JR

大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その2

南小谷駅の改札

※訪問は2024年9月10日

所要時間は列車と同じ

南小谷は1日1往復ではあるが、特急「あずさ」が新宿からやって来る。所在地は「小谷(おたり)村」で、なかなか初見では読めないが大糸線に乗車していると何度も繰り返しアナウンスされるので1度乗車すると読めるようになる。電車特急の終着駅が「村」というのも、ある意味凄いことだ

列車が到着すると構内に増便バスの案内アナウンスが流れる。青春18きっぷでも乗車できる旨も放送された。この日は2024夏の18きっぷ最終日である

時刻表によると南小谷から糸魚川まで約1時間。これは列車とほぼ変わらない。ただし必ずしも既存の駅前に停車するわけではなく交通新聞社の時刻表にも欄外に「北小谷駅のバス停留所は駅から約750メートル、中土駅のバス停留所は駅から約1200メートル離れています」と記されている。750メートルはギリギリ許容範囲だが、1200メートルはちょっと離れすぎだろう。大糸線の電化区間内は駅間が近い場所がいくつもあるが、おそらくそれよりも長い

定刻より3分ほど遅れてバスがやってきた。私はバスについては詳しくないが、空港のリムジンバスでよく見られる形式である

なにゆえ山中を通るのか

大糸線は松本と糸魚川を結ぶ105キロの路線。歴史をさかのぼると、元々は信濃鉄道という私鉄が松本~信濃大町に敷設したことに始まる。沿線には観光地も多く利用も好調。1916(大正5)に全通すると、わずか9年後には電化を完了させた

と同時に信濃大町から糸魚川に至る旧千国街道は、新潟から信濃に塩を運ぶ古来からの役割に加え、軍事面でも注目されるようになった。有事の輸送はもちろん、山中奥深くにあることが「敵の攻撃を受けにくい」となったのだ。有事に備えた山中の鉄路には現在の天浜線もあてはまるが、計画時はまだまだ航空機ではなく海上からの攻撃の時代。海沿いの線路よりも山中の線路が「いざ」という時に役立つという発想だった。元は鹿児島本線としてスタートした肥薩線も、海沿いルートを走る鹿児島本線に名称を譲りながらも有事の貴重なルートであり続けた

そのような経緯で昭和に入ると国の手によって糸魚川を目指す工事が始まった。1935年(昭和10)には南小谷を越えて中土まで開業。糸魚川からは小滝までが開業した。それぞれが大糸南線、大糸北線と名付けられた。間もなく信濃鉄道も国家買収。通常、両端の駅にちなんだ路線名は、それぞれの駅名から1文字ずつ取るものだが(水郡線のように事実上の始終着駅から1文字取ることもある)、途中駅の信濃大町から「大」の字をとった大糸線という名称は、国鉄が工事に着手した際に決められ、信濃鉄道の買収後もそのままにされたゆえのものである

ただ小滝~中土は冬季の積雪にも見舞われる山中の難工事で、全線開通となったのは戦後10年以上も過ぎた1957年。国防という当初の役割は終わっていた。そもそも人が少ないと分かっていた場所にあえて敷設した路線。戦後に行われた電化工事が南小谷までで終わったこと、国鉄民営化の際に電化、非電化区間で会社が変わったこと。北陸新幹線の開業で大糸線沿線の観光地へは新幹線利用の方が早くなったことなど、マイナス要素が積み重なった

現在、糸魚川から松本までの経路をグーグル先生に尋ねると北陸新幹線を利用した長野経由のコースが案内される。そちらの方が早い。黒部観光の入口となる信濃大町へも長野からのバスルートが優勢である。大糸線105キロのうち非電化区間はわずか35キロしかないが、糸魚川から白馬、信濃大町、安曇野といった観光地へ移動するのは本数も少なく直行列車もない。いわば負の積み重ねとなっているわけだが、今回の増便バスは今夏の青春18きっぷ期間中は、かなりのお客さんを乗せていたと聞く

18きっぷの最終日、1時間のバス旅を始めよう

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大糸線の非電化区間を1日4往復補完する増便バスに乗車~その1

大糸線の増便バスで糸魚川に到着

※訪問は2024年9月10日

乗車は南小谷から

南小谷駅までやって来た。時刻は13時20分。目的はこちら

来年3月まで運行されている「大糸線増便バス」に乗車するため。写真は白馬駅で撮ったもの。糸魚川~南小谷の大糸線非電化区間は1日7往復と少なく(県境となる平岩止まりが他に2往復ある)、糸魚川での新幹線乗り継ぎや、南小谷での大糸南線乗り継ぎが不便であることから、さらにバスで4往復を加え乗り継ぎをよくしようというもの。特に北陸新幹線については昼間も1時間に1本の停車があるにもかかわらず、大糸線との接続があまり考慮されていない。かつて大糸北線の全駅訪問を行った時も最初の壁がこれで、最初の駅である姫川まで約30分歩くことになった

