JR東海

中津川以北の中央西線全駅を訪ねてみることを決める~すぐそこは県境、始終着列車も

坂下駅に到着

※訪問は2022年10月8日

2区間のみの電車

11時すぎの中津川駅。当駅始発の電車に乗車

ビックリするぐらい乗客がいなかった。週末の昼間なので、こんなものなのかもしれないが、乗客の少ない理由は明白だ。中津川を出ると前記事で紹介した落合川に停車すると、次はもう終点の坂下駅なのだ。春から秋にかけての中央西線の週末は観光客も多く、原則2両の電車はかなりお客さんが乗っているが、たった2区間、9分で完結する電車には観光客もあまり用事はないようだ

このような短い区間で完結する列車の設定は各地でもそれなりにあって、当ブログでも五能線の能代~東能代(1区間)、高山本線の高山~飛騨古川(3区間)を紹介した。特に五能線の1区間については、この区間運転の方が他の列車より多いほど。沿線人口や利用者数に基づくものが多いが、中津川~坂下については県内完結である。しかも複線電化区間の一部というのは、ちょっと珍しい

長野県との県境はすぐそこ。何なら前記事でも紹介した落合川駅は同じ岐阜県にもかかわらず線路の距離が6・1キロもあるのに対し、長野県側の田立駅は2・8キロしかない

開業時からの駅舎

ただ落合川とは異なり、駅舎は風格のある木造駅舎を有する。開業は1908年(明治41)。中津川から当駅まで延伸された際に開業。約1年間、終着駅だった(その後、現在の南木曽まで延伸)

平成の大合併までは坂下町の駅だった(開業時は坂下村)。駅の周辺は坂下町の中心部が広がる。車窓からの眺めだと中津川を出た列車が木曽川沿いの山中に入り、再びパッと開けて坂下の町に到着するイメージだ

坂下は沿線の他の地域と同様、森林で栄えた町で、かつては当駅から森林鉄道も出ていた

こちらはホーム上の待合所。S16(1941年)8月の財産票が張られている

こちらは駅舎内の様子。簡易委託化されているが無人駅ではない

2022年度の1日あたりの乗降客数は537人。これは中津川~塩尻では木曽福島駅に次いで2番目に多い数となっている(中津川、塩尻を除く)。区間運転が行われるのも納得だ

ただ駅舎内にはこのような掲示が

訪問時の窓口営業時間は金~火曜日の午前中のみとなっていた

私の訪問は2022年10月だが、その年の春のダイヤ改正までは当駅から名古屋まで直通する電車も運行されていた。早朝には名古屋行き快速もあったが、現在は中央西線の特急以外の列車はすべて中津川で運行が分断される形となっている

現在は都心部の利用者数千人の駅でも、あたりまえのようにほぼ無人となっている駅も多い。ただ利用者としては駅を降りた時に駅員さんがいる安心感は何とも言えないものがあるのは、否定できない事実である

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中津川以北の中央西線全駅を訪ねてみることを決める~ホームからの景色は川のみ

落合川駅は島式ホーム

※訪問は2022年10月8日

奈良井駅で火がつく

6月に木曽平沢から徒歩で奈良井に到達したときのこと。駅舎内で張り紙が目にとまった

塩尻市のコミュニティバスの時刻表。塩尻駅から奈良井駅までを結んでいるようだ。当然のように青空フリーパスで行けない洗馬、日出塩、贄川の3駅も含まれている。これは良い情報ではないか。と同時に「こうなったら、幹線上のローカル区間の全駅訪問をしよう」

急に気持ちに火がついた。結果的にこの日は列車の遅延で、もともと予定していた駅訪問がいくつか行けなくなった。その分、倉本駅のような出会いもあって満足はしたが、ならば行けなかった駅はもちろん、すべての駅を訪ねたい。幸いにも9月に長野県に行く用事がある。この時に頑張って回ってみようということになった。この区間は中山道の旧宿場町も多く、古い駅舎がかなり残るのは、これまで紹介してきた通り。もっとも2年前までに名古屋から南木曽の手前まで中央西線の駅はすでに訪問済み。まずは、その中での中津川以北の3駅の紹介から始めよう

