私鉄

わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~終着駅は路線内で唯一千葉市外に

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

片側のみのホームから出発

おゆみ野駅からちはら台駅を目指す

入線してきた電車に乗車するが、改めて眺めると片側だけしか利用されていないホームを覆う上屋は美しくそして立派である。利用状況を考えると、やはり「バブリー」という言葉が浮かんでしまう

3分でちはら台駅に到着

島式ホームで到着した列車は折り返していくが、右側にスペースと線路が見える

スポンサーリンク

ちはら台の由来

このスペースは将来の延伸に備えたもの。2面3線のホームにして優等列車の待避を行う計画だった。「千葉急行電鉄」なので当然、速達列車は走らせることになっていたが、当駅までしか線路がない「暫定開業」では、すべて普通列車で運行せざるを得ず、幻の存在となりつつある

そこには千原線の使用されないホームで見た映画館の広告が

線路は先に伸びているが、もちろん途中で終わっている

駅の位置については駅の案内図が分かりやすい

千葉市から市原市に入ってすぐの場所に所在していることが分かる。といっても徒歩ですぐ千葉市に入ってしまうが、路線内で唯一、千葉市にない駅そして京成電鉄で唯一、市原市にある駅となっている

開業は1995年(平成7)。千葉寺からの延伸で線路はここまでやって来た。92年に千葉寺まで開業した後、延伸が3年もかかったのはJRの外房線をパスするなどの難工事が続いたためだ

そのちはら台は市原市と千葉市にまたがるニュータウン。前記事の「生実(おゆみ)」とは異なり、新しく作られた地名。ひらがなだとピンと来ないかもしれないが、乗車してきた京成千原線の漢字表記を見れば分かる。「千葉」と「市原」にまたがるので「ちはら」となった

市内にある飛び地の駅

1日あたりの利用者数は5991人で千原線5駅(千葉中央のぞく)の中では最も多い。このあたりまで来るとJR外房線ともかなり離れ、代わりに内房線の線路がやって来るが、駅はいずれも遠く、さらには延伸予定だった区間からの利用者もある

改札を出てみる。改札口の前にファミリーマートがある

そして駅舎は各駅で繰り返してきたが、こちらも立派なものだ。奥にマンションが見える。先述した通り、緩急接続も予定していた駅なので力は入っている。コンビニがあるにもかかわらず居並ぶ自販機だけ見ても、1日5000人の利用の駅の規模ではない数だ

大きすぎて入りきらなかったが、右側の部分は

こんな感じ。豪華な柱に支えられている

駅前のロータリーも広々としている。計画的に駅と周辺の開発が行われたことが理解できる。マンションがあり、その向こうには戸建ての住宅も見える

人口26万人で千葉市内はもちろん、都内への通勤もある市原市に所在する駅だが、市内を走るJR路線や小湊鐵道との接続はない飛び地駅となっている。小湊鐵道とつながる予定がつながっていないので当然といえば当然の話だが

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~重厚な高架駅と片側だけ使用のホーム

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

また見る光景

おゆみ野駅に到着。こう見ると普通の風景だが、頭上を見てほしい。「電車が来ます」の文字の下に「千葉中央方面」「ちはら台方面」の文字が見える

これは千葉寺駅でも見たもので、電車が去ると

このような景色が目に入ってくる。ここにも主(レール)のいないホームがある

スポンサーリンク

おゆみ野とは

おゆみ野駅は1995年(平成7)の開業。当時の千葉急行電鉄が大森台~ちはら台を開通させた時に設置された。おゆみ野とは千葉市内のニュータウン。江戸時代に当地を治めていた生実藩が地名の由来。現在はひらがな表記が正式な地名となっている

一帯は市内で最も爆発的に人口が増加した場所で、住居表示もおゆみ野にとどまらずおゆみ野有吉、おゆみ野中央、おゆみ野南と区域が広がる。ただ爆発的に人口が増えた割には当駅の1日の利用者数は5575人とそうでもない。ホームが片側のみで事足りる現実がそれを物語っている。おゆみ野の中心駅は外房線の鎌取駅だ

