私鉄

羽衣界隈から堺までを再確認してみた~すっかり変わった景色。難読駅とパタパタ

※訪問は2026年ム4月18日

1・4キロの中にある途中駅

わずか1・4キロのミニ路線、高師浜線だが、途中駅はしっかりある

高架の下、うっかりすると見逃しそうな場所にあるのが

伽羅橋駅。なかなかの難読駅だ

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実在した「高級橋」が由来

なんとも難しい駅は「きゃらばし」と読む。もともとの知識がないと、なかなか読めない。伽羅とは最高級の香木。駅近くを流れる芦田川に室町時代に架けられた橋が伽羅を使用していたとされることから橋の名前が付けられた。実際の橋は幕末に造られた石造のもので、現在は埋め立て地の臨海地区にある公園に移設されている

駅の開業は1918年(大正7)だが、ホームに立つと真新しさが伝わってくる。高師浜線は当駅と高師浜駅の間が1970年(昭和45)に、いち早く高架化されたが、それからの半世紀が長かった。羽衣駅までは1キロもないので高架は容易だが、羽衣駅そのものを高架化しない限り高架にするのは無理だ。ようやく羽衣駅とのセットでの高架工事が始まったのが2000年代に入ってから。高師浜線という支線の分岐駅だけに専用ホームの移設もあって20年以上の工期。最後は高師浜線を運休させた方が早く工事が終わるということで3年間の高師浜線運休をはさんで2024年に完成となった

単式ホーム構造は変わらないが、雰囲気は全く変わっている。昼間の運行は20分に1本。当駅付近も高級住宅街のひとつとして町づくりが行われた。そのための駅だった

羽衣駅の乗り換えが便利に

2021年3月の訪問時、羽衣駅は仮駅舎営業だった

改札付近はいかにも仮状態

ホームは本線の上下線プラス高師浜線という構造。今思い出したというより気づいたのだが、まだフラップ式の方向幕いわゆるパタパタが使用されていた。高師浜線のホームは高師浜駅行きしか来ないので固定である

高師浜線のホームは、なんば方面への上りホームのさらに奥にあった

切り欠きホームが専用ホームで、しかもホーム幅や通路幅は狭い。ホーム位置の関係でタッチの差で乗り換えできないこともあったのか

このような注意書きもあるほどだった

それが今は

なんば方面へは平面乗り換えとなり、利便性がはるかに増した。方向案内幕もデジタル式で、完全固定のはずの行き先も他の表示に対応できるようになっている(どのような内容なのかは分からない)

この5年ですっかり生まれ変わった羽衣駅。ただ懐かしさも兼ねて最後は

パタパタの写真を置いておこう

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羽衣界隈から堺までを再確認してみた~1・4キロのミニ支線ができたワケ

※訪問は2026年4月18日

駅前の広場が伝えるもの

あらためて高師浜駅

マンション群に溶け込む駅前の小さな広場が特徴的。車が入るロータリーがあるわけでもない終着駅とそこにある駅舎が、大正モダンを今に伝えている

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高石駅までは徒歩10分

前記事でも伝えたが、高師浜線は南海本線の羽衣駅から始まり、わずか1・4キロ進んで終着駅に到着する。羽衣駅までは歩いて20分。というか南海本線の高石駅にもほど近い

徒歩で約10分。両駅までの近さを考えると、3年間の運行休止期間は、少々不便な代行バスに乗らなくとも、ふだんよりちょっと歩けば良かったのだ

と、ここまで書いてくると、そもそも何でこのような路線ができたのか、という疑問がわいてくる。路線ができた大正時代、マイカーというものはほぼなく、道路事情も今のように良くはなかったころ、駅を利用する市民は今よりずっと健脚だったはず。住居を購入したり、借りたりする場合、駅から徒歩20分と聞かされると「うーん」となってしまうかもしれないが、当時は徒歩20分の場所に駅ができるだけで大喜びの時代だ。わざわざミニ支線を造る必要はないと思うが、その理由を示す説明書きが駅前にある

