JR

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

比延駅に入線する125系

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

スポンサーリンク

大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その4 阪神間の迂回路として集まった注目

黒田庄駅に張られていた加古川線のポスター

※2024年12月10日

一度比延駅へ

利用客数を調べつつ、比延駅で下車。時刻は8時過ぎ。霧の中の到着だ

これまで加古川線の現状について語ってきたが、歴史についても触れてみたい

スポンサーリンク

水運の代替路線としてスタート

車窓からの眺めだが、加古川線の特徴は加古川に沿って走っていることだ

ピッタリ寄り添うように敷設されている。それもそのはずで、元々の目的は水運の代替手段だった。最初は播州鉄道という会社が加古川から西脇までの線路を敷設した。1913年(大正2)のことだった。この西脇とは現在の西脇市駅とは異なる。西脇市駅から北へ2キロ弱いの場所に存在し、今はない。後になってみると加古川線にとって重要な駅だったが、後に路線の運命を変えることが起きる。現在と同じ谷川への直通で、開業が1924年(大正13)12月27日のことだった。つまり100周年は、ここからスタートしている

ただ敷設にあたっての問題は谷川へは野村駅と名乗っていた現在の西脇市駅で分岐していたことだった。分岐が西脇でなかった要因は線路の設置予定地まで川を2回渡る必要があり、またすでに市街地を形成していた西脇の街の中に線路を通すことは難しかった。この部分の工事を請け負ったのはシリーズの最初で触れた播丹鉄道という会社で、播州鉄道はすでに播丹鉄道に吸収された形となっていた

このため野村駅で分岐する形となった西脇からは、さらに線路が延伸され途中駅となった

現在の路線名となったのは1943年(昭和18)に行われた戦時買収。加古川~谷川が国鉄の加古川線となり、西脇を含む路線は鍛冶屋線という加古川線の支線となった

分岐点は国鉄民営化

大きな転換期となったのは鍛冶屋線の特定地方交通線指定(1986年)と国鉄民営化(1987年)。鍛冶屋線の廃線は避けがたいものとなったが、野村(現西脇市)~西脇の1区間については業績堅調で、加古川からの列車は多くが西脇まで直通されていて、どちらかというと加古川~西脇が加古川線の主力の扱いとなっていて、この区間のみの存続も検討されたものの結局は廃線。西脇市を境に運行本数が大きく変わるほぼ同じ形となった。「ほぼ」としたのは、当時は非電化だったからだ

加古川線そのものの利用者は西脇駅を失ったことで、さらに減少していた状況で迎えたのが1995年1月17日の阪神淡路大震災。阪神間の線路は寸断され、西明石以西は間もなく運転したものの、姫路方面から大阪へ行くことはままならない。そこで迂回路として注目されたのが加古川線だった。単線非電化路線の上、谷川駅で福知山線への直接乗り入れができないという欠点はあったものの、多くの人が加古川で乗り換え谷川を目指した。JRも臨時便を増発。4月1日に全線復旧(当初の見込みより、かなり急ピッチだった)するまで多数を運び続けた

この一連の経過、つまり加古川線が非電化で、緊急時に山陽本線、東海道本線のバイパスとして不便だということが電化の機運を高めた。費用を地元が負担するという形で2004年に電化が行われた。つまり昨年は電化20周年の年でもあったのだ

だが利用者数の低迷で近年、西脇市~谷川の閑散区間は再び危機が報じられるようになっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その3 早朝から単行電車に乗車したわけ

黒田庄駅の加古川線100周年を祝う張り紙

※訪問は2024年12月10日

薄いダイヤ

福知山線の分岐駅である谷川駅の時刻表

パッと見ただけで本数の違いは一目瞭然。福知山線も昼間は1時間に1本の運行となっているが、さらに少ない

拡大するとこのようになるが、時刻表の空白部分に告知などを掲載するのは全国共通である

スポンサーリンク

9時発では次がない

このダイヤを見ると利用状況の調査うんぬんよりも、これに乗らざるを得ないことがよく分かると思う。平日のみ運行の6時9分は物理的に乗車できないし、次の9時ちょうどでは単純に西脇市まで乗って終わりになってしまう。「次」がないのである。西脇市以降は1時間に1本の運行が確保されているが、過去に全駅訪問済みとはいえ、せっかく来たのだから、特に本数の少ない谷川~西脇市はいくつかは降りてみたい

