牟岐線

牟岐線の木造駅舎紹介12~DMV導入で思いがけず終着に

阿波海南駅の駅名標

※訪問は2023年7月20日、音声注意

唐突に終わる鉄路

牟岐線の終着駅である阿波海南駅に到着。ご覧のように単式ホームの先でレールは唐突に終わっている

2019年10月にも現地を訪問したが、同じような角度で撮影したものがこちら

間違い探しのクイズにもならないぐらい分かりやすい。鉄路ははるか先まで伸びていたし、そもそも駅名標には隣駅が記されている

当駅は2020年11月1日に牟岐線の終着駅となった。元々は牟岐線の終点だったお隣の海部までの区間が廃線となったからだ。廃線といっても鉄道路線がなくなったわけではない-と書くとなんだかややこしいが、この区間はJRから切り離される代わりに阿佐海岸鉄道に編入される形となったからだ

阿佐海岸鉄道に鉄道兼バスのデュアル・モード・ビークル(DMV)が導入されたための措置

こちらは海部駅(2019年10月撮影)。ご覧の通りの高架駅で道路上から線路へと入る切り替えポイントとしては不適切だ。そのため地上駅である阿波海南が接点に選ばれ、と同時にこの1区間はJRではなくなった

戦後に国鉄の新路線となるはずも

牟岐駅の項でも触れたが、1942年に鉄路が牟岐まで到達した時点で延伸工事はストップしている。その先は「国鉄阿佐線」として高知県に入り、室戸岬をグルリと回って奈半利を経由。後免で土讃線と合流して高知駅に向かう計画だった。壮大な計画すぎて戦時中に工事が一度終わったのは当然のこと

機運が再び高まったのは戦後10年以上が経ってから。工事が再開され、1973年に阿波海南を含む海部までが開通。この時点では新線は、わずか11キロだったことで牟岐線に組み込まれた

その後も工事は続けられたが、おりから国鉄の赤字が問題となっている時期で国鉄再建法により、工事は1980年に中断。ただ工事はほぼ完了しており、せっかくの設備がもったいないと海部から先のすでに出来上がっている区間については1988年に新たに設立された阿佐海岸鉄道によって工事が続けられることになり、1992年に海部~甲浦8・5キロが開業。甲浦は高知県に入ってすぐの場所にある

牟岐以南は鉄建公団によって工事が行われたため高規格。特に海部~甲浦はすべて立派な高架線となっている

時を同じく土佐くろしお鉄道によって後免から室戸岬を目指す鉄路もでき、2002年に後免~奈半利が開業。しかし工事はそこまで。奈半利と甲浦の間はバスで結ばれたまま現在に至る。そしてDMVの登場である

海陽町の中心駅、数奇な運命

途中駅時代から阿波海南は海陽町の中心駅。駅前にはコンビニなど商業施設も多い。駅にはタクシーも常駐している

かつては駅舎もあり、駅員さんもいたが撤去。代わりに駅前に建てられた海陽町海南駅前交流館が事実上の駅舎となっている。ちなみに旧国名の「阿波」が冠せられる駅は当駅までである

こちらがDMVの停留所。ここでバス↔鉄道に変換するため、正式には「信号場」と呼ぶそうだ。牟岐線との連絡も図られたダイヤとなっている

DMVに乗車するのは別の機会にするとして、私はここで折り返し。ただ乗車すると撮影できないバスから鉄道への変換は動画で撮影

何かレールとしっくりこなかったのか一度チェックが入った

無事にさっそうと去っていった

DMVについては改めて時間を作ってじっくり乗ってみたい

それにしても単式ホームの途中駅から終着駅になった阿波海南駅については数奇な運命を感じてしまう

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牟岐線の木造駅舎紹介11~路線名の駅は絶品の駅舎

牟岐駅の駅名標

※訪問は2023年7月20日

30年にわたる終着駅

牟岐駅に到着。戦時中の1942年(昭和17)に牟岐線は日和佐から当駅まで到達した。それ以前から路線名は牟岐線となっていて、この時期に工事が進んだのは、とにかく牟岐までは延伸するという強い意志を感じさせる。駅舎は当時からの豪華なもの。戦時中に建てられたものとは思えない