1904年(明治37)から1905年にかけての日露戦争時、ロシアの捕虜収容所が高師浜にあった。元々は名前の通りの砂浜に造られた巨大な施設だったが、戦争が終わって捕虜は帰国。すでに砂浜ではない広大な土地だけが残った。しばらくは陸軍の施設として使用されていたものの、やや持て余し気味。そこで発案されたのが、土地の高級住宅街化。おりしも東羽衣駅の記事で伝えた浜寺海水浴場が1906年に開場。別荘地ともなった浜寺は一大レジャー地域となった

後発の阪和電気鉄道も目をつけるほど栄えることとなったが、隣接する高師浜一帯も高級住宅街にとようというプランが生まれたことに伴って敷設されたのが高師浜線だ。さすがに高級住宅街だから高級車が並ぶという時代にはまだ至っておらず、高級住宅街という言葉の意味合いも現代とはやや異なるが、新たな住宅街に住む人々が、できるだけ歩かなくて済むように高師浜線が敷設されたのだ

駅舎も高級住宅街にふさわしいものとして造られた

少しの変化

高師浜駅は無人駅。かつては改札を抜けるとそのままホームだったが(今もホーム跡は残る)、高架化されて、やや急な階段を昇ることになった。運休期間中にバリアフリー化が進んでエレベーターが設置された

5年前の訪問と比べ、エレベーターの設置以外に変わったことと言えば

駅名標だろうか。現在はサムネ写真のものとなっている

車両は支線用の2200系が使用されていた

埋め立て工事も行われ、高師浜は地名だけのものとなっているが、まだ浜があったころから駅舎は周辺を見守っていたのだ

次は新しくなった高師浜線で羽衣駅を目指す

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羽衣界隈から堺までを再確認してみた~高師浜線を全線歩いてみた

※訪問は2026年4月18日

羽衣駅から分岐する高師浜線

JRの東羽衣駅から、高架工事もほぼ終わった南海の羽衣駅へ。ここから分岐する高師浜線が次の目的。X(旧ツイッター)のフォロワーしんさん(@sin103neko)と、高師浜線全線を歩くつもり。函館本線の山線や日豊本線の宗太郎越え、芸備線の超閑散区間など、数々の「徒歩伝説」を持つしんさんとの全線徒歩走行である

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全線徒歩といっても

もっとも、そんな健脚が私にあるはずもない。しかも分かる人には分かると思うが、全線徒歩といっても

わずか20分の「散歩」である。実は2021年3月にも同様の行動をしたことがある。この年の5月から羽衣駅近辺の高架工事のため、3年間運休することが決まっていたので、その前にとやって来たのだ。その間はバス代行となり不便になったが、元々が1・4キロのミニ路線。前記事まで紹介したJRの阪和線支線(羽衣線)の1・7キロより距離が少ない。さらに言うと、地図を見ていただければ分かるが、高師浜線はしばらく南海本線と並行した後、「ほんの少しだけ」西へ分岐して、すぐ終点となる。その終点高師浜駅も、こちらも地図で分かる通り南海本線の高石駅と近く、徒歩10分程度。代行バスを不便と感じるのなら、こちらも「ほんの少しだけ」歩けばいいのである

新しい橋脚を見ながら

ともかく歩いてみよう

高架工事が終わって間もない真新しい橋脚を眺めながら進む。高架下の部分はまだ完成形ではないようだが、電車の運行がまずは先だ

決して線路沿いに道路が続いているわけではなく、ときおり進めなくなってしまうが、少々遠回りをすることになっても問題ない。これが地方のローカル線で、乗り逃すと2時間待ちなんていう事態が待っているなら必死だが、20分に1本と大阪府下の路線としては決して多くはない運行も、乗れなくても次に乗ればいいだけだ。そもそも私もしんさんも時刻表など調べてもいない。そして歩いていくからには当然、伽羅橋駅を通るのだが、まずは高師浜駅まで先に向かうことにする