増便バスのひとつのミソが白馬発着となっていること。これは観光地として集客力のある白馬へ南小谷での乗り換えを介さずに直接運ぼうというものだ。大糸線は南小谷で電化、非電化が分かれるだけでなくJR東日本とJR西日本で会社が変わるが(在来線では現在唯一の両社接続駅)、増便バスならJR東日本管内の白馬まで直接行くことができるが、今回はあえて南小谷から乗車することにした。やはり大糸線で北線と南線の乗り継ぎは南小谷からにしたいし、どのぐらいの利用者がいるのか見たかった

増発でなく増便の理由

南小谷の時刻表。大糸南線も松本から出ると信濃大町で運行がガクンと減り、ローカル線ではおなじみの「お昼休み」の時間には2~3時間運行がない時間帯もあるが、大糸北線はもっと少ないことが分かる。北線と南線の接続は良い時間も悪い時間もあってバラバラで、これもまた大糸北線の利用者増を妨げる要因のひとつとなっているのだが、4往復のバスはそれを埋める役割も果たす。JRのきっぷを持っていれば乗車可能で、もちろん青春18きっぷでも乗ることができる

例えば私が到着したのは13時20分だが、現在の時刻表だと80分の待機を強いられるが、実際に乗車したバスは13時57分と約40分の待機で済むので1本早い新幹線に乗車することが可能となる

ただ、ここで素朴な疑問となるのは「わざわざバスで増便しなくても列車を増発すれば良いのでは?」ということ。1日4往復を増やすだけなら、列車で対応できそうなものだが、大糸北線では複数の駅で交換設備を撤去した結果、途中駅で列車のすれ違いができるのは、途中の7駅で根知駅のみという現状があって増発ができない。よってバスによる増便となったわけだが、ここでもうひとつの疑問が生じる。今後、列車の増発ができないことが分かっていてバス増便をするのはなぜ?ということだ

ここで最初の写真に戻ると「実証運行」という文字が見える。つまりはニーズを把握してみようというのが狙いとなっている。バス増便は2019年に次いで2回目となるが、その間にJR西日本は利用者が少ない大糸北線の存廃論議をしたいと表明していて2019年は10~12月の3カ月だけの実施だったのに対し、今回は10カ月もの長丁場。この間の数字を根拠に何らかの意思表明をするのではないかとも言われている。ちなみに費用総額は約1億2500万円で、国の補助金約5900万円を活用。JR西日本が3300万円を負担。沿線自治体も負担した

要はバス転換に向けた動きのひとつで、もっと言うと、この区間に公共交通機関が必要なのかどうか、バス転換した場合にJRがどのぐらい関わるのかを見定める場ともなっているとも感じることができる

増便バスの停留所は駅舎を出た所にある。JR西日本の文字とロゴが分かりやすい。コタツもあって冬場も過ごしやすく、夏場はエアコンが快適な待合室でしばらく休憩した後、バスを待つ

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今年も抜海で待っていた悲劇と稀有な体験~その2(こんな奇跡ってありますか)

※訪問は2024年8月27日

抜海駅百周年

「この先、豪雨のためしばらく停車します」の運転士さんのアナウンス(単行でお客さんは私を含め10人ぐらいだったので、アナウンスというより、ほぼ肉声である)

ということで、これからしばらくはお客さんたちによる朝5時台の「雨中抜海駅撮影会」となった。見た感じではかなりのお客さんが同業者(鉄道ファン)と思われる。皆さん、過去に抜海で降りたことがあるかどうかは分からないが、初めての方は、思わぬ貴重な体験となったかもしれない

私は昨年も来ているし、列車到着の20分前には駅に着いているので、もう撮影することはないが駅舎内にこのようなものがあった

「開業100周年おめでとうございます」

去年これがあったかどうか記憶にない。抜海駅の開業は1924年(大正13)6月。つまり今年の6月で100歳の誕生日を迎えた。もしかすると今年になってからのものかもしれない

確実に今年になってのものは駅前の通りを数十メートル進んだところにある

記念の石碑。地元有志によって建てられた。駅前ではなく、やや離れたところにあることが駅そして駅舎の置かれた現状を物語る。抜海駅はここ3年、稚内市の負担によって駅の維持管理が行われてきたが、市はすでに今年度で限りでの費用負担終了を表明。少なくとも現時点では9月24日から構内が棒状化されることだけは正式決定しているが「最北の木造駅舎」の将来は不透明である

代行タクシーで160キロの大移動

ということで抜海駅で1時間の待機を経ての結果は代行タクシーによる輸送。名寄以北はしばらく運行が難しいとのことでJR北海道さんが用意してくれたタクシーに分乗して名寄と稚内を目指すことに

北海道の地図は他の地域に比べると縮小サイズが異なる。抜海から名寄はすぐのように感じるかもしれないが

なんと160キロ以上もある。これは東京から東海道本線に乗車すると富士を軽々と越え、清水あたりまで行ってしまう距離。しかも高速道路はない。ただ途中はバイパスもあって国道40号もほとんど信号はないので2時間半で到達してしまう

つまり何のことはない、今年も稚内市からの南下(脱出とも言う)は鉄道ではなく自動車だった。「抜海駅から乗車」の目標はかなったが、乗車までだった。当然、雄信内も南幌延はバスである