おゆみ野駅から徒歩約30分に位置する鎌取駅は、JR移管時の1日の利用者数は現在のおゆみ野駅より少なかったが、それこそ爆発的に利用が増え、現在は3万5000人を超える。そのような利用者数を想定していなかったのか、1面2線の島式ホームはラッシュ時は人であふれて社会問題化しているほどだ

こちらは2年前の12月の写真だが、16時前の時間帯でも人がひっきりなしに歩いている。駅前にはイオンとマンションが並ぶ

それに対し、おゆみ野駅の駅前ロータリーは、かなりのどかであるに

高架駅と用地取得時の苦労

ただし駅舎の立派さは鎌取駅に負けていない

バブリーという表現は謹んで重厚という言葉を使うが、外観も凝っている高架駅はまるで新幹線駅のようでもある

千葉急行電鉄の構想はかなり以前からあった。計画したのは小湊鐵道で、五井駅で国鉄(当時)への乗り換えを行う千葉市内や東京方面への乗客をごっそりいただいてしまおうと、海士有木駅から分岐する形で千葉市内へダイレクトに向かう路線の免許を取ったのが1957年のこと。ただ1957年といえば、まだ戦後10年が過ぎたころで沿線には「ごっそり」というほど人口はいない。そもそも五井を含む木更津から蘇我へ向けた内房線が電化されたのは、それから10年以上を経た1968年のこと。まだまだ農村地帯だった

塩漬けにされていた免許が効果を生みそうになってきたのは、さらにその後。70年代終わりごろから、おゆみ野をはじめとするニュータウン開発が始まった。ここが好機と免許を引き継ぐ形で京成電鉄(小湊鐵道は京成グループのひとつ)を中心に第三セクター千葉急行電鉄が結成されて工事が始まったが、用地買収や、まだ山が多かった沿線の工事に時間がかかった。工事中に世の中はバブル時代に突入。各土地代のほか、各駅の規模を見ても分かる通り工事費が高騰。ようやく1992年に開業したころはバブルも終焉しつつあり、経費がかかった分、高めの運賃設定をせざるを得なくなった。その一方、バブル崩壊でニュータウン開発も鈍り、都内へ向かう利便性に勝る蘇我駅や鎌取駅など沿線の客足はJR各駅へと向かい豪華な設備だけが残ることになった

おゆみ野駅の入り口部分。券売機のスペースが多めに確保されていることが分かるが、利用客の数もさることながら、時代はIC乗車に移行していて、券売機を利用するのはチャージ目的ぐらい。券売機のスペースそのものが過去の鉄道遺産になりつつある

「おゆみの」と言われて漢字を想像しろ、と言われて「生実」と答えられる人はほとんどいないなぁ、と思いつつ、終点のちはら台駅へと向かう

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります





<p data-src=

わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~学園前の名前を先にもらった駅の行方

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

早々に駅名が決まったワケ

学園前駅に到着。こちらは交換設備があり、すれ違いが可能な構造となっている。千原線の前身である千葉急行電鉄は1992年(平成4)に千葉中央~大森台を開業させ、大森台以遠は1995年に開業となった。つまり当駅から先は今年で開業20年ということになる

千原線の駅は5駅(千葉中央のぞく)で、うち3駅は、いかにもニュータウンといった駅名がついていて、残る駅は千葉寺そしてここ学園前。千葉寺は名刹の名前であり地名だが、ここ学園前は地名ではない。想像が付くように学園があるから駅名となった。すでに計画段階で駅名は与えられていた

スポンサーリンク

学校は来ずもキャンパス風駅舎

と、このように書いていくと話の行方を推察されてしまうようだが、結果的に当地にやって来るはずの大学は来なかった

駅を降りると、すぐの場所に千葉明徳学園がある

だから駅名としては十分その通りだが、千葉明徳学園は昭和の時代から当地にあり、駅名が付いた際には別の大学の誘致計画が存在した。それが前提の「学園前」だった

ただ大学は来なかったとはいえ、駅舎は

大学のキャンパスと時計台を思わせる豪華なもの

同じ千葉県内のユーカリが丘線には来るはずの女子大が来なかったものの駅名はそのままという女子大駅があるが

利用者数が異なることもあって、こちらは随分かわいい

まさにバブリー

電車を降りて改札に向かう際の眺めだが、ガラス越しに光が降り注ぐ華やかな構造

駅舎を横から見ると、このようになっているが、こちらも美しい。ここまで千葉寺、大森台そして学園前と3駅を紹介してきたが、日常的に私鉄を利用している人がいれば、私鉄の駅舎を思い起こしてほしい。大手の私鉄でも特にターミナル駅や優等列車が停車する駅でない限り、こぢんまりした駅舎が多いものだ。大きめの駅舎を持ち合わせているのは駅舎内に飲食店などの店舗が入居していることがほとんどだ