伽羅橋~高師浜は1970年(昭和45)つまり前回の大阪万博の年に早々と高架化されている。高架下部分のかつての線路跡は遊歩道と、ちょっとした公園として整備されている

そして目的地に到着。2021年の写真と比べてみると

塗装が変わっていた。それでも開業時からの洋風駅舎は健在。高架ホームから階段を降りたところに駅舎はある。特に上部にはめられたステンドグラスは高級感を出していて、高架時に解体の危機を迎えたが、地元の皆さんの反対で残った。数年前に保存のため現在はレプリカがはめられている

周辺は住宅とマンションが並んでいるが、その景色の中でいっそう映える存在だ

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~半日で全駅訪問のまとめ

※訪問は2025年9月23日

〆はカレーうどんで

新豊橋駅まで戻って遅めのお昼は豊橋と言えば、のカレーうどんである

豊橋駅付近には数多くのカレーうどんの店舗があり、それぞれが工夫した商品を提供している。時間は14時で店によってはランチタイムが終了していたが、それでも食べられる店は多い。9月の終わりでまだまだ真夏と同じファッション。エアコンの効いた中、それでも多少は汗をかきながら食べるカレーうどんは絶品だった

豊橋のカレーうどんには思い出がある。2012年11月に初めて渥美線に乗車したことについては何度か記しているが、その時に初めて豊橋カレーうどんのお世話になった。当時はガラケーからスマホへと世の中が移行しつつある時で、まだまだ携帯を開けると情報が出てくる時代ではなかった

それでも豊橋の駅から外に出ると、いくつものカレーうどんののぼり。これは豊橋の名物なんだな、と早速店に入って注文。間もなく美味しそうなカレーうどんが出てきたが、これはお供に白いご飯がほしいところだ。ということで「すいません、白ご飯ひとつお願いします」と言ったところ、返ってきた言葉は

「カレーうどんの底に入っています」

目からウロコだった

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15分間隔が生み出すもの

渥美線は15分間隔のパターンダイヤとなっている(週末は20分に1本)。だから全駅訪問といっても半日で終わってしまう。豊橋市は東三河の中核都市で35万人の人口を誇る都市だが、そこから農地も目立つ渥美半島の人口約5万人の田原市へと向かい、しかも行き止まりで他路線との乗り換えがない(バス接続はあるが)が路線が15分間隔で運行されているのは、特筆すべきことだと思う。別の角度から見ると、地方路線にありがちな1時間に1本程度の運行では、現在の利用者数になったかどうかは疑問だ

同様の例として思い浮かぶのが富山港線で、わずか8キロの閑散路線をJRが手放し、LRT化して朝は10分間隔、昼間も15分間隔の運行にしたところ、大ヒットとなった

だったら全国の地方路線も同様に15分間隔の頻発ダイヤにすれば、利用客も増えるのではないかというと、なかなかそうはいかない。沿線人口や沿線にある学校の数などの条件も考慮しないと現在の車社会で生き残っていけない

こちらは車内の路線図だが、沿線には数多くの学校があり、高校生や大学生を運ぶ使命も担う。そして自動車専用道との競合もない。路線バスとの競合もほぼなく、細かく駅が設けられているため、沿線から駅へは向かいやすいようになっている。各駅の利用者数も紹介してきたが、最も利用の少ない駅でも300人台で、利用1ケタという駅は存在しない