突然声をかけられ

ということで名寄駅に到着。2時間半もタクシーに乗車するという、なかなか稀有な体験となった。とにもかくにも朝の9時半にここまで運んでくれたJR北海道さんに感謝である

駅には運休情報が並ぶが旭川に向けては特急以外は通常運行を行っているようで無事に南下できそうだ(結果的に午後からは全線で運行を再開した)

と、普通はここで話は終わりとなるのだが、最大の驚きはこの後。名寄から旭川行き列車に乗っていると、突然「高木さん」と声をかけられる。見ると2013年まで東京で勤務していた時の同僚

「何してるのですか?」

それはこちらのセリフだ。彼はロードのサイクリングが趣味で夏季休暇をとり北海道までやって来て、早朝に西興部を発ってここまで輪行で来たという

「オ、オコッペ?」

「いやぁ、朝からずぶ濡れで50キロ。大変でした」

と笑う。彼の趣味は知っていたが、思わぬ再会よりも、その元気さに驚いた。それにしてもピンポイントで名寄からの列車で会うかね。実は彼と私は結構ご近所さんで街でバッタリ会って食事をする機会もちょこちょこあったのだが、高円寺や阿佐ヶ谷の駅で出くわすのとは訳が違う。ここは名寄である。そもそも宗谷本線が通常通り運行していたら、この出会いもなかったのだ。私は旭川まで至る途中で下車。彼は苫小牧まで出てフェリーで帰京するという。10年以上前は世間に浸透していなかったLINE交換をオッサン同士でして別れた

それにしても宗谷本線は私に稀有な体験させてくれる路線である

その日は旭川で宿泊。当日の夜、実は少し悩んだ。翌朝の始発から行動すれば少なくとも雄信内へは行くことができる。天気予報も大丈夫そうだ。ただ問題は私と宗谷本線の相性である。昨年は旭川までたどり着いた翌日からは好天で根室本線の廃駅となる駅や、同じく根室本線の今となっては貴重な東滝川駅訪問、特急ニセコ乗車などを暑いぐらいの太陽の下で行うことができた。今年についてもこの日以降は雨とは全く無縁。要は宗谷本線乗車の際だけピンポイントで悪天候に見舞われた。しかも両日とも天気予報は良くはなかったが、決して運行ストップとなるものではなかったのだ

私が行くと、またストップするような気がしてヤメ。結果的には通常通りの運行となっていたようだが、これはこれで正解だったと思い、思い出だけを胸に秘めるとしよう

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今年も抜海で待っていた悲劇と稀有な体験~その1(予定だけは完璧のつもり)

抜海駅の駅名標

※訪問は2024年8月26、27日

※音声あり動画注意

稚内で昨年を思い出す

夕刻の稚内駅。昨年8月31日の同時刻もここにいた。そして全く予定外だったが、なぜか翌日も稚内駅へ行くことになった

昨年9月1日はここに並んでいた

プライベート、仕事と全国各地でいろいろな体験をしているが、一生忘れがたいものとなった

宗谷本線がストップして稚内から旭川へと移動するのに札幌経由とか、ちょっとあり得ない

結果的に残り2枚だったバスのチケットを買った窓口。すべてが懐かしく思い出されるが、なぜこのような写真を掲載したかというと「二度と同じ目に遭いたくないから」である(笑)。そりゃそうでしょう

ということで

昨年と同じ18時10分発の普通に乗車し抜海を目指す

稚内から2駅目(といっても20分近くかかる)の抜海で到着。1日に3・5往復の列車しかやって来ない当駅。私を含め数人が降りた。私は本日、昨年と同じばっかすの世話になるが、他のお客さんはどう見ても地元の方ではない。ここで降りてどうするのだろう?と思ったが、ばっかすのご主人によると1時間後の19時33分(最終である)で稚内へ折り返す人だろうということ。ちなみに抜海から稚内へと向かう列車は7時50分、11時48分、19時33分の1日3本しかない

こちらが時刻表。そして写真の通り、朝の旭川空港に着いた時の雨はすっかりあがっている

それなりに考えた今回の作戦

1年ぶりに抜海までやって来た目的はまず「抜海から列車に乗車すること」

昨年は到着はしたものの、宗谷本線のストップで抜海駅のホームに入線する列車を見ることはかなわなかった。去りゆく列車を見送っただけだ。今年はなんとしても「乗車」したい

そして「雄信内」「南幌延」の両駅も訪問する。この記事を読んでらっしゃる方は駅名だけで分かると思うが、いずれも近い将来の廃駅が報じられている駅である

そのためには抜海から始発の5時39分に乗車しなければならない。その次の抜海発名寄行きは10時46分。3駅はいずれも普通しか停車しないので10時台からアクションを起こしていては間に合わないのだ

私が立てた予定は以下の通り

5時39分(名寄行き) 抜海発

6時32分(同)南幌延着

6時50分(稚内行き) 南幌延発

6時58分(同) 幌延着

7時32分(旭川行き特急サロベツ2号) 幌延発

8時37分(同) 音威子府着

9時8分(稚内行き) 音威子府発

10時14分(同) 雄信内着

12時4分(名寄行き) 雄信内発

言ったり来たりしながら南幌延と雄信内を巡ろうというもの。北海道フリーパスを持っているので特急も乗り放題である。特急に乗車しない場合は南幌延と雄信内は実は隣駅で

徒歩2時間で到達できる。南幌延に着いてから雄信内を発着する列車まで4時間近くあるので楽勝(?)といえば楽勝で、この場合はたとえ雨はなくても、どこかもう1駅訪ねることも可能となるが、おそらく人が歩いていることはほとんどなく、どんな生き物に遭遇するかもしれない徒歩2時間は、さすがに私には無理な相談である

