青春18きっぷ

師走の外房線各駅訪問~交差点に名前だけでなくイラストも残す

行川アイランド駅の縦駅名標

※訪問は2023年12月14日

周辺は痕跡がごっそり

行川アイランド駅周辺の散策に入る。入るとは言っても周辺に民家は全くなく園の痕跡が残るのみ。ちょうどこのあたりは上総の国と安房の国の境界にある山中で、元々集落のない場所だった。集落がないので巨大な園を造ることが可能だったと言える

駅を降りると園に向かう道路。現役感のあるようなないような。南国らしい木はちょっと元気がないように見えるが、ちゃんと生きている。道路も雑草で埋め尽くされるところをギリギリ整備している印象だ

トンガリ屋根の、いかにも観光地ですのムードを醸し出している電話BOX。年間でどのぐらいの利用者がいるか不明だが、公衆電話というのはほとんど利用者がなくても天災などの緊急用に駅前など一定の設置が定められている。きれいに刈り取られた正面と乱雑に枯れ草が積み上げられた右側が対照的。そういえば利用者が限りなくゼロに近いような駅でも公衆電話は設置されているが、対自然の管理はどこが主体なのだろう

ちょっと陰の関係で見にくいが勝浦の地図もある。ただし行川アイランドは、現役の園のまま表示されている。左のフラミンゴのイラストとセットのまま

園とは道路をまたいで跨線橋でもつながっているが、下まで降りてみる。外房線の高架のふもとに大きな交差点があるが、ここは国道128号の分岐となっていて左に行くとバイパス、右は従来の国道。従来の国道を1キロほど行くと行川の集落と港に出る

分岐の交差点名が「行川アイランド前」だったので近づいてみると名前だけでなく、しっかりとフラメンゴのイラスト入り。細やかさがうかがえるが、閉園からすでに20年以上が経過。信号は新しいものに更新されているようだが、この案内板も20年も経っていないようにも見える。詳細は分からないが、交差点では園もフラメンゴも現役だ。考えてみると、ここはバイパスと旧道の分岐という重要な交差点で名称を変更するとカーナビに重大な影響を及ぼす。簡単に変えるわけにはいかないのかもしれない

子どもの時に見ていた特撮の舞台

さて、この交差点の右側にあるのが行川アイランドの痕跡だ

駅から最短で行ける跨線橋から見るとこのようになっている。手前は駐車場で建物は、その管理棟だったのだろうか。自然との共生をテーマにした行川アイランドはフラミンゴのほかに多くの鳥や動物を飼育、展示していたが、同時にテレビドラマのロケ地にもなっていた。最も多いのが子ども向けの、いわゆる特撮もので、特に「行川アイランド」「仮面ライダー」で検索すると多くのヒットがある。私がリアルタイムで見ていたものが、こちらで撮られていたのかと思うと感慨深いがある

跨線橋で駅へと戻る

おせんころがしとは

駅に残る名所案内を眺める

園は閉園になっているので残っているのが不思議だが、もうひとつの「おせんころがし」が理由かもしれない

上総と安房の国境は古代より断崖絶壁で船以外で通過するには危険な道を行かなければならない交通の難所だった。道の名前がおせんころがし

勝浦市のHPによると、古代に当地を治めていた非道な豪族が住民を苦しめ、娘のおせんが父親に改心を懇願するも受け入れられず、断崖から身を投げた伝説が道の名前になったという

何とも悲しい話だが、今も供養塔が残っている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~メインイベントの駅にいよいよ降り立った

行川アイランド駅の駅名標

※訪問は2024年12月14日

前日に解けた謎と初めて知ったこと

いよいよ到着である

行川アイランド。私の記事を連日読んでくださる方なら、お分かりと思うが外房線の各駅訪問では当然メインイベントになる

今さら説明不要かもしれないが、当駅は駅前にあった同名のレジャー施設の最寄り駅として開業したもの。同園の閉園後も駅名はそのままとなっていることで鉄道ファンは知られる存在だ