国鉄路線にならなかったことが幸いか

渥美線は沿線に陸軍の施設があったことと、伊良湖岬から伊勢への航路接続の両方を目指した。軍用路線と観光の両者を目指した路線だったが、当時の渥美鉄道が資金難で途中からの建設を放棄。以降は国鉄によって建設が行われたものの、戦局の悪化で工事は頓挫。戦時中に名古屋鉄道の路線となって、戦後に名鉄の系列である豊橋鉄道に移管された。時代がもう少し早ければ伊良湖岬まで全通していたかもしれないが、その場合は現在の18キロに加えてさらに30キロほど長い路線となり、電化されたかどうかも含め、どれぐらいの運行があり、現状のバス利用者を見る限り、そもそも路線が維持されたかどうかも分からない。国鉄の地方路線は、旅客が減る→運行本数を減らす→さらに旅客が減るの負のスパイラルに陥っており、いろいろな運命が想像できる

18キロという短い路線が、なおかつ初期から電化されていたことで戦後も運用がしやすかった側面はあるだろう。現在の渥美線には、かつて陸軍のために敷設された面影は愛知大学前付近に残るのみ。未成線の面影もない。15分間隔で走る電車には、いろいろな歴史が詰まっている

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~最後の駅は開業時からの主要駅

※訪問は2025年9月23日

車庫も備えた運行の要

最後の駅にしたのは高師駅

ご覧のように1面2線の島式ホーム。この形式は渥美線では貴重なもので、他のすれ違いができる駅はいずれも2面2線構造となっている

ホームの三河田原寄りには車両区があり、乗務員の交代も当駅で行われる。つまり運行の要である。かつては工場への引き込み線もあったという

渥美線の運行はすべてが新豊橋~三河田原の運行だが、1日に1本、新豊橋からの終電が当駅止まりとなる。23時50分に新豊橋を出て23時58分に高師に到着する。地方の私鉄としては、かなり遅くまで走っている

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もともとは高師村

高師駅の開業は1924年(大正13)。これまでにも何度か書いてきたが、高師~豊島がこの年の1月に豊橋鉄道が開業させたのが渥美線のスタートとなった

当時は高師村。日本軍の師団が置かれたことからの名前のようにも感じるが、古代からの地名で、この一帯は高師原と呼ばれる湿原のような場所で農地には適さず、多くの場所がほとんど開発されないままだった。そこに目をつけたのが陸軍で、ほぼ平坦な原っぱを演習地にして15師団が置かれた。師団の設置は1908年(明治41)で、伊良湖岬近辺にも軍の射撃場や施設ができたことで鉄道敷設の運気が高まった

高師村は渥美線のかなりの部分を占めていて、現在の駅で言うと新豊橋から2駅目の小池駅から大清水駅までの8駅が旧高師村にあった。全16駅なので半数にも及ぶ

高師駅周辺は住宅街となっているが、駅の北側に大きく広がる高師緑地は、今でこそ市民の憩いの場だが、陸軍の演習地の跡地で、演習地の中を渥美線が走っていたことがよく分かる

高師村はまさに「軍村」だったわけだが、1932年(昭和7)に豊橋市に編入されて現在に至る

コンクリート駅舎

ホームに降りると構内踏切を渡って駅舎へと向かう。2012年11月に初めて渥美線に乗車したことは以前記したが、その時も当駅で下車している。ただ当時の写真と見比べても大きな変化はないように見える

駅舎はコンクリート製。かつては木造駅舎があったようだが、半世紀以上前に現在のものとなった

有人駅でフリーきっぷも販売している渥美線の5駅のひとつ。自動券売機も設置されている。2023年度の1日あたりの利用者数は2236人で全体の6位。2000人を超えているのは、この6駅だけだ