牟岐線という路線名は終着駅の意味があったから。ここから先は「阿佐線」として高知県に入り、後免で土讃線と合流する長大な計画だったが、戦時下で実現せず。この壮大な夢は戦後に工事が再開され、国鉄や阿佐海岸鉄道、土佐くろしお鉄道によって一部が実現したものの、室戸岬には達することなく現在に至っている

いずれにせよ牟岐から先に鉄路が延びたのは1973年(昭和48)だから30年以上にわたって終着駅だったことになる

周辺は牟岐町の中心部。メイン国道の55号から少し奥まった所にあるが、駅前のロータリーも広大ですぐに駅が分かる。港も近い。よく「むき」と読まれてしまうが、正しくは「むぎ]である

左側の建物も国鉄時代からのものだが、現在は使用されていないようで、お手洗いが残るのみとなっている

牟岐駅に来るのは3度目だが初めて気付いた。前回の東京五輪(1964年)の際、聖火が通ったようだ

古い案内板が復活

直営駅にして有人駅。当駅止まりの列車も多数設定されていて、終着の阿波海南に向かう列車も当駅で乗務員の交代が行われる。現在の牟岐線の運用は途中駅では徳島、阿南、当駅のほかは1日2・5往復が設定されている桑野以外に始発着の設定はない。また以前から行われていた当駅以南の特急車両による間合い運行は1日1往復となった現在も継続されていて、朝の上り(徳島行き)は阿波海南駅を始発の普通列車として出発した後、牟岐から特急「むろと」となる

駅舎内には四国内で活躍の列車の写真が掲げられていた

駅舎から1面2線のホームへは構内踏切を利用する。ホーム上屋も開業時からのもののようだ

ホームは1面2線の島式だが構内は広い

多くの側線があって現役

そんな中、初めて見たものがあった

大切に掲げられている。駅員さんに尋ねると、今年になって他の駅でゴミ扱いになっていたものが見つかり、「行先」だった牟岐駅に到着したそうだ。貴重な駅名板や駅名標が、いつの間にか消えて、どこかに行ってしまった例は枚挙にいとまがないが、このような事例を目にするとうれしいものがある

実は、いわゆる木造駅舎はこの牟岐駅まで。この先は鉄建公団によって工事が行われたため、線路の雰囲気も変わるが、終着駅の阿波海南まで残り10キロを目指す

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牟岐線の木造駅舎紹介10~駅の裏手が大いににぎわう

日和佐駅の駅名標

※訪問は2019年10月27日

「ウェルかめ」の舞台

阿波福井駅から南下していくと由岐駅。当駅については田井ノ浜駅や徳島バスとの記事でも紹介したので次の駅へと向かうことにする

日和佐駅。所在地は美波町。日和佐町と由岐町が2006年に合併して美波町となった

1939年(昭和14)の開業。阿波福井から当駅までが延伸してきた。その間は約15キロ。牟岐線が徳島県と高知県の県境を目指して少しずつ進んできたことが分かる

駅舎は当時からのものを改築しながら使用している。日和佐町の中心駅だったこともあり、立派な駅舎。かつてはみどりの窓口も設置されていて、私が四国にいた25年前、仕事で当地を訪れ、駅できっぷを買った記憶がある。もちろんずっと特急停車駅。ただし今は無人の簡易委託駅となっている

美波町はNHKの連続テレビ小説、倉科カナさんが主演した「ウェルかめ」の舞台。平成21年から22年にかけてということは、もう13年前。そんなになるのか、と改めて思ってしまうが、先日の余市駅での「マッサン」のように、全国各地に行くと連続テレビ小説の舞台となった場所では記念するものが必ず設置されている。放送年度を見るたびに「あのころは何をしていたのか」と、ふと思ってしまう

ウミガメの産卵で有名な大浜海岸は徒歩圏内。道中は日和佐町の中心地。ウミガメの産卵を見に行ける場所に宿もある

道の駅併設で人流が変わる

駅のすぐ西側は山が迫っているため、国道55号が走っている以外、かつては四国八十八カ所の札所のひとつである薬王寺ぐらいしか観光も含めて訪れる場所はあまりなかったが、今は事情が異なる

2005年に道の駅ができたのだ。その時に西口が新たに設けられた

レストラン、物販の販売所のほか足湯などもあり、週末でなくても人でにぎわっていた

駅舎は無人になり、券売機も撤去されたが、簡易委託として道の駅の売店できっぷの販売を行っている。つまりきっぷの販売場所も西口になった。JRと共用の徳島バスの停留所も道の駅内にある