ということで

翌朝はご主人の好意で5時15分には抜海駅まで送ってもらい

今年も抜海駅を堪能。雨がかなり降っていたが列車の運行情報に関するアナウンスはなく無事に稚内からこちらに向かっているようだ

そして定刻から、やや遅れはしたが名寄行きは入線。念願の抜海駅からの乗車

ちなみに当駅は棒状化が決まっていて9月24日からこちらのホームは廃止となる。その意味でも貴重な乗車。さぁ、後は南幌延に向かうだけ、となったが、このタイミングで運転士さんに無線連絡が入り「抑止」という声が聞こえてきた。この先、雨が激しくしばらく当駅でストップするという

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その23(帰宅と旅のまとめ)

花巻空港から伊丹行きに搭乗

※訪問は2024年7月6日

別の経路も模索

花巻空港駅と空港を結ぶ路線バス。前記事で記した通り、盛岡からの空港バスが必ず花巻空港駅に立ち寄るようになったもので、空港までは10分もかからない。料金は320円。花巻空港HPによると花巻空港駅からタクシーに乗車すると1400円がめどらしいので4人旅だったら一人あたりの料金はさほど変わらない。空港バスは発着に合わせて運行されているので、JRとの接続はさほど考慮されているわけではないので空港でゆっくりしたい人ならタクシーもおすすめかもしれない

花巻空港はJRの各駅からさほど遠くはないので、いざバスに乗れなくてもそれほどお金をかけずにタクシーでたどり着ける利便性がある

ちなみに最も近い駅は釜石線で花巻と新花巻の間にある似内(にたない)で

ターミナルビルが移動したおかげで花巻空港駅より空港に近い駅となった。徒歩約30分。ただし無人駅で快速通過駅。花巻駅からだと9時49分発の次は14時40分と5時間ほど運行がない状況だ。もちろんバス路線はない。花巻空港駅で1度降りながら、わざわざ似内駅まで行って歩くと企画を思いついた。15時35分発の飛行機は似内駅を降りて50分後の離陸。道路は複雑そうではなく、おそらく間に合うはずだが、さすがに朝の時点の暑さで中止を決めた。駅から離陸まで2時間ほどあれば決行していたかもしれない…いや、さすがに暑さには勝てなかったと思う。列車には乗ったものの、おじけづいて次の新花巻まで行ってタクシー1800円という世界になっていたと予想する

東京行きの便はなし

花巻空港は「いわて花巻空港」の愛称が付けられている岩手県唯一の空港。開港は1964年(昭和39)。元々は東京便のための空港だったが、1982年に東北新幹線が開業。85年に上野~大宮が開業(それまでは大宮~盛岡の暫定営業だった)すると羽田行きはなくなった。大阪、神戸、札幌、福岡、名古屋と台湾行きの国際便がある

天候、経費は◎、体力、知力は×

花巻空港はこじんまりしていて利用は楽。バスの到着は出発の約40分前で、そのまま保安検査場に向かったが、検査場をくぐると売店がなく土産は買えず。もし今後利用される方がいれば留意してほしい

ということで無事に旅を終えられたわけだが、簡単に振り返りを

まず経費面。早めにタイムセールで航空券を買っていたこともあって

伊丹~羽田 8410円

花巻~伊丹 1万240円

北海道&東日本パス 1万1330円

後は空港まで、空港からのバス、電車代で合わせて3万2000円ほどグリーン利用も新幹線利用もこらえたので6日間の旅としては交通費は安く抑えられた。鉄道運賃については、そもそも盛岡~青森の三セクだけで5590円なので単純往復するだけで、ほぼ元をとれる。多くの駅で途中下車し、例によって戻ってまた進むを何度も行ったので、三セク利用の2日間だけで大幅に回収できている。東京まで戻らず東北から直帰という道程も、どうせ東京から大阪への旅費が発生するのだから、東北での滞在時間を増やせて正解だった

次いでホテルは

東京 9000円

いわき 5700円

北上  5500円

青森  6800円

盛岡  6300円

5泊で3万3300円。初日の東京が鬼門だったが、東京のホテルだけはおそろしく早めに確保して何とか1万円切り。ここからホテルそのものや予約サイト、携帯電話のポイントを使用したため実際は3万円で済んでいる。時期的にも7月1日からと、まだオフシーズンだったことも良かったようだ。同じホテルに1カ月後に泊まるともっと高かったはずだ。ということで経費面は合格(1日の食費も夜のビール代も含め東京以外は5000円以内で抑えている)