9時ちょうどに乗ってしまうと次は3時間以上空いて12時10分、さらにその次は再び3時間以上の空白で15時13分。朝が終わると夕方までほとんど運行がない、これまでも当ブログでたびたび出てきた典型的なローカル線の運行パターンだ。西脇はそう遠い場所ではなく、神戸の中心部からだと車なら1時間ちょっとで行けてしまう場所なのだが、もちろんそれは高速道路の使用があるからで、鉄路でも神戸の中心部である三ノ宮からだと15分に1本の新快速に乗り加古川まで30分、加古川からの乗り換えも1時間に1本の運行があって西脇市まで50分と、乗り換えを入れても90分もあれば行ける場所のイメージがあるが、少し離れただけで、このような現状が待っている

JRでは貴重な単行可能な新車の電車

今回主に乗車したのはJR西日本の125系である。ご覧のように単行での運転が可能で加古川線内では主に単行の運用となっている

電車というのは車内にいろいろな装備を詰め込む必要があるため、長らく最低の運行単位は2両とされてきたが、近年は技術の進歩で単行でも可能な車両が生まれたり改造されたりしている。ただJRでの新車となると四国の7000系と、この125系しかない

JRの単行電車といえば

今も現役で宇部線、小野田線を走るJR西日本の123系が有名だが、これは余剰戦力となった郵便荷物用の電車を改造したもので新車ではない。JRで単行可能な電車の新車が生まれない理由は、基本的な考えとして電化区間=利用客の多い路線だからだ。古くから電化されていて現在は乗客の少ない区間や路線はできるだけ最低単位の2両で運行するか、古い車両の改造で対処するというのが基本的なスタンスである。電車の新車を投入するなら利用の多い路線となる。近年は蓄電方式の車両も登場しているが架線は不要である

だが、この125系は2003年デビューと近年になってからのものだ。投入は小浜線と加古川線。JR四国7000系は四国内で電化が進む中で製造されたもので、同じ路線には特急列車も走る。特急車両が電化なら、普通用も電化となる道理だが、小浜線と加古川線に優等列車は走らない。ではなぜ21世紀になって新車が投入されたかというと、両線がほぼ同時期に電化され(小浜線が2003年、加古川線が2004年)、しかもそれは地元負担によるものだった。加古川線に話を絞ると、当時すでに西脇市~谷川は利用者の少ない区間だったが、それでも電化された。それには30年前の阪神淡路大震災が大きくかかわってくる

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その2 朝の通勤通学帯の利用者数は?

加古川線の100周年ラッピング車

※訪問は2024年12月10日

乗継ぎを待って出発

同一ホーム乗り換えができる谷川駅での福知山線と加古川線の乗り換え。谷川駅の福知山線列車は上下とも駅舎側つまり加古川線ホームのある側のホームに到着するが、列車交換の時間帯では跨線橋を渡ったホームも使用される。ちょうどその時間帯だったようで、私が乗ってきた福知山線の普通は7時32分に到着して6分間停車する。その間に大阪行きの快速がやってきて7時38分に上下列車が同時に出発。加古川線列車は乗継ぎを待って7時42分に出発する

私が車内で出発を待っていると、おそらく大阪行きからの乗継ぎだろう。あわただしく2人の夫婦らしき方が乗り込んできて、その直後に出発となった

スポンサーリンク

出発時の利用者数は?

