私鉄

週末パス最後の旅はフラワー長井線~沿線では貴重な旧駅舎のひとつ

※訪問は2025年6月7日

かつては同型の駅舎が並ぶ

あらためて西大塚駅。赤湯側からだと米坂線の接続駅である今泉のひとつ手前にあたる。開業は1914年(大正3)で、その前年に赤湯~梨郷が開業していた長井軽便線を長井まで延伸する際に途中駅として設置された。以来、ずっと同じ姿だが、山形鉄道のHPでは駅ごとに「今昔物語」を伝えており、それを見ると長井線内の他の駅も、西大塚駅と似た姿をしていたことがよく分かる。近隣の駅が「そっくりさん」なのは、過去の他路線でもよく見かけた姿だが、おそらく同じ業者の手によるものなのだろう。ただし、今もその形を保っている駅はわずかとなった

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登録有形文化財に

残された西大塚駅は、その「ごほうび」として2015年8月に登録有形文化財となった。対象は駅舎本屋とプラットホームだが、それ意外にも見どころは多い

まずは駅名標。山形鉄道の駅名標になっていないので、以前からあったものか、あえて国鉄様式にしたものか。この西大塚駅はフラワー長井線で唯一、東置賜郡川西町に所在する駅で、それは同町の誕生した1955年(昭和30)から変わらない。設置時期はそれ以降のものということになる

到着時の写真だが、単式ホームとホーローも加えた駅名標の座り心地がいい

駅舎内にも空気は残る

駅の周辺には特に何があるというわけではなく農地の中にある住宅街という風情だ。赤湯を出た線路は最上川を渡って当駅に滑り込む。この後、長井線は最上川に沿う形で進んでいく。最上川流域に街ができているので鉄道もできたわけだが、同時に鉄道にとって最上川を渡るのは、かなりの難工事だったこともよく分かる

こちらは駅舎内の様子。無人駅だが駅員さんがいた時の雰囲気は残る。パンフレットなどが置かれているが、右手がきっぷの窓口、左手が手荷物受付だろう

財産票も残されている。「大正2年8月」と記されている。駅の開業は1年後なので、駅舎はその1年前に竣工していたことになる

こちらはサムネにもした駅名板だが、先述の山形鉄道「今昔物語」によると、山形鉄道の駅名板が掲げられた時代もあったようなので、雰囲気を出すために、あえて付け替えたようだ

こちらは横から眺めた駅舎。窓のアルミ補強は近年のものだろうが、板のくたびれた感じが当時の空気を運んでくるようだ

6月の1日は長いが、時間はすでに16時半となっている。この日は米沢泊。赤湯まで戻って米沢へと向かい、明日再び戻って荒砥を目指す

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週末パス最後の旅はでフラワー長井線~まずは登録有形文化財の駅へ

※訪問は2025年6月7日

数々の思い出がある週末パス

旅の始まりは伊丹空港からだった仙台空港から仙台駅に出て仙山線でいくつかの駅を訪問した後に山形へ

赤湯は山形新幹線の停車駅でもあるが、もちろん奥羽本線の在来線で移動する。赤湯駅では山形鉄道フラワー長井線の車両が待機中。この月の6月いっぱいで終了したJR東日本の週末パス。数々の思い出が詰まっているが、最後にフラワー長井線で利用することとした

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週末パスの特徴

こちらが今回利用した週末パス。発券が東京駅となっているのは同行の知人に購入をお願いしたからだ

販売を終了したきっぷなので説明は簡単にしておくが、南東北以南のJR東日本全線と、その沿線にある一部私鉄、三セクが乗り放題のきっぷ。名の通り週末の2日間で有効。祝日が重なって3連休となった場合は、そのうちの2日間で有効。大きな特徴は新幹線や特急に乗車した場合でも乗車券部分が有効だということ。つまり特急券だけ買えばよい。前回までの記事で利用していた北海道&東日本パスや青春18きっぷの場合、特急利用には乗車券も一から買わなければならず、新幹線ワープを考慮した場合、新たな出費をするべきかどうか大いに悩まされるが、週末パスの場合は追加料金なので悩みは少ない。また利用できる私鉄、三セクも地方の渋めの路線が勢ぞろいしているので利用価値は高い。いつも書いていることだが、私鉄や三セクは運賃が高いことが多いので心強い味方なのだ

記憶にあるだけでも、私はこの週末パスを利用して、しなの鉄道、上田電鉄、長野電鉄、阿武隈急行、福島交通、アルピコ交通に乗車した。西日本在住の私にとって唯一の困った点だった前日販売については最近、えきねっとで事前購入すれば発券は当日でもOKとなっていたので利便性が上がったと感じていた矢先の販売中止だった