話は前日にさかのぼる。上総興津駅を訪ねた私は茂原方面へと折り返すべくホームで電車を待っていた。同じ乗車口で待つご婦人と、しばし雑談。地元の方で実家の年老いた母の様子を見に来た帰りだという

上総興津の隣駅が行川アイランドである

「行川アイランドって地元の皆さんはよく行かれたのですか?」

「そうねぇ。子どもを連れてよく行ったよ。といっても今50歳の息子が小学生の時だから」

えっ、と思った。そんな昔からあったのか

「ちなみにそこには何があったのですか?」

「一番有名なのはフラミンゴじゃないかな」

ようやく意味が分かった

ここでも記したが上総興津の駅前にある池になぜフラミンゴの置物があるのか、私にはさっぱり意味が分からなかった。電車に乗ってようやく理解できた。そうか、行川アイランドのウリはフラミンゴだったのか。しかもそんな以前からあったとは。無知だと言われればそれまでだが、呉ポートピアランドや倉敷のチボリ公園のように1990年代に各地で誕生し、やがて閉園したテーマパークのひとつだと思い込んでいた

調べると開園は1964年(昭和39)とかなり古く、私と2歳しか変わらない。1980年代の前半に東京で学生生活を送っていた私は知っていそうなものだが、全く知らない。情報量という意味では、当時は現在と比べると圧倒的に少ない。テレビや新聞のニュースで流れるか口コミ以外に情報はないのである。もっとも学生時代にディズニーランドが華々しくオープンしたことは大きなエポックとして知っている。同じ千葉県内でのディズニーランドの開園は行川アイランドの客足に大きな影響を及ぼしたというが、東京により近い場所に鳴り物入りで、そんな施設ができたのでは、それも当然かもしれない

時間を調整して訪問

行川アイランドには前年の暮れに内房線の各駅訪問を行った際に実は訪れるはずだった。安房鴨川まで到達して外房線の行川アイランドだけ訪問の予定だったが、滞在時間がハンパになってしまうので断念。1年待っての訪問となった

当駅の時刻表だが、9時32分に到着して10時10分で去る予定なので約40分の滞在。もっと効率的に15分ほどの滞在とする旅程もあったが、それではさすがに短すぎる。しっかり時間は調整したつもりだ

駅の開業は1970年。開園より8年も後のことで当初は臨時駅。まだ電化もされていない時代。優等列車の一部が停車する一方、普通の通過もあるという、いかにも臨時駅の風情だったが、1987年4月1日のJR移管時に正式駅に昇格した。すでにすべての普通が停車するようになっていたという。臨時駅としてのスタートを含めても外房線で最も新しい駅ということになる

かつては駅舎があったが、2001年の閉園からしばらく経って解体。現在は待合所とホームのみの駅。ICリーダーはホームの外に設置されている。開業時から棒状ホームで外房線で単式構造となっているのは三門駅と当駅の2駅のみである

駅周辺といっても遺構しかないのだが、ここから散策に入る

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~「終着駅」のひとつ手前 普通に読んでくださいね

安房天津駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

お隣は安房鴨川

勝浦からグンと南下して安房天津駅に到着。勝浦からだと5駅目で約17キロ。20分ほどで到着するが、駅名で分かる通り、すでに上総の国から安房の国に入っている。外房線の「終着駅」である安房鴨川までもう1駅。ただし昼の時間帯は、すべての列車は内房線にそのまま入って木更津まで運行される(多くの列車は安房鴨川で長時間停車するので乗り換えとあまり変わらないが)

前記事の勝浦駅の項で千葉から大原まで延伸されてから勝浦まで到達するのに14年かかったと記したが、勝浦から南側の延伸も時間がかかった。地形的に平地が少なくトンネル工事などが必要だったからで、上総の国の南端である上総興津駅まで開通したのが1927年(昭和2)で、1913年の勝浦到達から14年。安房の国に入り、安房鴨川まで到達して全線開業となったのは、さらにその2年後。安房天津駅の開業も全通時の1929年だった。上総一ノ宮到達から30年近くが経過していた。時代は明治から大正を通り越して昭和へ。難工事だったことがうかがえる