千原線は普通のみの運行で20分間隔の運行。大手私鉄の路線ではあるものの、単線運行されているぐらいなので幹線扱いではない。各駅の利用者数も3000~5000人台で京成電鉄の全駅では下から数えた方が早いぐらいだ。店舗もコンビニぐらい。利用者数もすっかり死語となった言葉だが、どの駅舎も「バブリー」な豪華駅舎。この後にも残り2つの立派な駅舎が出てくる

幻の学園前誘致となった駅名がそのままの学園前駅だが、学生の利用はもちろん多く、京成電鉄の発表によると2024年度の1日あたりの利用者数は5794人で、ちはら台の5991人に次いで5駅中2位の数字となっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~ユニーク外観に秘めた力内蔵の初期終着駅

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

すれ違い可能な構造

千葉寺駅から隣駅の大森台駅へと向かう。前記事でお伝えしたように、千葉寺駅はホームは2面あるものの1面は使用されておらず、事実上の棒状ホーム。行き先を間違えないよう次に来る列車の行き先が表示される。「経営破綻」「単線棒状ホーム」というワードが並ぶようだが、千葉駅と同じ千葉市中央区にある駅なのだ。都市の規模から、極めて多い数字とはいえないが、千葉寺駅も1日に5000人に近い利用がある。運行は20分間隔なので、上下線兼用のホームには1時間に6本の列車がやって来る

そして2分で大森台駅に到着である

スポンサーリンク

千葉市唯一の「地下駅」

ホームの様子を見て分かる通り、当駅はすれ違い可能な構造だ。そしてもうひとつ感じるのは地下駅の風情。千葉市内の鉄道に地下駅はない。ということで、当駅が唯一の地下駅ということになるのだが、厳密に言うと掘削した場所にホームを設けた半地下のような構造だ

ホームの端の部分を見るとよく分かる。ホームが途切れた場所には陽が降り注ぐ。それでも階段を昇って改札口に出るので、地下駅ということにはなる

そして改札を出た出会う駅舎は

かなりユニークな構造。まさにかまぼこである

道路からやや低い場所に駅舎がある大森台駅は1992年(平成4)の開業。千葉急行電鉄の駅として開業した。千葉中央から当駅までが先行開業ということになり、3年間は終着駅だった。その距離わずか4・2キロで途中駅は千葉寺のみ。結論から言うと95年にちはら台までの全10・9キロが開業。その後、さらに延伸されて小湊鐵道の海士有木(あまありき)駅まで延伸される予定だったが、事業は中断(中止ではなく計画そのものはまだ生きている)。現在の形のまま98年に京成電鉄に引き継がれることとなった。千葉急行電鉄は三セクで京成が株主だったので事業譲渡はスムーズだった。京成千原線のスタートである

駅が持つ秘密の力

このかまぼこ型の駅舎には理由がある。ドーム状の屋根は単に珍しい建物にしようとしていたわけではなく、電気融雪装置が設置されているためだ。私は地元の人間ではないので気候については何も言えないが、いくら半地下構造の駅とはいえ、千葉市内の駅で融雪装置とは、なかなかすごいと思う

駅前は狭くて車を止めるには適していない。それもあってか暫定開業の終点駅という歴史も持ちながら、千原線の5駅(千葉中央のぞく)の中では利用者数は最も少ない3422人(2024年度)

こちらは改札部分。朝の8時前の様子だが、駅を利用する地元の方は20分に1本というダイヤ(8時台は4本)から、時間を合わせて向かってくることもあって人の数は千葉市の他駅の同時刻とは、やや異なるようだ。自動改札機が2台並んでいて、ご覧の通り台数は増やせるようになっているが、しばらくその予定はなさそうである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~豪華な駅舎と列車の来ないホーム