さて、その出発時の乗車人員はというと

6人

である。もちろん私も含まれている

私が最初に車内に乗り込んだ時の様子。1人死角に入っているが、私を入れて4人。ここに前述の2人が加わった。18きっぷの初日だが、同業者(鉄道ファン)はいない。最初の3人は地元の方のようだ。後からのご夫婦は、どうも跨線橋を降りて一度逆方向に行ってしまったようで「危なかった」と話しているので地元の方ではないようだ

今回のテーマは加古川線の西脇市~谷川の利用状況を見ること。後に触れるが、全線50キロに満たない加古川線は、加古川~西脇市と西脇市~谷川で歴史も異なれば、利用者数も大きく異なる。ほとんどの電車は西脇市で運行が分断される。利用者の少ない後者は7駅しかない(西脇市と谷川をのぞく)が、過去の体験でも着席が困難だった記憶はない。ちなみに全駅訪問済みである

中吊り広告の位置に素晴らしいものがあった。途中7駅のうち久下村だけが丹波市に所属し、他はすべて西脇市にある。現地の校区のことは分からないが、西脇の高校に通うのなら船町口あたりから高校生が乗ってくるのだろうか。乗車車両の西脇市到着は8時12分。まさに通学に乗ってください、という列車でだ。次の電車は1時間以上後なので高校には行けない。この電車に乗るための早起きだった

結果を書くと

久下村 乗車1 降車0

船町口 乗車2 降車0

本黒田 乗車6(すべて高校生) 降車1

黒田庄 乗車7(高校生6) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗車1 降車2

で、いったん下車。つまり降車客のうち1人は私だ。西脇市までは、この後は新西脇駅のみしかないが、新西脇駅近辺からなら自転車通学だろう。結論から言うと高校生の12人を含めても20人ちょっとの利用者だった

比延で下車した後の私は一度黒田庄まで戻り、黒田庄から再び西脇市行きに乗車して新西脇で降りた。このあたりの過程は後に記すが、その道中の利用は

8時26分比延発谷川行き

先客8人

比延 乗車2(私を含む) 降車0

日本へそ公園 乗車0 降車2

黒田庄 乗車0 降車1(私)

9時16分黒田庄発西脇市行き

先客4人

黒田庄 乗車1(私) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗降ともに0

新西脇 乗車1(私) 降車0

という状況。周囲は公園のみの日本へそ公園で朝の8時台に2人降りたのは驚いたが、公園内で働いている方々だろうか

それを除くと「私」がドアの開閉に重要な役割を果たすことになってしまった。これは想像を大きく下回る結果だった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その1 新生18きっぷの旅は早朝から

谷川駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

早朝の尼崎駅からスタート

時刻は朝の6時前。冬至目前のJR尼崎駅前は真っ暗だ

手には改訂されて初めて手にする青春18きっぷ。たまたま18きっぷ期間の初日となったわけだが、それは今回の件とあまり関係ない。少しでも寒さがマシなうちに、というのが本音である。さらに言うと3日間利用のこの日がメインイベントであって、朝の時点では翌日と翌々日のことは考えていなかった。前日の時点では天気が悪ければ、訪問日を翌日か翌々日に変更してもいいと思っていたほどだ

前記事で三岐鉄道北勢線での自動改札機におけるオペレーターとの通話システムについて記したが、その時に例として挙げたJR西日本の同システムは尼崎ほどの大きな駅にもある。西口は有人だが、東口はほぼ無人状態で、ここを通らなければならないが、新生18きっぷはここでの面倒な作業は必要なくなった

とにかく6時1分の福知山線福知山行きに乗車して出発である

スポンサーリンク

多くの高校生でにぎわう

大阪から福知山に行くには、この列車が事実上の始発となる。福知山線のさらに早い便もあるが、宝塚や新三田止まりで福知山まで行かない。また時間が経つと福知山線は篠山口での乗り換えが必要となるため貴重な1本。過去何度乗ったか分からない。ただ4両編成という窮屈さで朝の5時台という時間ながら、かなりのお客さんがいる。今日は座れないということはないだろうが、18きっぷの最盛期は大阪から乗らないと着席に危険信号が灯る列車である