元々は天津町

安房天津の駅舎。広くて大きい。特急停車駅ではない(前後の安房鴨川と安房小湊にすべての特急が停車する)が、規模は大きくコミュニティーセンターとの合築。JR移管直後に現在の駅舎となったようだ

駅の開業当時は天津町。天津町は1955年に小湊町と合併して天津小湊町となり、2005年(平成17)の平成の大合併で鴨川市となった。特急停車駅は安房小湊駅に譲ったが、かつての町役場(現在は市役所の支所)は安房天津駅が最寄り

役場近くが海で町の中心部。国道128号の旧道が町中を貫いている。天津は漁業で栄え、勝浦の記事でも述べた通り、紀州(和歌山)との縁が深い地域で、紀伊の国から黒潮とともに多くの漁民が移住してきた歴史を持つという。九十九里浜とは対照的に天然の好漁場となる外房のリアス式海岸は漁業で繁栄した

駅舎内の案内図が分かりやすい

手書きの地図に癒やされる

そんな安房天津駅だが、現在は無人駅となっている。国鉄時代に無人化され、簡易委託を経て再び無人駅となった

しかし地元の小学生による周辺地図もあって心はなごむ

駅構造は2面2線。10両編成に対応できるようになっているホームは長い

さて、いちいち念を押すまでもないことだが

駅名は「あわあまつ」である。普通に読めばたどり着けそうで、決して難読地名ではない。ただランチタイムを含め、ついつい聞き慣れた、言い慣れた言葉を…

そんな読み方があるはずがない、とわざわざ書いているのは、恥ずかしながら自分が一瞬、そう思ってしまったからである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~「勝浦ネットワーク」でつながる外房観光の中心駅

勝浦駅の駅名標

※訪問は2023年12月14日

朝は茂原駅から

朝の茂原駅。外房線沿線で各駅訪問の拠点としてビジネスホテルも飲食店もそろっている駅となると必然的に茂原となる

朝食はロッテリア。実は昨日もレンタルのモバイルバッテリーをコンビニで借りた際、列車待ちをここで行ったので2日連続での登板である。旅に出ると、よくロッテリアのお世話になる。旭川、呉もそうだった。能勢電鉄で「妙見の森ケーブル」と「山下発山下行き」の体験を行った際は日生中央駅のロッテリアに短期間で2度も朝から訪れた。現在の平素の生活圏にロッテリアがないので、ちょっと不思議である

今日は外房線の主に南側を見てから北上し、千葉近辺の都会の駅にも行くつもり

最初に降り立ったのは

勝浦である

長年運行の拠点として栄える

外房線の各駅ではかなり知名度上位の駅だろう。外房観光の拠点でもあり管理駅。外房線の単独駅で管理駅は茂原と勝浦の2駅しかない。2022年の1日あたりの乗車人員は765人。うち定期利用は364人と定期外利用の方が多い。乗降1500人ということを考えると、新幹線駅でもない限り定期利用が圧倒的に多くなるはずだが、定期外の方が多いというのは、当駅の事情をよく現わしている

これまでも触れてきたように外房線の基礎は房総鉄道という私鉄による。千葉からの線路が大原まで延伸されたのは1899年(明治32)のこと。1907年に国鉄となり、しばらく経ってから工事に着手。1913年(大正2)に勝浦までが開業した。大原延伸から14年が経過していた。安房鴨川まで到達して全通となるのは1929年(昭和3)と実に16年後。地域の中心地としてまずは勝浦への延伸が優先された