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

外房線と併走した後に到着

千葉中央駅を出た千原線はしばらく外房線と併走する。間もなく車窓にJRの本千葉駅が現れると、外房線をオーバーパスして千葉寺駅へと到着する

これは乗車した電車が出発する場面だが、出発を待つかのようにお客さんがホームに昇ってくる。駆け込み乗車をいる様子はなく、確信を持ってホームに来ている

スポンサーリンク

駅名標だけの主役の来ないホーム

その理由は電車が去るとすぐに分かる

向かいにはレールのないホーム

角度を変えるとこのような感じ

映画館の広告と駅名標があるだけ。上屋の構造は立派だが、鉄道の主役たる列車は来ない。この光景こそが千原線を象徴、代弁するものだ

駅のホームが棒状化しているのだから、線路はもちろん単線。千葉市中心部と直結する路線ながら、単線なのである。ただ付け加えると、複線化できるように用地は確保されている。つまり複線化に備えて施設を設けながら、活用されないまま30年以上が経過しているという事実を持つ。地方のローカル線に乗車すると、かつてのすれ違い可能駅が棒状化された場面に普通に出くわすが、ここは「複線化できるのにされていない」路線である

駅名は名刹から

開業は1992年(平成4)の4月1日。千葉中央~大森台の2区間4・2キロが開通した際に設置された。駅名は名刹千葉寺と周辺の地名から

「せんようじ」という読み方があることを初めて知った。名刹とあって駅も含め、周辺の住居表示も千葉寺で、もちろん「ちばでら」である

駅の目につく場所に棒状ホームだという注意書きがいくつか見られる

もちろん未使用ホームには入れないようになっているが、初めて駅を訪れる人(がどれぐらいの割合でいるのかは分からないが)は、棒状ホームに驚くのではないか。千葉中央駅から1駅目なのだ

この記事を読んでいらっしゃる方には普通のことだが、鉄道に興味のない都会育ちの都会暮らしの方はローカル線で走る単行運転車両に度肝を抜かれるという。もっと言うと、駅というのは2つのホームがあるものだと信じているところさえある

そもそも駅そのものが

このように立派な構造だからだ。改札口に入るとホームが上り下りを共有しているとは、とても思えない。建設に当たったのは鉄建公団。駅だけでなく線路の構造も含め「ほー」と感じるものばかりだ

利用者数が…

千葉寺駅の1日の利用者数は4736人。さすがに人口98万人の千葉市の中心部にある駅とあって、数百人というわけではない。ただ付近の駅と比べると、その差は歴然

JRの蘇我駅だ。従来からの外房線と内房線の分岐であることに加え、国鉄末期からの京葉線延伸で主要駅となった。単純な距離だと1キロほど。どちらも利用できる人で都内を目指すなら、蘇我駅を選ぶ。蘇我駅の1日あたりの利用者は6万人を超える

千葉大学病院から千葉寺駅を通って蘇我駅に至る路線バスもあり、朝のラッシュ時には1時間に4本、昼間も2本のバスが運行されている。運行するのは京成グループの小湊鉄道と京成バス

駅前のロータリーは計画的に造られたもののようだが、バス停に屋根はなかった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~朝の千葉駅から

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

季節感合わずに約1年待機

時系列としてはこの記事の翌日となる

そのうち記事化と思っていたら、あっという間に季節が巡り、季節感が合わなくなってしまったと思っているうちに1年近くが経ち、また冬がやって来てしまった。この時にお世話になった「サンキュー♥ちばフリーパス」を今冬も利用しようと思っているので駆け込み更新。1年近く前の話なので情報に変化があれば、ご容赦ください

スポンサーリンク

100万都市直結にもかかわらず

スタートは朝7時過ぎの京成千葉駅。都心へと向かう人の流れはすでに始まっているが、千葉駅付近に通勤通学する人の姿は少なく、隣接するJRの千葉駅の活気に比べると様子は異なる。駅の状況を説明すると、当駅から都心へ向かうには京成千葉線に乗車して京成津田沼駅での乗り換えが必要。千葉線は普通のみの運行で、朝の時間帯は直通の京成上野行きも出ているが、普通なので上野まで1時間以上もかかる。そのまま都心まで乗車する人はほとんどいないだろう。つまり都内への利用者は圧倒的にJRの利用である。そのあたりの背景も考慮しながら、この後の記事を読んでいただきたい