とにかく未乗路線として残っていた、このフラワー長井線は週末パスの販売があるうちにぜひ行かなければならないと今回の旅となった

ラーメン大好き小泉さんとともに

乗車したのは「ラーメン大好き小泉さん」ラッピング車両。赤湯駅のある南陽市ではラーメンによる町おこしを行っていて2016年には市役所に日本初のラーメン課が設けられた。その縁で人気漫画とのコラボが行われているが、2年前からそのラッピング車両が走っている

実はこの時点で時間は16時。どうやっても、ここから長井線を進んく時間はないが、せっかく今日も明日も長井線を乗降自由なのである。そして明日もそれほど時間があるわけではない。だったら1駅でも回収しようと選択したのが

登録有形文化財の西大塚駅である

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~いったん中締め次回は盛夏

※訪問は2025年3月10日

もうひとつの学校駅へ行くはずが

銀世界のりんご畑を宿川原駅のホームで眺めながら中央弘前行きに乗り込む。次に向かうのは次に向かうのは弘高下駅。中央弘前のひとつ手前。大鰐線は14駅中4駅が学校名を冠した駅となっているが、今回の訪問では最後となる。今日はJRの弘前駅近くに宿をとっている。繁華街という意味では中央弘前付近に泊まる方がお店もいろいろありそうだが、翌日が朝早いことを考えると、さすがに弘前駅前である

弘高下から弘前駅までは徒歩で約20分らしい。弘高下で降りてのんびり弘前駅まで歩けばホテルに着くころには夕暮れの手前ぐらいになるのでは、という計算だ

ただ「らしい」と書いたのは訳があって、その行程をとれなかったのだ。膝の痛みがかなりピークに達しつつあって、さすがに断念

中央弘前まで乗り通すことに

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車中で気付いたこと

川沿いを3分ほど歩き

最初に降りた蓬来橋のバス停に到着。現在の時刻は16時過ぎ。バス停を降りたのが11時前だったので、5時間ぶりの帰還。それほど長い時間ではないが、随分と密度の濃い5時間だった

ここから先のことは

この時にも書いたが、時計回り一方通行のバスがこんなに時間がかかるとは思わなかった。次に来る時は大丈夫

さて大鰐から乗車した際、気付いたものがある

りんごの吊り革。そう言われると過去にどこかの媒体で見た記憶がある。これだけ何度も乗り降りしていて全く気付かなかったのは、乗車した電車がいずれもガラガラだったからだ。朝夕の通勤通学ラッシュを外すように乗ってしまったこともあるが、電車が来る→乗る→空いている席に即座るの繰り返しである。徒歩予定がある時はドアの前に立って車窓をひちすら凝視するので、こちらも吊り革には目が行かない。大鰐が始発駅だったので、やや余裕があったからだ

最多利用の駅で1日251人

2023年度の駅別利用者数を見ると、1日あたりの利用が最も多いのはもちろん中央弘前駅だが、その数は251人。2位の大鰐駅が150人で以下は2ケタ以下。弘南鉄道のもうひとつの路線である弘南線は弘前駅が1037人、黒石駅が624人であることを考えると、寂しい数字となっている

沿線には学校が多い。にもかかわらず学校最寄り駅の利用が、いずれも2ケタにとどまっているのはJRやバスとの競合、また学校がスクールバスを運行していたりするからだという。それでも廃線を2028年春と3年先にしたのは2025年度に入学する生徒さんの卒業時期を考慮したため。明確で責任ある意思表示と言える

弘前電気鉄道として開業したのが1952年(昭和27)。地方の私鉄として経営は決して楽ではなかった大鰐線だが、私自身は間もなく当地に赴く予定である。7月上旬を盛夏といって良いのかどうか分からないが、昨今の気候状況だと、もう盛夏といって良いだろう。その際は弘南線も回るつもりだ。銀世界とは真逆の景色を眺めよう

こちらは駅の待合所で見かけた弘南鉄道の除雪車「ラッセル君」のポスター。土俵入りまで行うまわし姿のラッセル君。一瞬「えっ?」と思ってしまうかもしれないが、青森県は数多くの名力士を輩出した相撲どころで、ラッセル君は力持ちでもあるのだ