オフシーズンといえば、天候的に東北はまだ涼しかったことも幸いした。あまり触れなかったが、最初の5日間は小雨に何度も見舞われ、折りたたみ傘はすぐ取り出せるようにしなければならない状態だったが、トシをとると炎天下よりは全然マシだ。最終日の6日になって東北地方にもようやく本格的な夏到来となったようで、ギリギリ通り抜けたようで幸運だった

ただ問題はここから。目の前に来た列車に乗り、降りたいと思った駅で降り、宿もその日の到達点で適当に決めるという、ある意味会社員時代に憧れていた旅だったが、トシというのはどうも隠しようがない。記事にしたものもあったが、駅での時刻表の見誤りも何度かやらかしている。事前に時刻をチェック。駅に着いたら駅舎に張られている時刻表で再確認しながら上りと下りを間違うとか、トシのせいとしか言いようがない。ホテルを決めた瞬間に疲れが出て、まだまだ明るい夕方の4時にチェックインということもあった

きっぷの特性上や地域性で訪問時期は暑い時か寒い時に限られる。ということは1年後に再びチャレンジ、ということになるのだが、その時まで何とか体力と知力をキープしたいものである

道中かなり省略しながらも23回もかかってしまった旅の報告。長らくお付き合いくださり、ありがとうございました

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その22(古風すぎる空港駅)

花巻空港駅の改札

※訪問は2024年7月6日

最初から決めていた道程

一昨年秋以来出会った釜石駅前の「鉄と魚とラグビーの街」の文字を見て花巻に戻る。滞在はわずか30分ほど

みどりの窓口も設置されている釜石駅だが、列車の本数はわずかにこれだけ。快速を除くと1日に8本の列車しかないため、限られた時間内で途中駅ウロウロというのはなかなか困難。本当は陸中大橋駅ぐらいは行きたかったが、今回はやむを得ない。花巻へと戻る

花巻駅で何か食べるのもありだったが、猛烈に暑くて食欲も出ない。売店でサンドイッチを買って、これが本日の昼食である。旅を始めてから連日のようにテレビで報じられていた東京の暑さが、北の地にもやって来たようで、この日の最高気温は30度を軽く超えるという。今日は帰る日なので、ある意味助かった

まだ時間があるため東北本線をちょっとウロウロして

花巻空港駅に到着。こちらについては5月に航空券を購入した時から決まっていた道程だった。まだ利用したことのない花巻空港へ空港アクセス駅から向かおう

ちょっと違和感の「空港アクセス駅」

花巻のお隣の花巻空港駅

複数パターンの駅名標が出迎えをしてくれる

空港アクセス駅だけあって、なかなか彩り鮮やか

だが駅舎を眺めると

実にクラシックな駅舎のお出迎え。空港アクセス駅というと近代的なコンクリート製を思い浮かべてしまう。近年、鉄道で空港にそのままアクセスが流行りとなったので、その印象がより強いが、こちらは開業時の1932年(昭和7)からの木造駅舎

駅はこの春から無人化され、券売機も撤去。ICリーダーだけが設置されている。戦前に空港駅があったのかも含め、違和感はある

違和感を解くカギは駅前ロータリーの石碑にある

「二枚橋駅開設50周年」とある

その隣には「花巻空港駅開業60周年」の石碑が並んでいる

駅の所在地は「花巻市二枚橋」。石碑で分かる通り、元々は二枚橋という駅だった

改名25年で本当のアクセス駅に

駅前のタクシー会社も二枚橋タクシー

大正期に設置された信号場が昇格した。もちろん当時、花巻空港はない。空港の開港は1964年。駅名にも変化はなかったが、JRとなった1988年に転機が訪れる。空港への近さから空港アクセス駅のような駅名へと改名されたのだ

とはいえ空港までの距離は2キロ。そして路線バスはあることはあったが本数は少なかった。2キロといえば徒歩30分ぐらいだが、空港へ手ぶらで向かう人はあまりいない。スマホで調べることなどできなかった時代。知らずに降りた人はタクシーで向かうしか手段はなかった。さらにその後、空港ターミナルビルが駅から遠い方に移転して距離約4キロとなった

駅舎内の地図には「距離4キロ 徒歩40分」とあるが

なかなか40分ではたどり着かないようだ。空港へは盛岡駅または花巻駅からの路線バスがアクセス手段とされ、単なるタクシー乗り場だった時代が長らく続いた(とはいえ、現行のタクシー料金も花巻空港HPによると花巻駅から1900円、花巻空港駅から1400円とそう大きくは変わらない)

転機が訪れたのは2013年のこと。花巻駅~空港のバス路線が廃止され、代わりに盛岡~空港のバスが当駅を通ることになった。現行の花巻空港への路線バスは当該便と北上駅からの2路線のみ。ただし後者の運行本数は多くはなく、また盛岡駅~空港のバス運賃が1500円なのに対して花巻空港駅~空港は320円と安く利用者の財布にも優しい。改名25年で本当の意味での空港アクセス駅となったのだ

私も多くの乗客とともに空港へ移動。無事、伊丹空港行きの飛行機で帰ることができた

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その21(想定外のJR完乗)