何とか座席にはありついて篠山口も通り過ぎて下車したのは

1時間半後の谷川駅。「たにがわ」ではなく「たにかわ」と読む

広い待合室がある。5年以上前に来た時は自販機が並んでいる場所が売店だったはずだ。待合室で多くの人がテレビを見ていた。今もテレビはあるようだが、訪問時は消えていた

それでも1899年(明治32)の開業で昭和初期に改築された立派な駅は多くの高校生でにぎわっていた。過去、高校生の記憶がないのは当駅訪問が週末ばかりだったからかもしれない。自宅からご両親に駅まで送ってもらう地方都市ではおなじみの光景

緑の窓口もあって一部の特急も停車する

にぎわうホームの片隅に

ただ私が用事があるのは

跨線橋の隣を抜けての切り欠きホーム

西脇市行きの電車が待っていた。100周年のヘッドマークが付いている。加古川線は昨年暮れの12月27日に100周年を迎えた。式典のニュースもテレビで流れていたが、厳密に言うと全通100周年で、野村(現西脇市駅)~谷川が開通して現在の加古川線の形となった。手がけたのは播丹鉄道という播磨と丹波から1文字ずつとった会社である。国鉄の谷川駅に間借りの形となった。それゆえ福知山線と加古川線の線路はダイレクトにはつながっていない

線路そのものはつながっているが、スイッチバックのような形をとらなければならないので旅客列車は直通できないのに等しい。それが問題になるとは、30年前の阪神淡路大震災まで誰も予想だにしていなかっただろう

加古川線ホームは現在、番線の数字も与えられず単に「加古川線のりば」となっているだけで、まるで別会社のようで現状を物語っているようでもある

30年前は多くの人が谷川線と福知山線の間にあるホームを慌ただしく行き来していた。今回は再確認の半日旅である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~番外編 不思議なJRと名鉄の線路共用

小坂井駅の駅名標

※訪問は2022年6月12日

※動画あり音声注意

豊橋駅の不思議な構造

豊橋駅の写真なら、いくらでもあると思っていたが意外と撮っていなかった。こちらは2019年6月30日のもの

豊橋駅は初めて来る人は面食らってしまう構造となっている。名古屋まで完全なライバル関係となる名鉄と改札を共有するどころか、名鉄のホームは飯田線と東海道本線に挟まれる形で存在する。三重県でも津や松阪、伊勢市でも改札の共有が行われているが、両社のホームは別で、厳密にはそれぞれが駅舎を所有していて、桑名のように自由通路を設けることで改札口も別にすることは可能だが、豊橋だけは永久に変えられそうもない

JRの構内の一角というか真ん中に名鉄のICリーダー(乗り換え用)やきっぷ売り場があったりするが、これも歴史の積み重ねのひとつ。なかなか飯田線を扱う機会がなく、お蔵入り気味になっていた平井信号場の紹介を番外編として取り上げることにする(訪問は2022年6月12日)

スポンサーリンク

かつては重要駅だった小坂井

豊橋から飯田線で3駅目。小坂井で下車

駅舎は平成になってから建て直されたもの。コンクリート構造の簡易的なもので無人駅。1日の利用者数(2022年)は787人。周辺は主に住宅街だが、近くにある名鉄の伊奈駅や東海道本線の西小坂井駅に比べると、両駅が名古屋から直通できることもあって少ない。ただ、かつては名鉄の乗り換え駅の時代もあり、また運行の重要駅でもあった

平井信号場へ

冒頭で豊橋駅のホームについて触れたが、小坂井に至るまでの飯田線の2駅である船町と下地のホームに立っていると名鉄の車両がやって来る。営業列車でお客さんも乗せている。あまり旅人が行く駅ではなく、日々利用している方にとっては日常の光景なので驚く方はほとんどいないが、初めて遭遇するとビックリするはずだ。そして名鉄の車両は普通もすべてこの両駅を通過するのだが、JRと名鉄が同じホームを走行するシーンは飯田線のひとつのハイライトともいえる