目の前は川だけ

ちょうど2年前の今ごろとなる10月8日、私は中津川駅にいた。名古屋から徐々に北上。手にはもちろん青空フリーパス。普通だと当駅で強制乗り換えとなる。さらに時間の許す限り駅訪問を行おう

やって来たのは

中津川のお隣の落合川駅。ご覧の通り駅舎はなく、待合所があるだけ

ホームに降り立つと

目の前は木曽川で民家は川の向こうに並んでいる。駅前が大きな町だった中津川から、わずか1駅で景色は一変した

目の前の川は落合ダム。木曽川に設けられた発電用のダムで1926年(大正15)竣工と歴史は古い。落合川駅は、それより少し先の1913年に信号場として設置された。ホームからの景色だけだと、まさに信号場だが、本来は中山道の落合宿に基づく。旧落合宿を中心にした落合村が1956年(昭和31)まで存在したが(現在は中津川市)、線路が木曽川沿いに敷かれたため、駅は村の中心部から、かなり離れたところとなった

明治生まれの駅が多い中央西線で、設置が遅れたのは、このような事情もあったとみられる

「駅前」はない

写真には工事中となっている箇所が多く写っているが、これは直前にあった豪雨で斜面の崩落があったため

駅を出ると人が1人通れるスペースしかなく

コミュニティバスもやって来ない時期となっていた。もちろん現在は復旧しているが

逆側の道路を見ても大変狭い。いわゆる「駅前」や「ロータリー」とは無縁の駅である

それでも以前はこの場所に木造駅舎が建っていたという。JR移管よりかなり前に現在の姿となっている。その分、駅名板の字体はかなりクラシックで、味わいはある。ダムをぼんやり眺めるのもいい時間だった。全国に多々ある「落合駅」は、どこの駅も特徴と歴史があって興味深い

ただ、こんな場所にあるのでは利用者もほとんどいないと思われるかもしれないが、2022年度の1日あたりの乗降客数は45人で、先に紹介した倉本駅の28人よりも多い。中央西線37駅(金山と塩尻をのぞく)中33位である

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~木曽義仲旗揚げの地は「中央東線最後の駅」

宮ノ越駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

通過時に見えていたもの

倉本駅から4駅北へと戻って宮ノ越駅に到着。今日はこの後、特急利用はしないつもりなので、中津川以北の駅は最後の訪問駅となりそうだ。例によって情報のインプットなしでの下車だが、その前の通過時に重要な情報が分かっていた。この写真の右側、現在は使用されていない貨物ヤードのホームにのぼりが見えているが、これが車窓からよく見える

これ以上の情報はないだろう。基礎部分の石に日義村と書かれている。現在の駅舎の住所は「木曽町日義宮ノ越」だが、平成の大合併で木曽町が成立するまで、当地は日義(ひよし)村だった。村の名前については木曽義仲にちなみ「朝日将軍木曽義仲」から2文字をとったという

駅名は中山道の宿場町、宮ノ越宿に基づく

こちらは駅にあった周辺案内図。少し歩くと宿場町だが、中山道が整備されたのは江戸時代。それより500年以上前となる木曽義仲に関連するものが多い町となっていて、史跡や記念館がある

中央東線と中央西線

話が後になってしまったが、こちらが駅舎。説明するまでもないが、年季の入った木造駅舎が残る

扉部分や窓枠はアルミ補強されているが、風格ある駅名板もある。駅舎は開業時からのもの

財産票によると駅舎は1910年(明治43)にできた。駅の開業が11月なので、それより2カ月前に竣工したようだ。開業時は塩尻方面から伸びてきた中央東線の終着駅だった。以前も触れたが、中央東線と中央西線は現在のように塩尻で分かれた愛称ではなく、東京方面からと名古屋方面から、それぞれ延びてきた線路の終点までを東線、西線とした正式名称としていた。終着駅として存在したのはわずか半年で、翌年の5月には木曽福島まで線路がつながり途中駅となったのだが(現在、両駅の間にある原野駅は戦後の開業)、これで東線と西線が一体化。と同時に東京から名古屋までの路線は、中央本線という現在の名称となった。つまり宮ノ越は中央東線で最後に開業した駅ということになる

