昭和17)に彦山まで延伸する。このころまでは現在の西添田駅が添田駅を名乗っていた

一方、夜明側からは1937年に大分県と福岡県の県境である宝珠山まで線路が完成。彦山線という名称だったが、戦時下で工事が中断。線路がつながったのは1956年と戦後10年以上も経ってからのことだった。全通したことにより、添田線と彦山線そして田川線の添田~彦山が統合されて日田線が誕生したが、この時点で日田線は田川地区の中心部を通らないコースを通っていた。そのため間もなく日田線と田川線を結ぶ短絡線を設けた上で、4年後には中心部から外れた部分をあらためて添田線と命名。中心部を通る田川線のコースを日田線に組み込み、名称が日田彦山線となった

文字だけだと何のことか分からないかもしれないが、ざっくり言うと小倉から添田、田川から添田、添田から夜明と3つの路線の組み合わせで成立した路線で、そのうちの一部が分離された上で廃線になったということ。また歴史をさかのぼると路線名に使用できそうな名称がことごとく先取りされてしまっているような気がする。ただ1度なくなった「彦山」という文字がすぐ復活しているあたりがおもしろい。なお2代目となった新たな添田線は中心部を通らないことで利用者が低迷。国鉄末期に廃線となっている

路線の紹介をしていると随分と長くなってしまった。ただ専用軌道の部分にもかかわってくる話なので、できるだけ説明してみた

次回でようやく戦時中に誕生した駅の訪問記をお届けしたい

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博多駅から乗り換えなし、わずか25分の「山手駅」で降りてみた(後編)

筑前山手駅の駅名標

※訪問は2024年4月25日

80段の階段を利用

階段の途中には殺風景さを避けるため、絵画などが飾られている。その数80段。天空の駅として知られた三江線の宇都井駅(島根県)がバリアフリーなしの116段だったので、同様の80段もかなりの高さだと言える

階段を降りきると券売機はここにあり、ホーム改札部分と同様に時刻表が設置されている。待つにはそれほど困らない本数はあるが、昇りきった後にしばらく電車が来ない絶望感を味わうのを防ぐ意味でも、階段の上下に時刻表を置くのは良いことだと思う

見上げるとこんな感じ。まず高台への階段を昇ると券売機の場所に到達して、そこからはビルの階段を昇る形でホームへと上がる

前掲は裏側から見た方が分かりやすい

駅前には土俵?

駅前には国道201号が走り「山手」の交差点がある。朝の時間帯なので営業については分からなかったが、民家は少ない。公民館があり

これはおそらく土俵だろう。最近は見る機会が少なくなったが、小学校や公共施設には土俵が置かれていたものだ

駅周辺の地図があり、こちらを見ても山中の駅だということが分かる

篠栗線の歴史に起因

2022年の駅利用者は「データなし」となっている。公表されているコロナ禍前のものが約100人なので現在はさらに少なくなっていると想像できるが、電化されていて本数も多く、IC乗車もできる路線になぜこのような天空の駅ができたのかについては篠栗線の歴史をひもとく必要がある

篠栗線の歴史は古く、開業は1904年の明治37年で今年で120歳を迎えた。なぜこのような長い歴史を持つかと石炭輸送のためである。元々は同じく炭鉱で栄えた飯塚への短絡線として計画された。ただし開業時は吉塚から篠栗まで。なぜかというと篠栗から飯塚(桂川)方面には交通の難所である八木山峠があったためだ

鉄道図でなく道路図で示すと分かりやすい。現在は筑前山手駅ホームから見える八木山バイパスの一本道だが、筑前山手駅前を通る旧道を見るとクネクネが連続するつづら折りとなっている。道路でこれなので鉄道工事となると、さらに難所で筑前山手駅を含む篠栗~桂川の開業は1968年(昭和43)。短絡線としての計画から60年以上が経過し、石炭産業は曲がり角を迎えていた。全通から20年も経たない国鉄時代に篠栗線の貨物輸送は廃止される

転機が訪れたのはJR移管以降。博多への通勤通学圏として注目されるようになり、博多~吉塚に独立した線路が敷かれたことで、すべての列車が博多まで直通。篠栗までの間に3つもの新駅が設置され、やがて電化。沿線はマンションが建ち並ぶ住宅街となった。新駅設置で駅間が短いにもかかわらず、篠栗までの各駅の利用者はいずれも1000~4000人である。飯塚の事実上の中心駅である新飯塚から博多までは快速で50分で結ばれている