ではJRと名鉄は一体どこで分岐するのか。その分岐点が平井信号場。信号場というと山中の近寄りがたい場所にたたずむイメージがあるが、平井信号場は違う

10分もかからず歩けてしまう。通行量の多い道路で歩くには注意が必要なほどだ

信号場とは平井踏切。名鉄、JRともに複線区間となっていて、こちらは下り線(名古屋方面)の分岐地点。踏切の上で分岐するという見やすい構造

さっそく踏切が降りて列車が来るようだ

名鉄車両が来て

あっという間に通過

去っていった。右に行けば飯田線である

元々は民民協力事業

これまでの記事で何度も書いているが、飯田線は4社の私鉄が戦時買収で国鉄となったもの。この部分を「担当」したのは豊川鉄道という会社だったが、その後に名古屋から豊橋へと線路を伸ばしてきたのが愛知電気鉄道(現在の名鉄)である。当初は伊奈から小坂井へと敷設され、豊橋(当時の駅名は吉田)へと向かうには小坂井で乗り換える形をとっていたが、やがて直線で豊橋と結ばれるようになったのが1927年(昭和2)。豊橋へは豊川鉄道、愛電ともに単線だったが、この部分は両社で共有して利便性を向上させようということになって現在の形が出来上がった

現在のJRの線路を名鉄が走る形となったのは、戦時買収で豊川鉄道が飯田線という国鉄路線となったため。吉田駅は国鉄の駅名だった豊橋に変更されて同じ駅となったが、線路の共有だけは変えようがないので南側の部分は国鉄が、北側の部分は名鉄(1935年から名古屋鉄道)が所有することになり、JRになった今もライバル同士が同じ線路を共有するという形態が続く。グーグル地図では両線からの点線部分が重要で注目点である

今度はJRの車両がやって来て右側へと進路をとっていった

小坂井駅と伊奈駅を結んでいた名鉄の線路は名鉄が戦後、独自に豊川線を敷設したため廃止。分岐の操作を行っていた小坂井駅もCTC導入によって分岐をつかさどる役割を終えた

なおライバルが呉越同舟する形となっている豊橋駅だが、飯田線との線路共有のため名鉄は豊橋駅への乗り入れが毎時6本に制限されているジレンマを抱えているため、普通列車の多くは隣の伊奈駅で折り返すという形式をとっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その15 戦時買収から外れ私鉄のままだった路線

本長篠駅はふだんは有人駅

※訪問は2024年10月27日

バスの路線図が物語るもの

本長篠の駅舎内にはバスの路線図と時刻表が大きく張り出されている

これはかつてあった豊橋鉄道田口線の代替バスだ

スポンサーリンク

鳳来寺参拝と材木運搬

こちらがバスの時刻表。すべてのバスが鳳来寺の参拝道と田口に行く

豊橋鉄道田口線は前身を田口鉄道といって現在の本長篠駅から設楽町の中心である田口を結んでいた22キロの路線。現在、県道32号が土砂崩れで通行止めとなっているようだが、元のルートは県道32号とほぼ同じでUターンして寄り道するようになっている箇所が鳳来寺の参拝道にあった鳳来寺駅。終点の三河田口駅は木材の集積に便利なように田口の町からかなり離れた豊川に近い場所にあったようだ

田口鉄道は資本的にも飯田線の前身となる豊川鉄道、鳳来寺鉄道と密接で鳳来寺鉄道は1929年(昭和4)の田口鉄道開業時に、それまでの「鳳来寺」という駅名を田口鉄道に譲り「鳳来寺口」と改めたほどである。鳳来寺までの参拝客と材木の運搬が目的だったが、豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同じく国鉄と同じサイズの狭軌、しかも電化されていたという。この規格のおかげで戦後、豊橋鉄道に引き取られることになったが、戦時買収の対象から外れ国鉄にならず、国鉄が運行を管理するというハンパな扱いとされるだけだったことが後に影響する。国鉄の運行管理は戦後に終了。豊橋鉄道田口線として再出発したものの、材木運搬や利用者の減少そして台風による水害の影響で1968年(昭和43)に廃線となった