釜石駅の駅名標

※訪問は2024年7月5、6日

温暖差にギブアップ

小鳥谷から1時間で盛岡に戻る

時間はまだ13時20分。もう少しウロウロしてみようかと本数の多い東北本線の駅をまったり回り始める。ちなみに宿は盛岡駅とした。一昨日の経験で北上の宿が安いということは分かっていたが、せっかくの旅なので別の都市に泊まろう、と盛岡に。翌日の朝からIGRいわて銀河鉄道の駅をいくつか回りたかったこともある。ただホテル代は北上とは比べものにならない。小鳥谷から1時間の間に予約サイトをあれこれ見て回った結果、駅から徒歩10分で6000円台の比較的新しいホテルを発見したので予約を入れた

ということで盛岡以南の駅を回り始める。以前も記したが、盛岡~北上は昼間も1時間に2本の運行がある区間で本数も多い。だが

暑い

午後になったのもあるし、現地でサッと雨が降ったこともあるのだろうが、奥中山高原や小鳥谷とは比べものにならない暑さだ。昨年3月、盛岡駅周辺は雪ひとつなかったのに、いわて沼宮内駅のホームに立っている間に、目の前でどんどん雪が積もっていった場面を思い出した。こういう時、予約したホテルが駅前だったら荷物を預け、軽装備で行動できるのだが駅から往復で20分は大きな壁である

ということで15時15分には盛岡駅の改札を出てホテルへ一直線。24時間前の青森駅とは乗客の皆さんの服装が異なる。ホテルは大浴場付きだったので早々に風呂に入ってこの日は終わり。たまたま近くにスーパーがあったので、ビールや酒、食料を買い込んでこの日は終わりとなった

最終日の疲れが快速「はまゆり」に

そして翌日。この日は15時台の飛行機で伊丹空港へと向かう最終日

朝の盛岡駅。本数の多い時間帯を狙って朝の6時前には駅に行こうと考えていたが何のことはない、時刻は7時50分。大幅な寝坊である。ちょっと部屋で飲み過ぎたかもしれない。ホテルの部屋飲みは安上がりで結構だが、安い分、店より大量に飲んでしまうことが欠点

いずれにせよ、旅程は大きく変更である。ちょっと考えたが

昨日行けなかった矢幅駅へ。そしてなぜここで下車したかというと

ここから釜石線直通の快速「はまゆり」に乗車するため。1日3往復のはまゆりは、うち1本が盛岡~花巻を各駅に停車するが、残る2往復は東北本線内は矢幅のみの停車となっている。要は釜石線乗車にかじを切ったのだ

実は昨日の朝、盛岡駅ホームで出発間際のはまゆりと、たまたま出くわした。その時点では乗車予定は一切なく「ふーん、こんな時間に出るのか」としか思わなかったが、18きっぷシーズンでないとすいているのだな、が実感。その学習機能で

楽々と自由席に乗車である。花巻で降りる人もかなりいたので、隣席に誰かが座ってくる可能性もほぼなくなった。新幹線との乗り継ぎ駅である新花巻からの観光客らしき乗客もそれなりにあったが、皆さん指定席。観光地の列車でありがちな「指定席の方が客が多い状態」である

唯一の乗り残し路線

実はこの釜石線、現行のレールがあるJR路線で私が唯一、未乗車だった路線である。「レールがある」としたのは日田彦山線BRTが未乗車だからだ

本来は最後の路線ということで、じっくり乗りたい。途中駅でいくつか降りたりしながら完走、ゴールを味わいたいところだ。だから昨日の時点でも、あまり気にしていなかったのだが、寝坊のおかげで他の選択肢が、あまりなくなった。しかも最終的に花巻空港から飛行機に乗るため、釜石に行くとそのまま折り返さなければならないし、ダイヤ上、途中駅で降りるのも、なかなか難しい

それでも

知恵を絞り出したΩ(オメガ)ループの車窓からの眺めは壮観だった。今からグルリと回り込んで下に見える線路に行くのかと思うとワクワク感はある

そして10時52分、釜石到着。矢幅からは2時間の旅だった。釜石に到着した乗客の皆さんは目にした列車で撮影タイム

三陸鉄道のラッピング列車「三陸元気!GoGo号」

とにもかくにも寝坊のおかげでJR全線完乗ということになりました

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その11(北上から三セクの盛岡へ)

北上駅の駅名標

※訪問は2024年7月3、4日

宿泊地は北上

一ノ関から予約サイトとにらめっこしながら北上。本日の宿泊地はあっさり北上に決まった(北上して北上泊とか別にシャレではありません。偶然です)。こういうのは実際に現地を訪れてみないと分からないが、盛岡をのぞくとホテルの数は圧倒的に北上が多く、ホテルチェーンが続々と進出していることはサイトで一目瞭然。これはその後に知ったことで、過去2度、北上で下車したものの素通りばかりだった私は恥ずかしながら全く無知だったのだが、北上には東北新幹線のほか、東北自動車道、秋田自動車道が入っていて流通の拠点となっていて、多くの工場が進出している。ビジネス出張も多いのだろう。そこに宿泊するかどうかは別として、私の体験では多くのホテルチェーンが進出している地区は、食事やコンビニの有無も含め、まず間違いない。結局はあるチェーンのホテルを予約したが、5500円と盛岡より安価に宿泊できた