ラッセル君とは無縁な季節になりそうだが、残る駅をすべて訪問してから、あらためて大鰐線を詳しく紹介するつもりです

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~利用者最少の駅まで根性見せよう

※訪問は2025年3月10日

ちょっと迷った末に

こちらは鯖石駅前の「継電器室」。当駅が交換可能駅になった時に設置されたものか。次の中央弘前行きは約30分後にやって来る。それまで雪景色でも眺めて過ごそうか、と思いつつ地図を眺めていると、ふとあることに気付いた。「30分以内に歩けば宿川原駅も訪問できるんじゃないか?」

ただしこれは正直迷うところではある

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痛む膝と地方幹線道路あるある

鯖石と宿川原の距離感はこんな感じ

線路の駅間距離は1・3キロで歩いても大して変わらない。徒歩20分と指南されたので十分間に合いそうだ。ただ石川駅から義塾高校前駅まで歩いた際、水たまりを飛び越えた時にズキンとなった膝が痛い。しかしここで宿川原を回収すれば義塾高校前から大鰐までの6駅すべてが回収できる。7月にも当地訪問を考えているため、大鰐のひとつ手前の駅をポツンと残しておくのはいかがなものか。ちょっと迷った末に

ゴーサインである。こちらは鯖石駅近くにあったもの。何か確認しようと思ったが雪で近づけない。というか余裕がない。とにかく前へ進むのみ

宿川原への道程は7号という幹線国道を進む平坦コース。以前の記事にも書いたが、この日は気温10度超えで晴れそして無風。積雪に目を奪われがちだが、徒歩には絶好のコンディション。これだけの積雪を眺めながら気持ちよく歩ける環境というのは、そうはなさそうなぐらいの徒歩日和だったが、とにかく膝が痛い

それでも歩く

駅間徒歩を行う時は、二度とない機会だと思ってまめに写真を撮るのだが、後で見るとこの1枚しかなかった。よほど余裕がなかったのだろう

ご覧の通りさすが一桁国道。歩道もきれいに除雪されていて歩くことに何も問題はない。もちろん車はビュンビュン走っている。もっとも「地方幹線道路あるある」で車の通行量は凄いが歩いている人はほとんどいない。朝だったらワンちゃんの散歩の方に出会うものだが、15時という時間ではそれもない。ドライバーの方からすると、大きめのリュックを背負って足を引きずりながら誰もいない国道を歩く年寄りはきっと奇異な不審者に見えたに違いない。実は「通報されたらどうしよう」とちょっと思った(笑)

そして列車出発の10分前に無事到着した

移動の歴史を持つ利用者「2」の駅

無事に到着した駅は奥に見える山の積雪と重なった景色が美しい

スロープから単式ホームに入る。待合所があるだけの簡素な構造。当駅の開業は1952年(昭和27)で、大鰐線の1期生だが見た目が妙に新しいのは2002年に移転しているからだ

地図で見ると鯖石寄りに宿川原大橋があるが、以前はもっと大鰐寄りにあった。駅は橋に寄り添うような場所にあったが、橋の移転と同時に鯖石寄りに200メートル移転した。当駅は町村制施行で大鰐村(現大鰐町)の一部となった宿川原村に基づく。「宿川原」を検索すると全国に無数に同様の地名があることが分かる。その中にはもちろん南武線の宿河原駅(川崎市)もある。「宿川原 時刻表」で検索したところ、こちらの駅は上位ではなく南武線の駅のほか、大阪府茨木市の宿川原停留所が出てくる。1970年の万博会場付近はかなりウロウロした方だが、恥ずかしながら国道171号沿いのこの地名は全く知らなかった。そしてバスの本数も多い。検索上位に来るはずだ

話は少しそれたが、川に近い宿という意味で全国に多くの「宿川原」があるのだろう。地図にある駅近くを通る県道201号はおそらく国道7号の旧道で集落がある。ただ駅と橋の移転は集落からやや離れただけでなく平川の向かいにある集落からも遠くなってしまい、そのためか当駅の2003年度の1日あたりの利用者数は、わずかに2人とJRの閑散ローカル線のような数となっている

ホームの向かいはりんご畑となっている。これはこれで美しい景色で現在は全く異なる景色となっているのだろう。ただ駅の実用という意味では、りんご畑に面しているのでは利用者が少ないことは容易に想像できる

電車がやって来た。山の積雪にりんご畑そして単式ホーム。鉄道の写真としては映えるものかもしれないが、かつては集落と橋の結点に駅が存在したことを思うと、少し寂しい気持ちになってしまう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~細長ーい待合所が印象に残る

