きっぷ

高山本線全駅訪問のシメ行脚~残った2駅の回収方法はアプリさまさま

下麻生駅の駅名標

※訪問は2023年10月20日

残った2駅の難易度が意外と高

各務ヶ原から美濃太田に戻り、当駅始発の下呂行きに乗車。だが、実は大いに焦らされた。順を追って説明していこう

まず美濃太田以北の本数が多い区間で最後に残ったのが上麻生と下麻生の麻生2駅。下呂までの区間は年間通じて発売される週末の1日が乗降自由となる「青空フリーパス」(当ブログでは出場頻度が高い)の区域内で、今回の乗り放題パスや青春18きっぷの季節外でも利用できる。だったら楽勝だろうと昨年4月のGW中にその区間内の回収に出かけたのだが、この麻生2駅を残してしまったことが致命傷になった。隣り合う両駅を効率良く回収するのは意外と難しい。どうやっても両駅で1~2時間の待ち時間ができてしまう上、両駅を結ぶバスもない。歩くのもやや通そうだ

必死で時刻表とにらめっこしても良い案が浮かばない。すると前々日の富山で携帯アプリを見た結果、妙案を発見できた。私は古い人間なんで、基本的には冊子の時刻表派だ。以前にも書いたが、60歳を超えても裸眼で普通に時刻表の文字を読めるのが密かな自慢で、ある意味、うまく読めなくなった時が「潮時」かな、とも思っている

ただ紙の時刻表ではよく見ないと分からない情報がネットの時刻表にはある。駅での停車時間だ。紙の時刻表でも駅間距離の割には所要時間が長すぎることで停車時間の長さを推測することができるが、ネットでは列車別の時刻が表記されていて○分着、○分発が容易に分かる

その結果、8時8分美濃太田発の下呂行きに乗れば、下麻生で15分もの長時間停車があることが分かった。ちょっとしたすれ違いのための停車で駅訪問とするのは私的には基本的に行わないが、15分もあるのなら許してもらおう

ということで前日は16時には駅訪問を止めて早々に夜の街に繰り出すことができた

まさかの同一ホーム前後出発

そして冒頭の美濃太田駅である。駅の電光案内で確認したところ、下呂行きは1番線からの発車。基本的には岐阜行きが使用するホームで、乗車予定の下呂行きの5分前に8時3分の岐阜行きを見送った後、5分後の乗車列車を待っていた。すると駅員さんが近づいてきて「どちらへ?」と尋ねられたので「下呂方面へ」と言うと

「あちらです」

と指差した先にいたのが冒頭の写真の列車。もう発車までわずかな時間しかない。ダッシュ気味で写真を1枚だけ撮って何とか乗り込めた

こう書いていくと「同じホームなのに気付かないはずがないだろう」と思われるかもしれないが、両方の列車は橋上駅舎の階段の前後に停まっていて私の位置からは完全な死角となっていて見えないのだ。おそらく駅員さんも、そのあたりは折り込み済みで、私のような、うっかり人間がいないかどうか毎日チェックしていると思われる。とにかくこちらに乗れないと次の列車は約2時間後の9時55分。実に危ないところで、声をかけてくれたことには感謝しかない

で、車内はこんな感じ(汗)

朝8時の美濃太田駅は岐阜を目指したり、当駅で下車する通勤通学の人であふれているが、逆方向は私を含め3人。しぱらくドアの開かない後ろの車両までチェックしなかったが、同様の光景だと思われる。次の列車が2時間後なのも納得である

広い空間に簡易型駅舎

下麻生に到着。ご覧のように2面3線構造だが、乗車列車は基本的に美濃太田方面が利用する3番線に停車。また雑草の生え方を見ると、登板頻度はそれほど多くはないようだ。後で調べると下り列車が停車するのは、この1本のみのようだ

おかげで跨線橋の昇り降りが生じてしまったが、貴重な体験をしたと言っておこう

駅舎は簡易的なコンクリート駅舎。これだけなら分からないが

広い駅前広場にポツンと簡易的な駅舎。過去の写真を見ると、かなり大きな木造駅舎があって2003年に現在の姿となった

開業は1922年(大正11)。美濃太田から当駅まで延伸された際に設置され、しばらく終着駅だった。1956年まで存在した下麻生町に基づく

下麻生には港があって江戸時代は大いに栄えた

地図で見ると駅から国道41号に出て上麻生方面へと向かうと10分ほどで下麻生の交差点に出て(元々の中心部はこのあたりのようである)、右に折れると公民館と橋があるが、橋の南側の川幅が広くなっている。ここがかつての下麻生湊。飛騨川は急流で岩も多いため船の運航には向いていない。ただ下麻生湊のすぐ上流で弧を描き、川の流れが緩くなった場所が広く、この先は穏やかな流れとなる。その地形を利用して1本ずつ丸太を流し、ここ下麻生湊で回収。木をまとめた上で船やいかだで下流に運ぶ重要な中継地だった。年間25万本もの木材が名古屋方面へと運ばれていたという。この光景は昭和初期まで見られたが、高山本線の開通で役割を終えた