本長篠駅は構内踏切を渡ったところに島式ホームがあるが、駅舎に面したホーム跡らしき場所にぽっかりとスペースがある。これが田口線の跡らしい。規格が国鉄と同じであるため、鳳来寺観光の直通列車も運行されていたらしい

来春に訪れる変化

その一方で当駅は来春、変化を迎える

すでにスタンバイ完了に見える。これは分かりやすい。ICリーダーの読み取り機だ。来春に当駅までIC乗車できるようになる見込み。飯田線は現在、豊橋~豊川の8・7キロのみIC乗車ができるが当駅まで拡大される。23キロもの延伸だ。この区間内にはさすがに1日の利用者数が1ケタという駅は存在しない。本長篠も2022年の利用者は419人と92駅(豊橋、辰野をのぞく)中28位

ただ立派な駅舎がありながら、改札付近にリーダーを設置するのではなく雨ざらしの構内踏切に設置するあたり、すでに駅舎移転と取り壊しが念頭にあるのか、などといろいろ考えてしまうのだ

18時前、豊橋到着。すでに大都会。前日の塩尻旧駅跡、リニア新幹線予定地、ダッシュ疑似体験から始まり、飯田からの各駅訪問と起伏に富んだ2日間だった。駅近辺で夕食を兼ねて一杯やった後に帰宅。ただしすぐには新幹線には乗らない。せっかくの青空フリーパス。せめて名古屋までは在来線で向かおう

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その14 100歳を超えた駅舎訪問は今のうちに

本長篠駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

ゴールは見えた豊橋まで32キロ

本長篠に到着。時刻は16時を回り、秋の日は暗くなり始めている

ホームのかたわらにある32・1キロのキロポストは豊橋までの距離。飯田から195・7キロもある飯田線のゴールはもう間もなく。これは大阪~神戸(33・1キロ)と、ほぼ同じ距離だが、残念ながら飯田線には25分で結んでくれる便利な新快速はないので、トコトコと1時間かかる

スポンサーリンク

急増する運行本数

本長篠駅の時刻表。左が豊橋方面、右が飯田方面だが運行本数が大きく異なることが容易に分かる。当駅折り返しの列車が多数あるためだが、当駅が運行の重要駅だということも分かる。もちろん特急「伊那路」停車駅

開業時からの駅舎

本長篠の駅舎。少し離れて撮らないと全景が入らないほど横長の木造駅舎は開業時からのもの

当駅は1923年(大正12)に鳳来寺鉄道によって設置された。鳳来寺鉄道は飯田線の原型となる4私鉄のうちのひとつで、当駅をはさむように大海~三河川合を結び、それぞれ両端で豊川鉄道、三信鉄道と接続した当時の駅名は「鳳来寺」。会社名を名乗る駅となった。鳳来寺は当駅から車で約20分の名刹だが、現実的には湯谷温泉駅からの方が近い。ただ路線バスは本長篠駅から出ている

駅舎にある財産票は

大正12年12月となっている。開業は同年3月なので微妙なズレがある

駅名は開業から6年後に「鳳来寺口」となった。さらに1943年(昭和18)の戦時買収時に「本長篠」と変更。ちょっと話はややこしいが、当時の駅の所在地は「長篠村」で、別に「鳳来寺村」があったため、駅名変更は現状に基づくものだった。しかし戦後にこれらの村が合併して「鳳来町」が発足。過去に手放した駅名が自治体名となった。以降、本長篠駅は鳳来町の中心駅となった(平成の大合併で新城市となる)

駅舎建替えか

そのような歴史を持つ本長篠駅は今年で101歳。鳳来寺鉄道が建設した貴重な駅舎となっている

かつては管理駅でもあったが、現在は新城市の簡易委託駅

この駅舎が移設、建て替えの対象になっているという。現在の駅舎は老朽化している上、地形的に地滑りの可能性があるため、駅そのものを現在の位置から少し北に移動しようという案があるのだが、その場合、JR東海は窓口もお手洗いも設置する予定はなく、早い話が簡易型の駅舎とする構想だという。もし窓口やお手洗いを設置したいのなら、新城市に費用負担が求められる