※訪問は2025年3月10日

再び大鰐町へ

石川プール前から1駅大鰐方面へと戻って鯖石駅に到着

この駅間はわずか800メートルということは前記事に書いたが、うまい具合に20分で折り返しが来るダイヤとなっていたので、これは電車に乗る一択だろう

のんびり歩くとほぼ同時刻着となりそうだ。もっともいずれにせよ当駅でのんびりした待ちタイムになってしまうのだが

そして再び大鰐町に入っている。駅の北側にある橋が市町の境界になっているようだ

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ひときわ目立つ待合所

駅でとりわけ目が行ってしまうのはホームの待合所。細くてぐーんと高く感じる。なぜこのような構造になっているかというと、当駅は駅舎もないホーム+待合所のみの駅ながら列車交換可能駅だからだ。現在は朝の通学時間帯を除くと昼間は1時間に1本の運行となっているが、以前はもっと多かった。1981年(昭和56)には快速運転を実施、交換設備のある駅を増やすことになって白羽の矢が立ったのが、ここ鯖石

そのためホームを100メートル大鰐寄りに移設したが、スペースの確保にも限界があったようでホーム幅は現在のものが手一杯。現在の姿となった(過去のホーム跡らしきものがあるかどうか見たが確認できなかった)。通過列車があると危なそうだが、現在は快速の運転はなくその心配はない。待合室横にぶら下げられた使用されていない列車案内表示になごりが残るのみだ

待合所はその際にできたものだが、中に入ると細さがよく分かる

所狭しという表現がピッタリだが、当駅の1日あたりの利用者数(2023年)は30人。そのような状況が訪れるかどうかは分からない。ちなみに14時58分着の電車で降りたのは私のみだった

正式駅名は魚ヘンに青

当駅を語る上で、もうひとつ見逃せないのが「正式駅名」である。この記事もずっと「鯖石」と書いているが、サムネや待合所の写真を見ていただければ分かるように「鯖」の文字は右側が「青」。弘南鉄道HPにも鯖石という駅名の隣に「駅名のサバ=魚へんに青」と注意書きがある。要は駅名の旧字体が環境依存文字になっていてPCで文字化けする可能性があるため、このような表記になっている

環境依存文字については、文章の最後に「●」は「●の下に●」と注釈が入ることが多いが、近年はその存在そのものが一般的に浸透していて、超有名人などについては注釈なしで、その部分だけひらがなにすることが多くなっている。今書いている記事については、ひとつひとつ●になってしまうのも面倒なので「鯖」の文字を使わせてもらっている

そもそも鯖石は当地で地名で江戸時代にはその名が見られるそうだが、当時は「青」が使用されていたが、現在は「鯖」が使用されていて「青」は駅のみとなっている。駅の開業は1952年(昭和27)と大鰐線の一期生で、現在に至るまで「鯖」に変更することは十分可能だったと思われるが、ここまで「青」で頑張ってきた。さすがにこれから駅名が変更されることはないだろう

こちらは構内踏切からのホームの様子。減便によって交換設備は不要になってしまったのかと思いきや、朝の7時台と8時台の計2本、当駅での列車交換が見られ、そのもようは弘南鉄道HPに動画でアップされている

開業当初から駅舎が設置されることはなかった駅。一見、何もないようで実は歴史や環境依存文字までも教えてくれる駅である

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~路線の最新駅は全国唯一の「プール駅」

※訪問は2025年3月10日

2つの自治体のみに所在

前回記事の続きになるが、大鰐駅の様子。ちょうど旅行者らしき若いカップルが券売機できっぷを求めるところだった。繰り返しとなるが、大鰐線内の有人駅は中央弘前と大鰐の2駅のみ。他の駅には券売機すらないのでご留意いただきたい

大鰐から乗車して3駅目

石川プール前に到着した。ここから中央弘前まですべての駅が弘前市に所在する。大鰐線の各駅は弘前市と大鰐町にしか所在しない。全14駅(起終点含む)のうち13駅が弘前市、残る3駅が大鰐町。これまでの各駅紹介では、もともとの所在自治体を記してきたが、1952年(昭和27)と戦後の開業の大鰐線でも駅の所在自治体の統合が進んできたことが分かる

大鰐からやって来ると鯖石までが大鰐町、石川プール前からが弘前市と市町境をまたぐ形になっているが、両駅間の距離はわずか800メートルしかない

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唯一の平成生まれ

石川プール前駅の開業は2002年と平成14年で大鰐線唯一の平成生まれ駅。義塾高校前駅の記事でも触れたが、こちらの開業が1987年の昭和62年で二番目に新しい駅となっているので15年の差がある。もっとも平成になって新駅がどんどんできているようなら廃線にはならないのだが