こちらは京成千葉駅のホーム。向かいの京成津田沼へと向かう乗り場はすでに人の列ができ始めているが、千葉中央方面へのホームは逆方向とあって人もまばらだ

私が乗車するのは千葉中央を経てちはら台駅へと向かう京成千原線。厳密に言うと千原線の起点駅は千葉中央だが、すべての列車が京成津田沼とを直通で結んでいる。京成千葉と千葉中央の駅間はわずか600メートルで歩いても行ける距離。帳簿上は千葉中央が千葉線の終点であり、千原線の起点駅。なぜ千葉市の都心部に2つの京成の駅があるのかについてはJR(国鉄)も含めた歴史的経緯があるが、長くなるので今回は割愛して目的の電車に乗ろう。今から乗車するのは京成千原線。人口98万人と、ほぼ100万都市と直結する路線ながら、前身の会社がわずか6年で破綻した千葉急行電鉄を引き継いだ路線である

破綻当時は千葉市の人口はまだ90万人程度だったが、それにしても東京まで通勤圏内の県庁所在地駅から直接乗れるたった11キロの路線が平成になって開業から6年で破綻というのは、ちょっと考えられない。正確に言うと、1992年(平成4)に部分開業。95年に現在の形となってからわずか3年での破綻である。以前から1度訪れてみたいと思っていたので、京成が参加したサンキューパスはちょうど良い機会となった。各駅を巡ってみることにした

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

弘南鉄道弘南線を行く~13駅中11駅訪問の振り返りとおわび

※訪問は2025年7月11日

今も「営業中」の東急百貨店

弘南線の車中で

渋谷の東急百貨店本店は2年前に閉店となったが、こちらではまだ「営業中」である

まだギリギリ昭和である1988年にこの地にやって来た東急車輌。青森の地での生活は40年近くになり、東急で走っていた期間より、こちらで走る時間の方がすでに長くなっている

スポンサーリンク

冷房なしに気付くのが遅れた

各駅訪問も終わりに近づいたころ、ふと見上げると

扇風機が元気に回っている。ここで車両が「非冷房車」であることに気付いた

こちらの記事でも紹介したが、私の訪問時、青森県はどこも涼しく、早朝から始めた大鰐線の残り駅回収時、弘前から大鰐温泉へ向かったJRの車内の高校生には長袖のカーディガンやジャージーを羽織る姿も見られたほど。たまたま私が訪れた時に数日間涼しい日があっただけだと後に知るのだが、考えてみると3月の大鰐線訪問の際も自分の身長よりも高く雪が積もっていた場所があったにもかかわらず、最高気温13度と実に穏やかだった。春先そして7月と奇跡的といっていいほど気候に恵まれた

大鰐線との違いを知る

もともと弘南鉄道として昭和初期にSLの走る非電化路線としてスタートした弘南線と、戦後に誕生した弘前電気鉄道を譲り受ける形でスタートした大鰐線。多くの人は「弘南鉄道には2つの路線があるのだな」程度の認識かもしれないし、事実私も長年そのように思っていたが、乗車してみると全く異なる。特に途中駅の施設が違う。貨物輸送も担っていた弘南線と旅客輸送に特化していた大鰐線とのコントラストが、施設の違いにも現れている。また平賀、尾上といった鉄道空白を埋めるべく昭和初期に当地へのアクセスが急務としてスタートした弘南線と奥羽本線の本数不足もあって、それに対抗するように奥羽本線と並行する路線として敷設されることになった弘前電気鉄道(当初は板柳まで延伸される予定だったが断念)とは、歴史的な使命が異なる