新城市の答えはまだ出ていないようだが、建て替えの理由が地滑り危機という自然災害が影響している以上、何らかの形での駅舎の変更は免れることはできない。豊橋から1時間で行ける上に本数も多い。101歳の勇姿には早めに会いに行くことをおすすめします

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その13 超難読駅は路線ナンバーワンだった

出馬駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

静岡県へ一度戻る

東栄駅から1駅戻る。1駅戻るということは静岡県に再び入るということになるが、ダイヤ的には東栄で、そのまま次の豊橋行きを待つと1時間20分の待ち時間。だったら約40分の待ちで静岡県の出馬駅へ向かい、出馬で30分過ごせば、もともと乗車予定だった豊橋行きに乗れる

初めて降りる駅となったが、大きな目的のひとつが駅名標の撮影である

スポンサーリンク

選挙には関係ありません

真っ先にサムネ写真で紹介しているように「出馬」(いずんま)と読む。まず駅名を見て「まさか『しゅつば』ではないよね」とは思うだろうが、それ以上は無理というもの。駅名が学業向上にあたるとの理由で知名度が上がるという話はよく聞くが、こちらはあくまで「出馬」であって「当選」ではない。だから縁起担ぎや必勝祈願で選挙に出た人が訪れたという話もあまり伝わってこないので、知名度的には、難読駅としての存在が上となる

しかしいざ駅で降りてみると、存在感はなかなかのもの

こうして見ると単式ホームと待合所のみという、お決まりの駅の姿。かつては交換可能駅だったという話もあるが、確認ではなかった。問題は駅への出入り口

ホームの端まで歩くときっぷ集札の箱があり、そこが出入口。細い道が続く。写真で分かる通り、左手には民家が並んでいるが、右側は農地そして川で生活感はあまりない

振り返るとこんな感じ。当然だが、車で近づくことは不可能である。さらに進むと踏切があり

ここが本質的な出入口。遠くにホームが見える

隣駅への距離は路線最短そしてもうひとつの最○

出馬駅は1934年(昭和9)の開業。三信鉄道が北へと線路を伸ばす過程で東栄(当時は三信三輪)~中部天竜(当時は佐久間)開業時に設置された。敷設と同時からあった駅となる

難読の駅名については「馬を飼育する牧場があった」「川から泉が湧き出た『いずみ』がなまった」などあるようだが、詳しい由来は分からなかった。

当駅のポイントのひとつは隣の上市場駅との距離。600メートルしかなく、駅間距離が1キロを切ることが多い飯田線でも最短となる。徒歩だと線路の上をまさか歩くわけにはいかないので、もう少し長くなるが、それでも1キロを切っている(ただし県境越えとなる東栄へは4キロ以上の距離がある)

踏切を渡ってみても集落の逆側にホームと出入口が設けられた理由は分からずじまい。普通は人の生活のある側に設置される。交換設備をなくす際、道路拡張のじゃまになるから出入口ごと逆側にされてしまったのか

いずれにせよ付近の住民にとっては不自由な構造となっているわけだが、実を言うと、ここ最近の利用実績は不自由も何もないのである。とにかく、ここ数年の1日あたりの平均利用者は、限りなく「0」に近い「1」なのだ。2022年のデータでは「金野」「伊那小沢」と並ぶ「1」は飯田線92駅(豊橋、辰野をのぞく)で最下位タイ。秘境駅号停車駅と並んでいるのだ。ちなみに「田本」は「2」、「小和田」は「9」である

さらに言うと、この「1」にはしっかり順位付けがあり、小数点以下の数字は分からないが、出馬は堂々の92位である。これは帰宅して調べてから分かったものだが、周囲にこれだけ民家がありながら限りなくゼロに近く、なおかつ最下位とは知らなかった。小数点以下の数字はすぐ変わりそうで2023年以降がどうなっているかは分からないが、てっきり金野が最下位だと思っていたので驚いた