駅舎からホームを見る。ホームは緩やかなカーブの途中にあり、眺めはいい

ホームの端まで行って車両区を眺めてみる。右端にも列車が停まっているが、ここは留置線で、かつてはこの線路が工場へとつながっていたそうだ

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~伊良湖という湖はありません

※訪問は2022年6月11日

三河田原からバスに乗り

4年前、現在の姿となった三河田原駅を訪問した話を伝えたが、その時はバスで伊良湖岬を訪れている。その思い出にも触れてみたい

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バスで1時間

駅前からバスに乗車。運行は豊鉄バスである

伊良湖岬行きのバスに乗車。約1時間の乗車である。私は旅気分で楽しく車窓を眺めることができたし、駅前の解説板のおかげで未成線の路盤も眺めることができたが、仮に日常的に利用するとなると、路線バスに1時間乗車というのは、なかなか長い。土曜日の14時という時間帯で、高校生の利用は少なかったが、それでも何人かの高校生が乗車して途中で降りていった。途中に高校があり、そちらからの利用もあった

元々が未成線で、いかも戦前に敷設を断念した路線なので、代替バスという位置づけではない。途中の保美止まりのバスがいくつかあって、伊良湖岬まで到達するバスは1日10往復。保美までのバスは21時台まであるが、伊良湖岬までのバスは18時が最終となっている。4年前のことは忘れてしまったが、現在の運賃は1120円。10往復という本数が多いか少ないかは微妙だが、18時発で終わる現状を考えると、仮に鉄道が通っていても苦戦は免れなかった気はする

伊良湖フェリーターミナルに到着。こちらからは鳥羽港や河和港への船が出ているが、乗船したのは河和港行き

高速船の名前は

「はやぶさ」で、かつての特急列車の名前のような

ここからも約1時間の船旅

無事到着

河和駅までは徒歩7分らしいが、連絡バスに乗って

河和駅へ

名鉄に乗車した

伊良湖の正式な読みは「いらご」

さて、知られているようで意外と知られていないのは「伊良湖という湖はない」こと

地図を前掲したが、渥美半島のどこにも湖はない。そもそも正式な読みは「いらご」である。「いら」というのは急斜面や断崖を呼ぶもので、全国各地にも「伊良」「江良」「永良」など、同じ意味を持つとされる「いら」「えら」は見られる

渥美半島の伊良湖については、古い文献では「伊良胡」「伊良虞」などの表記も見られ、いつの間にか現在の表記に落ち着いたそうだ

かつてフェリーターミナルにあった自治体名は「伊良湖岬村」で戦後の1955年(昭和30)まで存在したが、もともとあった伊良湖村が周辺の村と合併して成立したもの。1955年に再び周辺の自治体と合併して渥美町となり、平成の大合併で田原市となった

湖があるのではないかと思い込んでしまう要因としては、おそらく「伊良湖岬」という文字にあるのではないかと推察される。観光案内などでは「伊良湖」と単独で表現されることはなく、あくまでも「伊良湖岬」と案内されるが、パッと見ると「伊良湖岬」「伊良湖畔」に見えてしまうのではないか

話の本筋には全く関係ないが、河和から名鉄に乗り、東名古屋港で平面交差を見学した

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~三河田原駅の思い出

※訪問は2012年11月22日など

終着駅は過去の思い出で

全駅訪問と言いながら、今回は終着駅の三河田原は訪れていない。2012年11月と2022年6月の2度訪問しているからだ。そしてその2回で見た風景は全く別のものだった

こちらが2022年の訪問当時のもの。美しい駅舎は伊良湖岬観光の拠点駅にふさわしいもの。渥美線が到達できなかった分、当駅からバスが出ている。2022年はここからバスで伊良湖岬を目指した

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レールと歴史を残す

終着駅の三河田原は当然のように行き止まり構造。2面4線と路線内では最も大きい。駅前広場も整備されている。もちろん有人駅

そして駅前には

レールと車止めが残されている

渥美線の歴史を記した解説板があり、予定されていた伊良湖岬への路線図と駅名。今も残る未成線の路盤の場所も記され、これが後にバスに乗る時、大いに役に立った

こちらが三河田原駅とその周辺地図。線路の先にある田原駅前通り線いう道路を挟んで、やや不自然な広い道があることが分かるが、これは未成線ではなく廃線跡。2012年の訪問時の写真とともに説明していきたい

