私鉄

貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その4 三岐線の運行をつかさどる中枢駅

保々駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

懐かしい列車

山城駅の次の訪問は保々(ほぼ)駅だが、その際にやって来た電車が

懐かしい塗装の西武車両。おそらく西武の701系。私は1982年春に大学生になった時から4年間、西武新宿線沿線で暮らしたが、今でこそ「赤電」復元塗装としてウリになっているものの、当時はまだ西武線は完全冷房化となっておらず、真夏に赤電(そのような愛称は当然知らない)がやって来ると「わぁ~、これかぁ」と思ったものだ

昭和41年生まれというから間もなく60歳。元気に走り続けているが、三岐鉄道ではこのほどJR東海から211系を大量に導入。間もなくデビューする予定となっている

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車両区にはさまざまな電車

保々駅が近づいてくると車窓には車両基地が現れ、さまざまな電車が目の保養になる

客車だげでなく三岐線らしく機関車の姿も見える

グーグル地図でも線路を表す線が多く描かれていて規模の大きい駅だということが分かる

ホームを降りると、まず目につくのは三岐線のコントロールセンター。当駅は車両区と運転区を備える路線の中枢駅。乗務員の交代も行われ、当駅止まりの運行のみならず、先に行く電車の車両そのものの交代もある

もともとは保々村

当駅は1931年(昭和6)の開業。富田~東藤原が7月に開業した際、途中駅として設置された(同年12月に終点の西藤原までが開業)。当時は保々村に所在した。「保」とは平安時代の公領にある行政の単位をだそうで、明治の町村制施行の際、複数の村つまり保が集まって新たに誕生した村ということで名付けられた。1957年から四日市市となった

運転区や車両区も備わっている駅としては、駅舎はそれほど大きくはない。ただし2023年の1日あたりの利用者数は824人。近鉄富田駅をのぞくと、これは暁学園前に次ぐ路線内2位の数字である

駅名板は駅舎入口にぶら下げられる形になっていて、これは独特

駅前の周辺案内図は保々地区を描いたもの。近鉄富田から朝明川に沿うように西向きに進んできた三岐線が、ここから弧を描くように北上し朝明川を渡ることがよく分かり、当駅に車両区が設けられている理由が分かりやすい。大雨の時、三岐線は朝明川を渡ることなく保々で折り返すことがある

ホームと駅舎は構内踏切で結ばれていて、当駅始発の列車はどちらのホームからも出発できるようになっているほか、貨物車が旅客車を待避できるよう貨物専用の線路も設けられている

本日はここまで。三岐線は少ししか回れなかったが、一度帰宅してまたこの後の駅を回収することにしよう

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その3 原則的にはほぼ全駅が有人駅

山城駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

読みは「やまじょう」

山城駅にやって来た。ご覧のように読みは「やまじょう」である。当駅の駅舎は路線内の他駅とは、やや異なる雰囲気を持っている

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火災から復活

ホームの先にある構内踏切を渡って駅舎に向かうが、見た目は新しく、かといって前記事の大安駅のように豪華というわけでもない

当駅は1931年(昭和6)の開業。どう見ても当時からの建築物とは言えないが、これは火災に遭ったためである

2014年4月に当駅で不審火が発生。当時すでにコンクリート駅舎となっていたため全焼は免れたが、駅舎の半分ほどが延焼。周辺では他にも不審火があったようで、酷い話である。駅舎はその後、建て替えられたもの

山城駅のかつての所在地は下野(しもの)村。1954年の合併で四日市市となった。駅名はかつてあったお城が地域名となっていたことに基づく

織田信長に滅ばされた城址があったが、三岐線建設の際、中心部が鉄道用地となったため分断される形になっているという

新旧が混じり合う

駅前にはバスの停留所が並ぶ

かつては当駅にバスの車庫があり、華やかな雰囲気があったというが、現在も始終着としての役割を担う。イオンモールを経て北勢線の東員駅に向かうバスもある。地図だと並行して走っているように見える三岐線と北勢線だが、この間を結ぶバス路線は複数あるため、バスを利用しての両路線訪問も頭に入れておきたいところである