こちらは駅舎内の様子

跨線橋からの俯瞰。当駅は朝に1本、当駅始発列車が、夜に1本、当駅止まりの列車が設定されている。いずれも、この3番線を使用するようだ

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~「正解はどれ?」が有名になりすぎて知名度大幅アップ

各務ヶ原駅に到着

※訪問は2023年10月20日

のべ8日で最終日

朝6時台の美濃太田駅。高山本線全駅訪問も最終日を迎えた。他路線のついでに訪れたような日もあったが、のべ8日目でようやく終了する。順調なら午前中に終わりそうだ

当駅を挟んで岐阜方面と下呂方面では運行本数が大きく異なる。岐阜側は昼間も30分に1本の運行があるが、下呂側は昼間に普通の運行が2時間以上ない時間帯もあり、訪問難易度は大きく変わる。この区間には、まだ未回収の駅もあるが時刻表の関係で、まずは岐阜側の駅を訪問することに

下車したのは3駅目の各務ヶ原

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正解はどちら?

当駅は駅名標がクイズ形式(?)である

駅名標にきちんと自治体名を入れてくれるJR東海ならではだが(国鉄時代はすべての駅名標に入っていたが、自治体同士の合併が多く更新が手間になったのかJR東日本とJR西日本には入っていない)、駅名と自治体名で表記が異なることに気付く。「ケ」の存在だ

地名の由来は鏡を作る人々がいた、の「鏡」に基づくという説や、飛鳥時代に見られる「各牟」(かかむ)という地名、人名に基づくなどの説があるようだが、戦国時代から江戸時代には「各務(かかみ)村」ができている

明治以降は今も航空自衛隊で知られる日本で最も古い飛行場である岐阜飛行場が開設されるなどしてきたが、駅の開業は1920年(大正9)。岐阜から当駅までが開業して高山本線の歴史が始まった。飛行場の開設から3年後にあたる

駅名は当時からのもの。ちなみに近くには名鉄の駅もあるが

こちらは「各務原」の表記。こちらも戦前からの駅だが、読みは「かがみはら」だった

他にも市内では「かかみはら」「かがみはら」の呼称がある。同じ漢字でも読みが異なる(米原が有名)のは各地でよく見られるが、文字表記も読みも微妙に異なって複数あるというのは、なかなか珍しい。市の発足は戦後20年近くが経過した1963年で、複数ある呼称を統一しようと「各務原=かかみがはら」を正式なものとし、名鉄はそれに従って漢字はそのままで駅名を「かかみがはら」に変更したが、国鉄そしてJRはそのまま。ちなみに市内にある高校も「各務原高校」(かかみはら)、「各務原西高校」(かかみがはら)、と県立高校の読みが微妙に異なる

このような状況はメディアとしては格好の題材で、しばしば特集として取り上げられ、航空自衛隊の存在や東海北陸自動車道のインターチェンジの存在もあって都市の知名度は大幅アップ。本来は難読駅であるはずの当駅も難読駅ではなくなっている

簡易的な駅舎だが古い待合室は現役

駅の利用者は本数が多く、岐阜経由だけではなく犬山経由でも名古屋につながる名鉄が勝っていて現在の各務ヶ原駅はコンパクトな無人駅となっている。古い駅舎は国鉄時代の1978年に大がかりな改修工事が行われ、レストランが入居。駅の目の前は交通量の多い国道21号で大いに期待されたが撤退。その後に入ったコンビニも撤退したため、その後にテナント部分が撤去され現在の姿になった

駅舎内はガランとしている

かつては貨物輸送もあったが、現在の側線は保全車の車庫となっているようだ

周辺は住宅街で無人駅の特性で駅舎と逆側からもホームに入れるようになっていてICリーダーが設置されている

いろいろ姿を変えた駅だが、駅舎と逆側のホームには待合室だけは古いものがしっかり残っていて

クモの巣と「同居」しているようだが、こちらは開業時からの建物のようだ

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~地元の愛情が詰まった駅舎もない駅は読み方注意

飛騨宮田駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

紅葉の美しさに触れつつバス停を目指す

飛騨小坂駅前の商店街から駅を見る。次はお隣の飛騨宮田駅訪問だが、レールとしての距離は3・4キロながら飛騨川を渡ってから進まないとたどり着かないので、歩くと1時間はかかりそう。次の列車までの時間はたっぷりあるが、ちょうど良い時間のバスがありそうなので、ここはバス利用。ただし高山~下呂を1時間に1本の頻度で走る便利なバスは駅の近くまでは来ず、停留所は川を渡った旧町役場方面にある

立派な彫刻付きの橋を渡る

川と紅葉のコントラストが美しかった

昼食はコープのおにぎり

道中コンビニはなかったが、コープはあった(事前に調べていたが)

地元産のおにぎりセットとお茶を買ってお昼としたが、後の報道でJAひだが経営するコープ11店のうち10店が閉店することを知った。地元の方にとっては辛い発表だったと思う。地方におけるスーパーは車で郊外店を目指すという形態にどんどんシフトしつつある

小坂町の停留所からバスに乗り

わずか5分で宮田停留所に到着。短い乗車だったが途中の道路は坂もあって、これはバスが正解だった。こう見ると最近はバス停も駅舎も区別がつかなくなっている(笑)

住民の思いに触れる

徒歩5分ほどで飛騨宮田駅に到着

駅舎はない。単式ホームと待合所があるのみ

高山本線のJR東海区間では唯一、駅舎のない駅だが

駅の解説板には当駅に対する地元の方々の思いが詰められている

開業は戦後の1955年(昭和30)で現在で言うところの請願駅だ

駅のあちらこちらに住民の思いがちりばめられている

高山本線のJR東海区間では唯一、開業時からの単式構造が変わっていない駅でもあるが、駅及び駅周辺はきちんと手入れが行われている

現在は下呂市だが少し前までは萩原町。明治半ばまでは宮田村も存在していた。お手洗いも設置されているが、これは地元自治体によるものだろう

見逃せないポイントがもうひとつ

今も残るホーローの駅名標。残された経緯については分からないが、ホームの電柱にしっかりと貼り付けられていた

さて、ホーローそのものがかなり傷んでいて。文字が読みにくくなっているが、駅名は「ひだみやだ」である。駅の住所も下呂市萩原町宮田だが、もちろん「みやだ」。ちなみに先に立ち寄った飛騨小坂駅は「ひだおさか」。高山本線は濁音の生むが難しい駅が多いが、こちらもそのひとつである

これで下呂以北の駅はJR西日本区間の富山まですべて訪問を終えた。ようやくカウントダウンとなったが、美濃太田~下呂には未回収の駅が2つあり、ここが意外と難所である。そちらを訪問するため、といっては変だが、本日はここまで。宿のある美濃太田へと向かう(と言っても1時間半かかる)ことにする

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~開業時からの重厚な木造駅舎は伝えるものが多すぎる

飛騨小坂駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

ふんだんに材木を使用

禅昌寺から高山方面へと戻る形で飛騨小坂に到着。今回はあまりにも素晴らしすぎる駅舎から紹介しないわけにはいかない

開業は1933年(昭和8)。飛騨萩原~当駅が開通した際に終着駅として開業した。岐阜方面からの鉄路が当駅まで来たのが同年8月。富山からの鉄路はその3カ月後、前々記事で紹介した打保を含む坂上までが開業。翌1934年10月に高山を含む飛騨小坂~坂上が一気に開業。高山本線は全通した。富山側からも岐阜側からも少しずつの延伸だったが、最後の区間は一気に約60キロも延伸されたことになる

飛騨小坂の駅舎は開業当時からのものというから恐れ入る。平成の大合併まで存在した小坂町の顔として(町内には駅はひとつだけ)として気合が入っていたのだろう。小坂町は林業で大いに栄えただけに町だけにふんだんな木材が凝った形で使用されている

入口の車寄せ部分。木を組み合わせた柱部分は何造りというのか私は分からないが、玄関部分も含め、手の込んだものであることは分かる

屋根の部分は社務所風になっているが、当駅が御嶽山の登山口だったことに基づく

駅前に石碑があるが、御嶽山は霊山でもあることから社務所風の入口となった。開業当時にそういう言葉があったかどうか分からないが、ロッジ風であり、神殿風でもある駅舎だ

紹介が多すぎる

話の順序は逆になるが駅舎内部も紹介しよう。とにかく記することが多すぎる

駅は島式1面2線ホームで地下通路から駅舎に入る形。石積みの土台と木材の組み合わせに細かい作業を感じさせる

こちらは低い位置にあるJRになってからの駅名板だが

古い駅名板もしっかり残されている

駅舎内は駅と町の歴史を紹介するコーナーとなっている

古い写真も飾られているが、よく見れば分かる通り、ここはかつて窓口のあった場所。左の時刻表の場所は手荷物扱いの窓口跡である。一部の特急「ひだ」が停車する駅だが10年以上前に無人化された

と、いろいろ書いてきたが、私の拙文よりも駅舎内にある駅の歴史と特徴で簡潔かつ分かりやすく書かれている。海抜525メートルは駅の位置としてはかなり高い。2駅お隣の久々野駅が高山本線で最も高い676メートルなので、当駅からさらに150メートルも昇っていくことになる

飛騨小坂駅を中心とした小坂森林鉄道は全盛期で60キロ以上もの線路が敷設されていた。旅客も多く、この解説にある通り、SLに携わる必要性もあったのだろうが、18人もの駅員さんがいたというのも凄い森林鉄道は1960年代前半に使命を終えたが、1970年代後半までトラックによる木材輸送が当駅で続けられた

財産票は開業の1年後となっているが、1日3往復の特急も停車するので、うまく時間を合わせれば比較的訪問しやすい。訪問の価値はかなり高い駅である

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~名刹への最寄り駅はちょっと変わった2線駅

禅昌寺駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

80キロもの移動

打保から南下。高山本線の車窓は美しい。太平洋側へは飛騨川、日本海側へは宮川と、ずっと川に寄り添う。個人の好みにもよるが、私的なおすすめは飛騨古川~猪谷の宮川沿い。乗客も最も少ないエリアになるため、ロングシート仕様のキハ25形でも問題はない。ちょっと身体を横向けにすれば絶景を味わうことができる。秋本番の沿線は訪れたことがないが、色づき始めている紅葉もこれからさらに美しい季節になるのだろう

ということで禅昌寺に到着。下呂のひとつ手前までやってきた

打保発の列車に乗ったのは9時26分。高山で10分の接続があり、禅昌寺着は11時22分

距離にして約80キロ。2時間もの大移動である。何度も言うようだが、当初は全駅訪問などやる気はなく気になった駅だけで降りているうち、急に全駅を訪れてみたくなったので、全く無計画な虫食い状態となったため、このようなことになった。ただ前述した通り、高山本線の車窓は飽きないために救われる

ギリギリの威厳を保つ簡易型駅舎

ホームから駅舎の外へと向かう。ホームからの眺めだけで簡易型駅舎だと分かる

こちらが駅舎。小さな階段を昇って駅舎内の待合室に入る形となっている

財産票が示す通り1997年(平成9)に現在の形となった。ただ名刹・禅昌寺に基づく駅名で最寄りでもあるため、簡易型とはいえ、風格と威厳は保たれている。駅舎正面の写真で分かる通り、駅舎への入口は参拝道のように造られていて、入口の前には禅昌寺の解説と道案内が設置されている

こちらは駅前風景。大きめの広場がある。こうして見ると簡易型駅舎としてはなかなか立派だ

駅の解説文や下呂市HPによると創設は平安時代とされ、多くの寺宝のほか、国の天然記念物である樹齢1200年の大杉を有する

ユニークな2線構造

開業は1931年(昭和6)。下呂~飛騨萩原が延伸された際、その途中駅として設置された。高山本線では戦前からの設置駅でずっと単式ホームの唯一の駅だが、一般的な単式ホームとは微妙に事情が異なっていて棒状ホームながら交換可能な駅となっている

ただしその形式は実にユニーク

最初の到着時の写真でも分かるが単式ホームの向かいに1本のレールがある。こういう場合、えてして昔の交換設備のなごりだったり側線跡だったりすることが多いのだが、ホームのないこの線路は現役である。当駅に停車する列車は上下ともホームのある線路に入り、通過列車(基本的には特急)は上下ともホームのない線路を通る。まるで新幹線駅を見ているようだが、1966年からこの形になっているので、半世紀以上となる

要は特急とのすれ違いや待避はできるが、普通同士のすれ違いはできないというユニークな構造。私の短い滞在時はそのシーンは見られなかったが、ホームのない線路を駆け抜けていく特急「ひだ」は絵になる姿だと思う

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~閑散区間で最後に残った駅には沿線唯一のスノーシェッド

打保駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

震える寒さにちょっと後悔

打保駅に到着。ダイヤが薄い(本数が少ない)上に他の交通機関もなく、坂が多かったり、駅間距離が長かったりして(お隣の坂上までは10キロもある)徒歩移動も困難な岐阜県と富山県の県境4駅(角川、坂上、打保、杉原)を、これでようやく訪問完了となった

そして朝からの実情として

「めちゃくちゃ寒い」

私の服装は夏からのズボンに長袖の薄いシャツ1枚。昨年は夏が終わってもいつまでも暑かったのはご存じの通りで、前日の私はというと城端線や氷見線を乗り、駅間徒歩では汗をダラダラかいていた。朝5時の富山駅周辺でもそれほど寒いと思わなかったが、猪谷駅で寒気を感じ始め、7時26分に飛騨細江に到着して外に出ると震え上がった。猪谷から飛騨細江に至る列車には途中駅から通学の高校生が次々乗り込んできたが、皆真冬の格好。コートを着ている生徒さんもいる。車内で私の服装は完全に浮いていた。こんなに気候が違うものなのか。これは全くの予想外で上着も持ち合わせていない私はシャツを2枚重ね着して何とか寒さをしのぐことにした。そして最後の駅に打保を選んだことを後悔し始めていた

1カ月前、まだ気候は夏の9月上旬、訪問は打保か坂上の二択となった。どちらか一方は次回へ持ち越し。その時に選んだのは坂上駅である

選択の理由は「駅舎内にエアコンが完備されているから」。90分も過ごすのだからと当時は自画自賛的なチョイスだったが、それについては完全に後悔

なぜなら

打保駅は簡易型の駅舎なのである。写真を見ただけではどのぐらい寒さを防いでくれるのか分からない。当駅には8時34分に到着して9時26分の高山行きで折り返す。つまり約1時間。寒さと暑さのどちらを我慢するかとなると、駅間徒歩ならともかく、周辺の散策だけで終わるこのシチュエーションとなると、避けるべきは寒さである

難読にしてさまざまな語源

「うつぼ」と読む。意表を突かれるというか、なかなか難読である。そう言われると、この4駅のうち3駅は「つのがわ」「さかかみ」と、意表を突かれる読みが並ぶ

駅名、自治体名については順番に遡る必要があり、現在当駅は岐阜県飛騨市にあるが、飛騨市が誕生したのは2004年。それまでは宮川村にあった。その宮川村の誕生は戦後の1956年(昭和31)で、坂上村と坂下村が合併したもの。坂上村の駅が坂上、坂下村の駅が打保である。坂下村は明治初期の1889年(明治22)から1956年まで存在。ちなみに読みは「さかしも」だ。さらにその前に打保村、杉原村と現在の駅名の村名が見られる

「打保」の「保」は集落の意味で「山の内側にある集落」の「内保」が「打保」になったという説や、岩などにできた空洞を意味する「うつほ」が語源という説などがあるようだが、江戸時代にはすでに名前が見られる地名だったという

写真としては順番が逆になってしまうが、駅舎は猪谷方面ホームと直結している。対面式の2面2線ホーム

駅の開設は1933年(昭和8)。線路が富山との県境を越え、猪谷からお隣の杉原まで来たのが1932年で、当駅を挟んで坂上まで延伸された際に開業した。現在の駅舎は20年前からのもの。簡易型となるのは早かった。手前から3つの扉が並ぶが一番奥が出入口。駅舎は倉庫も兼ねているようで手前2つはロックされている。駅舎内は小さな待合室となっていて、つまりお手洗いはない

これは覚悟していたことで列車内でお手洗いは済ませ、持参の水にも一切手をつけないことを決め、周辺の散策を行う

駅の周辺は小さな集落となっていて

立派な郵便局もある。こうやって地図を見ると公営のトイレがあるようだが、訪問時は全く気付かなかった

スノーシェッドに守られる

宮川に沿ったカーブ状にある駅の前後の分岐はスノーシェッドに守られている。176・4キロのポストが岐阜からの距離を感じさせ旅情を誘う。降雪に見舞われる高山本線沿線だが、ここが唯一のスノーシェッド設置なのは少し意外

こちらは逆サイドつまり猪谷方面

解けたナゾ

前回の訪問時前から当地のバス路線については何とかならないかと随分調べたが、デマンド制(予約制)かどうか分からず結局断念したのだが、待合室内の張り紙でようやく解決

デマンド制と路線バス扱いの2種で構成されていた。「お出かけレシピ」とは分かりやすい表現で高山本線との接続時間も明記されている。しばらく訪問の機会はなさそうだが、すっきりしたと同時に役に立つ情報だった

かつては貨物の入線もあったようでヤードが残る。待合室はかなりの密閉状態で保温も良かった。これで無事に県境の4駅を訪問。ちなみにグーグル地図で打保駅を検索すると以前の木造時代の駅舎を見ることができる。また私のX(旧ツイッター)のプロフィール写真は杉原駅のものです

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~開業以来の棒状駅への道中で現状を知る

杉崎駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

1区間分は路線バスで

飛騨細江から杉崎は線路に沿った平坦な直線コースを徒歩30分と前記事で書いたが、実際はというとちょうどよい時間に路線バスがあったので、その方が圧倒的に楽なのでバスに乗車すことに

ただバス停が見つからず、とても焦る。地方のバス停については片側にしか停留所が設置されていなかったり、結局その場所が正しいのかどうか分からず乗せてもらったりと、過去いろいろな経験をしているが、ここはかなりの町中で、困ることはないと思っていただけに焦燥感が募ったが、これでは行き過ぎだろうと来た道を振り返ると

あった

写真だと駅は奥側にあり、そこから歩いてきたのだが、器用に商店の軒下に設置されているため、気付かず行き過ぎてしまったのだ

バスはほぼ定刻にやってきた

この路線は1年前にもお世話になった

上枝駅から飛騨古川駅に移動の際に乗車。高山から飛騨古川までは1時間に1本の運行があり、そのうち約半数が神岡まで至る。つまりその半数に今回乗車した。1年前はほとんど下調べもせずの旅だったが、今回はさすがに入念に調べている

杉崎までは徒歩30分、2キロしかないのでバスだと5分も経たずに到着。バスは1年前と同じで観光バスを使用したもの。その時は30分近くバスに揺られ、座席で携帯の充電もできてとても快適だったが、その時と大きく異なることがあった

ほぼ満員なのである

乗客はほとんどが高校生。すぐに降りることが分かっていたので、できるだけ前の方に座りたかったが、奥の方にようやく空席を見つけたと思ったら降車の時間。「降りま~す」と声を出しての下車となった。もちろん降りたのは私だけ。入れ替わって数人の高校生が乗車した

猪谷から飛騨細江までの道中でも通学の高校生はそれなりにいたが、ここまで多くはなかった

2022年の3月の芸備線でも同じような経験をしている。この時はもっと極端で小奴可駅と備後八幡駅を訪問した時のことだ

朝の7時2分小奴可発の新見行きに乗車すると旅客は私と高校生の2人のみ。2つ隣の備後八幡駅で降り、次の列車は8時間後なのでバスで東城へと向かったところ、バスはスクールバスかと思ったほどの超満員だった。その高校生は芸備線で通学する貴重な生徒ということで、後にテレビの取材を受けていた

またひとつ地方における公共交通機関の現状を知ることになり、ようやく駅の話となる

戦後生まれの棒状駅

杉崎の駅舎。年季が入っているように見えるが、戦後生まれである

駅名板は飛騨細江駅と同じ系列のもののようだが、傷みが激しい

開業は1952年。仮乗降場としてスタートして3年後に駅に昇格した。現在も駅を含めた周辺の住所は飛騨市古川町杉崎

前記事でも記したが、明治初期にあった杉崎村はその後の合併で細江村となり1956年に古川町となるまで存続した(平成の合併で飛騨市となる)。どちらかというと飛騨細江駅より当駅の方が細江村の中心部にあたる

駅にあった周辺の案内図

ただし戦後生まれの仮乗降場ということもあって当初から棒状の単式ホーム。全国各地で元々2面あったホームが単式になるという事案が見られるが、岐阜県内における高山本線今も設置当初からホームが2面だった駅は、そのまま2面で開業から単式で今も同様の構造の駅は当駅と、こちらも戦後生まれの飛騨宮田の2駅しかない(禅昌寺駅は単式で戦前にスタートし、現在は通過線のみ付け加えた変則型)

仮乗降場なので貨物設備もない

ホームと駅舎は屋根付きの小さな階段で結ばれている

今から富山方面へと後戻りする形になるが、乗客は私ともう一人

今から乗車するのは8時6分の猪谷行き。猪谷から乗車し、飛騨細江で下車したのは当駅7時29分発となる高山行きだが、通勤通学にはほぼその一択のようだ

まだ猪谷方面で未回収の駅があるので、再び山中に分け入ろう

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~山深い区間を越え市街地へ到着

飛騨細江駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

富山から約2時間

猪谷からJR東海区間に入り、飛騨細江に到着。富山を出発したのが5時38分、当駅に着いたのが7時26分なので70キロの移動で所要時間1時間48分と結構な道程となった。本来なら宿も多い高山あたりに宿泊した方が効率が良いのは分かっているず、この区間の本数の少なさから富山泊になってしまった。富山から普通のみで高山まで行こうとすると富山発15時58分を逃すと、次は19時50分と4時間も運行がない。この間に17時14分発の特急があるが、所持する「秋の乗り放題パス」では一から課金になってしまうので今回はハナから選択肢になかった。19時50分に乗ると高山着が21時45分となるので、ちょっと遅すぎる。そもそも猪谷の乗継ぎ(わずか2分)以外、ひたすら夜の車窓を眺めながら4時間揺られるというのは私にはちょっと無理である

それほど飛騨古川~猪谷は、ダイヤ的には「薄い」区間で(飛騨古川~高山は区間運転が行われている)、1日8往復(もう1本、夜の下り最終として高山始発の坂上止まりがある)。昼間は3~4時間運行がない時間帯もあるなど全駅訪問の難所だが、飛騨細江まで来ると山岳地域というより市街地となって開けている。神岡からの路線バスが当駅付近を通るため、比較的訪問は容易となる

また飛騨細江~杉崎は線路に沿った国道を行けば、ほぼ平坦コースで徒歩移動も可能な距離

同様のことは杉崎~飛騨古川にも言えるため、全駅訪問を決めてから、最後までとっておいた

旧細江村に基づく

なかなか渋い駅舎が現存する

駅舎入口に掲げられている駅名板にも歴史を感じる

JR東海は待合所やトイレ、倉庫に至るまで、こまめに財産票を張ってくれる。高山本線が一気に飛騨小坂から坂上まで延伸された1934年(昭和9)の開業。もちろん駅舎は当時からのもの

駅名は1956年まで存在した細江村に基づく。ただ駅を出るとすぐ宮川が迫っていて村としての中心部は国道に沿った杉崎駅寄りだったようだ。明治初期に杉崎村などが合併して細江村が誕生したが、鉄路ができた時、すでに細江村の中心は飛騨細江駅と杉崎駅のどちらかというと杉崎駅に近い場所だったようだ。上記の地図だとファミリーマートや杉崎公園のあたり。今も残る付近の町名は飛騨市古川町杉崎で細江という住所は残っていない(駅近くの飛騨細江郵便局にその名を残す)。そのあたりが考慮されたのか、杉崎駅の設置は戦後になってからである

もちろん、といっては何だが無人駅。それでもきっぷ販売の窓口だけでなく手荷物、小荷物扱い扱い窓口も残る

2面2線のホームに加え、行き止まり形式となっている貨物ヤードも残る

こちらは貨物ヤード裏側の様子。あまりにも国道が近すぎるためか、本数の少なさからか、周辺の町の規模を考えると利用者は少なく1日30人程度にとどまっているが、以前は規模の大きな駅だったことがうかがえる

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~猪谷駅「大きな変化あり」の報に驚く

猪谷駅に到着

※訪問は2023年10月19日

まだ暗い富山駅から出発

富山駅は青春18きっぷの最終日となった9月10日以来。1カ月以上が経過して季節も秋へと移り変わり、いつまでも暑い2023年だったが、朝の5時過ぎはまだ暗い上に肌寒い

今日明日で、ようやく高山本線の全駅訪問を終えるつもりである

昨年の18きっぷ最後の2日間でフラリ高山本線に乗ってみたのがことの起こり。当時は主要駅や気になった駅だけを訪問するつもりだったが、妙に気持ちに火がついてしまい、その後

2月 西日本グリーンきっぷで北陸新幹線の各駅訪問をした際にJR西日本管内の2駅訪問

4月 青空フリーパスで岐阜~下呂の8駅を訪問

9月 青春18きっぷでJR西日本&JR東海の7駅を訪問

のべ5日もかけている。2月は西富山から日本で最も長い駅名となった「トヨタモビリティ富山 Gスクエア五福前(五福末広町)停留場」まで歩くという目的もあったが、それでも2駅を訪れている。4月と9月はそれなりに「ガチ」で早朝から臨んだつもりだが、1日では意外と回れていない。なぜこのようなことになったのかというと、最初につまみ食いのように回ってしまったため、相互に訪問しづらい駅ばかりが残ったためだ。当初から計画的に回っていれば、もっと早く終わったと思われるが、終わったものはしょうがない

本来なら9月の青春18きっぷで終わらせるつもりだったが、どう考えても2日では終わらないことに気付いた。そこで高山本線は1日で終え、18きっぷの残る1日は城端線に充てることに。城端線と氷見線の三セク化ニュースが出たばかりで、こういうのはまとまり始めると早いと高岡へ

そして今回は秋の乗り放題パスを使用。城端線、氷見線の未回収駅を訪れた後に富山で宿泊。さすがに今日明日の2日間で回り終えることになる。その後は名古屋方面へと向かい、名鉄を2日間、満喫する予定となっている

駅数が増えた高山本線

新幹線は6時を回ってからということで、まだシャッターが降りているが

あいの風とやま鉄道と高山本線の改札はすでに営業を始めている

高山本線については、北陸新幹線の開業で「新駅が開業したわけではないのに駅数が増える」という現象が起きている。これは富山駅の所属によるもの。2015年の北陸新幹線延伸まで駅としては北陸本線の所属だったが、同線が三セクのあいの風とやま鉄道に移管されたため、必然的に残る高山本線の所属になった。だから高山本線は現在45駅で所属は44駅(岐阜駅の所属が東海道本線となるため)。44という数字を見ると、なかなかの数だが、とにかく今日と明日で終わらせよう

2両編成のキハ120で降りた衝撃

高山本線のJR西日本区間である富山~猪谷はキハ120が担当する。同じ富山県の氷見線、城端線はいわゆるタラコのキハ40の運行だが、こちらはキハ120。キハ120というと山中を走る単行のイメージが強いが、こちらは常に2両編成で通勤通学の時間帯は多くの人であふれる。また直線部分では、かなりの猛スピードを見せてくれるなど、他地域とは違う姿を見せてくれる

猪谷駅の衝撃ニュース

列車は50分で猪谷に到着

乗車しているうちに、すっかり夜は明けた

ここまでが富山県、ここまでがJR西日本で両社をまたぐ普通列車は現在、運行されていないので必ず乗り換えとなる。乗り換え時間は列車によってさまざまで、すぐに乗継ぎ列車が出発するパターンもあれば、しばらく待機、さらには数時間にわたって普通がないこともある。私の乗車列車は18分の接続。昨年から何度となく降り立つことになったこのホームもしばらくは来なくなるかもしれない、とこれまた何度も撮った駅舎を記念撮影

やがてやって来たJR東海の車両に乗り継ぐ

同一ホームで前後の乗り換え。このパターンに出会うのは初めて。これまでは島式の向かいホームへの乗り換えばかりだった。頻度は分からないが、私にとっては貴重な体験。この後、JR区間を目指して山中に入っていったが、つい先日、X(旧ツイッター)のフォロワーさんから年明け訪問した際、特徴ある駅名板が変わっていたとの投稿があってビックリ

これは9月のものだが、猪谷駅の存在感を際立たせていたこの駅名板が普通の「JR 猪谷駅」という板に付け替えられていたという。猪谷で降りて、まず目に飛び込んでくるのはこれだろうという存在感を放っていたものがなくなったとは。新年から衝撃のニュースだった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~「上り列車」しかない途中駅が終着

安房鴨川駅の駅名標

※2022年12月17日

ゴールはちょっとあっけなく

太海からひとつ進んで安房鴨川に到着。内房線の終着駅で前日から始めた内房線の木更津以南の全駅訪問のゴールである。階段でも「お出迎え」があった

ただ個人的には「ようやく着いた」という達成感はあっても、駅構内の風景に感慨は生まれにくい。というのも乗車してきた電車は外房線の上総一ノ宮行き。現在、内房線を走る列車は木更津~上総一ノ宮の直通運転がほとんどで安房鴨川で多少の待ち時間はあるものの、内房線と外房線を乗り越す際、なにごともなかったように去ることになるからだ。「終着駅」ではあるが途中駅。東海道本線と山陽本線の境界駅となっているが、始終着がほとんどない神戸駅のようなものである。2021年3月、コロナ禍のまっただ中、新型車両の投入と同時に直通運転、ワンマン運転がメインとなった

ただ房総半島をグルリと回る内房線と外房線の特殊な事情から、安房鴨川は「当駅を出発する列車はすべて上り列車」というユニークな特徴を持つ。これは房総半島の東側と西側でそれぞれ少しずつ延伸されてきた「房総線」が安房鴨川でつながった後、あらためて「房総東線」「房総西線」(戦後に現在の名称に変更)という2つの路線に分けられたからだ。前者が千葉が起点で終着は安房鴨川、後者は蘇我が起点で終着は安房鴨川と、安房鴨川が2つの終着駅となったため、安房鴨川から出る列車はすべて上り列車となっている

安房鴨川駅の開業は1925年(大正14)。線路が太海から1区間延伸されてたどり着いた。現在の外房線がやって来たのは、その4年後である。もちろん拠点駅。周辺は鴨川市の中心部で、経済だけでなく観光の拠点駅となっている

全国ニュースで取り上げられることも鴨川シーワールドまでは無料の送迎バスで10分。天候に恵まれれば、歩いても行ける距離にある。またかつては駅裏の印象が強かった西口にはイオンができている

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変化の30年

そのイオンがある西口が長距離バスの発着場になったことで発展した場所でもある。安房鴨川から千葉、東京までは外房線の特急「わかしお」を利用するのがメインルートだったが、90年代に入ってわかしおが京葉線経由となり、千葉に立ち寄らなくなったあたりから潮目が変わり始める。アクアラインもできて車との競合も増える。鴨川から県都の千葉へは長距離バスのカピーナ号、東京へは八重洲口、渋谷への便もあり、私も、訪問の数ヶ月前の夏にお世話になったことがある

久留里線の末端にあたる、閑散区間の3駅を通って千葉もしくは東京に行くことができる。このバスがなかったら、その3駅訪問を試みようとはしなかったかもしれない。内房線や外房線だけでなく、久留里線にとってもライバルとなっている

安房鴨川はもちろん管理駅だが、昨年の1月をもってみどりの窓口の営業は終了した。その後、館山、浜金谷と、みどりの窓口が閉鎖されたため、内房線の君津~安房鴨川でみどりの窓口がすべてを消した。というか、所属が外房線となっている蘇我駅を除くと現状、120キロにも及ぶ内房線の全29駅でみどりの窓口があるのは木更津ただ1駅である

AKB48の「会いたかった」という曲があり、このMVは今も容易に見ることができ、那古船形駅がロケ地となっている。チラリとしか出てこないが、駅舎は現在の塗装ではない1918年(大正7)開業時のそのままの姿。メンバーが追いかける列車もいわゆる「スカ車」である。AKB48というと、ついこの間のことのように思えるが、リリースは2006年10月で17年前。たった17年というか、わずか17年というか、走る電車を見るだけで隔世の感がある

帰路につく。わかしおを利用。安房鴨川~東京と完乗するのは、これが初めて。もちろん自由席だが、こちらも今春に全車指定席という変革がある。また内房線、外房線から京葉線経由でダイレクトに東京を目指す朝の快速廃止問題は、もはや全国ニュースである

ここからは青春18きっぷの出番はない(新大阪に到着してから再登板するが)ので乗車券は大阪市内まで。この乗車券は年間にどのぐらい売れるのだろうか

東京着。18時ちょうど発の新幹線に乗車したが、この時間にホームに降りても駅弁を買ったりしていると、すぐ新幹線の発車時間となった

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