窓口も閉鎖された東口

掘り下げる形での構内踏切を渡って上下ホームを移動することができる。駅舎と逆側はすぐ道の駅の入口

駅構内を経由しない場合は、奥に見える跨線橋での東西移動も可能。かつては2面3線構造で牟岐線では立派な構造だったことが分かるが、西口設置もあって1面は使用されていない。ただし上屋は歴史を感じるものだ

夕方になると高校生でにぎわう駅。2022年の1日の利用者は220人である

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牟岐線の木造駅舎紹介9~周囲に全く何もなくてヤバイよヤバイよ

阿波福井駅の駅名標

※訪問は2023年7月21日

元の終着駅、目の前に国道があるのみ

阿波福井駅に到着

1937年(昭和12)に桑野~当駅が開業。以降2年間は終着駅だった

財産票にも記されている。つまり開業当時からの駅舎が手を入れられながら使用されているということ

以前は1面2線の島式ホームだったものが、片側がつぶされて単式ホームになっている。牟岐線では何度も見た形

ホームを降りた景色はこんな感じ。駅舎はというと

さて、阿波福井駅について語ると「周囲に何もない」。それに尽きる

「何もない」というのは正確でないのかもしれない。駅舎の前は幹線国道である55号が走って、車はひっきりなしに走るが、その車が停まる可能性がある施設もない。かつては駅舎内でうどん店が営業していたようだが、今は閉店している

パラパラと民家があるだけだ。この時代にできた駅舎のある駅なら駅前にロータリーがあるはずだが、車を止めるスペースは全くない。国道工事の際になくなってしまったのか。なくなったのなら、当時すでに周囲は何もなかったことになる

国道を渡った駅舎の様子。車が途切れるタイミングが大変だった

駅舎の横にあるのは周辺図というよりハイキングコースの案内。一体どういうモチベーションで駅が生まれたのだろう。戦前に駅が設置れるというのは何らの事情があるはずだが、それが分からなかった

テレビを見ていてナゾが解ける

それが、テレビ東京で出川哲朗さんのバイク充電旅を見ていた時のこと。スタートが室戸岬(だったと思う)でゴールが徳島の椿泊だった。椿泊は阿波福井駅から見ると東方にある半島。線路からはかなり離れているため私は行ったことがないが、古代は阿波水軍、現在は漁港として有名

徳島県の各地が出てくるため楽しく見ていたのだが、画面越しに分かったことがあった。福井の町は駅から離れているのだ

椿泊は福井の町中で国道から分岐する県道で向かうのだが、テレビでその福井の町が出てきた。かつての福井村(現在は阿南市)の中心地は駅から2キロ以上離れている。国道に沿っているので商業施設もある集落だ

牟岐線は桑野、新野の町を通ってくるので、海沿いではなく山中を進んでくる。おそらくその時、福井の町に鉄道がないということで最も町に近い所に設置されたのだろう

当駅から山中を抜ける

徳島県の東部は海岸が迫っていて、平地部分が少ない。徳島側の隣駅となる新野とは線路で2・7キロだが、牟岐側の由岐駅とは山中を進むため6キロも離れている。この先、日和佐までの到達に2年以上を要したことも理解できるし、かつては阿波福井での折り返し列車が設定されていたことも納得である

阿波福井の駅名板。文字はJR化後のことか

もちろんと言っては何だが、現在は無人駅。「きっぷうりば」の文字がよかった

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牟岐線の木造駅舎紹介8~焼失の駅、連絡船の駅

阿波橘駅の駅名標

※訪問は2021年8月4日

開業以来の木造駅舎が

阿南から2駅ほど飛ばしてしまったが、少し元に戻る

見能林駅。阿南からひとつ目の駅で利用者も多い。2022年は1日あたり384人。これは阿南より南の牟岐線内では羽ノ浦に次ぐ2番目の数字である。コロナ禍前までは600人以上の乗降があった

阿南駅からはわずか2キロということもあって周辺は町が広がる。商店もあり、コンビニも徒歩圏内

ただし駅舎はない。待合所があるのみ。バス停形式の駅舎になったわけでもない。1986年に火事があり、焼失した。まだ国鉄時代の話だが、以降駅舎は建てられず現在に至る

線路が弧を描く場所に単式ホームがある。地形上、以前からこの形だったようだ

こちらは時刻表。朝の通勤通学帯に阿南・徳島方面の本数が多いことが分かる。ただラッシュ時が終わると2時間に1本。1駅先の阿南からは常に30分に1本の運行があることを考えると極端に本数が少なくなる。ちなみに駅一覧で青く表示されているのは特急「むろと」停車駅。通過駅と停車駅が同じ数。1日1往復になり、朝の徳島行き、夜の牟岐行きだけになったことで別料金の優等列車ながら、目的は完全に通勤者用