何も知らずに下車

杉山駅の時と同じく当時の携帯の写真ではこれ以上大きくするわけに行かないが、2012年の訪問時の三河田原の駅舎は現在とは全く違うものだった。駅舎の位置は線路の北側にあった。タクシーが停まっているところをみると、それなりの需要があるのだろう。ちなみに2023年度の1日あたりの利用者数は2306人で全体の5位。利用者1000人を超える駅は7駅しかなく、うち6駅が豊橋市に所在していることを考えると、規模が分かる。田原市の代表駅でもある

現在の駅舎は線路の先端に設けられているが、2012年当時は線路の北側に駅舎があるということは、線路の先は異なっていたことになる。その様子は

3本の線路がひとつになったその先で唐突に終わっていた

その先はというとこのような構造で、さらに先に向けて線路があった跡地のようでもあった。さすがに鈍感な私でもさすがにこの時は調べてみた

戦時中の休止からそのまま廃線

三河田原駅は田原駅として1924年(大正13)に開業。この年の1月に最初の高師~豊島が開業した後、南北に延伸。田原にたどり着いたのはこの年の6月だった。もともと伊良湖岬まで延伸される予定で、なおも工事は続けられ、1925年には新豊橋(現在の駅よりやや三河田原寄りにあった)まで延伸されて国鉄と連絡され、伊良湖岬方面へは1926年(大正15)に加治、黒川原と2駅が設けられ、約3キロ延伸された。田原駅は1925年に現在の駅名に変更されている。そして渥美鉄道の財政難により、この先は国鉄によって工事が進められることになった

三河田原駅前の解説板にあるように駅名も決まっていた工事だったが、その後、戦時色が強まって工事は中断。そればかりか戦時中の1944年(昭和19)には三河田原~黒川原が不要不急路線として休止され、渥美鉄道を引き継いだ名古屋鉄道が、戦後の1954年にこの区間を廃線とした。豊橋鉄道への移管はほぼ同じタイミングで、その後は新豊橋駅の移動をのぞき、ほぼ現在の形となっている

こちらは2012年に使用したフリーきっぷ

後で分かったことだが、私の訪問直後に駅舎の解体工事が始まり、翌2013年に現在の駅舎が使用を開始している。2012年といえば、駅舎の解体や建て直しについてネットニュースでは、今のように流れる時代ではなかった。ツイッターなどのSNSも浸透しておらず、ローカルニュースを誰かが引用してあっという間に拡散する時代でもなかった

私の訪問は秘境駅号乗車がメインの全くの「たまたま」だったが、その偶然に今は感謝するばかりである

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~終戦前日の悲劇を伝える

※訪問は2025年9月23日

おそらく最後の「神戸駅」

神戸駅に到着。こちらの駅名標も杉山駅と同じく厚みのあるものだ。そして見れば分かるが「かんべ」と読む。これまで記してきた通り、渥美線には「向ヶ丘」「豊島」そして、この「神戸」とどこかで見たような駅が存在する。全国の「神戸」については「かんべ」が多数派で、群馬県では「ごうど」があり、いずれも人名にもなっている。おそらく「こうべ」が最も少数派で、地方の小さな駅だったら、難読駅の常連になっていたかもしれない

もともと神戸というのは、律令時代に神社を支えるためにできた地域のことで、その場所からの税金は神社に納めることになっていた。だから全国に存在し「こうべ」は「かんべ」が転訛したともされている

そして自分の中で見落としがなければ、おそらくこれで全国の「神戸駅」はコンプリートしたはずだ

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渥美線で「最も新しい」駅

神戸駅の開業は1989年(平成元年)。平成以降、路線内で唯一新規開業した駅だが、歴史を入念に紐解くと実は微妙でもある

当地は戦後の1955年(昭和30)に田原町となるまで神戸村だった。渥美半島の神戸は、海を挟んだ伊勢神宮の領地だったことが地名の由来となっている

1924年(大正13)1月に渥美線(当時は渥美鉄道)が高師~豊島で開業すると、神戸村にも鉄道が通ることになり、数カ月の間に豊島~神戸、神戸~田原(現三河田原)が開業した記録がある。つまり「神戸駅」が登場する