北上を選んだもうひとつの理由は列車の本数。一ノ関から盛岡を目指すと北上までは昼間は1時間に1本だが、北上からは当駅始発着の列車が加わり2本態勢となる。途中に花巻を含む距離にして48キロ、所要時間50分のこの区間は盛岡への通勤通学エリアと認識されているようだ

魚と日本酒で疲れを癒やすこの瞬間は最高だ

北上駅は1890年(明治23)と130年以上の歴史を有する。開業時は当時の町名に基づいて「黒沢尻駅」。1954年(昭和29)に付近の自治体が集まり北上市が発足したのに伴い駅名も変更となった。国鉄コンクリート式の駅舎が健在

もっとも黒沢尻が北上の中心であることには変わりはなく、住居表示のほか、施設名や学校名にも黒沢尻の名は残る。高校ラグビーの名門、黒沢尻工は有名だ

街中を歩いているとこのように説明文が残っていた。地名の由来は「クロサワジリ(畔沢尻)」から来ていて草の密生した湿地だったという。「黒沢」については「黒土の沢」「水が淀んだ湿地の沢」を意味するとされる

ラッシュ時とかぶる

翌朝はホテル出発が7時すぎと前日から1時間以上遅くなってしまった。それほど飲んだわけではないが、2日続けて5時台の出発となっていて、さすがに身体が動かなかった。事前に予定を決めている旅なら、設定は早い時間にしがちで、それに従って行動するだけだが、逆に言うと、朝も適当にというのは、こんなケセラセラ旅の良さである

とはいえ7時台には駅にいるので、それほどの寝坊ではないが、時間帯が悪すぎた

電車が着くと北上駅のホームは乗降客でいっぱい。私の選択も悪く、北上発7時23分、盛岡着8時18分という最も混雑しそうな時間帯の電車で、なおかつ北上始発ではないため、ドッと降りる人、乗る人が多過ぎて出発は数分遅れた(盛岡には定刻に着いたので、おそらく混雑込みのダイヤだと思われる)。途中、花巻を通るため、ここでも出入りは激しく、その他私が認識できていない学校最寄り駅もあるようで、単に満員というだけでなく、駅に着く度に人の動きが激しい電車で座れることなく過ごしたため、かなりの疲労度だった。とにもかくにも盛岡到着である。ここからIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、三セク区間に入る

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その10(仙台は素早くパスして北上)

一ノ関駅の駅名標

※訪問は2024年7月3日

18きっぷシーズンと被らぬように

今夏は発売がないのではないか?という声すら出るほど発表がギリギリだった北海道&東日本パス。私なんぞは5月のタイムセールで早々に飛行機のチケットを買っていたので、最悪は大幅な手数料を支払っても飛行機をキャンセルしなければならないのか、とやきもきさせられた口だ。6月もかなり経ってから発売が発表された時はホッとした。飛行機も例年の利用期間の初日である7月1日にとっていたのだが、なんで初日スタートにしたかというと基本的には青春18きっぷの季節とかぶらないようにしたかったから。この北海道&東日本パスはJR区間で一人で乗る分には18きっぷと同じルールだが、有効期間が長いのが特徴のひとつである。有効期間といっても期間内のどこでも5回と、乗車したらその日から強制的に1週間では事情が違うが、できれば18きっぷの利用者と被らない方が、少しでも混雑を避けられるだろう。何より7月に入ったばかりで、まだホテルの稼働にも余裕がありそうな時期だ

鹿島駅から1時間15分。仙台に到着。いつのまにか東北本線に入っている。つまり普通だけで常磐線の約340キロを完乗した。鹿島のいわき寄りに一駅の原ノ町から出る普通列車はすべて仙台行き。日暮里からの常磐線は岩沼が帳簿上の終点だが、列車はすべて仙台まで直通する。岩沼から仙台までは20分で完全に仙台都市圏内だ。東北本線と合流する岩沼以北は運行本数も都市圏のもので昼間も常磐線の1時間に1本、東北本線の1時間に2本と、ほぼ20分に1本の運行で朝夕は両路線の列車が増える上に岩沼折り返しの列車が加わる。また名取からは仙台空港アクセス線も加わるので多くの電車が運行される

仙台ではランチのみ

早朝からコンビニおにぎりのみだったので、仙台駅構内の立ち食いそばでカレーそば。カレーなんで白いご飯を注文しようと思ったら自動的に付随してきた。この記事を書いている今の季節だったらカレーはちょっと…となったかもしれないが、この時期の東北地方は、テレビをつけると東京の猛暑ぶりを報道していたものの、まだそこまででもなかった。普通におかずと白飯として食べようと思ったら周囲の人々はそばを平らげた後、雑炊のようにして食べている。私も半分ほどは白飯として食した後、カレー雑炊に。なかなか満足

腹が満たされたら即北上である。そもそもあまり仙台で泊まりたくなかった。仙台が嫌いというわけではなく、過去何度も、まさに「美味しい」思いをしている。ただ少し前にホテル事情の記事を書いたが、仙台のホテルはやはり高い。午前中のうちに福島県を抜けられたので少しでも北へと向かおう