単式ホームに待合所のみの簡素な構造。待合所は部屋の形にはなっておらず、いわゆる吹きさらしだ。銀世界の存在が雰囲気を後押ししているが、周辺にはこれと言って何もない。国道7号線方面まで歩けば集落がある

「これ」というもの、それがすなわちプールである

尼崎市の駅はちょっと違う

雪に埋もれて何のことか分からなくなっているかもしれないがホームに隣接して「弘前市立温水プール石川」がある。温水プールを造るのだから、周辺にはもともと何もないはずだ。地図を見ていただくとプールに隣接して清掃工場があることが分かるが、そこから出る熱を利用した温水プールとなっている。駅は温水プールとほぼ同時開業。つまりほぼプール利用者のための駅となっている

こちらは駅の出入口とプールの位置。駅の構造について待合所は吹きさらしと記したが、寒い日でもギリギリまで施設内にいれば、風雪の中、長時間駅で待つこともないのだ

そして当駅で特筆すべきは「日本唯一のプール前駅」だということ。プールが付くだけなら阪神電車に「尼崎センタープール前」駅があるとのツッコミを受けそうだが、こちらは泳ぐためのプールではない。30代のころ、5年ほど尼崎市民だった。それより前の若いころはボートレースに随分凝っていたことがあって、こちらの駅には随分とお世話になったが「泳ぐプールだと思って降りてみたら違った」という勘違い話を耳にしたことがないほど「プール前」が泳ぐプールでないことは認知されている

温水プール石川のHPを見ると料金は大人も1回330円と安い。年末年始以外は基本的に開館しているようだ。当駅の2023年度の1日あたりの利用者数は21人。コロナ禍前はもっと多い数字だったようだ。敗戦後の当館アクセスがどうなるかはまだ未定だが、子ども同士、中高生同士でプールに行く手段が減ってしまうのは残念である

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~駅名が一致しない珍しい共同使用駅 

※訪問は2025年3月10日

終点ならぬ起点駅に到着

大鰐駅に到着。これで大鰐線は完乗である。そして当駅は路線の起点駅。弘前市の中心部にある中央弘前からここまでやって来たのだから、中央弘前が起点で大鰐が終点だろうと思ってしまうが真逆。これはなぜかというと、以前の記事でも紹介した通り中央弘前から先への延伸計画があったからだ

中央弘前から先も板柳まで延伸することになつていたので起点は大鰐。ただしこれはあくまでも帳簿上のもので実際に乗ってみると大鰐駅には終点感が漂っている

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除雪車とのランデブー

あらためて大鰐駅。除雪車と旅客用電車のランデブーが美しい。降りて気付いたのだが、この日一度も見かけなかった同業者(鉄道ファン)が何人か同乗していて皆さんと並んでの撮影会となった。これだけいらっしゃるのなら前記事で紹介した義塾高校前駅での積雪の岩木山をバックにカーブ状ホームに入線する「ツーショット」もおすすめしてあげたくなった

大鰐駅は奥羽本線の大鰐温泉駅との共同使用駅。共同使用駅にもいろいろなパターンがあって、こちらは改札は別だが改札内でホームはJRと弘南鉄道で自由に移動できる形式

改札内は自由移動という形式はかつての国鉄が三セク化されたものに多く見られ、元々が同じ会社なのだから使用ホームもそのままということになっている

大鰐駅のようにJRと(一度も国鉄になったことのない)私鉄によるホームの移動も自由という形式は意外と少なく、有名なのは三重県における津、松阪、伊勢市の近鉄とJRによる共同使用だが、三重県内でも鳥羽や桑名のように自由な往来ができなくなった駅もあり、どちらかといえば減少傾向にある。確かに完全なライバル関係にある会社、路線が改札内の空間を共有しているのは、なかなか現代風ではない

そしてさらに特筆すべきなのは共同使用駅でありながら駅名が異なるという点。ホームも同じなのだから駅名は同じにするのが利用者にとって便利だろうと思うが、弘南鉄道は「大鰐」、JRは「大鰐温泉」である。このパターンはなかなか珍しく、大鰐から比較的ご近所のJR東日本と津軽鉄道の「五所川原」「津軽五所川原」、JR九州とくま川鉄道の「人吉」「人吉温泉」ぐらいしか思いつかないが、人吉については元々が国鉄の同駅だった