だったらなぜ平成の開業かということになるが、こちらは現在の駅より三河田原寄り約500メートルの場所に設置され、さらには現在の神戸駅と豊島駅の間には天白という駅があった。だが戦時中の1944年に不要不急駅として休止となる。この時に休止となった駅のいくつかは戦後かなりの時間を経て復活したことは、これまで記してきたが、神戸駅と天白駅などいくつかの駅は1977年に廃止された。では現在の神戸駅は何かというと、戦前から近くの工場への引き込み線があった場所で信号所になっていた。平成になってすれ違い施設ごと駅となったが、以前の神戸駅とは場所も異なる上に休止ではなく、廃駅となっているため、正式には復活ではなく新設となった

そのような事情を経ての新駅だけに駅舎はない

2面2線の線路と待合所があるだけだ

徒歩5分の場所にある慰霊碑

さて神戸駅で降りると行かねばならない場所がある。あまり下調べをせずに駅で降りてみるのが私の基本的な駅訪問スタイルだが、当駅に関しては駅名のこともあって予習してからの下車となった。そこで知ったのが、駅から線路沿いに5分ほど新豊橋方面に向かう場所にある慰霊碑だ

車は通れない踏切のかたわらに石碑がある

「大東亜戦争動員学徒殉職の碑」と記されている

終戦の前日となる1945年8月14日、ここにいた列車が米軍の機銃掃射を受け、工場への学徒動員の(旧制)中学生を含む31人が死傷した。豊橋市そして渥美線は軍事上も重要な場所だっただけに標的になる場所ではあったが、8月14日という日付が悲劇性を強くする

写真では分かりにくいが、小さな踏切の向こうはすぐ田原街道で家電量販店や自動車販売店、衣料品店、ファミレス、コンビニなどロードサイド店が並ぶ場所で、すぐ近くにある石碑の存在感が際立っている

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~最初の終着駅の現在の姿は

※訪問は2025年9月23日

こちらもどこかで聞いたような

豊島駅に到着。向ヶ丘駅に続き、こちらもどこかで聞いたような駅名である。「見たような」としなかったのは、読みが「としま」だからだ。現実の島も含め、国内には「豊島」が数多くあるが、その分、読みもいろいろ。「とよしま」「としま」「てしま」などが主流のようだが、ここは東京・池袋のある豊島区と同じである。豊島区にはかつて遊園地のとしまえんがあり、その最寄り駅として豊島園駅がある。都営地下鉄の駅も設置され、向ヶ丘遊園と同じく遊園地はなくなっても駅名はそのまま。1区間だけのミニ路線だが、池袋からの直通が主力で必然的に終点駅として連呼されるので「としま」の読みは耳に残りやすい。ちなみに本稿には無関係だが、豊島園駅もとしまえんも所在地は豊島区ではなく練馬区である

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終着駅としてスタート

最初の写真で分かるように構造は棒状ホーム。開業は1924年(大正13)で、ここまで数駅紹介してきたのと同じく、渥美線(当時は渥美鉄道)の1期生である。しかも単なる1期生ではない。終着駅だった。渥美線は同年の1月に高師~豊島が開業し、8つの駅が設けられた。延伸の動きは急で、年内に田原(現在の三河田原)まで達し、翌年には新豊橋までの都心部分が開業した。当駅が終着駅だったのは、2カ月にも満たない期間だった。新豊橋駅はすぐ後に豊橋駅に近い現在の場所まで移動したが、この2年ほどで現在の渥美線に近い形となっている