一ノ関は3月に泊まった

乗車電車は45分かけて小牛田止まり。というか東北本線を真っ直ぐ北へと向かうと昼間はほぼここで1度降ろされる。そして1時間に1本のダイヤに戻る

小牛田は石巻線、陸羽東線が交わり、気仙沼線も入ってくる鉄道の要衝駅。私も東北に来る度にここで乗り換えをしているため、本来はかなりの難読駅のはずだが、難読ではなくなってしまった

一ノ関行きに乗車。このあたりで本日の宿について真剣に考え始める。すでに13時半を回っている。このままだと14時半ごろに一ノ関へ到着するが、3月に泊まったばかりだし、時間的にはまだ北上できそう。明日は盛岡からIGRいわて銀河鉄道で北上の予定なので、盛岡泊が便利そうだが、予約サイトをチェックすると県庁所在地の盛岡はさすが結構な価格。となると盛岡の手前あたりがいいな、と思案しているうちに一ノ関到着。東北本線は必ず一ノ関で運行が分断されるので、こちらも強制下車となる

3月中旬に来て以来、3カ月半ぶりの一ノ関。そのころは雪が降っていてブルブル震えたが、当然ながら別世界。10分ほどで乗り継ぎ列車に乗車。ここはまだ宿泊したことのない北上か花巻で降りることとして後は予約サイトにかかりきりである

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その9(気になる駅へ引き返す)

鹿島駅の駅名標

※訪問は2024年7月3日

原ノ町到着でひと安心

原ノ町に到着。浪江駅の項でも書いたが、常磐線は長年交通の要衝であり続ける当駅を境に運行本数が大きく変わる。昼間の普通列車は広野~原ノ町は2時間空きや3時間空きになってしまうが、原ノ町から仙台方面は昼間も1時間に1本程度は確保されていて、どうも最近、時刻表の読み間違えが多い私もここまで来れば「あっ!」となっても修正が可能だろう

と同時に普通は必ず原ノ町での乗り継ぎが必要となる。いわきを早朝に出てから、随分と長い時間が経っている気がするが、時間はまだ朝の9時すぎ。今日は下手すると仙台までかとも思ったが、もう少し先まで行けそうだ

原ノ町では30分以上の乗り換え時間があり、仙台行きに乗り込むと、お隣の駅を通りかかった際、古い駅名標がチラリと見えた。「お~」と思っているうちに電車の扉は閉まってしまったが、時間もまだ早いことだし、ここは出直しだろう

ここは戻って確認

ということで鹿島に到着

まずは先ほどチラリと見えた駅名標を改札口で確認。これはなかなかの年代ものだ。古い駅名標がそのまま設置されている駅を全国各地で、思い出したように見かけるのだが、こういうのって、どんなモチベーションというか理由で残るのか、知りたいものだ

平成の大合併により、現在は南相馬市鹿島区となっているが、それ以前は鹿島町。もちろん駅名も町名に基づく

鹿島といえば、サッカーで有名な茨城県の鹿嶋市が有名だが、JR鹿島線、鹿島臨海鉄道という路線はあるものの「鹿島」という駅はない。鹿島神宮駅をはじめ「鹿島○○」という駅はいくつもあるが、単独であるのは路線名だけ

鹿嶋市は1995年(平成7)に鹿島町から市になったが(つまり明治以来、鹿島町は茨城にも福島にも存在していた)、市制施行の際、佐賀県に鹿島市があったため、重複を避けるため「嶋」の文字を使用することになり、当時はかなり話題になった

そして佐賀県鹿島市にあるのは西九州新幹線建設の際に話題となった「肥前鹿島」駅である。福島県の鹿島駅が明治生まれだったのに対し、こちらは昭和一ケタの開業。この時期は全国で駅名の重複をできるだけ避けるようになっていたので、先頭に旧国名がついた(ちなみに開業当時は佐賀県鹿島町だった)

また東北本線には鹿島台駅(宮城県)があり、鹿島駅より歴史は古いが、こちらは元々の自治体名が鹿島台である

話が茨城県から佐賀県そして宮城県まで飛んでしまったが、要は「鹿島駅」はここだけである

古典の宝庫

鹿島駅の開業は1898年(明治31)。周辺は旧鹿島町の中心部となっている

駅舎はおそらく開業時からの木造駅舎

なぜそのように考えたのかというと、あまりにも渋い財産票が残っていたからだ

この財産票そのものが財産ではないかと思えるほど古いもので「M30」と記されているというより、刻まれている。駅の開業より少し前に駅舎ができたということなのだろう。駅の財産票についてはJR各社で姿勢が異なり、JR東海では簡易駅舎はもちろん倉庫やお手洗いにも細かく張ってあり、JR西日本もなかなか頑張っているが、私見ではJR東日本は探すのに苦戦することが多い。ただその分、このようなクラシックな財産票にまれに巡り会えることもある

屋根に乗っかっている駅名板も明治のものとは言わないまでも国鉄仕様。駅そのものが古典の宝庫となっている

駅は2面2線。かつては貨物の取り扱いがあった雰囲気が残る

現在は無人駅で窓口は閉ざされているが、原ノ町のお隣にこんな素敵な場所があるとは知らなかった。こんな気ままな旅だからの発見である

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