長らく終着駅だった津軽尾上

4階建てのビルとなった平賀駅など、町と鉄道の密接な関係がよく分かる

2駅積み残し

さて今回の訪問では尾上高校前、運動公園前の2駅が未訪問となった。いずれも新駅で尾上高校前に至っては平成生まれだ。16時前に弘前駅に戻ってきたので、日の長い7月上旬のこと。訪問は可能だったが、あえて見送ることにした。行きたい店があったこともあるが、残すことによって再訪問の理由を作りたかったのだ。関西から弘前への距離やアクセスは、なかなか遠く、現実的にお金もかかる。訪問にあたってのモチベーションがほしいところだ。また大鰐線にもう一度乗っておきたい。フリーきっぷである「大黒様きっぷ」は両路線共通なので問題ない

そんなことを考えていたら、おわびをしなければならないことになった

館田駅である

難読と古典的な駅舎という強く印象に残った駅であるが、実は11月13日に弘南鉄道から「建て替え工事」が発表されていた。弘南鉄道のHPにも掲載されている。それによると11月20日から工事が始まり、来年7月中旬ごろまで続けられるという。「平川市地域づくり活動拠点施設建設に伴う駅舎の建替え工事」とあり、工事期間の長さを見ても、それなりの規模の工事のようである

私が当駅の記事を記したのは11月22日で、すでに工事は始まっていて、まさに直後だったことになる。情報を見落としていたことについて、おわびしなければならない

ただ全く私的な事情を言わせてもらえるならば、7月の訪問直後に館田駅を記事にしていたら、駅舎建て替えには全く気付かず、今後当地を再訪問してもスルーしていた可能性が高い。読者の皆さまには誠に申し訳ないのですが、またひとつ弘南鉄道乗車のモチベーションが増えたことには、ちょっと喜びを感じたりしています

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

弘南鉄道弘南線を行く~旧駅舎の面影を忘れない気遣いに感動そしてSL

※訪問は2025年7月11日

新駅舎になって十数年

あらためて新里駅。見て分かる通り、駅舎を介さずともホームに入れるようになっている。つまりは無人駅だが、立派な構造だ。2011年(平成23)から使用されている。まだピカピカの新駅の雰囲気が残っている

スポンサーリンク

開業時は豊田村

開業は1927年(昭和2)に設置された。当時は豊田村に所在して1955年から弘前市。駅名は明治の町村制施行で豊田村が発足する前からあった新里村に由来する

新里の地名は今も現役で、駅から徒歩で10分ほど歩いたあたりに集落が広がる。館田駅からの徒歩で付近を歩いてきたはずだが、全く記憶にない。ついでに言うと駅名標にある病院の前を歩いてきたばずだか、こちらも記憶に残っていない。地図を見ると、かなり大きな病院で、それすらも記憶にないのは、どうも歩き始めた最初の悪路ばかりが印象に残っているらしく、集落の道に出るとホッとしてしまったようだ

駅は停留所扱いでスタートしたが、戦後に電化そして黒石までの全線開通後に駅となり、貨物の扱いも始まった

駅舎に入る。ご覧の通り、新しい駅舎に新しいお手洗いも設置されている

こちらはきれいに清掃された駅舎内の様子。新駅舎ができた時は無人化されて久しかったはずだが、窓口も設置されている

駅舎内にはかつての駅の様子などの写真が張られていて

見比べると、現在の駅舎は旧駅舎をモチーフにして建て直されたことが分かる。駅舎が変わると、すっかり簡易的なものに変わってしまったり、駅舎そのものがなくなってしまうのが現在の流れだが、紡いできた歴史や街のシンボルとしての位置付けが残されていることにちょっと感動した

駅前のSL

駅前で目を引くのは静態保存されているSLの存在だ

何も知らずにやって来た私もビックリしたのだが、調べるとかつて五能線で走っていてSL末期の1973年(昭和48)3月31日まで現役生活を続けていたもの。私はSLについての知識はないに等しいが、鰺ヶ沢町に保存されていた車体が、2011年11月の新里駅新駅舎誕生と時を同じくして五能線活性化倶楽部から寄進されたものだという

駅舎内の写真は五能線時代の雄姿だ

島式1面2線のホームから、おそらく貨物ヤードがあった場所に展示されているSLの姿がよく目立つ。当駅は日中に列車交換が行われる隣駅の館田とは対照的に朝の通勤通学帯に列車交換が行われる