スイマセン行けませんでした

もっとも駅名が異なるといっても最初からそうだったわけではない。最初はともに「大鰐」「五所川原」だった。大鰐駅については国鉄駅の開業は1895年(明治28)と、なかなか古い。弘前電気鉄道の乗り入れは半世紀以上後の1952年(昭和27)だ。1970年に弘南鉄道に経営が移ったタイミングで「弘南大鰐」と最初の駅名変更。ところが1986年の国鉄民営化の1年前に再び「大鰐」に戻る。先の記事でも触れたが、同じタイミングで新石川駅も石川駅へと変更されている。これで1年後に発足したJR東日本と弘南鉄道で同駅名となったが、今度はJRが1991年(平3)に「大鰐温泉」と現在の駅名としたため、せっかくの同駅名回帰はわずか5年で終わりを告げてしまった

当駅は2面3線のJR、島式の弘南鉄道と計5つのホームがあり、弘南鉄道は4、5番線。ともに行き止まり形式となっていて冬場は最初の写真のように除雪車が留置されているようだ

JRと弘南鉄道のホームは跨線橋で結ばれている。駅の出入口は南北にあるが、北口は弘南鉄道のみの出入口、南口はJRと弘南鉄道の出入口はそれぞれ別に存在している。つまりJRのきっぷで大鰐温泉駅で降りても北口からは出られないわけで

はがれかけているが、このような注意の張り紙がある。ただ私がこの日持っているのは弘南鉄道のフリーきっぷ。堂々と南口(の弘南鉄道出入口)に行けるわけで、跨線橋を登って向かう-というのが、ごく普通の行動なのだが、とにかく膝の痛みがかなりのものになっていて跨線橋の階段は無念のパス。これ以上悪化して動けなくなるわけにはいかない

北口にはかわいい駅舎があって駅員さんはここにいる。以前は南口しかなかったそうだが、1981年に北口ができて利便性が向上した

駅舎は道路に面しているわけではなく通路を歩いて外へと出る

こちらは駅舎というより駐車場と社員詰所の雰囲気

左側に目をやると、すっぽり雪に覆われたバス停があり、間近まで行くことも困難だが「予約制バス」と記されていた

現在は14時半。もう少し頑張ってみよう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~うらやましいほどの絶景に思うこと

※訪問は2025年3月10日

JR駅との分岐

JRの石川駅へと向かう途中に道案内がある

周辺は住宅地。東奥義塾高校・中学への道程を示している。右手前に行けばJRの石川駅。今は携帯アプリがあるので困った時はスマホを開けばいいが、以前だと住宅街の中で道に迷ってしまうかもしれない

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遠い200メートル

JRの石川駅である

普通のみの停車だが2面3線と立派な構造。奥羽本線は当駅を境に大鰐温泉(弘南鉄道の大鰐駅と所在地は同じ)側と弘前側で単線と複線に分かれる。そして大鰐温泉から再び複線区間となるのだが、1区間だけ単線となっている理由が大鰐線唯一の陸橋だと何となく想像できるのは現地で初めて分かることである

その石川駅だが、跨線橋から駅の全景を見る時間はあったにもかかわらず、やめた。どうも先ほどの水たまりをジャンプする際に膝に負担がかかったようで階段は極力パスすることにした。駅の待合室にはすでに電車を待っている東奥義塾の生徒さんがいた。来た道を戻っていよいよ義塾高校前駅を目指すことにしよう

「義塾高校前」と書かれた立派な案内看板があるが、実はここから以外と遠い

JRの石川駅と大鰐線の義塾高校前駅の関係性はこんな感じ

徒歩10分ほどと意外と遠い。地図で分かる通り、直線距離だと200メートルほどだが、この間には農地が広がっていて道路はなく回り込む必要がある

雪の向こうに

歩いていくと雪の向こうに駅が見えた。手前はおそらく農地だろう

そして義塾高校前に到着。単式ホーム構造で1987年(昭和62)の開業で大鰐線では2番目に新しい駅

周辺は農地ばかりで、もともと駅を設置する理由もない場所だが、弘前市の中心部にあった東奥義塾が当地に移転してきたことに伴い、新駅が設置された

ホームには待合室そしてきっぷうりば。平日朝の利用者が多い時間に駅員さんを派遣できる態勢が整っている

待合室は多くの生徒にも対応できるよう広く作られている

多くの生徒さんが集まり始めた。まだ13時半を過ぎたところだが、これは聖愛中高前駅でも見た光景で本日は試験などで早めに終わる日なのだろう。彼らは13時43分の弘前方面行きに乗るようだが、私は13時50分の大鰐行きに乗る