駅は国鉄末期に無人化され、きっぷ売り場も手荷物受付ともに固く閉ざされているが、手荷物受付がアルミ補強されていることで、無人化ギリギリまで扉が開閉されて使用されていたことが分かる

駅舎内の木曽義仲と巴御前。外に掲げると傷みが激しくなるので、ここに置かれているのだろう。木曽義仲は最期が分かっている武将だが、巴御前の方は木曽義仲と鎌倉の和田義盛という2人の武将に仕えたということになっているが、ナゾが多く、その分、映像化の際はいろいろな脚色をしやすい。ゲームにおいても人気キャラとなっている

当駅も800メートル以上の高地にある。古い駅で定番の温度計。お昼の13時半、最も気温が高そうな時間帯でも25度とさわやかだった。この後は中津川行きの電車に乗って名古屋経由で帰路につく

もともとは木曽平沢とはどんなところか、というだけの企画だったが、ここまで来ると他の駅も気になる。もっと言うと青空フリーパスから外されたわずか3駅は大いに気になる

機会を見てチャレンジしなければならない、と思いながら電車に乗り込んだ

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~何もなさすぎる場所に立派すぎる木造駅舎

倉本駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

ホーム移動は公道経由

ホームをどんどん中津川方面へと歩いていくと、やがてホームの端も過ぎ

たどり着いたのは公道。右側が線路をくぐる形となっていて、そちらに向かうと駅舎側に行けることは分かる。左側は「登山道 空木岳」と書かれているが、そういえばホーム上の待合所にこのような名所案内があった

ちゃんと読みも入っているが「海抜2864メートル」って簡単に言われても困る高さである

ということで登山道側は私には無縁のものだということが分かったので駅舎側へと出る

出たところにあったものは坂道と、わずかに頭をのぞかせる屋根。前を行っていたご婦人がそこを登っていく。左側を見ると

国道そして、その向こうは木曽川。つまりは何もない。店舗はもちろん民家もない

あらためて坂道を登ると、そこにあったのは立派な木造駅舎だった

信号場としてスタートした歴史

ここからは後に学んだこととなる

倉本駅は1914年(大正3)に信号場としてスタートした。道理で周囲に何もないはずだ。駅へと昇格したのは戦後すぐの1948年(昭和23)で、この時に「倉本」という駅名が付けられた(それまでは立町信号場。ちなみに現在、当駅から塩尻側が複線で中津川からは単線となるので信号場的な役割を果たしてはいる

高台のスペースが少ない場所に設置されているが駅名板も重厚。財産票によると駅舎は駅に昇格した時に建てられたものだ

当然のように無人駅で窓口も手荷物受付もともに板でふさがれているが国鉄末期まで有人駅だったという

駅舎内には向かいホームへの案内がある。字体から、かなり古いものだと推測できる

駅舎の逆側から少し離れた場所が倉本の集落となっていて、旧中山道がその中をぬう。ふだん駅を利用する方は、こちらの方だろう

自転車置き場が坂の途中にある。訪問時の台数は1台。2022年の1日あたりの平均利用者は28人。これはJR東海の中央本線では37駅中35位(塩尻、金山をのぞく)と下から3番目。もっとも駅周辺を眺めると28人の乗降があることが凄い

駅舎内の告知板

少し時間があるので再び国道まで降りてみる

国道なので車の通行量はあるが、歩道を歩く人の姿はない

コミュニティバスの立派な停留所があった

さすが材木の上松町。現地産のヒノキで造られている

中津川方面へは約20分の遅れだったが、塩尻方面へは定刻で動いているようだ。駅へと戻ろう

ちょうど貨物列車がやって来た。いい光景だ

駅舎側にも空木岳への案内があることに気付いた。調べてみると当駅からの道程は空木岳登山の有力コースのひとつだそうだ

駅舎内にはこのようなものも残されていた。登山者のための気象情報のようだ。有人駅時代は駅員さんが日々書き込みをしていたのだろう。冒頭が「S」と固定されていることから、無人化された後、ずっと更新されず、それでももしもに備えて捨てることはできず、そっと置かれたままになっているのか