ただし現在の駅は駅舎もない待合所のみの構造で、たとえ短い時間ではあっても終着駅だった面影はない。すぐに延伸されるので当初から簡易的な構造だったのかもしれないが、かつては有人駅だった記録もあるので駅舎は存在したようだ

利用者数の順位は

周辺は農地と宅地が混在する渥美線の他駅でも見た景色

駅を降りてすぐの場所には新しい住宅地が広がる。もともと当地はやぐま台駅(開業時は谷熊駅)と同じく相川村に所在していた。明治の町村制施行以前は豊島村。豊かな場所になってほしいという願いが地名に込められているという。町村制施行時に谷熊村などと合併して相川村となり、渥美線が敷設されたころは田原町の一部となっていた。現在は田原市である

なお当駅の1日あたりの利用者数は350人(2023年度)。これは全16駅中16位と最下位の数字となっているが、15位のやぐま台が364人、14位の神戸駅が379人なので、ほとんど変わらない数字だ

三河田原寄りはやや勾配がある。先のカーブを曲がると、田原市の中心部に入ることになる

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~一見すると新駅も実は27年もの空白

※訪問は2025年9月23日

唯一、ひらがなの入る駅

やぐま台駅に到着。ここから田原市に入る。渥美線で唯一、ひらがなが入る駅。平成の一時期、JRでは新駅にひらがなの駅名を頻発させていた。難読を避ける、親しみを持ってもらう、などいろいろな理由があるが、難読とはいえ由緒ある地名がひらがなになるのはどうか、という地元の声もあり、近年ではあえて難読をあてる逆の流れもある

そもそも特に地方においては新駅というのが生まれにくいのが現状だが、当駅は1971年(昭和46)の命名から現駅名。半世紀以上も前の話で、そのようなブームとは無縁の時代だ

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どう見ても…だが

駅名はどう見ても新興住宅街にちなむもので

駅からすぐの場所は住宅地のやぐま台だ

駅を出るとすぐ住宅街である

ということは駅もそれに合わせて誕生したのかと思うかもしれないし、私も降り立った時にそう思った。だが実際は少し事情が異なる

当駅は1924年(大正13)の開業と、実は渥美線(当時は渥美鉄道)の1期生駅だ。当時の駅名は「谷熊」。さすがに新興住宅街の駅名ではない

こちらは現在もある地名で明治の町村制施行の際は相川村の谷熊だった。村名は2つの川に沿ってできたことにちなみ、谷熊とは谷間にある水田地帯にちなむとされる。ただし駅ができた時はすでに田原町となっていた

ならば、100歳を迎えたばかりの駅かというと、それも違う。谷熊駅は戦時中の1944年(昭和19)に1度は不要不急駅として休止された

しばらくというか、それから長い間、廃駅ではなく休止駅状態が続いていたが、豊橋鉄道による宅地開発のため、復活することになり、前述した通り1971年に「やぐま台駅」として新たにスタートを切った

宅地開発による駅の復活。これは先に紹介した芦原駅と事情は同じだが、芦原駅が18年という空白があったのに対し、こちらは27年もの時を経ての復活だ。四半世紀以上の空白は長い。休止時の状況を知る人なら、かなりの年齢になってからの復活となる。新豊橋駅をのぞくと路線内で最も利用の多い駅である愛知大学前は24年の空白があったが、こちらは両隣の駅から簡単に歩ける距離だった。当駅も両隣の駅とは近いが、愛知大学前ほどではない

駅は直線上に

駅は1面1線の棒状構造。直線上に位置して前後の見晴らしはよい。駅舎はなく待合所があるだけ。ホームの逆側には農地が広がる。そして農地の向こうはすぐ入江となっていて、入江に至る手前には新豊橋駅付近からずっと連れ添ってきた国道259号があり、いわゆるロードサイド店も多い。そのような事情もあってか2023年度の1日あたりの利用者数は364人で、全16駅中15位となっている

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