駅にあった周辺案内図。いつのものかは分からないが、出馬駅の案内図というより、お隣の上市場駅の案内図となっている。周辺に民家がありながら、利用者がほとんどいないという駅は珍しくはないが、民家もあって、上下11・5往復あっての「0」はあまり見かけない。おそらく周辺の民家から通学する生徒がいなくなってしまったのだろう。訪問して、そして帰宅してなお一層驚かされた駅となった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その12 車窓から目をひく駅舎は「鬼」

東栄駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

愛知県最東端の駅

東栄駅に到着。家族を見送るお子さんの姿が絵になる。ここから飯田線は愛知県。ようやくという感じだが、豊橋までまだまだ先は長い。そして駅名標で分かる通り、ここは北設楽郡東栄町。小和田駅から当駅隣の出馬駅までは静岡県だが、静岡県内の飯田線はすべて浜松市天竜区に所在。つまり政令指定都市の「区」にあたるわけだが、平成の大合併が昨日のように感じる私のような世代にとっては政令指定都市=都会のイメージがこびりついていて違和感を持ってしまう

そして当駅は愛知県最東端の駅である

スポンサーリンク

目が釘付けの駅舎

当駅を語る上で絶対なのが、利用者を迎えてくれるあまりにも特徴的な駅舎。当駅には特急は停車しないが、ぼんやり車窓を眺めていると「エッ!」と身を乗り出してしまう。今回、下車駅に利用したのは、もちろんそれが理由なのだけれど(笑)

東栄駅は1933年(昭和8)に三信鉄道によって開業された。当初の駅名は「三輪村」。三輪村に所在したので三輪村となったのだが、その後「三信三輪」となり、国鉄に戦時買収された際に「三河長岡」となった。長岡とは町村制施行以前にあった村名で、当時の地域名でもあった。1956年に三輪村は編入される形で東栄町の一部となり、直後に駅名も現在のものとなった

地図を見ると、すぐ近くに静岡県との境界があり、愛知県最東端だということがよく分かるが、東栄町の中心部である旧本郷町とはかなり離れている。それでも町内にただひとつの駅ということで、地元で愛される存在だということは駅舎を見れば容易に分かる

車窓からはインパクト絶大な駅だが、外からはかなり普通で、工夫が施されていることがかえって分かりやすい。無人駅だがカフェが入居している

これが財産票のようなものだが、1992年(平成3)に地元の木材を使用して建てられたそうだ

もちろんJR東海らしく「正式な」財産票もしっかり張られていることは言うまでもない

モチーフは鬼

ホームに降り、構内踏切を渡ると駅舎前で待っているのは

チェーンソーを持った鬼。凶器を持った鬼に「WELCOME」と言われても、となるが

傍らに解説がある。この鬼はオニスターという町のゆるキャラ

駅前の観光案内図を見ると、鬼は木を切るだけでなく、山に登ったり温泉に入ったりと大忙しである。鬼は地域に伝わる花祭で鬼の舞を行う重要な役割を担う。花祭は奥三河の重要行事で各地で11月から1月にかけ各地で開催。また東栄町はチェーンソーアートでも知られ、駅にチェーンソーを持った鬼がいるわけである

こちらは駅舎内のカフェ入口。駅前には民家以外、これといったものはないが、町の中心部まではコミュニティバスが運行されていて、このバスは豊根村まで運行されている。豊根村といえば、飯田線では静岡県にあるのに愛知県の村の入口として有名な大嵐駅があるが、豊根村は旧豊根村、旧富山村と2つの村域に分かれていて、旧豊根村は東栄駅が、旧富山村は大嵐駅がそれぞれの最寄りとなっている

かつての貨物用線路が今も残る当駅の1日あたりの乗降客数は108人(2022年)となっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

スポンサーリンク