列車が遅延したため時刻表優先で降りてみた駅だが、こういう「たまたま降りてみた」駅こそ、いろいろな発見がある。だからこそ「ふらりの降り鉄」はやめられない

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~列車遅延で降りた駅は出口が分からず

木曽福島駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

木曽山中の要の駅

木曽福島まで戻ってきた。言わずと知れた中央西線の要の駅で木曽観光の拠点で全列車が停車。中津川~塩尻の山中では原則的に特急は当駅のみ停車が多いので特急「しなの」に乗車したことがある人は降りる降りないは別として名前は知っているはず。もちろん管理駅。大きな島式ホームを持つ

駅は1910年(明治43)の開業。駅舎は1981年(昭和56)に現在のものとなった

時刻表がアテにならない

奈良井から中津川行きの電車に乗車したのは11時20分。青空フリーパスは米原まで乗車できるが、さすがに名古屋からは新幹線に乗るつもりだ。だからまだまだ時間はある。せっかくなので長野県内の中央西線の駅をいくつか回ってみようと思ったはいいが、ここで路線内の遅延を知る。特急の遅れらしい

中央西線はほとんどが複線化されているのだが、いくつか単線区間があり、この区間に集中している。幹線でなおかつ東海道本線に何かあった場合のバイパス線の役割を担っていたため、すべて複線化する予定だったが、東海道新幹線の開通によってバイパスとしてのニーズはほとんどなくなった。中央本線から篠ノ井線へ入るためには塩尻駅でスイッチバックする構造になっていたのも、バイパスの役割があったからだが、こちらが解消されているのはご存じの通り。ただでさえ狭い山中を走る中央西線は複線化工事が難しい地域なので、全線複線化の計画は消滅している

上下ともに1時間に1本走る特急の他はいくつかの貨物列車と2時間に1本程度の普通が走るだけなので、単線区間は駅での列車交換(すれ違い)で間に合う。中央西線はすべての駅での列車交換が可能である

ただ遅延発生時の対応はダイヤを多少変更しなければならないので、このように単線と複線が混在する区間は上りと下りがどこでどのように遅延しているか、さっぱりお手上げだ。上りで降りて下りで駅を去る、下りで降りて上りで去るという方法で駅を回っているので、ひとつ間違うと普通しか停まらない駅で長時間ぼんやりすることになる。奈良井駅で待っている間に時刻表とにらめっこしながら、いくつかの駅を回ることを決めたが、あまり効率が良すぎるとタッチの差で逆方向の列車を逃しかねないのでダイヤ通りだと駅で1時間待ちぐらいの駅をチョイスして回ってみることに。そこで最初に選んだのが倉本駅

20分遅れで到着

例によって何の情報も事前にはない。駅は木曽福島から2駅。要は朝に立ち寄った上松のひとつ中津川寄りの駅である

ということで時刻表から20分の遅れで倉本に到着。下車したのは私ともう一人のご婦人。290と書かれたキロポストがあるが、これは旧線(辰野支線)経由の距離と思われる(新線経由だと278キロ)。しばらく手が入っていないことに駅の古さを感じさせる

向かいに木造駅舎が見える。とりあえずはそこまで行こう。ただ跨線橋も構内踏切もない。どうやって行くんだ? 前を行くご婦人だけが頼りである

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~奈良井駅の意外な数字

古い街並みが残る奈良井宿

※訪問は2024年6月22日

出発に要する大変な時間

ホームにまで立派に「奈良井宿」と記されている奈良井駅は有人駅ではあるが、簡易委託駅であり駅員さんはいるが、きっぷ販売に特化されていて改札業務は行わない。つまり乗務員がきっぷや料金の収集にあたるわけだが、当駅を通る電車はほとんどがワンマン運転で、運転士さんが集札業務にあたる