待合室は鉄道、バス共通のものとなっていてエアコンも備えられている

こちらは改札口

こちらはフリーパス(現在のものと異なる)の裏側だが、有人駅は黒い丸で表示されている。これで分かる通り、北勢線とは異なり、三岐線は1つの駅を除いてすべて有人駅。もちろん営業時間外で無人の時間帯もあるが、きっぷ販売や定期販売だけでなく改札も行う。現在は都心の大手私鉄の駅でも無人駅が目立つ時代である。そんな中、旅客扱いをしている全15駅中14駅と、ほぼすべての駅が有人というのは、地方の私鉄としては貴重な存在である。ただこうなると、無人となっているたった1つの駅はどんなところだ、というのが気になるところだが、そのあたりは当該記事でお伝えしたい

火災によって大きな被害を受けた山城駅だが、構内踏切の手前には、このようなクラシックな案内も残る。なかなか味のある駅だといえる

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その2 図書館併設の駅には駅名標が並ぶ

大安駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

最初の駅は立派な造り

記念すべき三岐線の最初の下車駅は大安。漢字だけ見ると「たいあん」と読んでしまうかもしれないが「だいあん」である。歴史ある駅が多いイメージの三岐線だが、単式ホームながらも当駅には降りた時から新しさが漂っている

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三岐の岐は岐阜県の意味

当駅は1931年(昭和6)の開業。三岐線は富田~東藤原が同年7月に開業して同年12月に西藤原までが開業して、ほぼ現在の姿となったが、当初の予定とは違って、今もこの形だ。路線名でおおよその察しはつくが「三」は三重県、「岐」は岐阜県からそれぞれ1文字ずつとったもの。このまま県境の山深い地域を貫いて関ヶ原方面まで敷設されるはずだったが、結果的に西藤原以遠の工事は行われず、早々の1937年に敷設のための鉄道免許が失効。岐阜県に入ることなく路線名だけに岐阜の文字が残った。新たに敷設されたのは戦後に設けられた近鉄富田駅へのわずか1キロの連絡線のみである

このような例は全国にもあり国鉄では越前(福井県)と美濃(岐阜県)を結ぶ予定だった越美線は県境を越えることなく越美北線と越美南線(現長良川鉄道)に分かれたまま終わっているし、山陽地方には行かず兵庫県で完結している山陽電車もある

当駅は最初の開業時に誕生し、当時の所属自治体は梅戸井村。梅戸井駅は今も隣駅として存在するが、駅名となった大安はまだ自治体名としてはなかった。開業時の駅名は地域に基づいて大井田駅だった。その後、1959年に梅戸井村と三里村が合併して大安町が成立。当地がかつて奈良の大安寺の寺領だったことに由来する

一方で駅名はそのまま大井田のままだったが、1986年に現在の駅舎が新たに建てられた際に大安町が建設費を出資して駅名変更となった

大きな駅舎は図書館が併設されている

きっぷ売り場があって、その奥が図書館。大安町は平成の大合併でいなべ市となるが、駅舎が誕生した際は、もちろん大安町の図書館

観光協会も入居している

旧大安町の代表駅

大安町の成立後は、当駅が代表駅の役割を担うようになった

大井田城跡を経て旧大安町役場(現大安支所)の役場の最寄り

駅前の周辺案内図は大安町時代のものが、そのまま残されている

駅へと戻る。窓口の営業時間はかなり長い

駅舎の待合室機能も充実している。そして下車した時にまず思ったのが

かなり「これでもか」と並んでいるホーローの縦型駅名標。まるで北海道の駅のようである。新旧の駅舎が並んでいるのが三岐線の魅力でもある

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その1 桑名から富田へ移動

近鉄富田駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

桑名から富田へ移動

三岐鉄道北勢線の西桑名駅へと戻ってきた。北勢線の全駅訪問は次回へ持ち越しとして近鉄に乗り換え、近鉄富田駅へと移動して少し三岐鉄道三岐線に乗車することにする

いかにもハンパな行動だが、理由はひとつでお腹がすいたから。北勢線沿線の駅近くで飲食店を探す気力が今ひとつなかった。今日は最終的には津からひのとりで大阪へと戻る予定なので近鉄で南下することにした

桑名駅にあるレストランで桑名らしいハマグリ入りの天丼を食べて元気も復活。1日乗車券を持ったまま、近鉄富田駅へと移動した

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駅も様変わり

近鉄富田駅に到着。桑名からは急行だと1駅、普通で4駅だが10分ほどで到着する。当駅に来たのは2022年3月以来なので2年半ぶり。何か前回と違うな、と思って当時の写真を探すと