バス停が遠いので要注意

その特急停車駅となる阿波橘

こちらは大きな三角屋根の駅舎が健在。以前は開業時の1936年3月27日(見能林も同日開業)からの駅舎が改築しながら使用され続けている。周囲は町が広がる

駅名の文字が印象的だが、JR化後のもののようだ

2005年までは簡易委託があったが、現在は完全無人化されている

この時の記事でも軽く触れたが、当駅はJRのきっぶがあれば、徳島バスも利用できる対象駅となっているものの、他駅とは異なり、駅から離れているので注意が必要

距離にして1・5キロ。徒歩で少なくとも15分は要する。国道55号のバイパスを横切って旧道を歩いていかなければならない。停留所は徳島バス橘営業所。随分と遠いが営業所がある場所が「橘町」である。それに対して駅の所在地は阿南市津乃峰町。ではなぜ「津乃峰駅」ではないのかというと、駅を開設する際、橘と津乃峰のどちらに設置するかでもめ、津乃峰に駅を設置する代わりに駅名を橘にした経緯があるため。つまりバスの営業所が橘を名乗るのは当然なのだが、駅名については、いつの時代も全国どこでも「もめごと」があるのは変わりない

さて、その橘営業所への道中には伊島連絡船の待合所がある。四国最東端の島。連絡船で30分。1日3往復が運航されている

島へは阿南橘駅からの徒歩を経ての連絡船が唯一のアクセス手段となっている

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牟岐線の木造駅舎紹介6~途中下車要注意、牟岐線の歴史をおさらい

阿南駅の駅名標

※訪問は2023年7月20日

徳島県第2の駅にして唯一の駅

阿南に到着。何度も書いているが、当駅がパターンダイヤの境界で徳島から阿南までは30分に1本という便利なダイヤになっているのに対し、阿南から先は2時間に1本程度と本数が少なくなる

その阿南駅は立派な橋上駅舎。2003年に現在の形となった

牟岐線では唯一のみどりの窓口設置駅(徳島駅をのぞく)。少し前までは他の駅にも設置があったが、今は当駅のみとなっている。発車案内もディスプレイ方式

2022年の利用者は2248人で県内2位(首位は徳島駅で1万1120人)。さらに言うと徳島県内の橋上駅舎は当駅が唯一である

各地には町の中心地と離れている駅が多数あるが、阿南に関しては駅周辺が阿南市の中心地となっていて便利。全国チェーンのビジネスホテルも進出している

2つの顔を持つ路線は全長77・8キロ

駅を紹介する度に断片的に書いてきたが、ここで牟岐線についてまとめておきたい

牟岐線は徳島県の東部を走る路線。元々は小松島港へ向かう徳島~小松島を船舶の海運会社が1913年(大正2)に敷設した。その後、小松島の手前の中田から古庄までを阿南鉄道という会社が1916年に敷設。そこからは国鉄によって工事が行われ、1936年に古庄のひとつ手前の羽ノ浦から阿南を越えた桑野までが開業(阿南駅はこの時に開設)。すべてが国鉄牟岐線となって、戦時中の1942年に牟岐まで到達した。メインルート外となった中田~小松島と羽ノ浦~古庄はその後、廃線となっている

元々は四国の南東部をグリルと回って高知までつなげる予定だったため、戦後に工事を再開。1973年に海部まで到達した。牟岐から先は「国鉄阿佐線」となることが決まっていて、工事は室戸岬を目指して、さらに続けられたが、高知県に入ってすぐの甲浦までが、ほぼ完成した時点で中断。できあがっていた部分は第三セクターの阿佐海岸鉄道に引き継がれて開業も、鉄路としての業績は低迷。バス、鉄道の兼用車であるデュアル・モード・ビークル(DMV)が導入されて話題となったのは一昨年の2021年のこと。と同時に阿波海南~海部の1・4キロはJRとしては廃線となった。ここ数年の動きは激しい