運転士部分のドアのみが出口となり、私もこの時期から8月にかけて何度か当駅を通る電車に乗車したが、下車する人の数が多くて長蛇の列となる。観光客を主体とする駅という性格から途中の無人駅から整理券で乗車して現金で下車というお客さんは少なく、どこかの主要駅からのきっぷを渡すだけだったり、青春18きっぷや青空フリーパスのような見せれば終わりというきっぷを持つ人がいる一方で、塩尻方面から乗車してきた人の中にはSuicaで乗車してきた人もいて(JR東日本区間の中央本線と篠ノ井線の松本まではIC区間)、処理に時間がかかったりする。塩尻から5駅ということもあって首都圏方面からの利用者が多い

出発を待っているだけの私としては駅巡りに影響を与える遅延が気になるところで、数分間の遅れで出発することもしばしば(奈良井~贄川は単線区間で、ここから南はいくつかの単線区間がある)だが、乗っているといつの間にかダイヤが時刻表通りになっているから不思議である

その度に「なんで週末やハイシーズンに特急の臨時停車がないのかな?」と思っていた。手元に9月号の時刻表があるが、9、10月で「しなの」が臨時停車するのは10月12日の1日のみで、これはJR東海が力を入れる「さわやかウォーキング」の実施日。奈良井から古来、中山道の難所だった鳥居峠を経て藪原駅に向かうもので、藪原にも臨時停車があるようだ。少し前までさわやかウォーキングの開催を知らず、本来は閑静な駅に多くの乗下車があって面食らうことが多かったが、最近は時刻表を見てJR東海の同一路線で2カ所の臨時停車があるのを見ると、すぐピンとくるようになった(笑)

なぜ臨時停車がないのか

こちらは駅舎内の様子。訪問時は11時台に上下の電車が同じような時間帯に来ることも重なって、待合室はどんどんお客さんが増えてきた。きっぷ売り場を利用するお客さんも、それなりにいて外国の親子4人連れは京都までのきっぷを買おうとして、翻訳機などを駆使してのきっぷ販売に時間を要したりしていた

窓口の特徴は、かつての手荷物受付が今は荷物一時預かりになっていること。観光案内所も兼ねてはいるが、日本中の古風な駅で見られる手荷物受付跡のほとんどは、今は固く閉ざされているところがほとんど。荷物の性格は異なるが、荷物を渡す機能が今もあるのは貴重な光景だ

と、このように駅としてのにぎわいぶりを記してきたが、データを見て驚くことがある。2022年度の中央西線各駅利用者

JR東海区間の中央西線には39の駅がある。ここから他路線の利用者が多い金山と塩尻を省くと37駅。その中には名古屋市内や名古屋への通勤通学となる大都市区間も含まれるが、奈良井駅の利用者は1日わずか89人で37駅中29位。おそらくこの数字には18きっぷや青空フリーパスのようなフリーきっぷは含まれておらず、途中下車した人も入っていないはずで実際の利用者はもっと多いのだろうが、下から数えた方が圧倒的に多く、奈良井から塩尻方面へ2駅の宿場町である贄川の183人とはダブルスコアである。2022年といえば、まだコロナの影響が残っていて、ならばコロナ禍前の2019年を調べると、確かにやや多いが、それでも140人ほどである。数字だけを見ると特急をわざわざ停車させるほどでもない数字だ

これには周辺人口の側面があって、観光地ではあるものの駅周辺の人口はそれほど多くはなく、通勤通学といった生活駅としての利用が少ないからだと思われる。では駅周辺を埋め尽くす観光客の皆さんはどうやって来たのか、ということにもなるが、実態としては鉄道利用よりも車利用の方が圧倒的に多いという

ぜひ列車利用を

鳥居峠の話が出たが、奈良井宿は中山道の宿場町としては最も標高の高いところにあり、当時の旅人にも貴重な宿場だったという。奈良井駅の標高も高い。すでに触れたが、JR東海では最も高いところにある駅だ

駅にはこんな遊び心も。東京スカイツリーが「武蔵(ムサシ)国」に基づいて634メートルなのは有名な話だが「クサシ」は聞いたことがない。末尾が「34」と同じことから、このような造語にしたのだろうが、さすがに吹き出してしまった