そのような経緯から、かつては車両基地が置かれていた。今でこそ東京からの直通快速は上総一ノ宮までだが、25年前までは当駅まで乗り入れていた

駅前には長らく鉄道基地だった当駅を懐かしむようにSLの動輪が置かれている

その隣には

複線記念の石碑も

外房線の上総一ノ宮以南の複線については

この時記した通りである。当駅付近だと勝浦~御宿の1区間のみのわずか5・5キロが複線化されているが、1995年に同区間の複線化が行われて以降、具体的な動きはない

ひな人形がお出迎え

話は少し前後するが、改札を出て迎えてくれたのが

豪華なひな人形。これは「勝浦」という地名に基づくもの

千葉の勝浦も有名だが、和歌山の那智勝浦も知名度が高い。そして徳島県にも勝浦町がある。地名の一致は決して偶然ではなく、朝廷の儀式を司っていた斎部(忌部)氏が阿波の国に移住した後、黒潮に乗って千葉県まで進出したという説がある。和歌山の勝浦も斎部氏と関係が深いという。現在の千葉県に読みが同じ安房の国があったのも必然だった。現在、この3つの自治体は「全国勝浦ネットワーク」を結んでいて、3つの市町ではそれぞれ、ひなまつりイベントが行われている

ちなみに単なる「勝浦」は当駅。和歌山の駅は「紀伊勝浦」で徳島県の勝浦町には駅はない

だが、そんな華やかなひな人形を横目に改札付近を見ると

このような張り紙があった。訪問は12月14日だったので、この日を入れてわずか3日で、みどりの窓口は役割を終える。まさにギリギリだった

全く予想していなかった事態で、みどりの窓口と最後の対面になってしまった。今はもうないはずだ。管理駅としての機能は残るので無人駅になるわけではないが、定期利用の方が少ない観光客の多い駅でみどりの窓口なしはどうなんだろうと、ちょっと思ってしまった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~ドデカホーロー駅名標を見に行きましょう

新茂原駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

冬至前の日の入りは早く

八積から茂原をやり過ごし新茂原に到着。お隣は本納で外房線の各駅訪問を始めた駅。本納で降りたのが8時20分で現時刻が16時20分なので、途中モバイルバッテリーの不調によりロスタイムはあったものの、8時間をかけて元の場所に戻ってきたことになる。冬至寸前なので、この時間帯で暗がりが始まっている。冬の東北や北海道にはあまり縁がない日常を送っているが、東京は住んでいたこともあるし、出張で来る機会も多かった。この季節になると関西と関東の日の入り時刻の違いをいつも感じていた

そんなこともあって本日最後の訪問駅。後は宿泊地の茂原へ行くだけ。外房線の各駅紹介をしていく中で上総一ノ宮を運行の重要拠点駅として何度も紹介してきたが、人口や産業を見ると重要駅は茂原である。昼間に上総一ノ宮以南から北上していくと上総一ノ宮を境に1時間に1本の列車が1時間に2本となり、そこに茂原折り返しの電車が加わって1時間に3本となる。基本形は普通が2本と京葉線直通の快速が1本(蘇我まで各駅停車)。もうひとつ総武本線から東京駅へと向かう快速があり、こちらは上総一ノ宮を出ると大網までは茂原のみの停車となるが、昼下がりは運行されていない

とにかく新茂原には1時間に3本の電車が停車するので訪問は容易である

工場線の歴史も

島式ホームの1面2線駅。茂原市は天然ガスの採取地、生産地としては世界屈指であり、戦前は軍事的にも重要な都市となっていた。ただ当駅は戦後の開業。1955年(昭和30)のことだった。戦後といっても当駅付近はまだSLが走っていて単線非電化の時代。駅は高まりつつある需要に応えたものだったが、やがては茂原に集約されていた天然ガス関連の貨物輸送が手一杯となり、茂原は旅客専用となり当駅が分岐となった

分岐というより線路の付け替えで、茂原駅から三井化学の工場へと向かっていた線路を新茂原駅の北側から分岐する形とした。地図では廃線跡は分からないが、工場の西側を流れる阿久川沿いに線路が走り、新茂原駅の北側で外房線と合流していた。だから新茂原駅そのものには工場線の名残はない。ちなみに三井化学の工場は戦時中は茂原海軍飛行場があった場所で、元々の茂原駅からの貨物線は飛行場へ向けた線路だった

首都圏防衛のための飛行場は突貫工事で建設され、戦時中の1942年からわずか3年間利用されただけだった。工場への新茂原からの専用線も1981年から利用が開始され、JR移管後も貨物輸送が行われたが、1996年(平成8)に廃止。こちらも15年だけの利用だった