ホーム側から駅舎を眺める。構内踏切を経て入る形になっているが、構内踏切をできるだけ経ないように駅舎と逆側ホームのみを利用する運用は行われておらず、黒石行き、弘前行きは決まったホームから発着する

こちらはホームから出発する黒石行き。こちらには乗車せず、館田で列車交換を行って間もなくやって来る弘前行きに乗車する。SLと並ぶ姿が美しかった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

弘南鉄道弘南線を行く~時刻表の壁によって盛夏の中をまたもや1区間歩くことに

※訪問は2025年7月11日

館田駅では必ず

これは地元の高校によるラッピング列車で館田駅に到着した時のもよう。普通の到着風景だが、写真の左端あたりを見てほしい。列車が小さく写っている。想像に難くない。館田駅で交換して去っていく列車の姿である。列車同士のすれ違いは単線の路線では普通にある光景で、取り立てるほどのものではないかもしれないが、効率良い各駅訪問という観点からすると、ちょっとした「壁」になってしまうのだ

スポンサーリンク

下車すると必ず1時間待ち

弘南線は起点、終点以外の途中駅では4駅が交換可能駅となっているが、昼間の時間帯はすべての列車が館田駅で交換を行う。JRのローカル線のような、いわゆる「バカ停車」と呼ばれる長時間の停車は総距離17キロの私鉄ではあり得ないので、どちらに向かう列車も、ほぼ同時刻にやって来て、同時刻に去っていく。これはどういうことかというと、数十秒で駅のあちらこちらの写真を撮り終えるのはとても無理なので、弘南線のような1時間に1本のダイヤでは、必然的にその駅で1時間待たされることとなる

実は同じ弘南鉄道では津軽大沢駅がこれにあたり、3月の訪問では下車をあきらめ、今回の訪問では早朝の列車の多い時間に最優先で下車した。津軽大沢は駅としての利用者は多くはないが、車庫も備えた駅である。弘南線では、お隣の平賀駅が本社も車庫も備えている終日駅員配置駅だが、構内の脱線事故があった影響で、運用については事実上、単線扱いとしている。列車交換の役割はここ館田駅だ

ただ、わざわざ神戸から、ここ弘前までやって来たのだ。ここで1時間の滞留というのは時間のロスが大きい。さらにもうひとつ個人的に行きたい店がこの後、弘前市内で待っていて、おそらくあと1駅で本日は打ち止めとなりそうだ

ちなみに館田駅とお隣の新里駅までの距離は1・6キロ(ちなみに平賀駅までは2・3キロ)。ということは

本日4度目の徒歩移動

ということになる。黒石と境松でしたように、次の列車までの1時間で移動すれば良いのだ。これは柏農高校前駅あたりで決めたのだが、地図を見てショックを受けてしまった

平川を渡れず、迂回ルートになってしまうのだ。平川は弘前市と平川市の境界となる川で、過去にも川によって大回りの徒歩を強いられたことがあるが、やむを得ない。とにかく1時間以内でたどり着けば良いので歩こう

天候には恵まれたがイヤな予感

この日は大鰐線の弘南下から弘南線の弘前東高前に始まって4回目の駅間徒歩移動。7月の徒歩移動などは年寄りには暑すぎて基本的には行わないが、この日の弘前は最高気温26度。そういえば前日の津軽線訪問も同じぐらいの気候で猛暑という感じではなかった。しかもホテルは連泊ということで、ほぼ手ぶらむーという軽装。これならホイホイ歩ける

地図と照らし合わせていただけると分かるが、しばらくは線路と並行した道路を行く。やがて平川の手前で行き止まりとなり線路の下をもぐる形で右折。川沿いに道路まで北上することになるが、ここまでは雲がかかる岩木山を眺めながら良い気分だった

ところが

川沿いの道は舗装もされておらず、コーンが置かれていて左に見える景色から、どう見ても工事中。ふだんから未舗装なのか、工事で未舗装なのかは分からないが、少なくとも車は通れない状態となっているようだ。というのこの先で未舗装道路の上で大きな重機が道を塞ぐ形で工事を行っている