こんな遊び心もある奈良井駅。ぜひ訪れてみてほしい。もちろん電車利用をお願いします

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~奈良井駅の観光資源ぶりに驚く

奈良井駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

現在とは異なる中央東線と西線

徒歩30分で到着の奈良井駅。誰もが知る奈良井宿の最寄りだが、私は初訪問。たまたまなのだが、この日朝6時すぎに名古屋を出てから下車した駅は中津川、上松、木曽平沢の3駅で、いずれもコンクリート駅舎。中央本線の中でJR東海エリアとなる、いわゆる中央西線は古い駅舎が多数残る。いずれもかつての中山道の宿場町の雰囲気を壊さないための配慮もあると思われるが、この日初めて出会う木造駅舎には、やはり感慨がある

駅舎入口の駅名板の横には「M42(1909年)10月」の財産票がある

奈良井駅の開業は1909年の12月1日なので、駅舎は2カ月前に竣工していたのだろう。塩尻から当駅までが開通して約1年間終着駅だった。当時の名称は中央東線。中央本線の各駅を回って初めて知ったことだが、現在の中央東線、中央西線とは位置付けが異なる。現在は塩尻を境に東線、西線となっているが、当時は線路もつながっておらず、塩尻方面からと名古屋方面から延伸されていった順に、それぞれが東線、西線となっていて路線名も中央東線、中央西線が正式名称。全線がつながって正式に中央本線と名付けられた。国鉄でずっと採られていた路線名の付け方で、将来的につながる予定ではあるが、つながらないうちは同一路線名にするわけにはいかず「○○北線」「○○南線」と名付ける。「越美北線」(福井県)のように工事が中断したまま再開されることはなく、恒久的な路線名になってしまうこともある

現在は塩尻で運行が分断され、別会社の運行となっていることもあって塩尻を境とした東線、西線の印象がより強いが、国鉄末期までは塩尻駅の位置は現在とは若干異なっていて中央本線はそのまま直通できるが、東線→篠ノ井線はスイッチバック構造と今とは全く逆の構造だった。線路がつながるまでの、あくまで暫定的な東線、西線だったのだ

工夫が凝らされた駅舎

奈良井駅が(現在の)中央西線の他の駅舎と多少異なるのは、開業から今日まで手が入れられ続けていること

わざわざこのような木版が張られている。観光客の多さゆえのものだろう

駅を降りるとすぐ奈良井宿が広がる

奈良井宿は中山道34番目の宿。中央西線は中山道の宿場町と一体化しているように敷設されていて、他にも宿場町の駅はあるが、駅からの距離も近いことで観光客も多い

駅を降りると奈良井宿の大きな看板があって駐車場がある。右側にイスが見えるが、係員の方が席を立ったタイミングを待って写真撮影

すぐに広がる宿場町は重要伝統的建造物群保存地区となっていて景観を壊さないよう昔からの建物が残されている。まだ朝の10時だが、週末とあって歩いている人の姿も多い。土産物店や飲食店、旅館が並ぶ

詳細な解説文も複数ある。私は木曽平沢まで行く際に当駅を通過したのは9時15分ごろだったが、それでも当駅ではかなりの下車があった。この後、当駅付近では11時ごろまで滞在したが人はどんどん増えていった。もちろん外国人の姿も目につく。観光資源としての力を感じる

ただし、ときおり行われる臨時停車を除くと奈良井は普通のみが停車する駅となっている

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~漆塗りのトイレを経て列車の空白を考える

木曽平沢駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

昭和生まれの楢川村の中心地

木曽平沢の駅舎。ご覧のように鉄筋コンクリートの造り

駅舎内で「漆塗りの町」を知ったので、駅名板の色合いにも納得がいく。背景の木の部分も同様だ。その横には「S35」(1960年)と記された財産票がある

木曽平沢駅の開業は1930年(昭和5)。両隣の奈良井、贄川が明治生まれなのに対して当駅はかなりの弟となる。先の2駅はいずれも中山道の宿場町なので先に駅が設けられた理由なのだろうが、この木曽平沢も江戸時代から漆器生産で知られた町だった。明治になって成立した楢川(ならかわ)村は当初、楢川、贄川の2駅を有していたが、後に村の中心地は木曽平沢となり、村役場も当駅が最寄りとなった。ちなみに旧役場を中心とした村の中心地は線路が通っているにもかかわらず、駅から若干離れていて、なおかつわざわざ高台に造られているよう感じるが、それは中央本線の容量が増えたことによって、駅のすれ違い設備が必要となり、500メートルほど名古屋寄りに駅を移動させたため