駅舎に残る旧駅名標

駅舎は開業時からのもの

1日に2000人以上が利用する駅で有人の営業時間は16時30分まで。閉店ギリギリの訪問だった

そして当駅で価値あるものは

現在も駅舎に掲げられているホーローの駅名標。古い駅名標の保存はどのような基準があるのか私には分からないが、ホーローの駅名板はたまに見かけるものの、これだけ大きいホーロー駅名標は、なかなか出会えない。これを見るだけで十分に価値があると思う。なお以前のローマ字表記は「shin」で現在は「shim」である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~千葉県唯一の村は複線電化区間の道中

八積駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

東京まで乗り換え、追加料金なしで80分

日が傾いてきたので今日の宿泊地である茂原へと向かうが、ここで茂原近辺の駅訪問も行うべく八積駅で下車。車両を見て分かる通り、京葉線の電車。このまま乗ると東京駅まで乗り換えなしで連れていってくれる。時間帯にもよるが80~90分ほど。運行の要となる上総一ノ宮の一つ千葉寄りなので本数も多い。総武本線の快速は通過だが、京葉線の快速は停車するため昼間も1時間に2本の電車が発着する

なぜ東京までの直通や本数にこだわるかというと、当駅は長生(ちょうせい)村という村にある駅だからだ。長生村は千葉県唯一の村。駅の開業は1898年(明治31)年と古い。その1年前に上総一ノ宮(当時は一ノ宮)まで開通しているので、茂原と上総一ノ宮の間に新設されたことになる。ここまでいくつかの駅で紹介しているように、当時は外房線の沿線は村がいくつもあったが、現在は長生村だけとなった

開業時の駅名は岩沼。これは現在も住居表示として残る駅付近のいわゆる大字で、1915年(大正4)に現駅名となった。八積は当時存在した村の名前で8つの村が合併した成立したことに基づく(8つの村といっても町村制施行の時なので1つの村は小さい)。戦後に他の2つの村と合併して長生郡長生村となり現在に至る

立派な合築駅舎

長生村コミュニティセンターとの合築駅舎を持つが、駅の業務は同センターに委託しているわけではなくJR東日本の系列会社への業務委託で、つまりJR東日本独自である

改札口は小さいが、夕方までは有人

私の訪問時はちょうどその境目で駅に到着して外の写真などを撮っていると

先ほどまで営業していた券売機にはシャッターが降りていた。券売機も営業時間があるのはJR西日本では、あまり見ることのない光景だが、破損されると、いろいろな意味で高くつきそうなJR東日本の券売機に対し、簡易型の食券タイプの券売機を置くことで有人駅の業務を軽減しようという考えの違いだろう

コミュニティセンターのロビーが待合室を兼ねる形となっているようだ。当然ながらエアコン完備で心地よい空間である

長生郡では最大の人口

コミュニティセンターには2023年で、村が70周年を迎えた記念のイラストが張られていた

ただ県内唯一の村とはいっても人口は1万3000人を超えていて、これはお隣の一宮町より多い。それどころか長生郡にある5町1村の中で最も多い。一宮町以外の町には鉄道が通っておらず、千葉方面への通勤通学という意味では鉄道の役割は大きい。2022年の1日の利用者は乗車604人。つまり1200人の利用があるということになる

複線電化上にあることで高速での通過が可能なようである。ホームにいると猛烈なスピードでわかしおが過ぎ去っていった

福島県の西郷村には新白河駅という東北新幹線と東北本線の駅がある(ただしホームの一部は白河市にある)が、村に複線電化の駅があって30分に1本電車がやって来る例は、そう多くない。東京から手軽に行ける貴重な存在である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~開業時からの木造駅舎と不動のフラミンゴ

上総興津駅の駅名標

※訪問は2013年12月13日

元々は「上総国」南端の駅

太東駅から一気に8駅も南下して上総興津に到着。房総半島で目立つイメージがある「上総シリーズ」だが、外房線では上総一ノ宮と当駅の2駅しかない。そして外房線における上総の国と安房の国の「国境」という位置付けで、この後は「安房シリーズ」となるというか、なっていたのだが行川アイランド駅の誕生で微妙に事情が異なるようになったが、それについては行川アイランド紹介の際に記したい