2番目に新しいとはいっても40年近い歴史を持つ義塾高校前。ほとんど通学に特化した駅だが、2023年度の1日あたりの利用者数は53人と通学駅としては少し寂しい。JRの石川駅も学校最寄りとなっているために競合しているともいえるが、すでに紹介した聖愛中高前駅が63人、弘前学院大前駅が93人と学校最寄り駅の利用者は決して多いとは言えず、このあたりに廃線理由のひとつがあるといっても良いぐらいだ。そのあたりはあらためて触れてみたい

私が乗車する大鰐行きがやってきた。雪の岩木山を背に入線してくる電車。もちろん四季それぞれの景色があるのだろう。日々、こんな景色を見ながら電車に乗れるのは実にうらやましい限りだが、それは私があくまで一見さんだからなのか

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~苦難の雪中徒歩をしつつ大鰐線の歴史も

※訪問は2025年3月10日

地図を見て二兎を追うことに

石川駅構内の手製地図。大仏公園への道順が示されている。次の大鰐行きまで1時間、中央弘前行きまで50分の時間がある。大仏公園とは旧石川城跡のこと。石川は地域の要衝で戦国時代まで激しい攻防が繰り広げられた場所。歩いてもすぐなので、たまには城址見学も良いだろうと思っていたのだが、別の地図を見て気が変わった

駅周辺はかつての石川町の中心部であることは前記事でも紹介したが、JRの石川駅があり至近に大鰐線の義塾高校前駅がある。道中コンビニもあることだし、おそらく1時間もかかるまい。弘前学院大前駅~聖愛中高前駅のように近くはないが、ここはJRと大鰐線の2駅回収、つまり二兎を追う作戦を発動してみようということになった。もちろん、ここから本当の雪中行軍になるとは想像すらしていなかったのだが…

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JRと全く並行する地方私鉄

大鰐線は中央弘前と大鰐を結ぶ路線だが、この区間はJRの奥羽本線と全く並行している。私鉄が国鉄(当時)に戦いを挑むように新路線を敷設するのは都会では珍しいことではないが、そもそもの人口が少ない地方では例は少ない。にもかかわらず弘前電気鉄道が新路線を開業させたのは、当初は弘前市を抜けて板柳町まで延伸させる予定だったからだ。三菱電機の支援を受けたことも後押しした。1952年(昭和27)と戦後間もない開業ながら最初から電化されていた。奥羽本線の電化はずっと後のことである

ただ開業後は国鉄や路線バスとの競合もあって苦戦が続く。1970年に弘南鉄道に経営が引き継がれた。弘南鉄道では細かく駅を設けて通学需要に対応、地元からの支援も受けて対抗してきた。現在、奥羽本線の弘前~大鰐温泉は途中に1駅つまり石川駅しかないのに対し大鰐線は12もの駅がある

その貴重な1駅であるJRの石川駅にも行けるのだから、これは徒歩の価値があるというもの

早速、線路と並行する道路を歩き始める。その道中はというと

こうなっている。駅の周辺案内図とは違って旧石川町の中心部を通らずショートカットするルートで、これなら大した距離ではない。ちなみに渡がスマホで開けたのはナビタイム先生で、ナビタイム先生はグーグル先生の地図で山田毘沙門天堂を通るコースを指南してくれた

岩木山とりんご園を見とれた後に…

やがてりんご園と岩木山を望む場所にやって来た。大鰐線には「りんご畑鉄道」の愛称が付けられているが、これは美しい。そして3カ月を経た今は全く異なる景色になっているだろう。この景色を見られただけで、この季節に来て良かったと思った。ただし、そんな気分は間もなく吹っ飛ぶ

前掲の地図を参照していただければ分かるが盛り土となっている奥羽本線の下を抜けてすぐに右折のはず。しかしそこにあった光景はというと

お~い!(号泣)

こりゃ無理だろう。足跡はあるが、私はそのような靴は履いていない。しばしぼう然。今さら駅まで後戻りなんてできないが、盛り土をくぐる前に線路に沿っていると思われる道があったことを思い出す。つまりはグーグル先生イチオシの道だが、その時にグーグル検索をする余裕など全くない。とにかく前進するのみ

ところどころに水たまりがあって私の靴では浸水注意だが、そんなことは言っていられないので、ソロソロ進む。後で写真を見返すと大鰐線唯一の陸橋がJRをオーバークロスする路線の見どころだったようだが、それは後で気付いたことで、そんな余裕はない。だから交点の写真も撮っていない