あくまで想像だが、かつての駅はこのあたりにあったと思われる。地図を見れば分かるが、このような歩き方をするとは思えないので実際は10分もかからないはず。また現在の木曽平沢駅の位置はグーグル先生の指定する場所は明らかにおかしい。ホームの端の駅名標の場所が指定されていて駅舎は私が印をつけた場所だ

それが1959年のことで現在の駅舎はそのころに建てられたもの。そしてこの500メートルというのは私の道程にはとても貴重なものとなる(後述)

なお楢川という村名は「奈良(なら)井」「贄川(かわ)」という2つの村名を足したもので、村役場はその間である木曽平沢に置かれた経緯があるという。その楢川村は平成の大合併で塩尻市となった

こちらは駅の運賃表だが、松本までわずか590円という金額で駅の場所がなんとなく想像がつく。この後も中央西線に何度か乗車することになるが、週末に松本へ出かける人々で車内は混み合っていた

目にとまった張り紙

木曽平沢の駅舎内で目についたものがある

うるし塗りのお手洗い。これはぜひ体感しなければならないだろう

駅から階段を降りると

公園がある。写真の通り駅を見上げる形となっている。この階段がグーグル先生から精度を奪っているのかもしれないが、そこに目的はあった

重厚な木造のお手洗い。この時の利用者は私のみだったが、トイレ内の写真をパシャパシャ撮るのは、マナーの面でどうかとも思えるので、実際に訪問して体感していただきたい

さてこちらは駅の時刻表。私は9時21分の塩尻方面行きでやって来たが、きっぷのルール上ここから先には行けないので中津川方面へと折り返すことになる。その場合は11時9分発で1時間半以上の空白がある。好天には恵まれていたが、さすがにうるし塗りのお手洗いだけで90分の時間つぶしをするわけにはいかない。ということで、この空白時間の有効活用を考えることとする

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~いよいよ木曽平沢駅に到着

木曽平沢駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

薄いダイヤは工夫が必要

いよいよ木曽平沢へと向かおう。その前に中央本線のダイヤの概要を少し

こちらは上松駅の時刻表。前記事で触れた通り、私は名古屋方面からの8時23分の特急でやって来て、同47分の普通で木曽平沢へと向かう(後に上松駅では長時間の停車、いわゆる「バカ停車」が多いことを知って、ちょっと後悔した)。いくら予備知識なしで向かうとはいえ、ダイヤや駅間距離ぐらいは調べておかないと、旅程は立てられない

上松から塩尻方面へと向かう列車はほぼすべてが松本行きで1日2本(始発と16時台の1本)の当駅始発があるが、パッとみて分かる通り動脈ともいえる幹線のローカル区間のもので、通勤通学時間帯以外の昼間の運行が極めて少ない。中央西線は特急は1時間に1本の運行があり、ローカル区間では普通より特急の本数の方が多いぐらいだが、これも定番。名古屋近郊区間を過ぎると特急で名古屋から松本、長野へとお客さんを運ぶ方が重要なのだ

昼間の運行を見ると名古屋からの中央本線は、瑞浪までは1時間に3本が運転され、このうち1本が瑞浪止まり、残る2本が中津川止まりで本数は多い(種別はいずれも快速だが、通過駅は多治見以南のわずかな駅)が、問題はここから塩尻側で、岐阜県の境界となる坂下までは、たった2駅の区間運転があったり、長野県に入って最初の大きな駅となる南木曽までの運行もあるが、南木曽から塩尻側は上松駅のような時刻表となる。だから薄いダイヤをぬって各駅を訪問するには工夫も必要となる