駅舎は屋根のひさしの部分など、房総半島でよく見かける木造駅舎だが、水色塗装は内房線では駅に着く度に出会っていたが、外房線では初めて。結果的には、これが最初で最後となったが、なにゆえ当駅のみ水色になったのかは不明

旅から戻って気付いたのだが、閉鎖されていたような改札内の精算所の上に財産票があった。大正15年4月と記されている

ただし駅の開業は1927年(昭和2年)4月。昭和元年は1週間ほどしかなかったので、駅舎が竣工してから1年間、レールの到着を待ち続けていたことになる

何度も書いてきたが、外房線は房総鉄道という私鉄によって敷設が始まり、同社によって大原までが開業したのが1899年(明治32)。以降、国鉄への移管が行われ、さらに南下する工事が開始されたが、勝浦到達が10年以上が経った1913年。勝浦~上総興津が1927年で、こちらも10年以上の歳月が流れている

こちらは駅前にあった勝浦町の地図だが、これまで伝えてきた九十九里浜に近い地形とは異なり、細かい湾が連なる地形となっている。狭い場所に線路を通すのは、かなりの難工事だったのだろう

かつては興津町の駅

駅名は1955年まであった興津町に基づく。その後の合併で勝浦町となり現在は勝浦市。興津については「興」は「沖」を意味し、「津」は「港」の意味になるという。鉄路の建設は大変だったが、その分、天然の良港そして上総の国の南端として戦略的にも重要視され、戦後時代には攻防戦があった。また江戸時代には東北の各国からの船が江戸湾に入る際の寄港地として栄えた。また明治以降は遠浅で透明度が高い上、年に何回か干潮時に島とつながる景色が見られる守谷海水浴場に人が押し寄せるようになった

守谷海水浴場は現在も人気の海水浴場だが、駅からの距離がもっと近い興津海水浴場もあり、先の写真で精算所の窓口が2つもあるのは十分うなずける。ふだん通勤通学で使用している定期券を提示して精算を行う姿が目に浮かぶ

有人駅で営業時間は、これまでの外房線の駅で紹介したのと同じ9時20分から16時30分で、途中に休憩がある。朝夕に一部の特急わかしおが停車する

ホームは2面3線構造だが、端のホームは長期間使用されていないようで、そもそもホームらしい舗装も見えない

朝のモバイルバッテリーのトラブルのおかげで昼食は強制カットとなった。徒歩数分の町の中心部と思われる場所まで歩くと、地方都市でおなじみのヤマザキショップがあったため、パンとボトルコーヒーで飢えを凌ぐ

駅前の池を改めて眺めた

冬場で生い茂るものはなく、夏場の手入れについては分からない。石碑はそれなりに古いもののように感じたが、傍らにはフラミンゴの姿。姿といっても置物。実を言うと、どうしてここにフラミンゴの置物がわざわざあるのか全く理解できなかった。「フラミンゴの謎」が解明するのは、この後、電車に乗ってからである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~岬町のもうひとつの駅は「いかにも」の木造駅舎

太東駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

町名は有名すぎる岬から

冬の柔らかな日差しとともに長者町のお隣の太東に到着。各地を訪れる度に酷い雨に遭って、列車が止まったり、時には帰宅できずにもう1泊を強いられてしまうようなことも多い私だが、なぜか千葉県では好天に恵まれる。四季を通じて数え切れないほど千葉県の各地を訪れているが、仕事も含め、千葉の雨で記憶にあるのは、この1年前の2022年12月に行った内房線訪問の2日目ぐらいだ

その太東駅は旧太東町の駅で駅名もそれに基づくが、駅が開業した1899年(明治32)は太東村だった(長者町駅と同時開業)。自治体の変遷をたどると日本中に自治体が誕生した町村制施行時が太東村で、その後の合併を繰り返していく中で戦後に太東町となり、次いで長者町と合併して岬町に。そして平成の大合併でいすみ市となった