すると今度は

大きな水たまりが行く手を遮る。まるで陸上競技の水濠だ。しかも道が先で右に折れていて、その向こうがどうなっているのか不安がつのる。ただJRの線路は2本になっていて踏切が見える。駅はすぐそこだろうと、スリップに注意しながら道路の右へりを進み、最後はジャンプ。それなりの重量のリュックを背負っていることもあって、元々具合が良くなかった右膝がイテテとなったが、何とか通過

広い道まで出ることができて先ほど見えた踏切から駅の跨線橋が見えた。ようやくたどり着いた。間に合った

JRの石川駅に到着である。自販機でしばし休憩しよう

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2028年春の廃線が発表された弘南鉄道大鰐線を雪中行軍~誰もが目を奪われる数々の備品

※訪問は2025年3月10日

急に変わった周辺の景色

聖愛中高前駅から石川駅で下車

所要時間は約15分。電車の中ではこの後、どのようにすれば良いのかばかり考えていたので車窓に目をやる余裕はなかったが、先ほどまでは弘前市の市街地にいる風情だったのが、駅を降りてみるとりんご園などの農地が広がっている

最初から徒歩移動が決まっていれば、車窓を凝視して道の広さはどうだ、坂はあるのか、とチェックするのだが、この時は出たとこ勝負のようになっていたというか、1時間に1本というダイヤの余裕もあって、予習不足気味だった。実はこれが後に大きな後悔をもたらすのだが、それは次回の記事に回すことにする。というのも、この石川駅、伝えることが多すぎるのだ

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ホキさんそして凝った?ホーロー駅名標

電車が去った後の島式ホーム。カーブ状になっているが、まず目につくのは手前にある車両である

ホキさんが停まっている。ホキといえば石灰石運搬のイメージだが、ここ大鰐線ではとうの昔に貨物輸送は終わっている。弘前電気鉄道から弘南鉄道に引き継がれたタイミングなので半世紀以上前のことだ。よく見ると「石川駅常備」と記されている。どうも保線用のものらしい。雪で覆われて分からないが、当駅には貨物用の側線が残されていて、ここに常備されているようだ

構内踏切を渡って駅舎に向かうとホーロー駅名標が出迎えてくれるが、こちらがあまりに斬新である

それまでの文字を隠しているようで隠されていない。「頭隠して-」という言葉があるが、頭も尻も全く隠されていない。「しん」という文字があったことが分かる

当初の駅名は新石川

当駅は1952年(昭和27)の開業で弘前電気鉄道が設置した大鰐線の1期生。当時の所在地は石川町で現在は弘前市。駅名は先の写真で分かる通り「新石川」だった。「新」が付いた理由は簡単ですでに国鉄の石川駅があったからだ。両駅はちょっと離れているため、同じ駅名にはできなかったのだろう。ただし石川町の中心部は新石川だった

公民館の場所がかつての町役場だと思われる。郵便局や小中学校などもあることから大鰐線は石川町の中心部に駅を設置すべくここに線路を設置したのだろう。石川城跡(大仏公園)も近い。事実、大鰐線はJRの石川駅を過ぎたあたりでJRをわざわざ路線内唯一の跨線橋となっている陸橋を造ってまで交差して石川町の中心部に入っている

駅名変更は国鉄民営化の1年前となった1986年4月。「新」の文字を外し、間もなくJRとなる国鉄の石川駅と対抗することとなった

誰もが撮影する看板

駅舎のある大鰐線では貴重な駅のひとつ。一見、普通に見える駅名板だが「石川駅」の左隣にわざわざ1マスで「弘南鉄道」と記されている。この1マスはかつては「新」だったのか

かつては有人駅だったが現在は無人駅。窓口は塞がれている。繰り返しになるが、大鰐線の有人駅は大鰐、中央弘前の起終点の2駅のみ。右奥のお手洗いは一応現役だった

そして石川駅といえば、こちら

当駅を訪問した人が必ず写真に収め、SNSにアップする警告の看板。私が当駅というか、はるばる神戸から大鰐線にやってきた目的のひとつと言っても過言ではない。随分と大柄なこわもての駅員さんが旗を振って注意喚起というより警告を発している。写真で分かるように作成者は石川小学校のPTA。全国の踏切や駅で見かける「きけん」というものと違って実にインパクト大である。廃線となった後も、倉庫やゴミ箱行きではなく弘南鉄道に限らずどこかの駅で次の人生を送ってほしい

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