ちなみに牟岐以南の部分については鉄建公団による工事で、高規格の高架中心の路盤となっている

そして鉄道ファン的に注意が必要なのは全長が77・8キロということ。普通列車のみの運行で全線走破に2時間以上も要するが、100キロに満たないため、徳島から全線のきっぷを購入しても途中下車はできない。行き止まり路線のため、途中下車可能なきっぷを買うためには徳島より手前の駅から、あと22・2キロの距離が必要で高徳線なら香川県内の駅からの乗車券を買う必要がある

私は今回「四国バースディきっぷ」という誕生月に3日間、乗り放題のきっぷを利用したが、青春18きっぷのシーズンが終了すると別の企画きっぷや100キロ以上の乗車券がないと途中下車ができない。そして徳島県内では窓口のある駅や営業時間に制限のある駅が多いので、事前に調べた上できっぷを購入することが重要となる

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牟岐線の木造駅舎紹介5~かつての分岐駅は今も交通の要衝

羽ノ浦駅の駅名標

※訪問は2021年8月4日、2023年7月21日

貴重な直営駅

羽ノ浦駅。「はのうら」と読む

駅名標の自治体名が上書きされていて阿南市となっているが、かつては羽ノ浦町の中心駅だった。現在、1日1往復のみとなっている特急「むろと」の停車駅。そして牟岐線28駅(田井ノ浜を含め、徳島を除く)のうち、わずか4駅しかない貴重な直営駅のひとつである。ちなみに他の3駅は南小松島、阿南、牟岐でいずれも自治体の代表駅だが、平成の市町村合併で、その座を降りているが、歴史的経緯や利用者の規模で直営駅の座を守っている

開業は1916年(大正5)で、当時からの駅舎だとされる

真っ直ぐ南下していた鉄路

その開業時、線路の方向は今とは異なっていた

牟岐線は東へグルリと回り込むように阿南に向かって敷設されているが、元々の構想は微妙に違う。真っ直ぐ南下して、わずか2キロ先の古庄に伸びていた

敷設したのは小松島から阿南を目指した阿南鉄道という会社で中田から古庄までを1916年に開業(つまり羽ノ浦駅の開業時)したが、予算が足りず那賀川を渡ることができなくなり、古庄を暫定的な終着駅にしたところ、1936年に国鉄が現在の牟岐線で那賀川を渡り、阿南に向けて敷設。古庄までの2キロは意味を持たなくなってしまった

と同時に阿南鉄道は国鉄牟岐線の一部となり、盲腸線となった古庄までの区間は旅客営業をやめて貨物支線となったが、戦後の1961年に廃線となった

ただし阿南鉄道が地元にもたらしたものは大きく、羽ノ浦駅周辺から古庄にかけては大いに栄える地域となった

現在の国道55号は海沿いのパイパスとなっているが、以前は羽ノ浦駅を横断する形の県道130号が国道55号だった。県道130号はもちろん那賀川を渡るのだが、そのコースは羽ノ浦~古庄の鉄路に沿ったものとなっていて沿線は大きな町となっている

私的なことだが、一時よく現地を車で訪れたいたころは当地が給油地点で、現状は不明だが安いガソリンスタンドがあって貴重だった

利用者は県内8位

2022年の羽ノ浦駅の利用者は1日1348人で県内8位。牟岐線では阿南、南小松島に次ぐ第3位で直営駅となっているのもよく分かる数字だ

駅は1面2線の島式ホーム

2年前の訪問時は休憩時間だったようで窓口にはカーテンがかかっていたが、今年の訪問時はもちろん、改札でのきっぷ収集も行っていた

こちらは今年8月の羽ノ浦駅。当駅始終着の列車設定はないが側線は現役で保線車が停まっていた。徳島~阿南のパターンダイヤでは原則的に当駅で列車同士のすれ違いが行われる

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牟岐線の木造駅舎紹介4~モータリゼーションに対抗する非電化単線路線

地蔵橋駅の駅名標

※訪問は2023年7月21日

周辺は農地と住宅街

地蔵橋駅に到着。なお記事としては南小松島を先にしたが、実際の道程は阿南から朝にやって来て先に地蔵橋で降りた後、南小松島に折り返している

写真で分かる通り、かつて島式1面2線だったホームは片面がつぶされて1面単式ホームとなっている

こじんまりとした駅舎で周囲は農地と住宅街だが、ひとつお隣の中田までが小松島市だったのに対し、当駅からは徳島市に入る。徳島までは4駅で、わずか6キロということもあって1日500人ほどの利用者がある