電化時には利用者増に備えるため、各駅で列車交換可能な構造への改良工事が行われたが、唯一そうならなかったのが、構造的に無理な筑前山手駅だった

駅近くには篠栗四国八十八箇所の第五十二番札所がある。山手地区には6つの札所があるようだ

ホームからの階段に篠栗町立篠栗小学校萩尾分校の紹介もあった。当駅からも車で10分かかる分校は、同校のHPによると開設は1883年(明治16)で現在の児童数は10人だという。過去の学校日記も公開されていてホームでの電車待ちの間、楽しく読んでしまった

トンネルから出てくる電車を待つ。わずか3キロしか離れていない、お隣の篠栗駅の利用者は4000人を超える。これからの盛夏に80段の大変かもしれないが、アクセス容易なパノラマ駅は、旅のお供にぜひ加えてほしい

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる4~大いにバズった駅でのフレッシュな感覚

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

国道が国と市の境界

雨の中を国道まで出てみる。駅とほぼ隣接するようにビュンビュン車が走る国道10号が並行している

これが国道から見た駅の待合室の様子。後に触れるが、右奥に進んだところが下り線ホームの入口。かつて駅舎があった時代があり、写真の中央部に建っていたとされるが、私は資料を見つけられず、現地で痕跡も探せなかった

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そして国道に出る

「西屋敷駅前」という交差点がある。押しボタン式。話はそれるが、押しボタン式信号というのは、押してしばらく経ってから横断歩道が青になるものと、押した瞬間に青になるものに二分されるが、地方に行くと圧倒的に後者の方が多い印象だ。渡る人が少ないからだろうか。この後も2度ほどボタンを押すことになったが、すべて利用者は私のみ。何か申し訳ない気持ちになってしまう

宇佐駅や宇佐神宮への案内表示もある。国道沿いにある左の建物はレストランで、その奥にはラーメン店。訪問時は9時で、まだ開いていなかったが、どちらも現役の店舗のようだ

そして駅と店舗は所属自治体が異なる

西屋敷駅は宇佐市なのに対し、店舗は杵築市である。立石駅の紹介で立石峠を豊前の国と豊後の国の境界と記したが、厳密には峠を下りたこのあたりが国境というか、峠を下りた西屋敷駅付近まで杵築市が食い込んだような形となっている。国道が市境になっていて、雨が激しく歩を進めることができなかったが、国道沿いに国境の碑があるのは、そのためだ

SNS上で話題を集める

さて、この西屋敷駅。昨年SNS上で主役の駅となったことがある。出張で当地を訪れた方が逆方向の電車に乗ってしまい、それに気付いて慌てて降りたのが西屋敷。明るい時間帯だったが、あまりの何もなさと逆向きホームへの移動地下通路の不気味さを投稿したところ、大いにバズって、さらには有名ユーチューバーも後に現地訪問して「凄いところだ」となった

実際には下り線ホーム(大分行き)で降り、上りホーム(小倉行き)へ移動したそうで、私の行動は逆というか乗下車はともに上りホームだったので、上りホームから下りホームへの移動を体験してみた

まず上りホームから下りホームを眺める。写真の右手が国道方面。上りホームからはすぐだが、下りホームの先端はかなり遠くにあるように見える

国道方面へと歩くと、記事の最初の写真の右端にある分岐点へ

国道とは逆方向に。そこには巨大水たまり。これはバズったSNSにもユーチューブにも出てこなかったが、現実的にはかなり前進意欲をそぐものだった

ただ、ここまで来て行かないという選択肢はないので左手を見ると(真っ直ぐ行くとナゾの空き地)