太東村の自治体名は昔からあったものではなく、九十九里浜の南端として知られる太東岬から付けられた

灯台と岬まで歩いて行く人はあまりいないだろうが、車だと10分もあれば十分に到達できる。ただし公共交通機関でのアクセスは悪いようだ。初日の出の人気スポットでもある

国鉄らしい木造駅舎

木造駅舎が健在。豪華すぎず質素すぎず、駅員さんの寝泊まりも可能-という地方の国鉄駅でよく見かけるスタイル。駅の設置は房総鉄道の手によるものだが、少なくとも駅舎は明治からのものではないと思われる。内房線、外房線ともに財産票を見つけられずに苦労した

駅名板は三角屋根の下、入口部分に掲げられている。こちらも年季もの

駅の所在地は「いすみ市岬町椎木」。駅舎は海とは逆側にある。「しいぎ」と読むそうで商店街がある。公共物の所在を見ても線路を挟んだ海と逆側が太東町の中心地だったようだ

駅舎内にも注目

外観とは対照的にホーム側の駅舎の風景は年代を感じさせる。ニャンコが爪とぎでもしたのではないかとも思ってしまう木製の柱も全国で見られる。なお番線案内に「3」とあるが

かつての2面3線構造は形こそ残るものの、中間にある2番線は写真で分かるように錆びたレールがあるだけで、事実上の廃ホームとなっていて1番線と3番線のみの運用となっている

有人の時間帯は長者町駅とほぼ同じの9時20分から16時30分までで、昼休みがある

何気なく貴重なのは精算窓口が有効なこと

駅舎内は有効スペースとして利用されていて

最寄り(といっても歩くのはちょっと遠い)の飯縄寺の解説のほか

や写真。さらには

地元の中学生による「今月の一冊」コーナーまで。いろいろな意味で飽きない駅となっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~木造駅舎のたたずまいと屋根の上の駅名板は特Aランク

長者町駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

素晴らしい駅舎紹介していきます

長者町駅に到着

さて駅の紹介は、どの路線も基本的に旅程通りに報告しているのだが、ここまで上総一ノ宮以南の駅を浪花、三門、東浪見と訪問。いずれも簡易的な駅舎ばかりだった。続けて読んでくださっている方は「なんだ、外房線は簡易駅舎ばかりか」と思われかねない。しかし、これはあくまで偶然。外房線の25駅(千葉と安房鴨川をのぞく)のうち、駅舎のない駅は圧倒的に少数で、たまたま電車のダイヤの都合でこうなってしまっただけ。ここからは素敵な駅舎を紹介していきます

そんな駅舎の中で私の中で特Aランクに入るのが、ここ長者町駅

趣のある木造駅舎。開業は1899年(明治32)と19世紀。上総一ノ宮(当時は一ノ宮)~大原が房総鉄道によって延伸された際に設置された。駅舎がいつからのものかは調べられなかったが、かなり古いものであることは間違いない

現役感あふれる

入口に乗っかっている

駅名板がいい感じ

当駅の良さは、時間制限があるとはいえ、基本的には有人駅であることだ。現在はいすみ市だが、平成の大合併まで存在した岬町の町役場最寄り駅で、今も「現役感」にあふれている。地元の観光協会や商工会の看板にもそれを感じる

順序が前後するが

電車を降りたホームからの景色も良い

改札口にもかわいい駅名標。こちらは「おかえりなさい」である

元々は東京の地名

全国で見かける長者町。地域によって由来はさまざまなようだが、こちらの長者町は江戸の地名に由来する。1回目の東京五輪直前まで住居表示として存在した下谷長者町(御徒町駅の南側にあった)は江戸幕府ができる前、「長者」という名前の方の豪邸があったらしく、できすぎの名前ではあるが、そのまま地名となり、江戸時代に入ってからは幕臣の邸宅が並ぶ町となった。幕臣の一人の領地が、ここ千葉県にあったため、江戸の邸宅の地名をいただき長者町となった。ちょっとややこしいが、当時から明治にかけての当地と付近一帯は漁村と農村が続いていたが、それぞれが「○○村」を名乗る中、当地はずっと長者町だった