開業は1913年(大正2)と古く、駅の年齢は110歳となった

古い梁に財産票が張られていた。大正15年(1925年)からの駅舎が使用されているようだ

かなり手が加えられているが、凝った柱の構造に「大正生まれ」を感じる

駅名は近くにかかる橋から命名された。駅舎と逆側に10分ほど歩くと自然にできた山としては標高6・1メートルと日本一低い弁天山がある

駅舎側が住宅街、逆側が農地となっている

日常化した大渋滞に鉄道が対抗

駅は完全無人化されている

目を引くのが時刻表

この時も説明したパターンダイヤで特急の運行を通勤時の1日1往復にする代わりに徳島~阿南間は普通を30分に1本運行している。優等列車や貨物列車が走らないので時刻も一定化。覚えやすい。非電化単線路線としては、かなり頑張った時刻表である

パターンダイヤの背景には徳島市内の日常化した大渋滞がある。この記事を読まれている方は鉄道ファンが主で徳島市周辺でハンドルを握る方は少ないと思われるが、ラッシュ時の徳島市内の渋滞は酷いの一言。徳島市に流入する道路は高松からの国道11号、吉野川沿いにやって来る国道192号そして室戸方面からの国道55号があるが、これらの道路はすべて徳島駅周辺の徳島市中心部を通るようにできていて、どちら方面も車は一歩も動かない状態となる

それでもまだ国道11号や192号には高松自動車道や徳島自動車道という補完する高速道路があるが、牟岐線に沿った55号には自動車専用道がなく、徳島中心部から小松島にかけては片側4車線という広大なバイパスとなったが、それでも渋滞は収まらず、現在「徳島外環状道路」という外周道路を建設中だが、数十年かかっても工事の進捗状況は遅く完成のめどが立たない状況だ

そこで鉄道の出番である

もちろん地方の鉄道は高校生が主役だが、30分に1本で時刻も一定のパターンダイヤは利用者には好評。特に徳島駅の出発時間は毎時0分、30分と実に覚えやすい時間となっている

こちらは満員のお客さんを乗せて徳島へと向かう列車。朝の多客の時間帯は車掌さんが乗車する

朝の8時ということで閉まっていたが、旧駅事務所は地域交流の場として地元に貸し出されている

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牟岐線の木造駅舎紹介3~「南」を冠する中心駅

南小松島駅の駅名標

※訪問は2023年7月21日

朝から多くの旅客でにぎわう

南小松島駅を訪問した至近は今年7月21日

列車が到着すると多くの乗降がある

到着は朝の8時過ぎで最も利用者の多い時間。この日から夏休みに突入しているので、高校生の姿は前日までとは異なるのだろうが、それでも多い。駅に降りる人も多いが、これから徳島市内への通勤通学を行う利用者はもっと多い

小松島市は徳島市のお隣でベッドタウンとなっている

こちらは駅舎。右側の空間はかつてJR四国が各地で経営していたパン店が入居していた。JRに移管して大きな変化のひとつとして「副業が可能になった」ことが挙げられる。意外と知られていないが、国鉄時代は「民業を圧迫する」との理由で飲食店やホテルの経営、不動産業などができなかった。副業が解禁になったことで売り上げに貢献する態勢が整い、JR四国でも利用客の多い駅は改装して店舗のスペースを作り出したがパン店については各地で撤退。残ったいくつかの店舗は別のパン店として再出発している

ちなみにJRから転換した各地の第三セクターについても国鉄と同じ理由で副業は禁止されていて、苦戦の原因となっていることを記しておく

当駅の開業は1916年(大正5)と前記事で紹介した中田と同じだが、財産票によると駅舎は1935年からのもの。前述した通り、JR移管時に改築され現在に至る

歩いた方が早い?