衣替えが行われたようだ。変わったことといえば

特急券売り場があった場所はシャッターが降ろされている

訪問の2カ月前に閉鎖されたらしい。前回の訪問時にここで近鉄特急のきっぷを購入したことを覚えているが、偶然ながら私もその後、近鉄特急についてはネット予約&購入にシフトしている。近鉄においても、特急は停車せずとも利用の多い駅では窓口で特急券を販売していた時代は終わったのだな、と感じてしまう

ちなみに前回はJRの富田駅から5分ほど歩いてやって来た

実はこれも三岐線と密接な関係があるのだが、それは当該記事で振り返りたいと思う。ひとつ言えるのは、三岐線は1931年(昭和6)の開業以来ずっと独立した私鉄路線でありながら貨物列車も走り続けている貴重な存在だということ

フリーきっぷに注意

ここで朝から使用してきた1日乗車券を取り出す

北勢線、三岐線で共通の乗り放題パスとなっていて、直接の接続のないそれぞれ独立した路線ながら、どちらをどのように乗車しても良い形になっていて、私はこの日のほかにも12月に再び当地を訪れて両路線を乗りまくったが、こちらはすでに過去のものとなっている

北勢線では3月からICOCAシステムを導入。このため三岐線と北勢線では別々のフリーパスが必要となった。料金はともに1200円。つまりこの時の私のように1枚のフリーパスで2路線は乗れない。三岐鉄道HPによるとICOCAシステムへの加入が必要なようだ。ちなみに11月の訪問時の私は、このシステム変更について全く知らなかった。発表前だったのか、発表後だったのかも定かではないが、とにかく偶然ながらギリギリ滑り込んだことになる

さっそくホームへと向かうと三岐線の列車が待っていた。近鉄富田駅は2面3線構造で1、2番線を近鉄が、3番線を三岐線が利用するが、近鉄は標準軌、三岐線は狭軌のため両線の列車が相互乗り入れすることはない。三岐線については旅客輸送の始発駅となっているに過ぎない。「旅客輸送の始発駅」というのが三岐線の特徴を表してもいるのだが、それについても今後の記事で触れる

三岐線ではIC乗車ができない旨が駅とホームのあたらこちらで案内されていてホームには乗り換え用のICリーダーも設置されている。見ていると地元の方々は何の違和感もなくリーダーにタッチしている。地方路線や三セクなどでもよく見かける光景だが、初体験の都会の方は戸惑うかもしれない

ホームの前には路線図と全駅紹介。当駅を除くと14駅。もちろん今日一日では終わらないが、まずは出発しよう

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大糸線全40駅を訪問するお話~雪景色から半年後は残暑というより猛暑

※訪問は2024年9月9、10日

屋代高校前駅からスタート

9月9日の朝8時すぎ。私はしなの鉄道の屋代高校前駅にいた

月曜の朝なので

ちょうど通学時間帯となったため、電車が到着するとホームは高校生で埋め尽くされる。長野県の友人宅を訪問すると、いつもこの駅まで送ってもらうのだが、通学時間帯の訪問は初めて。しなの鉄道は三セクの優良企業なのだが、このような光景を見ると納得する。私は逆方向の篠ノ井方面行きホームにいたが、こちらはこれから長野市内へと通勤する人でにぎわう。しなの鉄道の路線はお隣の篠ノ井までだが、列車は長野駅まで運行される

今日はここから松本経由で大糸線の各駅訪問を行い、そのまま大糸線増便バスで糸魚川まで抜ける予定だ

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18きっぷのルール変更を先取り?

9月の声を聞いて10日近くが経つというのに、この日も朝から猛烈に暑い日だった。この記事を書いている傍らのテレビでは全国を覆う寒波と豪雪のニュースが繰り返し流れていて、季節は真逆になってしまった。季節に合わないと秋以降、記事化を先送りしてきた。その間、前回までお伝えしてきた「サンキュー♥ちばフリーパス」や阪神淡路大震災と加古川線のように、先に伝えなければいけないことが多かったのも事実ではあるが、そろそろ記憶も薄れてマズい。結局は寒波の中での振り返りとなってしまった

時系列から振り返ろう。長野入りしたのは前日の8日

中央西線で最後に1駅だけ残った日出塩を訪問。その足で塩尻から篠ノ井へと向かい、篠ノ井駅まで友人に迎えに来てもらった。昨夏の青春18きっぷの使用期限は9月10日までで8日の時点で残り3回分の権利があった。つまり3日連続の使用である。この時はまだ18きっぷのルール変更は発表されていなかったが、知らず知らずのうちにルール変更に対応していたことになる