これが下りホームの入口。カーブミラーが丁寧に付いているのが、ちょっとウケた。二輪車の通行ならあるかもしれない

そして何の表示もないが、これが下りホームへの出入口

ちなみにホーム方面の階段を利用せず、真っ直ぐ行くと

田園地帯が広がる。足下はかなり悪いが、いわゆる「自由通路」である

これが下りホームから通路へと至る歩道部分で確かに遠い。最初に下りホームで降りると不安でいっぱいになりそうだ

あらためて知った普通の感覚

ユーチューブでも、駅の構造や本数の少なさが詳細にリポートされていた

ただし私の感じでは、地方の駅にありがちというか、あっても別に不思議ではない構造である。本数が少ないとはいっても1日に10往復以上がある。バス路線は駅付近にはないようだが、その気になれば宇佐駅まで50分ほどで歩けるし、駅の近くには飲食店もある。食事もできるし、頼めばタクシーも呼んでくれそうだ。いわゆる「秘境感」はない

それでもSNSでの投稿やユーチューブを拝見して知ったのは「一般的な普通の感覚」だ。いつの間にか自分自身、このぐらいでは何も感じなくなってしまっていることを改めて教えられた。この記事を読んでくださっている方も、どちらかというと私寄りの人が多いのかもしれないが、考えてみれば1両編成の単行列車に驚く人や、電化と非電化の区別が分からない人も普通にいるのだ

上りホームの「昭和14」の待合所へと戻る。ここには日豊本線でたびたび見かける青い駅名標がある。1時間はあっという間に経過した。ちょっとフレッシュな気分になってやって来た電車に乗る。もっとも下車時と同じで乗車は私一人のみだったけど

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる3~集落のない元信号場駅には待合所のみ

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

私以外に乗降なし

立石からひとつ小倉方面へと戻り西屋敷で下車。時間は8時50分。事前に予想できたことだが、降りたのは私のみ。入れ替わりに乗車した人もいなかったと思う。小倉方面への隣駅は宇佐。そこまで行けば同駅での折り返しもあるし、手元の「福岡・大分DCオフろう!きっぷ」は特急も乗り放題なので、おそらく移動に苦労することはないが、だからこそ西屋敷で降りたのである。立石と並ぶ日豊本線ダイヤのボトルネック区間を訪れるのが趣旨だ

最初に記しておくが、当初の予定はしばらく来ない電車には見切りをつけ、宇佐まで歩くことだった

この区間の日豊本線は国道10号とほぼ並行して走っている。立石峠も越えた平坦コース。駅間徒歩で最も有効なのは線路とともに歩くことが可能な区間だ。道を間違うこともなく、最短距離で隣駅まで行ける。日豊本線のように電化区間だと少々それても見失うことはないのだが、今回の場合は道路の隣を線路が走っているので、そちらの条件も必要ない。しかも平坦。これだと50分の徒歩もそう苦にならない

しかし残念ながら、この日は雨だった。中津では降っておらず、立石でもパラパラ。天気予報は午後から晴れ。ただ、いい流れだと感じたのもつかの間。西屋敷に到着した私を待っていたのは本降りの雨だった。西屋敷は駅舎のない構造。よりによって、この駅でなぜ?と言いたくなったが、とにかく宇佐への徒歩移動は中止となった

こちらは西屋敷駅の時刻表。8時52分で到着して次は10時9分。1時間20分の待機である

戦後の駅昇格も財産票は戦前

上りホーム入口と下りホーム上にある待合所のみが駅の建造物。というか、この日においては雨を凌げる唯一の場所。ICリーダーが設置されている

駅の開業は戦後の1947年(昭和22)だが、待合所には

かなり年季の入った財産票がある。かなり薄くなっているが、「待合所」「S14 5.2」とある。当駅は1926年(大正15)に信号場として設置された。立石~宇佐が10キロもあるので信号場が必要だったのだろう。臨時や仮の乗降場となった記録は探せなかったが、駅への昇格は1947年(昭和22)。その過程で待合所が必要となった事案があったのだろう

こうして列車が過ぎ去った後の様子だけを見ると一見、単式ホームの駅にも見えてしまうが、右側のちょっと高い所にあるのが下りホーム。そもそも信号場としてスタートしたのだから単式ホームのはずはないが、立石~宇佐が複線化された際にこの位置にホームが設置された。立石駅の記事でも記したが、立石~当駅は複線化の際に下り線は立石峠をトンネルで貫く形にしたため、上り線と下り線が大きく離れている。当駅のすぐ立石側で線路は再び出会う

とにかく、ここから時間をやり過ごさなければならない。信号場としてスタートしただけに付近に集落はなく、私の貸切状態となったのも当然といえば当然だが、傘を手に周辺の散策に入る

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