当駅は2022年の1日の乗降客は1418人で徳島県では6位。コロナ禍前までは1800人の利用があった。小松島市の中心駅だが「南」の冠が付くのは国鉄末期に廃駅となった小松島駅が存在したため。ただし長らく小松島の中心地は南小松島駅だった。小松島駅の誕生は1913年で、わずか3年違いで「南」が付くことになったとも言える。小松島駅の目的は当時、徳島で最も大きな港だった小松島港へ人と物を運ぶためだったので、駅の開設順が逆だったら「小松島港」という駅名になっていたかもしれない

そして、この小松島駅、実は南小松島駅とは実に近い

わずかに徒歩約10分

かつての小松島駅はステーションパークという公園となっているが、南小松島駅周辺から川を挟んで、ずっと小松島市中心街の街並みが続く。地図で分かる通り、川があるため南小松島駅からは線路を敷くことができず、ひとつ徳島寄りの中田からの分岐となっているが、南小松島駅から中田で乗り換えて小松島に行くより歩いた方が早かったのである。貨物輸送が衰えると小松島線が廃線となってしまったのは自然な流れだったのかもしれない

のぞみの泉が人気

南小松島は直営の有人駅(週末や時間帯によっては無人となる)。駅舎内には観光案内所も入居している。前回まで消えてしまった駅舎を紹介してきたが、さすがにこちらは大丈夫だと思う

ただし外から丸見えで、なおかつ清潔ではないというトイレの不備が最近ニュースとなっていたことは気になる点ではある

駅前には地下水の湧き出る「のぞみの泉」があり、地元の方が次々と水をくみに来ていた

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牟岐線の木造駅舎紹介2~駅舎への思いを強くさせた駅

中田駅の駅名板

※訪問は2021年8月4日

分岐駅、難読駅として有名

阿波中島駅で戦前からの駅舎とのお別れをしたその足で中田駅へ。今にして思うと、なぜ中田へ足が向いたのか、よく分からない。何かの予感が発動したのか、とにかく結果的には貴重な訪問となった

意表を突いた形の難読駅として有名。私的な感覚だが、難読駅には「元々の漢字が難しい」ものと「簡単な漢字なのに読み方が難しい」の2通りがあって、後者それも小学校低学年レベルでも読み書きできる漢字を使用しているものに価値があると考える。究極の形が「十三」だと思うが、こちらは駅の規模が大きすぎて難読ではなくなっている。普通しか停車しない支線の駅だったら難読駅クイズの常連になっているのになぁ、と思わずにはいられない

中田駅には、かつて小松島線の分岐駅という、もうひとつの顔があった。牟岐線は徳島から南下し、ここ中田から小松島線が分岐していたのだ。駅は1916年(大正5)の開業と歴史は古い。といっても、以前は徳島の船の玄関口だった小松島港へ直結するための、たった1区間、全長1・9キロという超ミニ路線。国鉄末期の1985年に廃線となったが、当時は「日本で一番短い路線」として知られていた

廃線跡は遊歩道として整備されていて簡単に小松島駅跡にたどり着くことができる

貴重な駅名標を撮りに

中田駅に到着。中田に足が向いた理由をあえて探すとなると、この駅名標を撮るため

同駅訪問はこの時、2回目だったが、駅舎に残る古い駅名標の写真を撮っていなかった。上書きされまくっているが、分岐駅だったことを示す貴重な駅名標。かなり古いものだと思われるが、徳島へ向かう際に「そういえば」と思い出して立ち寄った。もちろん、その後に起こることを知る由もない

通勤通学圏で利用者多数

小松島線の分岐としての役割はJR誕生を前に終わったしまったが、徳島まではわずか9・2キロ、列車の所要時間も15~20分と至近で通勤通学圏としては利便性に富むため、無人化されたもののコロナ前には1日の利用者が1000人を超えたこともある

かつての分岐駅の名残で駅前広場は広く、改築されながらも昭和戦前からの駅舎だった

財産票によると1936年(昭和11)からの駅舎。四国の駅はJR移管後、クリーム色を基本に塗装され直されているものが多いが、こちらもそのひとつ

構内踏切を渡ると島式の1面2線ホーム。真夏の青い空に小松島線の分岐の名残である側線が映えていた

そんな中田駅についての報が届いたのは昨年7月のこと。なんと駅舎が解体され、バス停駅舎に変わったというのだ。駅前にはマンションもあって、多数の利用者がいる駅だけにビックリした。訪問から1年も経っていない。雨の日の朝は雨宿りをするだけで大変だろう

と同時に駅舎の存続については全く油断ならないことを痛感。行ける場所であるなら、機会を逃さずに訪れ、記録を残しておかないと、と思った。今年7月にも現地を訪れ、いくつかの駅に降り立ったが、牟岐線の駅舎紹介はその一環である

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