ただ何か予感が働いていたわけではなく、もともとあまりの暑さに夏の18きっぷは購入をやめようと思っていたところに、9日から友人の元を訪れることが決まり、だったら買いましょうとなった次第。最初の2日分は中央西線に充て、最後の3日間は大糸線から増便バスに乗ることを決めた。もっとも3連投の初日は春日井からスタート(名古屋市内のホテルが空いていなかつた)。篠ノ井での待ち合わせ時間を考慮すると中津川から特急でのワープ作戦を使わざるを得なかったため、18きっぷ1日あたりの料金とを考えると「元本割れ」となってしまった(ただし残る4日で大幅に元はとっている)

半年前とは全く異なる松本駅へ

屋代高校前駅では篠ノ井までの1区間だけのきっぷを購入。改札でそのきっぷを手渡すと同時に4回目のハンコをもらい、ホームへと逆戻り

トコトコと篠ノ井線を走り松本に到着。屋代高校前のホームに立ってから2時間近くが経過していた

ホームからアルプス口を見る。半年前は3月だというのに松本駅前は積雪に見舞われていて、足下のおぼつかない中、北松本駅まで歩いた。まさに真逆の季節。ここから大糸線各駅の回収をスタートさせる。好天で足下を心配する必要もなさそうだが、これだけ暑いと、いくら足下は良くても前回のように1駅徒歩とかは絶対に無理である

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その6 まとめ「瞬時に運賃も回収でき楽しい半日でした」

※訪問は2025年1月15日

千葉駅まで移動してきた

新鎌ケ谷で再び新京成に乗り換え千葉まで移動。初めて千葉駅北口で降りてみた(写真は翌朝のもの)。千葉駅といえば多くの人が足早に移動するイメージがあったが、あまりにも静かな場所でちょっと驚く。最近、チェーン店ホテルはこのような場所に建てられることが多い

こちらは印旛日本医大駅の運賃表。千葉駅まで成田湯川駅から頻発しているバスで成田駅まで行っての道程もチラリ頭をよぎったが、サンキュー♥ちばフリーパスを使えば「タダ」なのだから、ここは一度新鎌ケ谷まで出て新京成線経由で千葉へと向かうことにした

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高額運賃の都市伝説

今回、北総鉄道と成田空港スカイアクセス線で下車した駅は千葉ニュータウン中央以東の4駅。新鎌ヶ谷を起点なしているので、2日間乗り放題で3970円というサンキューパスの1日のノルマである2000円をこの区間だけで軽く回収できたことになる

北総鉄道の高額運賃を巡る逸話は関西に住む私でも度々耳にしていた。定期代が10万円もするため「財布は落としても定期は落とすな」。子どもの通学定期代が家計に負担となるため「電車通学でなく市自転車通学」「子どもが高校進学のタイミングで転居」などなど。都市伝説なのか実話なのかは分からないが、あまりの高額に民事裁判が起きたり、沿線自治体の首長が運賃値下げの依頼を公言したのは事実である

都内で勤務する私と同じ年の友人がいた。結婚と同時に千葉に居を構え、子どもができたタイミングで賃貸から持ち家への移行を考えた。30年ほど前の話だ。都心まで1本、一軒家の価格としては手頃ということで北総鉄道沿線へ転居することを考えたが、自分は会社からの定期があるからいいものの、家族がちょっと移動するだけで何かとお金がかかるし、それこそ子どもが都内の学校へ進学したら大変だと断念。千葉市郊外のマンションとした。その際、千葉に長らく住む親族の言葉がダメ押しになったという。「あの鉄道そのものが、いつまであるか分からんぞ」

運賃が高いどうこうより、当時はそのように見ていた人も地元にはいたというエピソードである

現実に当時の千葉ニュータウンの状況を見ると、当初は34万人を見込んでいた人口が増えず、半分に下方修正したものの、それでも伸び悩み、現在もそこまで至っていない。北総鉄道の業績が上がらない要因のひとつとなっていた。また建設に伴う土地取得がバブル期と重なってしまったため、建設費がかさみ2000年には累積赤字が400億円超まで膨らんだ。また小室以東の千葉ニュータウン鉄道が第三種鉄道事業者になっている部分で、北総鉄道が千葉ニュータウン鉄道に支払う線路使用料が年間25億円にもなることも高額運賃の理由とされた。成田空港スカイアクセス線の開業後、京成電鉄が千葉ニュータウン鉄道に支払う使用料が4億円にも満たなかったことで批判も受けた。25億円という金額の設定については、当初は利用客の少なかった路線の運賃収入をすべて使用料とする、いわば弱者救済のシステムだったが、利用が増えるとともに高額になったものだ