いやいや、ここまで来て引き返したり、さらに遠回りするのは悲惨だ。というか、やってない。おそるおそる重機の手前まで行くと作業中の方が私に気付いてくれ、1度重機を止めて「どうぞ」と通してくれた。作業中の手を止めて失礼しました。まさか駅訪問の鉄オタとは思ってもいないだろうけど

ようやく橋が見えてきた

歩道はないが、これは渡る以外に選択肢はない

ただ随分と車の量が少ないなと思ったら、並行してもう1本の道路橋があった。新道と旧道の関係なのか

やがて道路を左に折れて、ようやく到着

歩き始めてちょうど30分。時間としては大したことはないが、工事中にはヒヤヒヤした。とにもかくにも気候に恵まれて良かった。さすが北国と思っていたら、後にX(旧ツイッター)の弘前のフォロワーさんから「お越しになられた時は一瞬、涼しくなった時で、前後は最高気温35度でした」との言葉をいただいた。つまりは大変な強運だったのである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

弘南鉄道弘南線を行く~渋い駅舎が残る駅は引っかけクイズのような難読地名

※訪問は2025年7月11日

平賀の隣駅で弘前市との境界近く

館田駅にやってきた。車両は地元の高校によるラッピング列車

黒石側から見ると、黒石市、平川市と進んできた弘南線は当駅を過ぎると間もなく市境となる平川を渡り、弘前市となる。いわば市境の駅だ

スポンサーリンク

パッと見て駅名読めますか?

なかなか渋い駅舎が出迎えてくれる。当駅は1927年(昭和2)の開業。弘南鉄道が弘南弘前(現弘前)から津軽尾上まで開業した際に設置された弘南線の一期生である。駅舎はいつのものからかは分からないが、おそらく開業時からのものと思われる。そして何よりも駅名だ

ホーム側から見た駅舎に駅名標が掲げられるという特殊な構造により、答えは分かってしまうが、「館田」と書いて「たちた」と読むが、これは難易度が高い。あくまでも私的な推測だが、あまりの難読ぶりに、ここに駅名標を掲げたのではないか

ちなみにホームの駅名標はこちら。ローマ字、中国語、ハングルも含め「たちた」である。「たちだ」ではなく「たちた」というのも難読ポイント

またパッと見て「舘田だな」と思い込んで「たちた」と答えた方は正解だが、その場合は文字は「舘」となる。こちらは「館」である。今は人名を手書きすることがほとんどないので間違うことはほとんどないが、ワープロすらも登場していないころは俳優の舘ひろしさん、アナウンサーの古舘伊知郎さんを手で書く際は「館」と書いてしまう人が多かったが、逆の現象だ

そもそも路線内には村名に基づく「田舎館駅」がある。当該記事でも記したが、大館、角館など東北地方には「館」を「だて」と読む地名が多い。それに基づいて「だてだ」と読んでしまう人もいるかもしれない。すぐ近くに「だて」と読ませる駅を置いておいて、こちらは異なる読みという巧妙な引っかけ問題にもなっている(当然だが、そのようなことを考えて駅は設置していない)

一部が消えた駅舎

島式ホームのかたわらには側線そしてホーム跡が残る。貨物ホーム跡のようだ。当駅も昭和の終わりごろまで貨物扱いを行っていて、まだ40年ほど前の話。今は宅地になっているようだが、かつてのホームの上が新しい宅地という構造もなかなか分かりやすい。住んでいる方にその認識はあるのだろうか

こちらは駅舎の中。ベニヤで覆われた部分がきっぷ売り場と改札口だったのだろう。無人化されてまだ20年ほどなので跡がくっきり分かる

そしてこちらが駅舎の外観

駅舎の入口は正面を向いているのではなく線路と並行方向を向いている。JRも含め、たまに見かける構造だが、どちらかというと少数派。駅正面に広場が作りにくい場合にこのような構造になるが、写真で見た限りは駅正面に十分な空白がある。ちょっと不思議な感じもするが、実は駅舎右側の草むらになっている部分もかつては駅舎だったのだ。駅で働く人のためだったのだろう。2階建ての立派な建物だったが、無人化された後に撤去された。少し前の写真を見ると分かりやすい。それが横向きの出入口の理由である

難読の駅名から駅の構造、風格ともに強く印象に残る駅だった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=