高台の鉄骨駅舎で見たものは

ただ本日の目的はとにかく木曽平沢へと行くことなので、8時47分に乗車

線路の距離はほぼ30キロ。決して線形が良いとは言えない中央西線だが、駅の数も少ない上に、さすが電車のパワー。所要時間は34分

なお地図で見ると飯田線の線路が並行しているようにも見えるが、線路と線路の間は、木曽山脈の高い山々で簡単に往来することはできない

9時21分の到着

高台の2面2線構造

キロポストは東京からの距離である241・4キロを示すものだろう。お隣の奈良井は観光地としても有名だが、JR東海で最も標高の高い駅としても知られ、ここ木曽平沢駅も標高900メートル超。上松駅も標高700メートルと高地の駅だが、電車によって200メートルも登ってきたことになる

ということで駅舎へと向かう。こちらも上松と同じく木造駅舎ではないようだ

無人駅ということは分かっているというか、容易に想像できていた

ちなみに週末の当駅で下車したのは私だけ。展示があったのでのぞいてみる。ガラスに反射して展示物の写真はうまく撮れなかったが、より分かりやすいものがあった

なるほど、こういうことだったのか。青空フリーパスの限界駅であることのナゾがほぼ解明できた瞬間だった

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青空フリーパスの木曽平沢ってどんなところ?~森林鉄道と寝覚の床

上松駅の駅名標

※訪問は2024年6月22日

気になる車内アナウンス

上松駅に到着。意外と初見では読めないプチ難読駅は上松町の代表駅。駅名はかつての上松宿に基づく。朝夕に上下1本ずつ、1日に計2往復の特急が停車する。その朝の長野行きに乗車すれば、20分後にやって来る塩尻方面への普通に乗ることができる計算だ。このあたりは幹線の電化区間とはいえ普通のダイヤは薄いので特急をうまく使えば効果的に乗ることができる。青空フリーパスならではの芸当

材木の森林事業で古来より栄えた。江戸時代は尾張藩の重要な財源だったという。いわゆる名所案内も木製でお出迎え

ここにも書かれているが

跨線橋にも書かれている「寝覚の床」

こちらの名所案内にも一番上に書かれている寝覚の床とは木曽川が岩を浸食しながらできた景勝で、名称については千年以上ここに住んでいた翁の伝承から来たという説や、竜宮城で良い思いをした浦島太郎が目覚めて現実に戻った場所という説もある

特急「しなの」に乗車すると、ときおり車内アナウンスによる紹介がある。進行方向に向かって左側。ただ以前は木曽川そのものが急流で、水位も高かったが、治水によって平素の川は穏やかになり、姿は変化しているという。一見するとゴツゴツ岩が並んでいるだけなので、寝覚の床というロマンチックな名前とのギャップによって分からないこともあるため、通り過ぎた際は再びアナウンスが入る

火災によってコンクリ駅舎で再建

いわゆる中央西線には古くからの木造駅舎が多く残るが、ここ上松駅は1910年(明治43)の開業で、木材の町として栄えてきたにもかかわらずコンクリート駅舎となっている。これは1950年(昭和25)に町で大火があり、駅舎も全焼したため

財産票によると翌年にコンクリート駅舎として再建された

上松駅は木曽山中に400キロにもわたって張り巡らされた木曽森林鉄道の拠点のひとつだった

こちらは解説文。役割はもちろん木材の運搬だが、旅客輸送も行っていた。その代替バスは現在も上松町を走る

材木の町ながらコンクリート駅舎となってしまった上松駅だが、駅の至るところに木材でアピールされている。駅に着くと最初の木製の名所案内に始まり、ラッチも木製で「ようこそ」の歓迎板も木製

きっぷ売り場も木材のアピールがある

駅前の観光案内所も木造である

なおJR移管後に全線きっぷ売り場(みどりの窓口と同意)が設置されたが、現在は簡易委託駅となっている

現在は秋場所中ということで、こちらの写真で上松駅を締めくくろう

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