経営の改善から住みやすい町へ

経営難問題はスカイアクセス線の開通から上向き始めた

現地でよく分かったのはアクセス特急の乗客の多さだ。平日の昼間にもかかわらず、スーツケースを持った多くの人が、スカイライナーではなく追加料金無料のアクセス特急を利用している。京成電鉄からの線路使用料が北総鉄道にも入るようになり、千葉ニュータウンの人口も少しずつ増えて累積赤字は2022年に解消。また千葉ニュータウン鉄道へと支払う使用料も一定金額へと変更された。鉄道会社の多くが値上げに踏み切る現状で2022年に値下げを行ったことは特筆すべきこと。特に通学定期に関しては60%を超える値下げで(元の値段が一体いくらだったのかとツッコミが入るレベルだ)、全国区のニュースとしても大きく取り上げられた

それでも首都圏で多くの人を運ぶ鉄道会社のものとしては、運賃はまだまだ高く、さらなる値下げを求める声は多い。私なんぞはフリーパスなしでは、二の足を踏んでしまう料金である。ただ運賃値下げもあり、印西市は各種の「住みやすさランキング」で千葉県内の上位を占める都市となっている

JRの津田沼駅で降り、新京成電鉄の新津田沼駅から新京成、北総鉄道、成田空港スカイアクセス線と巡った旅、なかなか充実した1日だった。実は翌日も京成に乗車したが、それについてはまた別の機会に

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その5(番外編) 気になっていた「成田」駅へ

※訪問は2025年1月15日

印旛日本医大から1駅

印旛日本医大駅から成田空港方面へと1駅。成田湯川駅で降り立った。印旛日本医大から成田空港方面はすでに北総鉄道ではない。京成電鉄の成田空港線(成田空港スカイアクセス線)のみの駅となっている。その意味では北総鉄道のシリーズに組み込むのは正確には間違っているが、改札の外に出ることなく訪問でき、しかもサンキュー♥ちばフリーパスでともに訪問したということで番外編として紹介させていただく

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気になる駅も運賃に尻込み

印旛日本医大駅や印西牧の原駅は駅の発車案内や方向幕で繰り返し見せられるため、気になる駅だった。当駅は別の意味で気になる駅だった。こちらは千葉ニュータウン中央駅の路線図を拡大したものだが

印旛日本医大から先のスカイアクセス線にある「空港第2ビル」「成田空港」はどのような駅か想像がつく。しかし、その手前にある「成田湯川」はどんなところなのか。以前から気にはなっていたのだが問題がある。経費の問題だ

当駅からの最低運賃が成田湯川までの470円。空港や京成本線方面からはさらに高い。日暮里と京成上野からの料金は1210円もする。長らく悩んでいたところ、サンキュー♥ちばフリーパスに京成が参加の報せ。これまで北総鉄道は参加していたが京成は参加していなかったため、これは朗報だ。次のサンキューパスから京成が離脱しては困る。ここは新京成、北総鉄道とともに一気呵成の訪問となった

利用者数69駅中67位の立派な駅舎

念願かなった成田湯川駅の駅舎は大変立派なものだった。開業は2010年(平成22)で、京成電鉄の駅では最も若い

改札口は広くとられている

コンコースも広く、改札から2つのエスカレーターを乗り継いで(エレベーターもあり)3階にあるホームへと向かう。写真の左手を見れば分かるがステンドグラスも使用されている。成田高速鉄道アクセスという会社が第三種事業者として施設を保有する

という豪華な施設を持つ駅だが、2023年の1日あたりの乗降客数は1495人で、これは京成電鉄全69駅のうち67位の数字。注意点としては69駅の中には北総鉄道と共同で使用する印旛日本医大や千葉ニュータウン中央などの駅のアクセス特急、スカイライナーの利用者数もランクインしていること。68位は印旛日本医大の1388人だが、実際の駅の利用者数はもっと多いので、駅そのものの利用者は実質下から2番目となる(最下位は大佐倉駅の311人)

運行の重要駅

当駅の特徴のひとつとして

停車するのは特急だけという事実がある。いずれも追加料金の要らないアクセス特急。そのため本数は少ないものの、印旛日本医大方面の列車に乗れば、必ず乗り換えなしで都心まで連れていってくれる。空港方面は説明不要

時系列は逆になるが、ホームに上がると対向式の2面ホームの間にホームのない通過線がある。まるで新幹線駅のようだが、通過線を走るのはスカイライナー。160キロという高速走行を可能にするための措置。そのまま本線を行けるように分岐器は日本最大級のものとなっている

スカイアクセス線は当駅から成田空港方面が単線となっているため、アクセス特急の待避は当駅でしか行えない。またいざという時のために印旛日本医大方面からの列車は当駅で折り返しが可能となっていて運行上は重要な役割を果たす駅となっているのだ

駅の隣にはJRの線路が

駅を降りると路線バスの姿。主にJRの成田駅と結ぶものだが1時間に2本から4本と数は多い

駅までは4キロもなく、バスはニュータウンの中を通るためグルリと回るが、車で真っ直ぐ行けば10分もかからない距離で近い

近いといえば、ホームの下をJR成田線の我孫子支線が走る。たまたま駅前にいると電車がやって来たので分かったが、予備知識なしで訪問してぼんやりしていると気付かないかもしれない。とはいえ、ここにJRの駅はない。最も近い駅は下総松崎で線路だけなら2キロを切る

ちなみに「松崎」は「まんざき」と読む難読として知られる駅だが、住居表示としては下総松崎駅が成田市大竹、成田湯川駅は成田市松崎である

スカイアクセス線で唯一の単独駅として興味深かった成田湯川駅。このようなブログを連日書いていると1日の利用者が一ケタとか限りなくゼロという駅も決して珍しくないというか、感覚がマヒしているところがあるが、周辺は静かながら千人以上の利用がある駅だということをあらためて強調しておこう。とにかく訪問して良かった

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その4 ニュータウン発展の遅れが世界のINZAIに

※訪問は2025年1月15日

両隣は京成の駅も当駅は違います

印西牧の原駅に到着。両隣の千葉ニュータウン中央、印旛日本医大の両駅は京成電鉄の駅にもなっているが、当駅は京成の駅ではなく「北総鉄道の単独駅」になっている。なぜかというと、当駅には成田空港行きの追加料金なしのアクセス特急は停車しないため。アクセス特急に乗車すると印西牧の原駅には停車しない旨がアナウンスされる。利用者のほとんどが、どの駅が京成の駅かというのは気にしてはいないはず。単に特急通過駅との認識だと思われる。どちらかというと「成田空港から各駅に停まって、なんで1駅だけ飛ばすのか?」と思っているだろう。私も乗ってみてそう思った。優等列車としての運転は千葉ニュータウン中央からでいいのでは、と。ただその理由は分からない。とにかく、そこそこ知名度のある当駅に都心からやって来るとアクセス特急は停車しないので、初めて訪問する方は注意が必要だ

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かつては現在の印旛日本医大の立ち位置

印旛日本医大駅の記事で「気になる駅」と表現したが、かつてはここ印西牧の原駅が気になる駅だった。というのも羽田空港からの電車は当駅が終着だったからだ。開業は1995年(平成7)。千葉ニュータウン中央駅から1区間延伸された。千葉ニュータウン中央の開業が1984年(昭和59)なので11年後のこと。すでに時代は昭和から平成へとなっていた。以降、印旛日本医大まで延伸される2000年まで終着駅だったので「印西牧の原」の方向幕や発車標を都内の各駅で見かけることになる。つまり気になる駅である

ただ「気になる状態」は現在も若干残っている。車両基地の最寄りとなっているためで、当駅を始終着とする列車の設定がある。また印旛日本医大延伸後も、多くの列車は終点まで行かず、印西牧の原での折り返し運転を行っていたため、都内で交互に見かける両駅は「なんで2つの行先があるんやろ?」と別の意味で気になる駅だった

なぜ延伸したにもかかわらず、その手前で折り返す列車が多かったのは現地訪問と数字を見るとよく分かる。2022年度の両駅の1日あたりの利用者数は印西牧の原の1万4526人に対し、印旛日本医大は4346人と圧倒的な差がある。これは駅周辺の開発と人口増が十分に進んでいないため。20年前はさらに格差があると思われる。ほとんどの列車が印旛日本医大まで行くようになったのは成田空港まで線路が延伸されて以降のことだ

軍馬の育成地からデータセンターへ

ホームはアクセス特急の停車駅である両隣より大きく2面4線。延伸を見込んで計画的に造られ、開業直後はうち2線を使用しなかったが、始終着列車や通過列車の待避のために現在は4線すべてを使用している

駅舎はおしゃれな採光となっていて

正面の姿もアーチ型。夜は美しく映えるという

駅名の「牧」とは、かつて江戸幕府が軍馬育成のために千葉県内にいくつか設けた牧場。ここにあったのが印西牧である。そして今、当駅と千葉ニュータウン中央駅付近はデータセンター(DC)が集まる「DC銀座」として名をはせている。DCとはスマホやPCと連動するコンピューターがズラリ並ぶ場所のこと。厳重なセキュリティーが求められるのはもちろん、所在地に自然災害のリスクが低いことが求められる。その点、この一帯は活断層がなく、はん濫の可能性がある川からも比較的離れているため自然災害は少ない。東京から約40キロと比較的行きやすい場所にあると同時に成田空港からもすぐで海外企業や専門家の訪問も容易だといういくつかの条件がそろっている。そして北総鉄道の高額運賃の原因のひとつともなっていた、造成地のニュータウンにおける人口増が今ひとつで土地が余っていという要素がダメ押ししたという

駅舎は正面よりも外側から眺めた方が美しさがよく分かる

DCについては地元が誘致活動を行ったわけではなく、自然に内外の企業が集まることになり、グーグルもやって来たことはニュースにもなった。その業界では「世界のINZAI」として名が知られているという

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その3 幻の新幹線駅の痕跡が残る

※訪問は2025年1月15日

文字通りの中心駅

時系列は異なるが、北総鉄道の訪問駅紹介をしていきたい。降り立ったのは千葉ニュータウン中央駅。文字通り、千葉ニュータウンの中心地で周辺は住宅地や商業施設が並ぶ。2022年度の1日の利用者数は2万1451人。これは北総鉄道の全14駅(京成高砂)の中では第2位の数字。1位は新鎌ヶ谷駅の2万3188人だが、コロナ禍でやや落ち込んだ数字であり、新鎌ヶ谷より多く首位となった年もある。3位は東松戸駅の1万9213人だが、新鎌ヶ谷、東松戸という他路線との乗り換え駅ではなく、単独駅(厳密には京成の成田空港スカイアクセス線との共同使用駅で2路線が乗り入れているが、同じ線路と同じホームを使用している。写真は私が乗車してきたスカイアクセス線のアクセス特急)だけに、数字の多さが目立つ

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正式には千葉ニュータウン鉄道の駅

当駅は1984年の開業。北総鉄道は成田空港スカイアクセス線で成田空港までつながっていることから、近年の駅と思われがちだが、当駅まで到達したのは昭和59年。鉄道の歴史と並行させるとまだ国鉄があった時代だ。昨年40歳の誕生日を迎えたことになる。印西牧の原までの延伸は1995年なので10年以上、終着駅だった

そのためか前記事で紹介した印旛日本医大駅と比べるとクラシックな駅舎だ。そして、この駅舎を所有するのは「千葉ニュータウン鉄道」という会社である。施設のみを所有する、いわゆる第三種鉄道事業者となっていて、北総鉄道や京成電鉄はそれを利用する第二種鉄道事業者となっている

北総鉄道の京成高砂~小室は同社が建設にあたったが、小室から当駅を含む印旛日本医大までを敷設したのは「住宅・都市整備公団」と、その前身となる「宅地開発公団」。大都市近辺で宅地開発を行っていた、いわゆる特殊法人だが、当地においては千葉県の宅地開発の大事業ということで鉄道建設も行った。だから当駅の開業時の路線名は「住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線 」という、新交通システムのような路線名だった。当時の北総鉄道は「北総開発鉄道」という、こちらも開発にこだわった会社名だったので、後に第二種鉄道事業者となったことで、1988年という昭和最後の年に京成高砂からの路線名すべてが「北総・公団線」に。その後、沿線の人口増が当初の見込みより鈍く、高額の運賃などもあって客足が伸びなかった公団は経営が苦しくなったため、京成電鉄が子会社化することになり、2004年に千葉ニュータウンが発足。路線名は現在の北総線となった。同年に北総開発鉄道も北総鉄道となった。なお住宅・都市整備公団は自社の車両も保有。現在も現役で走っている

新幹線駅の予定地は

駅の周辺案内図。千葉ニュータウンの中心地らしく公共施設だけでも、かなりビッシリ書き込まれていて

駅からは高層ビルや商業施設も見えるが、ふと見下ろすと

背後のマンション群と比べると、ソーラーパネルがビッシリ並べられている違和感のある空き地がある。どう見ても鉄道の用地だが、これは成田新幹線駅のために確保された土地だ。成田空港(当時は新東京国際空港)と東京駅を結ぶ予定だった成田新幹線。東京駅は新幹線駅の施設を利用して京葉線の駅が造られているのは有名な話だが、空港~東京で唯一の途中駅として予定されていたのが、千葉ニュータウン駅だった。当地で現在の北総線と接続の予定で、当初の計画では北総線到達の前、新東京国際空港の開港となった1978年より前に新幹線の駅ができる予定だった。ただ新幹線は走ることなく、千葉ニュータウン中央駅は国鉄があった時代に開業したと先述したが、それより少し前となる1987年のJR民営化の際に成田新幹線は未成線となることが決定した

もちろん当時、ソーラーパネルによる大規模な発電所があったわけではなく、40年近く前に消滅した成田新幹線の計画そのものを知らない世代は、この空間をどのように眺めているのか、ちょっと考えてしまった

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その2 ついに来た印旛日本医大の気になる副駅名

※訪問は2025年1月15日

北総鉄道の「終点」

新鎌ヶ谷駅のホームで電車の到着を待っていると、滑り込んできたのは京急の車両だった。羽田空港から印旛日本医大へと向かう「特急」だが、京急内を過ぎると普通として全駅停車する

印旛日本医大まで約20分の所要時間。気になる駅と認識してから20年以上が経つ。本数的には簡単に行けるが、運賃などの壁もあって、なかなか行けなかった駅にようやくやって来た。そこで私を迎えてかれたものは

あれ? なんでしょう、これは?

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伝説が地名に

いつものことだが、私は駅訪問について事前に予習はしないことにしている。もちろん、それまで見聞きした情報は持っているし、時刻表は調べる。今回の場合は本数も多いので時刻表チェックは皆無。事前に知っていた情報は北総鉄道の新たな終点になったこと、成田スカイアクセス線の開通によって途中駅となったことぐらい。「松虫姫」は知らなかった

松虫姫とは東大寺の大仏で知られる聖武天皇の皇女。松虫寺のHPなどによると、14歳の時に重い病にかかり、どんな名医も治せなかった。ある夜、姫の夢に現れた老人に「私の国まで来てくだされば病は必ず治るでしょう」と告げられたことを聖武天皇に相談すると、父も許可。困難な旅の末、印旛沼までたどり着いた。その水で身体を清めながら村人に読み書きや養蚕を教えながら過ごすこと21日。病はすっかり治り、姫は無事、都に戻ることができた。聖武天皇はお礼として松虫寺を建立。当地が松虫と呼ばれるようになったという

という調べを駅の滞在中にスマホで延々と調べていたが、サブ駅名の由来を知って大いに納得。駅名も仮駅名として「印旛松虫」とされていた。駅からすぐの場所には松虫姫公園もある

荘厳な駅舎が印象に残る。当駅は2000年(平成12)の開業。印西牧の原から1区間延伸されて北総鉄道の終着駅となった。いつの日か忘れたが、羽田空港から京急に乗車すると印西牧の原だった行先が印旛日本医大になっていたことに納得。さらに2010年にスカイアクセス線の開業によって形の上では途中駅となったが

都内方面への時刻表に対し、成田空港方面は

グンと寂しいものになる。当駅から先は京成による追加料金無料の成田空港行きアクセス特急のみしか走っておらず(スカイライナーは通過)、それ以外の北総線の列車はすべて当駅折り返しとなる。つまり北総鉄道としては終点である

もちろんIC乗車は可能だが、きっぷを買う場合は別路線となるので券売機は別々のものとなっている。

日本医科大学はありません

おしゃれな駅名板の駅名だが、実はここには日本医科大学のキャンパスはない。あるのは付属病院の日本医科大学千葉北総病院。さらに言うと、病院は駅前にあるわけではなく

通院という目的だと、やや遠い。もっとも

大学病院へは都心の路線バス並に頻発する無料バスが運行されていて病院へのアクセスは全く問題ない

周辺は住宅地として開発が進んでいる真っ最中のようだ

構内の改札外にはコンビニがあり、改札内も広くとられている

1面2線の島式ホームは堀削内に設けられ、エアコン完備の立派な待合室がある

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