線路がやってきたころは、いくつかの村と合併し、長者町として統合されていた。1961年(昭和36)に太東町と合併して岬町が誕生している

現在はいすみ市の岬庁舎となっている旧岬町役場までは徒歩10分ほど。駅前は町が広がる

JR東日本のHPによると有人時間帯は9時20分~11時30分と12時30分~16時30分。訪問時は有人時間帯だった

東京の長者町は住居表示から消えてしまったが、当駅の住所は今も「いすみ市岬町長者」である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

師走の外房線各駅訪問~超難読駅は関西人向け?不思議な複線区間上に存在

東浪見駅に到着

※訪問は2023年12月13日

これは読めません

三門から上総一ノ宮の1駅お隣まで戻って東浪見で下車。これで「とらみ」と読む。レベル高の難易度だ。浪花駅を前々記事で紹介したが、「ナニワ」と来て今度は「トラ」である。関西人にはなじみの深そうな感じもするが、こちらにおいては、そもそも読めないのだから、なじみも何もないかもしれない

所在地は一宮町だが、駅が開業した1925年(大正14)は、まだ東浪見村だった。戦後の1953年(昭和28)に一宮町と合併して自治体としての東浪見村はなくなったが、駅の所在地は今も「一宮町東浪見」である

九十九里の海岸に泥がたまり「泥海(どろうみ)」と呼ばれていたものが、なまって「とらみ」となり、当初は「虎見」と表記されていたのものが、やがて「東浪見」になったという。古い文献には虎見の地名も残っているそうで、そのままだったら、浪花→虎見という乗車券が売れる時代が訪れていたかもしれない。とにかく海は東にあって、そこの浪を見るわけだから、西浪見はあり得ないのだ

駅は小高い丘の上に設けられた形となっていて階段とスロープで駅舎へと向かう

駅舎は内房線や外房線でおなじみの簡易的なスタイル。といっても前者も貨車改造タイプなので簡易的駅舎には変わりない。かなり早い段階から無人化されていたようだ。上総一ノ宮からわずか1駅だが、当駅から運行本数が大きく減る

駅のホームは山に面したようになっているが、駅舎を出ると東浪見の街となる。九十九里浜までの距離は両隣の上総一ノ宮駅や太東駅よりも近い

こちらはホーム階段からの眺め

ICリーダーとベンチを備えた簡易的な駅舎。お手洗いもある。ちょっとオシャレな駅名標があるが、暑さ寒さを凌ぐという駅舎ではない。かつては貨物も取り扱いを行っていたようだが、面影は見られない

全線複線化の夢

跨線橋から構内を俯瞰すると複線区間にあることが分かる。外房線は東京からの直通電車がやって来る上総一ノ宮までが複線で、そこから先が単線というイメージだが、実は上総一ノ宮から1駅目の東浪見から複線となる。複線部分は長者町までの2区間、わずか6キロ。その先の御宿~勝浦の1区間約6キロも複線化されているが、上総一ノ宮から1区間が単線で再び複線区間が少し続くという、ちょっと変わった構造となっているが、これは全線複線化の夢の一端である

千葉方面から上総一ノ宮まではベッドタウン化が広がるとともに、部分的な複線化が続けられていたが、全線が複線化されたのは1986年(昭和61)の10月で民営化のわずか半年前。もちろんJR転換は決まっていて、このころは国鉄からJRへの手向けとして各地で追い込み工事や新駅の設置が行われていた時代

これで外房線の複線化は一度終わったが、民営化から数年が経って再び複線化の機運が高まり、1995年から1996年にかけて一部複線化が行われた。この複線化は特急のスピード向上には多少役立ったが、それから30年近くが経過しても複線化は進まず、現在の2両編成による1時間に1本の運行には設備を持て余し気味だ。ある意味、夢の跡となっている

なおマージャン愛好家にとっては、東浪見駅はかつて存在した麻雀博物館の最寄り駅として知られる駅だった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります